古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:経済学

 古村治彦です。

 今回は、スティーヴン・M・ウォルト教授の提言をご紹介する。具体的には、国際関係学部で何を教えるべきかという内容だ。国際関係論(International Relations)は、政治学(Political Science)の一分野であるが、日本でも段々と増えているように、一つの学部や大学院を形成するほどになっている。それは学生たちから人気ということもあるし、その人気は外交分野や外交政策分野、国際貢献分野などが華やかに見えるからだ。

 アメリカでも国際関係の大学院を出た人材がそれらの分野で活躍している。しかし、ウォルト教授はそれではなぜ外交政策で失敗をしてしまうのかということを問題提起している。そしてその答えとして人材を供給する側である国際関係学部や大学院の教育が適切ではない、不十分だからではないか、ということを提起している。

歴史的に見て外交政策が意向を担ってきた人物たちの多くは、東部エスタブリッシュメントと呼ばれるエリートたちであり、彼らは国際関係論の教育ではなく、歴史学や経済学を学び、銀行業界やその他の産業分野で活躍した後に、重責を担うことになっていたと指摘している。

 ウォルト教授は、「残念ながら、大学院は多くの学生にとって、自らの世界観を見つめ直し、既成概念に疑問を投げかける唯一の機会であり、キャリアアップに必要な知的資本を構築する最後のチャンスとなることが多い。国際関係学部は、既存の機械のためによく訓練された歯車を作るのではなく、従来の常識に疑問を投げかけることにもっと注意を払うべきだということだ。結局のところ、独立した幅広い研究が大学の比較優位であり、だからこそ多額の基金が有用であり、終身在職権が貴重な制度であり続ける」と書いている。

 ウォルト教授は、現実と理論を結び付け、経済学や歴史学の知識を持ち、戦略を立てるために全体像(big picture)を掴む力を養い、主流派の考えに対して迎合するのではなく、常に疑問を持ち続けることができるようにする、ということを提案している。これは、国際関係分野だけでなく、あらゆる分野にとって必要なことではないかと思う。しかし、言うは易し、行うは難し、である。

(貼り付けはじめ)

アメリカ国内の国際関係学部は壊れている(America’s IR Schools Are Broken

-表面上は数多くの革新が起きているが、腐敗が深く進行している。腐敗をいかに直すか

スティーヴン・M・ウォルト筆

2018年2月20日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2018/02/20/americans-ir-schools-are-broken-international-relations-foreign-policy/

現在が国際問題について学ぶのに最適な時期であることを否定する人はいないだろう。各社会がこれまでにないほどの多様な方法でつながっている。各国は競争しかつ協力し、共存しながら協力し、大企業、社会運動組織、犯罪組織、その他の社会的な存在となっている組織体と競争し続けている。かつて疑う余地のなかった制度や正統派の考えが今、包囲網の中に置かれている状態になっている。私たちが何十年も前から知っている世界秩序は根本的に変わりつつある可能性が高い。大国間政治(great power politics)が(一時期中断していたが)復活し、力の均衡(バランス・オブ・パワー、balance of power)が大きく変化し、政治と国際経済の複雑な相互作用が年々明らかになりつつある。そして、地球は温暖化を続けており、今後数十年の間に広範囲にわたって、悪影響を及ぼすことが予想される。こうしたことを考えると、なぜ多くの若者がこのテーマに興味を持つのか、容易に理解できるだろう。

しかし、投入される資金が増え、教室が熱心な学生でいっぱいになったとしても、公共政策や国際問題について教える私たちには満足することはない。それはなぜか?なぜなら、私たちが精いっぱいできる限りの仕事をしているとはとても思えないからだ。

刺激を受けた、もしくは刺激を受けつつある学生たちをたくさん集め、彼らのその後の成果を誇らしげに指摘することができるかもしれない。しかし、そうであっても、過去50年間の国際問題専門教育の発展が、一貫してより良い外交政策の遂行を促し、より良い結果を生み出しているようには思えない。私は、このような失敗の全てを国際関係大学院のせいにしているわけではないが、自分たちが考えているほどには、国際関係大学院は役に立っていないのではないか?

アメリカにおける外交政策立案はかつて外交評議会(CFR)のような組織と、ジョージ・ケナン、ディーン・アチソン、ジョン・マクロイなど第二次世界大戦後の秩序構築で重要な役割を果たした「賢人たち(wise men)」が具現化していた古い「東部エスタブリッシュメント(Eastern Establishment)」に独占されていた。彼らはほぼ例外なく、国際問題に関して大学院教育を受けていなかった。ジョージ・ケナンは歴史学で学士号を取得し大学を卒業してすぐに外交の世界に入った。 しかし、概して、彼らの業績は非常に印象的なものだ。

しかし、アメリカの世界における役割が増大する中で、外交政策策定にはより特化した専門性が必要となっていった。I・M・デスラー、レスリー・ゲルブ、アンソニー・レイクといった人々は、「1960年代には、アメリカの外交政策分野の指導者層の構造に革命的な変化が起きた」と指摘している。権力は、古い東側エスタブリッシュメント(old Eastern Establishment)から、新しいプロフェッショナル・エリート(new Professional Elite)、つまり、政府運営に参加するために自分の専門職を離れる銀行員や弁護士たちから、外交政策の専門家たちにほとんど気づかないうちに権力が移っていた。

このような専門的知識の拡大は、東部エスタブリッシュメントに所属する人々たちだけによる「古臭い守旧的な(old guard)」体制から大きく改善され、より知的で成功した政策決定を生み出すと考える人もいるだろう。アメリカの外交政策は、主に経済界から選ばれたエリート集団に頼るのではなく、経済、軍事、歴史、外交、地域研究などの専門的訓練を受けた、より多様な経歴や背景を持つ専門家集団によって担われることになるのである。理論的に言えば、このような十分な知識を持った専門家の間で競合する意見がぶつかり合うことで、より活発な議論が行われ、それによって政策選択の多くの選択肢が事前に吟味され、大きな失敗をする可能性は低くなる。そして、万が一、間違いが生じた場合(必然的にそうなるのだが)、このよく訓練され、高度に専門化した政策共同体は、その間違いを素早く認識し、適切に軌道修正することができるだろうということになる。

