古村治彦です。

 改革開放以降の中国の経済発展は、あらゆる人々の予測を超えるものとなった。一世代(30年間)で年率10%以上の成長を達成したのは人類史上でも例を見ないほどだ。1984年、私は地元の新聞社が企画した、子供たちだけの訪中団(「こども遣唐使」という企画名だった)に参加し、上海と無錫を訪問した。当時の中国はまだまだ貧しかった。私たちは何も上等の服を着ていた訳ではないが、私たちの後をぞろぞろと、ついてくる中国の子供たちの格好はランニングに半ズボンで、「写真や映像で見る戦後すぐの子供たちのようだ」と妙に大人びていた私は感じていた。

 あの当時に見た、私たちと同年代の上海の子供たちは、今頃どんな生活をしているんだろうか、と考えることがある。あれから40年近く経過し、上海の彼らは怒涛の経済発展と開発を、私たちはバブル崩壊と深刻なデフレ経済を経験した。今は、私が彼らを驚きの目で、仰ぎ見る方になっているだろう。実際、私は遅ればせながら、中国語の勉強を始めている。

 中国の奇跡の経済成長はどのようにしてもたらされたのかについては多くの研究がなされている。最近、カリフォルニア大学アーヴァイン校の王丰[王豊](ワン・フェン)という社会学者が『中国の豊かさの時代:起源、隆盛、そして余波(China’s Age of Abundance: Origins, Ascendance, and Aftermath)』を出版した。これがアメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』誌で取り上げられていた。

 中国の経済発展は農村部における初期工業化によって始まった。私が小学校で習った言葉に「万元戸」という言葉がある。農村部で市場経済が導入され、個人の農産物生産ができるようになり、才覚のある農民たちが生産を拡大し、農産物の売り上げを拡大して、年に1万元を稼ぐ農家が出るようになったというものだ。そして、万元戸は製造業に従事するようになり、農村部で初期工業化が始まった。そして、そこで経験を積んだ農民=労働者たちはより高い賃金を求めて、都市部に流入し、質の高い労働者となった。

 『中国の豊かさの時代』の著者の王丰[王豊]は、文化大革命の重要性について指摘している。以下の論稿から引用する。

「文化大革命の暴力と混乱(violence and disarray of the Cultural Revolution)が、1976年以降の急速な成長を促進する上で強力な役割を果たしたと説得力を持って主張する。王は次のように述べている。「毛沢東の死で終わったこの激動の10年間の終わりに、中国国民はひどく混乱し、失望し、完全に疲れきっていた。彼らは変化、より物質的な豊かさ、社会の安定、そして人間の礼儀を備えた生活を切望していた」。私たちが見てきたように、鄧小平もこうした考えに大まかに同意したようだ。王は、文化大革命についての鄧小平の発言を「文化大革命は悪いことのように見えた。しかし、結果的にはそれが良かったのだ。それは人々に考えさせ、私たちが抱えている問題を認識させた。私たちが1970年代と1980年代に政策を実施できたのは、まさに当時の教訓を学んだからだ」と引用している」。

日本では中国の経済発展は嘘だ、あんなものはすぐに崩壊するという主張が20年以上にわたって続いている。私たちは中国の経済発展についてより冷静に分析していくことが必要なのだろうと思う。

(貼り付けはじめ)

何が中国の奇跡を生み出したのか?(What Produced the China Miracle?

