古村治彦です。

※2025年3月25日に最新刊『トランプの電撃作戦』(秀和システム)が発売になりました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
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『トランプの電撃作戦』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに行きます。
 

ロバート・パットナムはハーヴァード大学教授で、これまでにも数冊の著作を発表しているが、どれも古典、クラシックとなる内容である。私が特に推薦したいのは『哲学する民主主義-伝統と改革の市民的構造』(河田潤一訳、NTT出版、2001年)という、邦題はチンプンカンプンの著作である。原題は“Making Democracy WorkCivic Traditions in Modern Italy”(1992年)であり、直訳すると「民主政治体制を機能させる-現代イタリアの市民的な伝統」となる。この本でパットナムは、イタリアの北部と南部を比較し、北部の方が政治や行政が機能していることを発見し、その要因として、「社会関係資本(Social Capital)」があることを主張した。社会関係資本とは、人々の水平的なネットワークや信頼関係のことで、これがあることが社会を効率的に動かすという考えである。簡単に言えば、ご近所の草野球ティーム(ヨーロッパなら草サッカーになるだろう)やコーラスグループなどのサークルやグループが存在し、それに人々が参加し、活発に活動することが社会や政治を効率的に動かすことにつながるということになる。
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パットナムは『孤独のボウリング(Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Community)』(柴内康文訳、柏書房、2006年、原著は2000年)で、自身の経験(1950年代、生まれ育った田舎町でボウリングティームに入っていて、週末はみんなで集まってボウリングを楽しんでいた)から、アメリカにおける社会関係資本の衰退を主張した。社会関係資本が衰退することで、共同体と人々への信頼が喪失されることになり、それが行政や政治に対する不信にもつながる。

 『われらの子ども――米国における機会格差の拡大(Our Kids: The American Dream in Crisis)』(柴内康文訳、創元社、2017年、原著は2015年)は、アメリカでも話題になった本だ。出版当時は、バラク・オバマ政権二期目の最終盤でもあり、2016年の大統領選挙(ドナルド・トランプ対ヒラリー・クリントン)の時期でもあったため、オバマ大統領やヒラリーが著者のパットナムと会談を持つということもあった。

アメリカで拡大し続ける経済格差は、子供たちの教育にも影響を与えている。簡単に言えば、「お金がなければ良い学校に行けず、結果として良い大学に行けず、社会的に上昇できない」ということで、経済格差によって階層が固定化されるということである。実力主義(メリトクラシー)がなくなっているのである。このことは、私たち日本人も身近に感じている。以前であれば、学校の勉強を一生懸命やって、能力があれば、たとえ貧しい家庭の子供でも東京大学に行くという「刻苦勉励・立身出世」物語に説得力があった。しかし、今では東京大学に入学する学生たちの家庭の平均年収は1000万円である。経済力がなければ、受験競争(戦争)を勝ち抜くことはできないということである。パットナムは、格差の縮小を求めている。

経済格差による教育格差が基盤とする社会階層の固定化は、「人間は平等である」という考えの減退につながり、それが民主政治体制の基盤を揺るがすことになる。また、教育機会を与えられずに、高等教育を受けられず、見下される人々は、高等教育を受けた人々(エリート)に対して、敵意と不信感を持つ。それが社会の分断につながる。

『上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか』(ロバート・D・パットナム著、シェイリン・ロムニー・ギャレット著、柴内康文訳、創元社、2023年)(原著は2020年刊)は分厚い本だ。この本では、まず、1913年から1960年代までは経済格差が減少したが、それから再び拡大していく「経済平等性」の「逆U字カーブ」が見られるということが指摘されている。このカーブには「社会的連帯」や「共同体対個人主義」の度合いも重なる。簡単に言えば、アメリカでは社会的な連帯が縮小し、個人主義が増大していったということになる。パットナムは、このカーブを「私―われわれ―私」カーブと呼んでいる。「アトム化した個人」という存在、社会から切り離された個人は、政治や社会へのかかわりを持たない。結果として、政治や社会の衰退につながる。また、社会の分断も深刻化している。これは、日本でも実感できることである。パットナムは人々のコミュニティとのつながりを復活させることを主張している。個人主義という西洋的な価値観が進んだことで、それが社会の衰退につながるということは何とも皮肉なことである。

(貼り付けはじめ)

社会構造を癒すD.I.Y.の方法:自分ではやらない(The D.I.Y. Way to Heal the Social Fabric: Don’t Do It Yourself

ロバート・カットナー筆

2020年10月13日

『ニューヨーク・タイムズ』紙

https://www.nytimes.com/2020/10/13/books/review/the-upswing-robert-d-putnam.html

<a href="https://amzn.to/4jlTboX">上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか</a>THE UPSWINGHow America Came Together a Century Ago and How We Can Do It Again)』ロバート・D・パットナム、シェイリン・ロムニー・ギャレット著
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この心温まる大著において、政治学者ロバート・D・パットナムは(シェイリン・ロムニー・ギャレットとの共著)殺伐とした時代に希望を与えている。「上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか(The Upswing: How America Came Together a Century Ago and How We Can Do It Again)』は、アレクシス・ド・トクヴィルが1830年代のアメリカを、個人主義(individualism)が相互関係(mutual association)と共通の目的(common purpose)によって均衡を保っている国だと称賛したことを引き合いに出して始まる。しかし、その半世紀後には金ぴか時代(Gilded Age)が到来し、泥棒男爵(robber barons)、汚職の蔓延、相互不信、政治スキャンダル、賃金労働者の搾取、自然環境の略奪など、私たちが生きる現代と同じような時代が出現した。