残念ながら、規律正しい専門職カースト(disciplined professional caste)という魅力的なイメージは、現代の外交政策共同体の現実を完全に描写しているわけではない。現代の外交政策共同体は、そして、専門家の専門知識が大幅に拡大しても、それがより賢明で効果的な政策に確実に反映されるとは思われない。外交政策共同体は、戦術、立場、地位をめぐって絶えず内紛が起きているにもかかわらず、合意と一致が行われている場所だ。そして、専門家たちの専門知識の膨大な拡大は、より賢明で効果的な政策に確実に反映されるとは思えない。

なぜそうなるのだろうか?

明白な問題は、「国際問題」の遂行は実は専門職ではなく、むしろ政治的な職業であることであることだ。外交政策に影響力を持つ指導者たちは、専門知識だけではなく、思想信条、評判、人脈、政治的忠誠心などで選ばれる。「外交政策」を遂行するのに、司法試験(bar exam)に相当する試験に合格する必要はないし、心臓外科医のように専門家集団から認定を受ける必要もない。確かに、シンクタンクや政府機関で働く人の中には、関連する分野でかなり高度な訓練を受けている人もたくさんいるが、高度な訓練を全く受けずにトップに上り詰めた人もたくさんいるのである。ドナルド・トランプ大統領の上級補佐官で、義理の息子であるジャレッド・クシュナーは、影響力のあるポストの唯一の資格が娘の配偶者であり、レックス・ティラーソン国務長官でさえ、土木工学の学士号しか持っていないことを考えてみて欲しい。バラク・オバマ前大統領の国家安全保障問題担当大統領次席補佐官ベン・ローズは、政治学の学士号とクリエイティブ・ライティングの美術修士号を持つ小説家志望だった(たしかに、スピーチライターとしては悪くない資格ではある)。そして、ロナルド・レーガン元大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官、ウィリアム・クラークを忘れてはならない。彼は大学を卒業していないのだ(訳者註:大学に入学し卒業していないが、法科大学院に合格できる入試の点数を叩き出し、法科大学院に進学し、司法試験にも合格している)。

重要なのは、これらの人々がそれでは外交政策において無能であったかということそうではなくて、国際問題についての本格的な専門的訓練を受けていないにもかかわらず、並外れた外交政策上の責任を負ったということである。少なくともアメリカでは、国際問題やその関連分野の上級学位を取得していることが望ましいかもしれないが、それが外交政策上のトップの仕事に就くための必要な前提条件であるとまでは言い難い。

第二のより深刻な理由は、高度な訓練は成功の保証にはならないということである。外交政策の運営は複雑で困難な作業であり、特に野心的な大国にとっては、頭が良く、勤勉で、教養のある人々でさえ、大失敗をする可能性がある。ジョージ・W・ブッシュの外交政策を担当した「ヴァルカンたち(Vulcans)」は、輝かしい経歴を持ち(数人は権威ある大学から博士号を授与されている)、しかし彼らのアメリカ外交の管理運営はほとんど大失敗だった。同様に、オバマ大統領の下でも多くの賢明な高学歴者たちが働いていたが、2009年にアフガニスタンで誤った判断を下し、リビアとウクライナでも大きくつまずいた。

もちろん、無知を肯定しているわけではないし、公務員がもっと無知であったほうがいいとも言っていない。それどころか、国際関係の高度な訓練を受けた何千人もの人々が、その結果、政府、企業、あるいは非営利団体でより効果的に仕事をしていることは、100%間違いないだろう。しかし、国際関係学部は、そのようなポジションに就くための準備として、もっと良い仕事ができるはずだ。プリンストン大学ウッドロー・ウィルソン・スクール(公共国際問題学校)で5年、ハーヴァード大学ケネディ・スクール(公共政策大学院)で18年、国際関係大学院で私の職業人生の大半を過ごした経験から、この経験を改善するための5つの方法を提案したい。

(1)理論と政策をつなぐ。読者の中には既にご存知の方もいるだろうが、私は、理論が政策の分析と政策の実行にとって必要不可欠だと考えている。世界は複雑極まるものだ。そして、世界は無限に複雑であり、それを理解し、何が最も重要かを見極め、政策決定の結果を予測するためには、単純な因果関係の見取り図が必要である。理論がなければ、現状から推定する(extrapolate)のが精一杯で、その方法がうまくいくことはほとんどない。また、悪い理論(例えば、重商主義、マルクス・レーニン主義、ドミノ理論など)に強くこだわると、大変な苦労をすることになる。政策立案者たちは「象牙の塔の理論家たち(ivory tower theoreticians)」と揶揄することがあるが、実際には誰もが自分の周りで起こっていることを理解するために何らかの粗雑な理論を使っており、理論を徹底的に学ぶことは、批判的能力と「全体像(big picture)」を見る能力を養う上で非常に貴重である。

残念ながら、現実主義(realism)や自由主義(liberalism)のような大理論も、同盟、強制、制裁などを扱う中理論も、既存のどの理論も完全には妥当ではない。そのため、支持者の間で果てしない論争が起こり、国際関係理論は全く価値がないという誤った結論に至る者もいるほどである。更に、理論を政策に結びつけ、それがどのように政策の選択を照らし出し、明らかにするかを示すことは簡単ではない。私は15年以上にわたって、理論と政策を結びつける授業を担当してきた。この授業は学生たちに好評だが、まだ一部しか成功していないように思われる。これからの指導者たちに必要なシンプルな分析ツールや批判的思考力(critical thinking)を身につけるために、より良い方法を模索し続けている。

