古村治彦です。
2025年11月21日に『シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体』(ビジネス社)を刊行します。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体
今回は毛色を変えて、イースター島についての論稿をご紹介する。イースター島の謎とは、絶海の孤島に高さ9メートル、重さ9トンのモアイ像を数多く建てることができた人々がいて、その人々が忽然と消えたということであり、モアイ建造の目的をはじめ、今でも論争が続いている。そうした謎が人々を惹きつける。私の友人には、新婚旅行でイースター島を行き先に選んだ人もいる。

イースター島はある程度の時期まで、「楽園」のような生活ができたようだ。しかし、環境破壊による食糧不足と部族間抗争、そしてその後のヨーロッパ人による奴隷狩りや伝染病が複合的な原因となり、人口が激減した。これらの要因についても議論があるようだが、大きくはこれらの複合要因によってイースター島は滅亡した。最終的に、19世紀半ばには人口がわずか100人ほどまで激減した。このイースター島の教訓を現代に生きる私たちは拳拳服膺すべきだという声もある。しかし、資本主義と人類の欲望には限りがない。今の自分たちの生活が良ければ、死んだ後のことまでは気にしていられない。
こうしたことを考えると、人類は資本主義に代わるシステムを考え出すか、滅びかけるまで進むかしかないのではないかと悲観的になってしまう。人類の賢さにそこまで自信を持てない自分がいる。
(貼り付けはじめ)
イースター島はこの世の果てから私たち全員に教訓を与えている(Easter Island
offers lessons to us all from the end of the world)
シリル・クリスト筆
2021年1月5日
『ザ・ヒル』誌
https://thehill.com/changing-america/opinion/532753-easter-island-offers-lessons-to-us-all-from-the-end-of-the-world/
「イースター島では・・・亡くなった建設者たちの影が今もこの地を支配している・・・空気全体が、かつて存在し、今はもう存在しない過去の目的とエネルギーで震えている。何がなかったのか?
なぜだったのか?」。
-キャサリン・ラウトリッジ『イースター島の神秘(The Mystery of
Easter Island)』(1919年)
「砂に残された足跡は、宝石のように小さく繊細だが、時にはピラミッドのように壮大なものもある。古代の人々が何を表現しようとしていたのかを理解するには、しばしば千年以上かかる」。
-ミゲル・デ・ウナムーノ
チリから西へ2300マイル、世界の果ての広大な青い海を越え、地球上で最も隔絶された島イースター島に到着した。偶然にも、イースター・サンデー(復活祭)のことだった。島は祝祭で賑わい、踊るように燃える松明で溢れ、何世紀も前までキリスト教の存在を知らなかった小さな島で、信者たちの魂を燃え上がらせていた。初期の住民が強力な階層構造、複雑な儀式、そして豊富な資源(a strong hierarchy, complex ritual practices and many resources)を有していたことは、以前から知られている。それでは、なぜ彼らは姿を消したのだろうか、そして、私たちが現在生きている脆弱な時代において、彼らから何を学ぶことができるだろうか?
航海士、捕鯨船員、海賊、探検家たちは、なぜ初期の住民が姿を消してしまったのか、疑問に思ってきた。イースター島の歴史は、人類という複雑な織物の一部であり、これまで以上に重要な意味を持っている。
実際、イギリスの歴史家アーノルド・トインビーは、「石器時代の人類の最も驚くべき偉業は、イースター島を含むポリネシアの植民地化(colonization)であった」と述べた。
誰がイースター島民だったのか? 最初の住民たちはこの島をラパ・ヌイ(Rapa Nui)と呼んでいたが、彼らはなぜこの孤島に来たのだろうか?
