古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:関東軍

 古村治彦です。

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ノモンハン 責任なき戦い (講談社現代新書)

 個人的なことから書くのは申し訳ないが、戦争関連の書籍を読むとき、なかなか手が伸びないのがノモンハン事件とミッドウェー海戦に関わる書籍だ。どちらも日本という国と日本人が持つ短所を象徴するように思えてならないからだ。

 『ノモンハン 責任なき戦い』も買ってはみたがなかなか読もうという気持ちにならなかった。それは連隊長クラスから下に対する過酷な措置と上位者の無責任な態度に気分が悪くなるということが分かっており、躊躇してしまったからだ。

 本のタイトルにある通り、「責任なき戦い」は日本軍の宿痾であり、これは現在の日本でもその通りだ。森友学園問題について近畿財務局に勤務するノンキャリアの官僚の自殺ということも起きた。約80年前に起きたノモンハン事件(ハルハ河の戦い)の後の連隊長位への自殺強要とつながる。また、この「責任なき戦い」はインパール作戦の悲劇をも生み出している。

 ノモンハンはモンゴルと満州国の国境地帯にあるハルハ河付近にあり、ロシア側ではノモンハン事件をハルハ河の戦いと呼んでいる。1939年にここでソ連・モンゴル軍と日本の大部隊が戦い、日本側の敗北に終わった。死傷者数はソ連側が約2万5000、日本側が約2万だった。この点で「日本側が勝った」という評価もあるようだが、ソ連の圧倒的な物量と機械化の前に、白兵突撃を主戦法とする日本は徒に犠牲を増やしていった。

 東京にある参謀本部は日中戦争解決に集中するために、ただの平原を争うための戦争はしたくなかった。一方、満洲に駐留する関東軍はソ連や満州がこれまでに数度国境を侵犯してきたこと(国境は確定しておらず、関東軍が勝手にここまでが国境と決めていた)に憤激し、「無敵」関東軍が鎧袖一触、ソ連軍を蹴散らしてやると息巻いていた。

 中央は不拡大、出先は功に逸るという図式は他の国の軍隊でも歴史上多く見られた。しかし、問題は日本軍の場合、独断専行の伝統もあり、出先が中央や上位機関の統制に服さないという特徴がある。中央にしっかりした人物がいれば統制できるのであるが、出先の強硬派と先輩・後輩、以前の上司・部下の関係で「甘い」人物や「面倒くさがり」の人物がいれば、出先の意見がいつの間にか通ってしまうという結果になる。ノモンハンがまさにそうであった。

 日本軍は自己催眠にかかったように、自分たちが「無敵」と思い込むと、戦争の準部を怠る傾向にある。敵の情報をあらゆる手段を尽くして集めることをせず、奇跡的にもたらされた敵の情報を過小評価し、自軍に不利な情報を提供した人物を「軟弱」と罵った。ノモンハンでも駐ソ駐在武官がシベリア鉄道で日本に帰還する途中、昼夜兼行でソ連軍の動きを観察し、大規模動員が行われている情報を掴んでいたのだが、「そんなはずははい」の一言でこの情報を切って捨てた。

 そして、いざ戦いとなると、ソ連軍の圧倒的な物量と優れた武器の前になす術がなくなる。得意の白兵突撃や夜襲切込みでは大砲や高速戦車に対抗することはできない。戦車の装甲は銃弾を跳ね飛ばすことはできるが、人間の体はいくら気合や魂が入っていても、銃弾を跳ね飛ばすことはできない。

 日本軍の主力で戦ったのは第二十三師団だった。この師団は結成間もなく、訓練がまだ十分ではなかった。師団長の小松原道太郎中将は情報畑が長く(駐露駐在武官やハルピン特務機関長など)、実戦経験は少ない人物であった。また、小松原にはソ連側のスパイであったという説もある。関東軍の中でも「あの人は戦うタイプの人ではないし、二十三師団はまだ訓練ができていないから、別の精鋭師団を派遣する」ということになっていたが、関東軍司令官の植田謙吉大将は、ノモンハン付近は第二十三師団の担当地域であり、後退させるのは気の毒だということで、二十三師団が主力ということになった。そして、8割近い損耗率で敗退ということになった。