その後、歯車は再び回転した。1900年以降、アメリカは改革の時代に入り、1960年代まで続いた。最近の歴史は、ニューディールのはるか以前から始まっているとパトナムは主張する。暗殺されたウィリアム・マッキンリーの後をセオドア・ルーズヴェルトが継いだ1901年から、リンドン・ジョンソンの「偉大な社会(Great Society、グレート・ソサエティ)」までの全期間において、1920年代に少し休止しただけで、アメリカは着実にコミュニティ志向(community-minded)を強めていった。

ニューディーラーの多くは、初代ルーズヴェルトとウッドロー・ウィルソンの進歩主義時代(Progressive Era)にその価値観と技術を学んだ。パットナムは「20世紀半ばに差し掛かる頃には、金ぴか時代は遠い記憶になっていた。アメリカは、より平等主義的で、協力的で、団結して、利他的な国へと変貌していた」と書いている。こうした傾向は、経済、政治、社会、文化の各領域で作用し、互いに補強し合っていた。そして、それらは全て連動して逆転した。「1960年代半ばから今日に至るまで、私たちは経済的平等の低下、公共空間における妥協の劣化、社会構造の綻び、文化的ナルシシズムへの転落を経験してきた」とパットナムは書いている。

パットナムはこのパターンを「I-we-I 」サイクルと呼んでいる。つまり、利己主義から共通の目的へ、そしてまた利己主義へというサイクルだ。パットナムのスタイルは物語風であるが、社会調査、所得と富の統計、政治参加の指標、信頼の尺度など、百科事典のようなデータで彼の仮説を裏付けている。

その過程で、パットナムはしばしば直観を覆すような素晴らしい洞察を示してくれる。例えば、人種やジェンダーの進歩の多くは、1960年代の公民権運動やフェミニズム運動に先行していた。第一次世界大戦中に始まった黒人の北方への大移動は、南部の労働力不足を招き、南部の人種差別主義者たちに、「分離すれども平等(separate-but-equal)」を実際に実現するよう迫った。黒人学校への支出は、ブラウン対教育委員会事件のはるか以前から急増した。

しかし、分離は平等には程遠かった。パットナムは『上昇』の2つの章で、人種とジェンダーは彼の大きな物語にはそぐわないというニュアンスを述べている。つまり、アフリカ系アメリカ人は、「私たち」全体に歓迎されることはなかった。女性は主に男性の付属品として属していた。要求がエスカレートするにつれ、反発が起こった。

しかし、その膨大な調査と慎重な修飾が相まって、本書は時に一般化しすぎている。パットナムの回顧によれば、1960年代はアメリカが共同体から利己的な個人主義へと後退した変曲点(inflection point)だった。戦後すぐの時代には、企業の大物たち(cooperate moguls)は地域社会や労働者に対する責任を受け入れていた。1980年代になると、彼らは利益を最大化することだけを考えるようになった。1960年代の急進派は、社会正義の追求から出発し、文化的に反乱を起こしたヒッピーに行き着いた。進歩的な目標は権利に重点を置くようになり、連帯感は薄れていった。ミレニアル世代とX世代は、ベイビーブーマー世代の親たちよりもはるかに個人主義的である。

確かにそのとおりであるが、しかし、この話にはまだ続きがある。今日、若い人たちの多くが個人主義的と言える。彼らが後世のアビー・ホフマンやミルトン・フリードマンだからという訳ではなく、ゲームのルールが変わったために選択の余地がなくなったからである。

ジョー・バイデンのアドヴァイザーを務める経済学者ジャレッド・バーンスタインは、これを「YOYOエコノミー(YOYO Economy)」と呼んでいる。YOYOとは 「自力でやる、自己責任(You're on Your Own)」の略である。ジェイコブ・ハッカーが『グレート・リスク・シフト』で述べているように、かつて政府やパターナリズム的な企業が負担していたコスト(医療保険、雇用保障、安価な高等教育、老後の収入など)は、今や個人へとシフトしている。

UberLyft、そしてキャリアの仕事をギグワークに変えた老舗企業からのメッセージは、まさに「自力でやる(you are on your own)」ということだ。価値観の好みとして個人主義として通用するものの多くは、絶望の個人主義だ。

一般化しようとするパットナムの傾向は、時に誤解を招くような対称性を示唆する。組織化された礼拝は軒並み減少しているとパットナムは吹雪のようなデータを引用して報告する。しかし政治的な事実として、リベラルな教派は崩壊寸前であり、原理主義者は台頭している。

ワシントンのホテルのパーティールームで開かれるビジネス・ロビイストの会合を一日歩き回れば、トクヴィル流の竹馬に乗ったネットワーキング(networking, on stilts)を目にすることができる。しかし、このようなトクヴィルのアメリカの名残は、上位1、2%の人々に限られている。一方、多くの社会科学者が実証しているように、富裕層以外の人々の代弁者である大衆会員組織は萎縮している。パットナムの言う市民の衰退は、対称的なものではない。