(2)より有益な経済学を教える。国際経済を研究する経済学者たちは、専門的な正典や理論、規範を教えるのがとてもうまい。それは、また、国際金融の基本原則である比較優位説(theory of comparative advantage)であり、それに基づいた文献の数は増えている。一部の重要な例外を除いて(私が言うのもなんだが、ここケネディ・スクールの私の同僚も何人かいる)、国際金融秩序の実際の仕組みを教えるのはそれほど得意ではない。(SWIFTの仕組みはどうなっているのか?多国間貿易交渉では実際に何が起こっているのか?)また、公共政策大学院では、経済と政治の関連性を探り、それぞれが他方にどのような影響を与えるかを学生に理解させることがあまり得意ではない。私の同僚であるダニ・ロドリックは後者の問題について素晴らしい研究をしている。しかし、私が感じたのは、国際関係学部で教える経済学の多くは、優れた経済学の学部課程で学ぶような高度なミクロとマクロのコースをあまり超えていないのではないかということだ。もちろん、そのような知識も価値がないわけではないが、国際関係学部は、経済学部の同僚に対して印象を良くすることにこだわらなければ、もっとうまくいくはずだ。

(3)歴史を教える。更に深刻な欠点は、歴史学の軽視である。外交史や国際関係史は、ほとんどの歴史学部で苦境に立たされており、国際関係学部がどのようにその状況を打開しているかを観察するのは興味深いことである。(フランク・ギャビンが最近ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院教授に就任したことはその一例であり、私が在籍するケネディ・スクールでもフレッド・ロゲヴァル、アルネ・ウェスタッド、モシク・テムキンの存在がある) 。この傾向には明白な理由がある。国際的な重要問題で、それを生み出した歴史的プロセスを知らずに、解決はおろか、理解できるものはほとんどない。ウクライナ、クリミア、そしてロシアの歴史を知らずして、ウクライナ危機を理解し、ロシアのプーティン大統領の行動を理解することはできるだろうか?アメリカとイラン、あるいはイスラエルとパレスチナの複雑な関係が、時間とともにどのように発展してきたかを知らずに、誰が現状を把握できるだろうか?韓国と日本がなぜ仲が悪いのか、不思議に思ったことはないだろうか?彼らの歴史を知らなければ、見当もつかないだろう。同じ出来事を経験した社会でありながら、その歴史は大きく異なる。

歴史は単に名前や日付の集合体ではなく、競合し、重なり合いながらも、異なる物語であることを理解する必要がある。過去は公然と姿を現すのではなく、様々な歴史家や社会全体によって解釈され、議論され、構築されるものだ。そこには、国際問題に携わる全ての人が心に刻むべき重大な教訓がある。異なる人々、異なる国々が同じように過去を見ることはなく、したがって現在の問題を同じように見ることはない。しかし、このような別の見解が存在することを理解し、対処しなければならないかもしれない人々の物事の見方が異なることを認識することは重要な洞察力である。これは「政治的に正しい」とか「文化的に敏感である」ということではなく、もしある人のゴールが誰かを説得することであるなら、相手がどこから来て、どんな誤解を克服する必要があるかを知ることが不可欠であることを認識することが重要だ。

つまり、政策を学ぶ学生たちが本格的な歴史教育を受ければ、国際情勢における政策立案は大きく改善される。公共政策大学院は歴史学者を数人採用したかもしれないが、経済学やその他の分析手法と同じように、歴史学や歴史的手法のコースが必須科目の一部になっているのだろうか?理論研究と同様、歴史教育は、証拠を選別し、計量し、評価する方法を学ぶことが重要だ。これは、フェイクニュースや国家によるプロパガンダがいたるところに存在するこの時代に、これまで以上に必要とされるスキルだ。歴史をきちんと勉強した学生は、文章も上手に書けるし、デタラメも見抜けるし、今日の問題がどうして起こったのか、よりよく理解することができる。分からないことがあっても、それを調べる方法を知っている。このような訓練は奇跡を起こさないかもしれないが、害はなく、ほぼ間違いなく役に立つだろう。

(4)全ての人が「戦略」について語るが、誰も戦略を改善するためには何もしない。政府関係者に向けられる苦情で最も多いのは、「明確な戦略がない(they lack a clear strategy)」というものだろう。私自身、何度もこのような指摘をしたことがあるが、そのほとんどは正当なものであったと思っている。私も何度もこのような指摘をしたし、今でもそのほとんどは正当化されると思っている。しかし、公平に見て、国際問題を教える私たちは、学生に戦略的な思考方法をあまりうまく教えることができてこなかった。イェール大学が誇る大戦略プログラム(歴史の役割を強調している)でさえ、現実の国のために首尾一貫した戦略を構築するためのツールを提供するよりも、学生の指導者気取りを満足させるためには良い仕事をしていたのかもしれない。

今日のアメリカで「大戦略」と呼ばれるものは、ジョージ・W・ブッシュ前大統領の二期目の就任演説のような空虚で非歴史的な大げさなものか、法律で国家安全保障戦略の公式発表を強制されたホワイトハウス職員が並べた鳴り物入り宣言のリスト(「我々はXし、Yし、Zし、勝利に導くだろう」)かのどちらかである。このような取り組みに通常欠けているのは、重要な利益(なぜそれが重要なのかの説明を含む)の明確な表明と、他の関連アクターの起こりうる反応を予期した、その利益を促進するための具体的プログラムである。戦略とは手段と目的を結びつけることであり、国際問題においては、手段の選択とその展開、正当化の方法は、他の関連プレーヤーがどのように反応するかという予想に左右されるものだ。軍隊の指揮官は「敵にも投票権がある」という言い方を好むが、同盟国や中立国、その他、邪魔になったり助けたりするような反応をする人たちも同じである。そして、優れた大戦略は包括的でなければならない。つまり、ある問題領域や地域での行動が、他の場所でやろうとしていることにどう影響するかを考えなければならないのである。

