古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:米国国際開発庁

 古村治彦です。

 

 ドナルド・トランプ政権が国家予算を発表し、国務省とUSAIDの予算を大幅に削減し(30%の削減)、国防費を540億ドル増加させました。これについては、批判の声が多く挙がっています。しかし、私はこれを当然のことで、大変喜ばしいことだと考えています。

 

 2011年のアラブの春から始まった中東の不安定な状況は、ムアンマール・カダフィ大佐の殺害、ベンガジ事件へと発展し、シリア内戦、シリアとイラク国内でのISの勃興というところまで悪化しています。また、ウクライナを巡る西欧とロシアの対立ですが、これはウクライナ国内の歴史的に複雑な問題とも相まって、こじれてしまいました。アメリカはロシアを非難し、制裁を課していますが、トランプ大統領は選挙戦期間中から、ロシアのウラジミール・プーティン大統領を賞賛し、ロシアとの関係改善を主張しています。また、中国に対しては厳しい言葉遣いをしていますが、貿易戦争をやる気はなく、また、北朝鮮は中国の問題だとしています。

 

現在の世界の不安定要因が発生した原因は、端的に言って、アメリカの対外政策の失敗が理由です。特に、共和党のネオコン、民主党の人道的介入派がアメリカ外交を牛耳ってきた結果、現在の状況にまでなってしまいました。こうしたことは拙著『アメリカ政治の秘密』で明らかにしましたので、是非お読みください。
 

 古村治彦です。

 

 今回は、アメリカの政府機関である米国国際開発庁(USAID)についての記事をご紹介します。USAIDについては、拙著『アメリカ政治の秘密』(PHP研究所、2012年)で詳しく書きましたが、アメリカの外国介入の尖兵です。


 今回の記事の主張は、
USAIDの目的をはっきりさせろ、それは、外国に行って、政府機関を作ったり、改善したりすることだ、というものです。USAIDは現在、衛生や教育、人権などの改善のために、世界100カ国近くで活動しています。しかし、そうしたものは、他の省庁や機関に任せて、USAIDは、世界各国の政府機関の創設や改善に特化しろと言うのです。

 この主張は、ヒラリー・クリントンが大統領になったら、実際に行われることになるでしょう。現在でも国務省やUSAID内部には、人道的介入主義派がたくさんいるのですから。

USAIDbuilding001
USAIDの本部 

 
USAIDlogo001

 これは恐ろしいことです。1930年代の日本と満洲国の関係を考えてみてください。満洲国は、清帝国最後の皇帝であった溥儀を執政(後に皇帝)にして誕生しました。独立国ですが、政府機関は日本が作り、日本の官僚たちが実権を握りました。また、関東軍司令官が駐満日本大使を兼務し、定期的に溥儀と面会し、日本の意向を伝え、強制しました。これは「内面指導」と呼ばれます。満洲国の事例を考えると、論稿の著者たちがUSAIDにやれ、と言っているのは、この内面指導のような形の「外国支配」の基礎を作れ、というものです。これは、実際に政府機関をアメリカに作られる方からしてみれば、大変なことで、アメリカは憎悪の対象になることも起きるでしょう。

 

 また、興味深いのは、国家機関創設の専門家がいないので、最近のイラクやアフガニスタンでその分野の経験がある陸軍の将校たちを雇用しろと言っている点です。アメリカ軍は、膨大な予算を食いつぶす機関であり、その縮小がオバマ政権下で進められました。縮小となると、人員も整理されます。つまり、解雇になったり、これ以上いても昇進はないと言われたりすることになります。そうなると、不満が溜まる訳ですが、「経験を活かして、引き続き、公務員として働ける(しかも表向きは世界に貢献できる仕事ということで)」となれば、不満もある程度は解消されます。

 論稿の著者たちは、USAIDが衛生や教育の分野は別の組織や団体に任せるべきだと書いています。「トイレを作るような事業は平和部隊に任せろ」と。私はここで、自衛隊のアメリカ軍による下請け化が進んでいる中で、日本の海外援助組織のUSAIDによる下請け化が進むのではないかと思います。7月1日、バングラデシュのダッカで痛ましい事件が起きました。JICAがUSAIDと連動して動くというようなことになると、残念ながらこうした事件がこれからも起きてしまうかもしれません。

 

 こうやって読むと、なかなか危険な論稿であることが分かっていただけると思います。それではお読みください。

 

=====

 

米国国際開発庁は「海外の国家機関創設省」となるべきだ(USAID Should Become the Department of Nation-Building

―ワシントンにある海外の発展途上国の発展に関わる政府機関は、無秩序状態に陥った外国に民主政治体制ではなく、まずは政府を樹立することに集中する必要がある

 

