古村治彦です。
民主党の副大統領候補に選ばれたミネソタ州知事ティム・ウォルツは、大学院生時代の1980年代後半から中国との関係を保っている。生まれ故郷のネブラスカ州の隣にあるミネソタ州の田舎町(妻の故郷でもある)で高校の社会科教師となってからも、中国との関係が続き、学生のグループを引率して、中国訪問を行っている。そのうちの1回は、妻との新婚旅行を兼ねてのものとなった。
ミネソタ州は、アメリカでも有数の農業州である。アメリカの農業は連邦政府からの補助金もあり、かつ大規模農業ということで、世界的な競争力を持つ産業分野となっている。農業州は全体として、共和党優勢州であり、農業州出身の連邦議員たちや州知事たちは共和党所属が多く(ウォルツは民主党ではあるが)、彼らは自由貿易を志向している。最大の貿易相手国である中国との関税をめぐる争いが起きると、農業州は困ってしまう。アメリカ産農産物に高い関税をかけられてしまうと、競争力が落ちてしまい、市場シェアをオーストラリアやブラジルといった競争相手に奪われてしまう。農業州は、共和党支持で、反中国的な気質を持っているが、商売としては、中国との関係を重視している。その代表例がティム・ウォルツということになる。
カマラ・ハリスが大統領になれば、「ヒラリー2.0」のような存在ということになる。対中強硬姿勢を鮮明に打ち出すことになる。その時に、中国とのパイプとしてウォルツがいるということが重要だ。パイプ役として話ができる人物がいてこそ、対立を「管理する」ことができる。対立をエスカレートさせてしまう一方では、最悪の場合には戦争勃発の危険がある。ウォルツの存在は民主党とハリス陣営からの一種のメッセージである。
日本でも、ただただあほだら経のように、反中国を唱え続ければよいという単純な思考の人々がいるが、それでは世界政治は動いていかないのだ。日中議連の二階俊博会長が訪中して、中国共産党序列3位の全国人民代表大会常務委員会委員長の趙楽際と会談を持っているが、意見を交換し、チャンネルをきちんと整備しておくこと、それを次世代に引き継いでいくことが重要なのだ。アメリカでも、民主党にリアリズム系統がいて、ウォルツを副大統領候補に選んでいるということを受けて、民主党もまだまだ捨てたものではないということを私は感じている。
(貼り付けはじめ)
ティム・ウォルツは常に中国に関して一貫した姿勢を保っている(Tim Walz Has
Always Been Consistent on China)
-地元紙は、民主党の副大統領候補となったティム・ウォルツが全国的な注目を集めるずっと前に何を考えていたかを明らかにしている。
ポウル・マスグレイヴ筆
2024年8月12日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2024/08/12/tim-walz-china-record-us-election-harris-trump/
ミネソタ州知事ティム・ウォルツがカマラ・ハリス副大統領の副大統領候補として全国の舞台に登場したことで、彼はにわかに注目を集めた。ウォルツは、舞台裏の戦略が成功し、突然空席となった民主党の2番目の候補者として検討されるまで、全国的な知名度は低かった。
ウォルツの半生の印象的な要素の1つは、中国との大変に深いつながりだ。ウォルツは天安門広場の抗議活動から数カ月後の1989年に初めて中国を訪問し、その後約30回訪問した。教育者として、そして中小企業の経営者として、彼は学生グループの中国旅行を促進した。連邦下院議員として、中国の人権と法の支配を監視する連邦議会対中国執行委員会の委員を務め、民主活動家の劉暁波の釈放と天安門事件の犠牲者への追悼を求める決議案の共同提案者となった。
ウォルツの中国での記録に対する注目が全て肯定的だったことはない。共和党や保守派の人々はウォルツの中国との関係を危険なものとして描写しようとしてきた。例えば、マルコ・ルビオ連邦上院議員はXに投稿した文章の中で、ウォルツが中国にとっての資産のような存在であり、「中国が将来のアメリカ指導者をどのように辛抱強く育てているかの一例(an example of how Beijing patiently grooms future American leaders)」であり、ウォルツが「中国が私たちの雇用と工場を奪い、アメリカに麻薬を氾濫させることを許す(allow China to steal our jobs & factories & flood America
with drugs)」ことになるだろうと非難した。
