古村治彦です。

 ジェフリー・エプスタイン事件はアメリカでも波紋を広げている。容疑者のジェフリー・エプスタインは既に死亡し、恋人で側近のギレーヌ・マクスウェルは既に刑務所で刑に服している。しかし、アメリカでは既に複数の著名人が職を追われたり、非難に晒されたりしている。また、ギレーヌの生まれ育ったイギリスでは、チャールズ国王の弟アンドルー元王子が、公務に関する秘密漏洩で逮捕された。これもエプスタイン事件関連である。
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 エプスタイン事件に関しては、ギレーヌ・マクスウェルを窓口にしたイギリスでも波紋を広げているが、ギレーヌ・マクスウェルの父親ロバート・マクスウェルにも再び注目が集まっている。ロバート・マクスウェルは戦後のイギリスにおいて出版界で身を起こし、メディア王と呼ばれた人物である。チェコスロヴァキア出身のユダヤ人でナチスの台頭とチェコスロヴァキア併合もあり、17歳でイギリスに難民として入国し、その後はイギリス軍に入隊し、独学で習得した10カ国語を駆使して情報将校にまでなった。ロバート・マクスウェルは国際的なスパイでもあり、イギリスのMI6、イスラエルのモサド、旧ソ連のKGBのトリプルスパイだったという話もある。1991年に地中海で所有するヨットから転落して死亡した。謎の多い人物でもある。エプスタインはロバート・マクスウェルの死亡の真相に関して関心を持っていたことがメールに残っている。

 そして、日本においては、このロバート・マクスウェルと日本船舶振興会(現在は日本財団)の創始者である笹川良一との関係に注目が集まっている。ロバート・マクスウェルと笹川良一の関係を調べると、1985年にグレイトブリテン・ササカワ財団(大英笹川財団)が設立され、ロバート・マクスウェルが理事長を務めた。この時に、当時の日本船舶振興会が約30億円を拠出したそうだ。

また、同時期の1986年にスコットランドのエディンバラで開催されたコモンウェルスゲームズ(英連邦競技大会)に2人は絡んでいる。英連邦とは、イギリスとイギリスの植民地だった国々が形成している国際的な枠組みである。50カ国以上が参加している。コモンウェルスゲームズはそれらの国々の代表が一堂に会して実施されるスポーツ競技大会だ。オリンピックや各競技の世界選手権ほど注目を集めることはなく、日本では知られていないが、英連邦の国々では関心の高い国際的なスポーツ競技大会になっている。

 1986年エディンバラ大会では、当時、アパルトヘイト政策(人種隔離政策)を実施していた南アフリカに対する経済制裁について、イギリスのマーガレット・サッチャー首相が実施しないと決定したことを受けて、英連邦の多くの国々がこの決定に抗議して、コモンウェルスゲームズに参加しない、ボイコットするという決定を行っていた。そのために、退会そのものが低調となり、スポンサーも集まらず、開催ができないというところまで追い込まれた。そこに、ロバート・マクスウェルが登場して、大会の会長として、大会へ資金を提供するという形で開催まで漕ぎつけた。このコモンウェルスゲームズに多額の資金を提供したのが笹川良一だった。ロバート・マクスウェルが笹川良一の資金力を利用したということになる。イギリスメディアは、笹川良一の前歴(第二次世界大戦後にA級戦犯として巣鴨拘置所に収監された)を知り、どうしてそのような人物がコモンウェルスゲームズに多額の資金を提供したのかといぶかしがったということだ。

 笹川良一は統一教会を母体する国際勝共連合の名誉会長を務めるなど、統一教会とも関係が深い人物である。トリプルスパイのロバート・マクスウェルと元A級戦犯にして統一教会とも関係の深い笹川良一の関係がどのようなものであったか、どうして2人が結びつくことになったのかということはこれから調査され、明らかにされることを期待する。

(貼り付けはじめ)

