古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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  古村治彦です。

 

 今回は、田中進二郎(たなかしんじろう)氏の単著デビュー作『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(電波社、2020年)を紹介する。田中研究員の渾身の研究成果が一冊にまとめられ、世に出ることになった。。

 

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秀吉はキリシタン大名に毒殺された

 

 本書で、田中進二郎研究員は、1500年代から1600年代、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が天下を統一した時代の日本におけるキリスト教(イエズス会)の動きを丹念に調べ上げ、新しい事実を明らかにしている。キリシタン大名、隠れキリシタン大名が数多く日本に存在したが、これはイエズス会による日本の「神の国」化、属国化のための策動の結果だった。

 これに対して、信長、秀吉、家康がどのように振る舞ったのか、が本書によって明らかにされている。これら英傑3人はイエズス会の目的を見抜き、それぞれに対応した。信長、秀吉、家康と言えば、鳴かないホトトギスに対してどう対応するか、で、「信長は殺す、秀吉は鳴かせてみせる、家康は鳴くまで待とう」という言葉が有名だ。それぞれはこの言葉に近いやり方でキリスト教、イエズス会に対応した。

 今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は明智光秀で、時代は本書が取り扱っている時代そのものだ。毎度のことでNHK大河ドラマは常識やこれまでの研究から逸脱するものではない。ドラマが物足りないと思っている皆さんには必読の一冊である。

 

 以下に、副島隆彦先生による推薦文、目次、田中進二郎氏によるあとがきを掲載する。よろしくお願いいたします。

 

(貼り付けはじめ)

 

推薦文                                副島隆彦

 

 本書の圧巻(あっかん)は、加賀(石川県)金沢の大名、前田利家(としいえ)のもとに落ち延びた、キリシタン大名の筆頭、高山右近(たかやまうこん)が、そのあと25年にもわたり、加賀でイエズス会宣教師たちとともに密かに布教活動を続けていた事実を明らかにしたことである。秀吉のキリシタン禁教令天正15(1587)年6月のすぐあとからだ。金沢は今やキリシタン文化都市として知られる。

 古参の内藤ジョアン(如安)も右近と合流した。なんと彼らは、秀吉の朝鮮出兵を片付ける停戦協議まで、中国の明(みん)帝国を相手に小西行長(こにしゆきなが)とともに、秀吉に事実を隠しながら秘密裏に行っていた。この史実を田中進二郎は、今回探り当てた。

 だから前田利家(と妻まつ)がこの本の真(しん)の主人公である。前田利家は秀吉と激しく暗闘した。そして家康と組んで、辛(から)くも家名を残した。高山右近らは、家康による大坂城攻めの直前(1カ月前)1614年9月に、マニラとマカオに追放された。右近はこの年、マカオで死んだ。

 

 本書は、私が主宰する学問道場の、私の弟子の田中進二郎(たなかしんじろう)君が書いた初めての単著である。田中君はこれまでに学問道場SNSI論文集である『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』(成甲書房 2014年刊)と『蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の研究 明治日本を創った幕府の天才たち』(成甲書房 2016年刊)で、フリーメイソンが幕末の日本で果たした大きな役割を鋭く描いた。

 私は、2019年4月に田中君たちを連れて名古屋駅から近くの、元は穢(きたな)い湿地帯だった中村区に調査に行った。中村で生まれた秀吉は、川筋衆(かわすじしゅう)と呼ばれる下層民の出だ。信長の小者衆(こものしゅう)の草履取りから出世した。ここから100メートル離れたところに加藤清正の生家もある。清正は生涯、秀吉に臣従して、家康に嫌われた。歌舞伎役者の初代・中村勘三郎(かんざぶろう)もここで生まれ、秀吉の生家のすぐそばに銅像があった。だから姓が中村なのだ。

 

 川筋衆(かわすじしゅう)(漁労民(ぎょろうみん)系。ここから真実の集団戦をする武士団が生まれた)と河原者(かわらもの)(芸能集団)、そして戦場撹乱者である乱波(らっぱ)、スッパ、細作(さいさく)間者(かんじゃ)と呼ばれた戦場スパイ組織(のちの忍者)は、もともと出自(しゅつじ)が同じであることが分かった。現地で確かめた。

 前田利家も信長の小姓衆から這い上がったが、秀吉よりは格上の武士である。過酷な勤務評定で知られる信長軍団の中で両者は生き延びた。秀吉と反目し何度か命を狙われた。結局、徳川家康が前田氏を守った。妻のまつは自ら家康の人質となった。

 南九州(薩摩)の島津の家紋の「丸に十字」〇に十 は、本当は 〇に で縦棒が長い。関ヶ原合戦のときの戦陣旗はこっちだ。

 加藤氏が滅んだあとの肥後熊本の細川氏も幽斎藤孝(ふじたか)、忠興(ただおき)、忠利(ただとし)も隠れキリシタン大名だ。NHKの大河ドラマが正直に描いた。筑前福岡の黒田官兵衛(如水)、長政もそうだ。豊後(ぶんご)大分で一番初めのキリシタンの大友氏は宗麟(そうりん)の次の義統(よしむね)で滅んだ。安芸(あき)広島の福島正則もキリシタン大名だったが、滅びた。

 明智光秀を山崎の戦いで破った“摂津(せっつ)三人衆”の池田恒興(つねおき)、中川清秀、高山右近もキリシタン大名である。中川氏は滅んだ。池田氏は隠れキリシタン思想を取り入れた善政を敷いて、備中(びっちゅう)備前(びぜん)藩(岡山)として明治まで続いた。池田光政は陽明学者熊沢蕃山(くまざわばんざん)を庇護した。蕃山や山鹿素行(やまがそこう)の陽明学は、朱子学と並ぶ近世儒教(日本では儒学)とされるが、その正体は、中国化したキリスト教である。このことを私たちの学問道場が解明した。私たちの大きな業績である。

