古村治彦の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:選挙

 古村治彦です。

 

 昨日、2016年4月24日に北海道第5区と京都第3区で衆議院議員補欠選挙が行われました。北海道では自民党の 京都では民進党の がそれぞれ当選しました。

 

 今年は夏に参議院議員の通常選挙が行われます。また、政界では、安倍晋三首相がそれに合わせて衆議院を解散して、いわゆる「ダブル選挙」を行うのではないかという話も出ています。ダブル選挙で勝利を収めた場合、政権基盤はますます強固になります。ですが、ダブル選挙となると与野党ともに準備が大変ですし、与党が敗北した場合には安倍首相の退陣にまで話が及ぶという危険もあり、大きな賭けとなります。

 

 1986年の衆参ダブル選挙では、公職選挙法改正もあって、「衆議院の解散はない」と当時の中曽根康弘内閣の後藤田正晴官房長官が「煙幕」を張っていたこともあり、「抜き打ち」解散によるダブル選挙が成功し、野党側は準備をしていなかった(民社党の春日一幸最高顧問は見抜いていたが執行部が油断していたという話もあります)ために、与党が圧勝し、派閥の規模が小さく、田中派の影響下にあった(田中曽根内閣と呼ばれた)、中曽根政権の基盤強化につながりました。

 

 話が飛んでしまいました。私は、選挙の結果と共に、両選挙区での投票率を見ていたのですが、北海道で約57%、京都で約30%いう結果になりました。北海道の結果を先に見て、「かなり注目された選挙だったけど、ちょっと低かったな」と思ったのですが、京都の結果を見て、大変驚きました。確かに補選が行われる理由が理由でしたし、自民党は候補者を出せないという状況ではありましたが、それでも30%そこそこ、あやうく30%を切ってしまうという数字でした。「プロ野球の打者だってもっと高い打率を残す選手がたくさんいるのに」と、野球好きなもので、思ったほどでした。

 

 この低投票率については、何も今回のことだけではなく、また、北海道や京都に限った話ではありません。これまでも多く目にしてきたことです。政治に参加することは、これまで人類の歴史において、多くの血が流された結果、獲得された権利ですから、それを行使すべきだということを声高に叫んでみても、それで投票率が上がるということは残念ながらありません。それは、私たちの中に「政治に参加する権利を人々が多大な犠牲を払いながら獲得したもの」という意識や、「自分が当事者である」という意識が欠如しているからだと思われます。

 

 このことについて、思い出されるのは、戦後日本政治学の泰斗であった丸山眞男(1914~1996年)です。丸山は、1944年に『国家学会雑誌』第58巻3・4号に「国民主義理論の形成」という論文を掲載しました。この時、東京帝国大学法学部助教授であった丸山は応召し、再び帰って来られないという気持ちを抱きながら、この論文を発表したといわれています。この論文は後に、「国民主義の『前期的』形成」と改題され、『日本政治思想史研究』(東京大学出版会、1952年/新装版:1983年)に収められました。また、法政大学教授・杉田敦編『丸山眞男コレクション』(平凡社ライブラリー、2010年)にも入っています。

 

 この論文で丸山は大略次のようなことを主張しています。かなり乱暴ですが、大まかにまとめます。

 

ある集団が国民となるには、国民意識が必要である。日本の場合は、西洋列強の来航によって、国民意識が醸成された。それまでは、日本国内に住む人々は、支配階級(侍)と被支配階級(侍以外)に分けられ、地域的にもそれぞれの藩が大きな権利を持っていたために、国内で統一的な意識が無かった。この分裂状態を江戸幕府は支配のために利用した。江戸時代、被支配階級は政治に参加することは許されず、その権利は与えられなかった。

 

 幕末には海外列強の来航により、危機感が醸成され、国防のための統一的な国家が必要だという主張がなされるようになったが、江戸幕府は自分たちの支配の前提が崩れることを恐れてこれを弾圧した。しかし、こうした集権的な国家論が拡大していく。そして、尊王攘夷論に結びついていくが、上層武士は体制変更を望まない形、下級武士は体制変更、つまり討幕まで主張するようになった。そして、倒幕が実現した。

 

 統一的な国家、つまり明治新政府が誕生したが、その過程で、政治の中央集権化と国民意識の拡大という2つの動きがあったが、政治の中央集権化は成功し、国民意識の拡大は中途半端に終わった。資本主義の発展段階になぞらえて、これを国民主義(ナショナリズム)の「前期的』形成と呼ぶ。

