古村治彦です。
私たちが中学校や高校で習う歴史の科目で、日本以外の歴史を「世界史」と呼ぶ。これは、「World
History」と訳されるが、ここ数十年、歴史学の成果として、「グローバル・ヒストリー(Global
History)」が発達している。西洋中心主義(Western-centrism)から脱却するための試みが行われている。是非、グローバル・ヒストリーについて調べてみて欲しい。
国際関係論は、歴史学を基礎にしている。歴史の類推(analogy、アナロジー)を使う。私たちは、世界の大きな構造転換の中に生きている。この世界の大きな構造転換とは西洋近代支配500年の終わりと非西洋世界の勃興(再興)である。そうした中で、「アメリカが覇権国ではなくなったら自由な体制が崩れる」「安定した平和が続かなくなる」「自由貿易体制の危機だ」といった声が聞かれる。しかし、それは間違いだ。歴史を学べば、西洋近代こそが、世界の平和と自由を阻害してきた、そして、西洋の世界支配が確立されてから、体制を崩さないように、綺麗事の価値観を主張し出したということが分かる。西洋列強は口では自由、人権、博愛、平等を唱えながら、実際には非西洋世界を植民地化し、それらの綺麗な価値観に反する、残虐な行為を数百年にわたって行ってきた。ユーラシア大陸の西の端の蛮族たちが自分たちの貧しさを武力で覆すために、世界を自分たちに奉仕させるために、残虐な支配を数百年にわたって行ってきた。これから逆回転が起きるが、今更、文化や観光地くらいしか取り柄のない西洋諸国を非西洋世界が植民地にすることは起きないだろうが、経済的には支配することは起きるだろう。
非西洋世界の真の多様化と共生の歴史がこれから復活することになるだろう。「自由で開かれたインド洋」という言葉を馬鹿の一つ覚えのように唱え続けた、麻生太郎元首相のような人物がいるが、彼らのような人物たちは全くの無知なのだ。「自由で開かれたインド洋」とは、西洋列強が進出してくる前の状態のことだった。西洋近代支配が終焉に向かう中、私たちはグローバル・ヒストリーを学び、大きな構造転換に備えなければならない。
(貼り付けはじめ)
ファラオ、マハラジャ、そして多極世界の形成(Pharaohs, Maharajas,
and the Making of a Multipolar World)
-非西洋の歴史上の事例は、アメリカの覇権の終焉を示す、より有望な前例を提供している。
アミタヴ・アチャラ筆
2025年7月25日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2025/07/25/multipolar-world-pharaohs-maharajas-us-primacy/?tpcc=recirc_latest062921

1970年9月24日、現存する最古の平和条約として知られるカデシュ平和条約(the
Kadesh Peace Treaty)の複製が国連本部でトルコのイフサン・サブリ・チャグラヤンギル外相からウ・タント国連事務総長(左)に贈呈された。この条約は紀元前1259年頃、ヒッタイト王とエジプトのファラオの間で調印された。
アメリカの優越時代(the era of U.S. primacy)が終焉を迎えるにあたり、学者や政策立案者たちは当然のことながら、次に何が起こるのかを議論してきた。多極化した世界(a multipolar world)の出現は、本質的に不安定化(destabilizing)をもたらすのだろうか?
単一の強国(a single power)による支配は、平和と繁栄(peace
and prosperity)に不可欠なのだろうか?
西側諸国では、多極化、すなわち覇権の不在(the absence of
hegemony)は容易に混乱を招くというコンセンサスがますます高まっているようだ。しかし、この結論はしばしば、アメリカとヨーロッパの近年の歴史に由来する証拠に依拠している。例えば、ケネス・ウォルツは、冷戦開始前後のヨーロッパ大陸における動向を対比させることで、多極システムの不安定性に関する画期的な議論の根拠を示した。同様に、単一の支配的な勢力のみが市場アクセスと安全保障を促進できるという考え方(チャールズ・キンドルバーガーの研究を基にした学者たちが覇権的安定理論[hegemonic stability theory]と呼んでいるもの)は、主に第一次世界大戦前のイギリスと第二次世界大戦後のアメリカの経験に依拠している。
しかし、20世紀の西洋以外の前例を探せば、国際秩序の未来はより明るいものになるかもしれない。より遠い歴史を振り返ると、多極体制がいかにして平和を維持してきたかを示す劇的な事例がいくつか存在する。今日の世界が直面する課題は、古代中東の偉大な王やファラオが直面したものとは異なり、近代以前のインド洋の貿易商やマハラジャが直面した課題とも異なる。しかしながら、これら両方の事例を探求することで、21世紀において多極体制を機能させるための永続的な教訓が得られる可能性がある。