 高槻城主だった高山右近は、冒頭に書いた秀吉のバテレン追放令(1587年6月)で

城を失い、加賀の前田利家のもとに落ち延びた。

 奥州仙台の伊達氏(政宗【まさむね】以来)は伊達者(だてもの)と呼ばれた金糸銀糸のキリシタン織りを兵士たちに着せた。政宗は支倉常長(宗派はフランシスコ派)を太平洋航路でローマに送った。出羽(でわ)(秋田)の佐竹氏と陸奥(むつ)(岩手)の南部(なんぶ)氏もキリシタン大名だ。京阪で弾圧を逃れた多くのキリシタンが鉱山掘り師となって生きた。何と水戸の徳川氏もキリシタンである。

 

 田中は本書で、イエズス会史料『信長公記』、『太閤記』(数冊ある)のような日本の史書は、権力者におもねるが故に脚色が過ぎて、真実とかけ離れていると指摘する。権力者に都合が悪い事実は抹消するという伝統は、どこの国にもあることで、現在も繰り返される公文 書(こうぶんしょ)改ざん問題で、われわれが知るところである。

 

 日本は世界の一部であり、故 ゆえ に確実に日本史は世界史の一部である。これまでの日本国内の史書だけに依拠して書かれた、虚偽(ウソ)の多い日本史の本は、大いに改めなければならない。

 本書『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』は、私が書いた『信長はイエズス会に爆殺 され、家康は摩り替えられた』(PHP研究所 2016年刊)の隙間(すきま)を埋めた。天下人(てんかびと)となった信長、秀吉、家康のまん中の私がやっていなかったことを書いてくれた。

 フランシスコ・ザビエルが日本にやってきて(1549年)から、鎖国の完成(1641年)までの約100年のキリシタン大名の歴史を、イエズス会士(ジェズーイット・プリースト)中の碩学(せきがく)であるルイス・フロイスの『日本史』を読み解いて、そこに横たわるローマ・カトリック教会の隠された日本占領、支配の計画を田中は明らかにした。

 巻頭から、恐ろしいザビエルの本性が描かれる。イエズス会の創立者イグナティウス・ロヨラに次ぐナンバー2のザビエル(シャビエル)は、ヨーロッパで荒れ狂う宗教改革(リフォーメイション)(反(はん)カトリック運動)を避けて、それでは、と世界中に出て行って植民地支配し、「神(かみ)の国(くに)」に作り変え属国にするために動いた。

 田中によると、日本のキリシタン研究はカトリック文学だそうだ。なるほど、と思う。耶蘇教(やそきょう)(イエズス会 Jesuit Society of Jesus  ジェズーイット・ソサエティ・オブ・ジーザス)は、キリスト教のカトリック教団内の一 派である。キリスト教そのものは天主教(てんしゅきょう)と訳さなければいけない。×天「守」閣も本当は、天主閣である。これは世界基準での学問用語である(中国ではこう書く)から、長年の誤表記は、日本史の学者たちの怠慢と無能の所為(せい)である。

 秀吉、家康にたくさん殺されたキリシタン弾圧の殉教者(マーター)たちが、絶対正義だとする考えをいつまでものさばらせておいてはいけない、日本人の知識人の側からの反撃がなければならない。イエズス会(とカトリック)の日本支配(洗脳)計画は、強く批判されなければならない。

 

 家康は、今川氏(義元(よしもと))と織田信長の二重スパイであった。戦場忍者集団(願人坊主(がんじんぼうず)たち)によって幼年から育てられた男である。彼らは今川方を裏切って信長に付き、桶狭間(おけはざま)の合戦(1560年5月)の直後、信長の命令で、翌年、家康は三河(みかわ)大名・松平元康(もとややす)にすり替わった。秀吉と家康は、信長の忠実なカーボン・コピーである。

 戦国時代にキリシタン大名はものすごい数でいた。天下人(信長、秀吉、家康)以外はほとんど隠れキリシタンだったのではないか。世界を席巻していた最先端の光輝 かがやく思想の流行に、まず女たちから先に(人間救済(きゅうさい)する、と説いたから)感染したのには、確かに理由がある。

 

 ルイス・フロイスの『日本史』を厳密に解読すれば、上司のヴァリニャーニが信長殺し

の「本能寺の変」の主謀者であることが分かる。この時代にヨーロッパで次々と起こって

いたローマ教会による「王殺し(regicide レジサイド)、父殺し(patricide パトリサイド)」と同じだ、と田中は指摘している。

「父 パトリサイド 殺し」というのは、ユダヤ教の創始者モーセが、自分が引き連れてきたエジプトからの集団(開拓農民だ)に石打ちで殺されたとする考え(思想)だ。

 カナーンの地(今のパレスチナ)に到着する、直前にモーセ殺害があったと、精神分析学の祖ジークムント・フロイトが『モーセと一神教』(1939年)で発表した。モーセ殺しの秘密を共有した者たちがユダヤ民族を作った。キリスト教(本当はパウロ教)も、イエス処刑のあとイエスを神棚に祀 まつ ることで、同じ成り立ちをしている。

 信長は、明らかに大(だい)天才の日本人で無神論者(エイシスト)だった。信長という父を「父殺し」したとするのが、田中の新説だ。イエズス会による信長の爆殺は、日本国にとって今なお許すことのできない暴挙である。

 そしてさらに、次の天下人である秀吉もまた、イエズス会の支配下にあったキリシタン大名連中(れんじゅう)によって毒殺されたことが、この本によって明らかにされた。

 

  2020年9月                           副島隆彦

 

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秀吉はキリシタン大名に毒殺された 目次

 

推薦文 ―― 副島隆彦 3

 

第1部 イエズス会と戦国大名の危険な関係

 