今日の個人主義は右派に力を与えるが、左派を分断する。コスモポリタンな億万長者たちは、利潤追求とゲーテッド・コミュニティで個人主義を貫き、対人殺傷用武器を携行することで、個人主義を表現するネイティヴな社会保守主義者たちと共通の大義名分を築いている。どちらもトランプ支持層の一部である。しかし左派では、動物愛護活動家たちは言うに及ばず、人種的、ジェンダー的、経済的、風土的進歩主義者など、様々なタイプの人々が、協調を強調するよりもむしろ意見の相違を拡大することが多い。

政治学は選好と権力(preference and power)の研究である。パットナムは、価値観や規範を優先して権力の役割を軽視する傾向がある。しかし、権力は価値選好を強化することもあれば、阻害することもある。セオドア・ルーズヴェルトのリーダーシップは、偶然に大統領に就任するまでは政治的に停滞していた改革への潜在的な要求を活気づかせた。戦後のビジネスリーダーが地域社会志向であったとすれば、その規範はニューディール期の規制と労働組合の一時的な力を反映したものであった。

パットナムは結論の中で、なぜアメリカの結束力が低下したのかという疑問を意図的に回避している。彼は次のように書いている。「私たちが特定した様々な傾向は、相互の因果関係によって組み合わされている。そのため、原因と結果を特定することは困難であり、誤解を招くことさえある」。しかし、パットナムがこの本の他の場所で指摘しているように、要因の1つは政治に違いない。1960年代の政治的出来事、特にヴェトナム戦争だけでなく、同時期に起きた暗殺や公民権運動もあり、公的機関への信頼が弱まり、ニューディール連合は分裂した。その結果として生じた政府への信頼の喪失(loss of faith)は、(公的救済に大きく依存している)平等主義的な左派にとっては挫折であり、ますます好戦的な右派にとっては恩恵となった。

パットナムは、今日の政府の行き詰まりが対称的とは程遠いことを認めている。「過去半世紀にわたり、アメリカ政治から超党派の思想が消え去った。その主な理由は、共和党がより過激化したからだ」とパットナムは書いている。実際、政府を弱体化させることは共和党の中核戦略である。政府を軽蔑し、飢えさせるというロナルド・レーガンの戦略は、あまりにも効果的でした。1990年代、ニュート・ギングリッチ連邦下院議長は超党派の協力を阻止しようとし、現連邦上院院内総務ミッチ・マコーネルがこの戦略を強化した。これら全ては進歩主義、コミュニティ、そして信頼にとって致命的だった。

『上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか』は、データの宝庫であり、洞察に満ちた社会史の著作であり、一読の価値がある。ただし、一般論については塩を振って読むべき部分もある。パットナムの最後の章は、過去からの教訓として、より信頼され、共同体を大切にするアメリカを取り戻すにはどうしたらよいかを取り上げているが、省略され、高尚で、少し希望的観測に満ちている。民主政治体制の深い腐敗はあまり注目されず、独裁政治を志す富裕層との同盟も注目されない。ドナルド・トランプはほとんど登場しない。この危険な瞬間、私たちは権力の役割について冷徹な現実主義で和らげられた、得られる限りの楽観主義が必要なのだ。

※ロバート・カットナー:『ジ・アメリカン・プロスペクト』共同編集者、ブランダイス大学ヘラースクール教授。最新刊に『賭け:2020年とアメリカ民主主義の存続(The Stakes: 2020 and the Survival of American Democracy)』がある。

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『上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか』の中では、現在の激動の時代から抜け出すためのいくつかの鍵を歴史が握っている(In 'The Upswing,' History Holds The Keys To Moving Away From Today's Tumultuous Age

マーサ・アン・トール筆

2020年112

アメリカ公共ラジオ放送(NPR

https://www.npr.org/2020/11/02/930271185/in-the-upswing-history-holds-the-keys-to-moving-away-from-todays-tumultuous-age

ロバート・D・パットナムがシェイリン・ロムニー・ギャレットと共同で執筆した『上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか』は、現在の激動の時代から脱却するための答えを歴史が握っていると主張している。

パットナムはハーヴァード大学のマルキン記念公共政策研究教授であり、14冊の著書がある。ギャレットは社会起業家、作家であり、アスペン研究所の取り組みである「織り込む:社会ネットワーク創造プロジェクト(Weave: The Social Fabric Project)」の創設者でもある。

『上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか』は、アメリカの若者の社会的流動性の低下を痛烈に批判したパットナムの『われらの子ども:米国における機会格差の拡大』、そして、2000年に出版されベストセラーとなった『孤独なボウリング: 米国コミュニティの崩壊と再生』に続く作品である。約50万人のインタヴューから得られた証拠を精査した『孤独なボウリング: 米国コミュニティの崩壊と再生』は、アメリカ人が互いにますます疎遠になっていると主張した。この主張の根拠として、パットナムは​​ボウリングリーグ、PTA、そして市民社会(civil society)の形成に貢献するその他のヴォランティア団体といった組織へのアメリカ人の参加が崩壊しつつあることを挙げた。

『上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか』では、別の方向性が取られている。「過去はプロローグ」と呼ばれる章で始まる『上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか』の主張は、アメリカの金ぴか時代[America's Gilded Age](1870年代から1890年代)は、貧富の差が激しく、「私たち(we)」ではなく 「私(I)」を重視する社会であった。