-北京の台頭における国家の役割について、従来の常識に挑戦する力強い新著。

ハワード・フレンチ筆

2024年5月22日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2024/05/22/china-economic-rise-state-deng-xiaoping-history-beijing-state-future-demographics/?tpcc=recirc062921

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中国の驚異的な台頭、その巨大な世界的野心、そしてその将来について、息を呑むような台頭の第一段階が終わりを迎え、重力が人口の高齢化とますます時代遅れになりつつある経済モデルと政治モデルに結びついている今、中国をどう評価すべきか? 今日の世界には、これより重要な疑問はほとんどないし、答えるのが難しい疑問もほとんどない。

私がここ数年で遭遇した、これらの疑問に対処する最も印象的な試みの1つは、予想されるような経済学者、歴史家、政治学者の作品ではない薄い新著だ。この著作『中国の豊かさの時代:起源、隆盛、そして余波(China’s Age of Abundance: Origins, Ascendance, and Aftermath)』は、カリフォルニア大学アーヴァイン校の、中国生まれの社会学者である王丰[王豊](ワン・フェン)によって書かれており、これら全ての分野からの情報が網羅されている。

王の新著を読んで、私は謙虚な思いになった。私は今世紀最初の10年間、『ニューヨーク・タイムズ』紙の特派員として中国に住み、その後も中国を訪れ、中国に関する本を書き、中国問題に関する無数の著作を読み、しばしば書評も書いてきた。しかし、『中国の豊かさの時代』には驚かされた。この本では間接的に述べられているが、王が最近、私が勤務するコロンビア大学で行った公開講演では正面から述べられているのは以下の主張だ。1976年に毛沢東が死去してから、中国が経済的に飛躍したことは、ルネサンス、啓蒙主義、産業革命と並んで、過去1000年で最も衝撃的な現象の1つとして考察に値する、人類にとって重要な出来事だ。

最近グッゲンハイム・フェローシップを受賞した王が、この主張の先頭に立っているという証拠を踏まえると、この枠組みがこれまで、人々のイメージに定着していなかったことは、私自身だけでなく、私自身の職業にとっても少し恥ずかしいことだと感じている。これほど広範囲の人類に良い影響を与えた出来事が他にどれだけあるだろうか?  1978年に始まった改革期間を通じて、中国は世界人口の約5分の1を占めた。そして、一人当たり所得の25倍の増加など、中国の発展のスピードを考慮すると、西洋の歴史的類似点でさえ不十分であるように見え始める。

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上海の少年宮(Children’s Palace)で誕生日を祝うピクニックに集まる若者たち(1987年5月)。

王は社会学(sociology)という学術的ルーツに基づいて、GDPの測定にどうしてもつきまとう、特有の精度の疑わしさや抽象性をはるかに超えて、中国経済の台頭が一般の人々の生活に及ぼしてきた影響について、より具体的なベンチマークを読者に提供しており、それらは息を呑むほどのものだ。

王は本の冒頭で、著者自身ではないかと思われる名前のない子供の物語について語る。1972年、この少年は空腹を感じ、泣き叫ぶ祖母が捕まえる前にゆで卵をひったくって飲み込み、小さな家族危機を引き起こした。その後、その子供は、その卵が肝臓病に苦しむ父親のために処方された栄養補助食品として入手されたものであることを知った。当時、人口のおよそ80%が農業に従事していたが、中国は国民を養うために毎週1人あたり 、1個未満の卵しか生産できなかった。

王は、生活必需品の供給が次から次へと爆発的に増えていく様子を記録し、彼の人生の初期がいかに厳しい状況であったか、そしてそれ以降、国の大部分に、豊かに供給され、あるいは彼が書いているように、それが当たり前になったことで、当たり前のように暴飲暴食(commonplace gluttony)の状況にまで至ったかを描いている。卵に関しては、1978年から1983年の間に、消費量が50%増加したことから始まり、1988年までに更に 3倍に増加し、その後も増加し続けた。他の主要な食品についても同様だった。王が提示したデータによると、1978年から1983年にかけて、1人当たりの豚肉消費量は61%、植物油消費量は151%、家禽肉消費量は268%増加し、その後それぞれの物品の消費量(そして他のほとんど全ての食料生産)は急激に増加し続けた。

