古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

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 古村治彦です。

 

 今回は『真実の西郷隆盛』(副島隆彦著、コスミック出版[電波社]、2018年5月19日)をご紹介いたします。


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真実の西郷隆盛

 

 本書は副島隆彦先生の西郷隆盛研究の本です。今年2018年は明治維新150周年で、NHK大河ドラマは西郷隆盛を主人公とする「西郷(せご)どん」です。視聴率はあまりよくないようですが(私はテレビを所有していないので視聴していません)、話を聞いていると、結構ディテールにこだわった作りになっているようです。

 

 本書では、これまで光を当てられてこなかった西郷隆盛の持つ意外な一面に光が当てられています。それは「西郷隆盛はキリシタンであった」「西郷隆盛は情報将校であった」ということです。詳しくは是非本を手に取ってお読みいただきたいと思います。

 

 以下にまえがき、目次、あとがきを掲載します。

 

 よろしくお願い申し上げます。

 

(貼り付けはじめ)

 

はじめに

 

西郷隆盛[さいごうたかもり] (1828〜1877)は 50 歳で死んだ。

 

西郷の年齢の表記は諸本によってバラバラになっている。 49 歳という場合もあるし、 51 歳と表示している本もある。この本では年齢は数え年で表記する。また出来事のくわしい日時は旧暦で表示した。西郷の死んだ時の年齢は、満年齢で 49 歳、数え年で 50 歳だ。

 

このように表記がバラバラなのは、西郷が生まれた旧暦の文政 10 12 月7日は、西暦では1828年1月 23 日だからだ。文政 10 年は西暦では1827年であり、1カ月くらいずれる。このずれの狭 はざ 間 ま に西郷隆盛が生まれた。従って、西郷が1877年9月 24 日に鹿児島の城山で死ぬまでの日数を計算したら、満年齢で 49 歳、数え年で 50 歳である。細かいことだが年齢を正確に把握することは重要なことだ。

 

西郷とこの時代の代表的な人物たちとの年齢との兼ね合いを見ると、盟友の大久保利通[おおくぼとしみち] (1830〜1878)より2歳年上である。長州の木戸孝允[きどたかよし](桂小五郎 1833〜1877)より5歳年上。高杉晋作(1839〜1867)より 11 歳上。土佐の坂本龍馬[さかもとりょうま](1836〜1867)より8歳年上。後藤象二郎[ごとうしょうじろう](1838〜1897)より 10 歳年上である。従って、西郷隆盛は年齢で明治維新を成し遂げた維新の元勲たちの中では先輩格ということになる。

 

一方、西郷が仕えた第 11 代薩摩藩主・島津斉彬[しまづなりあきら](1809〜1858)は 19 歳も年上だ。西郷が嫌った斉彬の弟島津久光[しまづひさみる](1817〜1877)も 11 歳年上だ。

 

西郷隆盛の人生は、島津斉彬が嘉永4(1851)年に藩主となって、すぐに登用されるまでの前半生( 27 歳まで)と、それ以降の後半生に分けられる。私たちが普通知っているのは、後半生の時代だ。西郷は安政元(1854)年に斉彬の参勤交代の供 とも 揃 ぞろ えに抜擢され初めて薩摩から江戸に出た。ここから西郷の政治活動が始まった。NHKの大河ドラマ『西郷(せご)どん』で描かれているとおりである。

 

西郷は後半生で2度、島流しにあった。1度目は「安政の大獄」から逃れるために、藩が彼を奄美大島に潜伏させた時だ。奄美大島での生活は安政6(1859)年1月から文久2(1862)年1月までの3年間(、、、)に及んだ。2回目は、斉彬没後に薩摩藩の最高実力者となった斉彬の弟島津久光の逆鱗に触れ、徳之島、続けて沖永良部島に遠島処分なった時だ。この時の遠島処分は文久2(1862)年6月から元治元(1864)年2月の約2年間(、、、)続いた。

 

