古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:近衛文麿

 古村治彦です。

 

 副島隆彦先生の最新刊『副島隆彦の歴史再発掘』(ビジネス社、2018年12月18日)が発売となります。以下にまえがき、目次、あとがきを掲載いたします。参考にしていただき、手にとってご覧ください。よろしくお願いいたします。

soejimatakahikonorekishisaihakkutsu001

副島隆彦の歴史再発掘

 

(貼り付けはじめ)

 

まえがき

 

 歴史は、「ビッグデータ」である。人類(人間)の過去の出来事が蓄積された集蔵体(アーカイブ)である。今の流行(はやり)言葉で言えば「ビッグデータ」である。

 

 と書いてはみたが、私にはBig Data(ビッグデータ)の正確な意味が分からない。受けを狙って、こう 書いてみただけだ。

 

 初めから拍子抜けすることを書いて申し訳ない。私がこの「まえがき」を 1 カ月間どうしても書けなかった理由がある。それは、この本に詰め込んだ内容があまりに多岐に渡り、かつ歴史的に重要なことばかりだったからだ。その謎解き(解明作業)までを自分がひと つずつやったことへの自負心が有るので、何を書いたらよいか戸惑ってしまった。

 

 歴史は再発掘されるべきである。

 

 今も隠されたままになっている、大きな真実が土中に埋ずめられている。それらを敢えて掘り出して、白日の下に晒(さら)け出すことを、私は常に決意してきた。

 

 自分の能力の限りを盡 つく して、これが大きな真実だ、本当の話だ、と自分が納得したこと を書いて表に出す。

 

 故松本清張(まつもとせいちょう)の晩年の長い連載作品に「昭和史発掘」(週刊文春に連載。1964?1971年)がある。この歴史発掘という言葉に私は魅かれて、

これにあやかろうと思った。 それでこの本の書名になった。

 

副島隆彦

 

=====

 

まえがき ― 2

 

第1章 国家スパイが最尖端(スピアヘッド)で蠢(うごめ)く ― 7

 

第2章 外相 松岡洋右(まつおかようすけ)論  73

 

第3章 映画『沈黙―サイレンス』が 投げかけるもの  123

 

第4章 江戸の遊郭(ゆうかく) 、明治・大正の花街(かがい)はどういう世界であったか  151

 

第5章 『デヴィ・スカルノ回想記』からわかる インドネシア戦後政治の悲惨  197

 

第6章  邪馬台国(やまたいこく)はどこにあったのか、 最新の話題  239

 

あとがき ― 278

 

=====

 

あとがき

 

 この本の第1章「キム・フィルビー」は、イギリス映画「007」(シリーズ 24 作と番 外編2作)と深く関係している。「007」のストーリーの中に、現代世界史の隠された 大きな秘密が込められていた。それを、皆さんに、この本で掘り出して、鮮やかに種明かししてお見せした。

 

 第2章で、日本は、では何故、どのようにしてあの戦争に引きずり込まれていったのか。それを、私なりに大きく解明した。誰に、どんな勢力にあのとき日本は、操(あやつ)られ騙されて 嵌(は)められたのか。松岡洋右(ようすけ)外相こそは、昭和天皇に最も信頼されて、天皇の耳と口として、 ヨーロッパの主要国の首脳たちと渡り合った政治家である。昭和天皇と近衛文麿(このえふみまろ)首相と松 岡洋右外相は、どのような手口で謀略に陥れられて、そして第2次大戦(WW)に日本 は突入させられていったのか。

 

 戦前と戦後の2つを挟んで、ひと筋につながる恐るべき、大きな仕組まれた計略が確か に有った。

 

 何故、日本国はあのとき、抗(あらが)えない力に仕組まれて、大戦争にひきずり込まれていったのか。400万人の日本人が死んだ(殺された)。 再度書くが、あのとき昭和天皇裕仁(ひろひと)は、自分が最も信頼して使った松岡洋右外相と2人で、大きく騙された。首相の近衛文麿は、立派なお公家で藤原摂関家(せっかんけ)の筆頭の当主であるから「氏(うじ)の長者(ちょうじゃ)」である。何の歪みもない温厚な人物であった。近衛首相(敗戦後、服毒自殺)よりも松岡外相のほうが対外的には重要だった。昭和天皇と松岡洋右のふたりで日本の外交をやったのだ。

 

 何に? 誰たちに? どんな勢力に?