ボイコットと破れた夢:ロバート・マクスウェルと戦争犯罪容疑者(Boycotts and Broken Dreams: Robert Maxwell and the suspected war criminal

グラハム・フレイザー筆

2014年7月17日

BBCスコットランド

https://www.bbc.com/news/uk-scotland-edinburgh-east-fife-28316707

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ロバート・マクスウェル(左)は友人の笹川良一が1986年のコモンウェルスゲームズを救うのを支援してくれることを期待していた

来週、コモンウェルスゲームズ(the Commonwealth Games、英連邦競技大会)がグラスゴーで開幕し、世界の注目が集まる。

スコットランドがこの競技大会を開催するのは今回で3回目であり、1970年と1986年にはエディンバラで開催された。

1970年大会は疑いの余地のないほどの成功を収めた。

しかし、1986年大会は、南アフリカのアパルトヘイト問題をめぐり、アフリカ、アジア、カリブ海の32カ国がボイコットを表明し、開催は危うく頓挫するところにまで追い込まれた。

BBCの新ドキュメンタリー『ボイコットと破れた夢:1986年コモンウェルスゲームズの物語』は、コモンウェルス(Commonwealth)がいかに屈服し、競技大会(Games、ゲームズ)がいかに茶番劇(farce)に彩られたか、そして最終的にイギリスのスポーツファンが競技大会を成功として記憶しているかを描いている。

ゲームズ開催前、アフリカ諸国は、人種差別に関与する政権への経済制裁を拒否したマーガレット・サッチャー首相の行動は誤りだと考えていた。

しかし、サッチャー首相は、制裁が南アフリカ国民にもたらすであろう悲惨な状況は、支払うに値しない代償だと考えていました。

「鉄の女(the Iron Lady)」であるサッチャー首相は揺るがない姿勢を示し、多くのアフリカ人にとって、それはもはや越えてはならない一線だった。

競技大会開幕の2週間前、ナイジェリアとガーナが競技大会をボイコットした。しかし、これが最後ではなかった。

当時のコモンウェルス事務総長シュリダス・“ソニー”・ランパル卿は「かつてサッチャー首相にどうか大会を救ってほしいと懇願したのを記憶している。結局のところ、あれはイギリスで開催されるコモンウェルスゲームズだったのだから」と語った。

ランバル卿は「彼女は私に『あれは私のゲームズじゃない。あなたたちのゲームズだ』と厳しい返答を受けた」とも述べた。

高まる不満を鎮めるための方策とみられる措置として、コモンウェルスゲームズ関係者たちは、居住地に関する規定を理由に、南アフリカ出身のゾーラ・バッドとアネット・カウリーのイングランド代表としての出場を禁止した。

しかし、それはうまくいかなった。最終的に、参加資格のある59カ国のうち32カ国が不参加を決定した。

●バルミューダのボイコット(Bermudan boycott

その一カ国がバミューダだった。背後のテレビ画面で開会式が流れる中、短距離走者のビル・トロットは選手村にいたが、どうしたらいいのか分からず途方に暮れていた。

選手たちはバミューダの国家指導者ジョン・スワンから大会参加の支持を受け、トロットを含む一部の選手はパナマ帽、青いブレザー、ベージュのショートパンツ姿で開会式に駆けつけた。

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1986年コモンウェルスゲームズの開会式に臨むバミューダ代表ティーム

しかし、全ては無駄に終わった。翌朝、ついに決定が下され、バミューダの選手たちはボイコットに加わった。

トロットは次のように語った。「当時の私の考えは、アパルトヘイトに賛同するものではなかった。私は政治には興味がなかった。私にとって、競技にこそ意味があったのだ」。

撤退するティームの数が増えるにつれて、放送局とスポンサー収入も減少した。そうした中で、コモンウェルスゲームズを救えると宣言した人物の一人がロバート・マクスウェルだった。

