古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。X accountは、@Harryfurumura です。ブログ維持のために、著作のお買い上げもよろしくお願いします。

2014年08月




アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23

 

 古村治彦です。今回も日本の政局について書いていきたいと思います。

 

 前回は、9月3日に行われる内閣改造で、石破茂・自民党幹事長が自民党幹事長を退き、無役になるという前提で文章を書きました。しかし、石破氏は無役にはならずに(反主流派にならずに)、内閣に入るのではないかという話が大きくなってきました。

 

 石破氏にしてみれば、「閣外に去ることは、反主流派ということになって、自分にはその気がなくても倒閣運動をするように見える。また、党内の安倍政権に反対する勢力に祀り上げられることもあるが、この勢力は小さいために、倒閣も失敗に終わるだろう」という考えがあるようです。「閣外に去って倒閣を目指して失敗するよりも、閣内にいて協力した、挙党一致体制作りに腐心したという方が次につながる」ということもあるでしょう。

 

 安倍首相は、「石破氏は幹事長として総選挙を指揮し、一年生議員を中心にある程度の勢力を保持している。無役にして、反安倍勢力の旗頭にしてしまうと、どういうことが起きるか分からない。だから、幹事長の留任は飲めないが、何とか大臣として閣内に留めておきたい」という考えがあるようです。

 

 安倍政権は、内閣は菅義偉官房長官、党内は石破茂幹事長が何とか抑え、睨みを利かせることで、ここまでやってこられた印象があります。安倍氏や周辺の補佐官や大臣の一部が余りにもアホなのを菅氏、党内の劣化し、つまらない問題を起こしがちな若手議員の一部を石破氏がそれぞれ何とか面倒を見ることで続いてきました。安倍体制はこれといった強力な反対勢力が党内にも、そして党外にもいないために、盤石なように見えます。

 

 しかし、どんな世界でもそうですが、好敵手や油断ならない相手がいることでこそ、気を引き締め、警戒し、実力を高めようと努力するものです。そうした存在がいないことは、安倍氏にとって幸せではありますが、同時に不幸せなことです。そして、自民党で考えてみれば、大臣になるためにおとなしくはしていますが、なれなかった場合にはその不満が一挙に執行部に向かうことになります。そういう健全ではない嫉妬心から、ほころびが出てくるということも考えられます。

 

 自民党の幹事長という存在は、党総裁が内閣総理大臣になる場合、党の全てを取り仕切る最重要ポストです。自民党幹事長を経験することは、総理総裁ポストへの切符です。これまでの政治史を見ていると、自民党幹事長に就任した政治家は3つのタイプに分けられます。①派閥の領袖クラスで、次の総理総裁への良い位置取りを狙う、②派閥のナンバー2タイプで、領袖が出られない時にお目付け役となる、③軽量級で、総裁の意向に絶対服従、です。石破氏は①のタイプに分類されると思います。

 

 安倍氏にしてみれば、石破氏は仕事だけして、自分の次として自分を脅かすような存在にはなって欲しくないのです。そして、2012年からこれまでやってきましたが、実はかなり煙たく思っているようです。そこで、①のタイプの石破氏から、③のタイプに変更したいという意向なのです。そして、できたら女性を登用して、目先を変えたいということも考えていて、それで、小渕優子氏の名前も出ているのでしょう。

 

 この煙たい存在の重要なポストからの排除はしかし、諸刃の剣で、やりやすくなりますが、同時に実力不足の幹事長は党勢を低下させる危険性もあり、そうなるとその影響が政権にまで波及し、任命責任者である安倍氏の責任問題ということになります。

 

 石破氏が②のタイプだったら、総理総裁を目指さないという立場であれば、恐らく続投もあったでしょうが、前回の総裁選では、一回目の投票では安倍氏は石破氏に大差で敗れています。

 

 安倍氏にとっては決断を迫られる週末ということになるでしょう。ここで、石破氏がどれくらい条件闘争をして、自分に有利になるように動けるかがカギになると思います。

 

(新聞記事転載貼り付けはじめ)

 

●「<内閣改造>新幹事長、どんな顔? 自民役員人事」

 

毎日新聞 2014年8月29日

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140829-00000005-mai-pol

 

 安倍晋三首相と自民党の石破茂幹事長は29日、内閣改造・党役員人事について会談する。石破氏は幹事長続投を希望しているのに対し、首相はあくまで入閣を求める構え。秋の福島、沖縄両県知事選と来春の統一地方選、さらには次期衆院選も指揮する可能性がある新幹事長には、選挙実務にたけたベテランを推す声と、首相に次ぐ「党の顔」の待望論が交錯している。【高本耕太、水脇友輔】

 

 「人事を決めるのは首相だ。党が一致団結して今後の政治運営にあたりたい」。自民党の大島理森前副総裁は28日、大島派の会合で、首相と石破氏の会談を念頭に、人事を巡って党内で不協和音が高まらないよう引き締めた。首相は幹事長ら党三役を全員交代させる意向とみられ、石破氏が留任するとの見方は党内にほとんどない。いきおい、後任の幹事長人事に注目が集まる。

 

 新幹事長の最初の関門は、東日本大震災の復興政策が問われる10月の福島県知事選と、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の県内移設が争点になる11月の沖縄県知事選だ。

 

 与党は7月の滋賀県知事選で敗北し、首相の求心力を低下させないために「3連敗は絶対避けたい」(自民党幹部)のが本音。その先には統一選が控えており、ベテラン議員は「党内の根回しなど実務能力が高いことが次の幹事長の条件だ」と指摘する。

 

 このため、石破氏の後任候補には党内で人望がある河村建夫選対委員長が浮上。首相と同じ町村派の出身で「首相を裏切らない」(同派幹部)と評される細田博之幹事長代行の起用も取りざたされている。各派閥や党OBとパイプが太い二階俊博元経済産業相の名前も挙がるが、首相官邸サイドは「党の力が強くなり過ぎる」と慎重だ。

 

 2012年9月の党総裁選の際、党員投票でトップだった石破氏は知名度の高さが武器で、メディアへの露出も多い。それでも首相が石破氏を交代させるなら、安倍内閣の支持率が頭打ちになる中、「調整型」の幹事長で勢いを取り戻せるのかと不安視する向きもある。中堅・若手議員には「統一選や国政選挙の『看板』になれる人がいい」と、サプライズ人事を期待する声が根強い。首相の「女性活用」方針もあって、その一番手に挙がるのが小渕優子元少子化担当相だ。ただ、ある党幹部は「知名度優先の『空中戦』に頼って、重要政策や選挙が乗り切れるほど甘くはない」と慎重な見方を示している。

 

●「安倍首相:石破氏処遇に苦慮「総務相兼創生担当相」案浮上」

 

毎日新聞 2014年8月29日

http://mainichi.jp/select/news/20140828k0000m010182000c.html

 

 9月3日の内閣改造・自民党役員人事を巡り、安倍晋三首相が安全保障法制担当相への就任を辞退する意向を表明した石破茂幹事長の処遇に苦慮している。石破氏は幹事長の続投を希望しているが、重点政策の安保法制で自説にこだわる石破氏を続投させるのは困難との見方が強い。ただ、無役になれば石破氏が党内で安倍政権への批判勢力を結集する懸念があり、総務相として起用し、新設する地方創生担当相も兼務させる構想が浮上している。

 

 「人口減少、超高齢化という構造的な課題に正面から取り組み、現状を変えていかなければならない」。首相は27日、首相官邸で開いた地方創生に関する有識者懇談会で、内閣改造後に人口・地方対策に取り組む意欲を強調した。

 