言い換えると、戦略的に考えるには、「全体像」を把握し、アクター、トレンド、問題がどのように組み合わされているかを明確にすることが必要なのだ。何が重要で、異なる行動が他者にどのような影響を及ぼすかを明らかにする、明確で正確な世界像がなければ、世界を舞台に効果的な行動を取ることなど想像もつかない。そのためには、歴史(ポイント3で指摘)に基づき、検証された理論(ポイント1で指摘)が必要だ。

(5)適合のための保温器なのか?しかし、今日の国際問題専門学部の最大の限界は、少なくともここアメリカにおいては、「リベラル・ヘゲモニー(liberal hegemony)」と「アメリカのリーダーシップ(U.S. leadership)」の必要性という陳腐な超党派的コンセンサスを強化する傾向があることだろう。これらの国際問題専門学部の学部長や教授陣には、外交政策分野を代表する人物が名を連ねており、そのほとんどがアメリカの力を広く行使することに強いこだわりを持ち続けている。当然のことながら、これらの教育機関の教授陣は、政策志向の学者や元政府高官で占められており、長年にわたってアメリカの外交政策を支えてきた中心的な前提に疑問を投げかけることはまずない人々である。

もちろん、このような傾向は完全に理にかなっており、いくつかの明らかな長所もある。国際関係学部には、世界に対する好奇心、具体的な政策課題への関心、そしてほとんどの場合、世界をより良い場所にしたいという熱意を持った学生が集まってくる。これらの教育機関で教える教員の多くも、同じような表現が当てはまる。そして、現実の世界に関心を持ち、将来就きたい職業に就いている本物の経験者たちから学ぶことは、学生にとって良いことであることは間違いない。

しかし、そこにはコストが付きまとう。学術機関が理想とすること、つまり、現代の問題を独立した立場で批判的に見つめ、何がうまくいき、何が失敗し、どうすればもっとうまくいくかを考えようとするのではなく、政策の世界と密接に結びついていたいという欲求から、ほとんどの国際関係学部は必然的におなじみの主流派の合意に引きずられることになる。確かに、特定の政策課題(例えば、シリアに介入すべきか否か)については鋭い意見の相違が見られることもあるが、長年にわたってアメリカの外交政策に影響を与えてきた、より根本的な正統派に疑問を呈する者はほとんどいない。

残念ながら、大学院は多くの学生にとって、自らの世界観を見つめ直し、既成概念に疑問を投げかける唯一の機会であり、キャリアアップに必要な知的資本を構築する最後のチャンスとなることが多い。国際関係学部は、既存の機械のためによく訓練された歯車を作るのではなく、従来の常識に疑問を投げかけることにもっと注意を払うべきだということだ。結局のところ、独立した幅広い研究が大学の比較優位であり、だからこそ多額の基金が有用であり、終身在職権が貴重な制度であり続ける。

これが意味するところは、外交政策分野のポジションを目指す人は、国際関係大学院に行かず、法科大学院(ロースクール)や経営大学院(ビジネススクール)に行くべきだということだろうか?そんなことはない。むしろ、さまざまなプログラムをよく見て、知的な多様性を提供してくれるところを探すべきだ。大学院生たちは、教授や講師たちからだけでなく、学生同士からも多くのことを学ぶので、学生の多様性を含む他の種類の多様性も重要だ。特に卒業後の就職に有利になるような基本的なスキルを身につけたいと考えるものだが、同時に、たとえ最初の信念が正しかったとしても、先入観にとらわれないようにしたいとも思うものだ。異なる考えを持つ教授たちの話を聞いて、どの考え方が正しいのか、自分で考える機会を持ちたいものだ。つまり、大学院での経験は、単に立派な履歴書や技術的スキルを持った人間ではなく、より幅広く、より良い情報を持った、より自信のある思想家にしてくれることが重要なのだ。そして、それこそが、これらの大学院が目指すべきものなのだ。

※スティーヴン・M・ウォルト:ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。

(貼り付け終わり)

(終わり)

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ビッグテック5社を解体せよ

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 今回は経済学批判の記事を紹介する。『ニューヨーク・タイムズ』紙の編集委員で経済記者として活躍しているビンヤミン・アップルバウムが昨年、著書『経済学者たちの時間:間違った予言者たち、自由市場、社会の分断(The Economists' Hour: False Prophets, Free Markets, and the Fracture of Society)』を出した。この紹介記事の中で、経済学と経済学者たちへの批判を行っている。

 経済学者たちが政策立案や実行に関わるようになり、最高幹部クラスの地位に就くようになったのは20世紀中盤以降のことだった。そして、「自由市場至上主義(市場によって均衡がもたらされて何事もうまくいく)」という宗教的な信念に近い原理を政策に応用するようになった。アップルバウムはその結果が格差の拡大だと述べている。そして、「経済学の発展は格差拡大の主要な理由である(The rise of economics is a primary reason for the rise of inequality.)」とさえ述べている。

 日本の「失われた30年」を振り返って考えてみても、このアメリカの20世紀中盤からの動きにそっくりだ。政府の役割の縮小と市場原理の導入によって、「日本特有の特徴のある資本主義(Capitalism with Japanese characteristics)」は破壊された。その結果が今日の惨状を生み出している。

 経済学の自由市場原理(free market principles)は宗教のドグマ(教義、dogma)とそっくりだ。また、原理から生み出された政策は非現実的である。たとえば、異次元の金融緩和について考えてみる。「経済が好調(好況、好景気)だと通貨供給量が増える」という事実がある。それをひっくり返して「通貨供給量を増やせば経済が好調になる」と「経済学者の頭」で考えた。そして、現在の日本ではそれを行っている。しかし、好景気になどなっていない。このような演繹的な(deductive)政策に対する、帰納的な(inductive)反撃として起きているのがMMT理論だと私は考える。

 経済学は社会科学の中で最も「科学的」であると言われてきた。しかし、実際には宗教的なドグマに凝り固まって、悲惨な結果をもたらすということを私たちは認識すべき時である。

(貼り付けはじめ)

私たちが取り込まれているゴミを生み出したのは経済学者たちで彼らに責任がある(Blame Economists for the Mess We’re In

―なぜアメリカは私たちには「より多くの富豪とより多くの破産」が必要なのだと考えた人々の話に耳を傾けてしまったのか?