物議を醸したメディア王は数百万ドルの拠出を約束した。計画の一環として、大会閉幕間際に記者会見を開き、同じく大会に資金を提供する用意のある日本人男性である笹川良一を紹介した。

『非友好的な大会:ボイコットと破産』の共著者であるデレク・ダグラスは、「その後、この男性が戦争犯罪容疑者として連合国の捕虜収容所に数年間収監されていたことが明らかになった」と述べている。

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リズ・リンチ(現リズ・マッコルガン)は1万メートルで優勝し、スコットランドのファンにとって大会のハイライトとなった。

ダグラスは「文字通り、想像もできないような出来事だった。シェラトンホテルの公衆電話の周りでは、ジャーナリストたちがニューズ編集者に「信じられないかもしれないけど…」と話している声が聞こえてきた」と述懐している。

ダグラスは続けて「コモンウェルスゲームズの思い出の中で、日本の戦犯容疑者である笹川良一がコモンウェルスゲームズの救世主(saviour)として登場したことは今でも最高の思い出だ」とも述べている。

「そして付け加えるなら、もちろん彼は実際には多額の寄付をしていなかったのだ」とダグラスは述べている。

●マクスウェルの遺産(Maxwell's legacy

当時サンデー・タイムズ紙の編集長だったアンドリュー・ニールはこう付け加えた。「コモンウェルスゲームズが終わった瞬間、私たちは最高の調査報道ジャーナリストたちを投入し、真相を究明しようとした」。

ニールは「間もなく、彼(マクスウェル)は私財を一切投じていなかったことが明らかになった。多くの中小企業が未払いとなり、企業は未払いのために倒産し、契約は守られていなかった。実際、彼はコモンウェルスゲームズの偽りの救世主であり、結局は自分が引き継いだ以上の問題を引き起こしていた」と語っている。

コモンウェルスゲームズは490万ポンドの負債を抱えて終了したと報じられている。

しかし、マクスウェルが最後に輝いた瞬間があった。

閉会式で、スコットランドの旗手であるレスラーのアルバート・パトリックが女王陛下の前を行進中に窮地に陥ったとき、新聞王は駆けつけて彼を助けようとした。

マクスウェルは旗を修理しようとしたが失敗し、女王陛下の側に戻った。

ヘラルド紙の著名な陸上競技担当記者ダグ・ギロンは次のように述懐している。「スコットランド国旗が旗竿から外され、ロバート・マクスウェルがスコットランドの威厳を守ろうとしていた」。

ギロンは「彼の関与という点では、コモンウェルスゲームズの行方を象徴しているようだった。全く哀れで、それでいて滑稽でもあった」と語っている。

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ロバート・マクスウェルの1986年コモンウェルスゲームズの忘れられた物語(The forgotten story of … Robert Maxwell’s 1986 Commonwealth Games

-1986年エディンバラ大会はボイコットと資金不足で頓挫しかけていたが、メディア王が介入して事態を収拾した・・・。少なくともそう見えた

ブライアン・オリヴァー筆

2014年7月22日

https://www.theguardian.com/sport/2014/jul/22/commonwealth-games-1986-robert-maxwell

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ロバート・マクスウェル(右)は1986年コモンウェルスゲームズ開幕の3週間前に会長に就任し、自らを競技大会の「救世主(saviour)」と称した

the Commonwealth Games、英連邦競技大会)がスコットランドで最後に開催されたのは1986年のことで、エディンバラで開催レタ。優勝者たちの顔ぶれは実に印象的だった。スティーヴ・オヴェットは800メートルと1500メートルをスティーヴ・クラムに託し、代わりに5000メートルに出場した。クラムは見事に優勝を果たした。デイリー・トンプソンは十種競技で3連覇を達成したが、リンフォード・クリスティは100メートルでベン・ジョンソンに敗れた。スティーヴ・レッドグレイヴはボートで3つの金メダルを獲得し、初優勝者にはサリー・ガンネルと、後にリズ・マッコルガンとして世界チャンピオンとなるリズ・リンチがいた。そして、新設されたスーパーヘビー級で優勝したレノックス・ルイスは、当時の大会のあらゆる欠点を象徴する勝利を収めた。

