古村治彦です。
アニメ以外の日本映画の久々の大ヒットとなったのが、李相日監督の『国宝』だ。歌舞伎の世界を舞台にして、豪華なキャストと美しい映像もあり、大ヒットとなった。『国宝』はアメリカでも公開され、第98回米アカデミー賞のメーキャップ&ヘアスタイリング賞にノミネートされた。外国語長編映画部門のノミネートがなされなかったのは残念なところだが。
歌舞伎の世界については、私は一般的な知識しかないが、家柄、血筋を非常に重んじるところは興味深い。しかし、同時に、一般的な家庭出身でも、養子などになって大看板になっていく俳優がいることも知っている。伝統芸能の世界については、落語の世界を少しだけ、覗かせてもらっているが、正解のない世界であり、一種の狂気がなければ観客を惹きつけられない世界である。
下記論稿は、アメリカ在住の作家による『国宝』の映画評である。興味深い部分は、「この内部の人間と外部の人間(insider and outsider)、後継者と新参者(legacy heir
and newcomer)の間の緊張関係は、日本が抱える、国家として変化を受け入れるべきか、それとも伝統に固執すべきか、というディレンマと、明らかに共通点を持っている」という部分である。映画『国宝』を見た観客の多くがこの問題意識を得たかどうかは分からないが、「外側からの」「一種の厳しい」視点を持っている知識人はこのように見るのかと驚く。
伝統か、変革かという二分法(dichotomy)の視点を持っている、下記論稿の著者クームスに欠けている視点があるとすれば、それは、「伝統を守るために変化していく」という弁証法(dialectic)における「正(thesis)」「反(antithesis)」「合(synthesis)」の「合」である。伝統芸能は時代に合わせて変化していかなければ生き残っていけない。『国宝』では、新参者の喜久雄は「血(家系、家柄)が欲しい」と懊悩し、俊介から「お前には芸があるやないか」と励まされる。新しい血や要素を入れることで、伝統芸能は変化している。
私は、佐藤先生との共著『世界覇権国
交代劇の真相』(秀和システム、2024年)のあとがきで、落語協会の二階の広間に飾られている、「守破離」という言葉を紹介したが(佐藤先生が「型がなければいけない」ということでこの言葉を使われたのに触発された)、「型を嫌と言うほど叩きこんでおいて、そこから離れる」ということが伝統芸能の神髄である。
国際情勢においては気が重い状況が続いている。少し趣の異なる論稿をご紹介することでチェンジ・オブ・ペーストしたい。
(貼り付けはじめ)
日本のアイデンティティ危機を捉えた大ヒット作(A Blockbuster
Captures Japan’s Identity Crisis)
-『国宝(Kokuho)』は変化の渦巻く日本について巧妙な施策を提供する。
ニナ・リー・クームス筆
2026年2月20日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2026/02/20/kokuho-review-japan-movie-film-oscars-nomination-makeup/
日本は、多くの先進民主政治体制国家と同様に、国民的アイデンティティの危機に瀕している。極右勢力(the far right)は長年にわたり台頭し、反移民感情(anti-immigrant
sentiments)は高まっている。人口危機(population crisis)は人口構成の逆三角形(inverted demographic triangle)を生み出し、高齢者は無期限に働き続け、同時に若者の権利を奪っている。
これらをまとめて考えると、どうしても、かすかに繰り返される音が聞こえてくるように感じざるを得ない。それは、「これら全ての中で、日本とは一体何なのか?
