古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:織田信長





アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




 古村治彦です。

 今回は、2015年12月17日に発売になります、 副島隆彦著『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(PHP研究所)をご紹介します。日本の歴史において人気のある分野である戦国時代の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に関して、歴史の定説を覆す、副島隆彦の歴史論となっています。年末年始の読書に最適の1冊です。宜しくお願い申し上げます。

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 はじめに

 

 日本の戦国時代について、これがより大きな見方からの真実だろう、と自分が確信したことをこの本に書く。

 

 信長、秀吉、家康の3人が主従(親分と子分)として生きた時代は、合わせて50年間である。わずか50年なのだ。

 

 ・桶狭間の闘い(1560年5月)、・本能寺の変(1582年6月)、・関ヶ原の戦い(1600年9月)で、合計50年間だ。日本の戦国時代(の後半)のハイライトは、この3つだ。日本人にとって長年そういうことになっている。この共通理解(土台)に私も乗る。桶狭間の奇襲(1560年5月19日)の時、信長は26歳だった。秀吉は2歳下だから24歳だった。家康(松平元康、世良田元信)は、信長より8歳下で18歳だった。

 

 私は今62歳だから、もう50年間(半世紀)を自覚的に生きた。日本の戦国時代を代表する軍事権力者3人が輝いていたのは、今から約500年前のたった50年間のことだ。日本の戦国時代がどんなに激しい動乱の時代だったと言っても、僅か50年間のことだ。

 

 私は、これまで、きっとこれが真実だ、と自分で吟味(審査)して、こっちが真実だろうと判定したことしか本に書かない、という態度で生きてきた。

 

 私は虚偽の言論が世の中に平気でまかり通っていると、我慢できなくなる。どうしても“真実の暴き言論”の爆弾投下を行いたくなる。

 

 日本の戦国時代の歴史の定説、通説にも多くのウソ(虚偽)がある。最近また「戦国もの」の真実への関心が起きている。この論戦に私が参加しないわけにはゆかない。自分が持っている“真実暴き刀”を持ち出して、このケンカの中に私は飛び込んでゆく。

 

副島隆彦

 

 

=====

 

はじめに

 

第1章 現代に伝わる「徳川家康像」はウソの塊

 

清洲会議に仕組まれた戦国武将たちの野望 14

三大事件を一つに繋いでこそ真実が浮かび上がる 18

バテレン以外に信長を殺せる者はいなかった 22

なぜ「明智本」はあと一押しの真実に踏み込まないのか 28

摩り替わり説を決して認めない史実捏造派 34

戦国時代の真実を塗り替える決定的文章 37

もはや禁圧するしかなかったキリスト教の恐怖 42

 

第2章 山崎の合戦で明智光秀はなぜ敗北したのか

 

「明智本」から発見できる戦国時代の真実 48

光秀の書状が書き換えられた理由 52

なぜ「キリスト教の日本侵略」のテーマがタブーだったのか 55

 

第3章 信長を爆殺した本能寺の変の真相 

 

フロイスの信長への好意的な人物評 64

大男の黒坊主・彌助とはどんな人物か? 68

不倶戴天の本当の意味を考えない知識人 71

「不寝の番」の侍たちが油断した隙に爆殺を実行 73

「明智本」が取り逃がしている巨大な敵 77

秀吉が本能寺を移したのはなぜか 80

証拠隠滅のために光秀の殺害を命令 83

「変」の命令者に気づいた秀吉がとった行動 88

あまりにも不自然な信長の最期の言葉 92

南蛮寺から放たれた大砲を見抜いた八切止夫 96

なぜ光秀は真犯人に仕立てられて殺されたのか 100

 

第4章 信長が見抜いたキリスト教の虚偽とは          

 

わずか二年しか布教しなかったザビエル 106

裏で動く特別な才能を持つ細川藤孝の真骨頂 109

義昭をあっさり見捨てて信長に付く 112

僧侶の腐敗と堕落に怒り心頭に発した信長 115

 

5章 信長暗殺計画を秀吉と家康は知っていた

 