 

 私たちが政治をどこか他人事としてとらえるのは、丸山の唱えた「国民主義の『前期的』形成」段階から、進歩していないからではないかと思います。ここで言う「国民主義」とか「国民意識」について簡単に定義するならば、「自身も国民として政治に参加する権利と責任を持つ」ということだと思います。この点で、私たちは、まだまだ進歩、発展、展開する余地を多く残しているものと思われます。

 

 TwitterFacebookなどのSNSの発達に伴って、かなり詳細な情報や個人の率直な感想や行動を目にすることが出来るようになりました。今回の補選を見ていて思ったことは、政治に関係する場合に、当事者と傍観者に大きく分かれるが、その分かれ方やその程度のために、政治に参加することが億劫に感じられてしまうことが出てくるということです。

 

 話は大きく飛びますが、戦国時代、合戦や戦があると、近隣の住民たちは、山の上などに避難し、そしてお弁当を持って見物に出かけていたという話を聞いたことがあります。戦の展開によってはとばっちりで巻き込まれることもあったでしょうが、スポーツ観戦のような感覚だったんだろうと思います。しかし、当事者たちは現在のスポーツとは大きく違って、命のやり取りをするわけですから、目が血走っていったり、極度に興奮したりしていたことでしょう。私は現在の日本の政治も同じだなと思います。

 

 選挙となった場合、立候補者と選挙の手伝いをする人々や応援をする人々は必死です。戦国時代の戦のように物理的に生命を取られることはありませんが、色々な思いや背景があって、当選しようと必死です。そして、その周囲には、遠巻きに見ている人たちがいます。彼らは選挙の結果にも影響を与える有権者ですが、傍観者であり、だれが勝つか負けるか(生き残るか)を冷ややかにかつ面白そうに見ています。当事者と傍観者の間に大きな溝があり、分裂があります。

 

 当事者たちは傍観者たちに投票を訴えるわけですが、その表情はこわばり、その訴える声はとても大きくなります。そうなると、傍観者たちは、恐怖感を感じます。自分たちは、何も被害が無いところで、面白いゲームを見せてもらいたいだけのことなのに、時に叱咤されるようなことまで言われて、不愉快だということになります。当事者たちは、自分たちの訴えは正しいのにどうして届かないのかということになって、途中で脱落する人やもっと力みあがってしまう人まで出てくることになります。

 

 そうなると、当事者と傍観者の間に溝はもっと大きくなり、政治に参加すること、つまり当事者になることは、ちょっとおかしくなることだ、普通ではなくなることだという間違った意識が出てきて、政治は怖い、ということになり、傍観者たちは本当に傍観するだけ、最低限の投票にすらいかないということになります。

 

 良く考えてみれば、当事者も傍観者にも政治に参加する権利は保障されており、かつその責任もあります。しかし、政治はとても特別な行為ということになってしまいます。

 

 そして、私たちの中に「政治は自分たちは関係ない」「空中戦を見ているようなものだ」という意識がある、「国民主義の『前期的』形成」段階から抜け出していないという状況となると、ますます、政治から足が遠のく人たちが出てくるのは当然です。

 

 それならどうしたらよいのかということになると、即効性のある妙案は浮かびません。「投票に行かなければ罰則」ということがデモクラシーに合った方式とも言えません。何かに強制されて投票するという行為は人々の自発的な行為を制限するということになります。

 

 これに近道は無いように思われますが、まずは政治にかかわることは怖いことであるとか、政治は玄人のものという意識を弱めることが必要ではないかと思います。そのためには、当事者の人たちは忍耐強くかつ穏やかに行動すべきでしょうし、傍観者の方もまた、ちょっとした勇気を出してみることではないかと思います。こんなことは当たり前で、もうやっているという方も多いと思いますが、投票率の低さということを考えると、こうしたことがもっと広がっていくべきではないかと思います。

 

(終わり)





 

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ダニエル・シュルマン
講談社
2015-09-09



アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 カナダ生まれで現在、北京の清華大学で教鞭を執るダニエル・A・ベルが『中国モデル』という本を出版しました。この本の中でベルは、西洋型の民主政治体制で行われている選挙による政治指導者選びよりも、試験を基にした「実力主義」の選抜の方が優れており、それが中国をここまで発展させた要因だと主張しています。
 