 ノモンハン停戦後、関東軍の人事は総入れ替えとなった。上層部は予備役編入(現役から引退)、参謀の服部卓四郎や辻政信は左遷、となったが、現場の連隊長クラス以下には過酷な「措置」が待っていた。部隊がほぼ全滅に瀕しても陣地を守り、最後の最後に転進した連隊の連隊長には「自決強要」がなされた。小松原師団長は責任を部下の撤退に押し付け、「私の師団が壊滅したのは、あいつのせいだ」と憤っていたという。二十三師団捜索隊を指揮した井置栄一中佐はフイ高地を守っていたが、800名の舞台が全滅に瀕し、転進したことの責任を問われ、小松原によって自決を強要された。また、捕虜交換で帰還した者たちは敵前逃亡ということで、将校以上は自決強要、下士官は軍法会議で有罪となった。

 井置中佐の遺族は事件後に井置の死亡の様子を陸軍に問い合わせたが、答えはなかった。しかし事件後のある深夜、軍服姿の小松原中将が井置の自宅を訪れ、仏前に手を合わせて涙を流していたという。

 これはこの本に書いていないが、師団長は天皇から親補される。この点は重要だ。皇居で天皇から直接親補状が手渡される。これはインパールでもあったことだが、師団長を罰するとか解任するということになると、「このような不明な人物を師団長に任命した天皇の責任」ということになり、師団長クラスは実質的に責任を問われないという構図になっていた。それでも、通常であれば、師団長クラスであれば、「私が全責任を負うので部下は免責をお願いしたい」ということで、師団長自身が自決するということが、日本軍のあるべき「将器」の姿である。しかし、小松原にはその覚悟もなかったようだ。

 何かを決定すればそのことに責任が生じる。それは軍隊に限らない。責任者という地位にはそれだけの重みとかつ待遇がなされる。本書『ノモンハン 責任なき戦い』には責任者の地位にあった人物たちの発言が掲載されているが、概して「他人事」であり、「俺だけが悪い訳ではない、あいつもこいつも悪かった」という無反省があふれている。そして、「下のものにはより過酷に、上のものにはより穏やかに」という日本の宿痾がつまっている。これを読めば、80年前のノモンハン事件は決して昔のことではないし、ノモンハン事件のような失敗を日本は二度と繰り返さないということはとても言えないという暗澹たる気持ちになる。

(終わり)

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 古村治彦です。

 今回は『満鉄全史』(加藤聖文著、講談社学術文庫、2019年7月)をご紹介する。
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満鉄全史 「国策会社」の全貌 (講談社学術文庫)

 本書は、2006年11月に講談社選書メチエとして出版されたものを講談社学術文庫で出版し直されたものだ。満州や満州国に関する書籍は多く発刊されている。私は満州について興味を持ち、『キメラ―満洲国の肖像 (中公新書)』(山室信一、中公新書、2004年7月)や『満洲暴走 隠された構造 大豆・満鉄・総力戦 (角川新書)』(安冨歩著、角川新書、2015年6月)を読んだ。日本の満州進出と満州国成立と崩壊について詳しく述べられている。興味がある方は是非読んでいただきたい。

「満州は日本の生命線」(松岡洋右談)という意識があり、満州というの場所は、日本にとってさまざまな人間や資源を引き寄せる「場(トポス)」だった。日本国内にもない最新設備が備えられながらも、あまりにもあっけなく歴史から姿を消した満州国。

 私が満州や南満州鉄道に関心を持っているのは、ごった煮のような感じと整然とした姿がきわどいバランスの上に共存していたように感じられているからだ。また、傀儡国家(puppet state)としての満州国とは現在のアメリカの属国・日本の姿を鏡に映した姿であるとも考えているからだ。表面上は最新の技術が導入された豊かな暮らしと多民族国家の国際的な雰囲気、しかし、一歩中に分け入れば日本の支配と日本人の優越と他民族の差別を抱えていた。

 満州の歴史を語る際には、南満州鉄道(満鉄)が軸になるのは当然だが、満州全体の歴史となると、他のアクターである関東軍や関東庁、軍閥などにも言及することになり、満鉄自体の言及は少なくなる。しかし、私が求めているのは、満鉄の社史ではなく、満鉄と政治との関係を網羅した歴史で、本書は私がまさに求めている内容だった。

 本書『満鉄全史』は日露戦争の結果、日本が獲得した東清鉄道南部支線が1906年に南満州鉄道となり、1945年の日本の敗戦に伴って消滅(実際の清算にはもっと時間がかかった)までの約40年の歴史が網羅されている。満鉄は「国策」会社として出発した訳だが、「国策」(国家的政策の略語だろうか?)という曖昧な、中身は融通無碍、変化を繰り返す、どうとでも定義される言葉に翻弄されたということが言える。