光秀を生きたまま連れ帰った忍者・水野忠重 120

やはり明智憲三郎説には無理がある 124

犯行を隠すために捏造情報を広めたバテレン 128

秀吉の隠れ子分だった“毛利の外交僧” 132

信長と同じ危険に気づいてバテレン弾圧を始める 135

光秀の句をもとにした定説のバカらしさ 138

「四国攻め阻止説」も事実隠蔽のためだった 142

裏付ける根拠がない「唐入り阻止説」 145

 

6章 地球儀から日本征服を見抜いた信長の眼力

 

地球儀を献上したことで失敗したバテレンの征服計画 148

気づかれたからには信長を殺すしかない 152

兼見日記の改作、削除は何を意味するのか 156

次第に孤立する光秀の周りで何が起こっていたのか 161

 

7章 秀吉、家康、藤孝の「三人の密約説」は成立しない

 

家康のおかげで処罰を免れた細川ガラシャ 166

どうしても三人密約による共同犯罪にしたいわけとは 168

秀吉の“股肱の臣”の筆頭だった加藤清正 173

 

8章 呪われた江戸城の家康重臣たちのその後

 

家光の生母が春日局であるという事実 180

尊王勢力を打ち破って綱吉を継嗣にした力とは 182

「三ざる」は家康摩り替えの緘口令だった 189

 

9章 信長の「天下人」が始動する桶狭間の戦い

 

今川義元の本陣の横っ腹を突いた信長軍 196

両軍が衝突した場所は今も判然としていない 202

「天下人」の天下とは何を指すのか? 204

 

10章 戦の天才武将たちを破っていく信長の力

 

新家康は伊賀者だという事実 212

川中島の合戦で歴史に名高い大激突 216

 

11章 洋式大砲が勝負を決めた関ヶ原の戦い

 

家康はなぜ自信を持って進撃できたのか 222

一五万人の合戦でも、実際に戦ったのは一〇分の一 230

命がけで戦う兵は一大名当たり二〇〇〇人くらい 234

三成は三キロ先の小早川の陣まで見渡せたはず 237

家康を強気かつ大胆にさせた秘密とは何か 241

本陣を移した最大の理由は、アダムズの洋式大砲の存在 246

確固たる集団指導体制は秘密の共有にあった 250

『史疑』に連綿と書かれた徳川家康の新実話 255

 

12章 新時代のまさに嚆矢となった洋式の巨砲

 

実際に関ヶ原の現地を確認して分かったこと 262

三成挙兵の報が届いても態度を変えなかった家康 265

ウイリアム・アダムズから得た重大な知識 268

アダムズの世界最新鋭の大砲が天下を分けた 272

キャノン砲の威力に驚き寝返った小早川 277

戦国時代の終わりを告げたもの 280

 

おわりに

 

 

=====

 

 おわりに

 

 これで私の「真実の信長、家康」を書き上げた。

 

 日本の戦国時代(西暦で1500年代)についての私なりの歴史の全体概観がこれで出来た。鬼才・八切止夫の業績の復権、復活を誓いながら。

 

 私はいつも、ものごとを大きく全体像で捉まえる、という考え方をする。そのために評論家業をやっている。

 

 知識や学問や思考の過程がたどる道というのは、常にそのようなより大きな広々とした高みに至る、ということを目指す。これができない者は相当に頭のいい人とは、どうせ言われない。かつ、この作業は自分勝手な偏った考えであってはならない。証拠(史料、文献、証言、諸事実)を提示しなければいけない。

 

 Truth  is  mightier  than  power.  (トルース・イズ・マイティアー・ザン・パウア)

「真実は権力よりも強い」 はずなのである。しかし隠され、押し潰され、闇に葬むられたままの真実も多い。その理由は、事件から450年も経った今の今でも、真実が明らかにされることが不都合な人々がいるからだ。それらの真実は、ごく少数の堅い決意と志を持った者たちによって、無念に満ちた地底から掘り起こし救い出されるべきものである。恨みを呑んで死んでいった者達の怨霊が私たちのまわりの中空を今も舞っている。

 