マックス・ブート、マイケル・ミクラウシック筆

2016年6月22日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2016/06/22/usaid-should-become-the-department-of-nation-building/#_ftn1

 

 外国の国家機関創設(nation-building)は、アメリカ政治においては痛みを思い出させる言葉となっている。この言葉を聞くと、アフガニスタンとイラクにおける長きにわたる、人的、物理的に消耗の激しかった戦争を思い出す人々が多い。バラク・オバマ大統領とドナルド・トランプとの間に一致する点はほとんどないが、外国の国家機関建設への反対では両者は一致している。歴代の大統領も「国家機関の創設(問題の解決)はまず国内から」と言っていたが、オバマ大統領とトランプもまたこの考えを持っている。

 

 しかしながら、アメリカの指導者たちは国家機関創設に対する反対を唱えながらも、破綻国家(failed states)がアメリカの国益にとって深刻な脅威となっていることを認めている。オバマ大統領は2016年の一般教書演説の中で、「たとえ、イスラム国が存在しない場合でも、不安定はこれから世界の多くの場所で増大していくだろう。中東で、アフガニスタンで、パキスタンの一部で、中央アメリカの一部で、アフリカで、そしてアジアで。これらの場所の中には、テロリスト・ネットワークの避難場所となるところも出てくるだろう。その他の場所では、民族紛争、飢餓、新たな難民を生み出すことだろう。世界は、私たちにこうした問題の解決のための手助けをしてくれるように求めているのだ」と述べている。

 

 しかし、アメリカは、軍事力の使用のみで世界の不安定さに対処することはできないのだ。アメリカ国民は、大義がないイラクやアフガニスタンで行った大規模な介入を支持しないだろう。一方、ドローンによる空襲や特殊部隊による急襲のような小規模な軍事的手段は、アメリカの安全保障を守る上で適切な手段とはなっていない。「活発な」攻撃でタリバンのムラー・マンスールやアルカイーダのオサマ・ビン・ラディンのようなテロ組織の指導者を殺害することは可能だが、確立されたテロ組織自体を壊滅することはほぼ不可能だ。そして、法と秩序の維持を実行できる自生的な政府機関を構築することは不可能だ。

 

 アメリカには、無秩序に陥った国々で、より良く機能する政府機関を作り上げる、いわゆる政府機関創設能力を持つ文民側の行政機関が必要だ。国務省や農務省といった様々な連邦政府の省庁はそれぞれが政府機関創設プロジェクトを行っているが、それを主要な目的にしている訳ではない。政府機関創設準備の失敗が明らかになったのは、2003年のイラク侵攻の時だ。当時のブッシュ政権は、サダム・フセイン政府から引き継ぐために、機能不全に陥った連合国暫定当局を創設したが、悲劇的な結果になった。この結果は予測されていた。現在、国家機関創設事業は、アメリカ軍に押し付けられている。アメリカ軍は他にも多くの任務をこなさねばならない。アメリカ軍は急ごしらえで国家機関創設を行える能力を持ってはいるが、しっかりと計画を立て確実に実行するまでの能力は備えていない。

 

 アメリカは、国家機関創設を目的とする政府機関を必要としている。軍事占領をせずに、つまり、アメリカ軍の駐屯を必要とせずに自国の領土を守れるようにするために、アメリカの同盟諸国の助けを借りながら、国家機関を作ることにまい進する連邦政府の機関が必要なのだ。幸運なことに、アメリカ政府には既にこの目的にうってつけの機関が既に存在している。それがアメリカ国際開発庁(U.S. Agency for International DevelopmentUSAID)だ。しかし、外国の国家機関創設という目的を達成するためには、USAID自体を変革する必要がある。USAIDは少ない労力で最大の成果を上げるような組織にならねばならない。USAIDは、戦略的に重要な国々での中核的な機能を強化するような事業を行うべきだ。世界各地の全ての貧困国で活動することで組織自体を拡大すべきではない。

 

 USAIDの2016年度予算は、223億ドル(約2兆4000億円)である。その中で、107億ドル(約1兆500億円)は、USAIDが直接管理し、運用できる中核的予算である。その中で、外国の国家機関創設に使われる予算は、24億ドル(約2700億円)のみだと考えられている。その他の予算は、貧困解消、世界各国の健康状態の改善、女性の地位向上、教育、衛生、経済発展、農業改良に使われている。これらの事業は素晴らしいものだ。しかし、USAIDは、これらの事業に関して、これらの分野で活動する国連や世界銀行のような国際機関とオックスファムとアフリケアのような非政府組織と比較して、優れた成果を上げているとまでは言えない。従って、USAIDは、これらの分野を国際機関や民間組織に任せるべきだ。そのために、これらの分野で活動するNGOへの支援を削減すべきだ。