BBCのカメラが決勝でルイスの対戦相手だったアナイリン・エヴァンスに焦点を合わせたとき、英ボクシング界で最も有名な声はこう言った。「彼は本当に力不足だ。もし私が彼だったら、命からがら逃げ出すだろう」。おそらくエヴァンスは名解説者ハリー・カーペンターのこの発言を聞いたのだろう。彼はその後数分間、ルイスの容赦ないパンチをかわそうと試みたが、ことごとく失敗に終わった。エヴァンスのコーナーは第2ラウンド開始23秒でタオルを投げ込んだ。タイトルは、コモンウェルスゲームズ史上最高のボクサーであるルイスの手に渡った。そして、ウェールズ出身の若きエヴァンスは、予想外の銀メダリストとなった。

大会開幕の2日前、ボクサーの増員を求める声が急遽上がった。スーパーヘビー級のエントリーはルイスと、その年の初めにエヴァンスを破ったイギリス人選手ジェームズ・オイェボラの2人だけだった。アフリカ諸国を筆頭とする大規模な大会ボイコットは、ボクシング界に他のどのスポーツよりも大きな打撃を与えた。ナイジェリア、ガー、ケニア、ウガンダ、ザンビアには、いずれも国内にとどまった有力選手たちがいた。

ウェールズは幸運にもエヴァンスを指名した。彼はスコットランドへ急行し、決勝への出場権を獲得した。幼少期の大半を過ごしたイギリスへ移籍する前はカナダ代表だったルイスは、まずオイェボラをあっさりと倒し、続いてエヴァンスを圧倒して屈服させた。

大会中にルールが変更されていなければ、エヴァンスはまだ表彰台に上がれていなかったかもしれない。どの競技にも最低5人の選手がエントリーしなければ、3つのメダルは授与されなかった。しかし、ボイコットという「特別な事情(special circumstances)」のため、コモンウェルス諸国は大会の途中で、エントリー人数に関わらず3つのメダルを授与することに投票した。ルイスは世界的な名声を獲得し、エヴァンスはケアフィリーで再び無名の人に戻った。

スコットランドの観客にとって最大のヒーローは、何と言ってもリズ・リンチだった。彼女は1万メートルで優勝した当時、失業手当をもらっていた。コモンウェルスゲームズで女子がこの距離を走ったのはこれが初めてであり、スコットランドが獲得した唯一の陸上競技の金メダルだった。リンチの同走者2人は、彼女がメダル授与式で泣くことに75ポンドを賭けていた。しかし、彼女は負けた。リンチは次のように語っている。「まさか自分がそうなるとは思っていなかったが、観客は最高だったし、スコットランド・ザ・ブレイヴの演奏も素晴らしかった。本当に圧倒されて、信じられない気持ちになった。あの瞬間は二度と味わえないと思う」。

1986年エディンバラ大会で一番にメディアと人々の注目を集めた人物は、これらのメダリストではなかった。アウシュビッツで母親を亡くしたユダヤ系チェコ人で戦争の英雄であり、小作人の息子として生まれながら独学で10カ国語を話す人物だった。出版業で財を成し、伝えられるところによるとイギリスの諜報機関の支援を受け、6年間下院議員を務めたが、彼の取引を調査した商務省によれば、「上場企業の適切な経営を任せられる人物ではない」と評価した。彼は世界最大の科学教育出版会社ミラー・グループ・ニュースペーパーズと2つのサッカークラブを所有し、巨大なエゴの持ち主でもあった。風刺雑誌『プライヴェート・アイ』で「キャプテン・ボブ」と揶揄された彼は、政治家としての国際的な地位を切望していた。彼はヤン・ルドヴィク・ホッホとして生まれたが、ロバート・マクスウェルとしてよく知られていた。

