古村治彦です。
2023年12月27日に『バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる』(徳間書店)を刊行しました。『週刊現代』2024年4月20日号「名著、再び」(佐藤優先生書評コーナー)に拙著が紹介されました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
ジョージ・W・ブッシュ大統領(在任:2001-2009年)の外交政策は、ネオコン派と呼ばれる人々によって牛耳られていた。彼らは、介入主義を基盤とする、外交政策を展開した。2001年9月11日の同時多発テロ「911事件」の報復として、アフガニスタン(2001年)とイラク(2003年)に侵攻した。その当時の両国の政権を倒すことはアメリカにとっては容易(たやす)いことだった。それからはアメリカ軍が占領しながら、新体制、新政権を樹立することになった。それからは厳しい状況が続いた。自爆テロや地元の人々の反感を受けて、アメリカ軍の占領は泥沼状態に陥った。結局、アメリカ軍(と同盟諸国の軍隊)は両国から撤退し、両国の状態は大きく改善(西側の視点から)されることはなかった。ベトナム戦争からの撤退を思い出させる混乱があった。
そもそも論として、アメリカは外交政策を失敗したのだ。安易な介入主義、「アメリカの力をもってすれば、一国の政治体制を変革し、資本主義と民主政治体制を確立することは可能だ」という介入主義の傲慢さが、泥沼化(quagmire)を招き、最終的にはアメリカ軍は撤退するに至った。ブッシュ政権のネオコン派による外交の失敗、介入主義の失敗が、バラク・オバマ大統領を誕生させた。しかし、オバマ政権(リアリズム外交を志向した)も、1期目にはヒラリークリントンを国務長官に据えて、「アラブの春」を演出した。アメリカ軍が介入することはなかったが、介入主義の外交政策が続き、結局それらは失敗に終わった。アメリカの権威を大いに傷つける結果となった。
介入しての体制転換、政権交代、新体制樹立が成功したのは、敗戦後の日本だ。アフガニスタンやイラクへの侵攻が行われた後、アメリカ国内のメディアでは、「イラク(アフガニスタン)は次の日本になれるか」というようなタイトルや趣旨の記事が多く出た。結局、失敗したのであるが、日本における、特殊な成功体験が、アメリカを狂わせたということになる。「あれだけ激しく抵抗した日本が戦後はおとなしく属国になり果てた」ということが、歴史的に見れば、アメリカの失敗を引き出したということになる。
(貼り付けはじめ)
バイデン政権の外交政策の原罪(The Original Sin of Biden’s
Foreign Policy)
-ジョー・バイデン政権の外交的弱点は全て、アフガニスタンからの撤退に既に現れていた。
ジョン・カンプナー筆
2024年5月5日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2024/05/05/the-original-sin-of-bidens-foreign-policy/?tpcc=recirc062921
ワシントンDCのホワイトハウスのイーストルームから、アフガニスタンのカブール情勢について語るジョー・バイデン米大統領(2021年8月26日)。
数週間前、トロントで私は20代半ばの若いアフガニスタン女性に会った。彼女はアフガニスタンの国際援助機関で働いており、精神の健康に関する問題に苦しむ女性たちを支援していた。2021年にタリバン軍が国中に押し寄せる中、彼女は外国人と協力したことで罰せられることを知り、必死に逃げようとした。彼女は最終的に弟と妹と一緒に脱出し、まずイランを経由してブラジルへ逃亡した。その後、彼女は南米を縦断し、パナマのジャングルを抜け、ドナルド・トランプ元大統領の壁を乗り越え、アメリカを通過し、最終的にはカナダに至るという危険な旅を経験した。
彼女の物語はその勇敢さにおいて並外れたものだが、決して特別なものではない。数え切れないほどのアフガニスタン人が、殺人、拷問、レイプ、強制結婚から逃れるためにできる限りのことをした。カブールの空港から避難する際、西側諸国の軍隊によって空輸された幸運な人たちもいた。多くの人々が故郷に捨てられ、運命に翻弄された。また、危険な旅に出た人たちもいる。幸運な人たちは新しい生活を始めたが、それ以上の人たちは難民キャンプに取り残されている。数え切れないほどの人々が、危険な旅の途中で命を落とした。