西郷はこのように後半生 25 年間のうち5年もの間、政治の表舞台から追放された。2度目の遠島(えんとう)処分は、西郷をそのまま殺しても構わないという過酷な処分であった。しかし西郷は生きて戻った。失脚と粛清を生き延びた。沖永良部島から帰還した時、西郷は 37 歳になっていた。そして、慶應3(1867)年から慶応4/明治元(1868)年にかけて、王政復古と明治新政府樹立、江戸幕府打倒を成し遂げた。これらは現在、書店に並んでいる西郷隆盛本に出てくる。

 

西郷はキリシタン(キリスト教徒)であった。そして同時に情報将校(インテリジェンス・オフィサー)として鍛え上げられた人物であった。私はこの事実を証拠付きでこの本で明らかにする。このことは一般的な歴史書では書かれていない。歴史学者たちは口をつぐんで言わない。しかし、西郷の地元鹿児島では人々の間で密かに伝えられてきた。最近、公然と語られるようになった。

 

鹿児島は、その約300年前の1543年に、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル ( Francisco de Xavier   1506〜1552)が上陸した土地だ。最近、藩主島津氏の居城で あった鶴丸城(鹿児島城)の本丸跡から、「花 はなじゅうじもん 十字紋」の入った瓦が発見された(『南日本新聞』2018年2月 17 日付)。2009年に二の丸跡からも同様の十字がついた瓦が出土した。花十字紋は、キリスト教の十字架を表現しているもので、キリシタンの墓に使われたり、花十字紋瓦は教会跡から出土したりしている。島津氏もキリスト教の影響を強く受けていたのである。

 

西郷は、「中国化したキリスト教」である陽明学を学び、「敬天愛人(けいてんあいじん)」という思想に行き着いた。西郷は陽明学者佐藤一斎[さとういっさい](1772〜1859)の『言志四録(げんししろく)』を死ぬまで手元から離さなかった。この本を一所懸命に勉強した。そこから生み出された西郷の思想「敬天愛人」に使われている「天(てん )」こそは、キリスト教(天主教)の「神」のことである。西郷は中国で出版された漢訳の聖書を読んでいたという証言が残っている。西郷はどんな人間に対しても礼儀正しく接した、不正を非常に憎んだ、という逸話が残っている。これは西郷隆盛が陽明学、すなわち中国化したキリスト教に忠実だったからだ。

 

西郷隆盛は巨体(日本人の平均身長が150センチ台の時に178センチもあった)で茫洋

とした、細かいことにはこだわらない大人物としてのイメージができ上がっている。しかし、実際にはきめ細かい配慮ができ、数学の計算力のある、頭の回転の速い人物であった。鹿児島は日本本土の最南端に位置し、昔から海外からの情報が真っ先に入ってくる場所であった。薩摩藩は琉球を実効支配し、海外情報を入手しやすい場所にあった。この環境の中で育った西郷は、藩主島津斉彬の下で働いた5年間で、「情報将校」として鍛えられた。2度の島流しの間にも、薩摩藩の情報ネットワークの中におり、それに守られていた。また冷酷な謀略も行える人物であった。

 

西郷隆盛についてはいくつもの大 フォールス 嘘がまかり通っているので、それを「糺(ただす)す」ために私はこの 本を書いた。私は歴史を見る時に、いつも大きな真実とは何か(、、、、、、、、、)を考える。私は西郷隆盛について、これが大きな真実であろうということをこの本で書いた。読者は厳しい真贋(しんがん)判断をしてください。

 

=====

 

『真実の西郷隆盛』

 

目次

  

はじめに

 

第1章 西郷隆盛と陽明学・キリスト教

    

西郷=キリシタン説   

陽明学はキリスト教   

西郷隆盛と陽明学

「敬天愛人」とキリスト教

 西郷はキリスト教の聖書を読んでいた

 キリスト教に寛大だった西郷隆盛

 陽明学の深い学習=キリスト教への信奉

 

第2章 幕末:西郷隆盛をはじめとする情報将校たちの時代

    

情報収集、分析の専門家として育成された西郷

情報将校・西郷の前半5年間:島津斉彬による抜擢・教育

情報将校・西郷の後半5年間:明治維新に向けた動き

アジアとのつながりが深く人、物資、情報が集まってきた薩摩

2度の離島生活で出会った知識人・重野安繹と川口雪篷は情報将校だった

薩摩藩対外情報将校であった寺島宗則と五代友厚    

西郷隆盛とイギリスの情報将校アーネスト・サトウとのかかわり

「情報将校」が活躍した幕末という時代

 