かつて日本は何だったのか、そして未来の日本はどうなっていくのか?」という音だ。
李相日監督は、2018年に吉田修一が発表した小説を原作として、歌舞伎の世界を舞台にした素晴らしい時代劇『国宝』の中で、これらの問いを驚くほど優雅に描き出している。本作は、実写版日本映画史上最高の興行収入を記録している。決して低予算で制作された訳ではないが、『国宝』の人気は、マーケティング的なスペクタクルよりも口コミによる絶賛によって支えられているようだ。ストリーミングで親しむZ世代から、何年も映画館に足を運んでいなかった年配の観客まで、幅広い層を惹きつけている。
『国宝』は美しく、見事な演技も注目されるが、観客をこの映画に惹きつけたのは、もっと深い何かがあるのは明らかだ。私の考えでは、まさにこのアイデンティティへの問い、つまり現代日本のムードを反映した問いこそが、『国宝』をこれほどまでに魅力的なものにしている。これは、国家が自らをどう捉えるかを瞑想した作品であり、形を変え続ける国家を背景に、自己意識を勝ち取ろうとする2人のまったく異なる若者の人生を通して語られる。
この映画のストーリーは極めてシンプルだ。1960年代の日本を舞台に、長崎のヤクザ一家の跡取り息子である喜久雄が父親の殺害で全てを失う様子が描かれている。大阪の歌舞伎座の当主である花井半次郎の目に留まった喜久雄は、長崎を離れ花井家に身を寄せ、半次郎の下で歌舞伎役者を目指して修行する。半次郎にも跡取り息子の俊介がおり、彼はすぐに喜久雄の親友、そしてイヴァルとなる。喜久雄と俊介は、半次郎の承認と、歌舞伎を見に訪れる一般大衆の支持を巡り、養子縁組した兄弟の間で数十年にわたる後継者争いが繰り広げられる。
この内部の人間と外部の人間(insider
and outsider)、後継者と新参者(legacy heir and newcomer)の間の緊張関係は、日本が抱える、国家として変化を受け入れるべきか、それとも伝統に固執すべきか、というディレンマと、明らかに共通点を持っている。
しかし、『国宝』は、ヤクザという傷がある過去を持つ弱者の喜久雄と、歌舞伎一門のプリンスの俊介の2人に、深みと人間味を与えている。2人にはそれぞれ歌舞伎の伝統の中で成功を目指す理由があり、それぞれに欠点や失敗を抱えている。この映画があらゆる世代に受け入れられたのも不思議ではない。それは、伝統に縛られた人生と、斬新さ、型や固定観念を打ち破ることに身を捧げた人生の両方を、共感を呼ぶ形で描いているからだ。
これがどれほど稀なことかを考えてみよう。ほとんどの映画は、最終的に外部の人間か内部の人間のどちらかに忠誠を誓う。観客として、私たちは、既存の業界に飛び込む愛すべき弱者、どちらのフォークを使うべきか分からずともプリンスの心を掴むシンデレラを応援したくなる。あるいは、家業を守ろうと、新参者の悪意ある干渉から身を守るべく奮闘する、苦境に立たされた主人公を応援することになるだろう。新参者は、望まれざる新しさ、伝統の尊厳からの歓迎されない逸脱を象徴するような人物だ。『国宝』はこうした二分法(dichotomy)を拒絶する。変化を象徴する漫画に出てくるような典型的な悪役も、弱者の感傷的な戴冠式も存在しない。
李監督は自身の作品をアイデンティティに基づいて解釈することを否定しているが、まさに彼の生い立ちがあったからこそ、外部の人間と内部の人間の感情の風景をこれほどまでに共感的に描き出す((empathetically portrays)映画を作ることができたのだと私は考えている。李は在日コリアン、つまり民族的にはコリアンであり、日本で生まれ育ち、歴史的に完全な帰属意識を持つことを拒絶されてきた集団の一員である。在日のコミュニティは、日本の植民地支配下での強制移住から生まれ、組織的な虐待、排除、抑圧を受けてきた。(在日コリアンの経験を包括的に描いたフィクションとして、批評家から絶賛された、ミン・ジン・リーの小説『パチンコ』を推薦する。)
もちろん、記録的な数の観客を映画館へと駆り立てているのは、アイデンティティ政治(identity
politics)だけのことではない。この映画は、撮影監督ソフィアン・エル・ファニ(『アデル、ブルーは熱い色[Blue
Is the Warmest Color]』での撮影監督としても知られる)が作り上げた、並外れて緻密な映像言語を備えている。エル・ファニと李は共に、歌舞伎の鮮やかな色彩と動きと同等の細やかな配慮で、悲しみ、狂気、そして葛藤(heartbreak, madness, and struggle)といった繊細な情景を捉えている。
長崎の雪景色の中、ヤクザたちが新年を迎える様子、青灰色の光に照らされ、参加者たちの豪華な着物に映えるという、冒頭のシーンから、この映画は視覚的な饗宴(a visual feast)となる。迫りくる闇を背景に、温かみのある室内の灯りは、これから起こる暴力の予感を漂わせている。衣装(小川久美子がデザインした豪華な着物と軽やかな浴衣)だけでも、それぞれが論評に値する。それぞれの衣装は、人物の身分と季節を完璧に反映している。
