古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

カテゴリ: 映画

 古村治彦です。

 2023年12月27日に『バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる』(徳間書店)を刊行しました。『週刊現代』2024年4月20日号の、佐藤優先生の書評コーナー「名著、再び」にてご高評いただきました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

 現在、ディズニー+で配信されているドラマシリーズ「ショーグン(将軍)」の評判が良い。映像に迫力があり、物語もシリアスな展開であるということだ。戦国末期、関羽柄の前の歴史を基にしているということで、日本人視聴者にはお馴染みの話だ。

1980年には、NBCが「ショーグン」のドラマシリーズを制作した。この当時、日米貿易摩擦が起き、日本の経済力が高まる中で、「日本の経済侵略」という言葉も出てきて、アメリカでは日本脅威論が出ていた。エズラ・ヴォ―ゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』も同じくらいの時期に出ていた。「日本を知りたい(どれくらい気尿なのか)」という欲求がアメリカ側にあったと思う。

1980年当時、私は6歳だった。小学校に入ったばかりの頃だ。NBCの作ったテレビシリーズ「ショーグン」のことはうっすらと覚えている。おそらく再放送で見たのだと思う。大人たちは戸田鞠子を演じる島田陽子の入浴シーン、ヌードシーンに大きな関心を持っていたと記憶している。大人たちは、島田陽子は「国際女優」になると噂していた。作家・評論家の小林信彦は「ショーグン」のパロディを書いていたと思う。「黙ってかしずいて男に尽くすきれいな日本人女性」「野蛮な日本対文明化された西洋」というステレオタイプ、オリエンタリズムが満ちていたと思う。今回知ったのだが、アメリカで放送されたNBC版では、日本語はそのまま放映されて、吹替も字幕もなかったのだという。「主人公のブラックソーンと同じく言葉が分からない中での不安」を視聴者にも感じさせるという狙いがあったということだ。日本で放映された時には、おそらく英語の部分に字幕を付けたのだろうと思う。

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1980年の「ショーグン」での島田陽子の入浴シーン

 2024年の「ショーグン」は1980年のものとだいぶ変わっているそうだ。1つには、主人公が徳川家康がモデルとなっている吉井虎永(真田広之)であり、ドラマの大部分が日本語で進んでいく中で、英語字幕が付けられているということだ(欧米の視聴者は字幕を読みながらの映像視聴は苦手と言われて避けられてきた)。また、女性たちのキャラクターや役割もより積極的なものとなっているということだ。エキゾティックな風味は残しながら、現代的な要素が入っているもののようだ。更には、西洋中心主義的なドラマ制作ではなくなっているということも大きい。現在、配信されている「三体問題(三体)」は内容の難解さもあるだろうが、舞台をロンドンに移し、原作の小説から内容を大きく変更している。そのために評価が芳しくないということがあるようだ。

 西洋中心主義で見た非西洋は、非西洋に住む人々から見れば、それこそかなり「奇妙」な姿となる。日本人である私たちは、西洋の映画やドラマで描かれている日本やアジアの姿についてかなり奇妙に感じる。それが今回の「ショーグン」ではだいぶなくなっているようだ。それは西洋中心主義の減退を示す兆候であると思われる。

 1980年の「ショーグン」から数年後に、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」が公開されて話題となった。「戦場のメリークリスマス」はローレンス・ヴァン・デル・ポストの短編「影さす牢格子」と「種子と蒔く者」を原作にして、大島渚がメガホンを取った。あの映画の中にある「不自然さ」は何なのかということを私は考えていたが、今回、あれは、大島渚の西洋中心主義やオリエンタリズムから見た日本と日本人という姿を、「あなたたちにはこのように見えているのだろう」という形で描いたことで、二重に屈折したものとなっているのではないかと考えるに至った。大島渚からの西洋中心主義やオリエンタリズムに対する、痛烈な批判とパロディと反撃だったのだろうと思う。
 最後の最後で脱線してしまったが、2024年の「ショーグン」

(貼り付けはじめ)

テレビの新しい「ゲーム・オブ・スローンズ」は17世紀の日本が舞台(TV’s New ‘Game of Thrones’ Is Set in 17th-Century Japan

-「ショーグン(Shogun)」は、44年前のシリーズを現代の好みにぴったりと合わせてアップデートしたものとなっている。

ジョーダン・ホフマン筆

2024年3月30日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2024/03/30/shogun-game-of-thrones-hulu-japan/

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「ショーグン(Shogun)」の中で吉井虎永役を演じる真田広之。

●「冬がやってくる」を日本語ではどのように言うか?(How do you say “Winter is coming” in Japanese?