第3章 西郷隆盛の誕生から世に出るまで

    

薩摩藩の青年武士たちのリーダーとして

西郷家の生活

江戸後期の島津家と薩摩藩

青年期の西郷隆盛

島津斉彬と西郷隆盛

西郷隆盛、江戸へ

将軍継嗣における一橋派と南紀派の対立

暗転:斉彬の死、安政の大獄から僧月照との錦江湾入水、そして生還

西郷隆盛、奄美大島へ

 

第4章 遠島処分から政治の表舞台へ、倒幕に向かう

    

島津久光の実像と倒幕、維新への功績

薩摩藩の実力の源泉となった資金力の3本柱

「精忠組」誕生と大久保利通の久光接近

桜田門外の変から公武合体路線へ

久光による率兵上京、西郷隆盛召還と「地ゴロ」発言

西郷、流罪で徳之島、さらに沖永良部島へ

文久の改革から公武合体路線、尊王攘夷

再び召還され、政治の表舞台へ

薩長同盟から王政復古の大号令へ

 

第5章 西郷隆盛と明治維新

 

徳川慶喜容認か、倒幕か

鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へ

鹿児島への帰還と藩政改革

新政府への出仕と留守政府の筆頭参議

遣韓論争と下野(明治六年の政変)

鹿児島帰還と西南戦争、終焉

  

おわりに

 

=====

 

おわりに

 

今年、2018年は明治維新から150年目の年だ。NHKの大河ドラマは西郷隆盛が主人公の『西郷(せご)どん』で、西郷隆盛に注目が集まっている。大河ドラマ『西郷どん』に便乗して多くの西郷関連本が出ている。しかし、こうした便乗本では西郷の真の姿はわからない。

 

西郷隆盛について大事なことは、西郷隆盛は誰に対しても威張らず、丁寧に接する人物だった、ということだ。これは、西郷隆盛が「中国化したキリスト教」である陽明学を本気になって一生懸命に勉強し、人間を身分別にわけて徹底的に虐(いじ)めるという江戸時代の制度に反感を持っていた、ということを示している。西郷は、このような誰に対しても威張らない人だったということで、人格者として尊敬され、大人物とされた。

 

「西郷はキリシタン(キリスト教徒)だった」という西郷の出身地鹿児島に今でも伝わる話は荒唐無稽なつくり話などではない。真実は庶民の間でヒソヒソと語られ後世に伝えられていく。

 

また、西郷隆盛が「情報将校」であることも今回くわしく書いた。西郷隆盛は薩摩藩主島津

斉彬によって見 みい 出 だ され、斉彬直属の「情報将校」として鍛え上げられ、政治活動を行った。斉彬が死去するまで江戸藩邸の御庭方(御庭番)として斉彬から直接指示を受け、行動していた。各藩の「情報将校たち」とも行き来をし、人脈を形成した。幕末期はまさに江戸幕府や雄藩の情報将校たちが江戸や京都、時には海外を舞台にして活躍した時代であった。

 

西郷はそうした時代を生き抜いた。西郷自身は権謀術数や裏切りなどを最も嫌った人物だ。


しかし、西郷の持つ論理的思考力、的確な判断力、押し出しのよさによって、斉彬に見出され、斉彬直属の情報将校として活躍することができた。

 

生真面目で、誠実な西郷隆盛というイメージは西郷の真実の姿の半分を示しているだけだ。そこに情報将校としての側面を加えることで、西郷隆盛の真実の姿に近づくことができる。逆説的ではあるが、西郷が人格者であったればこそ、情報将校として活躍することができた。人格に歪(ゆが)みがあれば的確な判断は下せない。

 

今回、私の「真実の西郷隆盛論」を書き上げた。これまで無視されてきた西郷の側面を描き出した。西郷隆盛の真の姿に近づけたものと自負している。

 

この本の完成には、私の弟子で鹿児島市出身の古村治彦(ふるむらはるひこ)君の協力があった。電波社の岩谷健一編集長にもお世話になった。記して感謝します。

 