序章 イエズス会結成にいたる歴史 18

ザビエル「空白の10カ月」 26

千利休が大成した茶の湯はカトリックのミサ(聖餐)の儀式である 33

ローマ教皇が茶室でミサを行うことを公認していた 36

火薬ビジネスとイエズス会ネットワーク 44

細川藤孝と明智光秀はイエズス会のエージェントだった 46

戦国時代の新興宗教=天道思想はキリスト教 49

信長絶対王政と重商主義 51

イエズス会は信長とともに明帝国を挟み撃ちする計画だった 55

戦国日本の戦争の本当の真実 60

本能寺の変の予行演習だった荒木村重の謀叛 66

黒田官兵衛もワルのキリシタン大名だ 68

黒人侍従ヤスケが本能寺に爆薬を仕掛けた実行犯である 72

安土城の天主閣は「デウス=信長のおわします塔」という意味だ 79

無神論者の信長が日本史上空前の宗教革命を起こした 83

デウスの起源はエジプトのアメン神である 89

ルイス・フロイスは後から来日したヴァリニャーニに手柄を奪われた 94

当時最先端の西洋の科学を知っていたヴァリニャーニ 98

天正遣欧少年使節はなぜ信長の家臣たちから選ばれなかったのか? 102

火薬ビジネスで大きくなった角倉財閥 105

明智光秀は征夷大将軍に任命されるはずだった 108

本能寺の変 信長、光秀、家康とイエズス会の動き 109

 

第2部 秀吉はキリシタン大名に毒殺され、徳川幕府は密かにキリシタンを利用した

 

備中高松城水攻めは軍師官兵衛がつくったフィクションだ 122

本能寺の変の前に秀吉と毛利は和睦が成立していた 126

イエズス会に振り回される明智光秀 128

高山右近はわずか一千の手勢で光秀の本隊を破った 133

どうしても織田家の上に立ちたかった秀吉 139

ローマ教会=イエズス会が隠匿したヴァリニャーニと蒲生氏郷の密約 148

キリシタン大名で埋め尽くされた秀吉政権 153

高山右近は加賀前田藩を隠れキリシタン王国に変えた 160

バテレン追放令とスペイン-イエズス会の日本侵略計画 169

未遂に終わった第 2 の「本能寺の変」と利休の処刑 176

秀吉の大粛清と朝鮮出兵   182

関ケ原の戦いへつながる関白秀次一族の粛清事件 191

ローマ教会は新教徒派の国王を次々と暗殺した 200

関ケ原の戦いと大坂の陣はオランダ・イギリスの最新兵器で決着がついた 206

家康はキリシタン大名を引き剥がして勝利した 208

関ケ原の戦役の常識はほとんどが後代の創作 214

角倉財閥はイエズス会を抜け出て生き延びた 223

隠れキリシタンの力を用いた江戸幕府の関東開拓事業 225

隠れキリシタン大名が隠し持っていたアルキメデスの水利技術 231

家康の孫・松平忠直も隠れキリシタンだった 233

 

おわりに 244

 

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おわりに

 

 本書では、イエズス会の成立した1530年代から、日本が鎖国に入る前までの約100年のキリシタン大名の歴史を扱った。戦国期と明治期の二回、日本でキリスト教は大流行している。

 戦国日本では爆発的な流行だった。研究して驚いたのは、秀吉のバテレン追放令(1587年)と徳川幕府の禁教令(1612・1613年)のそれぞれの後に、むしろキリシタンは激増していた、という事実である。おそらく大阪夏の陣のころがピークだった。また、徳川政権下での殉教者の数は、数万人と推定されている。これは島原の乱よりも前のことである。恐ろしい迫害があったことが分かる。そこまで、徹底的にキリスト教(耶蘇教、天主教)を根絶しようと幕府がしたのは、なぜか?

 そして、本当は根絶どころか、大名たちは隠れキリシタンとして、命脈を保ち続けたのではないか? という疑問を、筆者なりに解いてみたのが、本書である。

 筆者・田中進二郎は、監修者の副島隆彦氏の不肖の弟子である。副島先生から「隠れキリシタン大名について調べてみなさい」と勧められて、調査を開始した。調べていくうちに、一般に隠れキリシタンや潜伏キリシタンと呼ばれているものと、「隠れキリシタン大名」というのは別物だ、ということが分かってきた。

 大友氏や大村氏、有馬氏など九州のキリシタン大名たちが、信仰心だけで宣教師に布教を許可したのではないことは、よく知られている。だが、禁教令後の、形の上では棄教したことになっている「隠れキリシタン大名」は、本当は支配者として、民衆とはまったく異質のキリスト教を信仰していたのではないか、と思える。ローマ教会が言う「神の国」に貧しい者が行く手段は、本当は殉教以外にはなかった。殉教してはじめて、教会は貧者を自分たちと同列に扱った。権力者は魂の救いがそもそも必要でないだろう。

 大名クラスの人間には、もともと宗教は政治の道具だ。民衆に宗教という「阿片」を吸わせておけばいいのだ。秀吉のような天下人に「救い」は、必要がない。逆だ。秀吉は権力を手に入れるために、イエズス会と結託したのだ。そして激しい権力闘争をキリシタン大名たちと演じたのだ。そして戦いの果てに、敗れて殺された。信長はイエズス会を乗っ取ってやるぐらいに思っていただろう。家康は隠れキリシタン大名を寝返らせて、関ヶ原に勝利した。

 天下人の信長、秀吉、家康だけがローマ・カトリック教会の虚偽を完全に見破っていたのだ。その境地というのは、同時代の哲学者のデカルトやローマ教会から異端裁判を受けたガリレオたちと同じだ。ガリレオはユニテリアン派の科学者だった。デカルトは、十代でそのことを悟った。デカルトはイエズス会の神学校で特待生だった。「君は優秀過ぎるから、授業は受けなくてもよい。好きな時間に起きて出たい授業だけ出なさい」と言われていた。その彼がフランス国王・アンリ4世の暗殺の時に、葬式に参列し、イエズス会に対して、深い懐疑を抱いたのだ。