 最近の日本の政界を見ていても、「政治家は選挙に出る前に試験を受けて合格した人だけ選挙に出て欲しいな」と単純に思ってしまうような事件や出来事が多く起きています。首相を含めて「家計や出自以外に取り立てて優れた点がないのに、どうしてこの人が政治家をやっているんだろう?」と思う人が多数政治家をやっています。こうした憤懣や疑問は、民主政治体制には付き物のようです。

 


 政治指導者の選び方は古代から続く人類の悩みのようで、家系や血筋のような伝統的な決め方から選挙(これも間接、直接と分かれますが)による決め方に移っています。この本の書評をやっている人たち(共に西洋民主国家に暮らす人々)は、ベルの本の内容に大変批判的です。

 

私がこれは言えるなと思っているのは、ある家系や人物がずっと政治権力を握り続けることの危うさです。日本では民主的な選挙が行われていますが、「地盤、看板、かばん」と呼ばれるように、地元との関係、知名度、おカネの面から、世襲、それも三代目、四代目の政治家たちが多くなっています。戦前からの家系もありますから100年近く政治家家系となっている家もあります。中国の最高指導者層は、人民の選挙で選ばれるわけではありませんが、共青団系と太子党系の2つの流れがあって、牽制し合っています。そしてある家系やグループに権力がずっと握られないようになっています。指導者層の交代があるかないか、ここが重要なポイントだと思います。

 

選挙があっても「選挙に落ちることなんてないや」と我儘勝手にできることが民主的ではありません。そして、こうした構造を作り出しているのは私たち有権者側に民主政治体制に対する理解が欠如していること、そして政治と自分たちの関係についての考えが前近代的、封建的であることが理由だと思います。

 

 前講釈が長くなりましたが、是非読んでみて民主政治体制についてお考えいただければと思います。

 

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書評:『中国モデル』(ダニエル・ベル著)

 

評者:ギデオン・ラックマン

2015年6月19日

『フィナンシャル・タイムズ』紙

http://www.ft.com/intl/cms/s/0/6105bd40-15a4-11e5-8e6a-00144feabdc0.html

 

中国の成功によって、中国の統治システムは自由主義的民主政治体制より上だということになるのか?

 

 孫文は1912年に新帝国の崩壊後の中国初の総統に就任した。彼はアメリカの民主政治体制にそこまで感心していなかった。「アメリカの連邦下院議員の連中ときたらアホで、何にも知らない奴らばかりだ」と不平を漏らしていた。この孫文が行った評価は現在のアメリカ国民の多くも同意するものであろう。

 

 この問題を解決するためとして、孫文は選挙によって選ばれる公務員は全員、地位に就く前に試験を受けてそれに合格した人のみが実際に地位に就くようにすべきだと提案した。この提案は実際に提出され検討されなかったが、これは長きにわたる中国の伝統に影響されている。この伝統とは、「役人は人気ではなく、“実力”を測るための厳しい試験を通して選ばれるべきだ」というものだ。

 

 本書『中国モデル』の著者ダニエル・ベルはカナダ出身の政治哲学者で北京の清華大学で教鞭を執っている。彼はこの中国の伝統に深く影響されている。彼は最新刊の中で、中国式の実力主義に基づいた統治システムは、重要な諸点において、西洋諸国の自由主義的民主政治体制よりも優れた統治システムだという野心的な主張を行っている。

 

 本書『中国モデル』は中国国内のリベラル派を仰天させ、西側諸国の主流となる意見に賛成の人々を怒らせることだろう。この本は一党支配と政治的な抑圧を正当化するためのものだと見る人たちもいるだろう。しかし、本書は常識的な思考に挑戦する根源的な問いを発する学術的な仕事の成果である。ベルはこの役割を適切にこなしている。明瞭で、専門用語を使わない文章で、現代中国の経験を通して、読者を政治哲学の最も根源的な疑問にまで誘うことに成功している。

 

 ベルが明確に書いているように、プラトン、ミル、ハイエクのような西洋の重要な思想家たちの中には、実力主義に基づいた政治に魅了されていた。自由主義的民主政治体制が知的な世界で一種の覇権を握ったのは比較的最近のことに過ぎない。その結果、指導者を選ぶ際に選挙以外の方法があるのではないかと議論することはなくなってしまった。