これは、史上最も奇怪で、最も困難なコモンウェルスゲームズだった。開会式の数週間前には、危機に晒され、さらには中止さえも取り沙汰されていた。コモンウェルス加盟国の半数以上が不参加を表明し、エディンバラの債務返済を支えてくれたであろうスポンサーも不参加を表明した。マーガレット・サッチャーが悪役だとすれば(彼女をその役に押し上げたいと熱望する人は少なくなかった)、マクスウェルはヒーローだと主張した。開会式まで5週間を残し、ミラー・グループ・ニュースペーパーズが主要なスポンサーとなり、彼が大会運営会社の会長に就任すると、マスコミは彼を「ホワイトナイト(the white knight)」と呼んだ。

マクスウェル自身も「救世主」と称した。エディンバラで、専属カメラマンであり補佐官でもあるマイク・マロニー(王室の任務を数多くこなしていた)から女王に紹介された際、マクスウェルは女王にそのことをほのめかし、女王は大変喜んだ。マクスウェルは、豪華な展示箱に入ったコインのセットを女王に贈り、「私が企画したこの偉大なイヴェントの記念品を贈呈させていただきたい」と述べた。

3年近く経ち、最後の請求書がようやく支払われた時も、マクスウェルの役割については議論が続いていた。もっとも、支払いは彼自身によるものではなかったが。1998年の夏の終わり、担当会社であるコモンウェルスゲームズ1986(スコットランド)社が最後の会議を開いた時も、マクスウェルの名前は依然として議論されていた。その時までに「ホワイトナイト」はとっくに亡くなり、その汚名は永遠に汚された。1991年11月、マクスウェルは地中海でプライヴェートヨットから海に落ちた。彼の死後、従業員年金基金から数億ポンドもの資金を不正に流用していたことが明らかになった。

しかし、彼がいなければ、1986年エディンバラ大会はスコットランド、イギリス、そしてコモンウェルスゲームズ連盟にとって、決して忘れることのできない恥辱となっただろう。また、物事を人とは違うやり方で進めることを好んだマクスウェルがいなければ、大会ははるかに華やかさに欠けたものになっていただろう。ある時、彼は数人のVIPとそのパートナーを自身のプライヴェートスイートルームに夕食に招いた。彼はバケツから直接ケンタッキーフライドチキンを出した。

別の会合で、マクスウェルは友人である笹川良一を報道陣に紹介した。マクスウェル自身よりもはるかに多額の寄付をしたこの日本人実業家を、彼は「ハンセン病の撲滅に単独で資金を提供した」億万長者の慈善家だと紹介した。四半世紀後も20万人以上がハンセン病に苦しんでいたことを考えると、この主張自体が奇妙だった。しかし、笹川自身は27歳の当時に200歳まで生きると語り、記者たちをさらに驚かせた。当時、彼は87歳だった。

なぜマクスウェルは関与したのか?マロニーは、誰かがコモンウェルスゲームズ支援について憶測めいた提案をし、それがきっかけで大きなチャンスが訪れたと考えている。「マクスウェルは自分が救世主になれると考え、そして実際にそうなったのだ」とエディンバラでの6週間の活動にマクスウェルに同行したマロニーは語った。

1970年のエディンバラ大会とは大きく異なる。当時、この大会は初めて「ザ・フレンドリー・ゲームズ」と称された。総予算は300万ポンドだったが、1986年には1700万ポンドにまで膨れ上がった。

ボイコットの影は最初からあった。モントリオール市で、莫大な費用をかけて開催された、1976年のオリンピックでは、ニュージーランドが参加していたため、26のアフリカ諸国が参加を拒否した。問題はラグビーだった。ニュージーランドのオールブラックスは、イギリスのティームと同様に、アパルトヘイトを理由に国連の支援を受ける他のスポーツがニュージーランドを敬遠していた時代にも、南アフリカとの対戦に抵抗しなかった。1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻は、アメリカ合衆国が主導者となった、1980年モスクワ大会のボイコットへと発展した。数年後には、スポーツは政治家たちの最大の標的となった。

