古村治彦です。

 以下に紹介している、スティーヴン・M・ウォルトの論稿は昨年9月に発表された論稿であるが、現在の状況において非常に重要な内容を含んでいるのでご紹介したい。政治的な殺害、つまり暗殺は外交や国際関係にとって危険であり、同時に国内政治においても危険である。そのことをウォルトは論稿の中で説明している。

 今回のイスラエルとアメリカによるイランに対する大規模攻撃に当てはめてみよう。アメリカはイランと核開発に関して交渉を行っていた。オマーンが仲介役を務めていた。しかし、最終的には、アメリカのドナルド・トランプ大統領は、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相に説得(洗脳)されイランに対する大規模攻撃を行った(2025年だけでネタニヤフは6回訪米し、トランプと会談を持っている)。攻撃はイラン政府や軍の指導者を多数殺害した。その中にはイランの最高指導者であるアリ・ハメネイ師も含まれている。ハメネイ師が自宅にいることを特定し、攻撃を加えて殺害した。

 ここで重要なのは、交渉中の相手国の最高指導者を、「宣戦布告もなしに」、奇襲攻撃をして、殺害したことである。これは政治的な殺害、暗殺である。下記論稿の内容に沿って考えると、なぜ暗殺が良くないかと言うと、信頼を損ない、交渉や階段を持つことが出来なくなるからだ。実際に、イランはアメリカからの交渉を拒否している。アメリカと交渉しても、交渉中に攻撃を受けるかもしれない、もしくは、交渉で合意した内容を守らないかもしれないという疑念は当然出てくる。それほどの重大事をアメリカとイスラエルは起こしている。

そして、「邪魔な奴は殺してしまえばよい」ということが当然に行われるようになれば、それは国内でも同様のことが起きる可能性にもつながる。

 アメリカとイスラエルが国際法無視で暗殺者集団と同様のことを行っていれば、国際社会における信頼を失ってしまう。それは長期的に見て、アメリカとイスラエルの国益を損ない、アメリカ国民とイスラエル国民を苦しめることになる。

(貼り付けはじめ)

暗殺はどのようにして再び常態化したのか(How Assassinations Became Normal Again

-国内外における政治的な殺害(political killings)は、かつては頻繁に起こっていたが、その後ほぼなくなり、そして再び頻繁に起こるようになった。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2025年9月18日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2025/09/18/assassination-political-violence-charlie-kirk-normal/

インフルエンサーのチャーリー・カーク殺害事件と、イスラエルによるハマス幹部殺害未遂事件(カタール爆撃)には、どのような共通点があるのだろうか? もちろん、明白かつ重要な相違点もある。カーク事件は動機が明らかになっていない個人による単独犯行(isolated act)とみられる一方、後者は動機が明白な選出された政府による意図的な軍事行動である。しかし、2つの事件は、国家間および国家内部における現代政治の規範の広範な崩壊(the broader erosion of norms in contemporary politics)、特に暗殺を正当な政治戦術とみなす傾向(the tendency to see assassination as a legitimate political tactic)の兆候と捉えることもできる。

政治的な殺人(political killings)は、もちろん新しい現象ではない。しかし、ウォード・トーマスが2000年に『インターナショナル・セキュリティ』誌に掲載した画期的な論文で示したように、数世紀にわたり、ある国の指導者が他国の指導者を殺害しようとする行為に対しては、極めて効果的な規範が存在していた。国家による暗殺(assassinations)は、かつては一般的だったが、時が経つにつれ、この戦術は主要諸国の間で廃れ、暗殺を禁じる規範が徐々に形成されていったとトーマスは主張した。

この変化は、物質的・戦略的な利害と、変化する規範意識が複合的に作用した結果である。暗殺は、弱小国がより強力なライヴァル国に対して用いることのできる手段であったが、大国(great powers)は暴力的な政治行動(すなわち戦争)を、自国の優位な資源が有利に働く可能性が高い戦場に限定することを好んだ。さらに、各国の支配者たちは、たとえ他の相違点がどうであれ、何千人もの国民を血みどろの戦場に送り込んで死なせようとしながらも、互いに殺し合わないという共通の利益を有していた。