言い換えれば、もし私たちがかつてアメリカの船を正しい方向に導くことができたのなら、再び正しい方向に導くことができるということだ。

パットナムとギャレットは、黄金時代から現在までの傾向を反映する丘陵曲線(a hill-shaped curve)を描いている。彼らは、過去125年間のこれらの問題を横断する「私と私たち」の曲線を描いている。曲線の高さは、貧富の差が最も小さく、健康指標が最も良好で、貧困層を支援するための社会支出が最も高く、政治的分極化が最も低く、そして今日の有害な分断とは対照的に、共に前進するというアメリカの意識が頂点に達したことを示している。大まかに言えば、曲線の高さは20世紀半ばに始まり、それ以降は下降傾向にある。

『上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか』の大部分は、この曲線がどのように変化したかという点に費やされている。なぜ変化したのかは、それほど明確ではない。著者たちは複雑で微妙な説明を解き明かそうと苦心しているが、どれも曲線の軌跡を単独で説明できるものではない。

文化変化に関する章では、著者たちは「Nグラム」データを活用している。グーグルが何百万冊もの書籍をデジタル化したことで、研究者たちは単語の出現頻度を検索し、社会の動向を評価できるようになった。パトナムとギャレットは、1880年以降のアメリカの書籍で「適者生存(survival of the fittest)」といった用語を検索した。この用語は20世紀の大半を通じて衰退していたが、「21世紀になって新たな息吹を吹き込まれた(only to win a new lease on life in the twenty-first century)」。「結社(association)」「協力(cooperation)」「社会主義(socialism)」といった用語の文化的重要性は1880年から高まり、1970年頃にピークを迎え、その後は低下した。「一般人(common man)」という用語の使用は 1880年から着実に増加し、1940年代後半にピークに達し、その後急激に減少した。

こうした評価の信頼性には疑問の余地があるが、Nグラム(Ngrams)は著者たちによるより広範な分析の一部に過ぎない。将来の著者や研究者たちは、100ページ近くに及ぶ脚注を高く評価するだろう。『上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか』はデータとグラフで溢れており、一般の人が提示された内容を精査・評価するのは困難かもしれない。これは重要な点だ。なぜなら、読者はより繋がり、統一された「私たち(we)」へと向かうための指針を切望しているからだ。

著者たちは本書を、経済の現実、政治、社会、文化を検証する章に分け、人種とジェンダーについても独立した章を設けている。経済の安定から健康、政治参加(political participation)に至るまで、あらゆるものの根底に構造的な人種差別()が存在することを考えると、人種は独立した章ではなく、より明確なテーマとして扱われるべきだったと思う。著者たちは「過去半世紀における新たな政党間の分極化は、アメリカ史における唯一の不変かつ中心的な対立である人種から始まった」と指摘している。

ジェンダーを独立した章で扱うことについても、同じような気持ちだ。結局のところ、アメリカ人口の半数は20世紀まで投票権を持っておらず、経済的権利の獲得も著しく遅れていた。公平を期すために言うと、パットナムとギャレットは他の章で人種とジェンダーについて言及している。しかし、非白人、非男性の理論家をもっと意識的に本書全体を通して取り上げていたら、彼らのデータの解釈はどのように変化しただろうかと、どうしても考えずにはいられなかった。

何よりも、より良い、より包括的な未来のための明確で規範的な解決策を切望していた。「漂流と支配(Drift and Mastery)」と題された最終章では、著者たちは進歩主義時代(だいたい1890年代から1920年代)の特徴を振り返り、現代に活かせるアイデアを導き出している。彼らは、確固たる道徳観、若者の積極的な参加、そして政治活動への執着とともに「湧き上がる(groundswell)」ような扇動を持つ指導者の重要性を強調している。彼らは、禁酒法のような行き過ぎた政策に対して警告を発している。それは「女性、子供、貧困者を守ろうとした善意の改革者による社会統制への行き過ぎた修正(into social control by well-meaning reformers who sought to protect women, children, and the poor)」である。

マーサ・アン・トールは、社会正義を訴える慈善団体バトラー・ファミリー・ファンドでの26年間の活動を終えたばかりだ。彼女は2020年に精緻なフィクションに贈られるペトリコール賞を受賞し、小説『三人の女神たち(Three Muses)』は2022年に出版予定だ。

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私たちの「私たち」:ロバート・D・パットナムの『上昇』(Our "We": On Robert D. Putnam's "The Upswing"

HN・ハーシュ筆

2020年6月22日

『クリーヴランド・レヴュー・オブ・ブックス』誌

https://www.clereviewofbooks.com/writing/robert-putnam-the-upswing-review

『孤独なボウリング』で有名なロバート・パットナムは、ハーヴァード大学を代表する社会科学者の一人(かつての先輩同僚で、親切で誠実な人物でもある)である。彼の最新にして極めて野心的な著作では、19世紀後半以降、アメリカ社会の病理と、何がうまく機能し、何がうまく機能しなかったかを、広範かつメタ歴史的に分析しようとしている。ハーヴァード大学の同僚たちと同様に、彼の出発点は「コミュニティ(community)」の喪失にあるが、(これもまた同僚たちの一部と同様に)彼はこの言葉を明確に定義していない。おそらく、ポルノグラフィーのように、私たちはそれを見た瞬間にそれと分かるはずだ。

彼と共同執筆者であるシェイリン・ロムニー・ギャレットは、聖杯を探している(looking for the Holy Grail)。それは、1910年頃の進歩主義時代から始まった、(いくつかの紆余曲折はあったものの)半世紀にわたるアメリカの進歩と繁栄を、彼らが考える中で終わらせた、たった1つの出来事、あるいは決定的な時期のことである。

何が私たちを脱線させたのか?