アッシリア王アッシュール・ウバリットがエジプト王に宛てたこの王室書簡(紀元前1353年から1336年頃)は、1880年代後半、アケナテン治世下のエジプトの宗教首都アマルナの遺跡で発見された。
紀元前2千年紀の中頃、中東の中心はエジプト、ハッティ、ミタンニ、アッシリア、バビロンといった複数の帝国によって支配されていた。エジプトは最古かつ最も豊かで、最も中央集権的な政体(most centralized polity)として最高の地位を占めていたが、決して覇権国家(a hegemon)ではなかった。北方には、アナトリア半島に勢力を広げたハッティ(ヒッタイト帝国)があった。次に、南東のティグリス川とユーフラテス川沿いには、分権化されたミタンニ帝国、そしてアッシリア、そしてカッシート朝バビロニアが続いた。これら5つの勢力は、本質的に多極的な体制を構成していたが、平等と相互扶助の規範に基づく安定した関係性を築き上げていた。
この体制がどのように機能したかを示す主要な証拠は、1887年にエジプトのテル・エル・アマルナで発見された350通の書簡だ。これらの手紙が示すシステムはより古くから始まっていたものの、その起源は紀元前1360年から1332年の間に遡る。古代メソポタミアの共通語であったアッカド楔形文字(Akkadian cuneiform)で書かれ、ファラオ・アケナテン(アメンホテプ4世としても知られる)の宮殿に保存されていた。
これらの文書を研究した政治学者たちは、それらが「私たちが知る最初の国際システム(the
first international system known to us)」を垣間見ることができると主張している。レイモンド・コーエンとレイモンド・ウェストブルックによれば、これらの文書は「地中海からペルシャ湾に至る近東全域の列強が相互に交流し、王朝、商業、そして戦略的な関係を定期的に築いていた(the Great Powers of the entire Near East, from the Mediterranean to
the Persian Gulf, interacting among themselves, engaged in regular dynastic,
commercial, and strategic relations)」ことを示している。コーエンとウェストブルックは、これらの交流によって「偉大な王たちの代表、そして偉大な王たちの間の意思疎通と交渉を規定する規則、慣習、手続き、そして制度からなる外交体制(a diplomatic regime consisting of rules, conventions, procedures,
and institutions governing the representation of and the communication and
negotiation between Great Kings)」が生まれたと主張する。

紀元前2千年紀中頃、中東の中心部はいくつかの帝国によって支配されていた。アミタヴ・アチャラの地図。
外交上のやり取りは、この体制が説得と圧力(persuasion and
pressure)を巧みに組み合わせていたことを示している。例えば、同僚である王たちを兄弟のように称えるといった、非常に象徴的な言葉遣いは、より現実的な政治的計算を隠蔽していた。訪問(visits)、贈り物(gift-giving)、そして文化的な敬意(cultural deference)は全て、安定したコミュニケーションを維持し、情報収集を行い、それぞれの王が自らの主権への関与を伝えるために役立った。
この書簡には、後の国際秩序に関連するあらゆる要素が見受けられる。偉大な王たちは、交流を通して常に対等な地位(equal status)を目指していた。現在ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されているある書簡は、アッシリアが新興勢力として既存の勢力の兄弟関係に加わろうとしている様子を示している。アッシリアの王アッシュール・ウバリットは、おそらくアクエンアテンであろうエジプトのファラオに書簡を送り、贈り物を与えると同時に、迅速な返答を求め、エジプトとその支配者に関する情報を求めていた。バビロンのブルナ・ブリヤシュ王がエジプトのファラオに宛てた別の手紙は、互恵関係の重要性(the importance of reciprocity)を示している。ファラオが贈り物を送らなかったため、バビロン王も贈り物を送るつもりはなかった。書簡には次のように書かれている。「さて、あなたと私は友人だが、あなたの使者が三度もここへ来たが、あなたは私に美しい贈り物を一つも送ってくださらなかったため、私もあなたに美しい贈り物を一つも送っていない」。
この書簡は、外交特権(diplomatic immunity)と継続的な接触を保障する制度に組み込まれており、公式の印章と「神の証人(the presence of divine witnesses)」の前で行動する統治者による正式な批准(formal ratification)が用いられていた。また、主権平等(sovereign
equality)という概念もあった。エジプトのファラオは、名目上は多少高い地位を享受していたが、他の全ての大王を平等に扱い、それぞれに同等の価値の贈り物を与えることが求められていた。そのため、アッシリアのアッシュール・ウバリトがエジプトから受け取った金の量がミタンニの王よりも少なかったとき、彼は不満を述べ、受け取った金は「使者たちの往復の旅費にも足りない(not enough for the pay of my messengers on the journey to and back)」と付け加えた。
中東の大王間の外交関係の成果の1つは、エジプトとハッティの間で締結された世界初の和平条約だった。この条約は紀元前1259年に締結された。エジプトのファラオであるラムセス2世とヒッタイト王ハットゥシリ3世の間で締結されたこの条約は、エジプト語とアッカド語の両方で書かれており、両大国間の紛争を管理するための多くの条項が含まれていた。

