古村治彦です。
2025年11月21日に『シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体』 (ビジネス社)を刊行します。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体
最新刊の刊行に連動して、最新刊で取り上げた記事を中心にお伝えしている。各記事の一番下に、いくつかの単語が「タグ」として表示されている。「新・軍産複合体」や新刊のタイトルである「シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体」を押すと、関連する記事が出てくる。活用いただければ幸いだ。
サミュエル・ハンティントンの主張した「諸文明間の衝突(Clash of Civilizations)」論は、発表してから数年後に、911同時多発テロ事件が発生して注目を浴びた。中華文明と西洋文明の対立ということは、現在の「西側諸国(the West)対それ以外の国々(the Rest)」にもつながる。
しかし、世界はそれほど単純ではないというのが下に掲載した論稿の主張だ。世界をこのように単純に切り分けることはできない。様々な文明や文化はお互いに重なり合い、影響を与え合い、発展している。こうした多様性を無視した議論は排外主義に陥る。そうした排外主義が衝突を生み出し、最悪の場合には戦争に至ることもある。排外主義を克服することこそが文明的な営為である。しかし、世界の多くの地域で、このような文明的な営為が後退している。
サミュエル・ハンティントンが「日本文明」という言葉を使ったことで、「日本は凄いんだ」「日本は偉いんだ」という主張がなされるようになった。しかし、下に掲載した論稿には次のように書かれている。「これは、本書が1990年代初頭に執筆されたこと、当時日本が台頭する超大国として広く認識されていたことによる副産物である(a byproduct of the book being composed in the early 1990s, when
Japan was widely perceived as a rising superpower)」。これは言い換えるならば、1990年代初頭の日本は世界第2位の経済大国として台頭しており、サーヴィスで1つの文明としてハンティントンは取り扱ったが、現在からみれば、これは現実に即していないということである。1990年代前半の日本の世界のGDPに占める割合は現在の中国と同じ程度で(17%程度)、アメリカにとっても脅威であった。一人当たりのGDPも高かった。それから30年後、日本は世界第5位、GDPの割合は5%程度、必然的に一人当たりのGDPも下がり続け、先進国のレヴェルからずり落ちてしまうところに来ている。「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉もあるが、日本が貧乏になってしまって、「日本文明」という言葉も「茶番」のような扱いになっている。日本の文化が海外の人々から好かれているということとは根本的に別の話だ。日本は文明ではない。文明は社会システム、文化は生活様式を指す。日本は中華文明の1つの形態(社会システム)でしかなく、それは数千年前からそうだったということだ。生活様式は環境に合わせて独自の変化を遂げている。しかし、朝鮮半島や中国と似ている部分も多い。
(貼り付けはじめ)
文明の衝突を売り込む方法(How to Sell a Clash of
Civilizations)
-サミュエル・ハンティントンの有名なテーゼの矛盾は同時にその力でもある。
ニック・ダンフォース筆
2025年6月27日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2025/06/27/samuel-huntington-clash-of-civilizations-civilizational-state/
サミュエル・ハンティントンの『文明の衝突と世界秩序の再構築』は1996年の出版以来、世界的な影響力を持ち、ワシントンから北京に至るまでの指導者たちに引用されている。ハンティントンの主張は、彼が定義する世界の主要文明、すなわち文化、宗教、人種のカテゴリーが混在する文明間で、地政学的な紛争がますます増加するというものだ。批判者たちが指摘するように、ハンティントンの主張はナンセンスだ。
ハンティントンの思想は、彼の文明概念は全く首尾一貫しておらず、混乱していて、「曖昧(mushy)」であり、世界紛争の断層線(fault line)を意味のある形で説明できないと主張する人々から激しく批判され、嘲笑されてきた。しかし、もしかしたら、それがハンティントンのポイントなのかもしれない。
シリア内戦やロシアのウクライナ侵攻といった近年の主要紛争が、ハンティントンの文明区分間のものではなく、その内部で発生したというだけではない。区分自体が地図上に点在している。イスラム教やヒンドゥー教といった文明は広範な宗教的アイデンティティを持つ一方、正教(キリスト教の一派として)は独自のアイデンティティへと昇華されている。一方、東アジアは、中国文明、仏教文明、そして単に日本文明という、曖昧な形で分断されている。これは、本書が1990年代初頭に執筆されたこと、当時日本が台頭する超大国として広く認識されていたことによる副産物である(a byproduct of the book being composed in the early 1990s, when
Japan was widely perceived as a rising superpower)。