この豊かさは、全体的な健康状態の大まかな指標である中国人の平均身長に明らかな影響を与えた。毛沢東時代に既に大幅に伸びていた平均寿命は、中国が急速に豊かになるにつれて伸び続けた。「わずか20年の間に、中国の子どもたちは歴史的なペースで成長しました」と王は書いている。王は続けて「7歳で小学校に入学した時点で、中国の都市部では、2002年の男子の身長は、1992年よりも5.2センチ高く、女子の身長は5.7センチ高かった。あまり裕福ではない田舎の子供たちの身長の伸びはより際立ったものとなっている」と書いている。

1981年、平均的な中国人は、1.3足の靴下と1組の下着と一緒に、安い綿の靴を一足購入したと王は書いている。しかし、2000年の段階で、中国は15億6000万足の靴を輸出しており、その半分以上が革製でした。5年後、その数字は24億8000万に達し、中国は世界最大の衣料品製造者への道を順調に進んでいた。

今日では、専門家も素人も、中国が世界の支配的な製造大国であることはほぼ誰もが知っている。しかし、国の隆盛を示すあまり馴染みのない指標について考えてみよう。1980年代の終わりには、中国には約62万マイルの道路があったが、高速道路はほとんどなかった、と王は書いている。2000年までに、1万100マイルの高速道路が建設された。20年後、中国は10万マイルの高速道路網を誇っている。現在、これらの高速道路では、過去1年間で世界最大のEVメーカーの座をテスラと交換した中国企業BYD製のものも含め、電気自動車が走行している。現在、アメリカや他の西側諸国は電気自動車などの安価な(そして多くの場合多額の補助金を受けている)中国製品から身を守ろうとしており、第二の「チャイナ・ショック(China shock)」が起きると警戒している。

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2017年2月11日、中国東部福建省の古田村付近の畑で、高速道路下のトンネルを、龍を掲げて練り歩く村民たち(2017年2月11日)。

北京の地下鉄は、中国に数多くある新しい都市交通システムの1つであり、2010年代には、ロンドンの地下鉄が150年間をかけて達成した以上の成長を遂げた。今世紀の最初の10年間は、中国の歴史における成長と変革のピーク期であったが、私は世界有数の大都市である上海が完全に生まれ変わるのを目の当たりにした。毎週毎週、古くからの住民が住む古い町並みが取り壊され、息をのむような速さできらびやかな高層ビルが立ち並ぶ新しい地区に変わっていく様子を私は撮影した。そして、それらの写真をまとめて本として出版した。

1980年、人口約10億人に対して年間航空旅客数がかろうじて350万に達していた頃、ほとんどの中国人は飛行機を見たこともなかったと王は書いている。1990年までに、航空旅行の総数は1660万回に増加した。航空旅行は増加を続け、2017年の段階で、中国人航空旅客数は5億5200万に達した。この結果の1つは、海外旅行の爆発的な増加だった。私が初めて中国を訪れた1990年代には、海外旅行はまだ非常にまれだった。新型コロナウイルス感染症のパンデミックの前年である2019年、中国からプライヴェートの海外旅行に出発したのは延べ1億6200万人となった。

王は、旅行の機会が拡大したことが中国人の思考を開放することに貢献したと確信しており、中国の並外れた成長とそれに伴う社会変革にとって、従来の経済政策よりも、更に重要であると考えている。

英国人ジャーナリストのタニア・ブラニガンが、中国に関するもう1つの印象的な近著『レッド・メモリー:中国文化大革命後の生活(Red Memory: The Afterlives of China’s Cultural Revolution)』で詳細に詳しく述べているように、暴力的で政治的に混乱した毛沢東の時代は、息苦しい政治的・社会的服従(political and social conformity)によって特徴付けられていた。ブラニガンは、当時の中国を毛沢東の思考というただ1つの思考によって支配された国家として描写した、中国の哲学者である徐友漁の言葉を引用している。ブラニガンが引用した、当時よく話された皮肉は、毛沢東主義による芸術に対する息苦しいイデオロギー統制のせいで、人口8億の国で承認されたオペラはわずか8本しかなかったというものだ。

