古村治彦です。

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アメリカでは19世紀から20世紀にかけて、社会主義が人気を博した時代がある。1930年代、1960年代にそれぞれ社会主義が人気を集め、それぞれの時期に労働組合が発達し、公民権運動やジェンダー、人種、福祉について発展していった。そして、現在もまた、社会主義が人気を集めている。このブログでもご紹介しているが、バーニー・サンダース連邦上院議員(ヴァ―モント州選出、無所属)やアレクサンドリア・オカシオ=コルテス連邦下院議員(ニューヨーク州選出、民主党)は「民主社会主義者(Democratic Socialists)」を自称している。若者たちは彼らを支持し、民主党エスタブリッシュメントを批判している。
アメリカで社会主義が人気を集めた時期を考えてみる。1930年代は、輝ける1920年代の好景気から一転しての大恐慌の時代となり、社会不安は増大した。労働者たちが待遇改善を訴え、警察やギャングとの衝突も頻発した。1960年代は、第二次世界大戦で勝利した後、世界第一位の国家となったアメリカでは人々の生活は大いに向上し、景気も良かった。しかし、ヴェトナム戦争に突入し、財政赤字は増大し、景気も減速し、人々は生活に不安を覚えるようになった。
そして、現在である。各種報道でもあるように、アメリカ国民の生活は厳しく、アメリカの国力は減退している。そうした中で、若者たちは「自分たちは自分の祖父母や父母たちの世代よりも良い生活を望むことはできない」という諦めを感じている。全体として、将来に不安を覚えている。アメリカで社会主義が人気を集める時は、人々の将来への不安が増大している時であり、経済に不安を感じている時だ。大きく言えば、アメリカ経済はどうなるのか、資本主義はどうなるのかという不安が基底にある。
1930年代、1960年代のそれぞれで、人々は不安を乗り越えた。しかし、21世紀の今回の場合はどうだろうか。資本主義の行き詰まりということになっているのではないかと私は考えている。世界覇権国がアメリカから中国にシフトしていくということは、西洋支配600年の近代が終わるということであり、西洋近代が生み出した資本主義もまた変容し、終わっていくのではないかとも考えられる。このような大きな不安が基底にある時代が進んでいて、そうした動きに日本も飲み込まれているのだろうと考える。日本では参議院議員選挙が始まった。選挙戦という狂騒曲は表面の動きであり、その下の大きな動きに目を向けていきたいものだ。
(貼り付けはじめ)
カール・マルクスのアメリカでの好景気(Karl Marx’s American Boom)
-新刊書では共産主義思想家が資本主義国家アメリカでどのように受け入れられたかの歴史を検証する。
グレゴリー・ジョーンズ=カッツ筆
2025年5月30日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2025/05/30/karl-marx-america-boom-communism-capitalism-hartman/
アンドリュー・ハートマンは著書『アメリカのカール・マルクス』の中で次のように述べている。「私たちは第四次マルクスブームを生きている。アメリカ人は、1960年代、いや、もしかしたら1930年代以降に匹敵するほどマルクスについて考えている」。この20年間は、社会と政治の激動で特筆すべき20年間だった。その証拠は数多くある。トランプ、マスク、そしてMAGA運動の他のメンバーは、各機構・制度への「マルクス主義」の浸透(the
“Marxist” infiltration of institutions)を常に非難している。一方で、あるアメリカ人(バーニー・サンダース連邦上院議員)は、世界で最も有名な社会主義者となっている。
一方、アメリカの学者たちは堅実にマルクスに取り組んでいる。例えば、ヴィヴェック・チッバーの『階級マトリックス』(2023年)は、マルクス主義思想を用いて社会理論における「文化的転回(cultural turn)」を批判し、資本主義における階級構造(class
structure)と物質的関係(the material relations)の重要性を浮き彫りにしている。あるいは、プリンストン大学出版局が半世紀ぶりの2025年に、英訳したマルクスの『資本論
経済学批判(Kapital: Critique of Political Economy)』第1巻を考慮してみるのも良い。これは「21世紀のマルクス(Marx for the
twenty-first century)」を提示している。
アメリカにおける他のマルクスブームの時と同様に、今回のブームは、特に批判者の間では、純粋なマルクス主義イデオロギーへの回帰を目指してはいない。むしろ、1930年代や1960年代と同様に、マルクスの資本主義批判は現代社会の不安定さと暴力性(the volatility and violence of our contemporary society)を分析するための重要なリソースであり、代替モデルを模索する上で不可欠であるという考えに突き動かされている。経済的困難、資本主義の失敗(2008年の金融危機など)、社会正義への懸念、そして環境破壊といった要因が、読者、活動家、そして学者を再びマルクスの著作へと導いている。