 

 USAIDと擁護者たちは、USAIDが行うことは全て、外国の国家機関創設に貢献するためのものだと主張するだろう。USAIDは外国で衛生、電気、環境保護のような公共財の支援を行っている。成功している国々というのは、こうした公共財の国民への提供を行っている国々のことだと考えられている。USAIDのウェブサイトには次のように書かれている。「国民への衛生、安全、福祉の提供を確保できる政府や機関が存在する時のみ、進歩は継続される」。これは正しい。しかし、これらの国々が公共財を国民に供給するから、これらの国々は成功していると言われているのではない。これらの国々は国家機関創設に成功しているから、公共財を供給しているのだ。USAIDは、公衆衛生や教育、その他の分野で一時的に成果を上げるよりも、支援している国々がそれぞれの抱える問題に対処できるように国家機関を創設し、その能力を引き上げることに力を注ぐべきだ。そうした事業がたとえ、USAIDの理想からかけ離れたものであったとしても、そうすべきだ。

 

 発展途上諸国では、民主政治体制がぜいたく品となっている場合が多い。しかし、USAIDの外国の国家機関創設に関するプログラムは、「民主政治体制・人権・統治」プログラムと名付けられている。最も重要な問題である「統治」が最後にきている。これは、USAIDが、政府機関を一から作り上げ、育て上げるという仕事よりも、選挙、政党、市民社会の組織の育成に力を入れていることを示している。しかし、非民主的な国々が責任ある行動を取る限りにおいて、アメリカはそれらと共存できる。ヨルダンとシンガポールはアメリカにとって緊密な関係にある同盟国だ。韓国、チリ、インドネシアのような現在の同盟諸国の多くは元々非民主的であったが、今は民主国家になっている。アメリカは、エジプトやヴェトナムのような戦略的に重要な国々の人権侵害を見て見ぬふりをする傾向にある。これには批判的な人も多い。

 

 無政府状態の場所が世界各地にある状態で、アメリカは生きていくことが出来ない。なぜなら、それらの土地は、テロ組織、犯罪組織、伝染病、難民、その他の諸問題を生み出し、世界中に送り出すからだ。代議制の機関を育て上げることは、全米民主政治体制のための基金(National Endowment for DemocracyNED)にとってはふさわしい仕事である。しかし、USAIDは、民主的な統治よりも実際に成果が上がる統治の方に主眼を置くべきだ。

 

 電気から自由な選挙まで、誰からも歓迎されるが緊急的に必要とは言えないサーヴィスばかりをやるのではなくて、USAIDは安定した国家にとっと必要不可欠な事業に集中すべきなのだ。そうした事業として、暴力の正当な使用を独占できる軍隊や警察などの訓練、正義を実行することが出来る裁判所の支援、根深い腐敗に負けない職業意識の高い公務員の育成と支援、透明性を確保しながら税収を確保することが出来る財政システムの構築が挙げられる。現在のUSAIDはこうした事業を行うだけの能力を持っていない。これらの事業を適切に行うための政府機関はアメリカ国内に存在していない。たとえば、アメリカ軍は外国の軍隊を支援している。しかし、肝心の外国の警察と裁判所を支援するという仕事は、国務省と司法省に任せる。国務省と司法省は、価値観が疑わしい契約業者にこれらの事業を丸投げしてしまう。USAIDは、あまり重要ではない事業から手を引き、機能を起用化する方向に進むべきだ。言い換えるなら、USAIDは、モザンビークでトイレを作る仕事は、平和部隊(Peace Corps)に任せるべきなのだ。

 

 USAIDは現在100を超える国々で活動している。そのうちの約半数の国々で、「民主政治体制・人権・統治」に関するプログラムを実行している。このように手広く事業を展開すると、一つ一つの事業の内容が薄くなってしまう。現在の職員の数と予算から考えて、30から40までに事業対象国を絞らないと成果を上げることはできない。アメリカにとって重要な外国における国家機関創設という目的を達成するために何も今以上の予算を付ける必要もない。

 

 USAIDは、アメリカの戦略にとって極めて重要な、効果をあげられる国々に努力を傾注すべきだ。アメリカにとってイスラム教徒によるテロ攻撃は脅威となっている。この状況下では、イスラム教徒の人口が多い国々を優先すべきだ。こうした国々は、西アフリカから東南アジアまでの「不安定の弧」に位置している。リビア、ソマリア、シリア、イエメンのような国々では、中央政府は存在しないか、とても弱体化している。