 首相は当初、石破氏が安保担当相への就任を辞退すれば、「無役」にして政権運営の中枢から外す構えだった。7月の滋賀県知事選で与党系候補が敗北したことや、11月の沖縄県知事選に向けた候補者調整の失敗などで「首相は党運営に不満を持っている」(閣僚経験者)とされ、後任幹事長には自らに近い議員を起用する意向とみられる。

 

 続投希望を明言した石破氏を巡っては、自民党内に「首相の人事権に口を出すのはおかしい」との批判が強まっている。一方、首相周辺には来年9月の党総裁選を見据え、有力な対立候補となる可能性のある石破氏を別ポストで閣内に取り込み、政権運営の「連帯責任」を負わせた方が得策との考えがある。

 

 石破氏は首相と顔を合わせた26日の政府・与党連絡会議後、国会内で菅義偉官房長官と会談。菅氏は人事に関して石破氏の感触を探ったとみられる。石破氏周辺では、総務相での起用案について「安保法制の所管外の閣僚ならば断る理由は少ないのではないか」(ベテラン議員)との声がある。石破氏を総務相に起用する場合、地方創生担当相を兼務させるか、目玉人事として別の閣僚に担当させるかも焦点になるとみられる。

 

 このほか、内閣改造を巡っては、遠藤利明元副文部科学相の文科相か「スポーツ担当相」での起用や、山口俊一前副財務相の入閣が有力になった。【木下訓明】

 

(新聞記事転載貼り付け終わり)

 

(終わり)







 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック




アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12





 

 古村治彦です。今回は現在の政治状況について書きます。

 2014年9月3日に、第二次安倍内閣の内閣改造が予定されています。これに合わせて、自由民主党執行部の顔触れの変更も予定されています。夕刊紙などでは、60名の入閣適齢期の人々(大体5回当選以上の政治家)がいるが、大臣は18名分しかないので、悲喜こもごもの人間劇が展開されるだろうという予想を立てています。自民党は2009年から2012年まで野党でしたので、この期間に大臣になるべき人々が無役で過ごすことになり、2012年の総選挙で当選回数が1回ずつ加えられたことで、適齢期者が増えました。大臣適齢期という考え方が、いわゆる年功序列を基礎にしており、賛否両論ありますが、党の安定性(不満を抑える)を維持する上では重要な役割を果たしてきたと思います。

abeshinzoishibashigeru005
 

 

 今回の内閣改造で注目されているのは、現在、自民党幹事長を務めている石破茂氏の去就です。石破氏が幹事長を辞任し、新設される安全保障法制担当大臣に就任するのではないかと言われていましたが、石破氏は正式に辞退を安倍首相に伝えたようです。これによって、石破氏は幹事長を辞任し、主要な役職に就く可能性がかなり低くなりました。

 

 安倍首相と石破氏は、2012年の自民党総裁選で総裁の座を争った間柄です。共にタカ派的ですが、石破氏の方が論理的でかつ理性的である印象があります。元航空幕僚長の田母神俊雄氏は、石破氏について、「靖国神社に参拝しないので総理大臣にふさわしくない」という発言をしていますが、このことだけでも、彼が安倍晋三氏などよりもずっと総理大臣にふさわしい人物だということが分かります。

 

 以下の新聞記事にあるように、石破氏は、唖然保障法制に関して、安倍首相とは考えの違いがあり、自分が安保法制担当相に就任すると、内閣不統一から安倍内閣に迷惑をかける可能性があると述べています。安倍首相は安保関連の各法を改定するという方式を採り、一方、石破氏はもっと包括的な法案通過を目指すという点で違いがあるようです。

 

 戦後政治史を見ていくと、重要人物が閣外に去ることは、反主流派に回り、倒閣運動を起こすということを意味してきました。ある派閥の領袖級が政権に参画しないとなると、その派閥の政治家たちは冷や飯食いとなって、大臣や当の重要役職に就けなくなります。こうしたことが自民党の内部闘争を生み出し、自民党にエネルギーを注入することになっていました。しかし、現在は派閥の力は弱まっています。石破氏が特定の派閥を率いているということはありません。

 

 石破氏は、2012年の自民党総裁選で、安倍氏と決選投票まで争い敗れました。1回目の投開票では、石破氏が199票(議員票:34、地方票:165票)、安倍氏が141票(議員票:54、地方票:87)でした。過半数が250票でしたので、国会議員による決選投票になり、安倍氏が108票、石破氏が89票で、安倍氏が自民党総裁になり、総選挙でも勝利し、第二次安倍晋三内閣を組織した訳です。この時の総裁選には、石原伸晃(父親の石原慎太郎に頼まれて森喜朗が支援)、町村信孝(安倍氏も所属する町村派の領袖)、林芳正(参議院議員初の総裁選立候補者で安倍氏と同じ山口県を地盤)といった人々も出馬し、石橋包囲網を形成していましたから、石破氏は不利な状況であったと言えます。

abeshinzoishibashigeru006
 

 

この投票結果から分かることは、石破氏は自民党の国会議員たちには人気がないのかもしれませんが、党を支える地方組織の間では圧倒的な人気があることが証明されました。これは、地方組織という、有権者と直接対峙し、国民の生活をじかに目にする最前線では、安倍氏よりも石破氏の方が首相にふさわしいと判断されたということです。しかし、はっきり言って、劣化が著しい自民党議員たちからすれば、勇ましい掛け声の安倍氏の方が自分たちが担ぐのにふさわしいということになりました。結果として、総選挙は自民党が勝利したのですから、その判断は正しかったと言えますが、あの時の総選挙は誰が総裁でも勝利は確実でありました。

 

 安倍氏は首相に就任以来、日本の右傾化をそのまま象徴するような政策を次々と実行してきました。それに対して、懸念の声も上がっていますが、彼を止めるだけの力を持つ政治家や野党勢力は存在しないのが現状です。野党においても、安倍氏支援別働隊が過半を占めているのが現状であり、米政翼賛会体制が続いています。ここで、石破氏が閣外に去るということは、大変重要であると思います。


toujouhidekikishinobusuke001

 

 戦時中の政治史に目を向けると、東条英機内閣瓦解の引き金を引いたのは、当時、小康大臣として入閣していた岸信介、そう、安倍晋三首相の祖父です。彼は反東条の立場を鮮明にしたことで、東条内閣は総辞職しました。また、岸は後に戦犯として逮捕されますが、この時の反東条の動きによって、彼は戦後においても政治的生命を保ったと言えます。

 

 石破氏が安倍内閣瓦解の引き金を引くのかどうか、大変に注目されるところですが、まさに「因果は巡る糸車、巡り巡って風車」ということが言えましょう。

 

(転載貼り付けはじめ)

 

●「石破茂幹事長「安倍さん、私にいい感情ないかも」 25日のラジオ番組から」

 

2014年8月27日 MSN産経ニュース

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140827/stt14082706000002-n1.htm

 

 国の命運を担う政府や最大与党の自民党の人事異動はすごく大事だ。(安倍晋三首相から安全保障法制担当相の就任について)正式な依頼も受けていないのに、ああだのこうだのと無責任なことは言えない。

 

 首相と百パーセント考え方が一緒の人が(国会で)答弁するのが一番いい。(安保担当相が)「(首相と考え方が)違う」と言ったら国会は止まってしまう。憲法や外交の絡む安全保障については(首相との一致が)極めて大事だ。私も自分の考えを全部言っていたら(安保法制の)与党協議もまとまらなかった。自分の考えを全部抑えてやってきた。「安倍氏が総理総裁をやる以上支える」と言ってきたことに嘘はないし、これからも嘘は言わない。

 

 自民党が政権にあるのは野党だった時も歯を食いしばって支えてくれた地方組織のおかげだ。「地方(の選挙)できちんと勝てるようにして初めて政権奪還は完成する」と言ってきた。厳しいといわれる(福島、沖縄両県の)知事選も勝てるようにすることは私としてはやりたいことだ。