FXプロダクションが制作し、現在、アメリカではHulu、その他の地域ではディズニー+でストリーミング配信されている新シリーズ「ショーグン」は、視聴者に「ゲーム・オブ・スローンズ」を思い出させるかもしれないと言っても、ほとんど批判とはならない。ジョージ・RR・マーティンの小説を基にしたHBOのスペクタクル「ゲーム・オブ・スローンズ」は、私たちの時代の最も変革的なテレビイヴェントの1つであり、似ているが模倣ではないシリーズを生み出した何人かの製作者にインスピレーションを与えた。Netflixには「ザ・ウィッチャー」があり、Amazonには法外に高価な「ロード・オブ・ザ・リング: 力の指輪」があり、HBOにはゲーム・オブ・スローンズの前編「ハウス・オブ・ザ・ドラゴン」があり、どれも魅力的だが、「ゲーム・オブ・スローンズ」を超えるまではいかなかった。

しかし、ついに後継者が誕生したことを報告できることを大変嬉しく思う。私たちの集団的な情熱に火をつけたのは、魔法使いや翼のある獣ではなかったことを後継者は証明した。私たちの想像力を征服したのは、さまざまな目的を持った複雑なキャラクターのパレット、厄介な同盟、そして不可解な計画だった。「ショーグン」は、ジェームス・クラベルの1975年のベストセラー(doorstopper)の『ショーグン』(1980年にはテレビドラマ化もされた)を原作としたもので、17世紀初頭の日本の権力闘争(power struggle)をフィクション化したもので、権力闘争を維持してきた指導者の死後、5人の地方領主が主導権を争うというものである。安定しているが、息子が統治するには若すぎる。この物語にスパイスを加えているのは、ポルトガルのイエズス会(黒船がマカオに秘密基地[secret base]を建設中)と、この地域におけるポルトガルの足場を不安定にする秘密の使命を帯びてオランダ国旗を掲げて航行している狡猾なイギリス人水先案内人(pilot)の到着である。 しかし、彼らの役割は小さいものとなるだろう。とにかく、私がここまで書いた紹介は非常に短いものであるが、読者である皆さんの関心を引くことができればと考えている。

「ショーグン」は、特別な精神的努力が要求されるが、その努力が報われる、珍しいテレビシリーズである。(幸いなことに、FXプロダクションは登場人物全てを把握できるよう、徹底した学習ガイド[study guide]を作成している)。加えて、歴史と本物の習慣に根ざした描写がなされていることが、この作品に大きな重みを与えている。知っての通り、真実はしばしば小説よりも奇なりである(Truth is often stranger than fiction)。

しかし、「奇妙さ(strangeness)」という言葉は、特に他国の歴史を題材にしたハリウッドを拠点とする作品にとって、昨今は、多くの批判を招くような、定まらない言葉となっている。2018年8月にこの「ショーグン」シリーズの制作が発表されるとすぐに、プロデューサーたちは、それ以前のNBCテレビのシリーズは大きく異なるものになるとを明言した。リチャード・チェンバレン、伝説となっている三船敏郎、ウェールズ出身の性格俳優ジョン・リース=デイヴィスが屈強なスペイン人を演じ、オーソン・ウェルズがナレーションを担当した1980年の「ショーグン」は、「ルーツ」、「ナザレのイエス」、「戦火の風」、「ノース・アンド・サウス」などを含む大予算のミニシリーズの流行の頂点であり、日本のあらゆるものに対するアメリカの関心の高まりに完璧にタイミングを合わせた、高い視聴率を獲得した大作となった。そしてこの作品は、西洋人の主人公の視点から語られ、古典的な、「白人が救世主となる」型(classic white savior trope)が使われた。

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1980年のNBCのドラマシリーズ「ショーグン」の1シーンから。ジョン・ブラックソーン役のリチャード・チェンバレンと石堂和成役の金子信雄。

「ショーグン」のストーリーは、日本に最初に航海したイギリス人となったウィリアム・アダムス(William Adams)の実人生に大まかに基づいており、「ショーグン」の中核をなすものだが、ジャスティン・マークスとレイチェル・コンドウの夫婦のタッグによって開発された新シリーズは、クラヴェルが書いた小説の内容を取り入れつつ、その幅を広げている。コスモ・ジャーヴィス演じるアダムスのキャラクター、ジョン・ブラックソーンは、今や吉井寅永(真田広之)や戸田鞠子(アンナ・サワイ)を含む、同じく重要な3人の主人公の1人となっている。実際、オープニング・クレジットでトップを飾るのは真田広之だ。