 

 私たちの日本国が騙された謎、にギリギリまで迫ることを、この本で私は果たした。私が示したこの解明作業の筋立(すじだて)よりも優れた理解があると言うなら、誰でもいいから見せて 下さい。

 

 終わりに。この本が出来るまでビジネス社大森勇輝編集長に大変お世話になった。記し て感謝します。こんなに苦労するとは思わなかった。

 

 2018年 12

 

 副島隆彦

 

(貼り付け終わり)

 

 よろしくお願いいたします。

 

soejimatakahikonorekishisaihakkutsu001

副島隆彦の歴史再発掘


(終わり)

アメリカ政治の秘密日本人が知らない世界支配の構造【電子書籍】[ 古村治彦 ]

価格:1,400円
(2018/3/9 10:43時点)
感想(0件)

ハーヴァード大学の秘密 日本人が知らない世界一の名門の裏側[本/雑誌] (単行本・ムック) / 古村治彦/著

価格:1,836円
(2018/4/13 10:12時点)
感想(0件)





このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 古村治彦です。

 


 今回は、大谷敬二郎著『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』(光人社
NF文庫、2014年)をご紹介します。1971年、図書出版社から出された本で、2014年に光人社NF文庫から再版されました。

 

 著者の大谷敬二郎は1897年生まれ、1919年に陸軍士官学校卒、1930年に憲兵に転科し、シンガポールやビルまでの勤務を経て、終戦時には東部憲兵司令官の地位にあった軍人です。岩畔豪雄という諜報・謀略型の軍人(陸軍中野学校の創設者であり、日米開戦回避交渉に参加、戦後は京都産業大学の創設にもかかわった)が、この大谷敬二郎が書いた本は事実をきちんと捉えて書いていると語っていたので、彼の本を読むことにしました。彼の著書『憲兵』は、憲兵とはどういう存在であったのかということを知る上で大変参考になる本です。

 


 『軍閥』の著者の大谷は、1968年に発見された近衛文麿の戦時中の日記『近衛日記』の中の、1943年から1944年ごろの重臣(総理大臣経験者で天皇からの諮問を受ける人々、最後の元老・西園寺公望が亡くなる前後から非公式に制度化された)の動きを読み、衝撃を受けて、本を書いたということです。

 

 重臣たちは、陸軍内に「赤(共産主義思想)」がはびこっており、その「赤い」陸軍を代表するのが統制派と呼ばれる軍人たちの一派であり、統制派を代表する軍人が東條英機であり、彼らは日本を困難な戦争に引きずり込んで、敗北まで導き、その敗北を契機として革命を起こし、国体を破壊しようとしていると考えていた、ということに大谷は衝撃を受けました。そして、そうした重臣たちの考えが具体化したのが、1945年2月14日に奏呈された日本の赤化を警告した近衛上奏文であり、近衛の考えと行動と軍の関係について、明らかにしたいとしてこの本を書いた、と大谷は述べています。

 

 大谷に言わせると、世にいう統制派、皇道派と呼ばれる派閥(軍の中の派閥で軍閥)というものは存在せず、2・26事件以降、軍における「革新」運動は存在しなかったということです。簡単に言ってしまえば、戦争をするのに忙しくて、戦争以外のことをやっている暇はなかったということです。

 

