古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:ジェフリー・エプスタイン

 古村治彦です。

 ジェフリー・エプスタインの事件のファイルが公開されて以降、アメリカやイギリスでは様々な動きを見せている。それらについては、このブログでも昨年12月から断続的にお知らせしている。その中で、私が注目しているのはイギリス側の動きだ。それは、エプスタインの恋人で側近だったギレーヌ・マクスウェルの存在下大きいと感じていたからだ。イギリスではチャールズ国王の実弟アンドルー元王子、イギリス労働党の重鎮でトニー・ブレア元首相の側近を務め、最近まで駐アメリカ英大使を務めたピーター・マンでルソン卿が公的な情報を漏洩した容疑で逮捕される事態になっている。エプスタイン事件は未成年者に対する性的虐待、性的搾取よりも根深い、上流階級による政治的な事件の性格の方が重要であると考えられる。

 そうした中で、ギレーヌの父親である、元イギリスのメディア王であった故ロバート・マクスウェルにも注目が集まり、その関係から、日本関係で、笹川良一の名前が出てきて驚いている。ロバート・マクスウェルは笹川良一の資金力を利用し、笹川は名誉を得ようとしての打算的な関係であったと言えるだろう。

 笹川良一という人物は、日本国内で人気の高いギャンブル(賭博)であるモーターボートを拡大させ、巨万の富を得た。戦前には右翼として活躍し、国会議員を務めたこともあった。敗戦後はA級戦犯容疑で逮捕され、巣鴨プリズンに拘留された。そうした背景を持ち、慈善事業家の顔を持ちながら、政治家にも隠然たる影響力を持ち、統一教会の政治組織である国際勝共連合の名誉会長も務めた。モーターボートで得た巨万の富を財団化し、日本船舶振興会、後の日本財団を創設した。日本財団は様々な事業に資金を提供しているが、「笹川」という名前がついて回ることもあり、日本財団の活動に対して批判的な人々がいる。海外でも、大学などで日本財団からの資金提供を断るとこもある。また、学者たちが反対運動をしているところもある。

 フランスでは、フランス・ニッポン財団がそうした反対運動を行う学者を裁判に訴えるということが起きた。フランス・ニッポン財団は、パリ政治学院に属するカロリーヌ・ポステル=ヴィネイを訴えた。裁判の結果は、フランス・ニッポン財団の請求が棄却され、訴訟手続き費用と弁護費用の支払いを命じられるものとなった。この裁判は、笹川良一に対して批判的な学者の動きを封じようというスラップ訴訟の性格を持っていたが、その目論見は外れた。以下に、カロリーヌ・ポステル=ヴィネイが書いた論稿を紹介する。

(貼り付けはじめ)

歴史に対する裁判:フランス・ニッポン財団が笹川良一氏の名誉を守るため名誉毀損で学者を提訴(History on Trial: French Nippon Foundation Sues Scholar for Libel to Protect the Honor of Sasakawa Ryōichi

カロリーヌ・ポステル=ヴィネイ、マーク・セルドン筆

2010年4月26日

『アジア・パシフィック・ジャーナル』誌

https://apjjf.org/mark-selden/3349/article
■事件(ラフェール、L’Affaire

2009年3月5日、フランスのパリ政治学院(Sciences Po)、国立政治学研究所(National Foundation for Political Science)の静かな敷地内で、異様な出来事が起こった。パリ政治学院は過去において、そして現在も、フランス政府エリートのほとんどを輩出している。「記憶、歴史の記述、そして民主化(Memory, The Writing of History and Democratization)」をテーマとした大規模会議の初日で、政治学者、社会学者、歴史家が集い、第二次世界大戦、スターリン主義と毛沢東主義、そして近年のアフリカ戦争など、多岐にわたる問題について議論が交わされた。約100人が主要講堂の一つに集まっていた。最初のセッションが終わろうとしたその時、聴衆の中から一人の女性が講演者のテーブルに駆け寄ってきた。彼女は典型的な学会出席者ではなかった。執行官(bailiff)である彼女は、「フランス・ササカワ財団(French Sasakawa FoundationFFJDS)」の要請により、講演者の一人にパリ地方裁判所への召喚状を手渡すためにそこにいた。財団は、その学者に対して、名誉毀損訴訟に提訴しており、この事件を公表するためにこの派手な手段を選んだのだ。

数カ月前、件の学者は、現在開催中の会議の共同主催者を含む約60名の同僚とともに、主にフランス・ササカワ財団が資金提供している日仏外交関係樹立150周年記念行事への支援を撤回するよう求める、ベルナール・クシュネルフランス外務大臣宛の嘆願書に署名していた。

請願者たちの懸念は、特に外交記念行事という象徴的な文脈において、笹川良一のような非常に物議を醸す歴史上の人物の名をフランス共和国の名と結びつけることを避けることであった。請願者の多くは、笹川関連団体全般、すなわち笹川「ネットワーク」(Sasakawa “network”)、あるいは日本財団のウェブサイトで「大規模な組織群(large family of organizations)」と表現されているもの、が今日の日本における歴史修正主義(historical revisionism in Japan)と結びついていることを認識していたため、この公式行事のスポンサー選定になおさら懸念を抱いていた。