新しい物語の1つの指標はこれだ。1980年版では、登場人物が日本語を話しても翻訳されなかった。「視聴者はブラックソーンと同じ状況に置かれ、彼と同じように何が起こっているのかを知ることになる」とプロデューサーは当時、この創造的な選択について自慢していた。現在のヴァージョンでは、話し言葉の日本語には字幕があり、それは文字であって装飾ではない。しかも、ストップウォッチを使って正確に測定した訳ではないが、ドラマの約4分の3は日本語だ。

プロデューサーの何人かは日本人だが、脚本家はそうではない(もっとも、一部は日本の血を引いているが)。そのため、会話は英語で書かれ、それから厳格に日本語に翻訳され、英語は話せないが専門知識を持った日本人劇作家に引き渡された。そしてこうして作成された日本語の台詞を字幕用に翻訳し返した。シーンの多くには、言葉を通訳し、選択するための緊張感のある会議がなされた。こうした努力は、アンナ・サワイのような優れたパフォーマーにとって、声ではあることを言いながら、表情では別のことを意味するという、信じられないほど肥沃な基礎となった。 (あまり複雑にしないように注意するが、物語の中では誰も英語を話していない。ただし、一部の登場人物はポルトガル語を話すが、それが英語のように聞こえる。信じて欲しい。ドラマを見てもらえば、私が言っていることが分かってもらえるだろう)

これが「ショーグン」が何か別のことをしながらの視聴(passive viewing)に向かない理由の1つだ。インスタグラムを片目で見ながらテレビを見ている人は、この作品に問題を感じるだろう。(そして、するべきことは、スマホを置くことだ!)様々に移り変わる立場を持つキャラクターが次々と登場するだけでなく、中心的なテーマの1つは、欺瞞と発覚の遅れである。この物語は、誰が一体何を考えているのかが分からないことが成功の鍵を握っている。これは「八方塞がり(eightfold fence)」に象徴される。日本の鎖国哲学(Japanese philosophy of isolation)は長年にわたって政治的な駆け引きに役立ってきたが、「ショーグン」のような濃厚なドラマでは、女性が夫への永遠の愛を公言しているとき、内心では死んでしまいたいと願っているかもしれないということを意味する。

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「ショーグン」で戸田鞠子を演じるアンナ・サワイ

新シリーズが視点を広げる(そして女性の役割も強化する)という決断を下したことで、17世紀の日本文化がちょっと、いや、強烈に奇妙に見えるような題材が削ぎ落とされるのではないかと心配する人たちもいただろう。率直に言おう。 私たちが現在生きている、過敏な時代に、囚人の苦悶の叫び声を聞きながらボーッとするために、囚人を生きたまま茹でるような描写が必要だろうか? 答えはイエスだ。そして、そのサディスティックなキャラクターは決して善人ではないが、最後には少し好感が持てるようになる。

さらに極端な(そして早速第1話で出てくる)のは、自分を擁護する発言をしたにもかかわらず、儀礼に反した方法でそれを行った部下が、儀礼に則った自殺をするだけでなく、自分の幼児を殺さなければならないことをキャラクターが受け入れる時だ。それは、彼の家系を確実に絶つためだった。しかもそれを承認するのは我らが主人公である真田広之演じる虎長である。

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「ショーグン」で樫木央海を演じる金井浩人(馬上)

実際のところ、頻繁に行われる切腹という行為は、ブラックソーンの西洋人の目には不可解な日本の風習の1つに過ぎず、彼のキャラクターはその点では視聴者の代弁者であり続けている。(苔を踏むのは無礼であるという信念ははるかに良心的である。) しかし、チェンバレンのブラックソーンからの重要な変化は、ジャーヴィス演じるブラックソーンは頻繁に泣き言を言う嫌なやつだということだ。ジャーヴィスの演技は、トム・ハーディの最もエネルギッシュな時の演技に少し似ているが、短気で唾を吐き、罵倒ばかりしている、吹けば飛ぶような嫌な奴で、おそらく最初から冷静になればもっと楽に物事を進められるだろう。(それは時に笑いを誘うものであり、実際その通りだ。)日本人は彼のことを「あの野蛮人[The Barbarian]」と呼ぶが、当時のイギリス人の入浴に対する態度を見れば、片付け上手な日本人と比べて、その理由が分かるだろう。私が「ショーグン」に対して与える最高の褒め言葉の1つは、定期的に、「待てよ、なぜ私はこの中の誰かを応援しているんだ!」と思いながらも、ドラマの中で多くのことが危機に晒されていると感じられることだ、ということだ。