最後に、「アフリカ」という広義の区分は、粗雑な地理的カテゴリーであると同時に、さらに粗雑な人種的カテゴリーを想起させる。政治学者アンジャリ・ダヤルが指摘するように、ハンティントンの文明は、ボルヘスが架空の中国百科事典で描いた動物の想像上の区分に少し似ている。「(a)皇帝の所有物、(b)防腐処理された、(c)飼いならされた、(d)乳飲み豚…(k)極細のラクダの毛の筆で描かれた、(l)などなど・・・」である。
残念ながら、支離滅裂な概念も、誤った解釈をすれば強力な概念となり得る。ハンティントンの区分の曖昧さこそが、紛争を政治的目的に沿うように枠組みづけるためのレトリック技法として最適である。人間の文化は複雑で絶えず変化しており、宗教、芸術、言語、歴史、そしてイデオロギーといった無数の繋がりが重なり合って成り立っている。
文明に関するレトリック(civilizational rhetoric)は、評論家や政治家に、この構造を切り刻み、自らのアジェンダに最も適した方法で作り変えるための柔軟性を与えている。ある日、ロシアは西洋に挑戦するスラブ国家であった。次の日、ウラジーミル・プーティンはキリスト教文明を多くの敵から守っている。西洋では、人種差別的な恐怖がイデオロギー的な恐怖へと再構成され、ハンティントンの冷戦後の世界では、文明の分断(civilizational divides)として再構成された。黄禍論(Yellow
Peril)は赤い中国(Red China)へと、そしてそれは「中国的」世界(“Sinic” world)へと変化した。かつて私たちは常に東アジアと戦争状態にあったが、今や東アジアは常に私たちの文明の敵(civilizational foe)となっている。
文明に関するレトリックの柔軟性は、他にも利益をもたらす。それは、「西洋文明(Western
civilization)」を守ることに尽力する連合を維持し、西洋を根本的に世俗的(secular)と考える人と西洋を根本的にキリスト教的(fundamentally Christian)と考える人を結びつける一方で、西洋を根本的に白人的(fundamentally white)と考える人を庇護してきた。
そして、この柔軟性(malleability)こそが、ロシア、中国、インド、トルコといった国々が自らを「文明国家(civilizational states)」として再ブランド化することで、ナショナリズムを一段と高めることに役立ってきた。
文明の曖昧さは、その言葉自体の進化に端を発している。当初は、他社会にも自国の下層階級にも適用できる、普遍的な洗練の基準を指していた。しかし、時が経つにつれ、文明は独自の伝統や価値観を持つ個別の文化単位を指すようになった。ゲーム「シヴィライゼーション」で最もよく表現されているこの概念は、多様な文化を名目上は平等であるかのように提示していた。
しかし、この概念は階層構造から完全には逃れられなかった。文明という用語で語る人々は、ほとんどの場合、自分たちの文明が道徳的または技術的に最も進歩していると考える。一方、他の文明は富や地政学的な力によって順位付けされる。また、ゲームのように、たとえ文字や建築のモチーフが異なっていても、全ての文明は最終的に西洋が開拓した道を辿ると考える人も多くいる。
必然的に、文明の中には他の文明よりも文明化されたものがある。1893年の教室の地理図に描かれたこの美しいイラストを考えてみよう。文明は尖塔で築かれるかもしれないし、パゴダや玉ねぎ型のドームで築かれるかもしれない。しかし、尖塔のある文明は前面に出て、工場がたくさんあるように見える。
こうした根深い排外主義(chauvinism)のおかげで、自国の優位性に絶対的な自信を持ち続けながら、異なる文明を行き来することが容易になる。とりわけプーティンは、この点を巧みに利用している。プーティンはウクライナ侵攻を正当化するためにロシア文明という概念を持ち出したことで悪名高いが、これは彼が用いる数多くの文明の組み合わせの1つに過ぎない。ロシアは、ギリシャへの働きかけで強調されているように、正教文明の守護者(the defender of Orthodox civilization,)であり、セルビアへのロシアからのアピールの定番であるスラブ文明の守護者(the defender of Slavic civilization)でもある。
もちろん、プーティンの野望はこうした限定的な文明的アイデンティティをはるかに超えている。広く報道されているように、ロシアは共通のキリスト教文明的アイデンティティを掲げることで、欧米諸国の右翼運動や福音派運動(right-wing and evangelical movements)に浸透してきた。2013年にプーティンは次のように述べたと伝えられている。「ヨーロッパ大西洋岸諸国の多くは、西洋文明の基盤を構成するキリスト教的価値観を含め、自らのルーツを実際に拒絶している。彼らは道徳的原則、そしてあらゆる伝統的アイデンティティ、すなわち国民的、文化的、宗教的、そして性的アイデンティティさえも否定している」。
イスラム教徒が疎外感を抱かないように、ロシアの文明に関するレトリックは彼らにも通じるものがある。ロシアの外交官たちは、西側諸国では西洋文明のキリスト教的ルーツを擁護する一方で、トルコにおいては共通のユーラシア的アイデンティティを訴えてきた。ユーラシア的価値観の文化的・歴史的基盤は、ステップや強大な国家といった漠然としたものになりがちだが、西洋の覇権に対する共有された敵意(a shared hostility toward Western hegemony)の中にその根拠を見出す。
トルコは、文明に関するレトリックの矛盾した可能性を受け入れてきたもう1つの国である。オスマン文明の継承者を自称するトルコは、国内では民族的・宗教的ナショナリズムを一層強化しつつ、世界に対してはより包括的な姿勢を示すことができる。例えば、911事件の余波で、トルコとスペインは協力して文明同盟(the Alliance of Civilizations)を立ち上げ、アル・アンダルスとオスマン帝国の異宗教間の遺産を称賛したが、1492年や1915年の壊滅的な宗派間の暴力については一切触れなかった。
