古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:自由主義

 古村治彦です。

 「自由主義は衰退しているのか」という問題は大きな問題であり、ここで簡単に答えが出るものではない。「もうダメだ」という人もいるし、「いやいや信じよう」という人もいる。今回紹介するパトリック・デニーンは「自由主義は衰退している」という考えを主張している。そして、これに対して、書評を掲載している『エコノミスト』誌はそうではない、と主張している。ドナルド・トランプが大統領選挙に当選して大統領を務めた期間、このような論争が数多く行われた。そもそも、自由主義や保守主義といった言葉の定義がとても難しい。

 アメリカでは自由主義が衰退しているということを示すような事例が数多く起きている。そのために先行きに悲観的になっている人たちも多くいるようだ。アメリカでリベラルと言えば、現在では左派の進歩主義派を指す。これに対して、嫌悪感を示す保守主義派もいる。

 しかし、問題は、アメリカ国民の人権や自由が脅かされているという現実だ。手前味噌で申し訳ないが、『』(ジョシュ・ホウリー著、古村治彦訳、徳間書店)の中で、アメリカ連邦上院議員であるジョシュ・ホウリーは、なぜビッグテック(フェイスブック、ツイッター、アマゾン、グーグル、マイクロソフト、ネットフリックスなど)と戦うのか、ということについて、アメリカが共和国であり続けることを守り、人々の自由と権利を擁護するためだとしている。私たちが便利に使っている道具が私たちの自由や権利を侵害しているのが現状だ。そのために、アメリカの共和制と民主政治体制が脅かされているのである。

 少し古い記事で恐縮だが、大きな流れとして、「自由主義が衰退している」ということは、生活の実感としてある。そして、そのことを私たちは警戒感を持って受け入れねばならない。

(貼り付けはじめ)

自由主義は過去400年間で最も成功した思想である(Liberalism is the most successful idea of the past 400 years

しかし「その最盛期は過ぎ去ってしまった」というのがある最新刊の主張だ。

『エコノミスト』誌

2018年1月27日Jan 27th 2018

https://www.economist.com/books-and-arts/2018/01/27/liberalism-is-the-most-successful-idea-of-the-past-400-years?fsrc=scn/fb/te/bl/ed/liberalismisthemostsuccessfulideaofthepast400yearsacalltoarms

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●『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(パトリック・デニーン著、角敦子訳、原書房、2019年)

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●Why Liberalism Failed. By Patrick Deneen. Yale University Press; 248 pages; $30 and £30.

 

過去4世紀の間、自由主義(liberalism)は成功を収め、敵全てを戦場から追い落とした。ノートルダム大学の政治学教授パトリック・デニーン(Patrick Deneen)は、現在、自由主義の崩壊は、傲慢さと内部矛盾が入り混じったものになっていると主張している。

自由主義の黄昏の日々の残骸は、いたるところで見ることができるが、デニーン教授が注目しているアメリカではその傾向が顕著だ。自由主義の創始者の信条は粉々にされている。機会の平等は、高貴な者たちの責務(noblesse oblige)という考えを持つ古い貴族制度から超然としている実力主義の貴族制度を生み出した。民主政治体制(democracy)は、滑稽な劇場へと堕落してしまった。技術の進歩によって、より多くの分野の仕事を無意味な雑用に変化させた。デニーンは、「自由主義の主張と市民の生きている現実との間のギャップ」は、今や「もはや受け入れられない嘘」ほどに大きくなっていると書いている。それを証明するのは、1000機の自家用ジェットがダヴォス会議に参加し、「分断された世界で共有される未来を創造する」という問題について議論している姿ではないだろうか?

デニーン氏は「自由主義(liberalism)」という用語を、一般的な意味ではなく、哲学的な意味で使っている。デニーンは、トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)やジョン・ロック(John Locke)に代表される政治理論の偉大な伝統について言及しており、現在アメリカ人がこの言葉から連想する漠然とした左派的な態度のことではない。しかし、彼の最新作は哲学の分野の成果を再び持ち出して、繰り返したものではない。政治理論家のほとんどは、自由主義が2つの独立した流れに分かれていると主張している。一つ目は、自由市場を賛美する古典的自由主義(classical liberalism)と、公民権を賛美する左派自由主義(left-liberalism)だ。デニーンにとって、それらは根本的な統一性を持っている。ほとんどの政治理論家たちは、自由主義のあり方についての議論は自分とは関係ないと考えている。デニーンは、自由主義は支配の哲学(ruling philosophy)であり、裁判所の判決から企業の行動まで全てを決定するものだと主張している。理論は実践である(Theory is practice)。