スポーツへの貢献により後にナイトの称号を授与されたピーター・ヒートリーは、エディンバラが再びコモンウェルスゲームズを開催すべきだと最初に提案した。彼は飛び込み選手で、1950年代のオリンピックで3度の金メダルを獲得し、後にスポーツ管理者となり、最終的にはコモンウェルスゲームズ連盟のトップに就任した。ヒートリーはボイコットの話題は常にあったと振り返り、「しかし、実際に起こった時、その規模と範囲は皆を驚かせた。コモンウェルスゲームズ開催の10日前に発覚し、毎朝目覚めると、どこかの国が退会不参加を決めていた。本当に恐ろしい出来事だった。10日間、毎日少しずつ死んでいくような気がしたものだ」と語った。

1986年エディンバラ大会の落とし穴と問題点を事細かに記した著書『アンフレンドリー・ゲームズ』の中で、著者たちは、ヒートリーがエディンバラに名乗りを上げさせなかったら、コモンウェルスゲームズは開催されなかったかもしれないと結論づけている。他の都市は立候補しなかった。

1984年、スポーツ、少なくともその商業化において、大きな飛躍があった。共産圏諸国による報復ボイコットにもかかわらず、ロサンゼルス・オリンピックは、敏腕ビジネスマンが交渉した広告とスポンサー契約によって巨額の利益を上げた。アメリカが道を開き、今度はスコットランドもスポンサー収入を得られるようになった。ところが、スコットランドは惨敗した。契約交渉にはプロが必要だったにもかかわらず、アマチュアに頼っていたのだ。「フレンドリー・ゲームズ」をスポンサーに売り込むのは彼らには不可能だった。だからこそ、マクスウェルに頼ることになったのだ。

大会開幕の2週間前の7月10日、世界中の新聞がロンドン通信社の報道を掲載した。ナイジェリアとガーナという2つのアフリカの黒人国家が前日、イギリスが南アフリカに対する大規模な経済制裁に同意しなかったことに抗議し、今月末に開催される1986年コモンウェルスゲームズをボイコットすると発表した。

このボイコットは、長年経済制裁に反対してきたマーガレット・サッチャー首相に圧力をかけるための試みとみられる。ロンドン駐在のナイジェリア大使館は前日、このボイコットは「イギリス政府に対し、私たちがこの問題にどれほど強い思いを抱いているかを明確に示す」ためだったと述べた。

最終的な敗北は壊滅的なものとなった。32ティーム、約1500人の選手が参加を見送った。

1984年オリンピックの大成功は、ピーター・ユベロスという一人の実業家の功績によるところが大きい。彼はロサンゼルス大会の運営を引き継ぐ際、アイデアを生み出すために150人の「有力者」からなる委員会を設立した。経済への懸念とソ連主導のボイコットにもかかわらず、コカ・コーラをはじめとするスポンサー企業を説得し、オリンピックへの支援を取り付けた。オリンピックは2億5千万ドルの利益を生み出した。ユベロスの資産は1億ドルと言われている。

エディンバラで同じ役職に就いていたのは、菓子職人で保守党議員のケネス・ボスウィックだった。1977年から1980年までエディンバラ市長を務めていた。当時エディンバラ市議会議長だったアレックス・ウッドは、ボスウィックに感銘を受けなかった。ウッドは「ボスウィックは昔ながらの中小企業経営者で、保守的な保守主義者だった。ためらって何もしないのが彼の常套手段だった」と述べた。