 

 『中国モデル』はこの議論を再開させようと試みている。この本はまず2つの前提から論を始めている。1つ目は、「西洋の民主政治体制諸国における統治の危機」であり、2つ目は、中国は経済的に大きく発展しているが、これが示しているのは、中国がより良く統治されているということ、である。これら2つの前提に対しては反論もある。しかし、これら2つの前提について読者にそうだと納得させるだけの事実も存在している。それらは、ワシントンの機能不全、ユーロ危機、中国における貧困の大幅な減少である。

 

『中国モデル』の前半部では、民主政治体制の抱える哲学上の及び実践上の弱点の明確な分析がなされている。この部分は私が最も納得できた部分である。例えば、選挙で選ばれた政治家たちは有権者たちの利益を重視しているというのは明確な真実だ。しかし、未来の世代の利益を損なう可能性はある。例えば、現在の政治家たちは現在の有権者たちによって、気候変動や年金の問題を先送りしてしまうのである。孫文が述べたように、西洋型の民主政治体制は、重要な地位にアホや間抜けを据えてしまう危険性を抱えている。

 

 この西洋型の民主政治体制に対して、ベルは理想化された「中国モデル」を対置させている。この中国モデルでは、社会における最も能力の高い人々を、試験を通じて選抜して国を動かしてもらうとなる。彼らの業績は、地方の低いレヴェルから始めて長い年月をかけて様々な地位を経験することで測定される。地方の指導者の地位まで行くことで、その人物は、良いアイディアを持ち、良い指導者になれるというお墨付きを得ることが出来、そして中央に進むのである。このシステムによって、中国は諸問題を解決し、経済発展を達成している。そして、その結果として、一般の人々から見て、指導者たちの統治には正統性があるということになる。

 

 ベルの本が難しいのは、彼が学問的に誠実すぎる故に起きているのだ。彼の本の大部分には、実力主義に基づいた政治に反対する主張を取り上げている。そして、ベルは、これらの反論の多くもまた正しい点を含んでいることを分かっている。民主的な制度城のチェック機能が欠如していることで、汚職が蔓延することになる。しかし、ベルも指摘しているように、民主国家インドでは汚職問題を解決できてはいない。実力主義に基づいて選抜されたエリートたちもまた傲慢になり、自己利益追求になってしまう。試験に合格するための能力と複雑な問題を解決する能力を持つ指導者が、人々への共感と高い独特性を併せて持つとは限らない。

 

 経済的な統計数字によると、現在の中国はより良く統治されている。しかし、ベルが認めているように、他の指標は良くない数字を示している。彼は残念そうに次のように書いている。「汚職、貧富の格差、環境汚染、政治家たちの権力の濫用、政治的に反対の主張を持つ人々に対する厳しい対処は、政治システムがより実力主義的になればなるほど、より激しくなっているように見える」。

 

 中国が実力主義に基づいた政治だという考えに対しては明確な反論が存在する。それは、現在、中国の最高指導者となっている習近平の父親は毛沢東と親密な側近であった、というものだ。ベルは、習近平とその他の「太子党」(中国共産党最高幹部の子孫たち)の人々の台頭は、1990年代初めの統治機構改革の前に始まっていたと答えている。この改革によって党幹部の選考の基礎に試験が置かれる制度が復活したのだ。

 

 しかし、太子党の台頭に関するこの説明は論理的な矛盾を抱えている。中国の実力主義に基づいた政治によって、1979年からのこれまでの急速な経済発展が達成されたという主張がある。しかし、ベル自身の説明では、適切な実力主義が回復したのは1990年代初頭であって、結果としてその効果が出てくるのはそれから更に数年はかかることになる。従って、現在までの中国の急速な経済発展は、統治における実力主義システムの結果ではないのではないだろうか?