 

 総理総裁になることは手段であって目的ではない。自分よりふさわしい人がいたらその人を応援するのが当然だ。(来年の党総裁選への出馬は)その時の状況による。

 

 (首相との不仲説は、安倍第1次政権のときに)安倍さんは一回辞めたほうがいいと言ったりした。自分が一番苦しいときにそんなことを言った人間にはいい感情を持ってもらえないかもしれない。私は国会議員になってゴルフをしないようにしている。してもいいが(首相との間柄は)会って顔も見たくないというようなことはない。歴史上の人物で好きなのは(元外相の)小村寿太郎。明智光秀、石田三成も嫌いじゃない。

 

 

●「なぜ江渡氏? 首相、「石破系」排除を決断」

 

2014年8月26日 MSN産経ニュース

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140826/plc14082605000004-n1.htm

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140826/plc14082605000004-n2.htm

 

 安倍晋三首相は、9月の内閣改造で新設する安全保障法制担当相に関し、自民党の石破茂幹事長が就任辞退の意向を明言したことから、「石破系」を排除する方針を決めた。その結果、浮上してきたのが江渡聡徳(えと・あきのり)衆院安全保障委員長だった。

 

 安保担当相をめぐり、石破氏は首相に対し、安保法制の与党協議で司会を務めた中谷元(げん)元防衛庁長官を内々に推薦していた。石破氏は周囲に、与党協議メンバーだった岩屋毅党安全保障調査会長も「有力候補」と語っていた。

 

 ただ中谷氏は、集団的自衛権の行使容認に関し、包括的な「国家安全保障基本法案」の制定を最優先すべきだとの立場で、石破氏と同じだ。

 

 首相は、基本法案については「国会審議に時間がかかりすぎる」として、自衛隊法の改正など個別法の整備を最優先に取り組むことにしている。

 

 石破氏は25日のTBSラジオの番組で、与党協議では「自分の考えを抑えてやってきた」と発言した。さらに、自らが安保担当相として答弁すると首相との見解の相違が表面化することを指摘した。

 

 このため首相は、中谷氏を安保担当相に起用しても「閣内不一致」が生じる危険を懸念したといえる。

 

 岩屋氏は、平成24年9月の自民党総裁選で、安倍首相の支援を決めた麻生派に所属しながら石破氏を支援した。首相とは当時の「見えざるしこり」(閣僚経験者)があり、首相は当初から岩屋氏の起用に慎重だったという。

 

 江渡氏は当選5回と中谷(8回)、岩屋(6回)両氏よりも当選回数では劣り、「党防衛族の中でもまだ若手」(自民党幹部)とされる。しかし、安倍政権で2度も防衛副大臣を務め、首相の安全保障政策を理解している。

 

 さらに、江渡氏は大島派に所属し、初当選直後から同派の前会長、高村正彦副総裁から安保政策の薫陶を受けてきた。高村氏は与党協議の座長を務め、首相の意をくむ形で公明党との調整にあたった。首相は、江渡氏であれば、公明党との調整に引き続きあたる高村氏と意思疎通が図りやすいとの判断もあったようだ。

 

(転載貼り付け終わり)

 

(終わり)



野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23






 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック




アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12






 ザルカウィの死によって、アルカイーダに逆風が吹くようになった。スンニ派の諸部族の多くがザルカウィのシャーリア支配に反発し、反撃を始めた。デイヴィッド・ペトレイアス(David Petraeus 1952年~)大将率いる米軍は、反乱軍の反乱軍に資金や物資を援助する、「覚醒(Awakening)」作戦を展開した。スンニ派の諸部族は、以前はアメリカと戦うことを望んだが、アルカイーダと戦うことを望むようになった。このような諸部族は「イラクの息子たち(Sons of Iraq)」と呼ばれた。そして、ザルカウィ自身がそうであるように、アルカイーダの指揮官たちの多くが外国生まれである事実が喧伝された。イラクのスンニ派の人々は、アメリカに協力することで以前犯した犯罪が免罪になると考えた。更に、破壊されたスンニ派居住地域の再建に有利な政府との契約が結べ、バグダッドにおける政治権力を共有できるとも考えた。

davidpetraeus001
ペトレイアス
 
 

 ペトレイアスの「覚醒」作戦は、多数の米軍の投入に支えられていた。そして、それはある時点まではうまくいっていた。ザルカウィ率いるアルカイーダの外国人メンバーたちは、ザルカウィの死によって落胆し、イラクを出ていった。しかし、ペトレイアスの作戦は、イラク国内での暴力対決を減少させ、アメリカ軍の撤退を可能にするために立てられたものであって、ザルカウィが始めたシーア派とスンニ派との間の軋轢を修復するためのものではなかった。アメリカの政治家や軍司令官たちは、2つのグループの間で政治的な対話ができるようなスペースを作ると語ったが、しかし、こうした試みは気まぐれな結果を生み出しただけだった。平和な状態を続けるという使命は、イラクの選挙を経て成立した政府に任された。この政府を率いているのは、ヌーリー・マーリキー(Nouri al-Maliki, 1950年~)首相である。

nourialmaliki001
マリキ

 アメリカが気付いたように、マリキとシーア派の政治連合は、イラクの復興よりもスンニ派に対する逆襲を行うことに関心を持っていた。「イラクの息子たち」は約束された給料の支払いを拒否された。諸部族の指導者たちは政府との約束を反故にされた。バグダッドでは、スンニ派の政治家たちは無視され、度々恥をかかされ、時には処刑された。スンニ派の政治家で最高位の職(副大統領)に就いていた、タリク・アル=ハシミ(Tariq al-Hashimi 1942年~)はテロリズムにかかわった容疑で告発された直後に国外脱出した。彼にはすぐに開かれた欠席裁判で死刑を宣告された。

tariqalhashimi001
ハシミ 

 

 マリキ首相は、イラクの警察と軍隊の幹部にシーア派を登用し、その中には民兵組織に属し、スンニ派の人々を殺害した人々がいる。スンニ派の憎悪は再び高まり、アルカイーダの再登場を許す土壌となった。

 

●イスラム国:最初はイラク、続いてシリア

 

 2011年までに、アメリカ軍はイラクから完全に撤退した。アルカイーダはアブー・バクル・アル=バグダーディによって支配されるようになった。そして、アルカイーダは、外国での展開から、イラク国内での展開にシフトした。バグダーディは名前が示すように、イラク人である。外国人がいなくなったことで、「イラクの息子たち」とその親族たちは、アルカイーダに対する憎悪を忘れることが容易になった。ここにもう一つの名前の変更が行われた。アルカイーダは、イラク・イスラム国(Islamic State of Iraq、ISI)として知られるようになった。

 

 バグダーディはザルカウィの戦術を採用し、それを拡大した。シーア派は彼にとっての主要な攻撃目標であり続けたが、警察署や軍隊の駐屯地、検問所、新兵募集事務所といった場所に自爆テロ攻撃を繰り返した。一般人に対する攻撃も続けられた。イラク・イスラム国家の幹部は、「イラクの息子たち」だった人々が占めるようになった。その多くがサダム・フセイン時代の軍隊の司令官や将兵であった。これによって、バクダーディの手兵たちは、寄せ集めの反乱軍ではなく、軍隊の雰囲気を纏うようになった。

 

 バグダーディに許には数千人の武装勢力が集結し、シリアで、対シーア派の第二戦線を開いた。シリアでは、バシャール・アル=アサド(Bashar al-Assad 1965年~)大統領に対する大規模な反乱が起きていた。バグダーティと彼の宣伝者たちにとって問題だったのは、アサドとアサド軍の司令官たちの多くが、シーア派の一派であるアラウィー派(Alawites)であることだった。イラクから百戦錬磨の兵士たち(battle-hardened)を送り込んだことで、イラク・イスラム国家は、シリア国内の反アサド勢力の中で、最も戦闘力の高い武装勢力グループとなった。そして、シリア各地でアサド軍と激しい戦闘を繰り広げた。バグダーディは彼のグループを「イラク・シリア・イスラム国(Islamic State in Iraq and Syria、ISIS)」と改称した。これは、彼の更なる野望を示すものであった。彼が掲げる黒い旗にはアラビア語で「神だけが存在されている(There is no god but god)」と書かれている。 そして、多くの人々が預言者ムハマンドの紋章だと信じているマークが大量に作られ、そこかしこに貼られている。


basharalassad001
アサド

●イスラム国:最後の戦い?