 この本を書くために、私は桶狭間、京都の真実の本能寺跡、松平郷、上州(群馬県)世良田村、清州城、岐阜城、関ヶ原、駿府城などに行った。現地に行って事件の現場を歩き回って考える必要がどうしてもある。現地に行くと多くの収穫が有る。眼に見えないはずのものが見えてくる。調査旅行の幾つかに同行してくれて、この本が完成するのを辛抱強く待ってくれたPHP研究所の大久保龍也氏に感謝申し上げる。

 

平成二十七年十二月

副島隆彦

 

(終わり)









野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23


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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23



 古村治彦です。

 

 先日、話題になっている明智憲三郎著『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社、2014年)を読みました。私の師である副島隆彦先生、仲間の多くも本書を読んで色々と話をしていたので、乗り遅れないためにも読みました。読んでみたら大変面白い内容でした。


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 著者の明智憲三郎氏は、本能寺の変(1582年)で主人公、明智光秀の子孫で、長年大手電機メーカーに勤務しながら、本能寺の変やその周辺時代のことを独自に研究されてきたそうです。そして、その研究の成果がこの『本能寺の変 431年目の真実』ということになります。著者の明智氏は、自分の研究手法を「歴史捜査」と名付け、資料に徹底的に当たりながら、矛盾点や解釈のおかしな点を洗い出し、より自然な史料解釈を行っています。

 

 本能寺の変と言えば、天下統一に向けてまい進していた織田信長が重臣の一人だった明智光秀に滞在先の京都の本能寺を急襲され殺害された事件です。その後、当時、中国地方の雄・毛利氏攻めをしていた羽柴(豊臣)秀吉が「中国大返し」と呼ばれる、短期間での帰還を果たし、山崎の戦で明智軍を撃破し、明智光秀は居城の坂本城への退却途中に、落ち武者狩りの農民に殺害されました。

 

 「三日天下」という言葉や、信長が最後に「敦盛」を舞って自害するというドラマのシーンを通じて本能寺の変は日本人の多くに知られている事件であると思います。この事件で天下統一の主導権は羽柴秀吉に移った訳ですが、「本能寺の変が起こらなかった、もしくは失敗していたら、織田信長はどのように天下統一を果たし、日本をどんな国にしたのだろうか」ということを歴史好きの方々は空想を巡らせたことがあるのではないかと思います。

 

 私は師である副島隆彦先生と電話で話している時に、本能寺の変について知っていることを話してみるように言われ、知っていること、覚えている限りのことを話したところ、「良く知っている方じゃないか」と言われました。後で、この『本能寺の変 431年目の真実』を読んでみたところ、明智氏が挙げている「定説」を副島先生に話していたことが分かりました。

 

 明智氏はこの「定説」に挑戦しています。詳しくは是非読んでいただきたいと思います。このブログでは、私が気になった点を幾つかご紹介したいと思います。

 

 乱暴に大づかみなことを言うと、「織田信長は武田勝頼を滅ぼし、信濃と甲斐まで勢力を伸ばした。この機に乗じて、これからの天下統一、そして織田家政権の存続にとって邪魔になるであろう徳川家康を暗殺しようとした。その企てに明智光秀を引きいれた。しかし、明智光秀はこの機会を逆に利用して、信長を暗殺しようとした。その理由は深いつながりがある四国の長宗我部を助けること、そして、信長がイエズス会から聞いたスペインによるコンキスタドーレに感化されて温めていた、唐入りを阻止することであった」というのが、本書の主張となります。

 

私がまず驚いたのは以下の点です。明智光秀の重臣・斎藤利三(大奥制度を整備し、三代将軍徳川家光の養育係となった春日局・ふくの父親)と四国の英雄・長宗我部氏のとの間に深い宴席関係があったことは初耳でした。そして、信長の長宗我部討伐の意向が、明智光秀(長宗我部と信長をつなぐ「取次」役)と長宗我部に大きな危機感を与えたことが、信長に対する謀反を決行する一つの理由になったと著者の明智氏はしています。

 

次に驚いたのは、織田信長は、イエズス会からスペインのコンキスタドールの話を聞いて、「唐入り(朝鮮半島と中国への侵略)」を思いついたと明智氏という主張です。この唐入りという途方もない、そして成功の確率が低い作戦に明智光秀は「ついていけない」と考えたのは自然だと思います。自分が属する、土岐氏の栄光を復活させ、平和に暮らしたい、そのために織田信長に人生を賭けてそれが成功しつつあるというのに、そこからもっと苦しく、恐らく無残な失敗に終わるであろう(慶長・文禄の役でそれは証明されました)唐入りなんてさせられたら、と思えば絶望感が襲ってきたことでしょう。なるほどと思わされた主張です。