 確かに統帥権の独立と軍部大臣現役武官制度を使って軍は政治の鼻づらを引きずり回したということはありました。軍は「国防国家」を標榜し、その目標のために社会を改革することを志向しました。労働者の待遇改善や社会保障の充実はこの時期に達成されたものです。この社会改革は戦後まで生き残り、官僚が「参謀本部」のスタッフとなり、全ての面を牽引する「日本株式会社」となり、経済大国になることが出来ました。

 

 日本の高度経済成長の特徴は、国内における経済格差が大きくならなかったということです。中国など他国の例を見れば明らかですが、経済成長には貧富の格差が付き物です。日本の場合は、「不平等なき奇跡の経済成長(economic miracle without inequality)」を達成しました。それは、経済成長の恩恵にあずかれない部門に分配をするということで実現しました。当時のソ連の幹部が「日本は理想的な社会主義国だ」と語ったという話も残っています。軍の夢見た国防国家は皮肉にも戦後に実現したということが言えるでしょう。

 

 これに対して、資本家と重臣層は、軍と官僚(革新官僚)が主導してのこのような平等主義的な社会政策に危機感を持っていました。革命が起きて、国家体制が変革され、天皇の地位にまで影響がおよぶのではないかという危惧を持っていました。そして、その主体となるのが軍ではないのかという疑いを持っていました。

 

 近衛には、自分が組織した3度の内閣で、こと志と違い、日中戦争を停戦に導くことが出来ず、また日米開戦を許してしまったという悔悟がありました。そして、このように戦争を拡大させ、日本を破滅に導くのが軍だ、軍の中でも対支一撃論を唱えた統制派、永田鉄山が自分の内閣をダメにしたのだという不信と怒りが近衛にはありました。そして、永田たちとは異なり、中国とはすぐに停戦し、ソ連に備えるべきだという皇道派である小畑敏四郎たちに親近感を覚えることになります。皇道派は2・26事件後に一斉に退役させられたために、軍内での力を失います。こうした動きが尚更、近衛の統制派憎し、の感情を掻き立てることになります。

 

 永田と小畑は共に陸軍の俊英として鳴らし、岡村寧次と共に陸軍三羽烏と呼ばれた逸材でした。彼らは佐官級でヨーロッパ各国での勤務中であった1921年にドイツの保養地バーデン・バーデンに集まり、第一次世界大戦で明らかになった国家総動員体制の必要性を認め、軍の改革(脱長州閥優遇)を進め、国防国家体制の完成を目指すことを約束しました。これは「バーデン・バーデンの盟約(密約)」と呼ばれるものです。

 

 彼らはやがて日中戦争に関して考え方の違いで分裂していくことになりますが、国防国家体制の樹立という点で対立することはありませんでした。そうした点を本書『軍閥』の著者である大谷は強調していますし、憲兵の目から見て、陸軍内には強固な派閥のようなものは存在しなかったし、「赤い」陸軍は存在しなかったと述べています。

 

 私が気になったのは、重臣たちが東條内閣倒閣で動いた際の、内大臣である木戸幸一の動きです。木戸は、東條内閣成立を進言し、また、倒閣の際にも積極的には関与していません。しかし、東條内閣瓦解し、後継内閣の話になると、重臣たちや木戸はそろって、「戦争完遂内閣」の成立を求め、「和平内閣」の成立を訴えた人はいませんでした。サイパン失陥で本土防衛が事実上破綻しても、和平に転換できなかった訳です。朝鮮総督となっていた小磯国昭を次の首相にする訳ですが、予備役に回っていた元大将では軍を抑えることはできないし、彼自身に政治的な才覚は全くありませんでした。それならどうして東條内閣を倒したのか、ということになり、この点を著者である大谷は「不思議と言えば不思議」と書いています。

 

 本書『軍閥』は、近衛上奏文に対する反論の書ということになります。予備知識がないと読みにくい本ですが、昭和史を知る上では重要な本だと思います。

 

(終わり)






 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