古村治彦です。
第二次世界大戦から冷戦、ポスト冷戦期まで、アメリカは世界超大国として、国際社会で極めて大きな役割を果たした。日独伊の枢軸諸国との戦争においては、ヨーロッパと太平洋の二正面で日独を撃破し、同時に連合諸国側の兵器庫・工廠(工場)として、食料や武器の支援を行った。冷戦期は、自由主義陣営を率いて、ソ連と社会主義陣営と戦った。結果として、ソ連崩壊によって冷戦に勝利して、ポスト冷戦期は世界唯一の超大国として、安全保障や経済面で世界をリードしてきた。
世界の歴史にはこれまで帝国(empire)と呼ばれる巨大な存在が出てきた。古くはローマ帝国、モンゴル帝国、大英帝国、そして、現在のアメリカもそれらに匹敵する存在である。世界帝国は世界から収奪することで富を築く。しかし、そのとみのしゅうだつのシステムを維持するためのコストのために衰退し、滅亡する。最も重荷になるのは軍事費だ。世界を支配するためにはどうしても巨大な軍隊を保有しなければならない。大英帝国はこの点で、巨大な陸軍ではなく強力な海軍を保有していたのではあるが。第二次世界大戦後のアメリカ軍は2つの大きな戦争と1つの小さな戦争を同時に戦えるだけの規模を維持してきたが、アメリカの国力低下はそれを許さない状況になっている。同盟諸国への責任の分担はそれを示唆している。
アメリカが世界の支配者であることの恩恵は富裕層にしかないということを、アメリカの中流以下の一般国民が認識している。それなのに、実際に軍隊に行って死傷するのは自分たちということで、ますます怒りが高まっている。そのような怒りが、「アメリカ・ファースト」を唱えるトランプ大統領を誕生させた。しかし、トランプ大統領は、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相の洗脳に近い「誘導」によって、イラン攻撃を行い、目論見が外れ、イラン攻撃は失敗に終わってしまった。このことはアメリカ中心の国際社会の構造の大きな変化を私たちの明確に示している。ウクライナ戦争の停戦が進まないことも同様である。「アメリカの終わりの始まり」を迎えた今、アメリカの属国である日本も一緒に沈んでいくか、少しずつ自立していくかを選択しなければならない時期を迎えている。
(貼り付けはじめ)
イランにおけるアメリカの帝国主義的罠(America’s Imperial Trap
in Iran)
―トランプ大統領の中東地域復帰の決断はかつてイギリスを破滅に導いた戦略的愚行(strategic
folly)を彷彿とさせる。
ファリード・ザカリア筆
2026年3月13日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2026/03/13/united-states-iran-war-middle-east-imperialism-british-empire/
約15年間、当時の3人の大統領を含む多くのアメリカの指導者たちは、アメリカが中東地域の社会構造改革に深く関与し過ぎていると考えていた。彼らは、より喫緊の課題はアメリカの産業基盤の再建と中国の台頭への対応だと考えていた。しかし今、アメリカは再び、大中東地域における社会構造改革のための戦争を戦っている。そしてイラク、アフガニスタン、リビアと同様に、この戦争も支持者たちが期待するような結果にはならないだろう。
なぜこのようなことが繰り返され続けているのか?