 

 ベルは、彼が好んでいるシステムをじっくりと分析した結果として、躊躇しながらであるが、西洋型の自由主義民主政治体制をしっかり検討しようという考えに戻っている。政治指導者たちが生き残りのために暴力以外のものに頼ろうとすれば、それは正統性ということになる。ベルは本の中で、「実力による選択と経済成長があったとしても、中国の政治指導者たちの正統性は将来において長く担保されるものではない」と結論付けている。その理由として、彼らに対する支持は突然の危機的状況によって覆される可能性があるということが挙げられる。ベルが提案している解決策は、中国人民に向かって、指導者の選出は実力が良いか、それとも定期的な選挙が良いかを問う一回限りの住民棟梁を行うことである。

 

 この提案は独特であるが、中国のリベラル派やリスクを取ることを嫌う中国共産党の指導部からは支持を得られるだろう。

 

 私は『中国モデル』が提案している政策のアイディアに納得していないが、ベルが提示したいくつかの疑問は刺激的であると思う。格差の拡大、エリート主義の蔓延、政治におけるお金の役割といった現代中国が直面している諸問題に関する彼の分析は、奇妙なほどに親しみやすく、理解しやすい。もしかしたら、アメリカと中国は私たちが考えているよりも、より多くの共通点を持っているのだろうか?

 

(終わり)

 

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小さな政治を賞賛する(In Praise of Petty Politics

―現代のアメリカ人はジェファーソンやリンカーンのような人物が選挙に出てきても、投票してホワイトハウスの主にしないかもしれないが、少なくとも民主政治体制は私たちに選ぶ機会は与えてくれている

 

フェリペ・フェルナンディス=アルメスト筆

2015年6月8日

『ウォールストリート・ジャーナル』紙

http://www.wsj.com/articles/in-praise-of-petty-politics-1433804916

 

 「会議にはちゃんと出て下さいね?」と私は言われた。私は会議に出るのが嫌だった。「私がいなくても最高の決定が下されると信じています」と私は答えた。 学部長は険しい顔をしていた。「アメリカでは何でも民主的に決めるんですよ。会議に出席してご自分の考えをはっきりと述べて下さいよ」と学部長は言った。私がアメリカの大学で教える最初の日の出来事であった。同僚たちは会議で学部長の提案について議論した。1時間以上も議論をした後、ある参加者は自分が行った提案に反対するかのような発言をするようになった。私は驚き、私はそのことについて説明を求めた。学部長は「そうですね、彼自身が自分の出した提案の欠点を見つけたということなんでしょうね」と答えた。最終的に、私はアメリカにおけるデモクラシーの何たるかを知った。立法府の議員たちは都合の良いように選挙区の区割りをし(ゲリマンダー)、行政府は金権まみれであるが、デモクラシーにおける誰でも意思決定へ参加でき、議論ができるという柱は、地域、学校、職場などで息づいている。

 

 ダニエル・A・ベルはこのことに気付いていないようだ。彼は最新刊で、アメリカ・モデルをけなし、鄧小平から習近平までの中国の政治家たちが作り上げた、卓越した統治方式を評価している。彼の視点ではこれは「賞賛に値する」ということだ。彼は「民主政治体制はこれからも実力主義に基づいた政治よりもより良く機能するだろう」という考えに疑問を呈するために『中国モデル』を書いた。

 

 『中国モデル』の中で、ベルは、「中国に対しては権威主義的な悪評があるが、中国の統治においては“下部のデモクラシー”が存在し、それが中国の統治を強化している。“村落委員会”」は村民のイデオロギー教育と監督の責任を折ってはいるが、高次の当局によって政治的な諸権利は奪われている。ベルが賞賛している村落委員会は民主的な偽装を施され、抑制されている。そして、中国共産党の官僚たちと政府によって抑えつけられていることに、村落委員会は不満を持っている。それでもベルは、「中国の大きな変化の真の理由は、中央政府が地方の諸問題にはタッチしない方針を取っていることである」と述べている。

 

 ベルが中国で「最も高いところ」に位置付けている実力主義に基づいた政治も、彼自身が認めているように、欠点だらけであり、ベルが好む言い方だと「十分に発達していない」となる。政治指導者たちの「選抜と昇進は、政治的な忠誠心、社会的なつながり、家族の背景によってなされている」のである。中国の指導者選出は実力主義的ではなく、官僚主義的である。実力による振るい落としと言うよりも、試験による選抜が基にあり、汚職と親分子分関係に基づいた行為である。私たち学者の殆どがそうであるが、ベルは勉強ができて試験が得意だったのだろう。しかし、彼は自分自身が実力や「政治において重要な知的水準」を分かることが出来る能力を持つと考えているようだが、その点では、底抜けの楽天家のアホだと言うしかない。ニコラ・サルコジは下級官吏がラファイエット夫人の小説に関する知識を持つことの有効性について質問された時、試験は、階級や文化の背景を持つ人物たちが権力に近づくための道になると非公式に答えた。試験はうまく設計すればテクノクラートの採用の役に立つだろう。しかし、ベルが追い求める「能力」「感動的な知性」「社会生活を送る上での技術」「徳」の質は現場以外ではテストをして測定することはできない。