 だから極論すると、戦国時代の天下人三人は、ヨーロッパの優れた哲学者たちと同列の偉人なんですよ、ということを書いておきたい。「キリスト教は邪教である」とニーチェが喝破した。ニーチェの思想と三人の天下人との間に大差はない。そのことを、本書を書きながら痛感した。

 本書は、一介の塾講師に過ぎない私田中進二郎に、副島隆彦先生から単著を書く機会を与えてもらって生まれた本である。本を書く機会というのは誰にでもあるものではない。

 副島学問道場のさる方から聞いたことだが、「本を書ける人は、東大に入れる人よりずっと少ない」とのことだ。大書店に行くと、書籍が氾濫(はんらん)していて、誰でも書けるような錯覚を起こすが、本当は大変な僥倖である。機会を与えてくださった上に最強の推薦文までいただきました。副島隆彦先生、ありがとうございます。そして、初めてのことゆえ、岩谷健一編集長にはご迷惑を掛け通しでした。深く感謝申し上げます。

 

  2020年9月                          田中進二郎

 

(貼り付け終わり)

 

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秀吉はキリシタン大名に毒殺された

 

(終わり)

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 古村治彦です。

 

 今回は『真実の西郷隆盛』(副島隆彦著、コスミック出版[電波社]、2018年5月19日)をご紹介いたします。


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真実の西郷隆盛

 

 本書は副島隆彦先生の西郷隆盛研究の本です。今年2018年は明治維新150周年で、NHK大河ドラマは西郷隆盛を主人公とする「西郷(せご)どん」です。視聴率はあまりよくないようですが(私はテレビを所有していないので視聴していません)、話を聞いていると、結構ディテールにこだわった作りになっているようです。

 

 本書では、これまで光を当てられてこなかった西郷隆盛の持つ意外な一面に光が当てられています。それは「西郷隆盛はキリシタンであった」「西郷隆盛は情報将校であった」ということです。詳しくは是非本を手に取ってお読みいただきたいと思います。

 

 以下にまえがき、目次、あとがきを掲載します。

 

 よろしくお願い申し上げます。

 

(貼り付けはじめ)

 

はじめに

 

西郷隆盛[さいごうたかもり] (1828〜1877)は 50 歳で死んだ。

 

西郷の年齢の表記は諸本によってバラバラになっている。 49 歳という場合もあるし、 51 歳と表示している本もある。この本では年齢は数え年で表記する。また出来事のくわしい日時は旧暦で表示した。西郷の死んだ時の年齢は、満年齢で 49 歳、数え年で 50 歳だ。

 

このように表記がバラバラなのは、西郷が生まれた旧暦の文政 10 12 月7日は、西暦では1828年1月 23 日だからだ。文政 10 年は西暦では1827年であり、1カ月くらいずれる。このずれの狭 はざ 間 ま に西郷隆盛が生まれた。従って、西郷が1877年9月 24 日に鹿児島の城山で死ぬまでの日数を計算したら、満年齢で 49 歳、数え年で 50 歳である。細かいことだが年齢を正確に把握することは重要なことだ。

 

西郷とこの時代の代表的な人物たちとの年齢との兼ね合いを見ると、盟友の大久保利通[おおくぼとしみち] (1830〜1878)より2歳年上である。長州の木戸孝允[きどたかよし](桂小五郎 1833〜1877)より5歳年上。高杉晋作(1839〜1867)より 11 歳上。土佐の坂本龍馬[さかもとりょうま](1836〜1867)より8歳年上。後藤象二郎[ごとうしょうじろう](1838〜1897)より 10 歳年上である。従って、西郷隆盛は年齢で明治維新を成し遂げた維新の元勲たちの中では先輩格ということになる。

 

一方、西郷が仕えた第 11 代薩摩藩主・島津斉彬[しまづなりあきら](1809〜1858)は 19 歳も年上だ。西郷が嫌った斉彬の弟島津久光[しまづひさみる](1817〜1877)も 11 歳年上だ。

 

西郷隆盛の人生は、島津斉彬が嘉永4(1851)年に藩主となって、すぐに登用されるまでの前半生( 27 歳まで)と、それ以降の後半生に分けられる。私たちが普通知っているのは、後半生の時代だ。西郷は安政元(1854)年に斉彬の参勤交代の供 とも 揃 ぞろ えに抜擢され初めて薩摩から江戸に出た。ここから西郷の政治活動が始まった。NHKの大河ドラマ『西郷(せご)どん』で描かれているとおりである。

 

西郷は後半生で2度、島流しにあった。1度目は「安政の大獄」から逃れるために、藩が彼を奄美大島に潜伏させた時だ。奄美大島での生活は安政6(1859)年1月から文久2(1862)年1月までの3年間(、、、)に及んだ。2回目は、斉彬没後に薩摩藩の最高実力者となった斉彬の弟島津久光の逆鱗に触れ、徳之島、続けて沖永良部島に遠島処分なった時だ。この時の遠島処分は文久2(1862)年6月から元治元(1864)年2月の約2年間(、、、)続いた。

 

西郷はこのように後半生 25 年間のうち5年もの間、政治の表舞台から追放された。2度目の遠島(えんとう)処分は、西郷をそのまま殺しても構わないという過酷な処分であった。しかし西郷は生きて戻った。失脚と粛清を生き延びた。沖永良部島から帰還した時、西郷は 37 歳になっていた。そして、慶應3(1867)年から慶応4/明治元(1868)年にかけて、王政復古と明治新政府樹立、江戸幕府打倒を成し遂げた。これらは現在、書店に並んでいる西郷隆盛本に出てくる。

 

西郷はキリシタン(キリスト教徒)であった。そして同時に情報将校(インテリジェンス・オフィサー)として鍛え上げられた人物であった。私はこの事実を証拠付きでこの本で明らかにする。このことは一般的な歴史書では書かれていない。歴史学者たちは口をつぐんで言わない。しかし、西郷の地元鹿児島では人々の間で密かに伝えられてきた。最近、公然と語られるようになった。

 