後に、フランス外務省がこの件について独自に調査を行い、日仏共同行事への参加を取りやめる決定を下したことが判明した。大臣は職員に対し、行事への参加を控えるよう指示し、行事に関連するすべての広報資料からフランス・ササカワ財団のロゴを削除するよう要請した。大臣の決定にもかかわらず、あるいはその決定があったからこそ、主催者であるフランスの民間シンクタンクとパリ駐在の日本大使館はイヴェントの開催が強行された。目撃者によると、参加者は主に日本人で、少人数だったという。主催者の対応、そして最終的にフランス・ササカワ財団が法廷闘争に踏み切った理由を理解しようとすると、「面目を失った(loss of face)」という思いが頭に浮かぶ。しかし、必然的に「この事件で誰の面目が失われたのか」という疑問も浮かんでくる。

フランス・ササカワ財団は当初、一連の出来事におけるフランス外務省の役割については言及を避けつつ、自らが主催したイヴェントの妨害を、名誉と名声が汚されたという主張の中核として提示した。しかし、その主張が展開するにつれ、問題となっているのはむしろ笹川良一の名誉と名声であることがすぐに明らかになった。財団は笹川良一の記憶を熱心に守ってきたのだが、そのような目的は財団の掲げる使命には明らかに欠落している。

●その物語と批判者たち(The Narrative and its critics

これまで述べてきた「笹川」とは、笹川良一(1899-1995年)という人物の姓であると同時に、彼が残した有形無形の遺産を指している。この遺産とは、笹川良一が日本国内および世界各地に設立した数々の機関に関するものであると同時に、彼の後継者や生き残った側近たちが築こうとしている物語に関するものでもある。

笹川良一は行動力のある人物であり、晩年になって初めて、彼の親族や彼が資金提供した財団が現在構築しつつある壮大な物語の基礎となる、一貫した自画像を描き始めたのである。 1981年、笹川の旧友であり、メディア・出版界の大立者ロバート・マクスウェルは、笹川の生涯を称える本を執筆依頼し、彼を「平和の戦士(warrior for peace)」であり「世界的な慈善事業家(global philanthropist)」と評した。これは、ある意味で、後から振り返ってみると長期にわたる伝記プロジェクトの第一歩であったと言える。その目的は、文字通り「注目すべき」歴史上の人物を描き出すことだった。善悪の範疇を超えた人物、あるいはもっと平凡な言い方をすれば、「笹川良一であることは、決して謝る必要がないことを意味する(being Ryoichi Sasakawa meant never having to say you’re sorry)」と受け入れられるような人物を描き出すことだった。笹川良一は「別世界からの使者(messenger from another world)」であり、母親と祖国への深い愛情が物語の中心となり、犯罪、暴力的な政治、愛国主義といった粗野な要素は拭い去られ、寓話的な使命感が物語の核となる。論理的に言えば、笹川の老年の夢であったノーベル平和賞の受賞につながるはずだった。しかし、それは実現されないものだった。

笹川の死後、国際紙に掲載された訃報記事は、この噂がまだ根付いていなかったことを如実に示していた。イギリスの日刊紙『インディペンデント』紙は次のように報じた。「日本の最後のA級戦犯が、90代の大富豪としてこの世を去った。ほとんどの人が目立たないようにすることに全力を尽くすこの国で、笹川良一は利己主義、貪欲、冷酷な野心、政治的悪辣さの怪物として際立っていた・・・」(1995年7月20日)。別のイギリスの新聞『ガーディアン』紙は次のように報じた。「慈善事業家、億万長者、政治家、ノーベル平和賞候補、偉人・善良なる人々の友人、戦争犯罪者、そして日本の“ドン”であった笹川良一が死去した。(中略)死後も論争は続き、日本で最も売れている新聞である読売新聞は、彼を『現代の怪物(monster of modern times)』と評した。(1995年7月20日)」。フランスの日刊紙『ル・モンド』紙も同様に、「元戦争犯罪者であり、日本の暴力団のドンの一人であった笹川は慈善事業に転向した。(中略)日本では権力を持ち恐れられていたが、彼の経歴を無視する者は誰もいなかったので、尊敬を集めることはほぼなかった」(1995年7月20日)。

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ムッソリーニと笹川。『ニューヨーク・タイムズ』紙の死亡記事には、「1939年、彼は20機の爆撃機のうちの1機でローマに飛び、ムッソリーニと写真を撮った」と記されている。