 

 ベルが何度も賞賛しているシンガポールにおいてさえ、指導者たちは「良い価値観や気概、徳を基にして選ばれてはいない」のである。「中国は高度の政治的な正統性(人々が政府は道徳的に正しいことをしていると考えること)を有している」と書いてあるのを読んだ時、ネヴァーランドや北朝鮮でもそうだろうと感じた。ベルが主張するモデルは、中国にも、シンガポールにも、歴史上にも実際に存在したことはなく、彼の頭の中にだけ存在するのだ。彼の頭の中にある国はさぞかし素晴らしいだろう。

 

 ベルは民主政治体制のどの点よりも正義の点を嘆いている。そうなのだ、有権者たちは愚鈍で、腐敗しており、騙されやすくかつ我儘だが、選挙に立候補する人々もまた道徳的には酷いもので、機会主義的だ。多くの有権者を長期間欺くことは可能だ。そして、世界で最も強烈な諸問題は孤立無援の民主政治体制では解決できないのは真実だ。なぜなら、七面鳥は感謝祭のために投票しないからだ。人間は将来の世代や地球、消費の削減のためには投票しないし、耐久生活も嫌いだ。一方で、民主的に選ばれた指導者は独裁者たちに比べて戦争を始めにくいし、有権者が指導者たちの不正や無能力を発見したら、権力を取り上げることが出来るのが民主政だ。現代の選挙にトマス・ジェファーソンが出てきたとして、私たちは彼に投票せず、大統領に選ばないかもしれないが、民主政治体制は少なくとも選ぶ機会は与えてくれる。私たちはチャーチルのような傑出した人物ではなく、チェンバレンのような人物を選ぶことが多いかもしれないが、偶然でもチャーチルのような人物を選ぶこともある。

 

 ベルは、「中国は、比較可能な規模を持つ民主政治体制を持つ国々と比較して、より良く統治を行っている」と主張している。厳格に言えば、そのような国は確かに存在しない。アメリカを除いて、そしていくつかの経済的な指標を基に判断し、自由、人権、自己実現、環境を重視しなかったら、ブラジル、インド、インドネシア、フィリピンといった、複数政党制の民主政体を採用する人口の多い国々は経済発展の点で、中国と比肩しうる存在である。ベルは、アメリカン・ドリームについて批判的に見ている。アメリカ人は、アメリカン・ドリームという言葉によって、腐敗や不誠実なことをしなくても、「貧しさからスタートして豊かになることが出来る」と希望を持っているが、それは騙されているのだとベルは言う。確かにそうだが、少なくともディズニーランドにおいてはそんなことはない。

 

 ベルの中で致命的に認識が欠落しているのは、法の支配と独立した司法府が立法府と行政を抑制している限り、民主政治体制は村落の機構だけではなく、一国の中央政府においても導入可能な点である。ベルは、「民主国家においては、司法の専門家たちは、民主的に選ばれた指導者たちに間接的に説明責任を果たせねばならない」と考えている。しかし、彼の考えは大きな誤解を生むことにつながる。アメリカにおいては判事の中には民主的に選ばれる人たちもいるが、高次の裁判所において例外が影響力を持つことはない。イギリス、ドイツ、アメリカの立法府の議員たちは裁判官を罷免する力を持つが、これまでその力が実際に行使されたことはない。

 

 とにかく、プラトン流の万能な保護者ではなく普通の人々、超人や聖人ではなくサバルタン(従属的社会集団)を政治指導者に選んで何が悪いのか?徳は結婚関係において重要であるが、政治支配者にとっては曖昧なものである。マキャベリが述べたように、政治支配者は良い人間であるべきだが、必要なときには残忍なことをしなければならないのだ。神は私たちが知的にもそして物理的な力の面においても過剰にならないようにして下さっている。私たちごく普通の臣民や国民がそれに反対し対抗することが出来るだろうか?

 

※フェルナンデス=アルメストはノートルダム大学教授で数冊の本を出版している。最新刊『私たちのアメリカ:アメリカ合衆国におけるヒスパニック史』。

 

(終わり)





野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23



 
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