根本的な統一性の根底にあるのは、個人の自己表現だ。古典的自由主義者も左派自由主義者も、「人間は権利を持つ個人であり、夢を実現するためにできるだけ多くのスペースが与えられるべきだ」と考えている。政府の目的は、権利を擁護することだ。このシステムの正当性は、同意した大人の間の「社会契約(social contract)」に対する共通の信念に基づいている。しかし、これには逆説(paradox)が生じさせる。自由主義的な精神は、あるときは市場の効率性(market efficiency)の名の下に、またあるときは個人の諸権利(individual rights)の名の下に、継承された慣習(inherited customs)や地域の伝統(local traditions)を機械的に破壊する。その結果として、市場の創設者(market maker)として、また法の執行者(law-enforcer)としての国家の拡大の余地が生まれる。ホッブズの著作『リヴァイアサン』の表紙には、主権者である君主に立ち向かう何千もの原子化された個人が描かれており、現代の自由主義を完璧に表現している。

デニーンは自分の主張をうまく主張しているが、繰り返しが説得力につながると勘違いしているところもある。近代的な自由主義が登場する以前の哲学者たちは、自由とは自己表現(self-expression)ではなく自己修養(self-mastery)であり、快楽主義的な欲望(hedonistic desires)を満足させるのではなく、それを克服すること(indulgence)だと考えていたことを読者に主張している。デニーンの著作は、横行する商業主義に対する左派の不満や、自己愛の強いいじめられっ子の学生に対する右派の不満、さらには原子化や利己主義に対する一般的な懸念など、現在の幻滅の雰囲気を見事に捉えている。しかし、これら全てが自由主義の失敗に帰結すると結論づけたとき、彼の主張に説得力があるだろうか?

彼の著作には2つの致命的な誤りがある。一つ目は、自由主義の定義についてだ。アメリカ人学者JH・へクスターは、アメリカの歴史学者たちは2つの陣営に分かれていると確信している。一つ目は、「細分主義派(splitters)」(永続的に分類を行い続ける)であり、二つ目は、「非細分主義派(lumpers)」(物事をひとまとめにすることで一般化し続ける)だ。デニーンは過度に非細分主義的だ。彼は、自由主義の本質は個人を制約から解放することにあると主張している。

実際のところ、自由主義には、幅広い知的伝統が含まれており、権利と責任、個人の表現と社会的な結びつきの相対的な主張をどのように交換するかという問題に対して、いくつもの異なる答えを提供している。個人の自由への制約を取り除くことに最もこだわっている古典的自由主義者たちでさえ、原子化について苦悩している。ヴィクトリア朝中期の人たち(19世紀の半ばの人たち)は偉大な機構創設者たちだ。自発的な組織から株式会社まで全てを創設した。19世紀のイギリスの政治家ロバート・ロウの言葉を借りれば、「小さな共和国群(little republics)」ということだ。これらは、国家と社会との間のスペースを埋めるために設計されたものだった。後の自由主義者たちは、中央からの権限委譲や国民教育制度の創設など、さまざまな試みを行った。

デニーンが自由主義の本質にこだわることは、彼の本の2つ目の大きな問題につながる。彼は、自由主義が自らを改革し、内部の問題に対処する能力があることを認識していない。19世紀後半のアメリカは、ビジネス貴族の誕生、巨大企業の台頭、政治腐敗、社会が勝者と敗者に分かれることなど、現代にも通じる多くの問題を抱えていた。しかし、自由主義的な伝統の中で、多くの改革者たちが、これらの問題に正面から取り組んだ。セオドア・ルーズヴェルトは独占に対抗した。進歩主義派は政府の汚職を一掃した。大学の改革者たちは、学術的なシラバスを近代化し、機会に向かう梯子を築いた。自由主義は死滅するのではなく、自らを改革していった(Rather than dying, liberalism reformed itself)。