現状を理解するには、過去、つまり近代史においてアメリカに匹敵する世界的な影響力を持っていた唯一の国に目を向ける必要がある。20世紀初頭のイギリスは、世界唯一の超大国だった。1870年における大英帝国の世界総生産(GDP)に占める割合は約25%で、これは今日のアメリカとほぼ同じである。そしてロンドンは世界の金融の中心地だった。クリミア戦争期間中、イギリスはナポレオンのヨーロッパ大陸支配の試みとロシアの南東ヨーロッパへの勢力拡大の試みを阻止した。広大な帝国を統治し、今日のワシントンと同様に国際情勢(international life)の方向性を決定づけたのだ。
1880年代から1920年代にかけての数十年間、イギリスはアジアとアフリカ各地で不安定(instability)、悪質な政権(nasty regimes)、そして力の空白(power vacuums)といった問題への対応に追われた。スーダン、ソマリア、イラク、ヨルダンといった地域に軍隊を派遣し、コントロールを確保した。これらの任務は当時としてはどれも重要に見えたが、結果としてロンドンは世界の辺境地域(peripheral parts of the world)で次々と発生する局地的な危機に翻弄され、多大な犠牲を払うことになった。1920年のイラク反乱鎮圧には10万人を超えるイギリス軍とインド軍、そして数千万ポンドもの費用が要した。当時のイギリスの教育予算総額は、このイラクへの「遠征(excursion)」費用とほぼ同額だった。
イギリスの指導者たちはメソポタミアにおける戦略について熱心に議論を交わしたが、彼らが直面していた真の経済的、技術的な課題を根本的に見過ごしていた。イギリスが中東地域やアフリカの部族と戦っていた頃、大西洋を挟んだアメリカは、世界史上最も先進的な工業経済を静かに築き上げていた。第一次世界大戦後のヨーロッパでは、敗戦国ドイツが着実に産業と高度に機械化された軍事機構を再建した。混沌とした周辺地域に気を取られていたイギリスは、その中核において組織的に追い抜かれていった。時を経て、イギリスは世界の覇権国としての地位を失墜した。
今日のアメリカは、かつての帝国主義の誘惑に再び屈しつつある。中東における真の危機に対応し、その対応に政治的、軍事的、そして道徳的な論理を見出している。しかし、究極的に言えば、大戦略(grand strategy)とは限られた資源の優先順位をつけることである。アメリカは無限の政治資本、時間的余裕、軍事力、そして経済的回復力を持っている訳ではない。テヘランへの空爆、ペルシア湾上空で発射された対ドローン迎撃ミサイル、そして政権当局者がイランの政治的継承の微妙な点について議論する時間は、21世紀を特徴づける真の地殻変動的な課題からエネルギーを逸らすことを意味する。
アメリカにとって最も重要かつ不可欠な役割は、北京とモスクワの修正主義的な野望に対抗し、国際システムを安定させることである。中国は中東地域の泥沼に足を踏み入れるどころか、人工知能、量子コンピューティング、太陽光発電、風力発電、バッテリー、ロボットなどの、世界の勢力均衡を決定づける技術に容赦なく投資している。ロシアは、探知が困難で、撃退が極めて困難なハイブリッド型の政治・軍事戦争を通じて、ヨーロッパの安全保障を混乱させ、西側民主政体を弱体化させることに依然として固執している。モスクワと北京がアメリカの世界秩序の根幹を揺るがす一方で、ワシントンは再び中東地域の治安維持と、その一国の指導者の選出に、血と財産を費やそうとしている。
歴史は、大国が「小規模戦争(small wars)」の魅力に屈することが多いことを示唆している。それは、小規模戦争が、迅速で政治的、道徳的な勝利という幻想を与えてくれるからだ。残念ながら、こうした戦術的な成功は戦略的な利益につながることは稀であり、むしろ長期的な疲弊への第一歩となることが多い。
イランへの介入が成功したとしても、アメリカはイランの運命に深く関与せざるを得なくなるだろう。果たして、今後10年間、アメリカの時間とエネルギーを最も有効に投入すべき分野はイランなのだろうか?
イギリスの役割から得られる教訓は明白だ。大国は通常、外国軍に征服されるから滅びるのではない。周辺地域に過剰に手を広げ、中核地域を軽視するからこそ滅びるのである(They fall because they overextend themselves on the periphery while
neglecting the core)。
※ファリード・ザカリア:CNN番組「ファリード・ザカリアGPS」司会者、著述家。最新作に『革命の時代(Age of Revolutions)』がある。『ワシントン・ポスト』紙に週に一度コラムを掲載し、『フォーリン・ポリシー』誌に転載されている。Xアカウント:@FareedZakaria
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大英帝国がグアドループではなくカナダをどのようにして選んだか(How the
British Empire Chose Canada Over Guadeloupe)