毛沢東の死後、教育と思想の流通が本格化した。王は、年間出版される本の数が、1977年の1万3000冊弱から、 1982年には約3万2000冊に増加し、1990年までに再び2倍以上に増加したと書いている。学校への入学者数も爆発的に増加した。高校入学者数は、1995年から2010年の間に、300%以上増加し、職業教育も急速に成長したと王は書いている。しかし、最も印象的だったのは、高等教育における中国の成果だ。 1995年から2005年のわずか10年間で、大学の年間入学者数は5倍に増加し、500万人に達した。今世紀初頭、大学進学年齢に達した若い中国人の中で、高等教育に進んだのは50人に1人だけだった。それが、2020年までに、その数字は世代の半分以上にまで増加した。

ある情報提供者がブラニガンに語ったところによると、中国は毛沢東の肖像が入った小さなアルミのラペルピンを何十億個も生産しており、その製造に使われる金属の量は、4万機の航空機を製造するのに十分な量になるという。

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深圳の羅湖地区で撮影された鄧小平の肖像画(2015年1月30日)。

中国の貧困と低開発からの脱却(China’s breakout from poverty and underdevelopment)に関する、各種の伝統的な説明は、決して完全に満足のいくものではなく、時には知的怠惰(intellectual laziness)に近いものもある。私はその要素を自分自身で引き出している者としてこれを言っている。アナリストの一部は、1980年代以降に他の主要経済大国を上回り、中国は長期的な歴史的軌道(longer-term historical trajectory)に戻り、世界経済における主導的地位を取り戻しているだけだと主張している。それは19世紀初頭まで、過去 1000年の大部分にわたって維持されてきた。しかし、そこで止まるということは、目的論(teleology)、つまり決定論(determinism)を信じることを意味し、私(そしてほとんどの歴史家)にとって、それではまったく説明ができていないということになる。

もう1つの一般的な説明は、毛沢東の死後、中国共産党は、多くの深刻な間違いを犯すのを止め、経済発展の邪魔をしなくなっただけだというものだ。この主張の一般的な変形は、南部の都市深圳などにおける経済特区(special economic zonesSEZ)の創設を含む、有名な政府改革を評価するものだ。 1980年に鄧小平が深圳を経済特区に指定して以来、この目立たない漁村が中国最大かつ最も裕福な都市の1つとなり、近隣の香港にますます影響を与える大都市となったことについては際限なく語り継がれている。この理論の支持者たちは、1980年代初頭に初めて着手された、外国投資の誘致と輸出の創出を伴う他の象徴的な改革にも言及している。

他の多くの分析は、中国の歴史的幸運(historical good fortune)を強調している。1980 年頃、西側企業が海外の安価な場所に製造拠点を置こうとしていたのと同じように、中国は人口ボーナス(demographic dividend)、簡単に言うと若者の増加(youth bulge)が始まっていた。中国は繊維、プラスティック、単純な組み立てなどのアウトソーシング産業を発展途上国の中でいち早く受け入れたことで、この新たなグローバライゼーションの流れの最大の受益者となった。そして、設計されたものであるかどうかにかかわらず、中国の優位性により、中国のような発展を望む他の国々が、中国の影響によって、同じ開発のはしごを上がることが非常に困難になった。

確かに、これらの説明の中には真実の要素も含まれている。しかし、完全に間違っている訳ではないにしても、それらがあまりにも安易に行われている理由を理解するために、王は、改革時代の初期に中国の成功の範囲を予測することがいかに困難だったかを実証している。彼はその一部として、2004年に世界有数の経済学者の多くの予測を共有することによってそのことを明らかにした。その年、ウォールストリート・ジャーナルは12人のノーベル経済学賞受賞者に、75年の2079年に、アメリカ、ヨーロッパ連合、または中国のどれが世界最大の経済大国になると思うかどうかを質問した。中国経済が既に20年以上にわたって好況を呈してきたが、中国を勝者として挙げたのは経済学者の半数だけだった。他の経済学者たちは、中国が西側諸国との差を縮めることができるかどうかについて、曖昧なこたえをするか、疑念を抱いていたかであった。