デニーンが、近年の自由主義の記録が悲惨なものであると指摘しているが、これは正しい。また、前近代的な「自由」の概念である「自己修養(self-mastery)」や「自己否定(self-denial)」から世界が学ぶべきことが多いと主張しているのも正しい。自由主義にとっての最大の敵は、原子化ではなく、昔ながらの貪欲(greed)である。ダヴォス会議のエリートたちは、役得やストックオプションで皿をますます高く積み上げる。しかし、人々が自由主義の矛盾(contradictions)から解放される唯一の方法が「自由主義そのものからの解放」であると主張するのは間違っている。『リベラリズムはなぜ失敗したのか』を読むための最善の方法は、弔辞(funeral oration)としてではなく、行動を起こすための呼びかけとして読むことだ。自分の生活を向上させろ、ということだ。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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ビッグテック5社を解体せよ

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 

 今回は南米を代表する作家マリオ・ヴァルガス・リョサに関する記事をご紹介します。リョサは、ガルシア・マルケスと並んでラテンアメリカ文学を代表する作家です。ノーベル文学賞を受賞しています。

 

 私はリョサの作品を恥ずかしいことにほぼ読んだことがなくて、The Storytellerという作品だけ読んだことがあります。日本語では『密林の語り部』という題で翻訳も出ているそうです。ペルーに住むユダヤ人がある部族の神話の語り部になるという話で、不思議な内容だったことは覚えています。幻想的でもあり、現実的でもあり、現代的だなぁという印象です。

 

 さて、リョサは現在、スペインで暮らしています。南米の知識人としては珍しくというと語弊がありますが、彼は自由主義を信奉しているそうです。しかし、リョサの考える自由主義は市場至上主義に還元されるものではありません。共産主義や実存主義に傾倒した若い時代を経て、リョサはイギリスの伝統的な自由主義を現在は信奉しているようです。記事の中では、「経済、政治、文化の自由である。この自由は分割不可能であるとリョサは考えている。また、不同意に対する寛容さと機会の平等、教育の重要性をリョサは支持している」と書かれています。もちろん、市場も重要な要素であることは認めています。

 

 自由と平等は、両立が難しいものです。しかし、どちらかにあまりにも偏ってしまう社会は生きづらいものとなるでしょう。人類の歴史はどちらかに偏って、それを是正するための動きが生まれ、その動きが行き過ぎて、どちらかもう一方に偏ってしまうということの繰り返しであったということが言えるでしょう。

 

 この2つのバランスを絶妙に取ることが出来る思想や制度が生まれてくるまでは、飽き飽きしても、この2つの間を行ったり来たりしなければなりません。そして、できるだけバランスを取るということを考えねばなりません。これは非常に困難なことで、短気で飽き性の日本人には最も向かない作業と言えるでしょう。

 

(貼り付けはじめ)

 

マリオ・ヴァルガス・リョサがなぜ彼の政治観は変化したのかを説明した(Mario Vargas Llosa explains why his politics changed

―ある南米の自由主義者の告白

 

『エコノミスト』誌

2018年4月26日

https://www.economist.com/news/americas/21741201-latin-american-liberals-testament-mario-vargas-llosa-explains-why-his-politics-changed?fsrc=scn/fb/te/bl/ed/mariovargasllosaexplainswhyhispoliticschangedbello

 

小説家の全てが政治哲学の一連の著作を書く訳ではない。しかし、マリオ・ヴァルガス・リョサは小説的動物であると同時に政治的動物である。リョサは82歳になる時、『部族の叫び(The Call of the Tribe)』を出版した。リョサは『部族の叫び』を自身の知的な遍歴の描写だと述べた。若い時の共産主義と実存主義への浮気、キューバ革命に対しての熱情と幻滅、そして、イギリス的な意味での自由主義への転向、といった経験をした。 このような姿勢は南米の知識人の中でも特異なものだ。南米の知識人の多くはいまだに反帝国主義と社会主義に魅了されたままだ。

 

この本は7名の自由主義を信奉する哲学者たちの生涯と思想を説明したものとなっている。アダム・スミスの他に、カール・ポパーとアイザイア・バーリンがこの本では紹介されている。リョサは1970年代にロンドンで生活している時にこの2人に会っている。リョサはまた、マーガレット・サッチャーにも会っており、鮮烈な印象を受けた。その他に、フランスのレイモンド・アロンとスペインのホセ・オルテガ・イ・ガセットも含まれている。読者の中には、ジョン・スチュアート・ミルやジョン・ロールズが含まれていないことに疑問を持つ人たちがいるかもしれない。リョサは、マドリッドの自宅で応じたインタヴューの中で、この本は「自由主義の歴史」の本ではなく、「私に最大の印象を与えた思想家たちの個人的な説明」の本だと述べている。