このシリーズには凄惨な流血の描写(gore)も多いが(CGで作られた馬が大砲の弾に当たるとどんなふうに見えるか、今ならよく分かる)、圧倒的な美しさがある。着物にかけた予算は屋根を突き抜けていたに違いない。明らかにグリーンスクリーンが追加されているシーンでさえ、丁寧にライトアップされている。これは、ショッキングな暴力描写があるにもかかわらず、秩序と気品を重んじる文化にとって重要なことだ。1時間のエピソードが10もあるので、お茶の正しい出し方、酒の注ぎ方、あるいは自分の商売に誇りを持つ芸者がいかにしてそれを芸術にまで高めることができるのかについて、じっくりと考える時間がある。

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「ショーグン」の1シーン。樫木藪重を演じる浅野忠信とヴェスコ・ロドリゲスを演じるネスター・カーボネル

しかし、ストーリーに説得力がなければ、そんな細かいことはどうでもいいことで、クラヴェルが何かを掴んでいなければ、2100万部も本を売ることはできなかっただろう。おそらく『ショーグン』が彼の最も有名な作品だろうが、X世代の子供だった私は、あちこちの表紙で彼の名前を目にしたのを覚えている。私の母は、ハードカヴァ―で2巻に分かれた巨大な『ノーブル・ハウス』を何カ月も持って読んでいた。彼の作品のほとんどは、より大きな「アジアン・サーガ(Asian Saga)」シリーズの中に収まっているが、1980年代初頭には、ディストピア短編小説(『ザ・チルドレンズ・ストーリー』)を基にしたテレビスペシャルを監督し、人気テレビ番組『レイト・ナイト・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』でパロディにされるほどの影響力を持っていた。

しかしながら、異国情緒(exoticism)や複雑な歴史がある分、登場人物たちの内なる希望や欲望が後を引く。「花は散るからこそ花なのだ(Flowers are only flowers because they fall)」という台詞は、文脈からすれば陳腐なものに思えるかもしれないが、「ショーグン」の繊細な世界では、この特別なシリーズにいくつもある名台詞の1つであり、完璧な瞬間なのだ。

※ジョーダン・ホフマン:ニューヨーク市クィーンズ在住の映画評論家・エンターテインメント・ジャーナリスト。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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ビッグテック5社を解体せよ

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 今回は映画『独立愚連隊』『独立愚連隊西へ』の感想を書きたい。両作品ともに岡本喜八監督の代表作だ。60年も前の映画だが、色褪せない傑作だ。『独立愚連隊』は謎解き、『独立愚連隊西へ』は冒険活劇という要素が大きいが、随所に戦争は虚しい、戦争という異常な状態では人間の生命や尊厳は簡単に失われる、そして、人間の生き死にはほんの些細なことが分かれ目となる、ということが描かれている。
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独立愚連隊

 『独立愚連隊』は戦争末期の中国戦線が舞台だ。従軍記者・荒木が取材で将軍廟という町を訪問する。この町に駐屯している大隊が更に敵との最前線に孤立気味に設置している警戒拠点・独立第90小哨を守る分隊、通称「独立愚連隊」を取材するためだ。この独立愚連隊ははみ出し者を集めて作った分隊で、いわば捨て石的な存在として全滅しても仕方がないとされている。この分隊に派遣されていた見習士官・大久保の不審死について荒木は取材を始める。

 この従軍記者・荒木は実は、大久保見習士官の兄で、以前は優秀な軍曹だったのだが、北京の軍病院に入院中に弟の死を知り、脱走して真相究明と敵討ちのために、将軍廟、そして独立第90小哨にやってきた。殺害された大久保士官は大隊で行われていた不正を上層部に訴えようとして殺害された。殺害したのは、大隊を牛耳っていた副官の橋本中尉と彼の配下の下士官だった。彼らは大隊を牛耳るために大隊長も町を取り囲む城壁から突き落として精神に変調をきたさせるということまでやっていた。

 中国軍(中国共産党人民解放軍)の圧力が強まる中で、将軍廟から大隊が撤退となり、独立愚連隊がしんがりを務めることになった。撤退する軍の最後方を守るしんがり(殿軍)はいつの時代も全滅の危険に晒される。そうした中で、大隊が敵と戦闘中に行方不明になっていた軍旗が旗手と共に戻ってきたので、これを守りながら、撤退します。そして、大隊が撤退後に将軍廟を守る。

独立愚連隊は隠れて敵をやり過ごそうとしましたが、ちょっとしたミスで見つかってしまい、戦闘となり、独立愚連隊は数で大幅に勝る敵に圧倒され全滅。しかし、従軍記者・荒木は負傷しつつも生き残り、途中で知り合った馬賊に誘われ、彼らと共に去っていく。この話には従軍記者・荒木と元従軍看護婦の慰安婦・トミとの悲恋も絡む。