ビンヤミン・アップルバウム(Binyamin Appelbaum)筆

アップルバウム氏は『ニューヨーク・タイムズ』紙編集委員であり、最新刊『経済学者たちの時間:間違った予言者たち、自由市場、社会の分断(The Economists' Hour: False Prophets, Free Markets, and the Fracture of Society)』の著者である。

2019年8月24日

『ニューヨーク・タイムズ』紙

https://www.nytimes.com/2019/08/24/opinion/sunday/economics-milton-friedman.html

1950年代前半、ポール・ヴォルカー(Paul Volcker、1927―2019年、92歳で死亡)という名前の若い経済学者はニューヨーク連邦準備銀行の建物の奥にある事務室で計算手として勤務していた。ヴォルカーは決定を下す人々のために数字を高速処理していた。ヴォルカーは妻に対して自分が昇進する機会はほぼないと思うと話していた。中央銀行の最高幹部には銀行家、法律家、アイオワ州の豚農家出身者はいたが、経済学者は一人もいなかった。連邦準備制度理事会議長はウィリアム・マクチェスニー(William McChesney、1906-1998年、91歳で死亡)という名前の株式仲買人出身者だった。マクチェスニーはある時訪問者に対して、自分はワシントンにある連邦準備制度の本部の地下に少数の経済学者を閉じ込めているのだと語った。経済学者たちが本部の建物の中にいるのは、彼らが素晴らしい質問をするからだと語った。そして経済学者たちを地下に閉じ込めておく理由は、「彼らは自分たちの限界を分からない」からだと述べた。

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若き日のポール・ヴォルカー

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ウィリアム・マクチェスニー

 マクチェスニーの経済学者嫌いは20世紀中盤のアメリカのエリート層において共有されていた。フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt、1882-1945年、63歳で死亡)大統領は、その世代の最重要の経済学者ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes、1883-1946年、62歳で死亡)を、非現実的な「数学専門家」に過ぎないと非難した。アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower、1890-1969年、78歳で死亡)大統領は大統領退任演説の中で、テクノクラートを権力から遠ざけるようにすべきだとアメリカ国民に訴えた。連邦議会が経済学者に諮問することなどほとんどなかった。政府の規制機関は法律家たちが率いていた。裁判所では裁判官たちが経済的な証拠は重要ではないとして退けていた。

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ジョン・メイナード・ケインズ

しかし革命が起きた。第二次世界大戦終結から四半世紀が過ぎ成長が止まる時期になると、経済学者たちは権力の諸機関に入るようになった。経済学者たちは政治家たちに経済を運営するにあたり政府の役割を小さくすることで成長を再び促進させることができるという助言と指導を与えた。経済学者たちはまた不平等(格差)を抑えようとする社会は、低成長という代償を払わねばならないという警告を発した。新しい経済学に属するイギリスのある学者は、世界には「より多くの富裕層とより多くの破産」が必要だ、という発言を残した。

1969年から2008年まで40年間で、経済学者たちは富裕層の課税の引き下げと公共投資の削減に主導的な役割を果たした。経済学者たちは輸送や通信といった社会の主要な諸部門の規制緩和を監督した。経済学者たちは大企業を称賛し、企業の力の集中を擁護した。そして、彼らは労働組合を悪しざまに罵り、最低賃金法のような労働者保護策を反対した。経済学者たちは、規制に価値があるかどうかを評価するために、人間の生命をドルの価値に換算することを政治家たちに訴えた。人間の生命は2019年の段階で1000万ドルである。

経済学者たちの革命は、それまでの多くの様々な革命と同様、行き過ぎた。成長が鈍化し、格差が拡大する中で悲惨な結果をもたらした。経済政策の失敗の最も深刻な結果は、アメリカの平均寿命の減少であろう。富の偏在は健康の格差を生み出した。1980年から2010年の期間、アメリカの豊かな上位20%の平均寿命は伸びた。同じ30年間、アメリカの貧しい怪20%の平均寿命は短くなった。衝撃的なことは、アメリカ国内の貧しい女性と富裕な女性の平均寿命の差が3.9年から13.6年へと拡大したことだ。

格差の拡大は自由主義的民主政治体制の健全性を損ねている。「私たち人間」という概念は消え去りつつある。格差が拡大し続けているこの時代、私たちは共通に持っているものは少なくなっている。その結果、教育や社会資本への公共投資のような長期間にわたる広範囲な繁栄をもたらすために必要な政策への支持を形成することがより難しくなっている。

経済学者たちの多くは20世紀中盤に公共サーヴィスの分野に入り始めた。政治家たちは連邦政府の急速な拡大を統制するために苦闘していた。政府に雇用されている経済学者たちの数は1950年代には約2000名であったが、1970年代末には6000名にまで増えた。経済学者たちが採用されたのは政策実行の正当化のためであったが、すぐに政策目標の形成を始めるようになった。アーサー・F・バーンズ(Arthur Frank Burns、1904-1987年、83歳で死亡)は1970年に連邦準備制度理事会議長になったが、彼は議長になった最初の経済学者になった。その2年後、ジョージ・シュルツ(George Pratt Shultz、1922年―、99歳)は経済学者として財務長官に就任した。1978年、ヴォルカーは連邦準備制度内での昇進を極め、ついに議長に就任した。