 

 ザルカウィがイラクを掌握したように、バクダーディはシリアを掌握した。バクダーディは、イスラム国家が支配するシリアの町や村、特にラッカー県で厳しい弾劾を始めた。2014年初頭、アサド軍が再編成し、反撃を始めた。2014年5月、アサド軍はホムスを再奪取した。ホムスは反アサド蜂起の象徴的な場所であった。これは反アサド派に大きなダメージとなった。

 

 しかし、バグターディは、自分の生まれ育った国でのより大規模な、そして大胆な攻撃を計画していた。翌月のモスル奪取はイラク・シリア・イスラム国の進化の新たな段階を示した。イスラム国は、自爆攻撃で攻撃員を死に追いやらなくても、勢力範囲を獲得し、コントロールすることができるし、それを望むようになったのだ。バグダーディは、この機会を捉え、自分自身を「カリフ(教皇)」の地位に任じ、グループを「イスラム国(Islamic State)」に改名した。これには、バグダーディの地中海からペルシア湾までの地域全体を支配するという野望が示されているのだ。

 

 バクダーディは攻撃対象を拡大していった。イスラム国は、シリアでキリスト教徒やクルド人のような宗教、民族少数派と対峙したが、彼らへの対処について何か決まった方針はないように見えた。戦闘員たちは自分たちの判断で行動する自由があった。しかし、モスルでは、「カリフ(教皇)」からの命令が下った。非イスラム教徒は特別な税金を払うか、立ち去るか、改宗するか、さもなければ死刑にすべし、というものであった。最後の2つの選択肢が奨励された。モスルに古くからあるキリスト教の共同体が最初に攻撃対象にされた。そして数千人のキリスト教徒がモスルを脱出した。イスラム国が拡大していくにつれて、少数派の人々は自分たちに危機が迫っていることを認識するようになっていった。

 

 現在までにイスラム国家とバクダーディは世界のマスコミの注意を引き、連日報道されている。こんなことになるなどザルカウィは想像すらしていなかっただろう。世界中の人々は次のような疑問を持っていることだろう。あんな人々を地獄に突き落とすような奴らは一体どこから出てきたんだ?

 

(終わり)



野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23






 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック




アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 今回から2回にわたり、イラクとシリアのイスラム国についての論稿をご紹介します。分かりやすい内容となっています。お読みいただければ、状況が少しは理解できると思います。

 

==========

 

イラクとシャームのイスラム国(ISIS):その短い歴史について

―情熱的な空想から殺人集団になるまでのテロリスト・グループの進化

 

ボビー・ゴウシャウグ(Bobby Ghoshaug)筆

2014年8月14日

『ジ・アトランティック(The Atlantic)』誌

http://www.theatlantic.com/international/archive/2014/08/isis-a-short-history/376030/

http://www.theatlantic.com/international/archive/2014/08/isis-a-short-history/376030/2/

 

イラク全土の掌握という危機を招来させたスンニ派武装勢力であるが、2014年7月初めにモスルに殺到した時、突然地上に出現したように人々には思われた。しかし、「イスラム国(Islamic State)」という簡単な名前に最近変えたグループは、1990年代初めから、様々な名前と様々な形で存続してきたのだ。その歴史は、政治的、宗教的な理想主義者たちが殺人集団になるまでの、現代のテロリズムがどのように進化してきたかを語るもの勝ちなのである。

 

●「タウヒードとジハード集団」(Jama'at al-Tawhid wal-Jihad、JTJ):初期段階

 

 このグループは、20年以上前に、ヨルダン生まれのアブー・ムスアブ・アル=ザルカウィ(Abu Musab al-Zarqawi 1966~2006年)の情熱的な空想から生まれた。ザルカウィは町のチンピラであったが、1989年にムジャヒディーン(mujahideen)に参加すべくアフガニスタンに向かった。しかし、ソ連と戦うためには時期が遅すぎた。彼はヨルダンに戻り、それ以降数十年にわたり、国際的な「聖戦(jihad)」暴力運動における指導者として活動した。彼はアフガニスタンに戻り、テロリスト養成のための訓練キャンプを作った。1999年にはオサマ・ビン・ラディン(Osama bin Laden 1957~2011年)に会ったが、彼のテロ組織アルカイーダ(al-Qaeda)には参加しなかった。

abumusabalzarqawi001
ザルカウィ 

 
osamabinladin001
ビン・ラディン
 

 2001年にアフガニスタンのタリバン(Taliban)政権が崩壊し、ザルカウィはイラクへの避難を余儀なくされた。ブッシュ政権がアルカイーダがイラク国内にいてサダム・フセイン(Saddam Hussein 1937~2006年)大統領とつながっていることの証拠として使われるまで、ザルカウィの存在はほとんど知られていなかった。 実際には、ザルカウィは組織に属しておらず、自分自身でテロ組織を構築しようとしていた。2003年にアメリカはイラクに侵攻した。その直後、現在のイスラム国の前身となる組織を作った。それがタウヒードとジハード集団(Jama’at al-Tawhid w’al-Jihad、英語で直訳すると、一神教と聖戦の党[the Party of Monotheism and Jihad])である。この組織のメンバーのほとんどがイラク人ではなかった。

 

 ザルカウィの発言内容なビン・ラディンとよく似ていいたが、彼の攻撃対象は全く別であった。そのスタートの時点から、ザルカウィの愛情はイスラム教徒同胞、特にイラクの人口の多数を占めるシーア派に向けられた。ビン・ラディンとアルカイーダはシーア派を異端(heretics)と見なしていた。しかし、シーア派を殺害対象とすることはほとんどなかった。

 

 ザルカウィの意図は、イラク国内でシーア派にとって最も神聖な祈りの場所であるイマーム・アリ・モスクを爆破することであった。爆破事件が起きた時、私はその現場にいた。 多くの生存者たちは「どうして私たちなのだ?アメリカ人がそこら中にいるというのに、どうして私たちなのだ?」と言っていたことを記憶している。

 

 一つの理由、それは「とても簡単にできたから」である。シーア派は反撃する能力を持っていなかったために、攻撃対象にされやすかった。また、そこには政治的な計算もあった。サダム・フセインの失脚後、長年イラクの権力構造を支配したスンニ派の政治家たちに代わって、シーア派の政治家たちが権力を掌握した。ザルカウィはシーア派に対するスンニ派の憎悪を利用して、協力者を作り上げ、自分たちのグループにとっての安全な隠れ家を探そうとしたのだ。それはうまくいった。ザルカウィは、シーア派が多く住む地区や町にあるモスク、学校、カフェ、市場で自爆攻撃を繰り返した。

 

●アルカイーダ:その勃興と衰退

 