 

 著者の明智氏は、織田信長がイエズス会に好意的であったために、日本にいるイエズス会側も織田信長に対して好意的であったという主張をしています。イエズス会は、信長にアフリカから連れて来られた黒人奴隷(黒坊主という記述もあり、使役されるだけの奴隷ではないと思います)を献上しています。信長はこの奴隷を気に入り、彌助と名付けて、小姓として自分の身辺に置いています。彌助は本能寺の変にも遭遇し、本能寺から脱出を許され、二条城に行き、信長の長男。信忠のために奮戦しているところを明智軍に捕えられましたが、南蛮寺に送られたということになっています。この彌助が証言したことで、信長の最期の様子が伝っているのです。その後の行方は分かっていません。

 

 この彌助(黒坊主とも呼ばれているのでもしかしたらイエズス会の会士であったかもしれません)の存在がどうも重要だと思われます。彌助は日本語もできたそうですし、信長の身辺にいつもいた訳ですから、様々な最高機密情報をイエズス会にもたらしていたでしょうし、信長にも色々な情報をもたらしていたと思います。彌助を使えば、信長をある方向に誘導することは可能なのではないかと考えます。

 

 ついでに、明智光秀と細川藤孝(細川幽斉)の関係も重要だと思います。明智光秀が細川藤孝の足軽から身を興したこと、細川藤孝の息子・忠興と明智光秀の娘・珠(ガラシャ)が結婚していることから、明智と細川は深い関係にあったと言えます。しかし、細川は本能寺の変後、明智光秀に従っていません。これはどうしたことでしょうか。織田政権では、細川と明智は身分として逆転しています。昔の主人であった細川が明智の下風に立つという感じになっています。ここのところが一つの原因でしょうか。

 

 また、細川氏とイエズス会の関係も気になるところです。細川ガラシャの存在が重要なのだろうとは思います。ここのところはまだ考えがうまくまとまっていません。

 

 本書『本能寺の変 431年目の真実』を読んで色々なことを考え、また空想を巡らせることができました。それは個人としては大変楽しい経験でありました。

 

 「日本は国土が狭く、地形的に守りにくい」ということに初めて気づいたのが織田信長なのではないかと私は考えます。ポルトガルやスペインの戦艦を見て、「こんな船ができてしまって、それに大砲まで備え付けられている。これでは沿岸部を守ることはできない。そして、こんな優勢な武器を持っている敵にひとたび上陸を許せば、国土全部を制圧されないにしても、貿易に必要な港湾は全て押さえられてしまう。それでは国が立ちいかない」と考えたのではないかと思います。そこで「攻撃は最大の防御」ということに思い至ったのではないかと考えます。

 

 織田信長を取り扱った小説を読みと、父・信秀の教えとして「国境を一歩でも踏み出て戦をすべし」ということを守り、桶狭間の戦いのときに籠城論を唱える重臣たちをこの教えを持って叱正しています。織田信長は「攻撃は最大の防御」という考えを堅持していたと言えます。そこに、イエズス会からコンキスタドーレの話を聞いたとなると、「狭い日本にいても仕方がない、もっと広い大陸に出なくては。今の日本の軍事力(武器を洗練させ、訓練も多く積んでいる)ならいけるのではないか」と考えたのだろうと思います。

 

 しかし、周囲はついていけなかった。日本国内の天下統一で良しとしましょうという雰囲気があったのではないかと思います。また、イエズス会は信長を利用しようとしたのではないかと思います。その当時の中国は世界最高の国であって、恐らくヨーロッパの軍事力をもってしても征服などということはできないということは分かっていたと思います。そこで、中国の力がどれほどのものか、その実力を測定するために、信長にコンキスタドーレの話をし、唐入りを着想させたのではないかなんて考えてしまいます。

 

 夏休みの読書計画の中に加えても損はしない一冊です。

 

(終わり)












 

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