 

 トルコやペルシア湾岸の君主国のように比較的富裕な国々、そしてスーダンやイランのようにアメリカに敵対的な国々は除外する。パキスタンやパレスティナ政府のような名目上の同盟国に対して支援を行うかどうかを判断することは大変難しい。それは、これらの国々の政府はテロを支援しているからだ。USAIDが成果を上げられないなら(政府機関がその基本的な機能を果たす能力を上げることができないなら)、USAIDは関わるべきではない。

 

 USAIDは、イスラム過激主義の拡散を止めるために、各国の地方政府の統治能力を確立する仕事をしている。しかし、それよりも、他国に従属させられる危険に直面している戦略的重要な国々の国家機関創設事業に集中すべきだ。ロシアからの進攻の危険があるウクライナとグルジア、中国からの進攻の危険があるモンゴルとミャンマー、巨大な麻薬密売組織の卿に晒さられている南米諸国、特にコロンビア、エルサルヴァドル、グアテマラ、ホンデュラス、メキシコといった国々に集中すべきだ。USAIDはこれらの国々には既に進出している。しかし、曖昧な目標と手を広げ過ぎた事業のために、基本的な政府機能の確立を重要としている、破綻国家になりかねない国々に予算と人材を重要な事業に集中させることが出来ていないのだ。

 

 こうした事業は重要である。そして、現在、USAIDが活動している国のうち、半分の国では必要ではない事業である。USAIDは、レソトやマダガスカルのような戦略的に重要ではない国々や中国のようなアメリカに友好的ではない国々、インドのような発展著しい国々に対して、基本的に不足している予算を投入すべきではない。予算と人材は、地政学的に見返りが大きい国々に投入すべきだ。

 

 外国の国家機関創設をより効果的に行うために、USAIDはその方法を変える必要がある。そのためには、USAIDはアメリカ軍から学ぶべきだ。最近の外国の国家機関創設の経験から教訓を学び取り、外部の専門家たちに事業の成果を精査し、評価してもらうのだ。USAIDが使っている契約業者や職員が事業の成果を評価するべきではない。取り敢えず予算が消化されたからその事業は成功したと言うのではなく、失敗したなら失敗したとはっきりさせるべきだ。

 

 USAIDは内部の官僚機構を合理化すべきだ。現在、USAID内部には、14の局と11の独立した事務局が存在するが、これほど多くの部局は必要ではない。USAIDには管理局が存在するが、それなのに他に、人的資本・才能管理事務局が存在する必要があるだろうか?中間管理者たちに、大きな出来事が起きた際には、部局の垣根を越えて、予算や人材の配分を変更するための責任と権限を与えるべきだ。ロビイスト、弁護士、補助金行政の専門家たちを使って、複雑な契約をして、補助金をがっぽりと稼ぐ、ワシントンに本社を置く決まった契約業者ばかりを使うべきではない。例えば、2010年に発生したハイチの大地震の後、USAIDは、アメリカ連邦議会に承認されて、36億ドル(約4000億円)を支出した。AP通信の報道によると、全支出のうち、ハイチの企業に流れたのは、1.6%しかなかった。USAIDの援助予算の最大の受け手は、ワシントンに本社を置く、USAIDからの補助金を特に受けているケモニクス・インターナショナルであった。

 

 USAIDが契約業者への依存を減らすためには、職員たちを変革する必要がある。USAIDの職員たちは、才能はあるのだが、国家機関創設にとって必要な知識を持つ専門家ではない。土木工学、都市管理、公務システム開発、治安維持、開発経済の専門家はほとんどいない。職員の多くは、国際関係論の修士課程を修了したばかりで、政府機関やビジネスの警官が乏しい。USIADは、巨大組織の運営や外国文化の中での勤務の経験豊富な中途採用の専門家をより多く採用すべきだ。そうした人材の供給源として、アメリカ陸軍が考えられる。アメリカ陸軍では現在、国家機関創設の経験を持つ将校たちが多く除隊させられている。

 

 これまでに提案してきたいくつもの変革案はどれを行うにしても、既得権益を持つ勢力によって激しい抵抗に遭うだろう。USAIDのプログラムが撤退する国々からは不平不満が出るだろう。USAIDの職員や契約業者で仕事や補助金を失う人々もまた不平不満を訴えるだろう。USAIDの変革を成功させるには、次期政権がUSAIDの変革を重要政策に位置付けるしかない。

 

