古村治彦です。

 2023年12月27日に『バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる』(徳間書店)を刊行しました。『週刊現代』2024年4月20日号「名著、再び」(佐藤優先生書評コーナー)に拙著が紹介されました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

ヴェトナム、ミャンマー、ラオスと国境を接する雲南省に、ヨーロッパで迫害されているユダヤ人10万人の入植計画があった。アメリカのニューヨーク市ブルックリンの歯科開業医モーリス・ウィリアム(中国学者としても知られる)が、アルバート・アインシュタインと連絡を取り合い、アドルフ・ヒトラー率いるナチスによる迫害に苦しむユダヤ人たちを、中国の雲南省に入植させるというアイディアを取りまとめた。

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雲南省の地図

ウィリアムは、アインシュタインやユダヤ系初のアメリカ最高裁判事となったルイス・ブランダイス(ブランダイス大学の名前が残っている)、ジョン・デューイ、歴史家ジェイムズ・T・ショットウェルなどのアメリカの有力な知識人たちと接触するようになった。彼らは後にウィリアムのユダヤ人入植計画への支持を表明した。

 中国側では、孫文の長男で、中華民国立法委員長を務めていた、孫科(そんか、Sun Ke)がこのアイディアに乗り気であった。孫科はアメリカで大学教育を受け、英語にも堪能で、アメリカの知識人たちとも交流があった。ユダヤ人たちの苦境を救いたいという考えもあったが、そこには、日本からの侵略を受け、苦戦している中国に、西側諸国からの支援が期待できるという計算も合った。

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孫科

 中華民国は1912年の建国以来、ドイツとの協力関係を築いており、それはナチスドイツになっても変わらなかった。ドイツからの支援を得るためには、ユダヤ人を受け入れることはできないというのが中華民国政府の、一部の高官たちの主張だった。しかし、ナチスドイツが日本に接近し、中国との関係が希薄になっていくという状況になり、日本軍と対峙するためには、西側諸国からの支援を得る必要があった。そのために、英米両国で影響力を持つユダヤ人社会の支援を得るために、雲南省でのユダヤ人受け入れというアイディアが現実味を持つようになった。しかし、イギリスもアメリカもユダヤ人問題に関心を払っておらず、ユダヤ人の雲南省入植というアイディアは実現することはなかった。

 実際には、高温多湿で、高地である雲南省に、ヨーロッパ育ちのユダヤ人たちが定住して暮らすことは難しかったかもしれない。戦争中は雲南省で過ごして(世界各国のユダヤ人大富豪や政府の支援を受けながら)、戦後は上海や香港などに住む、もしくはヨーロッパに住む、ということを考えていたかもしれない。都市生活者が多かったユダヤ人が開拓事業に従事するのは困難だっただろうと思う。しかし、中国の雲南省にユダヤ人コミュニティがあったら、それが日中戦争や太平洋戦争、国共内戦にどのような影響を与えていたかと思うと、歴史のロマンというか、「If(もしも)」ということで、想像が広がっていく。
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 イスラエルと中国の関係はなかなか複雑だ。イスラエルはウクライナ戦争については、中国と関係の深いロシアを強く非難していない。中国は昨年10月のハマスによる攻撃が発生する前に、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相の訪中を招請した。ネタニヤフ首相も乗り気であったが、現状では延期となっている。中国はこれまでパレスティナ寄りの姿勢を見せており、イスラエルに対して自制を求めている。このような状況であるが、イスラエルと中国の関係は悪化している訳ではない。ネタニヤフ首相とアメリカのジョー・バイデン大統領との間がしっくりいっていなかったこともあり、中国はそこに楔を打ち込む形で、ネタニヤフ首相の訪中を招請した。中国はイスラエルとパレスティナ両者の間でうまくバラ寸を取っていると言えるだろう。

(貼り付けはじめ)

もしもイスラエルが中国にあったら?(What If Israel Had Been in China?