鹿児島は、その約300年前の1543年に、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル ( Francisco de Xavier   1506〜1552)が上陸した土地だ。最近、藩主島津氏の居城で あった鶴丸城(鹿児島城)の本丸跡から、「花 はなじゅうじもん 十字紋」の入った瓦が発見された(『南日本新聞』2018年2月 17 日付)。2009年に二の丸跡からも同様の十字がついた瓦が出土した。花十字紋は、キリスト教の十字架を表現しているもので、キリシタンの墓に使われたり、花十字紋瓦は教会跡から出土したりしている。島津氏もキリスト教の影響を強く受けていたのである。

 

西郷は、「中国化したキリスト教」である陽明学を学び、「敬天愛人(けいてんあいじん)」という思想に行き着いた。西郷は陽明学者佐藤一斎[さとういっさい](1772〜1859)の『言志四録(げんししろく)』を死ぬまで手元から離さなかった。この本を一所懸命に勉強した。そこから生み出された西郷の思想「敬天愛人」に使われている「天(てん )」こそは、キリスト教(天主教)の「神」のことである。西郷は中国で出版された漢訳の聖書を読んでいたという証言が残っている。西郷はどんな人間に対しても礼儀正しく接した、不正を非常に憎んだ、という逸話が残っている。これは西郷隆盛が陽明学、すなわち中国化したキリスト教に忠実だったからだ。

 

西郷隆盛は巨体(日本人の平均身長が150センチ台の時に178センチもあった)で茫洋

とした、細かいことにはこだわらない大人物としてのイメージができ上がっている。しかし、実際にはきめ細かい配慮ができ、数学の計算力のある、頭の回転の速い人物であった。鹿児島は日本本土の最南端に位置し、昔から海外からの情報が真っ先に入ってくる場所であった。薩摩藩は琉球を実効支配し、海外情報を入手しやすい場所にあった。この環境の中で育った西郷は、藩主島津斉彬の下で働いた5年間で、「情報将校」として鍛えられた。2度の島流しの間にも、薩摩藩の情報ネットワークの中におり、それに守られていた。また冷酷な謀略も行える人物であった。

 

西郷隆盛についてはいくつもの大 フォールス 嘘がまかり通っているので、それを「糺(ただす)す」ために私はこの 本を書いた。私は歴史を見る時に、いつも大きな真実とは何か(、、、、、、、、、)を考える。私は西郷隆盛について、これが大きな真実であろうということをこの本で書いた。読者は厳しい真贋(しんがん)判断をしてください。

 

=====

 

『真実の西郷隆盛』

 

目次

  

はじめに

 

第1章 西郷隆盛と陽明学・キリスト教

    

西郷=キリシタン説   

陽明学はキリスト教   

西郷隆盛と陽明学

「敬天愛人」とキリスト教

 西郷はキリスト教の聖書を読んでいた

 キリスト教に寛大だった西郷隆盛

 陽明学の深い学習=キリスト教への信奉

 

第2章 幕末:西郷隆盛をはじめとする情報将校たちの時代

    

情報収集、分析の専門家として育成された西郷

情報将校・西郷の前半5年間:島津斉彬による抜擢・教育

情報将校・西郷の後半5年間:明治維新に向けた動き

アジアとのつながりが深く人、物資、情報が集まってきた薩摩

2度の離島生活で出会った知識人・重野安繹と川口雪篷は情報将校だった

薩摩藩対外情報将校であった寺島宗則と五代友厚    

西郷隆盛とイギリスの情報将校アーネスト・サトウとのかかわり

「情報将校」が活躍した幕末という時代

 

第3章 西郷隆盛の誕生から世に出るまで

    

薩摩藩の青年武士たちのリーダーとして

西郷家の生活

江戸後期の島津家と薩摩藩

青年期の西郷隆盛

島津斉彬と西郷隆盛

西郷隆盛、江戸へ

将軍継嗣における一橋派と南紀派の対立

暗転:斉彬の死、安政の大獄から僧月照との錦江湾入水、そして生還

西郷隆盛、奄美大島へ

 

第4章 遠島処分から政治の表舞台へ、倒幕に向かう

    

島津久光の実像と倒幕、維新への功績

薩摩藩の実力の源泉となった資金力の3本柱

「精忠組」誕生と大久保利通の久光接近

桜田門外の変から公武合体路線へ

久光による率兵上京、西郷隆盛召還と「地ゴロ」発言

西郷、流罪で徳之島、さらに沖永良部島へ

文久の改革から公武合体路線、尊王攘夷

再び召還され、政治の表舞台へ

薩長同盟から王政復古の大号令へ

 

第5章 西郷隆盛と明治維新

 

徳川慶喜容認か、倒幕か

鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へ

鹿児島への帰還と藩政改革

新政府への出仕と留守政府の筆頭参議

遣韓論争と下野(明治六年の政変)

鹿児島帰還と西南戦争、終焉

  

おわりに

 

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おわりに

 

今年、2018年は明治維新から150年目の年だ。NHKの大河ドラマは西郷隆盛が主人公の『西郷(せご)どん』で、西郷隆盛に注目が集まっている。大河ドラマ『西郷どん』に便乗して多くの西郷関連本が出ている。しかし、こうした便乗本では西郷の真の姿はわからない。

 

西郷隆盛について大事なことは、西郷隆盛は誰に対しても威張らず、丁寧に接する人物だった、ということだ。これは、西郷隆盛が「中国化したキリスト教」である陽明学を本気になって一生懸命に勉強し、人間を身分別にわけて徹底的に虐(いじ)めるという江戸時代の制度に反感を持っていた、ということを示している。西郷は、このような誰に対しても威張らない人だったということで、人格者として尊敬され、大人物とされた。

 

「西郷はキリシタン(キリスト教徒)だった」という西郷の出身地鹿児島に今でも伝わる話は荒唐無稽なつくり話などではない。真実は庶民の間でヒソヒソと語られ後世に伝えられていく。

 

