古村治彦です。
2023年12月27日に最新刊『バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる』(徳間書店)を刊行しました。世界政治について詳しく分析しました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
櫻井よしこが自身のSNSで「祖国のために戦えますか」という、戦争を煽るような発言を行い、それに対して、「最前線に出ない人間が戦争を賛美するな」「お前がまず戦争に行け」という反応が出ている。ここしばらく日本はおかしな方向に進められてきたが、実際に戦争の可能性があるとなれば、実際に最前線に連れていかれる人たちを中心に批判が出るようになっているのだろう。これは良い兆候だ。
戦争賛美者こそは真の平和ボケだ。今の日本に生きている人たちの圧倒的大多数は、戦争について知識を得ることはあっても、実際に経験していない。1945年の敗戦からもうすぐで80年が経過しようとしているが、その時に20歳だった人も100歳になる。日本は超高齢社会であり、100歳以上の高齢者も多いとは言っても、実際の戦場を知っている人はかなり少ないと言ってよい。
そうした中で、戦争を経験しておらず、戦争の悲惨さも知らず、頭でっかちの知識だけで、戦争を賛美している者たちこそが、「戦争を知らない子供たち」だ。平和の中で生まれ育ち、生きてきて、老齢を迎えて、自分は安全な場所にいて(戦争には行かないことが確実だと分かっていて)戦争を賛美する姿は老醜と言う他はない。平和のおかげを受けながら、戦争を賛美する姿は平和ボケだ。本当に戦場を知っている者、国家指導者として重い決断をする者、国家の利益について本当に考えているものは戦争を賛美しない。
「祖国のための戦争に行けますか?」とは、より正確に書くならば、「少数の指導者が影響力を持つ財界や利益団体などの影響を受けて開戦を決めた、虚構として祖国のためと宣伝をして、それに考えが足りない人間から連れていかれる、“祖国のための戦争”にあなたは行けますか?」ということだ。
前置きが長くなったが、このブログでよくご紹介しているハーヴァード大学教授スティーヴン・M・ウォルトの論稿を今回もご紹介する。ウォルトは国際関係論という学問分野の中のリアリズムという学派に属している。リアリズムは日本語に訳せば現実主義となるが、今回、ウォルトは、平和の実現という、戦争扇動者たちからすれば「夢想的」「ユートピア的」なテーマについて書いている。ここで大事なことは、人間は完璧ではない、人間は果然無欠ではない、人間は間違うということを肝に銘じておくことだ。これは国家指導者から一般国民まで共有すべきだ。
戦争はいったん始まってしまえば、開戦した時の意図とは全く違う方向に進むことがほとんどであるし、人間が状況をコントロールすることはできない。何よりも自分たちが勝つと思って初めて負けることがどんなに悲惨かは歴史が証明している。戦争ということを簡単に決断すべきではないし、言葉を弄して、戦争を賛美し、煽動することは間違っている。戦争について正確に知り、自分たちが知りたいことだけを知るとか、捻じ曲げてそれを知識とするとかといった行為を戒め、自分たちは安全な場所にいながら、他人に戦争に行くことを促し、強制するというような人物を国家指導者の地位に就けないこと、そうした言説に対しては徹底的な批判をして対抗していくこと、これが極めて重要である。
日本を中国にぶつけようと表や裏で暗躍している人物や勢力はいくらもいる。私たちは常に警戒し、そのようなことが起きないように努力しなければならない。そのためには、まず知識を増やし、自分の頭で考えることである。
(貼り付けはじめ)
恒久的な平和実現のための実践的なガイド(A Practical Guide to
Perpetual Peace)
-よりユートピア的な世界秩序に向けて、現実的な(そしてリアリスト的な)一歩を以下に踏み出すか
スティーヴン・M・ウォルト筆
2023年12月19日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2023/12/19/realist-guide-world-peace/
世界の多くの国では、年末の休暇時期を迎え、より良い世界のヴィジョンの実現に思いをはせる人たちも多いことだろう。あちらこちらの教会で平和を賛美する讃美歌が歌われ、説教壇からは敬虔な感情がこもった言葉が響き渡り、宗教的指導者も世俗的指導者も同様に未来への希望を表明して新年を迎えるだろう。しかし、ガザでの残忍な殺戮、ウクライナでの容赦ない破壊、スーダンの無意味な内戦、その他世界中で進行中の血で血を洗うような出来事を思えば、そのような暖かな感情など空虚にしか思えない。言うまでもなく、各国が他の人間を殺すより効率的・効果的な方法を見つけるために、莫大な資源を費やし続けている。
私たちは平和の実現について一体何かできるのだろうか? 数週間前、私は宇宙開発に関する興味深いセミナーに出席した。セミナーの講演者は、人類を宇宙の軌道に乗せ、月に送り、そしていつの日か火星に送ることは、人類を鼓舞するために新しく困難な挑戦を必要とするため、やる価値があるかもしれないと述べた。
彼のコメントを聞いて、私は考えさせられた。無人の宇宙探査(unmanned space
exploration)は、軌道や月に人を送り込むよりも理にかなっていると私は信じている。もしそうなら、同じように奇跡的なことでも、もう少し身近なことを目標にしたらどうだろうか。火星に人類を移住させる代わりに、地球を平和にするのはどうだろう?
