古村治彦です。
先日、江沢民(1926-2022年、96歳没)国家主席中国の国務院総理(在任:1998-2003年)を務めた朱鎔基(1928-2026年)が97歳で亡くなった。朱鎔基は1950年代にテクノクラートとなり、大躍進運動や文化大革命の時期には左遷、下放され苦しい時代を過ごし、鄧小平に見出され、改革開放政策を推進した。改革開放を推進しながら、同時に汚職に対する厳しい姿勢を示し、「100個の棺桶を用意しろ、1個は自分の分だ、残りはお前らの分だ」という厳しい啖呵を切った姿を覚えておられる方も多いだろう。
中国を現在の地位まで引き上げた改革開放政策の主任設計者は鄧小平(1904-1997年 92歳没)だった。1979年に始まった改革開放政策は、1989年の天安門事件で頓挫しかけたが、その後、1992年に鄧小平が南巡講話を行い、路線が堅持された。1990年代から2000年代にかけての改革開放の成功は朱鎔基の剛腕に負うところが多い。
先日、このブログでもご紹介したが、中国の正式な時代区分は、革命→社会主義建設→改革開放ということになっている。習近平時代に入って、改革開放期間は1979年から2012年ということになり、習近平が国家主席就任してからは「新時代」と規定されている。習近平時代の改革は以下のように規定されている。
(引用貼り付けはじめ)
今日の中国における改革には一連の「条件」や「前提」が伴っており、それらは実際には改革そのものよりも重要視されている。つまり、共産党の指導(CCP leadership)、質の高い発展(high-quality
development)、共同富裕(common prosperity)、技術面の自立(technological self-reliance)、サプライチェインおよび産業チェインの安全保障(supply-chain and industrial-chain security)、国内循環戦略(the domestic circulation strategy)、新たな質の生産力(new
quality productive forces)、そして発展と安全の調和(coordinating
development and security)といった要素が優先される。まず政治的・安全保障的・国家戦略的な目標が設定され、市場はその枠組みの中で機能することが求められる(Political, security, and national strategic objectives are set
first, and the market is then required to function within the boundaries set by
those objectives)。
(引用貼り付け終わり)
経済の市場志向の改革開放は定着した中で、国家の機能の強化や復活を習近平体制は目指している。これは、中国が新たな段階に進もうとしていることを示している。それは、アメリカとの対等な関係、世界のもう一つの陣営の指導的な立場の超大国としてのふるまいを行うということで、政治と安全保障、国際関係により注意を向けていくということを示している。朱鎔基の逝去は中国の新時代を印象付ける出来事ということになるだろう。
(貼り付けはじめ)
朱鎔基の死去は中国の急進的な改革時代の「終わりの鐘」となる(Zhu Rongji’s
Death Is the Final Knell for China’s Breakneck Reform Era)
-習近平体制下では実質的な変革よりも政治と安全保障が優先されている。
デン・イーウェン筆
2026年8月14日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2026/08/14/zhu-rongji-jiang-zemin-reform-china-xi/

北京で決議案の採決を行う中国の朱鎔基首相(左)と江沢民国家主席(右)(2002年11月14日)
8月17日は、2022年に96歳で死去した中国共産党の元総書記である江沢民の生誕100周年にあたる。在任中、彼は中国指導部の第3世代における「核心(core)」と公式に位置づけられていた。北京ではすでに一連の盛大な記念行事が始まっている。
そして今、江沢民と共に国政を担った朱鎔基もまた、8月12日に97歳で死去した。時期が重なったのは単なる偶然だが、このことは、2人が象徴した「猛烈な勢いで進められた改革の時代(the era of breakneck reform)」の終焉として受け止められている。