また、西郷隆盛が「情報将校」であることも今回くわしく書いた。西郷隆盛は薩摩藩主島津

斉彬によって見 みい 出 だ され、斉彬直属の「情報将校」として鍛え上げられ、政治活動を行った。斉彬が死去するまで江戸藩邸の御庭方(御庭番)として斉彬から直接指示を受け、行動していた。各藩の「情報将校たち」とも行き来をし、人脈を形成した。幕末期はまさに江戸幕府や雄藩の情報将校たちが江戸や京都、時には海外を舞台にして活躍した時代であった。

 

西郷はそうした時代を生き抜いた。西郷自身は権謀術数や裏切りなどを最も嫌った人物だ。


しかし、西郷の持つ論理的思考力、的確な判断力、押し出しのよさによって、斉彬に見出され、斉彬直属の情報将校として活躍することができた。

 

生真面目で、誠実な西郷隆盛というイメージは西郷の真実の姿の半分を示しているだけだ。そこに情報将校としての側面を加えることで、西郷隆盛の真実の姿に近づくことができる。逆説的ではあるが、西郷が人格者であったればこそ、情報将校として活躍することができた。人格に歪(ゆが)みがあれば的確な判断は下せない。

 

今回、私の「真実の西郷隆盛論」を書き上げた。これまで無視されてきた西郷の側面を描き出した。西郷隆盛の真の姿に近づけたものと自負している。

 

この本の完成には、私の弟子で鹿児島市出身の古村治彦(ふるむらはるひこ)君の協力があった。電波社の岩谷健一編集長にもお世話になった。記して感謝します。

 

(貼り付け終わり)

※2018年6月17日(日)に副島隆彦の学問道場定例会(講演会)が開催されます。定例会出席のお申し込みは以下のアドレスでお願いいたします↓
http://snsi-j.jp/kouen/kouen.html


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真実の西郷隆盛

(終わり)

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今の巨大中国は日本が作った


semarikurudaibourakutosensoushigekikeizai001
迫りくる大暴落と戦争〝刺激〟経済
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 古村治彦です。

 

 今回は、SNSI研究員である石井利明(いしいとしあき)氏のデビュー作『福澤諭吉 フリーメイソン論』(石井利明著、副島隆彦監修、電波社、2018年4月16日)を皆様にご紹介します。

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(仮)福澤諭吉 フリーメイソン論

 

 石井利明氏は私たちの仲間で、これまで出した論文集の中で、福沢諭吉についていくつも論稿を発表してきました。今回、石井さんの福沢諭吉(1834-1901年)研究の集大成が一冊にまとまり、世に出ることになりました。

 

本書の最大最重要の特徴は福沢諭吉とフリーメイソンとの関係を明らかにしたことです。このことについて、著者の石井氏は「日本を属国の一つとして扱う英国に対抗して、勃興する新興大国であるアメリカの自由思想と、アメリカ革命に深く関わったフリーメイソンたちを自分たちへの支援勢力とした。福澤諭吉は、フリーメイソンたちと手を携えて、日本国が、着実に自立してゆくために知識、思想、学問で闘い続けた」と簡潔に書いています。

 

 私の個人のお話で申し訳ないのですが、私は早稲田の出身で、学生時代から野球の早慶戦に行っています。慶應の応援は力強く、また華麗なものです。私もいつの間にか、慶應義塾の塾歌(校歌)や有名な応援歌「若き血」を歌えるようになりました。

 

慶應義塾にはほかにも多くの素晴らしい応援歌がありますが、私が個人的に好きなのは「我ぞ覇者」です。その一番の歌詞は「雲を破りて 世を照らさんと 見よや見よ自由の 先駆われ 独立友呼べば 自尊と我応え おお 共に起たん 吾等が義塾」です。この歌詞こそ福澤諭吉が慶應義塾を創設した精神「自由」「独立自尊」がよく表現されていると思います。

 

 以下に推薦文、まえがき、目次、あとがきを掲載します。参考にしていただき、是非手に取っていただければと思います。よろしくお願い申し上げます。

 

(貼り付けはじめ)

 

推薦文

                                   副島隆彦

 

 本書『福澤諭吉フリーメイソン論』は、誰よりもまず慶応義塾大学出身の皆さんに読んでいただきたい。

 

 福澤諭吉(一八三四~一九〇一、天保五~明治三四)は真に偉大な人物である。幕末と明治期の日本が生んだ、本当にとびきり一番の、大人物である。だが、福澤先生のなにが偉大であり、なにが賞賛に値するのかを、いまの私たちはまったく知らない。誰も教えてくれない。何も教わっていない。

 

 非礼を承知で私は書くが、慶応大学出で の人々であってさえ、福澤先生の偉大さの理由と根拠を知らない。入学当初から、誰からも教わっていない。『学問のすすめ』と『福澤翁自伝』を読め、読めと言われるだけだ。福澤先生の「日本国の独立自尊(どくりつじそん)」の思想を、今に受け継ぐ人々が今の日本にいるのか。

 

 この本を読んでいただければ、いろいろなことがわかる。真贋(しんがん)の判定は、この本を読んでくださった読者がする。何故(なにゆえ)に、福澤先生は日本が生んだ大(だい)学者、碩学(せきがく)にして行動者、実践家、温厚な教育者にして大実業家であったか。これらのことが、この本にすべて書かれている。

 

 著者の石井利明君は慶応出でではないが、一所懸命にあらゆる文献を読み、深く調査して福澤諭吉の思想の真髄にまで迫って、この偉人の真実を掘り当てている。この本を読んでくださればわかる。そして、私と一緒に驚いてください。福澤諭吉の生い立ちから人格形成期、そして晩年の大成者としての実像(六七歳で逝去)までを見事(みごと)に描ききっている。

 

 石井利明君は、私が主宰する学門道場およびSNSI(副島隆彦国家戦略研究所)の創立時からの人であり、研究員としても高弟であり古参である。

 