フランス人東京特派員が言及していたのは、笹川の正式な伝記には記載されていないが、日本人著者が執筆した様々な論文や書籍に見られる、時に危険を冒しながらも見られる経歴についてだった。こうした経歴(その断片は欧米の書籍にも見られる)が認識されているからこそ、笹川を名乗る資金提供が、特に学界でしばしば論争を巻き起こしてきた理由が説明できる。1980年代初頭、友人であり首相でもあった中曽根康弘が掲げた「国際化(internationalization)」政策に呼応し、笹川良一は欧米諸国の高等教育機関における自らの存在感を主張するプロジェクトに乗り出した。日本造船振興財団の莫大な財源を活用し、笹川は1980年に日米財団、1983年にイギリス・ササカワ財団、1985年にスカンジナビア・ササカワ財団、そして、1990年には日仏財団(FFJDS)を設立した。これらの組織のそれぞれの管理者は、名門大学に対し、多額の寄付を申し出た。多くの場合、これらの寄付は受け入れられたが、議論なく受け入れられることは稀で、シカゴ大学、MIT、カリフォルニア大学サンディエゴ校、カンザス大学、ハワイ大学、マギル大学、オーストラリア国立大学など、実際に拒否されたケースもあった。これらのケースで生じた論争は、笹川の支持者たちによって反日感情を煽る試みと解釈された。東京では、公式の反応は「当惑(bewilderment)」であった。

笹川良一の死から15年が経過した現在も、笹川を名乗る資金の受け取りをめぐる論争は収束していない。つい最近の2008年には、スウェーデンの公共ラジオがこの件について情報に基づいた詳細な番組を放送し、大学の代表者たちが笹川関係からの寄付から距離を置く姿勢を公に表明するに至った。しかし、こうした論争が依然として続いていることを最も如実に示しているのは、笹川ネットワークの中核組織である日本財団自身がウェブサイトに掲載したコメントである。「彼(笹川良一)は、その露骨な国家主義的姿勢と、戦後に築き上げた賭博を基盤とした慈善事業組織に起因する、今もなお彼を取り巻く論争で最もよく知られている」。これは、笹川の名前と遺産をめぐって渦巻く問題に関して、非常に示唆に富むが、同時に不十分な言及である。

笹川良一の信奉者たちは、後援者自身が提示し得なかった、はるかに首尾一貫した説得力のある物語を創り出そうと試みてきた。過去5年間で、少なくとも6冊もの書籍が出版されており、そのほとんど、あるいはすべてが笹川ネットワークの財政的支援を受けている。笹川陽平は、伊藤隆が編纂した『笹川と東京裁判』というテーマの3巻本を依頼した。この著作は、笹川良一の名誉回復と極東国際軍事裁判(International Military Tribunal for the Far EastIMTFE)の修正主義的見解の再確認を両立させる内容となっている。日本財団はまた、ケンブリッジ大学のある日本人博士号候補学生による笹川良一の獄中日記『巣鴨日記』の英訳にも資金提供を行っている。出版社のウェブサイトに掲載された本書の紹介文は、批判が一切ない点で自伝の著者本人もきっと歓迎したであろう。これらの出版物は、日本財団のウェブサイトでの紹介と合わせて、二面的な力学を特徴とする共通の言説を共有している。すなわち、笹川良一の経歴の犯罪性を無視することで否定的な側面を消し去り、1945年に笹川が「起訴を自ら希望し(volunteered for indictment)」、最終的に「無罪(acquitted)」になったと主張することで肯定的な側面を作り出すというものである。実際、連合国が彼を逮捕する重大な理由があったこと、そして彼に対する告訴が正式に取り下げられることはなかったことは周知の事実である。
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日本各地に点在する、老いた母を背負った自身の像や、モーターボート競技事業を通じて広めたイメージと同様に、笹川は文学的な意味でフィクションに近い自画像を創作し、感情とよく知られた軍国主義的レパートリーとの関連性を織り交ぜていた。後継者たちが現在構築している物語では、この叙情的な側面は幾分薄れ、より抽象的で構造化された笹川の描写に置き換えられている。その描写は、日本の超国家主義的な過去に対するいかなる責任からも彼を排除し、その過去を隠蔽する、明確ではあるものの説得力に欠ける描写となっている。

●笹川良一は「A級戦犯」だったのか?(Was Sasakawa Ryōichi a “Class A war criminal”?

一部の主要辞典や主流メディアは、笹川良一を「A級戦犯」と限定的にしか表現していない。笹川が判決を受けることなく釈放されたという事実を考えると、このような表現は不正確だと主張する人もいるだろう。しかし、他の出版物が用いている「戦争犯罪の容疑者(suspected war criminal)」という表現の方が正確だろうか? 「容疑(suspected)」とは、逮捕されなかった、あるいは実際に裁判にかけられて無罪となった、あるいは少なくとも何らかの正式な法的手続きを経て無罪となったという意味かもしれない。しかし、実際にはそうではなかった。彼は「A級戦争犯罪」容疑で逮捕され、正式に無罪となったことは一度もなかったのだ。