江沢民と朱鎔基は、1990年代に政権を担った中国共産党第3世代指導部における「黄金コンビ(golden partnership)」だった。2人は協力して、現代中国史上最も広範かつ抜本的な改革の時代を主導した。
もっとも、中国の改革はこの2人から始まった訳ではない。1979年に改革の時代を切り開いたのは鄧小平であり、地方改革、経済特区(special economic zones)の設置、価格改革、そして民間経済の台頭といった動きは、江沢民と朱鎔基の取り組みよりも前に始まっていた。しかし、市場志向の改革が部分的な試行段階から経済システム全体へと拡大し、計画経済(the planned economy)の色合いが濃い国から市場経済の基本機能を備えた国へと中国を急速に変貌させたのは、鄧小平による1992年の「南巡講話(southern tour」」以降、とりわけ江沢民・朱鎔基の体制下でのことだった。
朱鎔基に対する公式な追悼文には、あの時代の制度的遺産とも言える数々の成果が列挙されている。インフレの抑制、財政・税制改革の推進、金融規制システムの再構築、国有企業の再編、政府機構や住宅制度の改革、経済開放の拡大、アジア通貨危機への対応、そして世界貿易機関(WTO)への加盟などだ。今日から見れば、これらは単なる無味乾燥な政策の羅列に映るかもしれない。しかし、1990年代という文脈においては、それらは中国の経済秩序を根本から作り変えるほどの大規模な再編を意味していた。
江沢民・朱鎔基時代がこれほどの成果を上げた要因は何だったのか? 第一に挙げられるのは、市場主導型改革の方向性が極めて明確だったことだ。当時、改革が目指す方向について説明を要する余地はほとんどなかった。それは、計画経済の縮小と市場機能の拡大、行政による資源配分から価格メカニズムや競争への依存への転換を意味していた。中国共産党第14回党大会では「社会主義市場経済(socialist market economy)」の構築が正式な目標として掲げられ、続く第15回党大会では、公有制を主体としつつ多様な所有形態が共存・発展する体制が改めて確認された。今日ではこうした表現も当たり前のものに聞こえるかもしれませんが、当時は根本的な変化を告げるものだった。
江沢民・朱鎔基時代においても、所有形態に基づく差別が完全になくなった訳ではなく、国有企業は依然として強力な地位を占めていた。しかし、経済成長に占める民間企業、外資、輸出製造業の割合は拡大していった。資本が雇用や富、税収を生み出すのであれば、それが「国有」か「民間」かということは、かつてほど政治的に大きな問題とされる必要はなくなっていた。
また、中国は積極的にグローバル化を推進し、その集大成として2001年に世界貿易機関(WTO)への加盟を果たした。その根底にあったのは、中国が発展するためには世界市場に参入し、国際的なルールを受け入れ、外資・技術・経営ノウハウを導入し、さらに外部との競争を通じて国内改革を促さなければならないという考え方だった。
改革派は迅速に行動し、極めて困難な課題にも果敢に取り組んだ。価格、企業、住宅、雇用、金融、税制、貿易といった難題に対し、改革は同時並行で進められた。労働単位制度(work unit system)や西側諸国経済との関係など、長らく困難あるいは政治的にデリケートすぎると見なされていた問題にも、正面から取り組んだ。単なる小手先の修正にとどまらず、改革派は経済の機能する仕組みそのものを直接的に変革した。
その過程では、甚大な社会的痛みを甘受した。その最も顕著な例が、国有企業の再編とそれに伴う大量解雇だ。数千万人に上る国有企業の労働者が解雇されたり民間部門へ移されたりし、その多くが福利厚生などの既得権益を失った。同時に、赤字を抱える多数の企業が閉鎖、合併、あるいは再編の対象となった。新たな市場システムを構築するためであれば、短期的かつ極めて深刻な社会的コストを支払うことも正当化されるというのが、この時代の基本的な論理だった。
「効率が最優先、公平は考慮する(Efficiency first, with due
consideration to fairness)」という方針は、単なるスローガンにとどまらなかった。それは一つの発展の論理そのものを体現するものだった。すなわち、一部の地域や人々を先行して豊かにし、格差の拡大を容認し、成長によってさらなる資源を生み出し、分配の問題は後回しにする、というものだ。この方法は急速な成長をもたらしたが、同時に深刻な問題も引き起こした。格差の拡大(widening inequality)、汚職(corruption)、構造改革が原因の失業(unemployment caused by restructuring)、そして年金・医療・労働者の権利など多くの分野における適切な社会保障の欠如(a lack of proper social protections in pensions, health care, labor
