古村治彦の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、以下のアドレスをご覧ください。http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/goaisatsu.html 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。よろしくお願いします。

タグ:IS

ダニエル・シュルマン
講談社
2015-12-09






 

 パリで大規模なテロ事件が起き、多くの人々が犠牲となった事件が発生し、数日経ちました。犠牲となった人々を悼む動きはパリやフランス国内、更には世界中で見られます。犠牲となった人たちを悼むことは人間としてとても自然なことで、その感情もまた人間らしいものです。

 

 インターネットのSNS大手のフェイスブックでは自分のアイコンにフランス国旗を重ね合わせて哀悼と連帯の意を表示できるようになっています。私はあの三色旗の間の線が何かを閉じ込める格子のように見えるなぁと感じていますが、そうしたもまた人間的な感情の発露であると思います。

 

 フランスのオランド大統領は、IS(イスラム国)との「戦争」を宣言し、フランス憲法を改正するということまで発表しました。「自由・平等・博愛」で出来ていたフランスが急速に戦争国家へ転換していっています。

 

(新聞記事転載貼り付けはじめ)

 

パリ同時多発テロ:仏大統領、対テロ戦で憲法改正へ

毎日新聞 20151117日 2354分(最終更新 1118日 0113分)

http://mainichi.jp/select/news/20151118k0000m030139000c.html

 

 ◇過激な思想を持つモスクの閉鎖の検討も

 

 【パリ賀有勇】パリ同時多発テロを受け、フランスのオランド大統領は16日、テロ攻撃に柔軟に対応するため、非常事態宣言によらなくても強力な治安対策をとれるよう憲法改正に乗り出す方針を示した。また、国内のテロ対策を強化するため、危険人物を国外に迅速に追放したり、過激な思想を持つモスク(イスラム礼拝所)の閉鎖を命じたりすることの検討を始めた。同時テロで犯行声明を出した過激派組織「イスラム国」(IS)に対する空爆強化だけでなく、国内でもテロ対策に全力を挙げる姿勢を鮮明にした。

 

 非常事態宣言の根拠となる非常事態法は、アルジェリア独立戦争初期の1955年に公布され、現代のテロ攻撃などを想定していない。そのため、発動するには厳しい条件が課せられている。仏ルモンド紙によると、オランド氏は国民の自由に配慮するため、非常事態宣言に代わる手段で治安対策を強化できるよう、憲法改正を行う意向だという。

 

 憲法改正には、上下各院での過半数の賛成に加え、両院合同会議での5分の3以上の賛成か、国民投票での過半数の賛成が必要になる。

 

 また、オランド氏は議会に対し、テロ事件後に出した非常事態宣言を3カ月延長するよう要請した。現行の宣言下では▽裁判所の捜索令状なしでの家宅捜索▽報道規制▽人や車の往来の制限▽集会開催や夜間外出の禁止▽カフェやレストランの閉店−−などを命じることができる。

 

 一方、オランド氏は実行犯の中に監視対象者がいたにもかかわらず、国境を自由に行き来していたことなどを問題視し、新たなテロ対策を打ち出した。テロリストの流入を防ぎ、テロの芽を事前に摘むことを目的に▽過激思想を持つモスクの閉鎖▽危険とみなした外国人を速やかに国外追放するための手続きの簡素化▽国境警備に当たる職員やテロ対策に当たる警察官の増員▽過激思想の持ち主の監視強化−−を検討する。

 

 ISに対する軍事攻撃を巡り、オランド氏は17日、パリでケリー米国務長官と会談。空爆を強化し、圧力を強めていく方針を確認した。また、仏大統領府は、オランド氏がオバマ米大統領とワシントンで24日に、プーチン露大統領とモスクワで26日にそれぞれ会談すると発表した。

 

(新聞記事転載貼り付け終わり)

 

私は昨日まで鶴見俊輔著『思い出袋』(岩波新書、2010年)を読んでいました。鶴見俊輔はハーヴァード大学哲学科卒の哲学者で、ベ平連にもかかわっていた人物です。『思い出袋』は、彼が80代になってから書いた随想を集めた本です。この本を読んで、現在の状況を示唆する部分があったので、以下に引用します。

 


(引用はじめ)

 

もうひとつは、一九四五年日本占領のときに海軍軍医として日本にきた同級生が、名簿をたよりに私をたずねてきた。初対面だったが、彼が最高優等賞を取ってハーヴァード大学を出ていることは後で知った。彼、エリック・リーバーマンが話題にしたのは、米国はこれから全体主義になるだろうということだった。一九三〇年代のアメリカで学生だった私には、信じられなかった。しかし、二〇〇一年九月十一日の同時多発テロのあとにテレビに登場した米国大統領ブッシュが、「私たちは十字軍だ」という演説をしたとき、リーバーマンの予測が六十年たって当たったことを感じた。(50ページ)