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アーサー・F・バーンズ

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ジョージ・シュルツ
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議長時代のヴォルカー

しかし、最も重要な人物はミルトン・フリードマン(Milton Friedman、1912-2006年、94歳で死亡)だった。妖精のようなリバータリアンで、アメリカ政府で地位を得ることを拒絶した。しかし、彼の著作や発言は政治家たちを魅了した。フリードマンはアメリカが抱える諸問題に対して、明快で単純な答えを提示した。それは、政府は関わらない、というものだ。フリードマンは、「官僚たちがサハラ砂漠を管理するようになると、すぐに砂の不足を訴えるようになるだろう」というジョークを飛ばした。

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ミルトン・フリードマン

フリードマンは勝利を期待できない戦いで大勝利を収めた。彼はニクソン(Richard Nixon、1913-1994年、81歳で死亡)大統領に助言して1973年に徴兵を終わらせた。フリードマンやその他の経済学者たちは、市場レートに沿った報酬を支払う志願兵だけで構成される軍隊は財政的に実行可能でかつ政治的に人々から受け入られ易いものだった。

ニクソン政権は、ドルと外国通貨の為替レートを市場に決定させるというフリードマンの提案を採用した。また、ニクソン政権は規制に対する制限を正当化するために人間の生命に値段をつけた最初の政権となった。

しかし、市場志向は無党派のテーマであった。連邦所得税の削減はケネディ大統領下で始まった。カーター(Jimmy Carter、1924年―、95歳)大統領は、1977年に民間商業航空に対する監督を行う官僚組織を廃止するために経済学者アルフレッド・カーン(Alfred Kahn、1917-2010年、93歳で死亡)を任命することで、規制緩和時代の扉を開いた。クリントン大統領は、1990年代に経済が上昇する中で連邦政府の支出を抑制した。 クリントン大統領は「大きな政府が終わった時代」を宣言した。

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アルフレッド・カーン

リベラルと保守派の経済学者たちは公共政策における主要な疑問に関する戦いを主導した。しかし、両派の経済学者たちが合意した分野はより重要であった。自然はエントロピー(entropy、均質化)に向かう傾向があるが、経済学者たちは市場が均衡(equilibrium)に向かう傾向にあることに自身を持っていた。経済学者たちは経済政策の重要な目標は国家の生産高のドルの価値を高めることであるということに同意していた。経済学者たちは格差を緩和するための努力に対する辛抱強さをほとんど持っていなかった。カーター政権の経済諮問会議議長を務めたチャールズ・L・シュルツ(Charles Louis Schultze、1924―2016年、91歳で死亡)は1980年代初頭に、「経済学者たちは効率的な政策の実行のために戦うべきだ。たとえその結果が得敵の諸グループの所得が大きく減少することになっても戦うべきだ。効率的な政策を実行することで所得は下がるものであるが」。それから30年ほど経過した2004年、ノーベル経済学賞受賞者ロバート・ルーカス(Robert Lucas、1937年―、82歳)は格差緩和のための努力の復活に警告を発した。「健全な経済を傷つける、最も人々を惹き付けかつ私の意見で最も有害な傾向は、配分に関する疑問に集中することだ」。

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チャールズ・L・シュルツ

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ロバート・ルーカス

格差の拡大に対する説明は宿命論的なものだ。格差問題は資本主義特有の結果である、もしくはグローバライゼーションや技術の進歩といった要素が理由であるという説明がなされている。そうなると格差問題は政治家たちが直接コントロールできないものということになる。しかし、失敗の大部分は私たち自身の中にある。効率を最優先し、富の集中を促進する政策を採用するという私たちの集合的な決定が私たちの失敗である。そうした政策は、機会を均等化し、所得再配分するための政策は否定された。経済学の発展は格差拡大の主要な理由である(The rise of economics is a primary reason for the rise of inequality.)。

私たち自身が問題を生み出しているならば、解決策は私たちの中にあるのは事実だ。

市場は人々が作り出し、人々によって選択された諸目的のためのものだ。そして、人々は規則を変更できる。社会は格差を無視すべきだという経済学者たちによる判断を捨てる時期だ。格差の減少は公共政策にとっての主要な目標であるべきだ。

市場経済は人類の素晴らしい発明の一つであることは確かだ。市場経済は富の創造を行う強力なマシーンである。しかし、社会の質を測定する方法は、社会全体、全ての階層の生活の質を見ることである。トップの生活の質だけを見るのではない。そして、次々と出される研究結果が示しているのは、現在、低い階層に生まれた人々は前の世代に比べて、豊かになる、もしくは社会全体の福祉に貢献する機会を持てないようになっているということだ。それでも現代社会で貧しいと言っても歴史的に見れば豊かではある。

これは苦しんでいる人たちだけにとって悪いことではない。それでも十分に悪いことではあるのだが。これは豊かなアメリカ人にとっても悪いことである。富が少数の人々に握られている現在において、消費総額は減額し、投資も減少しているという研究結果が出ている。各企業と豊かな家庭はどんどんスクルージ・マクダックに似るようになっている。企業と豊かな家庭はスクルージのように、山のようなお金の上に座っているが、生産的な形でお金を使うことができていないのだ。

これまでの半世紀、繁栄の分配に対する頑なな無関心は、自由主義的民主政治体制の存在がナショナリズムに基づいた煽動家たちからの試練に直面している主要な理由である。ロープにいつまで掴まっていられるのか、ロープはどれくらいの重さまで耐えられるのかについて私は全く見通しを持てないままでいる。しかし、私たちが負担を減らせる方法を見つけることができれば、私たちの絆はより長く存続することになるだろうということは分かっている。

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ビンヤミン・アップルバウム著『経済学者たちの時間:間違った予言者たち、自由市場、社会の分断(The Economists’ Hour: False Prophets, Free Markets, and the Fracture of Society)』