私は、このユートピア的なヴィジョンを阻む全ての障害を認識している。中央権力のない世界(world
with no central authority)では、国家は安全保障を心配し、自国を守るための手段を講じる。そのための努力はしばしば他国を脅かし、時には暴力につながる。不確実性(uncertainty)、無知(ignorance)、さまざまな形の認知バイアス(cognitive bias)が、回避できたはずの、そして回避すべきであったはずの戦争へと国々を導く。指導者の中には、自らの権力を維持するため、あるいは歴史に名前を残すために戦争を始める人もいる。長年の不満を抱える国々は、それを覆そうと武力を行使することもあり、様々な種類の利益団体が影響力を高めたり、自国の利益を水増ししたり、あるいは自国の特別な大義を推進したりするために戦争を推進することもある。社会を統治するための唯一の真の方法を発見したと確信しているイデオローグは、自分たちの信念を他の人に押し付けるために野心的な十字軍(crusades)を進軍させることもある。
何千年もの間続く戦争は、解決策を模索すると当時に、謙虚さ(humility)を求めている。戦争の惨劇を終わらせる魔法の杖はないが、多少なりともより平和な世界を築くためのささやかなアイデアのいくつかをこれから紹介しよう。
第一に、世界の指導者たち(そして一般国民たち)は、リアリズムの教訓をより真剣に受け止め、戦争を永遠に終わらせる鍵を見つけたと主張するイデオロギーに対して、より懐疑的な目を向けることから始めることだ。マルクス主義者たちは、資本主義(capitalism)を打倒すれば戦争の誘因がなくなり、平穏な社会主義の楽園が訪れると考えた。リベラル派は、民主政治体制(democracy)を広めることで同じ奇跡が起きると考えている。たとえ民主政体を輸出する方法が分からずに、最初に「戦争を終わらせるためのいくつかの戦争(“wars to end war)」をしなければならないとしてもそれが重要だと考えている。リバータリアンは国家を縮小することを望み、ファシストは国家を崇拝するように言い、アナーキストは国家を完全に破壊することを望んでいる。宗教を信仰している人たちの中には、誰もが正しい神を崇拝すれば平和が訪れると考える者もいるし、無神論者の中には、どんな神であっても崇拝するのを止めればもっと平和な世界が訪れると主張する者もいる。これらの提案はいずれも、政治的信条(political beliefs)を受け入れたがらない他者に押し付ける必要があるため、問題を改善するどころか悪化させるのが一般的だ。
対照的に、リアリズムは謙虚さを奨励する。リアリズムは、人間の誤謬性[間違いやすさ](human fallibility)、チェックされていない権力の危険性(the dangers of unchecked power)、理性の限界(the
limits of reason)、そして強い者や特権を持った者が容易に傲慢(arrogant)になり、自信過剰(overconfident)になることを明らかにしている。リアリズムは、政治生活を悩ませる避けられない不確実性と、人間の存在の避けられない部分である悲劇的な要素を認識している。政治上のリアリズムは、白か黒かで決まることはほとんどないが、通常は多くの灰色の色合いを含む世界、つまり意図しない結果が蔓延し、今日の成功が明日の問題の種を植え付ける世界を描き出す。
このような理由から、リアリストのほとんどは、国家が戦争に踏み切るのは、自国の生存、もしくは死活的利益が危機に瀕している場合という、切迫した必要性のある場合に限られるべきであると考えている。少なくともここ数十年間、リアリズムと制限(restraint)に基づく外交政策が実行されていれば、ほぼ間違いなく平和がより広まっていただろう。
リアリズムはまた、人類が共通して持つ人道的思いやり(our common
humanity)に訴えても世界は平和に近づかないと示唆している。人間は社会的な動物(social