暗殺に反対する規範は、国家指導者は一般市民とは異なる道徳的原則に従うのであり、国家のために行った行為について個人的に責任を問われるべきではないという、現実政治の考え方も反映していた。一般市民が人を殺害すれば起訴され有罪判決を受ける可能性があるが、「国益(in the national interest)のため」に戦争を開始した君主や首相は、その決定の結果として何千人もの命が失われたとしても、何の罰も受けずに済むことがあった。失敗に終わった戦争を始めた指導者は権力の座から追放されることはあっても、公的な立場で行動していた限り、裁判にかけられたり処罰されたりすることはほとんどなかった。

この二重基準(double standard)が最も鮮明に表れたのは、第一次世界大戦後だ。廃位されたドイツ皇帝(deposed German kaiser)ヴィルヘルム2世は、オランダでの平穏な亡命生活を送り、余生を全うすることを許された。1世紀前、ナポレオン・ボナパルトも、幾度となくヨーロッパを戦争に巻き込んだにもかかわらず、直接的な処罰を免れた。もっとも、彼は最終的に南大西洋の孤独な流刑地で老い、生涯を閉じた。驚くべきことに、この暗殺禁止の規範は、凄惨な戦争の最中でさえも守られていた。連合国(the Allies)はアドルフ・ヒトラーを暗殺しようとはしなかった(一部のドイツ人は試みた)。また、日本の昭和天皇やイタリアの指導者ベニート・ムッソリーニを直接標的にすることもなかった。(アメリカは日本の山本五十六海軍大将を標的にし、その飛行機を撃墜して殺害したが、彼は軍司令官であり、文民の公職者ではなかった。)

トーマスによれば、第二次世界大戦後、新たな倫理的・物質的配慮が定着するにつれて、この規範は崩れ始めた。ニュルンベルクおよび東京の戦争犯罪裁判において、勝利した連合国は、公的行為と私的行為との従来の区別を否定し、日本およびドイツの元政府高官たちに対し、その公的(かつ疑いようのないほど凶悪な)行為について個人的責任を問うた。同様の動きが、『世界人権宣言(the Universal Declaration of Human Rights)』の採択や、戦争犯罪(war crimes)、ジェノサイド(genocides)、その他の人道に対する罪(crimes against humanity)の責任者を処罰するという、残念ながら一貫性に欠けるものの、世界的に高まりつつある取り組みの原動力となった。その後の国際刑事裁判所(the International Criminal Court)の創設や、こうした重大な犯罪の有罪とみなされた指導者を制裁しようとする関連の取り組みも、同じ広範な潮流の一部であった。

なぜこのような規範的視点の転換が重要だったのか? それは、個々の指導者が自らの決定に対して道義的責任を負うようになったことで、特に邪悪あるいは危険であると判断された者たちに対する直接的な措置を正当化することが容易になったからである。一人の指導者(そしておそらくは少数の側近)を標的とすることは、はるかに多くの人命が失われる戦争を始めるよりも望ましいとみなされる可能性もあった。暗殺は、政治的問題に対処する上でより費用対効果の高い方法のように見え始め、少なくとも軍事的に最も能力のある国々においては、軍事技術の発展によって精密攻撃(precision strikes)や標的殺害(targeted killings)が可能になるにつれて、その傾向はさらに強まった。