しかし、ルビオの攻撃はまさに実態は逆だ。ウォルツの経歴は、中国共産党に対する慎重な批判者としての経歴であり、誇張や融和の傾向がない。これはスピンドクターがここ数週間で作り上げたイメージでもない。ネブラスカ州の小さな町の新聞記事はウォルツが政治的野心を抱くよりもずっと前に発行されたもので、ウォルツが公言していた中国人民と文化に対する愛情が、中国の支配者に対する長年の批判と一致してきたことを示している。
1980年代と90年代には、地方紙に取り上げられることはそんなに大変なことではなかった。例えばウォルツはかつて、「ボックスビュート郡唯一の家族経営新聞」である『アライアンス・タイムズ・ヘラルド』紙に、町の中心部のゴミ箱の塗装と修理という州兵プロジェクトの写真を撮られたことがある。(写真は説明が示唆するのと同じくらい重要だ。)
集まり、4-Hクラブのイヴェント、教会のお知らせなどは、小さな町のニューズ報道ではお決まりの内容だが、時折、例外的な出来事に関する記事で盛り上がることがあった。マサチューセッツを拠点とする非営利団体「ワールド・ティーチ」が運営するプログラムの一環として、ウォルツが中国派遣に選ばれたを決めたのもそのひとつだった。(当時もその後も、多くのニューズ記事ではワールド・ティーチはハーバード大学が運営するプログラムだと説明されているが、ハーバードの学生たちによって設立されたと言った方が正確だ)。
チャドロン州立大学の4年生だったウォルツは、1989年に『チャドロン・レコード』紙に掲載された派遣決定発表の記事で、「私はいつも旅に興味を持っていて、今回の機会は3000年前の文化を見る絶好の機会だと感じている」と語っている。
ウォルツは、決して華やかとはいえない条件下で教員として派遣され働くことになった。ワールド・ティーチが中国に教員を派遣するのはその年が初めてで、参加者は臨機応変に対応しなければならない、とチャドロン・レコードは報じた。ウォルツは「基本的に自分たちで問題を解決しなければならないと言われました」と語っている。交通費、健康保険、オリエンテーションの費用として2500ドルを捻出しなければならず、中国に入れば、月給は100ドルにしかならないと報じられた。
1989年6月のデモ隊の弾圧で、ウォルツはこの旅が続けられるかどうか不安になったが、プログラムは実施された。香港と広州でオリエンテーションを受けた後、ウォルツは教育現場である中国南部の広東省中部に移動し、当時急速に発展していた佛山の高級中学校に赴いた。チャドロン・レコードの1990年の記事によると、彼はそこで1989年12月から1990年12月まで、65人ずつの生徒に、アメリカの歴史と文化、そして英語を教えた。(1994年の『スコッツブラッフスター・ヘラルド』紙の記事によると、ウォルツの中西部訛りのアメリカ英語は、前の教師がイギリス人だった生徒たちにとっては新鮮な変化になったようだということだ)。
彼の旅行は、ウォルツが海外にいる間にシャドロン州立大学の教員に宛てて書いた手紙の抜粋を新聞が記事とs知恵掲載するほど大きなニューズとなった。ウォルツは自分が「王様のように扱われていた」と書いている。彼は「私はカリキュラムに全責任を負っていて、私が管理している」とも述べている。
帰国後、ウォルツは母校チャドロン州立大学で中国滞在ついての講演のために招待された。ほぼ同じ頃、中国での1年間についてのインタヴューが地元紙に掲載された。彼の熱意は明らかだった。「私がどれだけ長く生きても、私がこれほどよく扱われることは二度とないだろう。素晴らしい体験だった」とウォルツは1990年のチャドロン・レコードに対して語った。(2024年、『ニューヨーク・ポスト』紙はウォルツが「共産主義中国に媚びている」証拠としてこの文章をねじ曲げて報じた。)
しかし、文脈を見れば、ウォルツが騙されたのではないことは明らかだ。チャドロン・レコードによれば、彼は教職に就いていた年に北京を訪れ(鉄道で40時間の旅)、天安門広場を見たという。ウォルツは中国と中国人を愛していたが、中国共産党に対する態度は露骨に批判的だった。ウォルツはチャドロン・レコードに対して、天安門広場は「人々にとって常に苦い思い出となるだろう」と述べた。(ウォルツの配偶者によると、ウォルツはその後、天安門事件の日付を忘れないために、結婚の日取りを6月4日に決めた。)
ウォルツは、中国の問題は国民ではなく政府にあると指摘した。彼は次のように述べている。「適切なリーダーシップがあれば、(中国人が)成し遂げられることに限界はない。彼らはとても親切で、寛大で、有能な人々だ。彼らはただひたすら私に与え、与え、与えてくれた。中国に行ったことは、私がこれまでに行ったことの中で最高のことの1つだ」。