地元の文化がどのように消滅したのか、そして高さ9メートル、重さ90トンを超えるものもあるモアイ像のような、壮大な建造物が火山岩からどのように彫り出されたのか、多くの疑問が湧き上がる。そして今、気候変動と波浪の影響を受ける中で、この目を見張る文化の最後の痕跡(the last vestiges of this remarkable culture)は、巨大な波の猛威にさらされている。いつかこれらの素晴らしい遺物も消え去ってしまうかもしれない。
この島を初めてヨーロッパ人が初めて発見したのは、南洋に存在すると考えられていた架空の大陸「テラ・アウストラリス(Terra Australis)」を探し求めていたオランダ人航海士ヤーコプ・ロッヘフェーン(Jacob Roggeveen)であった。彼の艦隊は3隻の船と223名の乗組員で構成されていた。1722年4月5日、復活祭の日曜日に未知の海岸を目撃した彼らは、石像(stone images)を見てまず驚愕した。なぜなら、重厚な木材も機械も強靭なロープもない人々が、高さ30フィート(約9メートル)もの像をどうやって建てられたのか理解できなかったからだ。現地の住民が船を迎えに来た。ロッヘフェーンは次のように記している。「彼は完全に裸で、羞恥心が隠そうとする部分すら微塵も覆っていなかった。この哀れな人間は私たちを見て非常に喜んでいるようで、私たちの船の構造に最大の驚嘆を示した。彼は特に、私たちのマストの張り、頑丈な索具と走行装置、帆、大砲——これらを隅々まで注意深く触って確かめた——そして目にしたあらゆるものに強い関心を示した。特に鏡に映った自身の姿を見た時、彼は突然後ずさりし、その後ガラスの裏側を見つめた。どうやらそこに幻影の原因があるのではないかと探ろうとしたようだ」。別の上陸隊が岸に上がり、先住民に下がるように合図を送った。誤解からヤコブの部下数名が発砲し、約10名を殺害した。残りは散り散りになったが、驚くべきことに供物として鶏、果物、根菜類を携えて戻ってきた。ロッヘフェーンは1週間滞在し、次のように書いている。「私たちの滞在期間が短かったため、この人々の礼拝形態(the form of worship)について完全な知識を得ることはできなかった。ただ、彼らが建てた特異なほど背の高い石像(remarkably tall stone figures)の前で火を灯し、その後かかとでしゃがみ込み、頭を垂れて両手のひらを合わせ、交互に上げ下げする様子を観察しただけである」。ロッヘフェーンの頭に疑問が残った。これほど多くの像はどのように作られたのか?
そしてこれらの巨像を築いた文明はどうなったのか?
当時の島民は2000人から3000人程度とジェイコブは推定していたが、最初の接触の100年前には人口が1万5000人に達していた可能性がある。ジェームズ・クック船長が1774年にこの島を訪れた当時、島民は700人ほどだった。1860年代、ペルーの奴隷商人(slave traders)が島に侵入し、住民の半数近くを捕らえた。奴隷商人や宣教師(Slavers,
and missionaries)の侵入、そして結核と天然痘(tuberculosis and
smallpox)の持ち込みによって、地元住民は壊滅的な打撃を受けた。
1877年までに生き残ったのはわずか100人余りだった。1世紀後、彼らはチリの市民権を獲得したが、先住民運動(an indigenous movement)が始まるとピノチェト政権としばしば衝突した。今日、イースター島の住民の半数以上は、この島に最初に定住した人々の子孫であり、人口は約6000人となっている。
ポリネシアではどこからともなく人々が現れ、カリフォルニア大学イースター島像プロジェクトの創設者ジョー・アン・ヴァン・ティルバーグによると、西暦1200年までには、地元の人々が有名な巨大モアイ像を建てる最初の試みを始めていたようだ。また、入植者がタロイモ、鶏、バナナ、ヒョウタン、ヤムイモ、サツマイモ、クズウコンを主食として西暦800年頃には到着していたと考える人もいる。最終的に地元の木々が消え、飢餓が起こり、収穫逓減(diminishing returns)の時代を生き抜こうとする様々な派閥の間で争いが起こったと主張する理論は多種多様に存在する。ジャレド・ダイアモンドはイースター島の崩壊と生態系破壊に関する理論でよく知られている。巨大なヤシの木が焚き火用に伐採され、モアイ像を陸地の端から端に運び、その過程で肥沃な土壌が浸食されたと考えられている。