東京裁判は、当時採られた判決と、採られなかった判決の両方によって、多くの根本的な問題を提起した。天皇をいかなる種類の戦争責任からも免除するという決定、あるいは植民地化に関するあらゆる問題を棚上げするという決定、そして広島と長崎への原爆投下の合法性を問わないという決定は、「勝者の正義(victor’s justice)」への懸念を超えて、戦争と平和の問題への対処における国際法と歴史的記憶の役割について、長期にわたる複雑な議論を生み出した。採られなかった決定の中には、1945年に「平和に対する罪(crimes against peace)」(A級戦争犯罪)を犯したとして逮捕され、最終的に裁判にかけられることも無罪判決を受けることもなかった多くの個人の運命に関するものがあった。検察によるこの不決定は、国際法(international law)の観点から、これらの人々を法的に宙ぶらりんの状態に置いてしまった。しかしながら、歴史的観点から見ると、この不決定は、学者や関心を持つ市民によって未だ解明されていない影響を及ぼしている。
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1945年11月3日の「降伏後の日本国固有の軍政に関する基本指令(the Basic Directive for Post-Surrender Military Government in Japan Proper)」に基づき、1945年12月までにA級戦犯の疑いのある者たちの逮捕は完了した。こうして約100人が巣鴨プリズンに拘留された。しかし、1946年春には、それぞれのファイルの実際の内容に関わらず、裁判にかけられるのはそのうちの5分の1までと示唆されていた。主任検察官のジョセフ・キーナンは相反する圧力に直面していた。1つは、法廷に送られる人物の選定において、法的考慮よりも代表性を優先すること(priority to representativeness over legal considerations)だった。もう1つは、裁判は教育的なものであるため、迅速かつ規模を限定したもので、最終目的は侵略戦争を計画し開始することの犯罪性を後世に効果的に示すことであった。代表性原則に対する反論は、A級容疑で拘留された約100名は、数千万人の日本人の中から根拠のない理由で選ばれたため、法的正当性(legal justification)なしに先験的に釈放することはできないというものだった。東京裁判の初期段階で、ジョセフ・キーナンは、100名もの被告人を裁判にかけることは物理的に不可能と考えつつも、合意された25名(最終的には28名に増員された)の最初の裁判に続いて、第二審、あるいは第三審まで行うという考えを提唱した。こうして、A級容疑者の代表的集団を早期に裁判にかけたいという要望を満たしつつ、残りの被拘留者には再審を含め、選択肢を残しておくという妥協案が生まれた。

翌年、数名の囚人が釈放されたが、1947年春までに、当時日本国民によって「A級戦犯(class-A war criminals)」とされていた50名が、第二審への選考も無罪判決も下されず、宙に浮いたままであった。1947年夏、これらの被拘禁者の状況を明らかにするよう圧力を受け、ジョセフ・キーナン検事は彼らの審査再開を命じ、後に他の検察官に相談することなく、第二次A級戦犯裁判を開くと公表した。国際検察局(International Prosecution SectionIPS)による審査の結果、さらに31名の被拘禁者が釈放され、さらに19名が発表されていた第二次審理において選考された。厳選された被告の中には、笹川良一だけでなく、笹川の親友で彼と同様に軍と裏社会の仲介役を務めた児玉誉士夫、1945年8月に思想警察[thought police](特高警察)の長官で内務大臣を務めた安倍元基、そして満州国の経済統制を担当し、アメリカに対する宣戦布告に署名し、後にドワイト・アイゼンハワー政権時代にアメリカにとって最良の同盟者として生まれ変わる岸信介が含まれていた。笹川もまた、彼独自の方法で、裏で同じ転生の道を辿った。彼は真珠湾攻撃を積極的に支持したが、10年後には「対共産主義勝利連合(Federation for Victory over Communism)」(勝共連合)への関与が示すように、アメリカの軍事政策立案者に仕える事実上の友人であり、実権を握る存在となった。

1947年19月、国際検察局(IPS)による徹底的な審査を経てマッカーサーのティームが作成した笹川良一に関するファイルには、次のように記されている。「容疑者は、軍人以外では、日本において全体主義と侵略政策を展開した最悪の犯罪者の一人であることは明らかである。彼は戦争に積極的に参加し、不正な利益で富を築いた(ubject is clearly one of the worst offenders, outside the military in developing in Japan a policy of totalitarianism and aggression. He was active in the war and grew rich off ill-gotten gains)」。そして、結論として、「対象者をA級戦犯容疑者として拘留し、東京国際軍事裁判で裁判にかける(subject be retained in custody as a Class A war criminal suspect and tried before an International Military Tribunal in Tokyo)」ことを勧告している。

数カ月後、ワシントンの政治における雰囲気を反映して、ジョセフ・キーナン検事は第二審は結局それほど良い考えではないと断言し、進行中の第一審の「期待外れ(sharp anti-climax)」になりかねないと指摘した。そして、いわば「A」事件を「B」(通常戦争犯罪[conventional war crimes])または「C」(人道に対する罪[crimes against humanity])の裁判に再利用することを提案した。歴史家の戸谷由麻は、国際検察局がこれまで収集した文書は「平和に対する罪(“crimes against peace)」の捜査に特化しており、それ自体が「BC」犯罪の可能性の捜査には使用できないため、このような提案が実際に実行される可能性は極めて低いと指摘している。A級戦争犯罪容疑をB級またはC級戦争犯罪容疑に転換することは、時間も資源も限られている新たな捜査路線を追求することを意味していた。また、「平和に対する罪」を調査するという本来の目的、すなわち戦争の意義に関するより根本的な考察が失われる可能性もあると指摘できる。この2つの懸念は、占領当局の法務局が作成した「BおよびCの罪状に対するA級被疑者の裁判」という件名の覚書 (1948年9月25日) と、同じく法務局が作成した、以前に選ばれた19名のA級被告人の釈放文書 (1948年12月 24日) に現れている。この文書には、当然のことながら、「彼らはA級犯罪の罪状では裁判にかけられないと判断された」とだけ述べられており、容疑が取り下げられたとはどこにも示されていない。