 満鉄は日露戦争で満州軍総参謀長を務めた児玉源太郎と後藤新平が立ち上げた。児玉源太郎は台湾総督時代に部下であった後藤新平を知り、その有能さに目をつけ、後藤を満鉄の初代総裁に就けた。日本政府はそもそも東清鉄道南部支線を獲得するつもりもなく、獲得しても経営を文字通り軌道に乗せることが出来るか自信がなかったが、満鉄初代総裁後藤新平が複線化、撫順炭鉱の拡張、ホテルや新聞など多角経営を進めた。後藤の理想はイギリスの東インド会社であったと言われている。

 後藤新平は満鉄経営において、外務省、関東都督府(後に関東庁)、陸軍といった各政府機関の間、そして満鉄とこれらの機関との間で意志一致が図れずに、三頭政治による「満州経営の不統一」状態が放置されていることに不満を持ち、自身が政界に入り、この状態を改善し、全植民を統括する機関の設置を目指した。後藤は長州閥に近づいていった。

 長州閥の伊藤博文が作ったのが立憲政友会(政友会)だ。立憲政友会が積極財政主義で、日本国内での鉄道建設(鉄道省が管理していた鉄道、戦前から戦後直ぐは国鉄の路線を省線と呼んでいた)や港湾整備など、インフラ整備を推進したが、政権を長年担当し続けた立憲政友会と満鉄は深い関係を築いた。長州閥=立憲政友会-南満州鉄道という関係が出来上がる。「薩の海軍、長の陸軍」という言葉もあるが、満州は陸軍の金城湯池だった。立憲政友会と満鉄とのつながりを深めた、癒着を深めたのは立憲政友会に所属し幹部となっていた原敬(後の首相)だ。

 満州国を牛耳った「二キ三スケ」のうち、岸信介と鮎川義介、松岡洋右は肉親関係にある長州閥の人物たちだ。松岡は外務省から満鉄に転じ、副総裁、満鉄総裁を経て、立憲政友会所属の代議士となり、満鉄総裁、後に外相を務めた人物だ。首相となった原敬は満鉄中心の満州経営を推進し、満鉄は立憲政友会の利権となった。満鉄のドル箱は大豆の輸出のための輸送だった。

 1928年の張作霖爆殺事件から1931年から1932年の満州事変から満州国成立によって満鉄は政治に大きな影響を受けることになる。この時期に満鉄は松岡洋右を相殺に迎えることになる。満鉄は張作霖爆殺事件によって日本に対する反感を募らせた(日本が張作霖を利用するだけ利用して言うことを聞かなくなったら殺すという暴挙に出たので当然だが)張学良が満州において、満鉄に対抗するために並行する形で鉄道建設を行ない、価格競争力で満鉄は負けてしまうという事態も起きた。このために満州国成立は満鉄にとっても渡りに船だった。

 満州国成立後、満鉄の思惑とは異なり、満州国に赴任してきた革新官僚たち(岸信介がその代表格)は、重工業発展のために日本からの資本導入を決定し、満鉄は除外されることになる。満鉄は炭鉱や重工業にも進出していたが、ただの鉄道会社になれということになった。この時の満鉄総裁が松岡洋右であり、前述の通り、松岡と岸は親戚同士だったのだがこのような結果になった(満州重工業のために日本からやってきたのも親戚の鮎川義介だった)。まさに満州は長州の土地だった。

日本の降伏後、満鉄は崩壊した満州国や関東軍に代わり、在留する日本人150万人の帰国事業をになうことになった。進駐してきたソ連軍との交渉や日本への帰国の手配などを行なった。満鉄は日本の植民地経営の尖兵であったが、その最後は幕引き役であり、墓掘人であったとも言えるだろう。

満鉄は日本の植民地支配、経営の最前線を担った。その当時の世界最速の超特急「あじあ号」や近代的な町並みづくりなど、現在の私たちが見ている風景はその美しい表明に過ぎない。別の面で見れば、日本の「国策」、という翻弄された組織とも言える。満州の工業化や近代化を担ってきた組織も国家の都合で簡単にただの鉄道会社に「降格」させられた。また、鉄道敷設の面でも経営や利益ではなく、国家の都合が優先された。

しかし、最初に立ち戻ってみれば、日本に確固とした満州における「国策」などなかった。満州の地でロシアと戦った日露戦争は朝鮮半島を日本の影響下にとどめておくことが目的だった。何とか引き分けに持ち込んで、賠償金は取れなかったが鉄道の経営権は手に入った。はてさてこんなものを渡されてどうしよう、というところから満鉄は始まっている。

 基本的な哲学も計画もないままで始まった満鉄の歴史40年は日本の確固とした哲学、計画もない醜悪な拡大主義とその挫折の歴史の姿と重なる。この姿は現在の日本でも変わっていないと私は考えている。

(終わり)

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