『アメリカのカール・マルクス』は、周期的なマルクスブームの紆余曲折を理解する上で大きく貢献している。500ページ、9章からなる本書は、19世紀半ば以降、アメリカの読者がマルクスをどのように利用してきたかを巧みに歴史的に描いている。ハートマンは、「アメリカ合衆国におけるマルクスの受容は、左派、中道、右派、そして時にはそれらが同時に現れた歴史である。マルクスは、あらゆる政治的背景を持つアメリカ人にとって、相談相手(a sounding board)としての役割を果たしてきた」と書いている。
ハートマンは、アメリカ人は時を経て、マルクスに対して主に3つの方法で自らを位置づけてきたと論じている。第一のアプローチは「マルクスの労働に関する古典的な理論への献身(its devotion to his classic theory about labor)」において注目に値し、「ユージン・デブス、エリザベス・ガーリー・フリン、A・フィリップ・ランドルフ、バーニー・サンダースといった人物」によって用いられてきた。第二のアプローチは、「ハイブリッド・マルクスの創始者([t]he creators of a hybrid Marx)」であり、彼らは「キリスト教、共和主義、ポピュリズム、プラグマティズム、黒人ナショナリズム、先住民性(indigeneity)、ケインズ主義、フェミニズムといった伝統とマルクス主義を融合させることで、マルクスをアメリカの様々な状況に適応させた」。そして第三のアプローチは、「不利な解釈の積み重ね(“the array of unfavorable interpretations)」であり、「反共産主義がアメリカ合衆国をどれほど異常なほど形作ってきたかを物語っている」。
『カール・マルクスのアメリカ』は、広範囲に及ぶ著作だが、ハートマンは「マルクス・アメリカ弁証法(the Marx-America dialectic)」を形作った重要なパターンを有益な形で掘り起こしている。「20世紀を通して発展してきたアメリカに対する私たちの理解そのものが、地下に潜むマルクスによって支えられている」と彼は書いている。ハートマンの著書は、「マルクス・アメリカ弁証法」など存在しなかったという主張に「修正を加えている」とハートマンは主張し、「マルクスの思想はアメリカの政治的伝統に同化されていないものの、無数の反共産主義者の懸命な努力にもかかわらず、一掃されることもなかったことを示している」と述べている。統合される(integrated)ことも、清算される(liquidated)こともなかったのが、『カール・マルクスのアメリカ』である。なぜなら、マルクスに賛同して考えようと反対して考えようと、親マルクスであれ反マルクスであれ、マルクスを高めようと葬り去ろうと、アメリカ人はマルクスが設定した概念的・歴史的枠組みの中で活動してきたからだ。この点で、ハートマンは解釈弁証法的な逆転を用いて受容史を記述している。「たとえマルクスの衰退が訪れても、それはマルクスのブームだ(Even when there’s a Marx bust, it’s a Marx boom)」。こうしたアプローチは、マルクス主義思想そのものについて長らく問われてきた、反証可能性に関するいくつかの疑問(questions about falsifiability)を提起する。
ハートマンが掘り起こした歴史的パターンの具体例を挙げよう。「マルクス主義の台頭には、常に赤狩り(red scares)が伴ってきた」。さらに正確に言うと、第6章でハートマンは、戦後保守主義がマルクスを脅威、非米的あるいは反米的と扱ったことを検証している。ハートマンは、「戦後の赤狩りの助けを借りて、保守派はマルクスを消し去ることにほぼ成功した。しかし、皮肉にも、マルクスに対する右翼の注目は、たとえ最も陰謀的な形であっても、暗い鏡を通してではあるが、存続するのを助けた」と書いている。こうした歴史の皮肉、あるいは弁証法的な逆転は、現代の私たちにとっても馴染み深いものとなっている。ソーシャル
メディアの時代では、噂が虚偽であると話すだけで、その噂はさらに広まってしまうのだ。
第8章でハートマンは、1980年代と1990年代に歴史家や文化理論家によってマルクスがどのように利用されたかという皮肉を掘り起こしている。彼は次のように書いている。「規制されたニューディール版を消滅させた『新自由主義』資本主義への傾倒が進む国で、1000人のマルクスが花開いた。マルクス主義が政治的な経路から切り離されたことで、創造的な方法で発展することができた。歴史は皮肉を呼び起こすことをやめない。特にマルクスが関与している場合はそうだ」。言い換えれば、「マルクス」がいわゆる現実の政治から排除されたことで、逆説的に、例えばフレドリック・ジェイムソンのような文化政治家がマルクスを独創的な方法で解釈することが可能になった。しかし、マルクスが政治的な手段から引き離されることは、創造的な解釈が生まれ、普及するために必要だったのだろうか?
そして、なぜマルクスは歴史の皮肉を特に引き起こしたのだろうか? これらの逆転は、資本主義が「最も進んでいた」のはアメリカであり、したがって、マルクスとアメリカは、ジキルとハイド、ホームズとモリアーティのように、概念と物質のダンスに閉じ込められた双子にすぎないからではないだろうか?