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独立愚連隊西へ 
 『独立愚連隊西へ』は『独立愚連隊』の続編です。設定などは大きく変わっている。ここで出てくるのはやっぱりはみ出し者部隊である独立愚連隊。今回の独立愚連隊は、各部隊で戦死と認定された後に帰ってきた兵士たちで構成されている。一度戦死と認定されて、宙ぶらりん状態になった兵士たち。各部隊をたらいまわしにされ、捨て石のような扱いになっているのに、戦死者を出さずにいる不思議な部隊だ。

 この独立愚連隊が新たに配属されることになった大隊では、ある小隊が敵の襲撃を受け、軍旗が行方不明となった。そこで捜索隊を出したのだが、この捜索隊も全滅となった。敵である中国軍も日本軍の意気と権威を下げるために、軍旗を入手しようと動き出す。そうした中で、派遣早々の独立愚連隊が軍旗捜索隊として出動することになった。

 独立愚連隊は途中で中国軍の襲撃を受ける。中国軍には日本軍の元中尉と従軍看護婦がいたのだが、独立愚連隊が2人を連れて捜索を続けることになった。そして小隊の全滅地点の近くで、旗手を発見した。旗手は中国人女性の世話を受けながら捜索隊を待っていた。2人の未来を祝福しつつ、正式には自決ということにして、独立愚連隊は無事に軍旗を入手した。途中で敵からの襲撃を受けながら、何とか無事に帰還を果たしたのだが、独立愚連隊にはまた転属命令が出た。彼らはまたどこかへと去っていく。

 この2つの映画で重要なポイントは「軍旗」だ。軍旗は連隊創設時に天皇から直接与えられた連隊を象徴する旗だ。連隊旗手に選ばれるのはその連隊に所属する少尉だが、士官学校を優秀な成績で卒業した将来有望な人物が選ばれた。実際、大将・中将クラスまで昇進した人物たちには連隊旗手を務めたという経歴が多い。そこから数年勤務して陸軍大学を受験し、合格し、卒業後には陸軍省(軍政)か参謀本部(軍令)の中枢を担うことになった。

 天皇から直接下賜された軍旗は天皇の分身とも言うべき存在であり、何よりも、何を議席にしても守らねばならないものだった。そのために何人将兵が死のうと関係ないという存在だった。連隊が全滅に瀕した際には、軍旗を焼いて(奉焼)、敵の手に渡らないようにした。「独立愚連隊西へ」の冒頭シーンで軍旗を持った小隊が敵に襲われるシーンがあるが、軍旗を掲げている兵士を監督である岡本喜八が演じている。岡本喜八は軍隊経験があり、陸軍における軍旗の存在の重さとたかが旗を天皇の分身として滑稽なまでに守ろうとするフェティシズムのくだらなさ、前近代性をよく分かっていた。

 「独立愚連隊」では現役兵の下士官が補充兵を鍛えるシーンが出てくる。現役兵は感嘆に言えば徴兵されてトレーニングを受けてそのまま戦地に派遣された若い兵隊たちで、補充兵とは徴兵期間を終えて社会に戻り、予備役となっていたところに召集されたおじさんの兵隊のことだ。体力や戦闘力で言えば若い現役兵が圧倒しているのは当然のことだが、補充兵は既に家族と職業を確立しており、昔の言葉で言えば弱兵であった。また、徴兵検査の結果は健康状態や知能の面から甲乙と分けられていたが、戦争が激化していく中でどんどん兵士に不適格な人々も戦地に送られることになった。

 軍隊生活は「階級」がものをいう世界ではあったが、「星の数よりもメンコの数」という言葉もあった。「独立愚連隊」でもこの言葉が出てくる。「メンコ」とは「飯盒」の隠語だ。「階級よりも年数の方が重要だ」という意味になる。徴兵期間で兵隊たちの昇進のスピードは異なる。2年間の徴兵期間に上等兵まで昇進できれば鼻高々で故郷に戻れた。しかし、何か問題を起こした場合には二等兵のまま、もしくは一等兵ということになる。そこで、先輩後輩の間で階級的に逆転が起きる。この「星の数よりもメンコの数」は階級社会である軍隊において年功序列の要素が非公式には存在したことを示す。

 上等兵まで昇進するような人物はそのまま志願して下士官となって軍隊に奉職するケースもあった。軍曹や曹長となれば軍隊に生き字引であり、下級将校よりも実権を握るほどであった。現在の日本の官僚組織ではキャリア組とノンキャリア組という区別があるが、下士官はノンキャリア組ということになる。