(貼り付け終わり)

※2018年6月17日(日)に副島隆彦の学問道場定例会(講演会)が開催されます。定例会出席のお申し込みは以下のアドレスでお願いいたします↓
http://snsi-j.jp/kouen/kouen.html


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真実の西郷隆盛

(終わり)

imanokyodaichuugokuwanihonjingatsukutta001
今の巨大中国は日本が作った


semarikurudaibourakutosensoushigekikeizai001
迫りくる大暴落と戦争〝刺激〟経済
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 古村治彦です。

 

 今回は、SNSI研究員である石井利明(いしいとしあき)氏のデビュー作『福澤諭吉 フリーメイソン論』(石井利明著、副島隆彦監修、電波社、2018年4月16日)を皆様にご紹介します。

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(仮)福澤諭吉 フリーメイソン論

 

 石井利明氏は私たちの仲間で、これまで出した論文集の中で、福沢諭吉についていくつも論稿を発表してきました。今回、石井さんの福沢諭吉(1834-1901年)研究の集大成が一冊にまとまり、世に出ることになりました。

 

本書の最大最重要の特徴は福沢諭吉とフリーメイソンとの関係を明らかにしたことです。このことについて、著者の石井氏は「日本を属国の一つとして扱う英国に対抗して、勃興する新興大国であるアメリカの自由思想と、アメリカ革命に深く関わったフリーメイソンたちを自分たちへの支援勢力とした。福澤諭吉は、フリーメイソンたちと手を携えて、日本国が、着実に自立してゆくために知識、思想、学問で闘い続けた」と簡潔に書いています。

 

 私の個人のお話で申し訳ないのですが、私は早稲田の出身で、学生時代から野球の早慶戦に行っています。慶應の応援は力強く、また華麗なものです。私もいつの間にか、慶應義塾の塾歌(校歌)や有名な応援歌「若き血」を歌えるようになりました。

 

慶應義塾にはほかにも多くの素晴らしい応援歌がありますが、私が個人的に好きなのは「我ぞ覇者」です。その一番の歌詞は「雲を破りて 世を照らさんと 見よや見よ自由の 先駆われ 独立友呼べば 自尊と我応え おお 共に起たん 吾等が義塾」です。この歌詞こそ福澤諭吉が慶應義塾を創設した精神「自由」「独立自尊」がよく表現されていると思います。

 

 以下に推薦文、まえがき、目次、あとがきを掲載します。参考にしていただき、是非手に取っていただければと思います。よろしくお願い申し上げます。

 

(貼り付けはじめ)

 

推薦文

                                   副島隆彦

 

 本書『福澤諭吉フリーメイソン論』は、誰よりもまず慶応義塾大学出身の皆さんに読んでいただきたい。

 

 福澤諭吉(一八三四~一九〇一、天保五~明治三四)は真に偉大な人物である。幕末と明治期の日本が生んだ、本当にとびきり一番の、大人物である。だが、福澤先生のなにが偉大であり、なにが賞賛に値するのかを、いまの私たちはまったく知らない。誰も教えてくれない。何も教わっていない。

 

 非礼を承知で私は書くが、慶応大学出で の人々であってさえ、福澤先生の偉大さの理由と根拠を知らない。入学当初から、誰からも教わっていない。『学問のすすめ』と『福澤翁自伝』を読め、読めと言われるだけだ。福澤先生の「日本国の独立自尊(どくりつじそん)」の思想を、今に受け継ぐ人々が今の日本にいるのか。

 

 この本を読んでいただければ、いろいろなことがわかる。真贋(しんがん)の判定は、この本を読んでくださった読者がする。何故(なにゆえ)に、福澤先生は日本が生んだ大(だい)学者、碩学(せきがく)にして行動者、実践家、温厚な教育者にして大実業家であったか。これらのことが、この本にすべて書かれている。

 

 著者の石井利明君は慶応出でではないが、一所懸命にあらゆる文献を読み、深く調査して福澤諭吉の思想の真髄にまで迫って、この偉人の真実を掘り当てている。この本を読んでくださればわかる。そして、私と一緒に驚いてください。福澤諭吉の生い立ちから人格形成期、そして晩年の大成者としての実像(六七歳で逝去)までを見事(みごと)に描ききっている。