 2004年までには、ザルカウィは国際「聖戦」運動におけるスーパースターとなった。それは、イラク国内で自爆攻撃を繰り返し行っていたからだ。そして、オサマ・ビン・ラディンの信認を得た。ザルカウィは自分が率いる組織をビン・ラディンのアルカイーダに合流させた。この組織は、「メソポタミア・アルカイーダ(al-Qaeda in Mesopotamia)」と呼ばれる。これとアフガニスタンの類似組織「マグレブ・アルカイーダ(al-Qaeda in the Maghreb)」と混同してはならない。

 

 しかし、ザルカウィの参加後すぐに、アルカイーダの幹部たちは、ザルカウィの一般人を攻撃対象にすることに不安を持つようになった。2005年、ビン・ラディンの右腕アイマン・ザワヒリ(Ayman al-Zawahiri, 1951年~)はザルカウィに手紙を送り、その中で彼の戦術を窘めた。しかし、ザルカウィはそれを無視した。昨年、ザワヒリはISISの新しい指導者アブー・バクル・アル=バグダーディ(Abu Bakr al-Baghdadi 1971年~)の過度な残忍性に苦しめられた。そして、そのことを注意したのだが、今回もそれは無視された。

abubakralbaghdadi001
バグダーディ 

 

 2006年春頃までに、ザルカウィは自分ことを「アミール(Emir イスラム教国の首長)」や反乱軍の司令官以上の存在だと考えるようになっていた。彼は精神的な指導者にもなりたいと思うようになっていた。ザルカウィの「首長」としての後継者バグダーディも同じ考えに取り憑つかれた。そして、モスルを奪取した後、自分自身を「カリフ(教皇)」に任じた。ザルカウィは自分の協力者たちに対してだけでは飽き足らず、女性はヴェイルを必ず着用することや犯罪者には斬首刑で臨むことなど、イスラム宗教法シャーリア(sharia)のザルカウィによる厳しい解釈にスンニ派の人々は従うべきだと主張するようになった。これに抵抗する場合、たとえスンニ派の指導的な立場にある人でも処刑された。

 

 しかし、ザルカウィの野望は2006年6月に突然幕を閉じることになった。アメリカ空軍の戦闘機が2発の500ポンド爆弾を、バクダッドから北に20マイル行ったところにあったザルカウィの隠れ場所に落としたのだ。

(つづく)



野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23








このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック



アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23



 古村治彦です。

 今回は、世界各国の宗教と政治に関する短い論稿をご紹介します。


==========

世界各国の国家元首に必須の宗教に関する条件を解説する(Religious Requirements on Heads of State Around the World)

 

トニー・パポウセク筆

2014年7月24日

フォーリン・ポリシー(Foreign Policy)誌

http://blog.foreignpolicy.com/posts/2014/07/24/interactive_map_religious_requirements_on_heads_of_state_around_the_world?utm_content=buffer1c0ec&utm_medium=social&utm_source=facebook.com&utm_campaign=buffer

 

 現在、ガザではイスラエルによる軍事作戦が展開され、シリアでは悲惨な内戦が続いている。イラクはイスラム原理主義者たちと戦っている。こうした状況下で、レバノンの政治の停滞に関するニュースが新聞の一面に掲載されないというのは理解できることだ。しかし、2014年7月23日、レバノンの国会議員たちは大統領の選出に失敗したのだが、これが8回目という体たらくだ。レバノンにおいては多くの宗教グループの間で複雑な勢力均衡を保たねばならず、大統領はマロン派キリスト教徒が就任するという決まりになっている。このような国家元首就任に宗教に関する条件が必要になるというのはそこまで一般的ではないという訳ではない。


headofstate-religion001
 

 ピュー・リサーチセンターの最新の分析によると、30カ国で国家元首は特定の宗教の信者でなければならないという条件を設けているということだ。そのうち17カ国で、国家元首はイスラム教徒でなければならない。2カ国では仏教徒ということだ。インドネシアの場合は、国家元首はパンカシラを信じていなければならない。パンカシラとは国家創設のイデオロギーである。その中には神の存在を信じるということも含まれている。8カ国で聖職者が国家を支配する地位に就くことを禁止している。

 

 ピュー・リサーチセンターの調査では、他の19カ国が別のカテゴリーに入れられている。それは、それらの国々が王制であるからだ。こうした国々でも執政は特定の宗教の信者である必要がある。しかし、この数字は少しずつだが増えている。それは、このうちの16カ国が英連邦・コモンウェルス(Commonwealth of Nations)のメンバーであり、国家元首は、イギリス国教会の形式上の最高指導者エリザベス二世となるのだ。エリザベス二世が持つ様々な肩書の中には、「信仰の守護者」というものがある。これは彼女の宗教上の特別な役割を示すものだ。その他の三つの王国であるスウェーデン、デンマーク、ノルウェーは特定のキリスト教の宗派の信者が王位に就かねばならないとしている。

 

パンカシラ(Pancasila)はインドネシアの最高指導者が持たねばならない指導哲学である。このパンカシラは、社会、宗教、統治などに関する5つの原理から成り立っている。レバノンに関して言えば、政府の役割は様々な宗教グループに分割されている。レバノンの最高指導者は大統領だ。大統領はマロン派キリスト教徒でなければならない。行政府の長である総理大臣はスンニ派イスラム教徒でなければならない。国会議長はシーア派イスラム教徒でなければならない。国会の副議長と行政府の副首相はギリシア正教徒でなければならない。更に言えば、参謀総長はドゥルーズ教徒でなければならない。国会議員の割合はキリスト教徒とイスラム教徒の割合が6対5と決められている。

 

 世界の残りの国々は、政治家の宗教上の資格を必須としていないか、宗教上のテストを行うことを非合法化している。

 

(終わり)







 
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック




アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 今回は、今年新潮文庫で発売された『日本海軍400時間の証言: 軍令部・参謀たちが語った敗戦』を皆様にご紹介します。この本は、2009年8月に3回にわたって放送されたNHKスペシャル「日本海軍400時間の証言」の取材班(ディレクターたち)が、自分の経験を基にしながら、取材の過程や番組の内容を著した本です。私もこの番組を視聴した記憶があります。海軍が決して善玉ではないという印象を新たにしたことを覚えています。そのこともあって、私は自著『ハーヴァード大学の秘密』(PHP研究所、2014年)に山本五十六と永野修身の2人を取り上げました。
 


 海軍反省会というのは、1980年から1991年まで131回、旧海軍士官の
OB組織である水交会で開催された、秘密の会議のことです。この会議には、その当時まで生存していた海軍の佐官級、尉官級の人々が出席し、太平洋戦争前後のことを話し合ったのだそうです。この会議の様子はテープに400時間にわたって記録されていたということです。

 

 2003年に歴史研究家の戸高一成氏がこの研究会のことをNHKの取材班に話し、そこから番組作りがスタートしました。門外不出の録音テープを何とか借り受け、それを慎重に現在の録音技術で録音し、その素材をディレクターたちがひたすら聞いていく、そして内容を理解し(海軍用語や人の名前が多く、一度聞いただけではチンプンカンプンだったそうです)、誰がどのような発言をしているのか(発言者は自己紹介をする場合もありますが、そうではない場合もあって発言者の特定も大変だったそうです)が分かるところまで聞き込んでいったということです。

 

 NHK特集の番組の作り方の一端や、製作者側の考え、苦労などが分かり、報道やドキュメンタリー、ノンフィクションの分野に進みたいと思っている方々には、番組内容以外にも参考になることが多く書かれていると思います。

 

 本書のポイント(そして番組のポイント)は、①開戦、②特攻、③戦犯裁判です。太平洋戦争開戦に関しては、「陸軍がやりたがり、海軍は反対していた」「陸軍も海軍も開戦には消極的であったが、どちらも臆病者のそしりを受けることを恐れ、開戦に反対と明確に表明できなかった」という話があります。どちらにしても、海軍は開戦に反対でありながら、仕方がなく、「空気」に従って開戦に同意した、ということになります。
 