エジプトとヒッタイトの間で締結されたカデシュ平和条約を記した粘土板。イスタンブール考古学博物館に展示されている。
ある条項は相互不侵略の諸原則(the principle of mutual
non-aggression)を定めていた:「ハッティの大君主は、永遠にエジプトの地に侵入し、そこから何かを奪ってはならない。そして…エジプトの大支配者も、永遠にハッティの地に侵入し、そこから奪ってはならない。」
別の条項は集団安全保障原理(the principle of collective security)を明文化した:「もし他の敵が……エジプトの地に攻め入り、ハッティの大君主に『彼に対する援軍として我と共に来よ』と使者を送った場合、ハッティの大君は彼のもとへ赴き……その敵を討つ」。同様に、「もし他の敵がハッティの大君に攻め入った場合、……エジプトの大君主は援軍として彼のもとへ赴き、その敵を討つ」。引渡に関する規定さえ存在する:「もし偉大な人物がエジプトの地から逃れ、…ハッティへ来た場合…ハッティの大君は彼らを受け入れてはならず…エジプトの大君主のもとに引き渡さねばならない」。
これらの文書を総合すると、大国間の対立が破滅的な戦争を招くという有力な見解に異議を唱えることになる。確かに古代中東にも緊張は存在し、各大国は依然として小国に対して軍事行動を起こしていた。しかし諸大国は互いに戦うことは避けた。コーエンとウェストブルックによれば、5つの帝国は「戦うよりも交渉し(negotiated rather than fought)」、また「稀な例外を除いて(with
rare exceptions)」、互いの必要性と野心を「うまく調整することに成功した(succeeded
in accommodating each other’s needs and ambitions)」。
もちろん、多極システムも本質的に安定している訳ではない。アマルナ文書は、そのようなシステムが平和的に機能するための条件も示している。定期的なコミュニケーションを維持し、互恵関係の規範を尊重することは、効果的な外交にとって不可欠だ。
その重要性にもかかわらず、古代中東秩序と、2300年後、ナポレオンの敗北後に出現した類似の体制であるヨーロッパ列強協調体制(the European concert of powers)についてはあまり聞かれない。ヘンリー・キッシンジャーたちが称賛したヨーロッパ列強協調体制は、中断を挟みつつも1世紀近く続いた。その前身である中東の協調体制は、相互尊重と互恵関係(mutual respect and reciprocity)がより重視され、少なくとも2倍の期間存続し、おそらく約200年間安定を維持したと言えるだろう。
多極化への懸念と密接に関連しているのは、安定と繁栄には単一の支配的勢力が必要だという、広く信じられている思い込み(assumption)だ。しかし、歴史は多極システムにおいて自由貿易(free
trade)を維持するための代替モデルも提供している。その最たる例はインド洋だ。ヨーロッパの植民地勢力が到来する何世紀も前、インド洋は世界最大の開放型海洋貿易システム(the world’s largest open oceanic trading system)だった。インド洋の貿易は、東アフリカのマリンディやモンバサから西アジアのホルムズやアデン、そして今日の南アジアと東南アジアのカリカット、マラッカ、マカッサルに至るまで、一連の都市国家(city states)によって管理されていた。
マラッカ海事法(Undang-Undang Laut Melaka)と呼ばれる法典のおかげで、この交易ネットワークの運営方法についてかなりのことが分かっている。15世紀に船長たちによって起草されたこの法典は、数多くの一般的な海事問題に対する規則を定めていた。この法規は、商船船長の権限や乗組員の責任、海上での契約義務や債務の解決方法を規定した。さらに、利益分配、衝突損害の補償、港湾税の不正行為に対する罰則に関する規則も定めていた。
マラッカ自体は大国ではなかった。しかし港湾都市(a port city)として、自由で公平かつ透明な貿易体制を確立した。15世紀のマラッカの人口は約10万人で、その大半は外国商人であり、80以上の言語が話されていた。貿易はあらゆる国家に属する人々(nationalities)に開放され、確立された関税(4~6%)が課されていた。貿易は決して無秩序ではなかった。むしろ「よく規制された(well regulated)」、あるいは現代的な表現で言えば「ルールに基づく(rules-bases)」ものであった。現地の支配者たちは外国商人に干渉せず、価格設定や紛争解決は外国商人コミュニティ(アラブ人、インド人、中国人、ジャワ人)の代表者たちによって行われた。マラッカには、船長または船主が到着時に貨物を10~20人の地元商人グループに一括価格で売却し、彼らが貨物を分配する制度があった。この制度により、船は個々の買い手を探す必要なく迅速に貨物を積み下ろせた。これは特に、モンスーンの風に合わせて正確な航海時期を守らねばならない場合に重要であった。また、外国製品がマラッカで得られる価格帯が予測可能であることを意味していた。