-アルバート・アインシュタイン、ブルックリンの歯科医、そして第二次世界大戦前の中国の指導者たちは、いかにして雲南にユダヤ人の祖国を作ろうとしたのか。

ハリー・サウンダース筆

2024年6月2日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2024/06/02/israel-jewish-homeland-china-yunnan-ww2-sun-ke/?tpcc=recirc_trending062921

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1945年の中国を含む日本占領地の地図。右隅には、1938年にヨーロッパから逃亡しようとした客船セントルイス号に乗っていたユダヤ人難民の画像が重ねて表示されている

1939年3月7日、中国の立法官僚のトップである孫科は国民政府の民政局に派遣を申請した。国防最高評議会のメンバーとして、彼は過去2年間、侵略してくる日本軍と戦う機会を中国に与える方法を模索していた。孫科は、一見無関係に見える問題、つまりユダヤ人の窮状について同僚に説明したいと考えていた。

孫科はヒトラーのユダヤ人絶滅計画(Hitler’s plans for extermination)について説明する前に次のように書いている。「これらの人々は国がないことで最も苦しんでおり、2600年以上にわたり、ホームレス状態で移動してきた。イギリスはパレスティナに恒久的な入植地(permanent settlement)を設立したいと考えている。しかし、これは現地のアラブ人の激しい反対を引き起こしており、暴力はいまだに収まっていない」。

孫科は、中国国内にもっと適切な避難所があると信じていた。すでに2万人のユダヤ人が逃れた上海ではなく、中国の内陸部のヒマラヤ山脈のふもとに。南はラオス、西は当時ビルマと呼ばれていた地域に隣接する雲南省は、ナチスの迫害から逃れてきた10万人のユダヤ人を収容するのに十分な、非常に温暖な気候、驚異的な自然の美しさ、未開の土地を持つ国境地帯だった。ナチスの迫害から逃れてきた10万人のユダヤ人を受け入れるに十分な未開の地であった。教典上の重要性には欠けるが、反ユダヤ的暴力のない歴史がそれを補っていた。

孫科と、彼の計画に賛同した国民党(KuomintangKMT)幹部たちとアメリカ系ユダヤ人という、考えられない連合にとって、雲南は中国の約束の地(promised land of China.)に他ならなかった。

それから85年、雲南入植計画はほとんど忘れ去られてしまった。しかし、シオニズムに対する中国の立場が、今日ほど重要な意味を持つことはなかった。2023年10月7日以来、イスラエルとハマスの戦争は、北京に新興の超大国としての新たな地位と、地域を問わず世界情勢のあらゆる局面で役割を果たすという期待との清算を迫っている。

中国の中東に対するアプローチを完全に理解するためには、雲南省にユダヤ人の祖国を建設するという構想が、ブルックリンの歯科医の談話室のネタから中国政府の公式政策へと変貌を遂げた1930年代に立ち戻る必要がある。

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1938年、2万人のヨーロッパ系ユダヤ人が逃げ込んだ上海でのユダヤ人の結婚式。

1934年1月、ブルックリンの歯科医モーリス・ウィリアムは、アルバート・アインシュタインに手紙を書き、ユダヤ人の中国定住のアイディアを提示した。ウィリアムは次のように書いている。「昨年9月にルイス・ブランダイス判事の別荘を訪問した際、ドイツ系ユダヤ人の窮状について話し合った。ブランダイス判事もまた、ヒトラーの犠牲者たちにとって中国が唯一の大きな希望であると感じている」。

アインシュタインは返事の中で、「あなたの計画は、非常に希望に満ちた合理的なものであるように私には思える。その実現は精力的に進められなければならない」と答えた。アインシュタインがその計画について考えれば考えるほど、それが理にかなっていると感じた。 アインシュタインはウィリアムに対して、「中国人とユダヤ人は、伝統に明らかな違いがあるにもかかわらず、共通点がある。どちらも古代に遡る文化の産物である精神性を持っているということだ(both possess a mentality that is the product of cultures that go back to antiquity)」と語った。

ウィリアムがアインシュタインに手紙を書いた頃、ヨーロッパのユダヤ人指導者たちは長い間、パレスティナの外に祖国(homeland outside of Palestine)を求めていた。歴史家ガー・アロイはこのことを「シオンなきシオニズム(Zionism without Zion)」と表現している。ロシアの活動家レオン・ピンスカーは、1882年に発表したマニフェスト『自己解放!(Autoemancipation!)』の中で、「我々の現在の努力の目標は『聖地(Holy Land)』ではなく、我々自身の土地でなければならない」と書いて、この考えを具体化した。彼の信奉者として知られるようになった「領土至上主義者たち(Territorialists)」は、その後40年間、ピンスカーの目標を達成するために試行錯誤を繰り返した。