アリゾナ大学のテリー・ハントとトニヤ・ブロードマンによると、有名なモアイ像が海岸近くに建てられたのは、水文地質学的な理由からだという。彼らは次のように語っている。「干潮時に海水が引くと、真水が海岸に流れ出る」。2人は島中の水源を地図上に描き出し、海から汲み上げた真水が見つかった場所では必ずモアイ像も発見された。島民たちが示した強い共同体としての結束力(strong communal solidarity)は、ヨーロッパ人が到来し社会が混乱し、最終的に島民が滅亡するまでの500年間続いた。多くの資料は、生態系の崩壊(ecological collapse)がイースター島文明の衰退の主な原因であると示唆しているが、18世紀に島民と西洋人が接触していたことなど、他の可能性もあると主張する人たちもいる。
ベニー・パイザーの著作『ジェノサイドからエコサイドへ(From Genocide to
Ecocide)』によれば、ヨーロッパ人との接触は確かにイースター島の文明における共同体の結束を変化させた。彼は次のように説明する。「豊富な、事実上無尽蔵の魚介類資源に加え、島の肥沃な土壌を耕作すれば、何千人もの住民を容易に永続的に養うことができたはずだ。広範に無制限に近い食料供給(豊富な鶏やその卵、島に無数に生息するネズミ──常に豊富に得られる食の『珍味(delicacy)』──も含む)を考慮すれば、先住民が壊滅的な集団飢餓(catastrophic
mass starvation)の結果として人肉食(cannibalism)に走ったというダイアモンドの主張は明らかに荒唐無稽である。「実際、飢餓や人食いのいずれについても考古学的証拠は一切存在しない」とダイアモンドは述べている。ポリネシア人自身の資源乱用(the Polynesian abuse of their own resources)に過度の非難が集まり、植民地主義的思考(colonial mindset)で到来したヨーロッパの文明化者たち(the
European civilizers)への批判が不十分だとダイアモンドは確信している。主流派の見解に対する別の批判はポール・レインバードによって提唱されており、彼の著作『未来へのメッセージ(A Message for Our Future)』でも、イースター島社会の崩壊はヨーロッパ人との初接触後に起こったと主張している。レインバードは次のように主張している。先住民が人肉食に走ったという説は根拠がなく、何十年にもわたりヨーロッパ人が先住民に対する偏見(bias)を正当化するために流布されてきたに過ぎない。陸海ともに豊富な資源を有する島で飢餓が発生した考古学的証拠も存在しない。レインバードによれば、イースター島民に帰せられてきた社会的混乱、戦争、競争(social disarray, warfare and competition)は、島が占領される前よりも占領後に発生した可能性が高い。
考古学者であるアリゾナ大学のテリー・ハントとビンガムトン大学のカール・リポは、ラパ・ヌイ(イースター島)の住民が現代に極めて重要な教訓、特に協力のモデル(a model of cooperation)を提供すると考えている。彼らの著書『歩く石像(The Statues that Walked)』は、ジャレド・ダイアモンドの主張——63平方マイルの島で社会崩壊(societal collapse)を引き起こしたのは森林破壊と内乱、特に生態系破壊(deforestation
and civil unrest and especially ecocide)である——を否定する。彼らは、ヤシの実を食い尽くし、島を禿げさせたのはネズミの大量発生(an infestation of rats)だと考える。木々が消えると、他の20種の森林植物も姿を消した。最終的にラパ・ヌイの人々はヨーロッパ人の探検と搾取(European exploration and exploitation)の犠牲となった。そして島民自身は巨大なモアイ像を移動させるために木を伐採しなかった。彼らはロープで冷蔵庫を部屋の中を移動させるように、像を歩かせて運んだのである。著者らは強調する。「この知見に照らせば、かつて生産的だった島を不毛の地に変えたという先史時代の環境災害説が根拠のない主張であることは明らかだ。むしろ島民は時間の経過とともに、島の人間収容力を増加させることに貢献したと言える」。
しかし、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのバルジン・パカンダムによれば、モアイ像の壮麗さ、唯一無二の存在感、そして技術的卓越性は、現代に対する究極の警告として立ち続けるべきであるとされる。イースター島が、自らの生態学的基盤を破壊した高度文明の警告として存在するという現実的な可能性を否定する学者はほとんどいない。バルジンは、ペイザーとレインバードの理論が「イースター島の環境が突然かつ劇的に破壊された」という圧倒的な証拠に対抗するには不十分だと考えている。バルジンは、1995年に『ディスカヴァー』誌に掲載されたダイアモンドの記事を引用し、「なぜ彼ら(イースター島民)は周りを見渡し、自分たちの行動に気づき、手遅れになる前に止めなかったのか?