こうした人々は全て、統計の数字であり、より大きなパワーゲームの犠牲者である。彼らは、2001年のアメリカによる侵攻の瞬間から、20年後の悲惨な撤退まで、アフガニスタンにとって何が最善かを知っていると主張していた、アメリカとその同盟諸国に失望させられてきた。3500人以上の外国の将兵たちが戦死された「不朽の自由作戦(Operation Enduring Freedom,)」は、永続する自由をもたらしたわけではなく、アフガニスタン人に与えられた、より良い生活というつかの間の希望だけが、突然そして残酷に打ち消された。
その中で、1人の男が傲慢であった。ジョー・バイデン米大統領は、前任のドナルド・トランプ大統領が打ち出した方針を貫いた。バイデンはホワイトハウスに入るずっと以前から、アフガニスタンとイラクでの無益と思われる軍事作戦に何十万人ものアメリカ軍が投入されることを批判していた。これは、バイデンがトランプの仕事を引き継いだ、アメリカの外交・安全保障政策のいくつかの分野の1つであった。2021年8月にカブール国際空港で起こった、半世紀前のサイゴン陥落を彷彿とさせるような恐ろしい光景の中でさえ、バイデンは自らの評価に固執した。バイデンは「私はこの永久戦争(forever war)を延長するつもりはなかったし、永遠の撤退を延長するつもりもなかった」と述べた。
逆襲の中、連邦議会による多くの調査が行われ、大失敗から数カ月の間に、多くの報告書が発行された。映画も作られ、何が起こったのか、誰に最も重い責任があるのかを説明する本も多く書かれた。それとは対照的に、政策立案者や軍の最高責任者たちはすぐに次の段階に移った。彼らの関心は、ロシアのウクライナ侵攻、そしてイスラエルとハマスの紛争という中東問題へと移った。その間も、中国は西側諸国の利益に対する、長期的な最大の戦略的脅威とみなされている。公平を期すなら、ワシントンやその同盟諸国が、アフガニスタンに駐留し続けるだけの資源や政治的支持を持つとは考えられない。
それにもかかわらず、道徳的な観点だけでなく、政策立案の観点からも、アフガニスタンで何が間違っていたのかに立ち返ることは有益である。アフガニスタンからの撤退は、その後の世界を包んでいる、絶えることのない危機の多くがそうであったように、外交官や軍人たちが善意と誠実な努力で、できる限り多くの人々を守ろうとした物語だった。しかし、それはまた、現地の担当者たちと政治的意思決定者たちの致命的な判断ミスの物語でもあった。
当時のイギリス大使であったローリー・ブリストウによる新たな証言(アメリカでは近日発売予定だが、イギリスではすでに発売されている)は、この大惨事が展開された際の重要な洞察を更に深めるための材料となる。
ブリストウは、2021年6月14日にカブールに到着する前から、自分の任期が短いことを分かっていた。2020年2月29日にトランプ政権が、カタールのドーハでタリバンと署名した「アフガニスタンに平和をもたらす」ための協定(agreement for “bringing peace to Afghanistan”)は、現代の最も評判の悪い協定の1つだった。タリバンが合意されたスケジュールを遵守し、どういう訳か、信じられないことに、より現代的なものに改革したと信じるのは世間知らずだったばかりでなく、キャンペーンを通じて、他の主要な参加者、つまりアフガニスタン政府そのものとアメリカ政府、重要な同盟国、特にイギリスをこれ見よがしに排除した。
2021年前半を通じて、アメリカが兵力を削減することで自国の立場を守ったため、不吉な予感はたちまちパニックにつながった。タリバンはほとんど抵抗を受けることなく、アフガニスタン国内を席巻した。
イギリス大使館にとっての主な任務の一つは、アフガニスタン移転・援助政策(Afghan
Relocations and Assistance Policy、ARAP)に基づいてどのアフガニスタン人が出国の資格があるかを特定することであった。ブリストウは、日記形式で書かれた自身の説明の中で、運命に見捨てられたらどうなるかを知っていた地元の従業員やアドヴァイザーたちとの困難な会議について説明している。
ブリストウは8月5日の日記の中で次のように書いている。「私たちは戦没者慰霊碑の隣にある大使館の庭に輪になって座り、必要な人のために男性の1人が通訳となった。私は1人ずつ発言するよう呼びかけた。女性たちが最初に、まとまった長さで話した。そのうちの1人、年配の女性は自信に満ち、自然な威厳をもって話し、男性にまったく譲らなかった。空気には恐怖と怒りがあり、涙も見られたが、アフガニスタン人本来の礼儀と威厳で和らげられた」。ブリストウは続けて次のように書いている。「彼らの目を見て、出国の申請を拒否したのは正当な判断だと思うと言うのは不可能だった」。