animals)であり、集団に分かれ、異質と見なされる者を警戒する傾向が深く根付いている。いざとなれば、たいていの社会集団は自分たちの利益を優先し、たとえそれが他者を傷つけるものであったとしても、自分たちの利益を優先する。草の根平和運動やその他の反戦活動も十分ではない。民主政体国家であっても、戦争の決定は一握りのトップによってなされるからだ。このような理由から、指導者たちとその支持者たちに、戦争に踏み切れば自分たちの地位がより安全になる訳でも、自国がより安全で豊かになる訳でもないことを納得させることでしか、平和を促すことはできない。
つまり、よりリアリズム的な平和へのアプローチとは、バランス・オブ・パワー(balance-of-power)を重視することである。つまり、アナーキー(anarchy、中央政府がない状態)である国際社会においては、国家は、他国が強くなりすぎると必ず心配し、自国の安全を守るために均衡(balance)を保とうとする。このため、他国を犠牲にしてまで自国の力を強化しようとする執拗な努力は、通常、自滅的(self-defeating)となる。なぜなら、他国は最終的に力を合わせて強大な国家を牽制し、その野心を封じ込めるからである。
この原則の副次的な意味は、大国の重要な利益、とりわけ自国の領土付近を脅かすことは、厳しい反応を引き起こすに違いないということである。このような傾向を理解する指導者が増えれば、永続的に有利な立場を得ようとする無分別な試みは少なくなるだろう。さらに、鋭い共感能力(keen sense of empathy)、すなわち、必ずしも賛成しなくても、相手の立場に立って物事を見る能力を身につけた指導者であれば、誤ってレッドラインを越えてしまうことも少なくなり、全ての当事者がより良い状態を保てるような解決策を見出す能力も高まり、愚かな選択による戦争につまずくことも少なくなるだろう。
第二に、ほとんどの政治指導者は、一般市民の愛国の誇り(sense of
national pride)に訴えることで権力を獲得し、維持しているが、他国にも同様の力が存在することをしばしば忘れている。ロシアのウラジーミル・プーティン大統領は、ウクライナのナショナリズムの力を軽視したために過ちを犯し、最終的な結果がどうであれ、予想以上に犠牲の多い戦争に身を投じることになった。ナショナリズムの力はまた、なぜ強大な国が他国を爆撃して永久に服従させることができないのか、なぜ脆弱な国家が制裁や他の形態の強制に抵抗するのか、たとえそうすることが非常に高くつくとしても、その理由も説明する。世界政治のこの側面をもっと多くの指導者が理解していれば、他国を強制したり、弱体化させたり、破壊したりするための実のない努力は少なくなっていただろう。
第三に、戦争を考えている指導者は、いったん戦闘が始まれば、もはや自分たちの運命をコントロールすることはできないということを思い起こすべきだ。戦争を始めると、複雑で予測不可能な要素が膨大に発生するため、ほとんどの戦争は、開戦者の予想以上に長引き、多くの犠牲を出すことになる。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は平和主義者(pacifist)とは言い難かったが、世界政治のこの永続的な特徴を把握していた。チャーチルは自伝『わが半生』の中で「戦争熱(war fever)に屈する政治家は、ひとたびその合図が下されれば、もはや政策の主人ではなく、予測不可能で制御不能な出来事の奴隷であることを理解しなければならない」と書いている。ジョージ・W・ブッシュは大統領在任中、執務室にチャーチルの胸像を飾っていた。しかし、彼がその小さな知恵の核である本を読んだとはとても思えない。もし読んでいたら、2003年にイラク侵攻する前に、もっと真剣に考えていたかもしれない。