 

 石井利明君は、私が主宰する学門道場およびSNSI(副島隆彦国家戦略研究所)の創立時からの人であり、研究員としても高弟であり古参である。

 

 思い出せば、もう七年前の、二〇一一年三月一一日の東日本大震災、そして福島第一原発の爆発事故の直後一九日に、私は死を覚悟して、とりあえず石井君ひとりを連れて現地を目指した。そして原発から七キロメートルのところで目視しながら放出された放射線量を現場で正確に計測した。それがごく微量であることを知った。このことを即刻、インターネットで発信し、日本国民に知らせた。「日本国は救われた」と。このあともほかの弟子(研究員)たちも引き連れて三度、福島第一原発正門前に到達して随時、放射線量を正確に測った。口はばったい言い方だが、あの時の私たちは、一八三七(天保八)年二月、大阪で決起した大塩平八郎中斎(ちゅうさい)一門の覚悟と同じだった。「とにかく大事故の現場に行って、自分の目で真実を見極めなければ。国家と国民の存亡の危機に際しては我が身を献げなければ」の一心だった。これらの事績(じせき)の記録と報告はすでに数冊の本にして出版している。

 

 どんな人にとっても目の前の日常の逃げられない生活の苦労がある。石井君にも私にもある。それでも誠心誠意、緻密な真実の福澤諭吉研究を、一〇年をかけて石井利明君がやりとげ、書き上げてくれて、私は心底嬉しい。私が全編にわたってしっかり朱筆を入れたので、私、副島隆彦との共著と考えてくださっていい。

 

 日本人は、真に日本国の偉人福澤先生の実像と学門の高さの真実にいまこそ触れなければ済まない。万感の想いをもって本書推薦の辞とする。

 

=====

 

はじめに

                                    石井利明

 

 福澤諭吉は世界基準(ワールド・ヴァリューズ)で評価すべき人物である。

 

 この一点において、今までの、数多ある福澤諭吉の人物評伝は片手落ちである。

 

 このことは、世界史と日本史が学問分野で分かれているための構造的な問題である。江戸末期から明治維新に活躍した人物や起った事象を真に理解するには、西洋史、中国史、日本史に橋を架けなければならない。

 

 しかし、市井の学者たちには、この橋が架けられない。だから、書くものがつまらない。事実に肉薄できない。ここに、歴史学者ではない石井利明が、10年の歳月を費やしてたどり着いた考えをまとめた、この本の大きな意義がある。

 

 慶応義塾大学で学んだ卒業生たちは、まずは、この本を読んで世界基準の福澤諭吉の偉大さを理解して下さい。

 

 福澤諭吉の人生のハイライトは、日本を属国の一つとして扱う英国に対抗して、勃興する新興大国であるアメリカの自由思想と、アメリカ革命に深く関わったフリーメイソンたちを自分たちへの支援勢力とした。福澤諭吉は、フリーメイソンたちと手を携えて、日本国が、着実に自立してゆくために知識、思想、学問で闘い続けた。ここに福澤諭吉の生涯の大きな意義がある。この大きな世界基準の枠組みが理解できれば、福澤諭吉の一生が大きく理解できる。と同時に、フリーメイソンに対する、我々日本人の理解が、いかに表層的で浅はかなものであったのか、も理解できる。福澤が生きた19世紀のフリーメイソンは、断じて、闇の勢力などではない。それは間違った理解だ。

 

 福沢諭吉は、生涯にわたって自らが唱えた日本国の「自立自尊」の道のど真ん中を歩んだ人物である。こんな日本人は、福澤の後にも先にも居ない。後にも先にもいないということは、副島隆彦氏が提唱した「帝国・属国」関係が、それだけ厳しいことの現れだ。

 

 この厳しい現実は21世紀に生きる、我々日本人が現在直面している大きな課題である。福澤諭吉の生涯を正しく理解することは、日本国がこれからどのように歩むべきかの大きな道標になる。

 