最後のヤシの木を伐採した時、彼らは何を考えていたのか?」と記している。バルジンはさらに、2020年11月8日付『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』誌のジョセフ・テインターによる記事「なぜ社会は崩壊するのか(“Why Societies Fall Apart)」を引用し、社会が「確立された社会政治的複雑性を急速かつ著しく喪失する(displays a rapid, significant loss of an established socio political
complexity)」危険な段階を強調している。マロイやメトローといった他の研究者らは「イースター島の階層的な首長制には鳥や魚の捕獲を禁止する統治能力があったが、『統治構造』が機能不全に陥ったことを示している。過剰消費と規制なき搾取がラパ・ヌイ社会を窒息させた(shown that the hierarchical chieftainships on Easter Island had
sufficient governance to create prohibitions on the harvest of birds and fish,
but that the ‘governance structures’ failed)」と指摘する。まさに現代の私たちが森林や海洋に対して行っていることだ。問題の本質は理解している。だが消費を規制するのは誰か?
監視者を監督するのは誰か?
イースター島を離れる前に、地元の漁師に出会った。彼は私たちに驚くべき火口湖ラノ・カトゥを指さした。それはまるで空に向かって開いた地質学的巨口のように見える。高さ300メートル、水深10メートルの湖だ。トトラと呼ばれる葦が湖面を覆い、緑の童話から飛び出したような小さな島々を形成している。火口縁には儀式用の集落オロンゴが位置する。ここは9月の間だけ人が住み、「タンガタ・マヌ(鳥人
Bird Men)」の儀式が行われる場所だった。鳥人たちは近くのラヌカウ島で、幸運の鳥マヌタラ manutara(セグロアジサシ)の卵を採らねばならなかった。2つの島の間にはサメが泳ぎ、本島とラヌカウ島の間を隔てる障壁となっていた。挑戦者たちは襲われずに海を渡り、無傷の鳥の卵を手に帰還し、帰路を生き延びねばならなかった。この異教の儀式は、初めてその話を聞いたヨーロッパ人にとって確かに奇妙に映ったに違いない。しかし、何世紀も前、鳥やサメを称えることは、自然や海に依存して生きる人々にとっての敬意の規範の一部だった。大型のマグロ、アザラシ、さらにはイルカの骨さえもが貝塚(midden heaps)から発見されている。少なくとも一時的には楽園であったが、やがて地元住民を養っていた恵みは枯渇した。乱獲により固有種25種のうち23種の鳥類が絶滅した。ポリネシアネズミは松の実の種を求めて穴を掘り、ヤシの木を枯死させた。森林の消失により、漁用のカヌーを作るための木材が不足した。人口増加が島の限界を超え、ラパ・ヌイの収容能力はついに限界に達した。13世紀から16世紀にかけて、モアイ像の制作は停止した。大半のモアイは未完成のまま残された。しかし約1000年にわたり、この地球上で他に類を見ない島には平和と繁栄(peace and prosperity)が君臨していたのである。
イースター島の住民を滅ぼしたのは生態系破壊(ecocide)か、人食い(cannibalism)か、それとも戦争(war)か? ジョセフ・テインターは、現代社会が複数の断層線(several fault lines)で分断されつつあると指摘する。テインターは「複雑性、専門化、社会政治的統制(complexity, specialization, and sociopolitical control)の高まりという、一見不可避な傾向によって特徴づけられる」と述べている。ヨーロッパ優越神話(the myth of European superiority)は、イースター島が外部者に初めて探検された直後の19世紀の信念体系の多くを特徴づけていた。最初の遭遇で多くの命を銃撃で失った後も、現地住民がロッヘフェーンに捧げた供物から判断すれば、優越感を示したのはおそらくイースター島民ではなかった。テインターが説明する通り、社会的複雑性は限界効用(marginal returns)の減少をもたらす。新たな征服地を求めたのはイースター島民ではなく、絶え間なく増大するヨーロッパ人の精神的不満(dissatisfactions of the European mind)こそが征服(conquests)を必要とし、アメリカはその最新の現れである。コネティカット大学のピーター・ターチンもテイナー同様、私たちの文明は相互に絡み合い脆いため、地球規模の清算に直面する可能性があると考える。紀元前1177年と同様に、今日では飢饉、政治的紛争、大規模な移住、交易路の閉塞(famine, political strife, mass migrations and the closure of trade