 思い出せば、もう七年前の、二〇一一年三月一一日の東日本大震災、そして福島第一原発の爆発事故の直後一九日に、私は死を覚悟して、とりあえず石井君ひとりを連れて現地を目指した。そして原発から七キロメートルのところで目視しながら放出された放射線量を現場で正確に計測した。それがごく微量であることを知った。このことを即刻、インターネットで発信し、日本国民に知らせた。「日本国は救われた」と。このあともほかの弟子(研究員)たちも引き連れて三度、福島第一原発正門前に到達して随時、放射線量を正確に測った。口はばったい言い方だが、あの時の私たちは、一八三七(天保八)年二月、大阪で決起した大塩平八郎中斎(ちゅうさい)一門の覚悟と同じだった。「とにかく大事故の現場に行って、自分の目で真実を見極めなければ。国家と国民の存亡の危機に際しては我が身を献げなければ」の一心だった。これらの事績(じせき)の記録と報告はすでに数冊の本にして出版している。

 

 どんな人にとっても目の前の日常の逃げられない生活の苦労がある。石井君にも私にもある。それでも誠心誠意、緻密な真実の福澤諭吉研究を、一〇年をかけて石井利明君がやりとげ、書き上げてくれて、私は心底嬉しい。私が全編にわたってしっかり朱筆を入れたので、私、副島隆彦との共著と考えてくださっていい。

 

 日本人は、真に日本国の偉人福澤先生の実像と学門の高さの真実にいまこそ触れなければ済まない。万感の想いをもって本書推薦の辞とする。

 

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はじめに

                                    石井利明

 

 福澤諭吉は世界基準(ワールド・ヴァリューズ)で評価すべき人物である。

 

 この一点において、今までの、数多ある福澤諭吉の人物評伝は片手落ちである。

 

 このことは、世界史と日本史が学問分野で分かれているための構造的な問題である。江戸末期から明治維新に活躍した人物や起った事象を真に理解するには、西洋史、中国史、日本史に橋を架けなければならない。

 

 しかし、市井の学者たちには、この橋が架けられない。だから、書くものがつまらない。事実に肉薄できない。ここに、歴史学者ではない石井利明が、10年の歳月を費やしてたどり着いた考えをまとめた、この本の大きな意義がある。

 

 慶応義塾大学で学んだ卒業生たちは、まずは、この本を読んで世界基準の福澤諭吉の偉大さを理解して下さい。

 

 福澤諭吉の人生のハイライトは、日本を属国の一つとして扱う英国に対抗して、勃興する新興大国であるアメリカの自由思想と、アメリカ革命に深く関わったフリーメイソンたちを自分たちへの支援勢力とした。福澤諭吉は、フリーメイソンたちと手を携えて、日本国が、着実に自立してゆくために知識、思想、学問で闘い続けた。ここに福澤諭吉の生涯の大きな意義がある。この大きな世界基準の枠組みが理解できれば、福澤諭吉の一生が大きく理解できる。と同時に、フリーメイソンに対する、我々日本人の理解が、いかに表層的で浅はかなものであったのか、も理解できる。福澤が生きた19世紀のフリーメイソンは、断じて、闇の勢力などではない。それは間違った理解だ。

 

 福沢諭吉は、生涯にわたって自らが唱えた日本国の「自立自尊」の道のど真ん中を歩んだ人物である。こんな日本人は、福澤の後にも先にも居ない。後にも先にもいないということは、副島隆彦氏が提唱した「帝国・属国」関係が、それだけ厳しいことの現れだ。

 

 この厳しい現実は21世紀に生きる、我々日本人が現在直面している大きな課題である。福澤諭吉の生涯を正しく理解することは、日本国がこれからどのように歩むべきかの大きな道標になる。

 

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福澤諭吉フリーメイソン論 大英帝国から日本を守った独立自尊の思想

 

推薦文 副島隆彦 

 

はじめに 

 

第一章 世界規模のフリーメイソン・ネットワーク

 

●諭吉の父、福澤百助

●諭吉が憎んだ幕藩体制は親の敵

●福澤諭吉の先生たち

●攘夷論者の野本真城から、開国派の白石(しらいし)照山(しょうざん)へ 

●中津藩の蘭学研究 

●オランダ語の化物、前野良沢(まえのりょうたく) 

●『解体新書』翻訳の真相 

●長崎出島のカピタン(オランダ商館長)たち 

●日本に来た最初のフリーメイソン 

●日本を開国しようとした田沼(たぬま)(おき)(つぐ) 

●開国和親派と攘夷主義の暗闘

 

第二章 長崎出島と幕末の開国派ネットワーク

 

●開国か攘夷か、揺れる中津藩 

●黒船来航で攘夷に傾く世論 

●長崎出島と密貿易の巨大利権 

●諭吉もスパイとして長崎に送り込まれた 

●大坂、緒方洪庵の適塾時代 

●日米修好通商条約と尊王攘夷 

●アヘン戦争の本当の原因 

●アヘン戦争と幕末維新の共通性 

 

第三章 ユニテリアン=フリーメイソンとアメリカ建国の真実

 

●渡米を熱望した諭吉 

●東アジアの貿易戦争で大英帝国を破ったアメリカ 

●諭吉のアメリカ行きを支えた人たち 

●ジョン万次郎の帰国とペリー来航 

●万次郎を育てたユニテリアン=フリーメイソン 

●ユニテリアン、そしてフリーメーソンリーとは何ものか? 