 しかし、海軍反省会では、開戦に関して、海軍内部においても開戦を推進する勢力があったことが指摘されています。これまでも石川信吾少将(「俺が戦争を始めたんだ」と言ったという話やオープンカーで政治家たちの走り回っていたという話が有名です)と高田利種少将が参加した「第一委員会」で、少数の佐官クラスの密議で開戦計画が進められたという話はありました。これに加えて、永野修身海軍軍令部総長の「第一委員会」任せの態度が、この権限と責任が曖昧な機関の権威を高めることになってしまったと、反省会では指摘する声が出ています。この権限と責任が曖昧な機関が実権を握ってしまったために、誰が責任者か分からなくなってしまうということはあります。この第一委員会にはそこまでの力はなかったと言って責任逃れもできる訳です。

 

本書では、当時、批判の対象にしにくい皇族の伏見宮が軍令部総長就任して、「兵力量に関しては、海軍軍令部総長が定める」と統帥部に権限が委譲されたことが、指摘されています。これによって、本来であれば「軍政」の方にあるべき編成権が「軍令」の方に移ったことによって、海軍の膨張と暴走を止めることが難しくなりました。伏見宮という皇族がそれをやってしまったことで、誰も批判ができなくなってしまいました。

 

 海軍は軍縮の対象となっており、ワシントン条約やロンドン条約で、その規模にある程度の枠をはめられます。これは、日本の厳しい財政状況もあって当然のことでしたが、海軍内は、軍縮条約に賛成するグループ(「条約派」)と反対するグループ(「艦隊派」)に分かれましたが、結局、条約派は敗れ、軍縮条約脱退から多額の予算獲得狂騒していくことになります。

 

 その結果、日米開戦という重大な決定がなされる時に、「これまで多額の予算を使ってきておいて、戦争ができないとは言えない」という、「海軍あって、国家なし」の態度で、「絶対戦ってはいけない戦争(負けることが分かっている戦争)」に引きずられてしまったということになってしまったということです。

 

②特攻に関しては、第一航空艦隊長官であった大西瀧治朗中将がフィリピンで「神風特別攻撃隊」を始めたとされ、大西中将は「特攻の父」(何と嫌な言葉でしょうか)と呼ばれています。周りは消極的な反対をし、「強制ではなく、あくまで志願という形でやるように」と言ったと言われますが、1944年末に始まった特攻作戦は終戦まで続き、陸海軍共に多くの若者たちが亡くなりました。大西中将は敗戦後に自決しています。

 

 体当たり攻撃(脱出装置のない「必死(100%亡くなる)」の攻撃)という構想に関して、大西中将の独断であったという話が一般的ですが、大西中将が構想する前に、既に海軍は、体当たり攻撃を考えていたという指摘が、海軍反省会でなされています。特攻兵器「回天(一人乗りの潜水艦型の兵器)」の構想は、1944年3月には既に存在したという指摘がなされているのです。中澤佑中将(海軍軍令部第一部長)、黒島亀人少将(山本五十六連合艦隊司令長官に重用され、参謀を務めた)、源田実大佐(真珠湾奇襲攻撃を成功させた)といった人々が1944年初めの段階で既に特攻を考えていたことが明らかにされています。

 

 ここで問題なのは、特攻をまず考え出した人物たちは戦後まで生き残った訳ですが、こうした事実には口をつぐむ、もしくは「死人に口なし」で、全く違うストーリーを語っていたということです。しかし、そのことで個々人を責めては問題が矮小化されてしまうだけです。私たちは、「自分たちがそのような立場に置かれてしまったら、果たして立派に振る舞えるだろうか」という視点とを持ち「組織として隠ぺいを許すような体質があったのではないか、それは現在の私たちが作る組織でもあるのではないか」という問いかけを行わねばならないのではないかと思います。

 

 戦犯裁判に関して言うと、A級戦犯として死刑になったのが、陸軍の首脳と文官(広田弘毅)であったために、「陸軍悪玉、海軍善玉」というイメージが定着することになりました。戦犯裁判対策は、豊田隈雄大佐(戦時中は在ドイツ大使館付武官)によって行われました。この対策の最大の焦点は、「天皇に戦争責任を負わせない」ということでした。そのために、口裏合わせや証拠隠滅などが行われました。海軍からはA級戦犯容疑で逮捕された人たちも出ましたが、永野修身軍令部総長は病死し、その他、海軍大臣経験者たちは極刑にはなりませんでした。

 

 しかし、海軍では、BC級戦犯として200名が死刑となりました。その多くが、現地の実働部隊の責任者で、上位の命令者を守るために、処刑されたということです。「天皇陛下に累を及ばせないようにする」→「天皇陛下に近かった高位の人物たちを重罪にしないようにする」→「そのためにそれ以下の人々の責任にして、彼らに責任を取らせる」という構図がそこにはあります。

 

 本書で執筆陣も指摘していますが、海軍反省会で話された問題点は、現在の私たちも直面する問題ばかりです。「空気に支配され、言うべき時、言うべきことを言えなくなる(ある元海軍士官は「やましき沈黙」と表現しています)」「責任の所在を曖昧にし、下の者が責任を負わされる」「大局観がないために、選択を誤る」「組織優先で、個人を切り捨てる」といったことは、私たちが現在も苦悩するところです。過去のNHKの戦争に関する番組を見てきて思うことは、彼らの番組は常にこのことを問いかけてきているということです。
 

 

これらの問題が日本だけのことだと言い切ることはできません。しかし、これだけの諸問題の存在を認識しながら、それに改良を加えようとか、そうならないようにしようと努力しないところが日本的な特徴ではないかと思います。「これは仕方がないことなのだ(It cannot be helped)」という言葉、この言葉を免罪符にして、改善、改良の努力を怠っているのではないかと私は思います。

 

 この文章を書いている時、私は防衛大学校における虐めに関するニュースに接しました。防衛大学校2年生の男子学生が虐めを受け、肉体的、精神的苦痛を受け、ストレス障害を発症、8名の学生を障害と強要容疑で刑事告訴したということです。このニュースを報じたアドレスは以下の通りです。

 

http://news.livedoor.com/article/detail/9139678/

 

 この記事の中で気になったのは以下の部分です。引用します。

 

(引用はじめ)

 

その一方で、同じく防大OBで現役幹部海上自衛官は、「こうしたいじめに耐える、いじめられないように立ち振る舞うことも自衛官としての修行になる」と話す。

 

「そもそも、いじめに遭うのは動作が緩慢な者か、やたらと正論を吐く理屈っぽい者が多い。自衛隊のような戦闘組織は命令一下、たとえ理不尽な命令でも率先して動かなければならない。動作が緩慢な者はいざというときに組織の足を引っ張る。海外からの侵略や震災などの有事の際は、『何が正しいか』を議論している間に、事態が深刻化することもある。本人の考え方を自衛官らしく矯正し、もし向いていないと判断するならば、別の進路を考えさせることも防大同窓の役目だ」

 

(引用終わり)

 

 旧海軍の後身である海上自衛隊の現役自衛官がこのような発言を行っています。「いじめは修行」「本人の考え方を自衛官らしく矯正」という言葉に、旧海軍から続く、陰の伝統を感じてしまいます。そもそも「動作が緩慢な者」を「いじめ」て、動作が素早くなるのでしょうか。「自衛官らしい考え方」とは何でしょうか。防衛大学校は、旧軍で言えば士官を養成する陸軍士官学校や海軍兵学校に相当します。ここの卒業生たちは、部下たちを率いて、部下たちに命令を下す立場になる訳です。その時に、この「自衛官らしい考え方」(命令絶対服従と思考停止と同調至上主義)で正しい判断や命令が下せるのでしょうか。自衛隊の幹部である人々は、人間の人生と命に直面する仕事をする訳です。その点では、高い肉体能力と共に健全な精神と慎重な判断力が必要になると思います。これらが果たして、今の防衛大学校で養われるのでしょうか。私は自衛隊出身の一部国会議員たちのアホさ加減に辟易してきましたが、彼らのアホさはこうした防衛大学校の「素晴らしい教育」で涵養されてきたのではないかと思います。

