古村治彦です。
ヘンリー・キッシンジャー元国務長官・元国家安全保障問題担当大統領補佐官が100歳で亡くなった。彼が創設したコンサルティング会社キッシンジャー・アソシエイツが発表した。キッシンジャーについては、このブログでも特に多くご紹介してきた。このページの右側にある、「記事検索」の欄に「キッシンジャー」と入れてもらうと、キッシンジャーに関する記事がたくさん表示される。一番下まで行くと、「次の5件」という表示が出るので、それを押すと、次々と表示されるので、是非お試しいただきたい。
私は2023年5月に長文の「キッシンジャー論」を翻訳し、このブログでご紹介した。以下にそのリンクを貼るので、「記事検索」と併せてご覧いただきたい。
(1)「同意しないことに同意する」というところから始めるキッシンジャーのリアリズム的な外交政策の真髄(第1回・全3回) 2023年05月01日
(2)「同意しないことに同意する」というところから始めるキッシンジャーのリアリズム的な外交政策の真髄(第2回・全3回) 2023年05月02日
(3)「同意しないことに同意する」というところから始めるキッシンジャーのリアリズム的な外交政策の真髄(第3回・全3回) 2023年05月03日
キッシンジャーについては1960年代からアメリカの安全保障。外交政策に関わり、様々な業績を残したので、それを簡単にまとめることは難しい。上記記事のようにどうしても長くなる。キッシンジャーについては近年であれば、中国の習近平国家主席、ロシアのウラジーミル・プーティン大統領と頻繁に会談を持っていた。両首脳はキッシンジャーを厚遇した。キッシンジャーは非西洋諸国の中心的な2人の首脳に対して、様々な指南を行い、その最大のものはアメリカとは戦争してくれるな、ということだった。
キッシンジャーはドナルド・トランプ大統領に対しても外交的な指南を行った。大統領選挙期間中、トランプは、娘イヴァンカの夫ジャレッド・クシュナーを介して、キッシンジャーとコンタクトを取り、キッシンジャーのニューヨークの私邸を訪問した。大統領当選後も、キッシンジャーはホワイトハウスを訪問している。トランプ政権下では、アメリカは大きな戦争を起こさず、巻き込まれることもなかった。バイデン政権下では、ウクライナ戦争とパレスティナ紛争が起きた。
キッシンジャーについては毀誉褒貶がつきまとい、厳しい批判がある。しかし、彼の業績を今一度振り返り、リアリズムに基づいた外交政策とは何かについて、私たちはよくよく考える必要がある。
キッシンジャー亡き世界とは、日本の戦前に例えるならば、最後の元老西園寺公望が亡くなった後の日本のようなことになるかもしれない。アメリカ、そして世界において、ブレーキ役がいなくなり、世論を含めて、強硬論が更に強くなり、戦争の可能性が高まるということも考えられる。しかし、少なくとも、習近平とプーティンがいる限りは、アメリカ、中国、ロシアが直接戦うということは起きないだろう。そのことはキッシンジャーの置き土産、遺産ということになるだろう。
(貼り付けはじめ)
アメリカの外交官ヘンリー・キッシンジャーが100歳で死去(American
diplomat Henry Kissinger dies at 100)
ミランダ・ナッザリオ筆
2023年11月29日
『ザ・ヒル』誌
https://thehill.com/blogs/blog-briefing-room/4334541-american-diplomat-henry-kissinger-dies-at-100/
元外交官・元大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーが水曜日、100歳で死去した。彼のコンサルティング会社が水曜日夜に発表した。
キッシンジャー・アソシエイツの声明によると、キッシンジャーはコネティカット州にある自宅で死去した。
キッシンジャーは、国家安全保障分野と外交政策分野で幅広いキャリアで知られた。1969年から1975年にかけて、リチャード・ニクソン大統領の下で、国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めた。補佐官在任中に、ニクソンはキッシンジャーを第56代国務長官に指名し、国務長官と国家安全保障問題担当大統領補佐官の両方を同時に務めた最初の人物となった。
ジェラルド・フォード大統領の下で、国務長官に留任したが、フォード大統領は国家安全保障問題担当大統領補佐官からは退任させた。
キッシンジャーは1923年生まれ、当時はハインツ・アルフレード・キッシンジャーという名前だった。彼は人生の初期をドイツで過ごした。彼の家族はユダヤ系で、ナチスが権力を掌握した後、アメリカに移民した。アメリカに移民後、キッシンジャーは名前をヘンリーに改めた。
第二次世界大戦中、ドイツ語通訳としてアメリカ陸軍に入隊した。戦後、キッシンジャーはハーヴァード大学に入学し、1950年に学士号を取得し、1954年に博士号を取得した。その後は、アイヴィーリーグに残り、ハーヴァード大学政治学部教授、国際問題研究センター副所長を歴任した。
彼のキャリアは1960年代までに政府の仕事に移行し、ニクソンに国家安全保障問題担当大統領補佐官に任命されるまで、いくつかの政府機関でコンサルタントを務めた。
国務省に入ったのは、エジプトがイスラエルに奇襲攻撃を仕掛けて、1973年に起きたアラブ・イスラエル戦争が勃発する数週間前のことだった。キッシンジャーは国務省で指揮を執り、イスラエルが米国からの物資を確実に受け取れるよう支援し、その後、イスラエルとエジプト、後にシリアとイスラエル間の交渉を仲介するため、中東地域を行き来する「シャトル外交(shuttle diplomacy)」を開始し、何度も中東を訪問した。
国務長官を退任した後も、キッシンジャーは外交問題に関するアドヴァイザーを務め、後に「中央アメリカに関する全米超党派委員会(National Bipartisan Commission on Central America)」の委員長を務めた。その後、ロナルド・レーガン元大統領とジョージ・H・W・ブッシュ(父)元大統領の下で大統領対外情報・諜報諮問委員会(President’s Foreign Intelligence Advisory Board)の委員を務めた。
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●「キッシンジャー元米国務長官が100歳で死去、米中国交樹立の立役者」
11/30(木) 10:49配信 ブルームバーグ
https://news.yahoo.co.jp/articles/53d6bd8d43b33168aecaa2d6d2eec8952d74fd42
(ブルームバーグ): ニクソン、フォード米政権で国務長官を務め、1970年代の米外交政策決定で重要な役割を果たしたキッシンジャー元米国務長官が、米コネティカット州の自宅で死去した。100歳だった。元国務長官の関係者が明らかにした。
キッシンジャー氏は大統領補佐官として、72年のニクソン大統領による電撃的な中国訪問を実現させ、79年の米中の国交樹立につながる土台を築いた。
冷戦下での旧ソ連とのデタント(緊張緩和)や戦略兵器制限条約の実現に貢献したことで歴史に名を残す一方、ベトナムとカンボジアに対する大規模な空爆を支持したことなどで批判も受けた。
(貼り付け終わり)
(終わり)

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