『パブリッシャーズ・ウィークリー』誌

2019年9月

https://www.publishersweekly.com/978-0-316-51232-9

『ニューヨーク・タイムズ』紙記者アッブルバウムはサブプライムローンに関する報道でジョージ・ポーク賞を受賞した。アップルバウムは、彼が「経済学者たちの時間」と名付けたおおよそ1969年から2008年の時期の公共政策における経済学者たちの重大な影響力を時系列的にまとめた。アップルバウムはアメリカ国内で経済学者たちがどのように重要な地位を占めるように至ったかを詳述している。経済学者たちはワシントンで低い地位にとどまっていたのが、財務長官と連邦準備制度理事会議長のような最高位の役割を果たすようになった。アップルバウムは経済学者たちの繁栄を生み出すという錬金術のような力に対して極めて懐疑的である。特にミルトン・フリードマンやアラン・グリーンスパン(Alan Greenspan、1926年―、93歳)のような自由市場原理を猛進していたが、自由市場原理は大恐慌と収入格差を促進したのだとアップルバウムは主張した。アップルバウムは、世界各国は経済理論を考慮している。しかし、技術者たち(台湾)や国家(中国)が主導する経済の方が経済理論を重視するアメリカ経済よりもうまくいっている。アメリカは市場に対する政府の介入を最小化する政策を採用している。アップルバウムは健康と安全に関する規制、産業に対する規制、反トラスト訴訟に関する自由市場哲学の有害な影響についても詳細に研究している。そして、アップルバウムは自由市場に対する妄信によって少数に富が集中する結果をもたらしたと結論付けた。『経済学者たちの時間』では、経済哲学に関する徹底的に研究された、包括的な、批判的説明がなされている。本書は半世紀にわたり政策を支配してきた経済学哲学を強力に告発している書である。

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アラン・グリーンスパン

(貼り付け終わり)
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経済学という人類を不幸にした学問: 人類を不幸にする巨大なインチキ(終わり)
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アメリカ政治の秘密
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ハーヴァード大学の秘密 日本人が知らない世界一の名門の裏側
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 古村治彦です。

 今回は、ミルトン・フリードマンの理論が間違っていたという内容の記事を紹介する。フリードマンの理論とは「シェアホルダー[株主]優先理論(shareholder theory)」で、下に紹介している記事では「CEOは株主に雇用されている『被雇用者』であるので、CEOは株主の利益のために行動する義務がある」という内容だと書いている。CEOはお金を出している(資本を投資している)株主の利益(配当)を最大化するために行動する、というもので、私たちからすれば「何を当たり前のことを仰々しく理論などと言うのか、馬鹿らしい」ということになる。
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 一方に存在するのは「ステイクホルダー[利害関係者]優先理論(stakeholder theory)」である。これは企業、経営陣は株主の利益の最大化を最優先するのではなく、従業員、顧客、市民など、企業と関係を持つ人々の利器を最大化するべきだというものだ。慈善事業や社会的に意義のある活動にも資金を出すというようなことである。

 1970年代からアメリカの市場原理主義の中でシェアホルダー理論が主流であったが、ここのところステイクホルダー理論が注目されるようになっているようだ。

 市場原理主義のアメリカで「ステイクホルダー理論」が影響力を増しているというのは、アメリカでそして経済の分野で何かが起きていることを示す。市場を崇拝してばかりでは、経済はうまくいかない、そもそも大企業になれば競争から逃れ独占を望み、それで労働者や消費者から搾取をして利益を最大化する、政府に対する影響力を行使してそのような独占を守るような方策を採るではないか、という批判が大きくなっている。下の記事では、「実際、巨大企業が自由市場の保護者であるという考えは極めて非現実的なものである。巨大企業とは我が国の市場経済という海の中に浮かぶ社会主義の島々ということになる」と書かれている。

 経済学に対する不信感をたどると、「科学(science、因果関係から法則を見つける行為)だと威張っていたが、そんなことはできず、宗教のドグマのように市場至上の教理を押し付けてきた」「経済学が自分たちの生活に脅威を与えてきた(リーマンショックからの経済不況など)」ということが挙げられる。経済学だけ、自然法則で人為よりも素晴らしいということにはならないということだ。そこの点を認めることが出発点ということになるだろう。

(貼り付けはじめ)

ミルトン・フリードマンの考えは間違っていた(Milton Friedman Was Wrong

―高名な経済学者の唱えた「シェアホルダー理論」は企業が消費者の諸権利と信頼を損なうための大き過ぎる余地を与えた

エリック・ポズナー筆(シカゴ大学法科大学院教授)

2019年9月22日

『ジ・アトランティック』誌

https://www.theatlantic.com/ideas/archive/2019/08/milton-friedman-shareholder-wrong/596545/

月曜日、各産業分野の大企業のCEO(最高経営責任者)で構成しているグループ「ビジネス・ラウンドテーブル」は、「企業の目的」について考えを変えると宣言した。その目的とは、株主たち(shareholders)の利益の最大化ではなく、被雇用者、顧客、市民を含む株主以外の「利害関係者たち(stakeholders)」の利益を追求するということだ。

今回の宣言は、大きな影響を持つが中身が不明確な企業責任理論(シェアホルダー[株主]優先理論)の否定ということになる。しかし、この新しい哲学(ステイクホルダー[利害関係者]優先理論)を提唱することになっても、企業の行動様式を変化させることはできないだろう。一般の人々の利益を追求するように企業に行動させる唯一の方法は、法的な規制に従わせることだ。