そのため、国家が支援するライヴァル指導者の暗殺は極めて稀なことではなく、時が経つにつれてより一般的になった。例えば、冷戦時代には、アメリカはフィデル・カストロ、パトリス・ルムンバ、ゴ・ディン・ディエム、ムアマル・アル・カダフィ、その他複数の外国指導者を直接殺害、殺害への協力、または殺害を試みた。ブッシュ政権は2003年のイラク侵攻開始時にサダム・フセインを意図的に標的とし、2020年にはトランプ政権がミサイル攻撃でイランの精鋭部隊であるコッズ部隊の司令官カセム・ソレイマニを殺害した。(ソレイマニは軍事指導者であると同時に高官でもあった。もし外国が統合参謀本部議長を意図的に標的にしたらアメリカ人がどう反応するか想像してみて欲しい。)イスラエルは長年にわたり、ハマスやヒズボラの指導者、そして複数のイラン人民間核科学者を含む多くの政治的敵対者たちを殺害してきた。北朝鮮は1968年と1983年の2度、韓国の大統領暗殺を企てた。ウクライナは、ロシアがウォロディミール・ゼレンスキー大統領の暗殺を繰り返し試みたと主張している。かつて存在した「各国政府は他国の要人を標的にしてはならない(governments should not target their foreign counterparts)」という規範は、もはや風前の灯火(on life support)となっている。

これは少なくとも3つの理由から非常に懸念すべき事態となっている。

第一に、強力な規範であっても、強大な国家が自らの意思で行動することを完全に阻止することはできないも。しかし、確立された規範に違反すれば、違反国は評判を損なうことになり、他国は違反した国との緊密な関係や協力関係を維持することを躊躇するようになる。規範が崩壊するにつれ、評判を損なう行為によって、抑止力(deterrent)は低下し、暗殺を極端な手段ではあるものの、正当な政治行動とみなす国が増えるだろう。世界中の政府はより恐れを抱き、互いを信用しなくなり、既存の紛争に対する相互に受け入れ可能な解決策を見出すことはより困難になる。結局のところ、自らを殺害しようと積極的に企んでいる相手と、誠実に交渉できるだろうか? 規範が崩壊すればするほど、世界の政治はより醜悪で、より争いの多いものになるだろう。

第二に、そして第一の点から派生する点として、暗殺を禁じる規範を放棄することは、単に会談が危険であるという理由が発生することになり、ライヴァル同士の会談を阻害することになる。その結果、進行中の紛争に対する外交的解決の道はさらに狭まるだろう。また、第三者が外交的解決取り組みを支援しようとする意欲も削ぐことになる。これこそが、イスラエルによるカタールへの攻撃がこれほど無謀であった理由である。それは、責任ある国際社会の一員としてのイスラエルの評判をさらに損なうだけでなく、一部の国々がイスラエルの外交活動を仲介する意欲を削ぐことになるからだ。どの国も時として敵と対話する必要があり、その過程を円滑に進めるには通常、中立的な第三者の仲介が不可欠である。このようにカタールの主権を侵害し、暗殺を禁じる規範に背くことは、国際外交がより一層必要とされているこの時期に、その歯車にさらなる砂を撒き散らすことになる。イスラエルが、ワシントンから目立った制裁を受けることなく、名目上ではあるがアメリカの同盟国を攻撃する姿勢を示したことは、この地域におけるアメリカの既に傷ついている評判にさらなる打撃を与えた。もっとも、その評判がこれ以上低下する余地があるとは到底思えないのではあるが。

最後に、対立する外国の要人を標的にして殺害することは全く問題ないという考え方は、一部の人々にとって、意見の合わない国内の政治家に対する暴力行為を正当化しやすくする。いずれの場合も、標的となりうる人物はまず悪の権化(the embodiment of evil)、国家に対する致命的な脅威(a mortal threat to the nation)として悪魔化される(demonized)。一度そのレッテルが貼られると、彼らに対処するための極端な手段は許容され、場合によっては必要不可欠とさえ思えるようになる。もしあなたがアメリカ人で、国内における暴力的な政治活動の増加(JD・ヴァンス副大統領や他の政権関係者が述べている嘘とは異なり、これは圧倒的に右派によるものであり、左派によるものではない)を懸念しているのなら、アメリカ合衆国、その最も緊密な同盟諸国の一部、そして他の主要諸国が、海外における暗殺に対する規範をいかに損なってきたかについても懸念すべきである。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。Blueskyアカウント:@stephenwalt.bsky.socialXアカウント:@stephenwalt

(貼り付け終わり)

(終わり)

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