偶然にも、特定の国で通貨単位で買える金額を示す富の尺度である購買力平価(purchasing power parity)から判断すると、2004年のウォールストリート・ジャーナルの調査からわずか12年で中国は世界最大の経済大国になった。より広く引用されているものの、おそらく精度が低い名目 GDP を基準にすると、中国は現在でもアメリカに次いで世界第2位に位置している。しかし、その経済規模は米国経済の約64%であり、その差は劇的に縮まった。比較すると、ソ連経済は1970年代半ばに米国経済の約57% に達した。
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深圳市の陵定陽橋の建設現場で吊り上げられる鋼鉄製箱桁(2023年2月22日)。

世界銀行や多くのジャーナリストの説明では、しばしば何億人もの人々を貧困から「引き上げた(lifting)」と称賛する中国自身の指導者たちでさえ、自国の経済実績を一貫して過小評価しており、そうすることで中国の驚異的な成長についてほとんど理解を裏切ってきた。この誤った判断の記録は、中国の台頭を設計したとほぼ広く認められている指導者、鄧小平自身によって始まったが、決して終結した訳ではない。

1979年、鄧小平は、多少の困難はあるものの、中国は今世紀末までに一人当たり所得1000ドルを達成できるだろうと推測した。中国が先進国の地位に近づくには、さらに30年から50年かかるだろうと鄧小平は考えた。しかし、1982年までに、彼はすでに2000年の目標が高すぎると公の場で懸念を表明していた。そして、これは決して無意味な歴史的事実ではない。1980年代後半に中国ではインフレが制御不能になりかけ、1989年の天安門事件とその致命的な弾圧につながる主な原因となった。

1992年、87歳になった鄧小平は再び未来を見つめようとした。中華人民共和国建国100周年となる2049年までに、中国は中所得国(middle-income countries)の仲間入りをすることができ、それは目覚ましい成果となるだろうと鄧小平は述べた。王が辛辣に指摘しているように、57年間待つ代わりに、5年後に亡くなった鄧氏は生きてこの目標が達成されるのを見届けた。1980年から1997年にかけて、中国の一人当たり所得は4倍以上に増加した。

中国の指導者たちは中国の経済発展に影響を与える変化の力を過小評価する傾向を持っている。鄧小平時代以降も長く続いた。例えば、1995年に中国政府は2000年から2010年の間にGDPを倍増させるという目標を発表した。しかし、その10年間に、中国は経済規模を2兆7700億ドルから、7兆5500億ドルへと270%以上成長させた。一人当たりの収入は2194ドルから​​5647ドルへと2.57倍も増加し、目標を29%上回ったと王は書いている。中国の指導者たちは、国運を変えた最大の原因は中国の政策ではなかったため、現実を把握するのに非常に苦労した。王は、北京にはこれほどの経済的成功を達成するための一貫したロードマップがなかったと主張する。

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北京南郊外に最近建設された製造組立工場の端まで続く土地で働く農民(2008年10月14日)。

それでは、中国の驚異的な成功は何によって説明できるのか? ここが王の仕事が最も価値を持つところだ。著書『中国の豊かな時代』は、単一の要因を強調するのではなく、複雑かつ予期せぬ形で国の躍進に貢献した一連の相互に絡み合った原因を明らかにしている。

中国の有名な農業分野における実験は、農民を農村部の共同体(コミューン、communes)、人民公社のためだけに生産する義務から解放するもので、重要な改革として長らく喧伝されてきた。これに、王は、あまり注目されていないもう一つの決定的な変化を加えている。それは、農村部における初期工業化の恐るべき波(formidable wave of early industrialization in the countryside)だ。王は、第一段階では工業化が「現場で始まった(took off in situ)」と書いている。農民たちは都市に移住するのではなく、村で産業労働者(industrial laborers)として働き始めた。王は次のように書いている。「1990年代半ばまでに、中国の農村労働力の40%が中国の田舎で工業製品を生産していた。1995年、中国の農村労働者は中国の工業生産高の半分以上を生み出した」。 1987年、鄧小平はユーゴスラビアからの訪問者にこのことへの驚きを明かした。鄧小平は「農村改革における私たちの最大の成功は、そしてそれは我々が全く予想していなかったことであったが、村や郡区が運営する多数の企業が出現したことだ。彼らは自然発生的に生まれた新しい力のようなものだ」と述べた。