シェアホルダー理論は、シカゴ大学で教鞭をとった経済学者にしてノーベル経済学賞受賞者であるミルトン・フリードマンが生み出したものと一般には考えられている。1970年に『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された有名な論説の中で、フリードマンは、CEOは株主に雇用されている「被雇用者」であるので、CEOは株主の利益のために行動する義務があると主張した。その結果としてCEOは可能な限り最高の報酬を得ることができる、と主張した。フリードマンは、もしCEOが企業の資金を環境保護や貧困対策プログラムに寄付するということになると、その資金は、消費者たち(より高い価格を通じて)、労働者たち(より低い賃金を通じて)、株主たち(より低い配当を通じて)から奪い取られたもので、そうしたお金をCEOが寄付していることに過ぎないと指摘した。CEOは他人に対して「税金」を課し、集めたお金を彼もしくは彼女の専門外の社会的な大義のために使っているだけのことだ、ということになる。それならば、消費者、労働者、投資家たちに本来自分が手にするべきお金を使って、自分が望む慈善事業への寄付をしてもらう方がより良いことだということになる。

フリードマンのシェアホルダー理論は広く受け入れられている。それは、シェアホルダー理論によって、企業は難しい道徳上の選択を行うことを免れ、利益を上げている限りは人々からの批判から企業が守られることになるからだ。同時に、CEOたちは、「公共の責任について考えない」という主張を否定したが、強い怒りの対象となっていた。確かに、1970年の時点で彼らは怒りの対象であった。そして、ウォール街は企業の利益のみを追求するという姿勢を貫いていた。

しかし、フリードマンの主張には1970年の時点でも読者たちにも明白に分かったであろう矛盾を抱え込んでいた。フリードマンは、経営陣が賃金と物価の統制を支持していることについて非難した。後にリチャード・ニクソン大統領はこの政策を実施した。フリードマンは、賃金と物価の統制は経済を損なうだろうと確信していた。従って、経営陣は「かなり遠くの将来のことを見通すことができ、自分たちのビジネスについて明確な思考もできる」のに、公的な問題になると「途端に極めて近視眼的かつ混乱した思考」をするようになるとフリードマンは主張した。

しかし、経営陣の心理についてのこのような疑わしい理論など使わなくても、もっと単純に説明することができる。経営者の多くは賃金と物価の統制は、労働コストやそのほかの資源の投入に関わるコストを低く抑えることで当然の結果として、彼らのビジネスの利益に貢献すると認識していた。また、彼らの行動によって経済全体にマイナスな結果が生じることが起きるかどうかについて全く関心を持たなかった。

フリードマンはこの可能性について気づくべきだったし、おそらく気づいていただろう。既存のビジネスは競争をなくすことで最大の利益を生み出すことになる。そのための効果が実証済みの方法は、新しい企業が市場に参入することを阻止する法律を成立させるように政府に働きかけることであり、もしくは競争によるコストを引き下げることである。そして、ビジネスの目的が、フリードマンが主張しているように「利益を増大させる」ことであるならば、ビジネス界がその政治的影響力を使ってフリードマンが称賛している自由市場をなくすようにすることが、「明確な思考に基づいた」、正当化される方法ということになる。

実際、巨大企業が自由市場の保護者であるという考えは極めて非現実的なものである。巨大企業とは我が国の市場経済という海の中に浮かぶ社会主義の島々ということになる。つまり、巨大企業はその巨大性によって消費者と労働者にとって利益となる競争から守られている。製品と労働の市場が独占状態になっている中で資本を投資した人々が利益を上げるということになれば、CEOとしては投資家たちに協力するのは願ったりかなったりということになる。

フリードマン流のビジネスが利益を最大化するためのありふれた方法が他に様々に存在する。ビジネスマンたちは(フェイスブックと同様)、消費者たちのプライヴァシーを尊重するという約束を破ることができる。ビジネスマンたちは(ツイッターとグーグルと同様)、ヘイトスピーチの伝達を促進することで広告収入を生み出すことができる。ビジネスマンたちは(エクソンがそうであったように)、気候変動に関する研究に反対する宣伝活動を行うことができる。ビジネスマンたちは(ジミー・ジョンズと同様)、非熟練労働者たちが低賃金の仕事から離れないように違法な契約条件を使うことができる。ビジネスマンたちは(タバコ会社と現在のテック企業と同様)、子供たち向けの中毒性の高い製品を売り込み、(パデュー・ファーマと同様)麻薬中毒の人々を生み出すことができる。ビジネスマンたちは企業によるロビー活動に関与することができる。フリードマンの理論に関する最大の問題は、フリードマンの理論によると、各企業は連邦議会に対する影響力を利用して各企業が人々に対して不都合なことを行わないようにするための法律を可決することを阻止する、ということだ。

フリードマンは経営陣が株主たちの被雇用者であるという主張は正しくない。法律的に見て、経営陣は企業の被雇用者である。企業を監督するには株主ではなく、経営陣の存在が必須だ。株主は企業とは契約に基づいた関係を持っている。株主は契約に基づいて企業が上げた利益を受け取り、企業の重要な決定について投票する権利を持つ。株主たちが企業に対して社会的に責任のある行動をとるように提案するときには、CEOたちはいつも自分たちが持つ企業に対する力を使って株主を遠ざけてきた。雇用者が被雇用者に「ジャンプせよ」と言えば、その被雇用者はジャンプするものだ。株主たちが最高経営責任者に「ジャンプせよ」と言えば、最高経営責任者は株主たちを裁判所に訴えることだろう。

フリードマンの最大の主張は、実業界のリーダーたちは企業の資金を公共のために使用することを決定できるだけの資格がないとしている点だ。「ステイクホルダー」理論への転換があってもそれで企業が責任感を持って行動することを保証することはできないというのにこのことが理由となる。企業に環境汚染、詐欺行為、独占化させないための効果が実証されている唯一の方法は法律を通じてそのような行為を行った企業を罰することである。

※エリック・ポズナーはシカゴ大学法科大学院教授である。

(貼り付け終わり)
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ハーヴァード大学の秘密 日本人が知らない世界一の名門の裏側
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