古村治彦です。
裁判官というと、厳正中立、生真面目で気難しい人、知り合いにでもいなければ一生会わないであろう、もしくは会いたくない人というイメージがあります。過去のテレビドラマでは家裁の裁判官や離島の裁判官をテーマにしたものがあり、そこでは人間味があれる裁判官が出てきますが、これは堅苦しく人間味がない裁判官のイメージを逆に利用したものと言えます。
私は裁判を傍聴したことが2、3回ありますが、裁判はドラマのように、検察側と弁護側が激しくやりやうなんてことはほとんどなくて、裁判所に出てきて書面のやり取りをして、裁判官、検察官、弁護士で次の日程を決める(これが時間がかかります、三者が都合の良い日時とはなかなかないものです)、で終わります。次の開廷まで数カ月かかることもあります。
裁判をして勝っても、相手にお金がなければ、何も取れないからバカらしいとか、和解を勧められて、それを断ると裁判官の心証を悪くして不利な判決を出される、なんて話も聞いたことがあります。
瀬木比呂志著『絶望の裁判所』(講談社現代新書、2014年)を読むと、裁判所と裁判官に対して持っていた通り一遍のイメージは覆されます。そして、ある意味では、裁判官の「人間らしい」部分がよく分かります。裁判官も私たちと同じく、偉くなりたい、華やかな場所に住みたいといったささやかな希望をかなえたいと思っている人たちだということが分かります。
彼らのそうしたささやかな希望を利用して、上級の裁判所や上司が裁判官を管理しようとします。例えば、国家賠償裁判となれば、国に対して不利な判決を書くような裁判官は、出世できない、地方の裁判所を回らされる、そして、裁判官を辞めるようにアレンジされてしまうということが行われているそうです。
また、日本の裁判では和解に至るケースが多く、「日本人は昔から争いを好まないから話し合いで問題を解決してきた」という話がまことしやかに流布されていますが、実際には、裁判官が「判決を書くのが面倒くさい」「上司の気に入らない判決を書いて評価がマイナスになるのが嫌だから」という理由から、和解を勧めるということもあるのだということです。
裁判所は市井の事件は和解などを通じてどんどん処理しながら、憲法にまで関わるような「大きな正義」の事件(国家賠償請求など)に関しては、どっちつかずの態度で、判断を示さずに、結局権力に迎合することを求められ、そのような状態になっているということです。著者の瀬木氏は、裁判所が「国民、市民支配のための道具、装置」と堕していることを嘆いています。
『日本政治の経済学 政権政党の合理的選択(Japan’s Political Marketplace)』(マーク・ラムザイヤー・フランシス・ローゼンブルース著、加藤寛監訳、川野辺裕幸・細野助博訳、弘文堂1995年)という本があります。アメリカ人の日本学者2人が書いた日本政治に関する本です。この本は、日本政治を「合理的選択論(Rational Choice Theory)」というアプローチで分析している内容です。そして、合理的選択論の中でも、本人・代理人(Principal-Agent)関係を援用して、日本政治を分析しています。
本人・代理人関係とは、当事者が自分の利益を実現させる(選好を反映させる)ために別の当事者を使うことで、日本政治に当てはめると、有権者と議員の場合は、有権者が本人、議員が代理人となり、議員と官僚の場合は、議員が本人、官僚が代理人となります。本人の期待と代理人の成果の間のギャップを「エージェンシー・スラック(Agency Slack)」と言います。
本人・代理人関係で自民党議員と裁判官の関係を分析したところ、次のような結論が出ました。『日本政治の経済学』から引用します。
(貼り付けはじめ)
裁判官が独立した存在である場合には、エージェンシー・スラックに関する無数の問題点を引き起こす。したがって、日本のように政治家が、公約の信頼性を高め、代理人としての官僚を統制するために司法以外の方策をあみ出せる場合には、政治家が代理人である司法部の独立を抑制しようとすることは容易に想像できる。自民党幹部は、そのような統制に服しやすい司法組織を作りあげてきた。下級裁判所の裁判官は、若くして判事となり、人生の大部分を判事職に費やすことになる。そして、裁判官の配置先、報酬、担当事件などは、事務総局の上官が彼らの仕事をどのように評価するかに大きく依存しているのである。そのような事務総局の裁判官は、最高裁の要求に応じる存在であり、その最高裁は、自民党により任命されて間もない者によってのみ構成されているのである。(161ページ)
(貼り付け終わり)
『絶望の裁判所』は、このような分析を裏付ける論証がなされている本です。司法の独立、という言葉が既に形骸化していることを改めて気づかせてくれます。
(終わり)
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