 このような自衛官たちが、海軍の先輩たちが抽出した諸問題の解決をできるのでしょうか。この発言を行った海上自衛官の考える、「正しい自衛官の姿」とは、自分の頭で考えない、間違った命令にも絶対服従、いじめられないように立ち振る舞う=空気を読んで、徹底的に周囲に同調する、ということなのでしょう。

 

 海軍反省会に参加した旧海軍の将官だった人々は、このような姿を後輩に求めたのだろうか、いやそうではないだろうと私は思っています。

 

(終わり)



野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23



 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23

 

 古村治彦です。

 

 今回は、なべおさみ著『やくざと芸能と』(イースト・プレス、2014年)をご紹介いたします。なべおさみという人は、私が子供の頃(私は1974年生まれ)にはテレビで活躍していた人です。私も俳優としてテレビドラマに出演していたなべおさみの姿を覚えています。誰かの「子分」の役を好演していたように思います。



nabeosami001
なべおさみ

nabeyakan001
なべやかん

 

 私が高校生の頃に(1991年だったそうです)、息子さん(後にビートたけしに弟子入りし、たけし軍団入りして、「なべやかん」となります)の明治大学替え玉受験事件が起き、テレビでは姿を見ることは少なくなりました。

  


 この本では、明治大替え玉受験事件のことはほとんど書かれていません。明治大学の出身者であるなべおさみは、自分の息子に対して、「何か特別な推薦入試」制度があって、それで明治大学の第二部(夜間学部)に入れてもらえると思っていたと書いています。ちなみに、「なべやかん」という芸名の由来は、鍋と薬缶という語呂の良さと、明治大学の二部(夜間学部)の夜間から、ビートたけしとなべおさみが考えついてつけたということです。

 

 なべおさみの芸名の由来というのは、彼が渡辺プロダクションに所属して、歌手の水原弘の付き人をしている時に、俳優の勝新太郎に電話をかけて、「渡辺です」と名乗った時に、勝新が渡辺プロの社長と間違えてしまい、それに気付いた勝新が「お前は渡辺じゃないよ、ナベだよ」と言ったことから、なべおさみ自身が翌日に「なべおさみ」という名刺を作ったことからはじまったということです。こうした面白い逸話がこれでもかと書かれているので、昭和芸能史を知りたい方にはお勧めの本です。

 

 なべおさみは渡辺プロに所属するタレントであり、同時に当時の社長の側近として、所属タレントの待遇面などに対しての不満に関する情報を集めながら、独立などを抑える「スパイ」「忍者」の役割も果たしていました。歌手の森進一の独立を抑えたり、布施明の子供を妊娠した加賀まりこ(かわいそうなことに流産してしまったということです)と会社側の連絡係を務めたりしていたということです。本の中で彼は渡辺プロの社長を「お屋形様」と呼んでいます。

 

 『やくざと芸能と』は、なべおさみの明大替え玉受験事件までの人生を網羅した内容となっています。ここでなべおさみがはっきりと書いているのは、彼が暴力団(やくざ)と深いつながりがあったということです(なべおさみは「任侠の方々」ということを歯を使っています)。このつながりは彼がまだ高校生で銀座や渋谷で遊んでいた頃からできていたということです。それは、芸能人となった後も続き、なべおさみが渡辺プロを退社し、勝新の付き人になる時、やくざの親分衆が集まり、「生活が大変だろうから」ということになり、皆でお金をカンパしてくれたという話も書かれています。

 

 芸能とやくざとは昔は緊密な関係にあったことはよく知られています。山口組を率いた田岡一雄組長は、神戸芸能社という会社を設立しました。芸能人が興行をうつ場合に、その土地土地のやくざの協力が不可欠だったそうです。しかし、そうしたことも歴史上のことになりました。今も芸能界とやくざとは裏でつながっているのかもしれませんが、表向きは、芸能界がやくざと関係を持つことはなくなりました。

 

 そうした時代になって、なべおさみがやくざとの関係をはっきりと書いたというのは凄いことだと思いますが、高齢になり、今さらテレビの世界には戻れないという諦念もあってこうした内容の本が書けたのだろうと思います。彼が描く「任侠の方々」は理想化されすぎているのではないかと門外漢には思われます。やくざを武士(サムライ)と見立てるような書き方はどうなのだろうかと思ってしまいますが、なべおさみからすれば、「それはあなたが何も知らないからですよ」ということになるのだろうと思います。

 

 なべおさみは、芸能に深く関わり、成功したことから、「芸能」の歴史を学ぶようになり、そこから日本(と世界)の歴史を学び、その成果を本の中に書いています。彼は被差別の歴史を紐解き、それに芸能とやくざを結び付けていきます。彼は「嘘部」の民という言葉を使って、食糧生産に直線関与しない技能者たちとして、被差別、芸能、やくざといった人々を捉えています。加えて、なべおさみは、「ユダヤの失われた氏族」がパレスチナの地を離れ、東の果ての日本に辿り着いたという「日猶同祖論」のような歴史観を展開しています。

 

 なべおさみは誠意回とも深いつながりがあり、政界における親分は安倍晋太郎(現在の安倍晋三首相の父)であったと書いています。彼は安倍晋太郎の頼み(指令)で、選挙応援や使者として全国を飛び回っていたということです。また、鈴木宗男氏が初出馬する時、金丸信に頼まれて、お金を鈴木氏の許に運び、一緒に選挙戦を戦ったとうことです。鈴木氏のトレードマークというべき体の大部分を出す選挙カーの箱乗りもなべおさみが伝授したものだそうです。

 

 なべおさみは書いていませんが、安倍晋太郎を政界の親分とすると、安倍晋三首相とも当然のことながら深い関係ができていたと考えるのは自然なことです。安倍晋三首相は、父晋太郎氏の秘書をしていたのですから。1991年に明大替え玉受験事件が起きた直後、安倍晋太郎氏は亡くなってしまいました。そこからはもう安倍家とは関係が切れてしまったのでしょう。

 

 『芸能とやくざと』の中で、なべおさみはその幅広い華麗な人脈(の一部)を明らかにしています。彼は裏人間としての役割を果たし、そのことでおそらく失脚というか表舞台から退場させられてしまったということができます。彼がタレントではなく、裏人間であればそういうことはなかったかもしれませんが、逆に考えると、タレントとして表人間としても地位を確立していたために、「消される」ことなく生き延びることができたのでしょう。今回、その彼が裏人間としての貌の一部を明らかにしました。これにも何らかの意図があるのでしょう。単なる老人の思い出話などではないでしょう。

 

 

 たけし軍団で、なべおさみにとっては明治大学の後輩にあたる浅草キッドの水道橋博士がなべおさみに注目してテレビ番組にでも引っ張り出してくれたら、面白い番組ができるのではないかなと思いますが、今のテレビではそれも無理なことなのかもしれません。そう考えると、出版にはまだ表現の自由がテレビよりも残されているのかもしれません。しかし、それは逆に出版は届く人の数が少ないので許されているということでもあり、出版という業界全体のマイナーさを示しているのだろうと思います。

 


 この『芸能とやくざと』は最近では珍しい、「奇書」の部類に入る本だと思います。夏休みの読書計画の一冊に加えても損はしないと思います。

 