つまり、ウィリアムの提案した入植地には、その位置する場所を除けば、革命的なものは何もなかった。1903年のウガンダ計画やシオニスト計画そのものを含め、それまでの計画は既存の植民地領土内の地域を対象としていた。ウィリアムは、まだ近代国家(modern state)への変貌を遂げようと奮闘していた、若い共和制国家である中国が、ユダヤ人入植者のための場所を作ってくれるかもしれないと提案した最初の人物だった。

ウィリアムは、このプロジェクトにとって、ありそうでなかった擁護者だった。彼は正式な教育を受けておらず、領土主義とのつながりもなく、中国に旅行したこともなかった。しかし、ウィリアムは、自力での自己宣伝(bootstrapping self-promotion)と幸運が重なり、国民党のエリートたちの間でよく知られる人物になっただけでなく、アメリカにおける中国研究の権威としても尊敬されるようになった。

1923年、ウィリアムが自費出版したマルクス主義への反論『歴史の社会的解釈(The Social Interpretation of History)』が、国家の経済ヴィジョンを明確にしようとしていた国民党首相孫文(孫科の父)の手に渡った。孫科は、翌年に行った一連の講演でウィリアムの言葉遣いを大いに活用した。ある時点で、彼は『歴史の社会的解釈』のタイトルを挙げた。孫文の死後、数年後に国民党が講演を基にした本を出版すると、ウィリアムは無名の外国人から哲学界の著名人に躍り出た。

アメリカ人がウィリアムの功績を初めて知ったのは、1927年の『アジア・マガジン』誌の記事で、その記事は、「孫文の反マルクス主義的立場は、アメリカ人作家のあまり知られていない作品にほぼそのまま基づいている」と宣言したものであった。ウィリアムはすぐに、アインシュタインやブランダイスだけでなく、ジョン・デューイやコロンビア大学の歴史家ジェイムズ・T・ショットウェルを含む、アメリカの有力な知識人たちと接触するようになった。彼らは後にウィリアムのユダヤ人入植計画への支持を表明することになる。

中国政府はあまり寛容ではなかった。アインシュタインに手紙を書く前に、ウィリアムは施肇基(アルフレッド)駐米中国大使と自分の計画について詳しく話し合っており、大使はドイツ系ユダヤ人の輸入が中国経済に恩恵をもたらす可能性があることに同意した。国民党の施肇基大使の上司たちはウィリアムの意見を高く評価した。しかし、ナチスが政権を握った直後に中国への軍事的・経済的援助を強化していたドイツとの関係ほど重視していなかった。

国民党指導部は、ヒトラーが悪者にしている民族のために入植地を建設することは、ドイツ政府を怒らせるに違いないと考えた。彼らが考え直すほど絶望的になるまでには、数年の経過が必要だった。

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第二次世界大戦中、上海の労働者階級が住む虹口地区の通りを、地元の人々に混じって歩くユダヤ人難民たち。日本の占領軍によって、彼らは小さい地区に押し込められた。

1938年のクリスマスイブ、上海市評議会(Shanghai Municipal CouncilSMC)書記のG・ゴッドフリー・フィリップスはアメリカユダヤ人共同分配委員会(American Jewish Joint Distribution Committee)に緊急電報を送り、「上海は異常なユダヤ難民の流入によりひどく動揺している」と警告した。フィリップスは「上海は既に、中国の敵対行為により最も深刻な難民問題に直面している。大量の外国人難民を受け入れることは全くもって不可能だ」と述べている。

上海は第二次世界大戦初期に特異な地位を誇っていた。日本軍は1937年11月にこの都市を占領したが、国際居留地の管理は上海市評議会の手に委ねられた。多国籍からなる指導の下、上海は無国籍者の入国(stateless persons entry)を許可する世界でも数少ない港の1つであり続けた。1937年から1939年にかけて、主に中央ヨーロッパからの2万人以上のユダヤ人難民がこの都市に押し寄せた。