60年代! パットナムは、60年代はアメリカ社会の「私たち」を殺し、利己主義の「私」に置き換えたと述べ、彼の見解では、私たちはそのせいではるかに貧しくなったという。本書で繰り返し使われる「私たちは皆、同じ国にいる(we’re all in this together)」と信じる国民で構成された国家ではなく、私たちは「至上の自立(supreme self-reliance)」と「束縛されない自己利益(unfettered self-interest)」の国家になってしまった。不平等で、分極化し、怒りに満ち、機能不全に陥っているのだ(unequal, polarized, angry, and dysfunctional)。

本書は、連邦議会における超党派主義から経済動向、結婚率に至るまで、あらゆるデータを分析し、U字型や逆U字型のグラフを何度も提示する。それは、20世紀初頭に進歩主義が台頭し、金ぴか時代の行き過ぎを是正して以降、事態は概ね好転したことを示すものだ。その後、進歩主義的で共同体主義的なアメリカは1940年代と1950年代に一種の涅槃に達しったが、1960年代に崩壊した。

あの忌々しいヒッピーども、女性たち、ゲイ、公民権運動家、平和運動家​​ども。奴らは何もかも台無しにした。

戯画化しているが、そのレヴェルはほんの少しだけだ。

パットナムの分析の核心は経済でもなければ、共和党の市場への執着(あるいは彼らの汚い手口)や民主党のクリントン時代の三角関係といった政治でもない。それは、道徳(morals)だ。進歩主義時代は「何よりもまず、道徳的な目覚め(a moral awakening)だった」と彼は言う。そして公民権運動の刷新がそれに続いた。今日、私たちは同情の代わりに、広範な分断と「ナルシシズム(narcissism)」を目にする。

パットナムは、特にクリストファー・ラッシュをはじめとする先人たち、そしておそらく比較されることを望まないであろうネオコンたちと同様に、1960年代に解き放たれた利己主義とナルシシズムと彼が考えるものについて繰り返し論じている。そして、グラフやデータ、文字数、人口動態の動向、さらには新生児の名前に関する議論の渦中にあっても、彼の分析は、疎外感を感じている人々、あるいは実際には二級市民として扱われている人々の過剰な振る舞い、押しつけがましさに対する、古き良き、ほとんどピューリタン的な警鐘のように聞こえる。1950年代には、誰にとっても物事は徐々に良くなっていったと彼は断言する。忍耐と無私こそが、本来あるべき姿であるべきだったのだ。

よく使われる言い回しを使うなら、立場は立場によって決まる。1950年代に生まれ、1960年代に成人したゲイの男性である私の立場は、たわごとだと私は言う

1950年代に投獄され、解雇され、施設に収容されたゲイやレズビアンは、アメリカの「私たち」の一部だったのだろうか? 1940年代、強制収容所に送られた日系アメリカ人(そのうち誰一人として安全保障上の危険人物と認定されなかった)は、一体どうなっていたのだろうか? 1950年代や1960年代、子育てと有意義な職業機会の欠如に息苦しさを感じ、他の女性たちと共に家父長制と闘うために意識を高めようとした女性は、「利己的(selfish)」だったのだろうか? 死ぬか投獄される確率が天文学的な今日、警察に抗議する若いアフリカ系アメリカ人男性は、「ナルシスト(narcissist)」だったのだろうか?

パットナムは、1950年代に女性や有色人種が正当な不満をいくつか抱えていたことは認めているが、それらの懸念を分析の他の部分とは別の章に括り、1960年代以前の輝かしい進歩と一体感の全体的な(そして彼によれば圧倒的な)証拠から巧妙に除外している。彼は、1940年代と1950年代に彼が称賛する社会に家父長制と人種差別がそれほど深く根付いていたかどうか、そしてそれらが、彼がアメリカの「私たち」の明るく称賛に値する本質だと見なしているものに疑問を投げかけるかどうかについて、立ち止まって考えようとしない。また、彼は異性愛中心主義とジェンダーの硬直性については全く考慮していない。むしろ彼は「権利の話」とそれが「団結、合意、協会、妥協、順応」に及ぼす悪影響について軽蔑的に語っている。

協調性? 本当だろうか? グロリア・スタイネムは結婚して郊外で子供を産み、低賃金を受け入れ、男性向けの男性が編集する主流の雑誌に時折記事を書くべきだったのか。そして、ゲイやレズビアンはカミングアウトせずにいるべきだった(パットナムが、彼の幸福な1950年代に破壊された全てのLGBTの人生に対する妥当な「妥協(compromise)」と見なすものを知ることは興味深い)。そして、ジェイムズ・ボールドウィンはどうあるべきだったのか? もう少し声高に主張するべきではないか? ファニー・ルー・ヘイマーは、1964年にミシシッピ州の全員が白人である代表団のために、アトランティックシティまでバスで行き、民主党に地獄を突きつけるのではなく、ミシシッピ州に留まるべきだったのか? ネイティブ・アメリカンは、主に極貧の中で、偉大なる白人の父によって与えられた土地に感謝しながら、静かに居留地に留まるべきだったのか?