rights, and many other areas.)などだ。
中国共産党の視点から見ておそらく最も重要な要素は、強力な政府が市場化を「代替」するのではなく、むしろ市場化を「推進」するために利用されたという点にある。国家は自らの能力を弱めることはしなかった。それどころか、まず中央の財政力、金融監督、マクロ経済管理の機能を強化し、その強化された行政能力を行使して市場改革を推し進めた。中央政府が歳入のより大きな割合を確保するようになった1994年の「分税制改革」(the 1994 tax-sharing reform)は、その典型的な例と言える。
江沢民・朱鎔基の時代においても政治は確かに重要でしたが、経済政策立案の議論においては、成長、効率性、インフレ、為替レート、財政政策、金融、産業構造、国際競争力といった要素がはるかに重視された。朱鎔基自身、専門的な知見、データ、制度設計、そして行政的な実行力を重んじるテクノクラート(技術官僚)世代の統治スタイルを体現していた。当時、経済問題を解決する官僚の能力は、政治的な評価において大きな比重を占めていた。
経済改革が急速に進展する一方で、政治改革はそれに追いつくことができなかった。市場が拡大し、社会が多様化し、個人がより大きな経済的自由を手にするようになったにもかかわらず、政治権力の構造はそれに見合う形で変化することはなかった。こうして江沢民・朱鎔基時代は、市場志向を強める経済と、高度に中央集権的なままの政治体制という、際立った組み合わせを生み出すこととなった。
もちろん、今日の北京でも改革は絶えず議論されている。中国共産党の「三中全会」は「改革のさらなる全面的深化」を求め、第15次五カ年計画や2026年の政府活動報告も同様に、統一国内市場の構築、民間経済の振興、財政・金融改革、そしてさらなる対外開放を強調している。
今日の中国における改革には一連の「条件」や「前提」が伴っており、それらは実際には改革そのものよりも重要視されている。つまり、共産党の指導(CCP leadership)、質の高い発展(high-quality
development)、共同富裕(common prosperity)、技術面の自立(technological self-reliance)、サプライチェインおよび産業チェインの安全保障(supply-chain and industrial-chain security)、国内循環戦略(the domestic circulation strategy)、新たな質の生産力(new
quality productive forces)、そして発展と安全の調和(coordinating
development and security)といった要素が優先される。まず政治的・安全保障的・国家戦略的な目標が設定され、市場はその枠組みの中で機能することが求められる(Political, security, and national strategic objectives are set
first, and the market is then required to function within the boundaries set by
those objectives)。
江沢民・朱鎔基時代における改革とは、概して、それまで政府が統制していたものを市場へと移管し、比較的閉鎖的だった中国経済を世界へと押し出し、個人や企業を旧来の制度的制約から解放することを意味していた。一方、今日の改革が意味するのは、国家による市場の再編、資本の誘導、技術資源の配分、自律的な産業システムの構築、そして経済のダイナミズムを維持しつつも制御可能な状態を保つことだ。
江沢民・朱鎔基時代は、今となっては想像しがたい時代だった。当時の与党は旧来の経済的領域から繰り返し後退し、市場や社会の力が急速に拡大することを容認していた。そして、中国が開放と改革を続ければ、発展に伴う問題の大部分はやがて解決できると信じていた。
その時代は多大な成果を生み出したが、同時に多大な代償も伴った。決して「黄金時代(a
golden age)」ではなかった。しかし、ある時代を懐かしく思う気持ちは、その時代がいかに素晴らしかったかということよりも、むしろ「その後に何が続いたか」によって左右されることがある。
※デン・イーウェン:中国の作家・学者。
(貼り付け終わり)

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