 もちろん、USAIDを再編しても、全てのケース、もしくはほとんどのケースで国家機関創設に成功する保証はない。国家機関創設は大変な困難の伴う事業なのだ。しかし、アメリカには、コロンビア、東ティモール、エルサルヴァドル、ドイツ、イタリア、日本、コソヴォ、フィリピン、韓国と言った共通点のない様々な国々の国家機関創設に貢献してきた歴史がある。USAIDはこうしたケースで一定の役割を果たしてきた。USAIDがこれからどれくらい成功を収めることが出来るかを予測することはできないが、政府の基準から見て比較的適当な投資でいくつかの成功が収められたら投資に見合っていると言える。アメリカが際限のない軍事介入を避けて破綻国家の問題に対処したいと望むなら、国家機関創設以上の選択肢はない。アメリカ政府が外国の国家機関創設で成功しようという場合には、再編されたUSAIDが主導的な立場に立たねばならない。

 

(終わり)





 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 古村治彦です。

 

 今回は1970年代以降の「民主化」の動きを時系列的にまとめた記事をご紹介します。この記事で書かれている「第三の波」とは、政治学者の故サミュエル・ハンティントンが唱えた考え方で、世界の民主化の流れは、第一の波、第一の逆の波、第二の波、第二の逆の波と来て、1970年代から第三の波が起きて世界各地で民主化が進んだというものです。

 

 この記事の著者のラリー・ダイアモンドは、民主政治体制や民主化を専門に研究している政治学者で、スタンフォード大学フーヴァー研究所の上席研究員を務めています。そして、アメリカ政府が行っている世界各地の民主化プログラムにも参加している人物で、私の予想では、ヒラリー・クリントンが大統領になった場合には、政府内である程度の高い職分に招聘されるのではないかと思われます。

 

 ここに挙げた民主化の事例の多くに実はアメリカが大きく関わっている、もしくは介入しているという事実を考えると、ダイアモンドがシナリオを書いた「舞台」がこの中に含まれているということも考えられます。

 

====

 

時間の流れ:民主政治体制の退潮(Timeline: Democracy in Recession

 

ラリー・ダイアモンド筆

2015年9月15日

『ニューヨーク・タイムズ』紙

http://www.nytimes.com/interactive/2015/09/13/opinion/larry-diamond-democracy-in-recession-timeline.html?_r=0

 

1974年、ポルトガルでカーネーション革命が起き、ほぼ半世紀にわたった独裁政治が転覆させられた。これが世界的な民主化の動きである「第三の波」の始まりとなった。

 

 民主化の「第一の波」はアメリカ独立革命とフランス革命によって始まり、1922年までに29カ国が民主政治体制国家(democracy、デモクラシー)となった。この数字は共産主義、ファシズム、ナチズムの台頭によって12にまで減った。

 

 民主化の「第二の波」は第二次世界大戦の終焉とともに始まった。植民地からの独立によって、インドやスリランカといった国々が民主政体国家となった。しかし、1964年のボリヴィアとブラジル、1966年のアルゼンチンで起きた軍事クーデターのような事件が象徴しているように、民主化の波はその後退潮した。

 

 カーネーション革命からの30年間、民主政治体制はこれまでにないほどの規模で世界中に拡大した。しかし、2006年あたりを境にしてその動きが止まってしまった。民主政体国家の数は著しく減少している訳ではないが、市民社会の活動範囲は狭まりつつある。自由と民主政治体制は減退しつつある。この時系列表は、過去40年間に渡る民主政治体制の拡大、減退、時には崩壊を示しているものである。

 

●1974年4月25日:カーネーション革命と「第三の波」の発生

 

 1974年4月、国軍運動(MFA)に属していた左翼の将校たちがポルトガルで48年間続いたナショナリストの独裁政治を軍事クーデターで打ち倒した。この事件は、世界規模の民主化における「第三の波」の最初の民主化となった。

 

 それから2年間、政治工作、度重なる労働者のストライク、クーデター計画と対クーデター計画が次々と起きる緊張感のある、不確実な時期が続いた。そして、1976年4月、議会選挙が行われ、マリオ・ソアレスと彼が率いる社会党が連立政権を樹立した。ソアレスは、独裁体制下に12回も投獄されても節を曲げなかった不屈の闘士であった。ソアレスは、ポルトガル語で「起き上がりこぼし」というあだ名で呼ばれていた。このおもちゃは、叩かれてもすぐに起き上がるもので、彼の不屈の闘士ぶりにこのあだ名が奉られた。

 

●1974年11月17日:ギリシア、民主政治体制に復帰

 

