古村治彦です。

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 一般にはあまり知られていないが、アナキズム研究の分野で知られた政治学者で人類学者のジェイムズ・C・スコットの追悼記事をご紹介する。
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スコットは政治学の分野で大きな業績を残した。スコットについて、以下の記事を使って紹介していく。スコットの著作は1979年の『モーラル・エコノミー』に始まり、多岐にわたるテーマを扱いながらも、中央集権的な支配形態への関心で統一されている。スコットは学問の枠には収まらず、監視と統制に対抗する姿勢を持ち続けた。

彼はマレーシアでのフィールドワークを通じて、弱者の視点を重視し、政治的現象を市民の視点から探求した。スコットの著作は、限界に位置する人々や地域への焦点を当て、特に「ゾミア(Zomia)」という用語を通じて独自の視点を持っていた。ゾミアとは、中央集権的な政府が支配することが困難な山岳地帯を示す言葉で、スコットはゾミアの人々は、近代的な価値観から意図的に離れて、同化されないことを選択したという主張を行った。

スコットの業績は詳細へのこだわりと、彼が描いた地理的・文化的背景の深さがファンに強い印象を与えている。彼は単なる社会科学者ではなく、市民の視点を持つ思想家であり、特に『弱者たちの武器』や『ゾミア』は、文化の重要性を強調するものであった。スコットは政治現象を考察し、統治と抵抗の多様な様式を政治的なものとして捉え直したことが特徴的である。

彼の主な著作『国家のように見る(Seeing Like a State)』では、国家が活動する地域を客観的に観察するのではなく、支配の目的に沿った見方をすることを告げていた。彼は国家による「読みやすさ」の追求が、集団を識別・分類することで公私両面の制度を変容させる様子を述べ、国家の手段が市民の福祉にも必要であると主張した。

スコットはモダニズムの成功例と失敗例の区別について明確にしていないが、近代国家に対する懐疑的ながらも必要性を認めていた。また、彼は近代的介入の影響を農業や社会に遡って考察するなど、漠然とした懐疑を抱いた。彼の著作には緊張感が存在し、時には理論の一貫性が欠けているようにも見えるが、その批判に耐えるだけの価値があった。

スコットの心理に迫る自己主張には、計画された都市や社会に対する本能的な抵抗感が見受けられる。彼の研究は、従来の枠を超えて多様な歴史的詳細を整理する功績があった。 スコットの思想は、異なる学問領域に多大な影響を与え、彼の著作は時間を超えて評価されることだろう。彼の功績は、現代の政治と社会研究において独自の地位を確保するものとなった。

 国民国家という枠組み、近代西洋の価値観、民主政治体制全てが揺らいでいる。そうした中で、スコットの研究を見直すということはこれから重要になっていくだろう。

(貼り付けはじめ)

ジェイムズ・C・スコットは世界を説明するために国境を手荒く厚かった(James C. Scott Trampled Across Borders to Explain the World

-政治学者にして、人類学者、アナーキストであるスコットは世界の周縁(margins)を愛した。

デイヴィッド・ポランスキー筆

2024年7月31日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2024/07/31/james-c-scott-trampled-across-borders-to-explain-the-world/

今月のワシントンの政治的興奮は、より静かではあるが、やはり重要な出来事を見えにくくしている。それは、過去半世紀で最も影響力のある知識人の一人であった、政治学者で人類学者のジェイムズ・C・スコットが7月19日に亡くなったというものだ。これは、従来の権力の中枢から注意を逸らすか、権力の理解を複雑にしようと執拗に努めた著述家にとって適切なエピローグとなった。

1979年の『モーラル・エコノミー――東南アジアの農民叛乱と生存維持(The Moral Economy of the Peasant)』に始まり、2017年の『反穀物の人類史(Against the Grain、アゲインスト・ザ・グレイン)』まで、スコットのテーマは、ドイツの林業からマレーシアの村落まで多岐にわたるが、中央集権的な支配形態がどのように行使され、またどのように抵抗されるかというテーマ的関心によって統一されている。

厳密に言えば、スコットは幸いにも学問分野の境界に束縛されず、監視と統制(surveillance and control)に反対を主張した著述家にふさわしい人物だった。そして彼は、自身の主要分野である政治学の慣習を健全に軽視し続けた。 42歳の時にマレーシアで新たな人類学のフィールドワークを始める準備ができていた学者は他にはほとんどいなかっただろう。その2年間の調査には、彼の初期の主要著作の1つである『弱者たちの武器(Weapons of the Weak)』につながる、1つの村での14カ月の生活が含まれていた。