日本の軍隊における有名な隠語には「員数をつける」というものがある。これは窃盗のことだ。武器から日用品まで軍から支給されるので、紛失や数が合わないというのは大変な失態となる。そうした場合に、内務班(分隊、10名程度のグループ)では、他の内務班からかっぱらってきて数を合わせるということが横行した。内務班では新兵1人に古参兵1人がペアとなる。新兵は古参兵を「戦友殿」と呼ぶ。軍隊では連隊長は父、小隊長は母、戦友殿は兄という形で、家族的な集団作りが目指されていた。もちろん厳しい私的制裁が横行してとても家族的な雰囲気という訳にはいかなかったが、戦友殿が新兵に時に親切を行うことで絆が生まれることも多かった。ある新兵がへまをした場合には、戦友殿が何とか「員数を合わせる」ということが多かった。

 岡本喜八監督がアメリカ映画から影響を受けたのではないかという描写について私なりに述べたい。それはまず、中国人民解放軍の人海戦術イメージだ。映画の中では、中国軍はとにかく大量の兵士で人海戦術を用いて攻めてくる。こういうことが日中戦争の間にあったのかどうかははなはだ疑問だ。アメリカ映画でのアジアにおける戦争の描き方は無個性なアジア人の兵士たちが命を顧みずに大量に攻めてくる、というものだ。朝鮮戦争ものやヴェトナム戦争ものはそのように見える。岡本監督もその影響を受けているのではないかと私は思う。

次に銃を墓標代わりに地面に刺しているシーン。日本軍が用いた三八銃には菊の御紋がついている。銃を破損したり、紛失したりしたら大変な罰が与えられた。それが怖くて自殺したものがいたほどだった。そのような銃を地面に刺して墓標代わりにするということはあり得ない。銃を墓標代わりに地面に刺すというのはアメリカ映画の影響だと私は思う。しかし、これによって戦争の虚しさ、ニヒルな感じは良く表現されてはいるのだが。

この2つの作品「独立愚連隊」「独立愚連隊西へ」は共にエンターテインメントとして見ることもできるが、多少なりとも旧日本軍に関する知識を持ってみるとまた違ったことが見えてくる。戦争賛美ではありえないし、戦争を楽しいものとのしても描いてはいない。登場人物たちが笑うシーンは出てくるが、それは諦めと絶望的な状況を笑うくらいでなければやりきれないということでのことだ。

是非これら2つの作品を見てもらいたい。

(終わり)

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 古村治彦です。

 

 今回は映画『椿三十郎』を見た感想を書きたいと思います。


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椿三十郎 

 映画『椿三十郎』のストーリーは次の通りです。藩上層部の不正に怒りを募らせる若侍たち。若侍のリーダー(加山雄三)は城代家老の甥で、城代家老に処分を訴えるが、うまくいきません。監察である大目付に訴えたところ、彼らと同調するという返事をもらい、喜んでいました。

 

 若侍たちが集まっている古い神社には先客がいました。それは一人の浪人者、椿三十郎(三船敏郎)でした。三十郎は若者たちの話を危険だ、大目付が実はワルなのだと忠告し、やがて参謀役兼助っ人として仲間に加わることになりました。大目付は、側近の室戸半兵衛(仲代達矢)を使い、城代家老を捕まえ、不正の罪を城代家老になすりつけようとします。

 

 若侍たちは三十郎たちに反発しながらも三十郎の慧眼に心服するようになります。最後には城代家老を救出し、大目付をはじめとする藩上層部の不正を暴くことに成功します。城代家老は祝宴を用意しますが、その席に三十郎が居並ぶことはありませんでした。

 

 『椿三十郎』と言えば、ラストシーンの椿三十郎と室戸半兵衛の居合抜きによる対決のシーンが有名です。人間を本当に斬ればあのように血が噴き出すというリアルさを描き切ったのは凄い、の一言です。白黒映画ですが、どす黒い血の感じがよく出ています。黒沢監督の色彩感覚と素晴らしさを改めて感じます。

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 この映画にはチェンジオブペースと言うか、デウスエクスマキナと言うか、そういう役割を果たす人物たちが出てきます。それが城代家老の妻と娘、そして、大目付の配下で若侍側に捕らわれた壮年の侍です。城代家老の妻はおっとりとした性格と行動で(今で言えば空気が読めない)、三十郎や若侍を困惑させますが、その一言は重いものがあります。

 

家老夫人は「良い刀とは鞘に入っているものですよ」という言葉を三十郎に発します。頭が切れて腕も立つ三十郎を一言で評した言葉です。そして、三十郎が最後に若侍に贈った言葉が「鞘に入っていろよ」というものでした。