法務部が、明確な戦略上の理由から第二次A級戦犯裁判の計画を中止するよう検事総長に指示したことについて用いた「断定(determined)」という言葉を、日本財団が創設者の経歴を語る際にも用いているのは興味深い。ただし、その意味は全く異なる。財団のウェブサイトには、「3年間の尋問の結果、笹川はA級戦犯として無罪であると判断された(three years of interrogation determined that Sasakawa was not guilty of Class A war crimes)」と記されている。そして、その段落は「笹川は、裁判にかけるだけの証拠が不足していただけでなく、ましてやA級戦犯の有罪判決を裏付けるだけの証拠もなかった多くの人々の一人であった(Sasakawa was one of the many for whom the evidence was insufficient to bring to trial, let alone support a Class-A conviction)」と結論づけている。

●現代日本における歴史修正主義の一覧表(A tableau of historical revisionism in present-day Japan

日本人歴史家である粟屋憲太郎は、笹川の戦後のモットー「世界は一家、人類みな兄弟」(「世界はひとつの家族、人類はみな兄弟[the world is one family, all human beings are brothers]」)は、巣鴨プリズン時代に触発された、戦前の有名なスローガン「八紘一宇」(「一つの屋根の下に全世界を置く(all the world under one roof)」)の焼き直しと解釈できると主張する。粟屋は、東京裁判の日本側弁護団団長であった清瀬一郎が「八紘一宇」を英語の「universal brotherhood」と翻訳することでその目的を合理化したと指摘している。そうすることで、清瀬は以前のスローガンに、近衛文麿が望んだように、あるいは岸、児玉、笹川がそうなったように、日本の超国家主義の主要人物の何人かが「新生日本(New Japan)」の主要人物として生まれ変わるのにぴったり合う柔軟性を与えた。「世界は一家」というスローガンの実際の系譜についてこれ以上考察する必要はないが、このスローガンが今日でも笹川の支持者たちによって用いられており、「笹川良一ヤングリーダーズフェローシップ基金」(SYLFF)の中核ヴィジョンとして位置づけられていることを指摘しておこう。「故笹川良一のヴィジョンの成果」と称されるこのプログラムは、毎年、世界各国の数十の大学に100万ドルの寄付を行っている。その資金力、ひいては影響力の大きさを考えると、この基金が推進すると主張するヴィジョンが、一体どのような遺産に言及しているのかを問うのは当然だろう。そして、その観点からすれば、粟屋氏の「古臭い(old hat)」論は検討に値する。

前述の通り、日本財団は笹川良一の「妥協のない国家主義的姿勢(unapologetically nationalistic stance)」を公式に称賛している。実際、笹川良一はその長い生涯において、数百万人の死と言語に絶する残虐行為を含む甚大な破壊を引き起こした政権の有力な支持者であったことを一度も謝罪しなかった。巣鴨での日々から死に至るまで、笹川良一は個人的な忠誠心においても紛れもない一貫性を示していた。1946年11月に送られ、占領当局の検閲機関に差し止められた手紙の中で、笹川は次のように記した。「ある新聞は、連合国当局がドイツの第一級戦犯を処刑し、復讐の念を消し去るためにその遺灰を海に撒いたと報じた。これはあの勇敢な魂を滅ぼすものではない。しかし、宗教を知らず信仰心も持たない民族による卑劣で非人道的な行為として、後世の歴史家から必ずや批判されるであろう」。同じ関心と忠誠心から、笹川は1964年にフィリピンに赴き、処刑され、適切な埋葬もされなかったと思われる多数の有罪判決を受けた日本の戦犯の遺骨を捜索した。その中には、マニラでの大規模残虐行為で非難されたフィリピン駐留日本軍司令官の陸軍大将の山下奉文や、バターン死の行進の責任を問われた元陸軍中将の本間雅晴も含まれていた。笹川良一は記者会見で、死刑執行された遺体が「立派な墓地に敬意をもって埋葬(respectful burial in a respectable cemetery)」されなければ、日本とフィリピンの間に「真の友好(true friendship)」は築けないと説明した。

笹川良一の政治的親近性は、児玉誉士夫との長年の友情、そして後に文鮮明師(統一教会創始者)との交流によって示されており、これらはいずれも戦前から戦後までの彼のアイデンティティを繋ぐ連続体を形成している。このアイデンティティは、笹川の後に様々な形で生き残り、笹川ネットワークの人物や行動に顕著に表れている。彼の政治的親近性を振り返ると、例えば2000年11月に日本財団がアルベルト・フジモリ元大統領を支援したことは、驚くべきことというよりむしろ既視感を覚える。当時、ペルー政府当局から汚職と人権侵害の容疑でペルーから逃亡していたフジモリ元大統領は、ペルー政府当局から汚職と人権侵害の容疑で告発されていた。翌月、当時日本財団会長を務めていた小説家の曽野綾子は、財団本部で記者会見を開き、フジモリを自宅に招き入れたことを発表した。フジモリはそこで「禁欲的な生活(life of a stoic)」を送っており、最終的に1年間をそこで過ごした。曽野綾子は、笹川良一氏の死後、日本財団の理事長に就任し、2005年7月まで務めた管理責任とともに、創設者の政治的アイデンティティの中核である「妥協のない国家主義的姿勢(unapologetically nationalistic stance)」を存続させた。