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福澤諭吉フリーメイソン論 大英帝国から日本を守った独立自尊の思想

 

推薦文 副島隆彦 

 

はじめに 

 

第一章 世界規模のフリーメイソン・ネットワーク

 

●諭吉の父、福澤百助

●諭吉が憎んだ幕藩体制は親の敵

●福澤諭吉の先生たち

●攘夷論者の野本真城から、開国派の白石(しらいし)照山(しょうざん)へ 

●中津藩の蘭学研究 

●オランダ語の化物、前野良沢(まえのりょうたく) 

●『解体新書』翻訳の真相 

●長崎出島のカピタン(オランダ商館長)たち 

●日本に来た最初のフリーメイソン 

●日本を開国しようとした田沼(たぬま)(おき)(つぐ) 

●開国和親派と攘夷主義の暗闘

 

第二章 長崎出島と幕末の開国派ネットワーク

 

●開国か攘夷か、揺れる中津藩 

●黒船来航で攘夷に傾く世論 

●長崎出島と密貿易の巨大利権 

●諭吉もスパイとして長崎に送り込まれた 

●大坂、緒方洪庵の適塾時代 

●日米修好通商条約と尊王攘夷 

●アヘン戦争の本当の原因 

●アヘン戦争と幕末維新の共通性 

 

第三章 ユニテリアン=フリーメイソンとアメリカ建国の真実

 

●渡米を熱望した諭吉 

●東アジアの貿易戦争で大英帝国を破ったアメリカ 

●諭吉のアメリカ行きを支えた人たち 

●ジョン万次郎の帰国とペリー来航 

●万次郎を育てたユニテリアン=フリーメイソン 

●ユニテリアン、そしてフリーメーソンリーとは何ものか? 

●アメリカ独立革命を戦ったのはユニテリアン=フリーメイソン 

●諭吉が理解したアメリカ建国の真実 

 

第4章 文久遺欧使節の諭吉とフリーメイソンの関係

 

●アメリカから帰国し、幕府に出仕 

●文久遺欧使節としてヨーロッパへ 

●フランスでの諭吉とフリーメイソン 

●英国での諭吉とフリーメイソン 

●諭吉、ロシアでスパイにスカウトされる 

 

第5章 攘夷の嵐を飲み込む大英帝国の策謀

 

●攘夷派の動向と一八六三年の福澤諭吉 

●下関事件と薩英戦争 

●文久三年の政治状況 

●一八六四年の福澤諭吉 

●四カ国連合艦隊下関砲撃 

●一八六五年からの福澤諭吉 

●第二次長州征伐の真実と諭吉の対応 

 

第6章 明治維新と慶応義塾設立

 

●一八六七年、幕府最期の年の福澤諭吉 

●福澤塾の移転と慶応義塾の誕生 

●戊辰戦争と幕府内部のイギリス勢力 

●日本の自立に必要なものは経済力 

●『学問のすすめ』刊行 

 

第7章 福澤諭吉と宣教師たちの本当の関係

 

●福澤諭吉とユニテリアン医師・シモンズ 

●宣教師A・C・ショーの正体 

●半開の国と定義された明治日本 

●福澤諭吉が尊敬したフリーメイソン、ベンジャミン・フランクリン 

 

第8章 日本の独立自尊と近代化のために

 

●日本の中央集権化に対抗した福澤諭吉 

●西南戦争は反逆ではなく、明治政府の内戦 

●交詢社設立の真の目的とは? 

●国際社会に認められる文明国の条件 

●憲法草案と明治一四年の政変 

●息子二人のアメリカ留学 

●ユニテリアン教会の宣教師ナップの招聘(しょうへい) 

●ユニテリアン教会の修道院として始まったハーヴァード大学 

●慶応義塾とハーヴァード大学の連携と大英帝国からの独立自尊の大戦略 

●アメリカの変質と、その後の福澤とユニテリアンの関係 

●晩年の福澤は帝国主義の思想を持っていたのか? 