-ロンドンはフランスとの戦争の戦利品を獲得したが、アメリカ合衆国を失った。
ダンカン・ウェルドン(イギリスのジャーナリスト・歴史家)筆
2026年2月6日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2026/02/06/british-empire-france-americas-history/
戦争は費用がかさむ事業だ。大同盟戦争(九年戦争、War of the Grand
Alliance、Nine Years’ War)(1688~1697年)の終結までに、イングランドの国家債務は国民所得(national income)の約20%に達した。これは今日の基準からすれば低い数字だが、当時としては憂慮すべき高水準だった。しかし、住宅ローンやその他のローンを組んだ経験のある人なら誰でも知っているように、重要なのは借入の総額(the quantum of the borrowing)だけでなく、そのコストだ。
イングランド(そして1707年のスコットランド合同法以降はグレートブリテン)が支払いを滞納しないことを確約し、議会が必要に応じて税収を増額する能力を示したことで、課税金利は低下し始めた。1750年代の七年戦争(Seven Years’ War)の時期には、イギリス政府はわずか3%の金利で借入を行うことができた。理論上、国家債務(national debt)は「完済(pay off)」するという計画が常に存在した。
18世紀を通じて、財政部門の政府高官たちはしばしば、議会が例えば8%の借入を前提に課税を認めているものの、実際のコストはそれよりも低く、おそらく4%か、5%程度であり、その差額を元金の返済に充てることができると指摘した。1710年代後半、楽観的な当局者は22年以内に全額返済できると考えていた。しかし、この安心感を与える計算は、イギリスとフランスとの長きにわたる断続的な戦争という現実を無視していた。スペイン継承戦争(War of the Spanish Succession)とオーストリア継承戦争(War
of the Austrian Succession)の末、七年戦争(1756~1763年)が始まる頃には、政府債務はGDPの約100%に達した。
しかし、イギリスに奉仕するコストは極めて抑えられるものだった。
多額の債務と高金利を抱え、さらなる借入を余儀なくされた国は、一般的に軍事力の低下を招く。しかしながら、18世紀のイギリスは、フランス革命の引き金となった債務よりも高額な債務を抱えていたかもしれない。しかし、制度的な信頼性に基づく低金利(the low interest rates, based on institutional credibility)が、当時のイギリスの債務を決定的に異なるものにしていた。
1750年代におけるイギリスの世界戦争への成功を支えたのは、まさにこの財政的枠組み(financial
framework)だった。イギリスは最高クラスの海軍を維持し、財政的に逼迫しているヨーロッパ大陸の同盟諸国に補助金を支給することで、フランスと戦う軍隊を戦場に維持することが可能となった。
イギリスにとって、特に戦争後半においては、七年戦争は真に世界規模の紛争となった。ここで、「イギリス流の戦争術(“British way of warfare)」という、時に物議を醸す概念の起源を探ることは重要だ。九年戦争では、元はオランダ人であったイギリス王オラニエ公ウィリアムは、オランダ共和国が南のより大きな隣国に侵略される可能性を当然ながら懸念し、大陸で直接戦うためにフランドルに大規模なイギリス軍を維持していた。
1700年から1714年にかけて戦われたスペイン継承戦争でも、同様の大陸への関与が見られ、マールバラ公爵はヨーロッパで有名な勝利を収めた。しかし、これはイギリスで必ずしも好評だった訳ではない。海軍の存在を正当化するのは容易だった。それは、海軍は島国を侵略から守るだけでなく、成長するイギリスの権益と海外貿易の保護・拡大にも貢献したからだ。
この問題は、アン女王(ウィリアムとメアリーの後継者)が1714年に子供を残さずに亡くなったことでさらに分極化した。プロテスタントによる王位継承の必要性から、ハノーヴァー公ジョージ1世がイギリス国王に即位し、ドイツにおける元々の領地も維持した。ハノーヴァー朝の最初の数十年間、イギリス議会の議員の一部は、イギリス軍がヨーロッパ大陸におけるハノーヴァー家の権益に奉仕しているように見えることに抵抗感を抱いていた。
1756年から1761年まで内閣の一員であり、実質的にイギリスの戦時戦略の管理者であったウィリアム・ピット(父)に代表されるイギリスの戦争方法は、大規模な軍隊の必要性を軽視し、ヨーロッパにイギリス軍を派遣することに懐疑的であり、その代わりに同盟諸国への財政支援、強力な海軍の維持、敵国の植民地や海外領土の支配権の獲得の重要性を強調した。
この戦略の支持者たちは、イギリスの強み、すなわち海軍力の比較優位(a