routes)といったストレス要因が連鎖している。ターチンは、「崩壊は時間の問題であり、今がその時かもしれないと懸念している」と警告する。イースター島は外部勢力によって崩壊するまで聖域であった。今日では「もはや単独の国家が崩壊することはない。世界文明全体が崩壊するだろう」とターチンは述べている。
地球文明が土地、そしてますます脆くなりつつある土壌、そして世界中の熱帯雨林にさらなる圧力をかける中、私たちはイースター島と、崩壊した過去の文化から学ぶべきだ。イースター島の人々は、社会が疲弊するまでは、比較的楽園のような生活を送っていた。19世紀の西洋による征服と奴隷制は、イースター島を深刻な衰退に追い込み、世界中でそうであったように新たな疾病をもたらしたが、島の荒廃はヨーロッパ人の侵略以前から始まっていたと考えられる。収穫逓減と資源枯渇の戦争において、ラパ・ヌイは、私たちが環境を枯渇させたときに何が起こるかを改めて思い起こさせるものだ。おそらく私たちの時代は、グローバライゼーションが頂点に達し、交流ネットワークが飽和状態にある時代と言えるだろう。私たちの資源の質と量は、今まさに世界的な清算が迫られているほどに減少している。現在のパンデミックは過剰(overshoot)の一例に過ぎないが、数年後には、それほど容易に治療できない他のパンデミックが待ち受けているかもしれない。
1744年にキャプテン・クックが到着した頃には、モアイ像は1体も立っていなかった。植民地化と重商主義(colonization and mercantilism)という新たな宗教がモアイ像に取って代わった。かつては王がタブーとされるものを管理し、過剰な搾取を防いでいたが、後に王の権力は弱体化し、戦士階級に奪われた。
ジョセフ・テインターが主張しているように、現代の私たちは飢饉、政治的紛争、自然災害、パンデミック(famine, political strife, natural disasters and pandemics)が完璧な嵐を巻き起こす段階に達している。これは崩壊した過去の社会に見られた「ほぼ同じ症状(almost all the same symptoms)」だ。イースター島は自らの限界を超えた文明の最もロマンティックで地理的に驚異的な例の1つに過ぎず、決して最後ではない。金銭の甚だしい蓄積と、富める者と貧しき者の分断(the egregious hoarding of money and the separation of the haves from
the have nots)は、安定と正義(stability and justice)をもたらさない。森林伐採は気候爆弾(a climate bomb)を生み出している。メタンがかつてない規模で放出されている。適切な政治的・外交的ヴィジョンと配慮があれば、軌道を修正できるかもしれない。なぜなら地球規模の清算がすでに始まっており、私たちが22世紀に到達することを保証するものは何もないからだ。私たちは技術的ノウハウを有している。鋼鉄とガラスの超高層ビルやロケット――私たちの迷走する文明のトーテム(the totems of our wayward
civilization)を築く術を知っている。しかし究極的には、なぜそうするのかを忘れてしまった。私たちを正すのは政治的知恵(political savvy)でも技術的熟練(technical savor)でもなく、あまりにも長く欠落してきた精神的な中核(a spiritual core)なのだ。
太平洋の真ん中にあるこの小さな島から学ぶべき教訓の1つは、私たちが周囲を尊重し、それに応じた計画を立てられないことだ。国連事務総長は繰り返し、人類が種全体として集団自殺(collective suicide as a species)を遂げつつあると述べてきた。そろそろ止める時かもしれない。私たちの軽率な先見性の欠如(Our cavalier lack of foresight)は、これまで未来へのヴィジョンを示してこなかった政府や指導者たちが原因である。国連は存在するが、必要なのは結束した意志と心を一つにした行動だ。おそらく「知性は存在するが、生命への集中した献身と情熱が著しく欠如している(the mind is there, but it is a lack of focused commitment and
devotion to life that is egregiously missing)」と言う方が正確だろう。アメリカに新たなヴィジョンが生まれた今、ドバイやニューヨーク、香港の摩天楼が現代の無表情なモアイ像となる前に、文明の船を正しい方向へ導けるかもしれない。
(貼り付け終わり)
(終わり)
『人類を不幸にした諸悪の根源 ローマ・カトリックと悪の帝国イギリス』
『トランプの電撃作戦』
『世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む』