 

おわりに

 

福澤諭吉年譜

 

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おわりに

 

 本書『福澤諭吉 フリーメイソン論』の書名にギョッとする人は多いだろう。それでも、この本を手にとって読んでくださる方々に、私は、心からの敬意を表します。

 

 私の福澤諭吉研究は、二〇〇八年に、「これまで知られていない福澤諭吉の真実の姿を、石井くん、丹念に調べて描いてみなさい」と、私が師事している副島隆彦先生から言われたことから始まった。

 

 福澤諭吉という偉大なる人物を私ごときが簡単に扱あつかえるのか、大きな不安があった。しかし、私はこの大人物の、これまで日本社会でまったく知られていない、知られざる側面を大胆に表に出した。

 

 二〇〇一年から始まった福澤諭吉の脱亜入欧(だつあにゅうおう)論をめぐる「安川・平山論争」が続いていた。私の考えは本文でずっと説明したが、「日本の昭和のアジア侵略まで福澤諭吉のせいにするな!」である。一九〇一年まで生きた人であり、民間人であることを貫いた福澤諭吉に、その後の日本の帝国主義の責任まであるとする安川寿之輔と、彼の意見に同調する人々は元々精神の歪んだ人々である。

 

 安川氏に丁寧に反論して文献を挙げて説明し、論争に勝利した平山洋氏を私は支持する。と同時に、私は碩学(せきがく)丸山真男と、小泉信三が福澤諭吉を上品に「自由」と「愛」の体現者であったように描いたことにも反対する。福澤諭吉が生きた一九世紀(一八〇〇年代)の自由や愛は、西洋近代の啓蒙(けいもう)(エンライトンメント)を受けて光り輝きながらも、幕末以来の血生臭いものだった。この辺りの感覚が理解できないと福澤諭吉の実際の生涯はわからない。

 

 私は福澤諭吉を研究してみて、さらに彼を深く尊敬する。彼の表おもて裏うらのない、綺麗事や偽善とは対極にある生き方に感服した。こんな真っ正直な日本の知識人を私は、福澤諭吉以外に知らない。この余りの真っ正直さが、あれこれと誤解も招いたのである。

 

 これまで出版された福澤諭吉の自伝、評伝からは、真実の福澤諭吉の姿が伝わってこない。

ここに、学者ではない私が、福澤諭吉の評伝を書く意味がある。この本には、私がコツコツと自力で掘り起こした諸事実によって照らし出される真実の福澤諭吉が詰まっている。私は、真実の福澤諭吉の姿を皆さんになんとしてもわかってほしい。この明治開国期の日本の偉人の本当の姿を文献証拠から味わっていただき、国民的課題として大きく福澤先生を見直してゆきたい。福澤の人格形成とともにあったのはアメリカ、そしてヨーロッパのフリーメイソンの思想である。日本の学者たちは勇気がないから、福澤先生と三田会(みたかい)、フリーメイソンの関連をあえて遠ざけて無視しようとする。これでは、フリーメイソン思想と福澤諭吉の深いつながりから見える明治期の全体像がわからない。

 

 天主教(てんしゅきょう)(ローマ・キリスト教会。隠れキリシタンたち。その中心が耶蘇[やそ]会=イエズス会)の伝統とはまったく別にあったフリーメイソン思想の日本への伝来は、一七七〇年代に遡ることができる。フリーメイソン=ユニテリアン思想は、豊後(ぶんご)中津(なかつ)や大阪堂島の交易人の系譜の人である福澤諭吉にまで伝わったのだ。

 福澤諭吉とフリーメイソン組織の深いつながりを、こうして微力な私が掘り当て、捜し出したことで日本人が世ワールド・ヴァリューズ界基準の歴史、思想を理解する一助になるだろう。読者をこの知的冒険に誘いざなうことができるなら私の本望である。

 

 この本を苦心して書き上げる上でSエスNエヌSエスIアイ学門道場主催者の副島隆彦先生と電波社書籍部編集長の岩谷健一氏にたいへんお世話になった。この場を借りて、厚くお礼を申し上げます。

  二〇一八年二月一〇日                        石井利明

 

(貼り付け終わり)


※私が学生時代に所属していましたサークル(地方学生の会)の先輩でお世話になっている森和也氏の書籍が発売されました。ぜひ手に取ってお読みください。 よろしくお願いいたします。

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