曽野綾子が靖国神社への日本政府関係者の公式参拝を支持すると表明したのはつい最近のことだ。歴史家ジョン・ブリーンが指摘するように、曽野は、以前は靖国神社への公式参拝は違憲との立場を堅持していたが、2005年に立場を転換し、2005年8月15日に夫と共に参拝することを表明した。一方、太平洋戦争末期に沖縄で発生した強制大量殺戮に関する作家大江健三郎の見解に対する曽野の反対にはより長い歴史がある。1973年に出版された曽野綾子の『沖縄物語の背後にある「神話」』に関する本は、帝国陸軍が島民数百名に自殺を強制したという説を否定し、それらの死は天皇と国家への「愛(love)」から生まれた自発的な行為だったと主張する明確な意図を持っていた 陸軍の刑事責任という点については、まさにその点を、大江はその3年前に出版した沖縄に関するエッセイで指摘していた。そのため、2005年にノーベル文学賞受賞者となった大江健三郎が1945年に沖縄に配属されていた元兵士2名から名誉毀損で訴えられたとき、予想通り、曽野綾子は原告側に味方し、原告側はすぐに藤岡信勝が率いる歴史修正主義者団体「自由主義史観研究会」の支援も受けた。しかし大江が報告しているように、曽野綾子はすでに数年前から自らの立場を明確にしていた。2000年に彼女は、沖縄の人々が自殺を強制されたという「証拠(evidence)」(書面による命令など)はないと公に述べ、沖縄の大量殺戮に関連して大江が軍について述べた言葉は「非人道的なリンチ(an inhumane lynching)」に当たると付け加えた。

曽野綾子は、1990年代以降の日本における歴史修正主義潮流の中心人物である笹川系(galaxy)の一人である。前述のように、歴史家である伊藤隆は、笹川陽平の依頼で編纂された最新の笹川良一公認伝記の編者であり、「非マゾヒズム的(non-masochistic)」な日本史観を伝える教科書の出版を目指す団体「つくる会」の創立メンバーでもある。ここでの「マゾヒズム(masochism)」とは、特に南京大虐殺といった日本の超国家主義的過去の最も暗い側面を認めることを指す。笹川系のもう一人の著名人は、日本財団の評議員を務める言語学者の渡部昇一である。渡辺は「自虐史観(masochistic view of history)」と闘っており、特に南京で殺害された民間人はほんの一握りで、それどころか日本軍は中国国民に食糧援助を行ったと主張している。渡辺昇一氏はまた、2007年にアメリカ連邦議会に宛てた、「慰安婦(comfort women)」に対する日本政府の責任を認めるよう求める決議案の提出に抗議する書簡の共同署名者でもある。渡辺が主催した記者会見で公表されたこの書簡は、太平洋戦争中には「性奴隷は存在せず(no sex slaves)」、兵士から金を儲けている「プロの従軍売春婦(professional camp followers)」しかいなかったとして、決議は誤りであると主張した。この文書には、笹川ネットワークのもう一人の主要人物である日下公人を含む数人の日本の知識人が署名している。日下は、日本財団が後援する財団法人「社会貢献支援財団」の​​理事長を務めている。この財団の目的は、「報道や社会にほとんど知られていない善行や英雄的行為を広く世に知らしめる」ことだ。それ以前は、1997年から2006年まで東京財団の理事長を務めた。

東京財団は、1997年に日本財団の傘下の組織として設立された。日本財団のウェブサイトでは、東京財団を「日本初の真に自立した民間の非営利シンクタンク(Japan’s first genuinely autonomous, private, non-profit think tank)」と紹介している。また、設立10周年記念式典で発表されたように、「笹川良一ヤングリーダーズフェローシップ基金を通じて、次世代の人材育成にも取り組んでいる」ということだ。東京財団の調査担当理事によると、東京財団のもう一つの目的は、「海外における日本に対する偏見や誤解」を是正することである(to correct “biased views and misapprehensions of Japan overseas”)。そのため、東京財団は2005年に「南京事件をめぐる問題」を整理するための2年間のプログラムを開始した。このプログラムの目玉は、東中野修道著『南京大虐殺』の普及活動であった。この本は数千部(正確には2424部)が世界中の個人や機関に送られ、主要な公共図書館や大学図書館にも送られた。東京財団はまた、この本と一緒に送られた東中野の著作の12ページの概要も出版した。この出版物は次の段落で始まる。

「本書は、1937年12月13日、日本軍が南京を侵略した際、そしてその後南京で起こった出来事の真実を掘り起こし、明らかにすることを目的とした研究書である。一次資料の綿密な調査と再検討を経て、現在議論されている問題の大半を解決する情報が得られ、『南京大虐殺(Nanking Massacre)』は戦時中および戦後のプロパガンダの産物であることが明らかになった。本書の恩恵なしに、南京に関する事実を理解することは不可能である」