コモンウェルスゲームズ1990年オークランド大会の商業的指導者であり、ニュージーランドのスポーツスポンサーシップ界の重鎮であるマルコム・ビーティーは、より率直な意見を述べた。ビーティーは「ケン・ボスウィックは非常に古い考え方の持ち主だった。女王陛下や権力者には大変敬意を払っていたが、大規模なスポーツイヴェントの運営については何も理解していなかった。私たちが知りたいのは資金、宿泊施設、スポンサーのことだった。彼が話すのは夜明けのバグパイプの音ばかりでした。ティーム全体が素人同然だった」と語った。

マクスウェルが招集された時、エディンバラが2度目のコモンウェルスゲームズ開催都市となった誇りは「屈辱に変わった」とベイトマンとダグラスは記している。マクスウェルが最初に述べた言葉の一つは、初期の準備が「ひどく素人っぽかった(appallingly amateurish)」というものだった。

マクスウェルが6月19日に会長に就任した時​​点では、撤退した代表ティームはまだなかった。開会式前の最後の2週間で、各国は次々と撤退した。8ティームが到着し、選手村にチェックインしたところ、各国政府がボイコットに加わっていたことが判明した。バミューダは、選手たちが競技に参加できないよう命じられる前に開会式に参加していた。「長年の準備が無駄になったことに、何百人もの選手たちが心痛と失望に苛まれていることを、考えてみてほしい」とマクスウェルは語った。

少なくとも、マクスウェルは就任直後から大きなインパクトを与えた。ロンドンとエディンバラのメディア委員会に新聞社のオーナーや編集者を任命し、全国的な好意的な報道を確保した。彼は素晴らしいプレーを見せ、数百万ポンド相当の好意的な宣伝効果を得た。ミラー紙とそのスコットランド版姉妹紙であるレコード紙のロゴは、リプレイ画面、メインスタジアムのスコアボード上、水泳のスコアボード、飛び込みプール、ボクシングリングのコーナーポストなど、あらゆる場所に掲示された。公式にはコモンウェルスゲームズの主要スポンサーはギネスだったが、実際にはミラー・グループだったようだ。

会計事務所のクーパース・アンド・ライブランドは、こうした露出を全て合計し、430万ポンドと評価した。最終的にマクスウェルが支払ったのは30万ポンドにも満たなかった。「当時、ホワイトナイトが380万ポンドの負債を残して夕日の中へと去っていくとは誰も予想していなかった」と彼のカメラマン助手マロニーは語った。「彼は世界的な知名度を獲得した。それが彼の最大の目標だった。それでもなお、彼はコモンウェルスゲームズの救世主であり、コモンウェルスゲームズを愛していた」。

「エディンバラでの滞在は、まるで現実離れしたものだった。到着するや否や、彼は全てを掌握した。彼は常に会議に出席し、どんな議題であっても、たとえその内容について何も知らなくても、主導権を握った。ある時、彼は会議を終えてホテルに戻りたくなり、道路に出て公式大会車両を止め、運転手に『シェラトンまで連れて行って』と言った。運転手は別の人を乗せる予定だったので無理だと言ったが、ボブは『私はロバート・マクスウェルだ。上司に提出するための免責状を渡そう』と言った。彼は車の中で私にそれを口述した」。

マロニーは「ボブはユニークな人物だった。私たちはすっかり親しくなったが、食べるとなると少々強欲なところがあった」と語った。ある時、マクスウェルはエディンバラの最高級中華料理店に14人分の宴会料理を注文した。「ドン・ペリニヨンもたくさんあった。『どうぞ召し上がれ』と言われたとき、他のゲストを待たなくてもいいかと尋ねた。他のゲストはいなかった。あと12人分の料理があったのに、彼はただひたすら食べ続けた。時には指でつまむこともあった。彼がベッドに向かった時には、カレーソースがシャツの胸元に滴っていた」とマロニーは語った。