しかし、パットナムは、彼のグラフが物語っていると断言する。1960年代の個人主義(Individualism in the Sixties)こそが問題だったのであり、敵だったのだ。私たちは以前より恵まれていた。1960年代の個人主義とは、図書館でろうそく立てを持ったマスタード大佐が「私たち」を殺したようなものだ。

パットナムは、1940年代と1950年代に彼が崇拝した「私たち」が拠り所としていた企業資本主義と息苦しい同調主義(the stifling conformism)の本質について言及しているものの、真に分析している訳ではなく、中流階級をほぼ消滅させてしまった現在の新自由主義経済秩序についても、ほとんど何も語っていない。そして、おそらく政治学者として最も不可解なのは、文化戦争(culture war)を選挙に利用した冷笑的な政治家たちについて、あるいは、現時点でアメリカの二大政党のうち一方の政治課題全体が、こうした文化戦争の火に油を注ぐ(そして選挙に勝ち続けるためにルールを操作する)ことにあるように見えるという事実について、ほとんど何も語っていないということだ。したがって、ドナルド・トランプとテッド・クルーズの誕生は、1960年代のヒッピーや女性解放、そして黒人やゲイのパワーに対する反発によるものだと私たちは推測するしかない。そして、たとえ、ある程度は薄められた意味で、その結論にほんの少しの真実が含まれていたとしても、グロリア、ファニー・ルー、そしてマーシャ・P・ジョンソン(ストーンウォールの反乱の扇動者の一人)にとって他に選択肢はあっただろうか? 忍耐が必要だったのか?

パットナムの分析におけるより深刻な問題は、アメリカのシステムが最初から、理性的な男性(もちろん当初は白人男性のみであり、女性や有色人種は想定されていなかった)が自己利益を追求すると想定していた点にある。これは『フェデラリスト』第10章を読めば明らかだ。パットナムが論じている現代の経済格差の問題は、自己利益に基づくシステムではなく、1970年代以降のアメリカ政権が、現在のアメリカの経済的搾取形態(our current forms of economic exploitation)を規制、統制できず、真のセーフティネットを構築できず、加えて(医療や生活賃金といった)基本的な人間的ニーズさえ満たすことができなかったことにある。そして、ある社会科学者にとって、3億3000万人の多言語・移民国家(a polyglot, immigrant nation)は「コミュニティ」とはみなされず、また「コミュニティ」となることもできないことは明白であるはずだ。銃を所持し、新型コロナウイルス対策のマスクを着用せず、ソドミー行為(a Sodomite)をしたとして地獄で焼かれるだろう(つまり、再臨後に取り残された後)と私に言うようなテキサス人とは、私にはほとんど共通点がない。私たちは同じ巨大な政治体制の市民ではあるかもしれないが、同じ「コミュニティ」の一員であるなどという感覚はどこにもない。

失われた価値観について雄弁に語る、裕福な教授たちは、エリートの夢の世界(an elite dream)に生きている。道徳的な訓戒(moral exhortation)と道徳改革(moral reform)が真剣な政治に取って代わる世界だ。人々がハーヴァード流の道徳観に耳を傾ける限りはそうなる。

ファニー・ルー・ヘイマーは最近亡くなった。もし、パットナムと面会していたら、おそらくこう言っただろう。「落ち着いて、忍耐強く、内側から努力しよう。状況は良くなってきている。メディアの前で大言壮語するな。大声で叫ぶな。」

しかし、1964年のミシシッピ州は「コミュニティ(community)」ではなく、ファニー・ルーが熱心に雄弁に求めた基本的な平等なしには、コミュニティになることはできなかった(彼女が主流派民主党員に意見を述べるのを聞いてみて欲しい。実に興味深い)。1969年のニューヨーク市も、マーシャ・P・ジョンソンをはじめとする(当時)性的指向を禁じられていた数千人にとって「コミュニティ」ではなかった。

従って、ファニー・ルー、マーシャ・P、そして彼らのような人々に、私はコミュニティを説いたり、その美徳を称賛することで彼らを侮辱したりするつもりはない。また、忍耐を勧めることもしない。あまりにも多くの人が、待ちながら死んでいくのだ。

私はこう言うだろう、「少女よ、進め」と。

正義がなければ、コミュニティの姿はあり得ない。私たちが(パットナムの言葉を借りれば)「不平等で、分極化し、怒りに満ち、機能不全に陥っている」のは、道徳の欠如ではなく、正義の欠如によるものだ。

HN・ハーシュ:オベリン大学アーウィン・N・グリウォルド記念名誉教授。著書に学問に関する回想録『オフィス・アワーズ(Office Hours)』がある。

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『上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか』の書評:バイデンはアメリカを癒すことができるか?(The Upswing review - can Biden heal America?

-アメリカは分裂したままであるが、ロバート・D・パットナムとシェイリン・ロムニー・ギャレットによるこの研究は、アメリカは以前にも不平等と党派性の時代から抜け出したことがあると指摘している。今回もそうだろうか?