著者(東中野修道)自身が、これがまさに本書の核心的な主張であることを認めており、序文で読者に「南京大虐殺はなかったという結論に至る新たな証拠」と題された最終章から読むことを推奨している。東中野はまた、伊藤隆、渡辺昭一、そして杏林大学教授で日本財団の評議員である田保忠衛など、自身の著作の日本語版を英語に翻訳するよう「勧奨した(urged)」人々への特別な謝意を伝えている。

『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙はかつて、日本財団を「ハンセン病研究から国家主義的なプロジェクトまであらゆるものに資金を提供する」機関と評した(2005年2月16日)。これは、日本財団が沖ノ鳥島開発のために行った投資を報じた記事の中でのことだ。沖ノ鳥島は、日本と中国の間で、岩か島かをめぐる論争の中心となってきた。日中両国の領土境界に重大な影響を及ぼすこの問題で日本政府が中国と対峙することを躊躇しているように見えた時期に、日本財団は、沖ノ鳥島とその周辺海域に対する日本の権利を確定するのに貢献する1000万ドルのプロジェクトを発表した。東京財団による東中野修道の研究の推進、そして東京財団が日本財団に財政的に依存しているという事実に基づくと、ウォール・ストリート・ジャーナルによる描写はここにも当てはまるかもしれない。ここから生じる疑問は、東京財団が「次世代の人材(the next generation of human resources)」育成を目指していることを考慮すると、それが重要なのかどうかという点である。2006年6月、アメリカの複数の大学図書館が東京財団から東中野の著書を受け取った際、H-ASIAのディスカッションフォーラムで短い議論が行われた。歴史家のジョーダン・サンドは、欧米の大学における日本・東アジア研究の主要な資金提供者が南京大虐殺の否定を広めていると指摘し、笹川の資金提供を受けた機関は、本書そのものを綿密に批判的に検討した上で、その評価について一般市民や支援者に直接意見を表明する義務があると主張した。H-ASIAでは、この提案は関心を寄せられるどころか、むしろ沈黙に包まれたようだ。しかし、他の研究者たちはこの問題について議論している。

ジョーダン・サンドの考察を追いかける上で、日本財団が「日本のために(for Japan)」、発言するという暗黙の野望を抱いていたことは注目に値する。1995年、当時日本では「笹川財団」として知られていた財団は、日本政府から名称変更を求められ、それを受けて「日本財団(Nippon Foundation)」に改称すると発表した。この発表は、政府が資金提供している公式の「国際交流基金(Japan Foundation)」には歓迎されなかった。この基金は、名称の類似性が、特に海外で、不必要な曖昧さだけでなく、混乱を招くことを懸念した。この曖昧さは、2009年6月に中国の国防部長が、日本財団が後援する「笹川日中友好基金」(理事長は笹川陽平)の代表団を迎え、日中軍事協力について話し合ったときに実際に作用したようだ。同じ笹川ネットワーク機関は、2010年2月に中国人ジャーナリストのグループを日本に招待し、「実際の日本の生活の一側面(a slice of real Japanese life)」を知ってもらおうと、相撲部屋、京都、広島、そして靖国神社を含むツアーを企画した。靖国神社を含む訪問を企画することで「実際の日本の生活」を代表するという日本財団の意向(authority)は、東中野の著作を宣伝することで南京に対する「日本の見解(Japanese view)」を代表するという意向と共鳴している。どちらの場合も、全く異なる日本の姿が顕著に欠けている。それは、靖国神社の戦争物語に自らを同一視しない日本、そして南京大虐殺やその他の残虐行為に関する著作で学術的に優れているだけでなく、その厳密さと真摯な問いかけに謙虚さをも感じさせる学者たちの日本である。

●倫理的相対主義と知的議論の司法化の融合(The mix of ethical relativism and judicialization of the intellectual debate

20年前、カナダのヨーク大学の学長が、一部の教員の反対を押し切って笹川財団からの資金提供を受け入れた際、学長は、当時まだ存命だった笹川良一は、セシル・ローズのような「黒人から土地を奪った(“stole land from black people)」「世界で最も寛大な慈善事業家たちの多く(many of the world’s most generous philanthropists)」の足跡をたどったに過ぎないと主張し、その決定を正当化した。しかし、ローズ財団の公式ウェブサイトには、日本財団のウェブサイトに掲載されている笹川良一のプロフィールほどのトーンと長さで、創設者の人物像は示されていない。ローズ財団は、セシル・ローズと彼の財団の遺産に関する参考文献を数冊紹介しているが、それらは批判的な内容とは程遠い。ローズ財団が、アパルトヘイト体制を含む、南アフリカにおけるイギリスの植民地支配に起因する犯罪を否定する論文を推進してきたという兆候も見られない。仮にそうであったとしても、ヨーク大学学長が提示した正当化の論理を真に明確にすることはできないだろう。学術的後援に付随する倫理的期待を定義するために「なぜわざわざ(why bother)」という基準を採用しない限り正当化はできないだろう。しかしながら、笹川とローズの類似点は、国際的な議論においてますます顕著になっている重要な問題を示唆している。それは「西洋の偽善(Western hypocrisy)」という表現で要約される問題であり、人権や民主政治体制といった問題に関して規範的な判断を下す西洋(その定義は様々である)の正当性に疑問を投げかける。この問題の明白な例の一つは、植民地時代の過去に関する公式の自己省察(self-introspection)がほぼ欠如していることが、集団記憶の管理(the management of collective memory)における規範設定者としての旧ヨーロッパ帝国主義諸国の信頼性をいかに損なうかということである。