重要なのは、この交易システムが特定の地域大国の覇権に依存していなかったことだ。一部の近代史家が異論を唱えているが、インド洋は中国の勢力圏ではなかった。シュリーヴィジャヤ王国、マラッカ、シャムなど、多くの東南アジア諸国が中国と朝貢関係(tributary relations with China)にあったものの、貿易は中国によって支配・管理されていた訳ではない。また、中国は15世紀初頭に鄭和提督(Adm. Zheng He)が率いる大艦隊を7回派遣したが、その目的はインド洋に帝国を築くことではなかった。
同様に、インドはインド洋において文化的・経済的に重要な役割を果たしたが、これは戦略的な優位性を意味するものではなかった。インドからの海軍遠征(naval expeditions)は記録に残るだけで、どちらも南インドのチョーラ王国によるもので、どちらも11世紀のものだ。これらの遠征は破壊をもたらしましたが、インド洋の覇権を握るチョーラ朝帝国を築くことはなかった。強大なムガール帝国でさえ、海洋支配には手を出さなかった。ヴェネツィアのような列強が海域における領土拡大を試みていた一方で、ムガール帝国はそれを禁じる地域的伝統(a regional tradition)に従った。海域が分割されていた地中海や、自由貿易の権利が同盟加盟国にのみ開かれていたヨーロッパのハンザ同盟(the Hanseatic League of Europe)とは異なり、インド洋貿易はあらゆる国籍に開かれていました。
マラッカのような都市がこの開放的でルールに基づくシステムを開拓した一方で、西洋の著述家たちはしばしば、海洋の自由(the freedom of the seas)という概念をオランダの法学者ヒューゴ・グロティウスに帰する。しかし、グロティウスは、その画期的な著作『自由海論(Mare Liberum)』をオランダ東インド会社の給与を得て執筆した。これは、東インドから帰還中のポルトガル船をオランダが拿捕したことを擁護するための委託法律論文の一部であった。偶然にも、この拿捕を実行したのはグロティウスの従兄弟であった。インド洋に最初に到達したヨーロッパ勢力として、ポルトガルはインド洋における独占(a monopoly)を確立し、アジア諸国だけでなく、ライヴァルのヨーロッパ諸国にも平等な貿易アクセスを認めなかった。グロティウスは、従兄弟の行為がポルトガル独占体制への打撃であり、オランダの自由貿易権を支持するものだと主張した。しかし当然ながら、ポルトガルを打ち破った後、オランダ東インド会社は自らも、現在インドネシアとして知られる広大な群島における独占体制を確立していった。やがてグロティウスの雇用主は、この地域のルールに基づく体制を破壊し、現地の支配者たちに相互貿易を停止させ、オランダ経由でのみ取引するよう強制することになる。
17世紀初頭、オランダはゴワ王国のマカッサル(南スラウェシ)の商人に対し、マルク諸島でのクローブ、ナツメグ、メースの購入を禁止した。この自由貿易への侵害に直面し、ゴワの統治者であるアラウディン・スルタンは宣言した。「神は陸と海を創り、陸は人間に分け与え、海は共有のものとした。誰に対しても海の航行を禁じるなど聞いたことがない(God made the land and the sea; the land he divided among men and the
sea he gave in common. It has never been heard that anyone should be forbidden
to sails the seas)」。この原則的主張に対し、オランダは圧力を強め、ついにマカッサルの主要な軍事拠点である要塞を占領・破壊し、ロッテルダム要塞として再建した。
ここで論じた2つの例、すなわち古代中東の多国間システムと、インド洋における小国による管理貿易ネットワークは、より広い歴史的視点から見ると、多極化がどのように異なる様相を呈しているかを示している。単一国家の支配は、必ずしも平和や自由貿易の前提条件ではなかった。政策立案者や分析家たちは、数世紀や数カ国に焦点を絞った普遍的な主張を展開する歴史を受け入れる必要はない。第二次世界大戦前のヨーロッパの経験が、必ずしも21世紀に再現されるとは限らない。
※アミタヴ・アチャラ:アメリカン大学国際関係学大学院特別教授。最新刊に『かつての世界秩序と未来の世界秩序:何故世界文明は西洋の衰退を生き残るのか(The Once and Future World Order: Why Global Civilization Will
Survive the Decline of the West)』(2025年)がある。
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(終わり)

『トランプの電撃作戦』

『世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む』



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