(終わり)









このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック




アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 今回は、2014年という年に焦点を当てた論稿をご紹介します。

 

==========

 

私たちの生きているこの世界を形作った3つの大きな出来事について(Three events that shaped our world)

 

過去100年から一つの教訓を得るとするならば、それは、「私たちは協力・協調するように運命づけられている」というものだ。

 

マーティン・ウォルフ(Martin Wolf)筆

2014年6月10日

フィナンシャル・タイムズ(Financial Times)紙

http://www.ft.com/intl/cms/s/0/b4b18022-efc2-11e3-9b4c-00144feabdc0.html?siteedition=intl#axzz34JAJkAhh

 

今年は第一次世界大戦が始まって100周年、ノルマンディー上陸作戦が実施されて70周年、ソヴィエト帝国の崩壊と第二次天安門事件25周年である。100年前、ヨーロッパの脆弱な秩序は崩壊した。70年前、民主諸国は全体主義が支配していたヨーロッパ大陸に攻撃を開始した。25年前、ヨーロッパの分断は解消され、自由となった。一方で、中国は市場経済を選びながら、一党支配国家となることを選択した。私たちはそれ以降、グローバル資本主義の時代を生きてきた。このような時代、政治と経済にかかる圧力は明らかに大きくなっている。

 

 1913年、西ヨーロッパは世界の経済と政治の中心であった。当時、西ヨーロッパは世界の生産高の3分の1を占めていた(購買力平価を使って導き出してもこの数字である。購買力平価を使うと為替市場での実際の力よりも貧しい国々の力が高く算出される)。ヨーロッパの各帝国は世界の大部分を直接、間接に支配していた。ヨーロッパの大企業が世界の貿易と金融を支配していた。この頃、アメリカは既に世界最大の経済大国になっていたが、貿易と金融の面では辺境の従属的な地位に置かれていた。

 

 ヨーロッパ列強間のライヴァル争いの結果、世界は分裂した。第一次世界大戦によって、ロシア革命が、後には共産主義革命が起きた。第一次世界大戦によって大西洋の両側のパワーバランスが変化した。世界最大の債権国となったアメリカの慈悲によって経済的な安定がもたらされることになった。第一次世界大戦によって古い帝国の力は弱まった。ヨーロッパが持っていた自信は破壊された。第一次世界大戦がもたらされなかったものは、世界大恐慌、ナチズム、そして第二次世界大戦がもたらした。Dディ(ノルマンディー上陸作戦が開始された日)に至るまで、世界経済は分解されていた。ヨーロッパはナチズムに屈し、忌まわしいホロコーストが実行されていた。悲劇と厄災はそこに最高潮に達した。

 

 連合国によるノルマンディー上陸作戦が成功したことで、ヨーロッパにおける連合国の勝利を決定づけた。この勝利は全体主義勢力に対する勝利という訳ではなかった。自由で民主的な西欧はアメリカの庇護の下で出現した。戦後ヨーロッパの分断は悲劇であったが、避けられないものでもあった。アメリカはソ連と同盟関係にあったために、ソ連と直接戦うことができなかった。しかし、ヨーロッパへの関与を決断したアメリカは、北大西洋条約機構を発足させることで西欧諸国の自由を守り、マーシャル・プラン、ヨーロッパ経済協力機構、関税と貿易に関する一般協定(GATT)を通じて大西洋両岸のヨーロッパとアメリカの経済を統合させることで経済発展を促した。1951年には西欧の6カ国がヨーロッパ石炭鉄鋼共同体を設立した。これが現在28カ国で構成されるヨーロッパ連合につながった。

 

 アメリカの勃興とヨーロッパの道徳と物質の崩壊がもたらした成果は、いくつかの大帝国の終焉であった。新たに独立を果たした国々のほぼ全てが、輸入代替化による内向きの工業化を選択した。これらの国々は旧宗主国に対する敵意を持っていて、旧宗主国に頼りたくないと考えていた。また大恐慌の傷跡もまだ深かった。そして、スターリン率いるソ連は内向きの工業化を成功させていた。中国は1949年に共産主義国家となった。中国は特に自給自足に熱心であった。同時期に独立したインドは民主国家となった。このインドも計画経済を採用し、過度の国有化を実行した。ラテンアメリカの発展途上諸国も同様の政策を実行した。

 

 1989年は、1945年以降の分割された世界の終焉を明確にした年というだけではなく、冷戦によって分割されたヨーロッパの終わりとソヴィエト連邦の崩壊を導いた年でもあった。鄧小平は1978年の段階で中国を「改革開放」の道に進ませていた。ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが進めた政治改革(当時の一連の民主改革の一つ)を鄧小平は否定したことで、中国の発展の特徴が定まったのである。中国の発展の特徴は、下からの市場経済の発展とトップダウンの政治決定の統合である。中国の勃興は賞賛を集めているが、中国が発展途上国から中進国にまで成長した道筋と、先進諸国が辿って来た道筋とは異なるものである。

 

 過去25年の世界の潮流を特徴づけるのがグローバライゼーションである。市場経済の世界規模での需要とディジタル革命によって、人類は1913年の段階よりも、より世界を統合した経済を生み出した。1913年の段階よりも少ないのは人口の移動だけである。更に言うと、今回のグローバライゼーションは帝国の下ではなく、国際機関の庇護の下で起きた。公の国際機関としては、国際通貨基金、世界貿易機関、ヨーロッパ連合が挙げられる。民間の国際機関としては多国籍企業が挙げられる。グローバライゼーションによって、極度の貧困状態で生きる人々の割合が急激に低下し、中国とインドが勃興してきた。この2国で世界の人口の40パーセントを占める。ヨーロッパでは、ポーランドをはじめとするいくつかの国々が構造改革を実行し、成功させている。

 

 世界は一周して元に戻っているのである。それでもグローバライゼーションに伴って大きな変化がいくつも起きている。世界はいくつかの似たようなストレスに晒されている。歴史は繰り返すのではないが、歴史は韻を踏んでいるのである。

 

 マッキンジー・グローバル研究の最新の研究によると、2009年の経済後退は、1930年代の大恐慌と同じく、グローバライゼーションを傷つけたということである。国際金融の崩壊によって、世界的に生産が落ち込み、物資とサービスの流れも滞った。貿易は金融よりもその影響が少ないように見えた。しかし、2005年から2012年までの世界の生産高に比べて、貿易の伸びは鈍かった。グローバライゼーションにおける停滞がどれほどの影響を与えるのかということは明らかになっていない。しかし、国際金融危機によって大きなダメージが発生し、国際市場経済に対する不信感が高まった。特に利益の分配に関する人々の関心が高まった。1930年代に比べて、国際金融危機によるダメージは大きくなっている。

 

 より重要なものとなるのは、1914年以前と同じく、政治的なストレスということになるだろう。経済統合と政治的分裂との間の緊張関係は、統合されたグローバル経済にとってアキレス腱となる。現在、ロシアは自国が失地回復の努力をしていると主張している。また、中国は攻撃的な姿勢を取っている。核兵器の存在によって、直接的な軍事衝突の機会を減少させている。しかし、軍事衝突を消滅させることはない。核兵器の存在によって、それらが使用されることで、軍事衝突の結果がより悪いものとなることもあるだろう。

 

過去100年から一つの教訓を得るとするならば、それは、「私たちは協力・協調するように運命づけられている」というものだ。しかし、私たちは今でも国家や民族によって分裂している。協調と争いとの間の緊張関係は永続的なものとなっている。20世紀、私たち人類は協調と争い、両方の過度な形態を経験した。21世紀も私たちはどちらを選択するかで世界を形作っていくことだろう。

 

(終わり)

野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23






 

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