何人かは幸運だったが、ほとんどはそうではなかった。いずれにせよ、事態は収拾がつかなくなり、本国の官僚たちが申請を処理し続けることは不可能だった。数日もしないうちに、イギリスをはじめとする、諸外国からの軍隊は大使館を空港に避難させる準備をしていた。彼らはタリバンにプロパガンダの勝利を提供できるものは全て処分した。ブリストウは「女王の写真、旗、公式ワインショップ、全てを撤去するか、破壊しなければならなかった」と書いている。
タリバンによる8月15日の占領宣言から8月21日の最終撤退までの最後の日々の混乱した光景は記憶に刻まれている。ブリストウは次のように回想する。「空港は膨大な数の人々に圧倒されて混雑していた。アメリカ軍だけでも約1万4500人が飛行場にいて、カブールから空輸されるのを待っていた。ゲートや北ターミナルの周り、どこに行っても、どこを見ても、日よけの下、屋外、出入り口に人がいた。子どもたち、年老いた親、惨めな荷物など、ボロボロのケースやスーパーマーケットのビニール袋に人生全体が詰め込まれていた」。
故郷のホワイトホールでは、夏休みのピーク時期だった。ドミニク・ラーブ英外務大臣は家族とともにギリシャに滞在しており、休暇の邪魔をされたくないと怒って主張した。ティームがカブールとロンドンでできるだけ多くの人々を避難させるために24時間体制で活動している一方で、政治工作員たちには別の優先事項があった。ブリストウはこれを「非難と責任転嫁の醜いゲーム(an ugly game of recrimination and buck-passing)」と形容し、次のように付け加えた。「ロンドンの一部の人たちの優先事項は、閣僚とその側近たちに個人的かつ政治的な恥をかかせないことだと私には見えた。現場の人々からの助言、評価、福利厚生は二の次だった」。ボリス・ジョンソン政権時代の最も不運な閣僚の一人であったラーブ外相は、その職をめぐって多くの競争があったが、その後すぐに政治家としてのキャリアが消滅することになった。
ブリストウの全体的な評価は注目に値する。彼は次のように述べている。「アフガニスタン作戦の失敗は、資源不足のためではなかった。2011年、『オバマ・サージ』の最盛期には、NATOは13万人以上の兵力をアフガニスタンに展開していた。イギリスは2001年から2021年にかけて、アフガニスタンへの軍事作戦と援助に300億ポンド以上を費やした。20年間で1兆ドルから2兆ドルで、この間のアフガニスタンのGDPの累計を上回った。しかし、20年近くにわたって行われたこれらの莫大な支出は、アフガニスタンに平和も安定も良い統治ももたらさなかった」。
ブリストウは続けて次のように書いている。「ドーハ合意は、交渉による解決を達成するための真剣な試みとして理解されれば、史上最悪の合意の有力な候補となる」と付け加えている。しかし、そうではなかった。トランプ大統領の合意は、アメリカの選挙日程というかなり異なるものによって推進された」。ブリストウが会ったアフガニスタンに詳しい人は皆、「トランプ大統領とタリバンとの間の酷い内容の合意と、その後のバイデン大統領の失敗に終わった撤退実行に愕然とした」と述べている。
2024年の多くの危機の渦の中で、アフガニスタンは既に歴史の脚注のように感じられる。ブリストウは、アフガニスタンの失敗がもたらした多くの教訓の1つは、アメリカと同盟諸国との間の協力のあり方だと書いている。ブリストウは「イギリスはジュニア・パートナーであり、アメリカの意思決定に対して対等な発言権はなかった。私たちが軍事的撤退を賢明でなく、熟慮が足りないと考えたからといって、アメリカの方針が変わることはなかった」と書いている。これは言い換えれば、トランプ流とバイデン流の「アメリカ・ファースト」(“America First,” Trump-style and Biden-style)の最初の大きな試練であり、他の誰もがその後塵を拝した。バイデンが再選されようがされまいが、他の紛争地域でもこのようなことが起こるのは間違いない。
※ジョン・カンプナー:『なぜドイツ人はうまくやれるのか:成熟した国からの教訓(Why the Germans Do It Better: Notes from a Grown-Up Country)』の著者。
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