中国の都市への人口流出が本格的に始まったのは、地方の工業化が始まってからずっと後の1990年代後半に入ってからのことだった。歴史的に、都市化(urbanization)は、日本やそれ以前のアメリカを含め、経済発展の重要な特徴だった。しかし、中国の都市化には 2つの固有の特徴があった。都市への新参者の多くは産業経験を持っていたため、工場での仕事に直接取り組む準備がはるかに整っていた。第二に、中国は戸口(hukou)制度、戸籍制度(長年の都市居住者を優遇する一種のソフト・アパルトヘイト[soft-apartheid])に基づく二重構造の社会構造を強制しているため、地方から移住してくる新たな産業労働者には、より低い賃金が与えられる可能性がある。既存の都市居住者よりも手厚い社会保障。更には、工場労働者は、歯が立たず政府の管理下にある労働組合からの保護をほとんど享受できなかった。

ここまで述べてきたことは、中国が離陸期(takeoff period)に、膨大な安価な労働力を保有してだけだという理論と一致する。しかし、王は、これは物事を非常に単純化しすぎている(oversimplifies things)と正しく指摘している。戸籍制度が裕福な大都市の出身でない人々を差別していることは否定できない。しかし、それでも都市部への新参者たちは、高い識字率と概して良好な健康状態を誇ったという、国の急成長を促進する上で極めて重要な特別な属性を持ってやって都市部にやって来た。

これらはいずれも、毛沢東時代の懲罰的な時代に、社会的平等(social equality)を重視したことの目に見える成果だった。王にとって、これは中国の都市部への新参者が単なる安価な労働力源ではなかったことを意味する。また、彼らは複雑なタスクを実行することもできた。これは、コストと同じくらい重要な要素であると彼は考えている。これは、2010年代後半に中国で先進的な製品を製造する企業であるアップル社とその製造パートナーで働いていた約300万人の人々(そのほとんどが都市部への新参者)であったことを説明するのに役立つ。

これらの変革はいずれも国家によって開始されたものではない。王は次のように書いている。「むしろ、それらは全て、自分たちの生活を改善しようと必死で決意した人々の強い願望から生まれた。このような草の根の取り組み(grassroot initiatives)は、受け入れられる前に、最初は政府に抵抗されることがよくあった」。「中国の奇跡(China miracle)」を生み出したのは中国人民であり、指導者ではないと王は何度も主張する。

私が特に興味深いと思っているのは、中国の台頭における他の2つの要因は、歴史と文化に関係している。王は、文化大革命の暴力と混乱(violence and disarray of the Cultural Revolution)が、1976年以降の急速な成長を促進する上で強力な役割を果たしたと説得力を持って主張する。王は次のように述べている。「毛沢東の死で終わったこの激動の10年間の終わりに、中国国民はひどく混乱し、失望し、完全に疲れきっていた。彼らは変化、より物質的な豊かさ、社会の安定、そして人間の礼儀を備えた生活を切望していた」。私たちが見てきたように、鄧小平もこうした考えに大まかに同意したようだ。王は、文化大革命についての鄧小平の発言を「文化大革命は悪いことのように見えた。しかし、結果的にはそれが良かったのだ。それは人々に考えさせ、私たちが抱えている問題を認識させた。私たちが1970年代と1980年代に政策を実施できたのは、まさに当時の教訓を学んだからだ」と引用している。