●アメリカ独立革命を戦ったのはユニテリアン=フリーメイソン 

●諭吉が理解したアメリカ建国の真実 

 

第4章 文久遺欧使節の諭吉とフリーメイソンの関係

 

●アメリカから帰国し、幕府に出仕 

●文久遺欧使節としてヨーロッパへ 

●フランスでの諭吉とフリーメイソン 

●英国での諭吉とフリーメイソン 

●諭吉、ロシアでスパイにスカウトされる 

 

第5章 攘夷の嵐を飲み込む大英帝国の策謀

 

●攘夷派の動向と一八六三年の福澤諭吉 

●下関事件と薩英戦争 

●文久三年の政治状況 

●一八六四年の福澤諭吉 

●四カ国連合艦隊下関砲撃 

●一八六五年からの福澤諭吉 

●第二次長州征伐の真実と諭吉の対応 

 

第6章 明治維新と慶応義塾設立

 

●一八六七年、幕府最期の年の福澤諭吉 

●福澤塾の移転と慶応義塾の誕生 

●戊辰戦争と幕府内部のイギリス勢力 

●日本の自立に必要なものは経済力 

●『学問のすすめ』刊行 

 

第7章 福澤諭吉と宣教師たちの本当の関係

 

●福澤諭吉とユニテリアン医師・シモンズ 

●宣教師A・C・ショーの正体 

●半開の国と定義された明治日本 

●福澤諭吉が尊敬したフリーメイソン、ベンジャミン・フランクリン 

 

第8章 日本の独立自尊と近代化のために

 

●日本の中央集権化に対抗した福澤諭吉 

●西南戦争は反逆ではなく、明治政府の内戦 

●交詢社設立の真の目的とは? 

●国際社会に認められる文明国の条件 

●憲法草案と明治一四年の政変 

●息子二人のアメリカ留学 

●ユニテリアン教会の宣教師ナップの招聘(しょうへい) 

●ユニテリアン教会の修道院として始まったハーヴァード大学 

●慶応義塾とハーヴァード大学の連携と大英帝国からの独立自尊の大戦略 

●アメリカの変質と、その後の福澤とユニテリアンの関係 

●晩年の福澤は帝国主義の思想を持っていたのか? 

 

おわりに

 

福澤諭吉年譜

 

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おわりに

 

 本書『福澤諭吉 フリーメイソン論』の書名にギョッとする人は多いだろう。それでも、この本を手にとって読んでくださる方々に、私は、心からの敬意を表します。

 

 私の福澤諭吉研究は、二〇〇八年に、「これまで知られていない福澤諭吉の真実の姿を、石井くん、丹念に調べて描いてみなさい」と、私が師事している副島隆彦先生から言われたことから始まった。

 

 福澤諭吉という偉大なる人物を私ごときが簡単に扱あつかえるのか、大きな不安があった。しかし、私はこの大人物の、これまで日本社会でまったく知られていない、知られざる側面を大胆に表に出した。

 

 二〇〇一年から始まった福澤諭吉の脱亜入欧(だつあにゅうおう)論をめぐる「安川・平山論争」が続いていた。私の考えは本文でずっと説明したが、「日本の昭和のアジア侵略まで福澤諭吉のせいにするな!」である。一九〇一年まで生きた人であり、民間人であることを貫いた福澤諭吉に、その後の日本の帝国主義の責任まであるとする安川寿之輔と、彼の意見に同調する人々は元々精神の歪んだ人々である。

 

 安川氏に丁寧に反論して文献を挙げて説明し、論争に勝利した平山洋氏を私は支持する。と同時に、私は碩学(せきがく)丸山真男と、小泉信三が福澤諭吉を上品に「自由」と「愛」の体現者であったように描いたことにも反対する。福澤諭吉が生きた一九世紀(一八〇〇年代)の自由や愛は、西洋近代の啓蒙(けいもう)(エンライトンメント)を受けて光り輝きながらも、幕末以来の血生臭いものだった。この辺りの感覚が理解できないと福澤諭吉の実際の生涯はわからない。

 

 私は福澤諭吉を研究してみて、さらに彼を深く尊敬する。彼の表おもて裏うらのない、綺麗事や偽善とは対極にある生き方に感服した。こんな真っ正直な日本の知識人を私は、福澤諭吉以外に知らない。この余りの真っ正直さが、あれこれと誤解も招いたのである。

 

 これまで出版された福澤諭吉の自伝、評伝からは、真実の福澤諭吉の姿が伝わってこない。

ここに、学者ではない私が、福澤諭吉の評伝を書く意味がある。この本には、私がコツコツと自力で掘り起こした諸事実によって照らし出される真実の福澤諭吉が詰まっている。私は、真実の福澤諭吉の姿を皆さんになんとしてもわかってほしい。この明治開国期の日本の偉人の本当の姿を文献証拠から味わっていただき、国民的課題として大きく福澤先生を見直してゆきたい。福澤の人格形成とともにあったのはアメリカ、そしてヨーロッパのフリーメイソンの思想である。日本の学者たちは勇気がないから、福澤先生と三田会(みたかい)、フリーメイソンの関連をあえて遠ざけて無視しようとする。これでは、フリーメイソン思想と福澤諭吉の深いつながりから見える明治期の全体像がわからない。

 

 天主教(てんしゅきょう)(ローマ・キリスト教会。隠れキリシタンたち。その中心が耶蘇[やそ]会=イエズス会)の伝統とはまったく別にあったフリーメイソン思想の日本への伝来は、一七七〇年代に遡ることができる。フリーメイソン=ユニテリアン思想は、豊後(ぶんご)中津(なかつ)や大阪堂島の交易人の系譜の人である福澤諭吉にまで伝わったのだ。

 福澤諭吉とフリーメイソン組織の深いつながりを、こうして微力な私が掘り当て、捜し出したことで日本人が世ワールド・ヴァリューズ界基準の歴史、思想を理解する一助になるだろう。読者をこの知的冒険に誘いざなうことができるなら私の本望である。

 

 この本を苦心して書き上げる上でSエスNエヌSエスIアイ学門道場主催者の副島隆彦先生と電波社書籍部編集長の岩谷健一氏にたいへんお世話になった。この場を借りて、厚くお礼を申し上げます。

  二〇一八年二月一〇日                        石井利明

 

(貼り付け終わり)


※私が学生時代に所属していましたサークル(地方学生の会)の先輩でお世話になっている森和也氏の書籍が発売されました。ぜひ手に取ってお読みください。 よろしくお願いいたします。

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