この世界で、キャスト陣は絶妙で見事な演技を披露している。欧米諸国の観客は、渡辺謙を、歌舞伎一門の花井家のドンであり、徐々に作中で最もわがままなキャラクターの一人として姿を現していく、繊細で多層的な役柄だと認識するかもしれない。喜久雄役の吉沢亮と、花井家の跡取り息子である俊介役の横浜流星は、歌舞伎の修行を1年半受けた。彼らは、幼少期に始めることが多い歌舞伎という芸術形式において、その期間がいかに不十分かを理解するには十分な期間だと述べている。その緊張感と畏敬の念はスクリーンに表れており、彼らの演技は歌舞伎という芸術形式の重大さを理解している。
もしこの映画に失敗点があるとすれば、それは女性キャストの演技を見落としている点だろう。3時間近くにわたる長編映画だが、男性主人公の感情の旅に過剰に焦点を当て、この伝統によって人生が大きく形作られてきた女性たちを疎外しているように感じ、時折不満を感じた。脚本には原作からもう少し手本を引用し、喜久雄、俊介、半次郎の人生を彩り、突き動かす女性たちに豊かさと深みを与えて欲しかった。半次郎の妻、幸子を演じるのは、自身も名だたる歌舞伎役者の家系出身の寺島しのぶという素晴らしい俳優だが、その能力が犯罪的なほどに活かされていなかった。
1960年代から2010年代までを舞台にして、本作は壮大なスケールで、半世紀にわたって日本が様々な形で、進化し、成熟していく軌跡を目の当たりにする。物語は第二次世界大戦後、日本がまだ未成熟で、復興途上にあり、目覚ましい経済成長の道を歩もうとしていた頃から始まる。物語の終盤には、1980年代のバブル経済の期待とそれに続く「失われた10年」の停滞を経験し、2000年代の国民的倦怠感へと歩みを進めていく。
それでは、『国宝』は、日本の過去、現在、そして未来について何を語りかけているだろうか? 本作の詳細を明らかにすることなしに、本作はタイトルについて深く考察する場面で締めくくられている。タイトルである「国宝」は、文部科学省が日本の伝統芸能や工芸の継承に尽力する優秀な人材に与える「人間国宝(living national treasures)」のことを指す。
未熟な腕を持つ者であれば、この称号は端正な終着点として機能するだろう。つまり、生きた国宝として、外部の人間は疑いようのないほどの内部の人間となり、伝統は変化に打ち勝ち、同化(assimilation)が何よりも尊ばれる。
ありがたいことに、李はその誘惑に打ち勝った。映画のクライマックスでは、俊介と喜久雄は共に認められるが、それは計り知れない個人的な犠牲を払った上でのことだった。人間関係は断ち切られ、愛情は犠牲になった。国宝となるために自己を失う価値があるのか、文化を守るために人間らしさを捨てる価値があるのか、つまり、精神の寛大さ、私たちの互いの繋がり、偉大な芸術作品に出会った時に人の魂が認めることによって震えるものは何であれ、それを手放す価値があるのか、国宝は問いかける。

東京の映画館の外で日本映画『告白』のポスターの前を歩く女性(2025年9月4日)
映画が終わり、幕が下りる。観客は瞬きをしながら太陽の光の中へと足を踏み出し、周囲の現実世界、そして今の日本について思いを巡らせる。指導者たちが中国に対して威嚇を続ける中、戦争の兆しは近いのだろうか?(As its leaders engage in saber-rattling against China, is war on the
horizon?) 右傾化(to drift rightward)が進み、国の労働力として不可欠な移民の居住許可の道が閉ざされる中、誰がこの国を故郷と呼ぶことができるのだろうか?
そして、他の先進諸国が同性婚を合法化する中、日本は同性カップルを認める日は来るのだろうか? それとも、既婚女性が夫と異なる姓を名乗れるかどうかといった、古臭い問題を永遠に繰り返し議論し続ける運命にあるのだろうか?
これらの問いに取り組むことは、あまりにも過大な負担に感じられるかもしれない。あるいは、これらの問い自体があまりにも大きすぎるのかもしれない。
そこで李は観客にポケットに入れて持ち運ばせるために『国宝』を手渡した。まるでこう語りかけるかのように。「ここから始める。私が皆さんのために作った宝石箱、演劇と芸術の世界について考えてみて欲しい。この舞台の上で、所属すること、国家の宝であることの意味、そしてかつてのものに固執しすぎることで何を失う可能性があるかを考えてみて欲しい」。
※ニナ・リー・クームス:シカゴ在住の作家。
(貼り付け終わり)
(終わり)

シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体

『トランプの電撃作戦』

『世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む』