コリン・キッド筆

2020年11月12日

『ガーディアン』紙

https://www.theguardian.com/books/2020/nov/12/the-upswing-review-can-biden-heal-america

バイデン・ハリス組が選挙に勝利した。しかし、いくつかの激戦州では僅差だった。ドナルド・トランプの部族的アピール(tribal appeal)が、彼の公職不適格に対する疑念をいとも簡単に打ち消してしまうほど、党派性(partisanship)が高まったのはなぜなのか? そして、ジョー・バイデンは綻びだらけの国家を修復するために何ができるのか? 絶賛を集めた『孤独なボウリング(Bowling Alone)』の著者である政治学者ロバート・パトナムとシェイリン・ロムニー・ギャレットは、『上昇(アップスウィング): アメリカは再び〈団結〉できるのか』の中で、社会学的根拠のある答えを豊富に提供している。タイトルは安心させるような明るいものだが、これは2つの長期的傾向の物語であり、1つは穏やかなもの、もう1つは暗い下り坂である。臆面もなく中道主義が支配している。つまり、政治的安定とは、両政党の協力と規律正しい振る舞いを必要とするダンスであることを著者たちは認識している。

この本の核となるのは、過去125年間のアメリカの社会、政治、経済、文化生活の大まかな輪郭を描いたグラフ群である。全てのグラフは、共通のこぶのようなパターンに大まかに合致している。1960年代をピークに、社会的信頼、平等、超党派主義、市民的善意が半世紀ほどにわたって高まり、その後50年間は、これら全ての基準が顕著かつ着実に低下している。

悪いニューズは、深刻な不平等、企業による弱者への搾取、妥協を許さない超党派主義の中で、私たちが最悪の下降期を生きているということだ。良いニューズは、アメリカは19世紀末の金ぴか時代にも同じような経験をし、泥沼から見事に抜け出したということだ。金ぴか時代の強盗男爵実業家たち(robber baron industrialists)、社会ダーウィン主義者たち(social Darwinists)、反企業ポピュリストたち(anti-corporate populists)に対する解毒剤が、進歩主義運動という形で登場したのだ。実際、1910年代に短命に終わった進歩党(Progressive party)は、セオドア・ルーズヴェルトの「ブル・ムース」ブランド(“Bull Moose” brand)の改革派共和党から派生したものだった。

共和党の穏健派は、この第三党の脅威を何とか退けたが、進歩主義派の理想、つまり、寡頭政治、縁故主義、腐敗を、中産階級の専門家による近代的で科学的な情報に基づいた行政に置き換えるという理想は、共和党政治の重要な流れとして存続した。進歩主義的思想は、セオドア・ルーズヴェルトのいとこである、民主党のフランクリン・D・ルーズヴェルトのニューディールに影響を与えただけでなく、ウェンデル・ウィルキーやトーマス・デューイのような20世紀半ばの融和主義共和党(accommodationist Republicans)の政治にも影響を与えた。

「トゥイードルダムとトゥイードルディー(Tweedledum-Tweedledee 訳者註:マザーグースの寓話。互いに争っているがよく似ている2人)」の調和のとれた政治の最も優れた模範は、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍であった。彼は、民主党から大統領選に出馬する機会を辞退し、無所属の共和党員として選挙運動を行い、巨額の支出を行う進歩主義者として政治を行った。1960年代半ば、リンドン・ジョンソンの貧困との戦い、メディケアの導入、黒人公民権の実現が共和党の支持を得たことで、党派性の「干潮(low tide)」が訪れた。

パットナムとギャレットは、1960年代の権利革命の前には、女性とアフリカ系アメリカ人の地位が上昇していたと認識している。

この「脱二極化(depolarisation)」の時代において、本当のイデオロギーの分裂は正統内部にあり、リベラルな共和党員たち(liberal Republicans)と反ニューディール政策に反対する保守的な孤立主義者たち(anti-New Deal conservative isolationists)との間、組合を結成した、その多くがカトリック教徒である北部のブルーカラー民主党員たち(unionised northern blue-collar Democrats, many of them Catholic)と主にプロテスタントの人種差別主義者であり、南部の民主党員たち(southern Democrats – predominantly Protestant segregationists)の間にあった。南部の民主党員たちの文化的価値はリベラル共和党員のかなり右に属していた。著者たちは、人種とジェンダーの問題では進歩主義的な共和党員たちが民主党員たちよりも左寄りであることが多く、1960年代になっても民主党員たちの方が教会に通う傾向が強かったと指摘している。

しかしながら、政治は、パットナムとギャレットが描いた「大収束(the Great Convergence)」の中の一本の筋にすぎない。この時代は、所得の平等化が進んだだけでなく、ヴォランティア活動の時代でもあった。アメリカ人は、エルクやロータリアン、コロンブス騎士団、アフリカ系アメリカ人のプリンス・ホール・フリーメーソンなど、支部を基盤とする市民団体に大量に参加した。プロテスタントの主流教会自体が収束し、エキュメニカルで神学的にほっそりとした、社会奉仕と助け合いを目的とする全米的な宗教が支持された。

今では信じられないことだが、1973年のロウ対ウェイドの中絶訴訟で、南部バプテストは当初、中絶容認の結果を歓迎した。実際、パットナムとギャレットは、1960年代の権利革命の前に、女性とアフリカ系アメリカ人の地位が長い間控えめな上昇を続けていたことを認識している。黒人と白人の所得比率は、1940年から1970年の間に10年当たり7.7%改善した。

しかし、振り子はすでに反対方向に振れ始めていた。私たちの多くは、1980年のロナルド・レーガンの当選が不平等と分断への転換のきっかけになったと考えるかもしれない。レーガンの反革命は「遅行指標(lagging indicator)」であることが判明したからだ。より曖昧なのは、リチャード・ニクソンの大統領時代である。彼は、政策面ではリベラルなケインズ主義の共和党員でありながら、選挙活動ではハードボイルドで非道徳的であった。