1974年7月、ギリシアの軍事政権は崩壊した。それまで7年にわたり政権を維持していた。ギリシアの軍事政権は、キプロスのギリシア系住民たちがクーデターで政権を掌握することを支持した。しかし、クーデターの発生後に、トルコ軍がキプロスに進攻する結果になった。

 

ニューヨーク・タイムズ紙は、7月24日付で、「多くの人々が憲法広場に集まり、“今夜、ファシズムは死ぬんだ!”“これ以上の流血はいらない!”と叫んだ」と報じた。

 

 コンスタンティノス・カラマニリスと保守派の新民主党は、11月に議会選挙で「圧勝」した。

 

●1977年6月:スペイン、民主政体への移行

 

スペインで、1975年に長期にわたり独裁制を敷いたフランシスコ・フランコが死去した。1977年に選挙が実施され、民主的政治体制への移行が終了した。

 

●1980年8月4日:自主管理労働組合「連帯」はポーランドに改革をもたらす

 

「職業学校で教育を受け、大衆政治を熟知した」電気技師レス・ワレサは、共産圏で初めて独立した労働組合を設立した。ポーランドのグダニスク造船所で自主管理労働組合「連帯」が結成された。「連帯」は規模を拡大し、900万以上の組合員を獲得するまでになった。そして、「連帯」は、ポーランドの共産党政権に対する、多くの人々が参加する非暴力の抵抗運動の先駆的なそしてシンボル的な存在となっていった。ポーランドの共産党政権は、「連帯」を潰すために1981年に戒厳令を発令した。

 

 しかし、長年にわたる政治的な抑圧を持ってしても、拡大し続ける人々の抵抗を鎮圧することはできなかった。ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ将軍率いる政府は、社会全体を巻き込む抗議を受けて、1989年2月6日に「連帯」との交渉を行う円卓会議を開催した。

 

 1989年1月21日付のニューヨーク・タイムズ紙の論説記事には、「ポーランドの共産党政権は、自分たちのことを自分たちで決める労働者たちの参加なしに改革を進めることはできないということを認める準備が整ったようだ」と書かれた。

 

 話し合いの結果、1989年6月に民主的な議会選挙を開催することが合意された。これは1947年以降で最も自由な選挙となった。選挙の結果、連帯は連立政権を樹立し、1990年、ワレサは大統領選挙に勝利し、大統領に就任した。

 

●1983年10月30日:アルゼンチンの軍事政権が終焉

 

1980年、ニューヨーク・タイムズ紙は、「現代アルゼンチンの悲しいパラドックスについて考えてみよう」というタイトルの論説を掲載した。その中に次のようないい説があった。「食糧とエネルギーを含む豊富な天然資源と先進性と教育水準の高さは南米諸国の羨望の的となり、繁栄する社会は構築可能だという夢を与えている。アルゼンチンはそれだけの影響力を持っているが、野蛮な政治がその夢をぶち壊している」。

 

 アルゼンチンの軍事独裁政権は1983年に崩壊した。それは前年のフォークランド諸島を巡るイギリスとの間の短期間の戦争に敗北したことが引き金となった。急進的市民連合の指導者ラウル・アルフォンシンは1983年に行われた大統領選挙に勝利し、1976年以来となる民主的な政権を樹立した。これによって7年続いた抑圧は終焉を迎えた。この7年の間に1万人以上(一説には3万人)の人々が軍事政権によって「行方知れず」とされ、より多くの人々が亡命を余儀なくされた。

 

●1985年1月15日:ブラジルの「開放」

 

 長年にわたり民主化運動の指導者であったタンクレード・ネーヴェスは、間接選挙に勝利して、民主政治体制が復活して以降の初の大統領になった。これによって20年にわたる軍事政権は最終的に終焉を迎え、ポルトガル語で「開設」と呼ばれる更なる政治的な民主化プロセスが進むことになった。

 

●1986年2月22-25日:フィリピンの「ピープルズ・パワー」

 

 1983年8月にカリスマ民主化指導者ベニグノ・アキノが暗殺された。アキノはアメリカでの3年に渡る亡命生活からの帰国し、マニラ空港に到着した直後に殺害された。その後、フィリピンでは抗議運動と衝突が起こり、混乱状況になった。1986年2月、故アキノの妻コラソン・アキノが大統領選挙に勝利したが、その結果を守るために多くの人々が非暴力の抵抗運動に参加した。この運動は四日間続いた。そして、20年以上にわたり政権の座にいたフェルディナンド・マルコス大統領は亡命した。コラソン・アキノはその後、大統領に就任した。

 

●1987年6月10―29日:韓国における民主反乱

 