 

 そのホッブスはイギリス革命の動乱の中で、終生はなれない恐怖とともに生まれた双子だった。ホッブス『リヴァイアサン』を読むと、自分一個の生命を保つためならば、各個人はなにをしてもいいという強い個人的な思いにその文体が支えられているのを感じる。彼が専制的支配を許すのは、そのような各個人の生命を守りたいためで、ホッブスをひっくりかえしたルソーのほうが全体主義に近い。(56ページ)

 

(引用終わり)

 

 今回のテロ事件に対する反応は2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件とその後を髣髴とさせるものです。鶴見のハーヴァード大学の同窓生は、彼に向かって、「アメリカは全体主義国家になる」と予言しましたが、アメリカが帝国として世界を支配する上で、国家の変質が起きているということだったのでしょう。そして、その「地」が暴き出されたのが、2001年の同時多発テロ事件だったのだと思います。

 

 鶴見俊輔はまた、思想家トマス・ホッブスとジャン=ジャック・ルソーを裏表の関係にある存在としてとらえています。ホッブスは各個人が「万人の万人に対する闘争」に嫌気がさして、自分たちの権利を一部放棄してでも、自分たちを食い殺す怪物である国家(リヴァイアサン)の支配を受け入れると主張しました。ルソーは、『社会契約論』で社会の成員全員が一致する一般意思による支配を主張しました。

 

 フランスは「自由・平等・博愛」というルソー的な建前を押し通してきましたが、「生命の危機」に直面することで、その装飾が剥がされ、ホッブス的な専制支配を受け入れる方向に進んでいます。更に言えば、「自由・平等・博愛」という建前の中に、人々を「抑圧」する要素があって、そのために簡単に専制的な方向に転換できるのだと思います。それを鶴見俊輔は「ホッブスをひっくりかえしたルソーの方が全体主義に近い」と喝破しているのだと思います。

 

 西洋の近代的な価値観を体現したようなフランスを戦争国家へと簡単に転換させたテロ事件ですが、アメリカの共和党ネオコンと民主党人道主義的介入派にとっては、大きな追い風となっているようです。今回の事件で誰が「利益」を得るのか、という視点から見れば、今回の事件を仕組んだ人々の存在が浮かび上がってきます。残念なことは、日本、そして安倍政権はその仲間に入っているようだということです。

 

(終わり)



アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12


野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23


 
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote




アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 今回から2回にわたり、イラクとシリアのイスラム国についての論稿をご紹介します。分かりやすい内容となっています。お読みいただければ、状況が少しは理解できると思います。

 

==========

 

イラクとシャームのイスラム国(ISIS):その短い歴史について

―情熱的な空想から殺人集団になるまでのテロリスト・グループの進化

 

ボビー・ゴウシャウグ(Bobby Ghoshaug)筆

2014年8月14日

『ジ・アトランティック(The Atlantic)』誌

http://www.theatlantic.com/international/archive/2014/08/isis-a-short-history/376030/

http://www.theatlantic.com/international/archive/2014/08/isis-a-short-history/376030/2/

 

イラク全土の掌握という危機を招来させたスンニ派武装勢力であるが、2014年7月初めにモスルに殺到した時、突然地上に出現したように人々には思われた。しかし、「イスラム国(Islamic State)」という簡単な名前に最近変えたグループは、1990年代初めから、様々な名前と様々な形で存続してきたのだ。その歴史は、政治的、宗教的な理想主義者たちが殺人集団になるまでの、現代のテロリズムがどのように進化してきたかを語るもの勝ちなのである。

 

●「タウヒードとジハード集団」(Jama'at al-Tawhid wal-JihadJTJ):初期段階

 

 このグループは、20年以上前に、ヨルダン生まれのアブー・ムスアブ・アル=ザルカウィ(Abu Musab al-Zarqawi 1966~2006年)の情熱的な空想から生まれた。ザルカウィは町のチンピラであったが、1989年にムジャヒディーン(mujahideen)に参加すべくアフガニスタンに向かった。しかし、ソ連と戦うためには時期が遅すぎた。彼はヨルダンに戻り、それ以降数十年にわたり、国際的な「聖戦(jihad)」暴力運動における指導者として活動した。彼はアフガニスタンに戻り、テロリスト養成のための訓練キャンプを作った。1999年にはオサマ・ビン・ラディン(Osama bin Laden 1957~2011年)に会ったが、彼のテロ組織アルカイーダ(al-Qaeda)には参加しなかった。