同様に、イスタンブールは2010年のヨーロッパ文化首都(European
Capital of Culture)に立候補し、歴史的な教会、シナゴーグ、モスクを多数紹介する洗練されたビデオを作成した。そして選出された後、レジェップ・タイイップ・エルドアン政権は付随する助成金をモスクの修復のみに充てた。
こうした機会主義的な再構成(opportunistic reframings)は全く新しいものではない。歴史上の帝国はしばしば複数の形で自らを定義してきた。清帝国は、チンギス・ハンの遺産の継承者、東南アジアの人々にとっては「転輪王(wheel-turning king)」に率いられた仏教王朝、そして、中国本土においては儒教の伝統の継承者という立場を同時に主張することができた。オスマン帝国もまた、イスラム教の「カリフ(caliph)」と「ローマ皇帝(Caesar of Rome)」に加えて、中央アジアにおける「カーン(khan)」の称号を主張した。さて、このゲームの文明版は、支配者自身を超えて、その時点で最も強力または有用であるアイデンティティの観点から国全体を左右するようになった。
実際、「文明国家(the civilizational state)」の台頭が盛んに喧伝されているにもかかわらず、この用語はより排他的な形態のナショナリズムを推進する人々によって用いられる傾向がある。例えば、インドを「文明国家」と宣言する与党インド人民党(Bharatiya Janata Party)の指導者たちは、現代インド文化に貢献する多様な宗教的・言語的影響を称賛しようとしている訳ではない。それどころか、彼らはヒンドゥー至上主義を優先するために、その多様性を意図的に排除しようとしているのだ。
ヨーロッパとアメリカ合衆国では、「西洋文明」という概念が、対立する文化的排外主義(cultural
chauvinism)を融合させる一因となってきた。この旗印の下、イスラム教徒の統合を啓蒙主義の世俗主義への脅威(a threat to Enlightenment secularism)と非難する新無神論者は、イスラム教徒の移民を十字軍の新たな戦線と見なすキリスト教原理主義者と結束する可能性がある。啓蒙主義やキリスト教の実際の歴史に特に関心がないのであれば、キリスト教は常に他に類を見ないほど世俗的であったと主張することで、この矛盾を解消しようとすることもできるだろう。あるいは、実際には白人について口に出さずに白人について語ることが本当の目的なら、スティーヴ・キング元下院議員が「他人の赤ん坊で私たちの文明を取り戻すことはできない」とツイートした際に念頭に置いていた「西洋文明」の犬笛ヴァージョン(dog-whistle version)に頼ることもできる。
究極的に言えば、文明に関するレトリックは、公然と受け入れることが歴史的な複雑性を伴う国々にとって、新たな形の民族ナショナリズムを提供する。例えば、人種のるつぼイデオロギーを持つアメリカ合衆国(the United States with its melting pot ideology)、対立する各国のナショナリズムを抱えるヨーロッパ連合諸国(European Union states with their rival nationalisms)、共産主義に触発された多国籍国家構造を持つロシアと中国(Russia and China with their Communist-inspired multi-national state
structures)、多様なポスト植民地主義の遺産を持つインド(India with its diverse
post-colonial inheritance)、そしてナショナリズムが伝統的に世俗的であったトルコ(Turkey,
where nationalism was traditionally secular)などである。今や、文明という名のもとで、これら全ての国々のナショナリストたちは、自らが好む言語的、宗教的、文化的アイデンティティ(their preferred linguistic, religious, and cultural identities)を何の弁明もなく祝福することができる。
「西洋文明(Western civilization)」は、その最も熱心な主導者たちにとって様々な意味を持つが、「西洋民主政治体制(Western democracy)」を意味することはあまりない。実際、これらの国々において、文明という概念を最も熱心に受け入れてきたのは、包括的民主政治体制を明確に拒否する人々であった。この用語自体は、やや時代錯誤的で、やや階層主義的であり、20世紀リベラリズムの普遍的な志向とは正反対である。むしろ、驚くほど再現性の高い権威主義モデル(surprisingly replicable model of authoritarianism)に、各国特有の解釈を与えている。
この意味で、ハンティントンの文明区分を地図上に表したり、その矛盾を指摘したりすることは本質を見失っている。文明の観点から見ると、どこに線を引くかよりも、線を引くという行為そのものが重要だ。狂信的排外主義(chauvinism)、これこそがポイントなのである。
※ニック・ダンフォース:『フォーリン・ポリシー』誌副編集長。Xアカウント:@NicholasDanfort
(貼り付け終わり)
(終わり)
シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体

『人類を不幸にした諸悪の根源 ローマ・カトリックと悪の帝国イギリス』

『トランプの電撃作戦』

『世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む』