進歩主義的な共和党主義にグリーンの色合いを加え、ニクソンは環境保護局を設立し、大気浄化法に署名した。しかし、最終的には理想は票集めの隠れ蓑となった。ニクソンは、ジョンソンの公民権法制に対する南部民主党の幻滅を皮肉にも警戒し、強固な民主党支持層をエイブラハム・リンカーンの党に取り込むための南部戦略(Southern strategy)に着手した。このプロセスは数十年を要し、今日最も目に余る、歴史的に無教養な皮肉の1つである、共和党支持の北部地方出身者による南軍旗の掲揚を説明するものである。

しかしながら、パットナムとギャレットが示すように、大分岐は政治的再編成(political realignment)以上のものである。アメリカ現代史の大きな弧は、経済的成果、社会的傾向、そして著者らが「I-We-I」曲線と表現するさまざまな文化的変遷に関係している。物事は1960年代から多くの面で狂い始めた。リバータリアン的な新右翼も、カウンターカルチャー的な新左翼も、個人的な解放へのさまざまなルートを提供した。しかし、個人の充足は社会資本の犠牲を伴うものだった。

1950年代特有の無気力な順応性からの脱出は、あまりにも多くの場合、孤独な原子化(lonely atomisation)に行き着いた。1950年代の早期結婚という拘束から、同棲(cohabitation)の自由を経て、単身世帯の増加という現象へと、長い道のりが続いた。会合や活動に出席する支部ベースの任意団体は、ポチョムキン会員が大量メーリングリストとしてのみ存在する、非人間的なプロが運営する非営利団体へと道を譲った。労働組合は労働者の仲間意識と社交性の中心的存在ではなくなり、団体交渉という中核的機能だけに縮小した。

著者たちは、共和党と民主党の新しい集団への忠誠心は、イデオロギー的なものは弱く、むしろ部族的な性質の感情的な忠誠心に基づいていると考えている。

更に言えば、今世紀半ばの所得の大幅な平準化(levelling of incomes)が逆行した。パットナムとギャレットが示すように、最終的に上位0.1%の富が上位1%の富を大きく上回った。

この本で描かれているアメリカの下降には驚くべき特徴がある。党派的反感が高まったのは、長期的に見れば、宗教的・人種的敵対関係の激しさが和らいだからである。著者たちは、共和党と民主党の新たな集団への忠誠は、イデオロギー的なものは弱く、むしろ部族的な性質の感情的な忠誠に基づいていると考えている。

今日の党派は、単に対立候補を嫌っているのではなく、憎悪し、ライヴァルに人格的な欠点を押し付けている。このことは、トランプが共和党とその支持者を簒奪することができた理由を説明する一助となる。その一方で、伝統的な共和党の政策の数々を、筋金入りのファンの忠誠心を失うことなく、ティームのプレースタイルを変更する新しいサッカー監督のように、きれいに捨て去ることができた。この状況をソーシャルメディアのせいにしたくなるかもしれないが、フェイスブックとツイッターには「鉄壁のアリバイ(ironclad alibi)」がある。大分裂の始まりは、インターネットよりも数十年も前のことだ。

バイデン大統領の誕生は、癒しと和解(healing and reconciliation)という困難な仕事に焦点を当てることになる。しかし、ここでパットナムとギャレットは問題にぶつかる。というのも、低迷の原因となった決定的な要因を1つだけに特定することは不可能だからだ。むしろ著者たちは、「相互因果関係によって編み込まれた(braided together by reciprocal causality)」様々な「絡み合った(entwined)」傾向を特定している。究極的な原因の診断が危険であるのと同様に、大不況を逆戻りさせるための説得力のある計画を見つけることもまた困難である。著者たちは、草の根活動の様々な形態に新たな進歩運動の芽を見出すが、それが「真に超党派的な(truly nonpartisan)」形態をとるのをまだ見ていないことを憂慮している。彼らは明るく振舞おうとしているが、支配的なノートは悲痛なものである。

しかし、著者たちの言い分からしても、今回の選挙が楽観主義につながる根拠は限られている。リンカーン・プロジェクトやバイデンを支持する共和党員たちの精力的な選挙運動は、リベラルな進歩主義者たちから見放されて久しい共和党が、まだいくつかの邸宅を構えていることを示している。共和党に属するリバータリアンたちのクロスオーヴァーの可能性を考えてみよう。リバータリアンたちは、色あせた党派の味覚に、市場だけでなくモラルについても自由放任という、予測不可能なヴァイキング料理を提供する。アリゾナ州、ウィスコンシン州、ジョージア州の接戦では、リバータリアンたちの第三党候補であるジョー・ジョーゲンセンが、少数ではあるが、トランプに不満を抱く共和党員を引き離して支持を集めた。

そして、静かなトランプ現象、つまり、主に経済的な理由から控えめにトランプに投票した膨大な数の有権者をどう考えればいいのだろうか? そのような有権者たちは、たとえ利己的であったとしても、少なくとも理性には従順である。心配されるような前兆にもかかわらず、選挙は白人とマイノリティの単純な争いではなかった。トランプは白人男性をバイデンに奪われたものの、ラテン系やアフリカ系アメリカ人の有権者を驚くべき割合で獲得し、年配のヴェトナム系アメリカ人のようなニッチなグループを獲得した。今日の部族は残念ながら解消されなかったが、明日の部族は双方とも虹色の連合(rainbow coalition)になる可能性が高そうだ。

(貼り付け終わり)

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