ウォルツは、中国の人々が共産主義社会から離れたがっていると見ている。ウォルツはチャドロン・レコードに対して次のように述べている。「学生の多くはアメリカに留学したがっている。彼らは中国にはあまりチャンスがないと感じている」。当時はまだポルトガルの植民地であったマカオをウォルツが旅行した際、マカオ政府がマカオに不法滞在していた中国人移民に恩赦を与えたため、西側諸国での居住を希望する何万人もの中国人が押し寄せたという。
中国訪問が、ウォルツの教育者としてのキャリアを形成した。帰国後数カ月で、ウォルツは当時人口1万人弱だったネブラスカ州アライアンスで社会科教師の職を見つけた。ウォルツは、自分の生徒と、友人の勤め先であった学校の中国人中学生とのペンパル・プログラムを立ち上げた。このプログラムは1991年の『アライアンス・タイムズ・ヘラルド』紙の一面を飾った。
ウォルツは行動的な教師であったと言えるだろう。ウォルツは文化的なギャップを埋めるだけでなく、当時蜜月であった米中政府関係の利害関係を生徒に示すために手紙のやり取りを利用した。ウォルツは『タイムズ・ヘラルド』紙に対し、当時の両国の貿易不均衡(現在の数分の一の機微)について次のように指摘した。「中国政府は、自分たちが売るものを私たち(アメリカ)に買って欲しいが、私たちが売るものは買ってくれない」。
それからすぐに、ウォルツは学生グループを率いて中国を訪れるようになった。最初の訪問は1993年7月で、アライアンス高校の生徒25人を連れて中国政府から一部資金援助を受けて訪問した。中国共産党ではなく、中国文化の一面を批判した珍しい例として、ウォルツは中国オペラを聴きたいというある学生に対し、他の中国オペラを見るくらいなら「ガラスを食べた方がましだ」と答えたということだ。スター・ヘラルド紙によると、翌年、ウォルツは同僚の教師である妻との新婚旅行で、中国への2回の学生旅行を企画した。その後、彼と彼の妻は同様の交流を促進するためのビジネスを始めることになった。
ウォルツは中国に好意的であったが、中国の人々に関する記述は、時に当時の一般的なステレオタイプを反映していた。1989年にレコード紙に掲載された中国からの手紙の中で、彼は「学生たちは行儀が良すぎるくらいだ」と書いている。中国での新婚旅行を前にした1994年のプロフィールの中で、ウォルツは、スター・ヘラルド紙に対し、生徒の名前を覚え、それぞれを見分けるのが大変だったと語っている。ただし、中国の生徒たちはアメリカ人なら誰でも同じように見えると思っていたとも述べている。1993年のタイムズ・ヘラルド紙の取材に対して、彼は自分の生徒たちを、過度に創造的ではなかったが勤勉だったと語っている。そして、小さな町での生活に慣れていたウォルツにとって、中国のスケールの大きさには驚かされたと述べている。
ウォルツの中国滞在が彼にどのような影響を与えたかについての同時代の(そして驚くほど広範な)記録は、ウォルツが中国滞在中に手なずけられたとか、そうでなければ幻惑されたという考えを明確に否定している。彼は、自分とはまったく異なる社会と政府を真摯に観察する若い観察者であった。しかし、何度も中国に接しているうちに、中国は彼にとってますます身近なものになっていった。中国人とその政府についての彼の意見は、自分の経歴と読書によって濾過された、直接の観察から導き出されたものだ。
タカでもハトでもないウォルツは、生徒であり教師でもある、例えるならフクロウのような存在として中国に近づいた。この初期のインタヴューを通じて、彼は国民と政府の分離を主張し、中国政府を繰り返し批判した。また、民主政治体制の重要性を強調し、アメリカに欠けている部分を認識していた。
人は変わるものであり、高校教師のウォルツがどのように授業に取り組んだかから、ウォルツ副大統領候補がどのように行動するかを探るのは明らかに危険である。それでも、ウォルツが理論やイデオロギーよりも事実、特に経験を重視すること、天安門の時代に確立された中国国民と政府に対する信念を深く持っていること、人権の促進と貿易交渉におけるアメリカの経済的利益への関与が長年にわたるものであることは明らかだ。
このような背景があり、さらにその後の下院議員としての中国問題での経験も加われば、ウォルツが北京との関係について、無条件に敵対することも、徹底的にナイーヴになるということもないだろう。
※ポウル・マスグレイヴ:マサチューセッツ大学アマースト校政治学講師。
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