 

読者にとって、『部族の叫び』は大学への喜ばしい帰還のような感じを受けることだろう。リョサは彼が英雄視している思想家たちの著作をほぼすべて読んでいる。リョサは思想家たちの思想を説明しているが、この説明は簡潔でかつバランスがとれたものだ。リョサは、思想家たちは間違いを犯していることもあると考えていると述べている。フリードリッヒ・フォン・ハイエクはチリの独裁者アウグスト・ピノチェトを称賛し、ポパーの文章は分かりにくく、オルテガは文化についてエリート主義的な見方をしている。リョサの本のタイトル『部族の叫び』はポパーにちなんでいる。ポパーは、個人の責任から自由になる集合的な世界が続く「部族の魂」をナショナリズムと狂信的な宗教の源と見なしていた。

 

リョサの考える自由主義は内部にいくつかの緊張をはらむものだ。リョサが新聞に掲載したコラムの中には、反国家的なリバータリアニズムについてのものや社会民主体制に関するものがある。著書『部族の叫び』の中で、リョサは自由主義の中核となる考えを強調している。それは、経済、政治、文化の自由である。この自由は分割不可能であるとリョサは考えている。また、不同意に対する寛容さと機会の平等、教育の重要性をリョサは支持している。リョサは、自由主義を自由市場に還元して単純化する人々に対して批判的だ。しかし、自由市場は自由主義にとって重要な要素である。リョサは、自由主義は反動的な保守主義と同一視されることで、罵倒され、捻じ曲げられていると主張している。自由主義は「最も進んだ、進歩的な民主政治体制の形態」である。

 

この自由主義に対する「無知」が起きるのは、南米で自由主義的な伝統が弱いことが理由である、とリョサは主張している。リョサはペルー出身である。その他の理由として、南米の深刻な格差、19世紀の自由主義者たちが「自由市場の存在を信じていなかった」という事実、ピノチェト支配のような独裁体制によって自由主義という言葉が誤用されていたことが挙げられる。

 

リョサは自由主義が南米で支持を集める「大きな機会」があると考えている。その理由は、軍事独裁からキューバやヴェネズエラの社会主義まで、自由主義と対抗している様々なイデオロギーが現実世界で完全に失敗しているからだとしている。リョサは「自由主義はユートピア的、社会主義的、集産主義的モデル」を破壊していると述べている。リョサは続けて次のように語る。「自分の国をヴェネズエラみたいにしたいと望む人はいるだろうか?正常な判断力を持つ人なら誰も望まない」。リョサは、ブラジルの建設会社オデブレヒトの汚職スキャンダルは、それが発覚することで「大きな貢献」をし、南米の汚職まみれの民主政治体制を浄化するのに役立つと考えている。

 

『部族の叫び』は思想が重要だということを訴えている。リョサは彼の信念を具体化しようとしている。1990年、リョサはペルーの大統領選挙に出馬した。これは非現実的な冒険で、アルベルト・フジモリの前に敗退した。フジモリは独裁的な支配を10年続けた。リョサはフジモリを心底嫌っている。しかし、リョサは次のように書いている。「私の今回の本でも取り上げられている、私たちが擁護している思想の多くは、現在のペリーの政治課題にとって重要である」。リョサは、バルセロナでのカタルーニャの分離独立主義に反対する集会で演説を行った。リョサはなぜ演説を行ったのかについて、「私たちが生きる現代にとっての最大の危険はナショナリズムだ」と語っている。ファシズムと共産主義が時代遅れになっているが、ナショナリズムは今でも活発で、「危機の時代に煽動家たちに利用されてしまう」ものとなっている。

 

自分のことを自由主義者と呼ぶ南米の人々の多くは実際には保守主義者か、リバータリアンだ。彼らは現状維持を尊び、代々伝えられている不正義や不正義を是正するための国家の行動に反対する。南米のその他の人々はポピュリズムや古い形の社会主義を今でも信奉している。リョサの本が重要である理由はこれである。リョサの本で紹介されている様々な思想家たちの自由主義に関する様々な考えを南米の大衆に魅力を感じさせることが本にとって重要なことになる。

 

(貼り付け終わり)

 

(終わり)


imanokyodaichuugokuwanihonjingatsukutta001

今の巨大中国は日本が作った


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真実の西郷隆盛
 

semarikurudaibourakutosensoushigekikeizai001

迫りくる大暴落と戦争〝刺激〟経済
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