1960年代と70年代の東南アジア研究が、スコットだけでなく、クリフォード・ギアツ、アンナ・ツィン、ベネディクト・アンダーソンなど、その時期に影響力を持った学際的な一連の印象的な研究の基礎となった人物が出たのは何故かという問題は未解決の疑問である。おそらくそれは、アイデンティティと統治(identity and governance)の問題に取り組んでいる比較的歴史が浅い国家の激動の性質だったのかもしれないし、あるいはスコットが『武器(Weapons)』で書いたように、「今や消えつつある左翼の民族解放戦争との学術的なロマンス(the now fading left-wing, academic romance with wars of national liberation)」だったのかもしれない。

スコットの仕事は、最も基本的な意味で地政学的であった。彼は政治社会が発展する自然環境に執拗に焦点を当て、それらの社会がどのように環境をコントロールしようと試みるのか(そしてしばしば失敗するのか)に特に注意を払った。生前、彼は河川に関する著作を執筆中で、そのなかには、スコットが魅力的だと感じた、湿地帯やその他の地形がその性質上、中央集権的な支配に抵抗しているように見える地域での無法者たちの物語である、中国の古典『水滸伝(The Water Margin)』の考察も含まれていた。

限界性(marginality)が彼の著作の中心だった。彼は諸大国の辺境(the edge of the great powers)にある人々や場所について書き、遠く離れた政府がほとんど影響力を持たなかった東南アジアの高地地域である「ゾミア(Zomia)」という用語を広めた。また、風景に対する彼の興味は理論的なものに限定されなかった。彼はイェール大学で林業と農業の研究において兼任の職を歴任し、コネチカット州で自身の農場を保有した。

おそらくスコットの最大の貢献は、彼の物語を埋めるための目もくらむような詳細の付加であろう。監視と管理について聞くのと、近世ヨーロッパの地籍図を見るのは別のことだ。また、科学的な林業について聞くのと、原生林のもつれた多様性に代わって、画一的な畝を見るのとでは、また別のことである。このような例は他にもたくさんあるが、現在、何世代もの読者の心に彼の説明を印象づけるのに役立っている。

彼はまた、非常に政治的な著述家でもあった。これは、デモ行進やソーシャルメディア上で党派的な主張をすることを政治的と呼ぶ学者のような、うんざりするような意味ではない。つまり、単なる社会科学者としてではなく、一市民の視点から政治現象を見つめた思想家だったということだ。『弱者たちの武器』や『ゾミア――脱国家の世界史(The Art of Not Being Governed)』のような著作は、外国の社会組織様式に対する感性や集団的自由の重要性に対する彼の評価において、ヘロドトスを思い起こさせる。実際的には、ヘロドトスは建設的なアナーキストであり、組織化された共同体の権利を尊重する人であった。

スコットは意識的に、政治生活に伴うものについての理解を拡大し、農民社会が採用する様々な統治と抵抗の様式(the various modes of rule and resistance)を意味のある政治的なものとして扱うことに努めた。彼はエキゾチック化(exoticization)に抵抗し、これらのアイデアが歴史的および文化的隔たりを越えてどのように翻訳され得るかを実証し、たとえば産業化以前の社会の活動を先進社会の階級対立と結び付けたり、ゾラやエリオットと文学的な類似点を描いたりした。これはある意味、大きな問題であり、私たちが本当に「政治(politics)」を意味するものについて継続的に検討する必要がある。しかし少なくとも、これらの慣行は近代国家そのものの慣行と比べて政治的であるわけではないとスコットは説得力を持って主張している。

近代国家(modern state)は、彼の最も重要かつ永続的な作品の主題であった。哲学者ジョン・グレイが20世紀に関する「最も深遠で示唆に富む研究の1つ」と呼んだ『国家のように見る(Seeing Like a State)』である。ニーチェは『道徳の系譜(Genealogy of Morality)』の中で、何も考えず、ただ観察し記録するだけの目、つまり、何を見るか、見たものをどう解釈するかを選択する心を持たない目という考えを嘲笑している。スコットは、国家が活動する地域を客観的に 「見る(see)」のではなく、統制と支配という自らの目的のために 「見る」のだということを教えてくれる。

近世ザクセンにおける科学的林業の発展から、チャンディーガルやブラジリアのような近代都市の計画、東アフリカにおける村落化まで、幅広く、しばしば予想外の様々なケーススタディを用いながら、彼は「読みやすさ(legibility)」、すなわち国家官僚機構が管理する集団を識別し分類する能力(the ability of state bureaucracies to identify and categorize the populations they administer)が、公的・私的制度の双方を、しばしば不利益を被る形で、いかに大きく変容させるかを実証している。苗字、標準化された度量衡、財産権、その他もろもろは全てこのプロセスの産物である。しかし、彼が 「ハイ・モダニズム(high modernism)」と呼ぶこのアプローチは、より伝統的な地域知の形態と対立し(必ずしも優れている訳ではない)、根本的には市民よりもむしろ国家の欲望に奉仕するものである。