同じ時期に、中国は日本軍の手によって一連の壊滅的な軍事的敗北を喫した。 1937年11月に上海を占領した後、日本帝国軍は南京に進軍し、蒋介石とその政府は逃亡を余儀なくされた。1939年1月までに、日本軍は中国東海岸のほぼ全域を支配した。蒋介石軍は日本帝国軍の進軍を阻止したが、アメリカとイギリスの軍事支援を求める中国の嘆願は失敗し続けた。

フィリップスが電報を送った直後、孫科は上海市評議会当局が上海への難民の流入を制限する計画を持っていることを知った。雲南省にユダヤ人難民を再定住させることが、中国が直面している複雑な危機に対する完璧な解決策であるかのように、孫科には思えた。これは突然のことだった。翌月、彼は民政弁公室への自身の派遣要請文の草稿を書き始めた

孫科の提案の論理は単純だった。孫科は次のように書いている。「「もし中国がヨーロッパで迫害されているユダヤ人に避難所を提供すれば、彼らの同胞であるアメリカやイギリスのユダヤ人たちが、日本に対して中国を支援するようこれらの政府を説得できるかもしれない。イギリスの経済支援は、実はこれらの大商人や銀行家たちによって操られていた。これらの大商人や銀行家の多くはユダヤ人であるため、この提案はイギリスに影響を与え、私たちに対してさらに好意的な態度をとるようになるだろう」。

孫科は、ユダヤ人難民はプロパガンダとしての価値だけでなく、経済発展が遅れている中国の省である雲南省に何か提供できるものがあると考えた。短期的には、ユダヤ人難民のシンボルは中国の戦争勝利の助けになるだろう。長期的には、彼の言うように「強力な経済的背景と多くの才能」を持つ難民そのものが、中国を偉大な国家に発展させる助けになるだろう。

孫科の推論は、1934年にウィリアムに、彼の入植計画は「西側の技術、知識、科学の有益な援助を中国に提供する(place at the service of China the beneficent aid of Western skill, knowledge and science)」ことになるだろうと語ったアインシュタインの推論と同じだった。歴史的記録は、ウィリアムが1934年にアインシュタインに提示した計画と、1939年の孫科の提案との間に直接のつながりがないことを明らかにしている。しかし、国民党内でのウィリアムの名声と施肇基大使との手紙のやり取りは、いずれもアインシュタインの考えと孫科の類似点を示唆している。孫科の提案は偶然ではなく影響の結果だった。

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2014年9月3日、上海ユダヤ難民博物館で公開された、1930年代から1940年代にかけて上海で暮らしたユダヤ難民の名前を記した壁(2014年9月3日)。

中国国民政府内の一部には、ユダヤ人難民という厄介な問題に取り組む価値があることに疑いを持つ人と立ちもいた。中国外務省は、中国におけるユダヤ人に対する統治は、彼らの自治要求が制御できなくなるまでの短期的にのみ維持可能であると警告した。中国内務省はさらに踏み込んだ。中国内務省のある高官は次のように書いている。「敵国やファシスト諸国は、我が国が共産主義国家であると絶えず主張している。現時点で多数のユダヤ人を受け入れれば、敵にプロパガンダの口実を与えることを避けるのは困難になるだろう。一般に、ファシスト理論では、共産主義とユダヤ人は頻繁に、同時に言及される」。

しかし、西側諸国からの軍事援助を引き寄せる可能性があることは、より強く証明された。1939年3月、国民党は孫科の提案を承認し、中国とアメリカの新聞で雲南計画を宣伝し始めた。明確な実行計画がなかったからといって、そこに違いはほぼなかった。ユダヤ人入植地の最大の魅力はその宣伝効果にあったのだから、単に支持を表明するだけでもアメリカ人の共感を得るには十分だった。

ウィリアムは孫科の提案を聞くと、すぐに行動を起こした。アメリカ国内の同僚たちは彼に肯定的なフィードバックしか与えておらず、国民党の協力を得て、彼のアイデアはついに実現できるかに見えた。しかし、ウィリアムがアメリカ政府の資金を要求し始めた瞬間、事態は違って見え始めた。

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ベルギーのアントワープに到着したセントルイス号に乗り込んだユダヤ人難民(1938年6月17日)。