abumusabalzarqawi001
ザルカウィ 

 
osamabinladin001
ビン・ラディン
 

 2001年にアフガニスタンのタリバン(Taliban)政権が崩壊し、ザルカウィはイラクへの避難を余儀なくされた。ブッシュ政権がアルカイーダがイラク国内にいてサダム・フセイン(Saddam Hussein 1937~2006年)大統領とつながっていることの証拠として使われるまで、ザルカウィの存在はほとんど知られていなかった。 実際には、ザルカウィは組織に属しておらず、自分自身でテロ組織を構築しようとしていた。2003年にアメリカはイラクに侵攻した。その直後、現在のイスラム国の前身となる組織を作った。それがタウヒードとジハード集団(Jama’at al-Tawhid w’al-Jihad、英語で直訳すると、一神教と聖戦の党[the Party of Monotheism and Jihad])である。この組織のメンバーのほとんどがイラク人ではなかった。

 

 ザルカウィの発言内容なビン・ラディンとよく似ていいたが、彼の攻撃対象は全く別であった。そのスタートの時点から、ザルカウィの愛情はイスラム教徒同胞、特にイラクの人口の多数を占めるシーア派に向けられた。ビン・ラディンとアルカイーダはシーア派を異端(heretics)と見なしていた。しかし、シーア派を殺害対象とすることはほとんどなかった。

 

 ザルカウィの意図は、イラク国内でシーア派にとって最も神聖な祈りの場所であるイマーム・アリ・モスクを爆破することであった。爆破事件が起きた時、私はその現場にいた。 多くの生存者たちは「どうして私たちなのだ?アメリカ人がそこら中にいるというのに、どうして私たちなのだ?」と言っていたことを記憶している。

 

 一つの理由、それは「とても簡単にできたから」である。シーア派は反撃する能力を持っていなかったために、攻撃対象にされやすかった。また、そこには政治的な計算もあった。サダム・フセインの失脚後、長年イラクの権力構造を支配したスンニ派の政治家たちに代わって、シーア派の政治家たちが権力を掌握した。ザルカウィはシーア派に対するスンニ派の憎悪を利用して、協力者を作り上げ、自分たちのグループにとっての安全な隠れ家を探そうとしたのだ。それはうまくいった。ザルカウィは、シーア派が多く住む地区や町にあるモスク、学校、カフェ、市場で自爆攻撃を繰り返した。

 

●アルカイーダ:その勃興と衰退

 

 2004年までには、ザルカウィは国際「聖戦」運動におけるスーパースターとなった。それは、イラク国内で自爆攻撃を繰り返し行っていたからだ。そして、オサマ・ビン・ラディンの信認を得た。ザルカウィは自分が率いる組織をビン・ラディンのアルカイーダに合流させた。この組織は、「メソポタミア・アルカイーダ(al-Qaeda in Mesopotamia)」と呼ばれる。これとアフガニスタンの類似組織「マグレブ・アルカイーダ(al-Qaeda in the Maghreb)」と混同してはならない。

 

 しかし、ザルカウィの参加後すぐに、アルカイーダの幹部たちは、ザルカウィの一般人を攻撃対象にすることに不安を持つようになった。2005年、ビン・ラディンの右腕アイマン・ザワヒリ(Ayman al-Zawahiri, 1951年~)はザルカウィに手紙を送り、その中で彼の戦術を窘めた。しかし、ザルカウィはそれを無視した。昨年、ザワヒリはISISの新しい指導者アブー・バクル・アル=バグダーディ(Abu Bakr al-Baghdadi 1971年~)の過度な残忍性に苦しめられた。そして、そのことを注意したのだが、今回もそれは無視された。

abubakralbaghdadi001
バグダーディ 

 

 2006年春頃までに、ザルカウィは自分ことを「アミール(Emir イスラム教国の首長)」や反乱軍の司令官以上の存在だと考えるようになっていた。彼は精神的な指導者にもなりたいと思うようになっていた。ザルカウィの「首長」としての後継者バグダーディも同じ考えに取り憑つかれた。そして、モスルを奪取した後、自分自身を「カリフ(教皇)」に任じた。ザルカウィは自分の協力者たちに対してだけでは飽き足らず、女性はヴェイルを必ず着用することや犯罪者には斬首刑で臨むことなど、イスラム宗教法シャーリア(sharia)のザルカウィによる厳しい解釈にスンニ派の人々は従うべきだと主張するようになった。これに抵抗する場合、たとえスンニ派の指導的な立場にある人でも処刑された。

 

 しかし、ザルカウィの野望は2006年6月に突然幕を閉じることになった。アメリカ空軍の戦闘機が2発の500ポンド爆弾を、バクダッドから北に20マイル行ったところにあったザルカウィの隠れ場所に落としたのだ。

(つづく)



野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23








このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

このページのトップヘ