王の説明パズルの最後のピースには、中国の改革期に相対的に栄えた、新しいアイデア、議論、様々な言説に対する寛容さが含まれている。王は、中国の経済成長は2007年にピークに達し、その開放性と寛容さ(openness and tolerance)はその後の10年間にピークに達したと書いている。2012年に習近平が権力の座に就いて以来、成長と知的自由の両方が急激に低下している。
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中国中部湖南省衡陽で、旧正月を控えた旅行のピーク時に鉄道駅に到着する乗客たち(2024年1月31日)。

 中国社会の原動力としての政党国家の圧倒的な復活と、一種の中国の啓蒙活動の時期尚早な縮小は、この国の将来にとって良い前兆ではない。王の本の中で今後数十年を展望した比較的短い部分は、中国が強い逆風に直面することを明らかにしている。これは崩壊や衰退を予測するものではない。しかし、王は、高い成長率は過去のものだと確信している。最も重要な逆風の1つは、王の専門分野である人口動態(demographics)に直接当てはまる。人口減少への記念碑的な傾向を逆転させることはできないだろう。国連人口部の予測中央値によれば、現在約14億人の中国の人口は2100年までに8億人未満に減少するだろう。

高齢化の加速により、退職、慢性疾患、高齢者の介護に関連する膨大な社会的コスト(social costs)が発生する。王の予測では、これらのプログラムへの人々の寛大な支出が増えないと仮定すると、中国政府は2030年までに全歳入のほぼ半分を教育、医療、年金に費やす必要があるだろう。たとえば、中国が経済協力開発機構加盟国(Organization for Economic Cooperation and Development)の2009年の平均に匹敵する水準の医療と年金支援を提供したいと考えた場合、2030年までに政府歳入の3分2をこれらのサーヴィスだけに充てる必要があるだろう。巨大な高速鉄道網の旅客運賃を大幅に値上げするという中国の最近の決定が予告しているように、人口とともに利用者層が縮小する中、新たな交通インフラの維持費さえも大きな財政的負債になる可能性がある。

この人口動態の将来とその過酷な結果は、私が何年も書いてきたテーマだが、国民に情報を提供せず、有意義な議論を妨げる極めて非民主的な制度を痛烈に試す、気の遠くなるような政治的決定を暗示している。

最近、私が勤める大学のキャンパスで、中国人学生たちから、私が中国に住んでいた時代のこと、特に、今ではほとんど想像もできないような、表現と結社の相対的な自由について不思議そうに質問された。インターネット(中国のような厳しく取り締まられたものでさえ)、高等教育への幅広いアクセス、海外旅行によって、かつて毛沢東にはできたことだが、1人の指導者が一国の人々の心を完全に支配するような状況に戻ることはありえない。しかし、それが習近平の挑戦を妨げている訳ではない。かつて、中国の指導者たちは、自分たちの社会とその成長の可能性を把握するのが遅かった。今、どちらかといえば、王は、中国の指導者たちが支配的な国家の復活がもたらすマイナス面をひどく過小評価していると考えているようだ。

王は次のように結論付けている。「ほんの一世代前には想像もできなかった物質的豊かさのレヴェルを達成した中国は、豊かさの時代(age of abundance)を経て、自己満足の新たな段階(new phase of complacence)に入った。法的・合理的な権限が欠如すると、不透明な政策設定を伴う国家権力の官僚化(state power bureaucratization)は停滞を招くことになる。これは、中国の歴史を通じて繰り返されてきたテーマである。神のような指導者である毛沢東に別れを告げてからほぼ半世紀が経った今、この国は再びカリスマ的権威の時代(era of charismatic authority)に耐える用意をしているように見える」。

※ハワード・W・フレンチ:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト、コロンビア大学ジャーナリズム大学院教授。長年にわたり海外特派員を務めた。最新作に黒人として生まれて:アフリカ、アフリカの人々、そして近代世界の形成、1471年から第二次世界大戦まで(Born in Blackness: Africa, Africans and the Making of the Modern World, 1471 to the Second World War.)』がある。ツイッターアカウント:@hofrench

(貼り付け終わり)

(終わり)

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