有権者たちが国内問題に気をとられていることが世論調査で明らかになったのを受けて、ルーズベルト政権の外交政策は1940年の大統領選挙に向けて明らかに反移民(anti-immigration)政策に舵を切った。1938年3月にヒトラーがオーストリアを併合した後、申請が急増したにもかかわらず、国務省はドイツ人向けのビザ発給枠2万7730件を維持した。1939年6月までに、待機リストは30万人以上に増加した。同月、ハンブルクからのユダヤ人難民937人を乗せたセントルイス号という客船がマイアミ港の目前に到着した。アメリカの入国管理官たちはこの船をヨーロッパに送り返したが、その後ホロコーストで数百人の乗客が殺害された。

ウィリアムが1939年8月に国務省当局者たちと会合を持ち始めたのは、この排外主義的背景(nativist backdrop)の中でのことだった。難民問題についてルーズベルト大統領に助言する委員会において、国務省関係者たちはウィリアムの意見を提示したが、それ以降の会合の記録は残っていない。中央ヨーロッパから中国へ10万人の難民を輸送するプロジェクトにとって、アメリカ政府の資金提供の拒否は致命的な打撃(death blow)となった。

国民党がこのプロジェクトを断念した正確な経緯も不明である。しかし、これだけははっきりしている。1939年の文書記録には、雲南省の入植計画をめぐる不協和音(cacophony of discussion)があった。上海での記者会見、重慶からの通信、ワシントンでの会議。異論、評価、反論などがあった。1940年までには何もなくなった。

結局、アメリカとイギリスを中国支援へと駆り立てたのは、著名なユダヤ人たちの同情ではなく、真珠湾攻撃だった。その後の連合軍の支援による反撃で日本は打ち負かされたが、国民党は著しく疲弊した。中国共産党(Chinese Communist PartyCCP)はこの弱点を突いて、国を支配するための独自のキャンペーンを再開した。1949年、毛沢東は北京に新政府を樹立し、孫科たちは台湾に逃亡した。

それ以来、彼らは台北に逃げて活動している。

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上海で1920年に建てられたオヘル・ラチェル・シナゴーグを通り過ぎる男性(2007年2月9日)。

今日の中国共産党と、1930年代の国民党を結びつけるものはほとんどない。中国の最高指導者である習近平は、国民党への知的な恩義をわずかでも認める前に、マルクスとレーニンの言葉を100万回引用するだろう。しかし、イスラエルとハマスの戦争に対する北京のアプローチは、メッセージの力を信頼するものであり、孫科とその同僚にとってはあまりにも身近なものである。

イスラエルが最初にガザに侵攻したとき、中国の王毅外相は、中国は常に 「アラブとイスラム世界の正当な願望(the legitimate aspirations of the Arab and Islamic world)」を支持すると述べた。イランが4月にイスラエルに対して一連の攻撃を開始した後、王毅外相はテヘランの言い分を繰り返す一方、この攻撃を自衛行為と位置づけた。北京の声明はハマスにテロ集団としてのレッテルを貼っていない。この不作為は、かつて非常に好調だった中国のイスラエルとの貿易関係にひずみをもたらすことは確実だ。しかし、密室で中国の外交官たちはイスラエル側を説得し続け、これは単なる口先だけであり、イスラエルに対する実際の中国の敵意と誤解されるべきではないとしている。

イスラエルとハマスの戦争に対する中国の対応が消極的、首尾一貫していない、あるいは素人的と思われるなら、北京が、シオニズムが常に象徴してきた政治的藪(political thicket)と関わってきた経験がいかに少ないかを思い起こすとよい。歴史上、中国がユダヤ人国家の問題についてある一定の立場をとったことは、ほぼない。1939年にユダヤ人入植地を設立しようとしたときは、ユダヤ人に対するワシントンの忠誠心は不変の利用可能な事実だという信念に基づいて行動した。

第二次世界大戦中、中国がアメリカの政治におけるユダヤ人の影響力を過大評価したとき、中国は貴重な時間と書類の束を無駄にした。しかし、中国政府は今、自国を世界の代替超大国(world’s alternative superpower,)として位置づけようとしており、シオニズムの政治を読み違えることは、はるかに大きな代償を払うことになりかねない。

※ハリー・サウンダース:プリンストン大学卒業生。在学中は歴史学を学んだ。雲南省に1年在住した経験を持つ。

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