マロニーは次のように述懐している。「別のレセプションでケンタッキーフライドチキンを出した時は、初めてではなかった。労働党大会でもそうしていた。バケツを回していた時、彼は実際に鶏もも肉を一口かじり、女性ゲストの一人に『美味しいですよ、これを食べてみて。きっと気に入ると思いますよ』と言っていた。そして、鶏もも肉をバケツに戻した」。

明らかにマクスウェルは食べ物が好きだった。では、スポーツも楽しんでいたのだろうか? マロニーは「彼には集中力がなかった。サッカーの試合でさえ、いつも電話をしなければならないと言い訳をして席を立っていた。例えば、5000メートル走なんて最後まで座っていられなかった。彼には長すぎだった。100メートル走が限界だっただろう」と述べた。

マクスウェルが好んだのはスタジアムではなく、カメラの前だった。競技大会最終日前日、マクスウェルは記者会見を開いた。その会見は、デイリー・メール紙のイアン・ウッドリッジをはじめ、一部の人々から「これまでで最も奇妙な会見だった」と評された。マクスウェルは笹川良一を歓迎し、通訳を通して質問に答えた。笹川良一は「戦後、自国の経済復興に重要な役割を果たした元政治家」と紹介された。彼は「世界慈善事業(world philanthropy)」に身を捧げ、世界消防団連盟、世界空手道連盟、日本科学会などの会長を務めていた。笹川良一は5分間、日本語で世界の調和のために何をしているのかを説明した。

マクスウェルは笹川良一に関するいくつかの事実を軽く触れた。確かに彼は20年間で120億ドルを寄付したが、造船業で財を成したわけではない。彼の人物像がより鮮明になったのは、1995年に彼が亡くなった後(享年200には届かなかった)、インディペンデント紙の死亡記事で、笹川良一は「利己主義(egotism)、強欲(greed)、冷酷な野心(ruthless ambition)、そして政治的悪辣さ(political deviousness)の化け物として際立った、日本の最後のA級戦犯」と評された。彼は500人の女性と寝たと主張し、CIAと繋がりがあったとされ、アヘン取引にも関与していたとされている。彼はギャンブルで財を成し、数十億ドル規模のビジネス帝国を築き上げた。コモンウェルスゲームズ1986年エディンバラ大会への寄付金は126万5000ポンドだった。

笹川良一の寄付前の1986年エディンバラ大会の最終赤字は、マクスウェルが会長に就任する前とほぼ同じ、約400万ポンドだった。日本からの寄付は大きな変化をもたらした。マクスウェルは債権者(その中には2つの地方議会も含まれていた)との交渉によって損失をさらに削減した。大会運営会社は、最も緊急を要する書類処理を1989年まで全て処理できなかった。それから10年経っても、不満は消えなかった。

果たして、それだけの価値があったのだろうか? アレックス・ウッドの意見はノーだった。彼の「非常に個人的な視点から振り返ってみると」、市はそもそも関与すべきではなかったという。「ロバート・マクスウェルは、とてつもなく大きな利益に奉仕する意欲を欠いた、とてつもないエディンバラ市議会議員たち(保守党、労働党ともに)は、大会開催の正当な理由として「市の宣伝(promoting the city)」を主張していたが、実際には、彼らは海外旅行や富裕層や権力者との交流に関心を持っていた。「エディンバラはコモンウェルスゲームズ開催に巻き込まれるべきではなかったというのが私の見解だ」とウッドは述べた。

数々の失敗や恥辱にもかかわらず、コモンウェルスゲームズ連盟は開催を決定したことを永遠に感謝するだろう。1986年にコモンウェルスゲームズが開催されていなかったら、2014年にスコットランドで開催できたかどうかは誰にも分からないだろう。

※ブライアン・オリヴァー:オブザーヴァー紙スポーツ部門編集者を務めた。本稿は、ブルームズベリー社から出版され、12.99ポンドで販売されている著書『コモンウェルスゲームズ:メダルにまつわる驚くべき物語』からの抜粋だ。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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