 大学生と拡大していた市民社会の主導する大規模な抗議運動の発生から19日後、軍事政権は、独裁者・全斗煥大統領の後継者を決定するための大統領直接選挙の開催を渋々ながら受け入れた。

 

韓国は第三の波で民主化した国々の中の成功例となり、今日に至っている。

 

●1988年10月5日:チリ国民は、ピノチェトに更なる8年間を与えることを拒否

 

 1988年、15年にわたり抑圧的な軍事支配を続けたアウグスト・ピノチェット将軍は、民主的な指導者としてチリを統治できるかどうか賭けてみようとして、選挙を実施することにした。国民に対して、これから8年間、自分を大統領として選んでくれるかどうかを決めてもらおうとした。

 

 広範な野党勢力が結集し、ピノチェトに対抗して選挙戦を行い、そして55%の得票率を得た。翌年、民主的な選挙が次々と行われ、連立政権が成立した。チリは南米において、最も成功した自由主義的民主国家に変貌を遂げた。

 

●1989年6月4日:北京の天安門広場で民主化運動が破壊される

 

 この日、数千の人民解放軍兵士と数百台の武装した軍車両が学生たちの民主化運動を破壊した。弾圧による死者数は今でも明らかにされていない。しかし、その日だけで数百、恐らく数千の人々が殺害さ、それから数週間の間に数千の人々が拘束され、拷問を受け、処刑されたと考えられている。これ以降、中国における政治改革の大義は姿を消し、1989年の天安門での民主化運動と弾圧について人々が議論することは法律で禁止されている。

 

●1989年秋:ベルリンの壁崩壊

 

 1989年、ハンガリーはオーストリア国境の防衛線を取り払い始めた。その後、数千の東ドイツ国民がハンガリーを経由してオーストリアに脱出した。11月までに東ドイツ国民の脱出は洪水のようになり、11月9日、両ドイツ国民はベルリンの壁を排し始めた。

 

 翌年、東ドイツは、ドイツの再統一を交渉するための移行的な臨時政府を樹立するための民主的な選挙を実施した。

 

 中央ヨーロッパと東ヨーロッパで共産党支配が崩壊した。そして、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア(後に2つの国に分離)をはじめとするほとんどの国が民主政治体制に移行した。

 

●1990年2月11日:南アフリカ初の複数の人種が参加した民主的な選挙が実施

 

 1990年、F・W・デクラーク大統領はネルソン・マンデラ率いるアフリカ国民会議やその他に野党に対する活動禁止を解除した。それから1週間後、マンデラは27年に渡る投獄が釈放された。

 

 1994年4月、アフリカ国民会議は、南アフリカ初の複数の人種が参加した民主的な選挙で圧勝し、ネルソン・マンデラが任期5年の大統領に就任し、民主化移行を進める政府の実権を掌握した。

 

●1991年12月25日:ソヴィエト連邦解体

 

 1991年12月25日、それまで6年半にわたりソヴィエト共産党の書記長として自由化を進めてきたミハエル・ゴルバチョフがソヴィエト社会主義共和国連邦の大統領職を辞任し、ソ連の平和的な解体を宣言した。1990年5月に選挙によってソヴィエト・ロシアの大統領に選ばれたボリス・エリツィンはロシア連邦初の自由な選挙で選ばれた指導者となった。

 

●1996年3月23日:台湾の選挙

 

台湾、中華民国は10年に渡る漸進的な民主化プロセスを終了し、初めての総統選出の為の民主的な直接選挙を実施した。与党・国民党の李登輝総統が、中国の台湾海峡におけるミサイル試射という妨害にもかかわらず、選挙に勝利した。中国はミサイル試射を行うことで、台湾の有権者威嚇し、選挙結果に影響を与えようとしたと見られている。

 

●1999年10月12日:パキスタンでクーデターが発生し、軍事政権が誕生

 

パキスタン軍は、ナワーズ・シャリーフ首相率いる政府を転覆させた。このクーデターは52年のパキスタンの歴史で3度目のクーデターとなった。クーデターは、シャリーフ首相が参謀総長であったパルヴェーズ・ムシャラフ将軍を更迭し四つとして発生した。無血クーデターによって、ムシャラフ将軍が政権に就き、それ以降、長期にわたって軍事政権が続いている。

 

 2008年の選挙で文民による憲法に基づいた統治が復活した。しかし、文民統制に対して軍部の優越は続いている。2007年12月27日には、ベーナズィール・ブット元首相が、議会議員選挙運動中に暗殺されるという事件が起きた。

 

●1999年12月15日:ウーゴー・チャヴェスがヴェネズエラで政権掌握の度合いを強化

 