comparative advantage in naval power)と、同盟諸国を経済的に支援できる財政力(the financial strength to support allies economically)を生み出す海洋文化(a maritime culture)を活用できると主張した。結局のところ、フランスはイギリスよりもはるかに大きな国であり、陸軍に関しては常に優位に立っていた。こうした行動の副産物の一つは、海外のフランス植民地を掃討する機会をもたらした。
これはまさに1750年代のイギリスが辿った道である。ウィリアム・メイクピース・サッカレーの小説『バリー・リンドンの幸運』に描かれているように、小規模なイギリス軍はドイツで戦い、ミンデンの戦いで大きな称賛を得たが、イギリスの戦争活動の大半はヨーロッパ外に集中していた。インドとケベックでの勝利に加え、カリブ海に浮かぶフランス領の島々も占領され、戦争末期にはスペインに宣戦布告し、フィリピンとキューバを併合した。
しかし、これらの獲得物全てを永久に保持することが意図された訳ではなかった。18世紀の政治家たちは、和平交渉(peace talks)はギヴ・アンド・テイクを伴う交渉プロセスであることを認識していた。実際、当時の和平条約の特徴の一つは、しばしば通商条項を含んでいたことだ。勝者は植民地の一部を奪取するだけでなく、かつての敵国が支配する市場において、自国の輸出品に対する有利なアクセスを要求することもあった。
戦争終盤におけるイギリスの目標は、避けられない和平交渉に向けて十分な選択肢を持つために、可能な限り多くの土地を奪取することだった。しかし、スペインとの紛争においては、これは計画通りには進みなかった。18世紀の通信手段は限られていたため、マニラを攻撃したイギリス軍は、戦争の知らせがフィリピンに届く前に攻撃を開始し、その知らせがヨーロッパに届く頃には、既に条約は締結されていた。
しかし、フランスとの避けられない交渉が始まる前に、イギリスでも和平と引き換えにどの戦利品を保持し、どの戦利品を返還すべきかについて、多くの交渉が行われた。1760年から1763年にかけて、現代の私たちからすれば、かなり突飛に聞こえる激しい議論が繰り広げられた。イギリスはカナダを保持するべきか、それともグアドループを保持するべきか?
ベンジャミン・フランクリンからカーライル司教に至るまで、様々な人物が書いたパンフレットがこの問いに意見を述べている。
この議論は、見た目ほど奇妙なものではなかった。
カナダは地理的にはるかに広大で人口もはるかに多かったものの、すぐに得られる経済的利益は少なかったように思われる。ビーバーの毛皮貿易は確かに魅力的だったが、グアドループは砂糖の島であり、砂糖は18世紀のヨーロッパで非常に需要の高い高価値商品だった。しかし、グアドループからすぐに得られる経済的利益は、カナダにとっての明確な安全保障上の理由と対比させる必要があった。イギリス自身の北アメリカ13植民地のすぐ北に位置するフランスの植民地を撤去すれば、イギリスの立場が安定するだけでなく、駐屯地運営費用が減って最終的には財政的な節約にもつながると期待された。
議論は時折、激しさを増した。終戦時に政府を率いたビュート伯爵は、『ノース・ブリトン』紙でビーバーの毛皮の魅力を理解していないと非難され、「もし人工的な暖かさを求めるほど親切な女性がいるなら、私たちにはそのための猫や犬がいる。・・・その上、実に愉快な荒々しさで」と皮肉られた。
最終的に、イギリスは砂糖の島がもたらす利益よりも、北アメリカ植民地の安全保障を優先した。しかし、パンフレット戦争において洞察力のある一部の評論家が認識していたように、これは長期的にははるかに逆の結果をもたらすことになる。近代カナダにおける大規模なフランス植民地の存在は、少なくとも、これらの植民地が安全保障をイギリスに頼る明確な理由となっていた。
1760年代のあるイギリス人植民者はこう記している。「畏敬の念を抱かせてくれる隣国が、必ずしも最悪の隣国とは限らない」。フランスの脅威がなくなったことで、植民者たちの動機は変化した。パリ条約以前は、大英帝国の一部であることは多少の負担を強いられたかもしれないが、同時にフランスからの保護という明確な利益も伴っていた。
パリ条約締結後も、イギリスが植民地に帝国統治の重荷を負わせようとしたため、コストは依然として残り、むしろ増加し始めた。しかし、その利益ははるかに疑わしいものだった。グアドループをカナダと交換したことは、結局のところ、イギリスにとって北アメリカを失ったことにつながったかもしれない。イギリスの制度は世界大戦に勝利することを可能にしたが、インセンティヴを理解していなかったため、その勝利は空虚なものとなった。
(貼り付け終わり)
(終わり)

シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体

『トランプの電撃作戦』

『世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む』

