ハートマンはこうした問いに答えることにそれほど関心がない。しかし、『アメリカのカール・マルクス』には、彼が特定のマルクス解釈に傾倒していることが垣間見える。実際、ハートマンは、21世紀が進むにつれて周縁化され、抑圧されてきたとも言える労働における古きマルクスが、私たちの元に、そして私たちのために戻ってくることを望んでいるように思われる。そして、マルクスは本書全体を通して、地下に潜むマルクスなのだ。例えば、第8章の「ポストモダンのマルクスか?」という節(疑問符に注目)で、ハートマンはフランスの哲学者ジャック・デリダがマルクスの唯物論(Marx’s materialism)を言説的な言語分析(discursive
analyses of language)へと転化させたことを批判している。「より広い意味では」とハートマンは書いている。「デリダは、ポストモダンの秘教主義の媒介者(an agent of postmodern esotericism)というよりも、むしろ知的左派が物質的関心を放棄し、身体化されていない文化的・テクスト的関心を優先したことの兆候として理解されるべきである」。デリダのこの表現から明らかなのは、ハートマン(そして彼が好意的に引用する多くの批評家)にとって、デリダは「労働に関する古典的理論」で知られるマルクスを有害な形で脇に追いやったということだ。ベルリンの壁崩壊とソ連崩壊後の1993年にデリダがそうしたことは、資本主義への屈服(capitulation to capitalism)のようにも聞こえる。
ハートマンの特定のマルクスへの偏愛は、アメリカの文学理論家マイケル・ハートとイタリアの政治哲学者アントニオ・ネグリが2000年に著した『帝国(Empire)』の分析にも顕著に表れている。「マルクスを反逆の預言者(a rebel
prophet)ではなく、パラダイム提供者(a paradigm provider)とみなした学者たちとは異なり、ハートとネグリは革命的なマルクスからインスピレーションを得ていた。しかし彼らは、資本主義はマルクス主義のパラダイムよりも長く生き残ったと考えていた。彼らのマルクスは、彼の思想を妥当なものにしていた素材から切り離されていた。『帝国』は、反グローバリゼーション運動が労働者階級の政治から乖離したことの副産物である」。ハートマンは、21世紀初頭までに、革命的な労働者階級という主体は、アメリカにおけるマルクス解釈の多くから切り離されていたと指摘する。ハートやネグリをはじめとする左翼主義者たちが唱えた非物質主義(non-materialism)は、正義の精神ではあったものの、政治的には欠けており、全く歯が立たなかった。ハートマンは次のように書いている。「2000年代初頭のアメリカ左翼は、奴隷制度廃止論(abolitionism)に遡る道徳的左翼の伝統に根ざした感性を示していた。道徳的左翼の崇高な目標は・・・時には達成可能だった。しかし、新自由主義の主権に対峙するにあたって、道徳的左翼主義は十分な備えができていないことが証明された」。
ハートマンの文章の最後で、労働における古きマルクスの思想が再び炸裂する。「現在のストライキの波は1934年のそれほど大きくはないものの、労働者階級の意識は高まりつつある。世論調査では、労働組合が半世紀ぶりに人気を集めていることが示されている」。しかしハートマンは、こうした状況がアメリカにおける民主社会主義革命の勃興と資本主義の終焉((a democratic socialist revolution and
finish off capitalism in America)につながるかどうかについては予測を避けている。「私たちは後期資本主義(late capitalism)に生きているのかもしれないし、そうでないかもしれない」と彼はためらいがちに記す。「これはかつて過度に楽観的なマルクス主義者の間でよく使われた言葉だ」。この点で、ハートマンは、フレドリック・ジェイムソン、スラヴォイ・ジジェク、マーク・フィッシャーといった著名人とも意見が一致している。ジェイムソンの言葉を借りれば、「世界の終焉を想像する方が資本主義の終焉を想像するよりも簡単だ」。実際、ハートマンにとって、資本主義が終焉すれば、マルクスもついに去ることになる。ホームズとモリアーティのように、彼らはライヘンバッハの滝を渡りきるのだ。ハートマンは文章の終わり近くに「マルクス受容の長い歴史によって明らかにされた真実は、資本主義が存続する限り、マルクスを殺すことはできないということだ」と書いている。
おそらく、アメリカにおけるカール・マルクスの政治的教訓は、マルクス読解の知的歴史に見出されるものではない。その代わりに、今ここでマルクスを利用し、マルクスのブームと衰退を終わらせ、それによってマルクスを休息させるという精神にあるのかもしれない。ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクが『グローバル・マルクス?』の中で次のように書いている。「マルクスの書いたものを『知る』とは何だろうか。マルクスの著作を『知る』ということは、知識とは知識についての知識であるという古い信念を維持することである。・・・補足的な仕事は、世界を変えようとすることである」。このようなマルクス主義理論の実践、マルクスの地下に潜む亡霊の祓い清めは、資本主義の終焉に伴うものであり、アメリカン・プロジェクトの長い間約束され、悲しくも妨害されてきた理念や理想の実現につながるだろう。
グレゴリー・ジョーンズ=カッツ:アメリカの知識人・文化歴史家。現在、ドイツのバート・ホンブルクにある人間科学研究所の博士研究員、およびフランクフルト・ゲーテ大学一般比較文学研究所の研究員を務めている。
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(終わり)

『トランプの電撃作戦』

『世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む』



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