 1998年、ヴェネズエラの有権者たちはウーゴー・チャヴェスに対して、大統領の権限を強化した内容の憲法を与えた。チャヴェスはそれから遡ること6年前に、クーデターで政権を獲得しようとして失敗した人物であった。新憲法では、大統領の任期は長くなり、再選が認められ、議会の力は弱められ、既存の議会と最高裁判所は廃止されることになった。

 

 2000年7月、チャヴェスが大統領に再選された。議会はチャヴェスに対して、1年間限定で布告のみで支配ができる権限を与えた。そして、チャヴェスは権威主義的な統治体制を強化し、確立していった。

 

●2000年3月26日:プーティンの下、ロシアにおける民主化はストップした

 

 深刻なそして多くの異常な出来事が続いた後、ウラジミール・プーティンは大統領選挙に勝利した。その後、エリティンが指名した後継者プーティンはクレムリンへの権力の集中を進め、ロシア国内に残っていた分裂した自由主義的な反対勢力を抑圧した。

 

 2000年3月26日付ニューヨーク・タイムズ紙は論説で次のように書いた。「プーティン氏は民主的で効果的な統治を行うための機会を手にしている。もし彼がKGBの手法をそのまま踏襲し、クレムリンを要塞とするならば、それはロシアと世界にとって大きな損失になる。」。

 

 2000年以降、プーティンは、連邦システムの権力と説明責任の基礎となる全ての要素である議会、メディア、実業界、そして市民社会を破壊した。そして、盗賊政治を行う、抑圧的な権威主義的政治体制を確立した。

 

●2003~2011年:イラク戦争によって、「民主政治体制の促進」に対してアメリカ国民の世論は硬化した。

 

 アメリカと同盟諸国は、「イラクを非武装化し、人々を解放し、世界を脅威から守るために」イラクに侵攻した。

 

 サダム・フセインの独裁体制はあっけなく崩壊した。しかし、連合国軍はイラク国内に大量破壊兵器が存在する証拠を見つけることが出来なかった。アメリカはイラクにおける民主政治体制の促進戦略へと転換した。戦争とその後の占領によってイラクは分裂した。暴力を伴う宗派対立のためにイラクの状況は不安定のままだ。

 

 汚職、無法状態、不安定さによって現在までイラク国内の統治は機能不全に陥っており、軍事力を行使しての「自由」の達成という考え方に対して多くの人々が疑問を持つようになっている。

 

●2004年11月:ウクライナのオレンジ革命

 

 2004年11月の大統領選挙での大規模な不正を受けて、多くのウクライナ国民はキエフの独立広場に集まり、ソ連崩壊後の支配階級を代表する候補者ヴィクトル・ヤヌコイッチによる選挙結果に対する不正行為への激しい抗議活動を開始した。

 

 野党側の候補者ヴィクトル・ユスチェンコとユリア・ティモシェンコは一緒になって、選挙結果を尊重するように求める運動をウクライナ全土で展開した。抗議をする人々は厳しい寒さの中で座り込みとストライキに敢然と参加した。2004年12月3日、ウクライナの最高裁判所は、選挙結果の無効を決定した。そしてやり直し選挙の結果、ユスチェンコが得票率52%で勝利し、2005年1月23日に大統領に就任した。

 

ウクライナの民主化は、ユスチェンコとティモシェンコが反目し合い、2010年の大統領選挙でヤヌコヴィッチが勝利したことで止まってしまった。ヤヌコヴィッチはウクライナを権威主義体制に引き戻し、ヨーロッパから離れることを選択した。これに対して、二度目の人々の抗議運動が発生した。これが2014年2月に起きたウクライナ政変だ。そして、ウクライナで民主政治体制が機能するための機会が再び生まれたのである。

 

●2011年1月14日、チュニジアでベン・アリが追い落とされ、楽観主義が拡大したがそれは急速にしぼんでしまった

 

チュニジアの独裁者ザイン・ベン・アリ大統領は23年にわたり独裁政治を行った。それが1か月間にわたる草の根の抗議活動を受けて亡命する結果となった。権威主義政治体制に対する人々の抗議活動はエジプトに拡大した。2011年2月11日、29年間政権を維持したホスニ・ムバラク大統領は、人々の抗議活動を受けて、辞任した。

 

 同様の抗議運動がバーレーン、リビア、シリア、イエメンでも発生した。「アラブの春」によって独裁政治が倒され、地域を民主化されるという初期の楽天主義は、革命が宗派争いと抑圧を生み出していく中で消えていった。

 

(終わり)

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