 

 この映画は若者たちの正義感とその暴走がテーマになっていると思います。戦前の青年将校の暴走と1960年の安保闘争といった日本にとって重要な局面で、若者たちは正義感が強ければ強いほど、暴走して結果として悲惨な事件を起こしたり、状況を悪化させてしまうものです。

 

 城代家老は凡庸な人物として馬鹿にされているところもありますが、藩上層部の不正についてはきちんと把握しており、証拠を集め、この証拠を突き付けて当事者たちの隠居を迫る、という方針を持っていました。城代家老は穏便にかつ怪我人を出さないで事を収めるという大人の知恵を持っていました。しかし、若者たちからしてみれば、このような穏健なやり方は生ぬるく、かつ敵を利するとさえ思われるようなものです。

 

 この映画の主人公である椿三十郎は若い時に、若侍のような正義感でもって不正を正そうとして、大きな騒動を引き起こしてしまった、という苦い経験と傷を持っている、老革命家のように思われます。若者たちが道を踏み外して自分のようにならないように、という姿勢を貫いているかのようです。

 

 ラストシーンで、居合で室戸半兵衛を斬った三十郎に対して、若侍が「お見事」と声をかけたことに対して、「馬鹿野郎」と怒鳴ったところも印象深いです。三十郎はこれまでにも何十人も斬ってきたことでしょうし、映画の中でも何人も斬っています。しかし、人間を斬ってしまうというのは下策であって、褒められたものではない、ということもあって怒鳴ったのでしょう。

 

これはまた、若者にありがちな「頭でっかちな」言葉遣い、地に足がついていない実感のない空虚な言葉遣いに対するメタファーということも言えるでしょう。60年安保や学生運動に参加した若者たちが聞きかじりのマルクスの言葉を振り回していたことに対する皮肉ということになるのでしょう。1962年公開の映画ですから、60年安保が沈静化していく中で、黒澤監督が時代の雰囲気をとらえて撮影したのが『椿三十郎』ということになるでしょう。

 

 スピード感のある映像と展開で見ていて大変面白い映画です。

 

(終わり)

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 古村治彦です。

 

 今日は先日見た映画『ブルークリスマス』の感想を述べます。私の友人に映画隙の人がいて、私が岡本喜八監督に興味があると言うと、DVDを貸してくれました。私は映画をあまり見てこなかったのですが、岡本喜八監督の映画『大誘拐』を中学生だったか、高校生だったかの時期に見て面白かったので、岡本喜八監督について興味を持っていました。この他にも『独立愚連隊』「独立愚連隊 西へ」という映画のDVDも借りましたので、これらも見てまた感想を書きたいと思います。

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ブルークリスマス [DVD]

 映画『ブルークリスマス』は大変面白い映画でした。コメディでもハッピーエンドでもないので、「楽しい」と書いてよいのかは分かりませんが、いろいろと考えてしまう映画でした。

 

 映画の内容は次の通りです。ある日、世界各地で文字通り青い血液を持つ人々が出現し、その数が増えていく現象が確認されました。これは宇宙船、UFOを目撃し、それから発せられる光を体に浴びて出てくる現象でした。当初は荒唐無稽の噂話として広がっていき、非現実的だ、非科学的だとして打ち消されますが、やがてそれが本当だということになります。

 

 人類の中に青い血液を持つ人たちが出て来ていることを報告した宇宙科学を専門とする兵頭博士(岡田英次)は失踪し、その事件を追う国営放送JBCの報道局員南(仲代達矢)は奇妙な出来事に遭遇し、真実を知りながら、それを発表出来ないことになります。

 

 国防庁の特殊部隊員である沖(勝野洋)は、職務として、青い血液となってしまった人々を監視し、かつ、その真実を暴こう、拡散しようとする人々を弾圧し、最悪の場合には殺害していきます。

 

 世界各国の指導者たちは、青い血液を持つ人類が少数派のうちに抹殺することを決めます。宗教やイデオロギー、国家体制の違いを超えて、この点で一致団結します。日本でも全国民に血液検査が実施され、青い血液を持つ人々は隔離され、強制収容所に送られます。それに反対する人たちもいますが弾圧されます。

 

 沖は冴子(竹下景子)と恋に落ちます。不器用ではあるが誠実な沖と冴子は合いを深めますが、不幸な結末を迎えてしまいます。

 