そして、チャーチルの話題が出たついでに続けると、チャーチルの浩瀚な第二次世界大戦史の巻頭言には次のように書かれている。「戦争においては解決が必要だ。敗北においては反抗が必要だ。勝利においては寛大さが必要だ。平和においては善意が必要だ」。これは悪くないカテキズム(catechism、訳者註:キリスト教の教理をわかりやすく説明した要約ないし解説)であり、私は最後の2つのフレーズに注意を向けて欲しいと考える。勝者が一方的に平和を押し付けることは、特にかつての対戦相手が敗戦から立ち直る可能性が高い場合、後々より多くの問題を引き起こすことになる。アメリカは第二次世界大戦後、博愛の精神(sense of philanthropy)からドイツと日本の再建を支援した訳ではないが、一部の政府関係者が提唱したカルタゴになされたような和平(Carthaginian peace)を押し付けた訳でもない。第一次世界大戦を終結させた懲罰的な(punitive)ヴェルサイユ条約との対比は、これ以上ないほど際立っている。同様に、ロシアを敗戦国のように扱い、その正当な懸念にその後何年も注意を払わなかったことは、多くの先見の明のある専門家が繰り返し警告したように、米露関係を悪化させ、今日の問題への道を開くきっかけとなった。
第四に、戦争は常にコストがかかり予測不可能であるため、賢明な指導者は大きな賭けに出る前に、あらゆる選択肢を尽くす。ロシアのウクライナ侵攻を食い止める外交的駆け引きがあったかどうか、あるいは2022年3月に進められていた和平調停活動が戦争を迅速に終結させ、ウクライナを分割や甚大な破壊から救えたかどうかは、誰にもわからない。しかし現在、西側の指導者たち、とりわけ西側のトップたちが、代替策を必要なほど徹底的に追求しなかったことを示す証拠が増えつつある。そのような努力は失敗に終わったかもしれないが、戦争を未然に防ぐ、あるいは戦争の芽を摘むためのより真剣な努力は、起きてしまった戦争よりも望ましいものであっただろう。
最後に、平和を促進するための努力は、平和をより普及させ、強固なものにするために何をするつもりなのかを説明するよう、指導者を目指す人々に求めれば、さらに進むかもしれない。国家の指導者を目指す人たちは通常、国をどのように強くしていくのかについて多くを語るが、私たちが彼らに問うべき本当の質問は、同胞をどのように安全にしていくのかということだ。真剣に考えて欲しい、大統領や首相になろうとする人は誰でも、戦争の可能性を減らし、平和をより強固なものにするために何をしようとしているのかを説明するべきではないだろうか?
もし彼らが、問題はみんなのせいであり、トラブルメーカーを滅ぼして初めて平和が実現すると答えるなら、その人は本当に平和に関心のない人だと分かるだろう。もし彼らが単純化された決まり文句(「強さによる平和(peace through strength)」「ミュンヘンを思い出せ(remember
Munich)」など)しか口にできないのであれば、世界政治が実際にどのように機能しているのかについて、より洗練された理解を持つ候補者を別に探すべきだ。もし平和の重要性が彼らの頭に浮かんだことがなく、何も語ることがないのであれば、取材記者はその理由を尋ねるべきだ。また、戦争は歓迎すべき、偉大で輝かしい活動だと言ったり、潜在的な敵は張り子の虎(paper tiger)で倒すのは簡単だと主張したりする候補者がいたら、食料庫(pantry)に非常用の食料を備蓄するか、近くの防空壕(bomb shelter)に向かうことだ。
これまで明らかにしてきたように、戦争という問題に簡単な解決策はない。しかし、もし人類が本当に新たな挑戦を必要としているのであれば、戦争の発生可能性(likelihood)と破壊(destructiveness)を減らすための持続的だが現実的な努力は、数人の勇敢な人間を遠い宇宙に送り込むよりも、はるかに人類に利益をもたらすだろう。そして、その手始めとして、戦争を始めることが望ましい結果を生むことはほとんどなく、しばしば予期せぬ非常に厄介な事態を招くことを、指導者たちに常に思い起こさせることが必要だ。
おそらくこの教訓は、2024年には昨年よりも良い結果をもたらすだろう。私はハードルを低く設定した。指導者たちがこのハードルをクリアすることを皆で祈ろう。
※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・ベルファー記念国際関係論教授。ツイッターアカウント:@stephenwalt
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