しかし、国家権力に懐疑的なリバータリアンやアナーキストに受け入れられる一方で、スコットはその役割について、彼のファンの多くよりもはるかに曖昧であった。彼は、近代国家の持つ各種の手段は、「現代の専制君主になろうとする者の企てと同様に、私たちの福祉と自由の維持に不可欠である。市民権(citizenship)の概念や社会福祉の提供を支えるものであり、望ましくない少数派を一網打尽にする政策を支えるものでもある(are as vital to the maintenance of our welfare and freedom as they are to the designs of the would-be modern despot. They undergird the concept of citizenship and the provision of social welfare just as they might undergird a policy of rounding up undesirable minorities)」。読みやすさは現代の福祉国家に必要な要素である。誰が誰で、誰が何を持っているのかが分からなければ、金持ちに課税し、貧乏人を助けることはできない。

驚くべきことに、スコットは決して大それた考えから逃げることなく、後の著作『反穀物の人類史』(社会科学史上最も適切な名前を持つ著作の1つ)において、その考えを倍加させた。さて、この問題はハイ・モダニズムに限ったことではなく、階層社会の起源と、社会的・経済的統制の一形態としての農業の利用まで5000年前に遡る。とりわけこの試みは、ルソー的な社会懐疑論[skepticism of society](人間の自然な幸福は社会生活に取り込まれることによって破壊される)を、近代的な歴史学的手法と融合させるという、最も野心的な試みの1つであった。定住した政治社会(settled political societies)の良し悪しなど、長い間閉ざされてきたと考えられてきた問題を再び掘り起こすこのような試みは、まさに優れた歴史学や優れた政治思想がなすべきことである。

もちろん、スコットの仕事には常に緊張感があった(彼が尊ぶ傾向のある種類の社会は、終身在職権付与制度を支持する傾向にはなかった)。より広く言えば、スコットの規範的主張と記述的主張は時に対立しているように見えた。『国家のように見る』の副題は次のようなものだった。「人間の状態を改善するためのある計画がいかに失敗してきたか(How certain schemes to improve the human condition have failed)」である。しかし、タンザニアにおけるニエレレの集団化計画のように、そのような失敗の明確な例が数多くある一方で、多くの近代主義的計画は計り知れない成功を収めている。

実際、モダニズムそのものを、人間の状態を改善するための包括的で中央集権的な計画だと考えることもできる。その成功を認めるのに、スティーヴン・ピンカーを全面的に援用する必要はない。しかし、近代科学の前提の1つは、物質的な利益を確保するにはローカルな知識では不十分だということだ。スコットの例の1つを挙げれば、マレーシアの木からアリを取り除く方法を知ることがいかに有用であろうとも、ワクチン、グリーン革命、そして「自然を支配する(master nature)」ための様々な方策は、寿命を延ばし、概して人類の健康と快適さを向上させることにはるかに成功していることが証明されている。

他の人々が指摘しているように、スコットが近代的介入(modern intervention.)の成功例と失敗例をどこでどのように区別しているのかは必ずしも明確ではない。ル・コルビュジエの醜悪で非人間的な建築物のような失敗の多くは、そのようなモダニズムのアプローチが満足させることができない、人間の繁栄(human flourishing)という非物質的な考えに照らして理解するのが最善である。ノルウェー・トウヒのような単一の樹種が、樹上レヴィットタウンのように自然の多様な緑に取って代わるのを見るのは、何か不気味な感じがする。ブリュージュの曲がりくねった迷路は、ブラジリアの広大な計画空間よりもはるかに私たちを惹きつける。

スコットは哲学者ではなかったが、彼の作品は人間の本質に関するある種の暗黙の主張に迫っている。私たちの中には、計画された都市を好まない何かがあり、それは外国による支配に抵抗する(あるいは抵抗すべき!)何かがあるのと同じである。彼は保守派とは距離を置いているが、彼が最も似ている哲学者はマイケル・オークショットであり、彼もまた現代政治を象徴的に批判している。オークショットと同様、彼は退屈な日常化への強烈な不満を紹介し、オークショットと同様、読者は真の代替案がどのようなものなのか、いささか不確かなままで置かれている。

スコットの学術研究は、政治社会の物語によって形成された。全ての物語がそうであるように、それは必然的に不完全で過剰なものであったが、そのおかげで彼は、異なる研究分野にまたがる膨大な数の歴史的詳細を、彼の著作を発見する人間に強力な影響を及ぼす方法で整理することができた。結局のところ、彼の著作は、それ自身の欠点と他人の批評の両方に耐えている。この時代に、いや、どの時代にも、そう言える著述家が何人いるだろうか?

※デイヴィッド・ポランスキー:政治理論研究者で、地政学と政治思想史に関する論稿を数多く発表。平和・外交研究所研究員を務めている。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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『トランプの電撃作戦』
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