 映画では、青い血液を持つようになってしまった人々は、イライラもなく、過度の競争心や嫉妬心を持たなくなり、穏やかな性格になると描かれています。ただ、血液が青くなってしまっている、ということだけです。映画では血液が青い生物としてイカが紹介されており、それは人類の血液には鉄分が含まれているのですが、それがイカの場合は代わりに銅が含まれており、そのために血液が青くなるということも説明されています。

 

 この映画を見ての感想ですが、まずは、真実とは何かということを追いかけるはずの科学と報道という2つの分野が機能しないということです。科学の場合には、「宇宙人であるとか宇宙船などというものは存在しない」という前提から宇宙船からの光を浴びた人が青い血液を持つということを税所否定しますが、じわじわとそれが広がっていくと、今度は実験(観察)の対象、実験材料とし、そのために非人道的な取り扱いをします。報道はその変わった話に飛びつきますが、やがて上の存在から口止めされ、そして最後には協力してしまう、口を閉ざした時点で協力していることになります。

 

 真実について語り、人類のために奉仕すべき分野である科学や報道が実際には時の権力に奉仕し、人道に反する行為を行った例はこれまでの歴史でも見られることですが、この映画でもそのことが描かれています。ですから、科学や報道に従事する人たちも、私たち受益者、受け手も不断の点検が必要になるということだと思います。

 

 青い血液となってしまった人々は血液以外にはそれまで通りであり、極めて普通の人間です。そして、心が穏やかになり、嫉妬心や競争心がなくなります(これは一種の麻薬のメタファーでもあると思います)。しかし、少数派であるこの人々は、多数派である赤い色の血液を持つ人々にとっては不安材料です。今のところは無害(それまでも無害で外見上は変わらないのですから当たり前です)ですが、これからどうなるか分からない、ということに、世界各国の権力者たちは大きな不安を覚えます。

 

 そして、最後には強制収容を行います。それに対して、「やり過ぎではないか」「人権侵害ではないか」という当然の反対意見も出ます。それを抑えるために、青い血液を持つ人々は、暴力蜂起を行う、それは宇宙人に唆されたからだ、という主張を流し、かつ、最後には、そのようになった青い血液を持つ人々は、人類ではない(人類の定義は赤い血液を持つ)ので、人権などなく、抹殺対象になるのだというところまで進み、この映画の悲劇的な最後につながります。

 

 この映画は1978年に公開で、映画の設定もそれくらいの年になっています。そして、1980年には青い血液を持つ人々の人口は全世界で2億人弱くらいにまで増えると予想されています。政府機関や報道機関の上層部は、青い血液を持つ人々について最初は、なにも迫害までしなくても良いではないか、と考えますが、職務上の命令のために、最後は非人道的な行動を部下に命令することになります。ここのプロットは、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺のメタファーと言えるでしょう。

 

 私はこの映画を見ながら、「人間的」とはどういうことかということを考えました。青い血となってしまった人々は偶然からそうなってしまいました。そして、穏やかで他の人たちを争わない性格になりました。私はこの部分を世界の指導者たちは危惧し、そのような人たちを抹殺することに決めたのだろうと思いました。

 

穏やかで、人と争わないというのは素晴らしい性格ですが、それでは現代社会は崩壊してしまいます。よりおいしいものを食べたい、より高い洋服や時計、装飾品を身に着けたい、より立派な家に住みたい、といったことは、他人に見せびらかしたい、羨んで欲しいという気持ちが原動力です。逆に言えば、そのようになりたいという気持ちから人間は他人と競争もするし、少々ずるいことをしても他人を出し抜こうとします。そうして大量生産・大量消費の大衆社会が維持されます。資本主義体制も、そして社会主義体制もそうして動いています。

 

 しかし、青い血液を持つ人々は、そのシステムにとっては邪魔になります。そのような人たちは自分で満足していればそれで良いし、他の人たちを羨まないのです。それは人間にとっては一つの理想形ですが、逆の面から見れば、「人間的ではない」ということになります。そして、自分と違う(と思われる)存在に対しては、どこまでも冷酷になれる、ということがこの映画の中で描かれている「人間らしい」行動となっています。青い血液を持つ人々は、赤い血液を持つ人、青い血液を持つ人、どちらの血も流させない存在ですが、赤い血液を持つ人々は、赤い血液を持つ人、青い血液を持つ人、両方の血を流させる存在です。

 

 この映画の題名についている「ブルー」ですが、映画に出てくる青い血液の「青」と「陰鬱な」「気持ちが盛り上がらない」状態を示す「ブルー」がかかっています。悲劇的なラストシーンがクリスマスイヴの日ですから、まさにブルーなクリスマスということになります。見終わればブルーになってしまう映画ですが、私たちが生きる現代を考える上でも参考になる映画だと思います。

 

(終わり)

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