しかし、この問題への取り組みは原則的には進歩であるはずなのに、問題の捉え方によっては、逆効果をもたらすこともあった。東京裁判を「勝者の正義」と特徴づけることに与えられた多様で矛盾した意味は、普遍的正義の訴えが、国際軍事法廷で示されたものよりもさらに狭い利益に矮小化されうることを如実に示している。渡部昇一は、米連邦議会に提出された「慰安婦」決議に抗議した際、アメリカが謝罪していない日本への原爆投下は人権問題であり、それと比較すると「慰安婦」問題は「単なる商業行為(only a commercial act)」と定義できると主張した。しかし、原爆投下の合法性や道徳性、あるいは植民地主義の犯罪的側面といった国際法や国際倫理の問題を提起することが、女性や少女の大規模な拉致、強姦、拷問という残虐行為といった具体的な問題を無視することを意味するというのは、空想的に思える。東京裁判当時から既に明らかであった国際軍事法廷の限界は、慰安婦問題への対処の失敗という点で、後から振り返ってさらに明らかになった。それでもなお、この機関が生み出した普遍的な野心、そしてまさに遺産を認めつつ、それらの限界とそれが提起する深刻な問題について熟考することは可能であるはずである。

国際倫理に関する議論の拡大を、誰もが罪を犯し、誰も責任を負わないという道徳相対主義(moral relativism)の実践と混同することは、市民と政府が共に政治的複雑さへの対処において直面する困難と共鳴する点で、なおさら問題である。世界的な政治参加の高まりにより、ますます多くの問題に関して相反する見解が膨張する中、多くの社会は司法判断の客観性という前提の保証(the reassurance of the supposed objectivity of judicial findings)を求めてきた。政治の裁定(the adjudication of politics)、それ自体が、特に近年の民主化過程の文脈において、市民社会と法の支配(civil society and the rule of law)の歓迎すべき発展と見なされるならば、正当な学術研究の抑圧を含む矛盾した副次的影響をもたらす可能性がある。民主政体国家における学者や知識人に対する訴訟は、最近まで権威主義体制(authoritarian regimes)の特権であったが、こうした傾向がもたらす萎縮効果の一つだ。

本稿の出発点に戻ると、笹川ネットワークのフランス人パートナーが提起した名誉毀損訴訟は、笹川良一の歴史、ひいては日本の帝国主義戦争と東京裁判の遺産について、フランスの国内法廷から最終的な判断を得ることを目的としている。原告が主張する注目すべき論点は、日本の暴力政治における笹川の役割だけでなく、ファシズム全般の歴史的意義を軽視している点である。もし原告が勝訴すれば、知的活動の司法化は、批判的探究の沈黙と倫理的相対主義の制度化につながるに違いない。

※カロリーヌ・ポステル=ヴィネイ:パリにあるパリ政治学院国際研究センター研究フェロー。フランス・ニッポン財団対カロリーヌ・ポステル=ヴィネイ裁判の被告でもある。

※マーク・セルドン:コーネル大学東アジアプログラム上級研究アソシエイト。『アジア・パシフィック・ジャーナル』コーディネイター。

※本稿は『アジア・パシフィック・ジャーナル』のために執筆された。

※本稿は、現在進行中の訴訟と、大西洋と太平洋の両岸の学者や知識人との数多くの交流に触発されて執筆された。著者たちは特に以下の方々の関心と示唆に心から感謝する。ハーバート・ビックス、ジョン・ダワー、ギャヴァン・マコーミック、田中ユキ、デイヴィッド・カプラン、マグヌス・フィスケショー、ブルース・カミングス、チャルマーズ・ジョンソン、ダチン・ヤン、リチャード・サミュエルズ、ボブ・ワカバヤシ、ハリー・ハルトゥーニアン、スヴェン・サーラ、シュテフィ・リヒター、トビアス・ヒュビネッテ、バーティル・リントナー、ピエール・スイリ、フィリップ・ポンス、ジャン=フィリップ・ベジャ、ポール・ジョビン、フィリップ・ペルティエ、クレール・アンドリュー。

(貼り付け終わり)

(終わり)

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シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体 
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『トランプの電撃作戦』
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世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。

 エプスタイン・ファイルで注目を集めているギレーヌ・マクスウェルの父親のロバート・マクスウェルについて、改めて学ぶ。伝記と伝記作家のジョン・プレストンのインタヴューを基にした記事をご紹介する。ロバート・マクスウェルは1991年に「ヨットからの転落事故」で亡くなった。マクスウェルは、イギリスだけでなく、アメリカでもいくつも新聞を所有していたこともあり、世界のメディア王と呼ばれていた。また、イギリス、イスラエル、旧ソ連のトリプルスパイだったという話もあり、死亡後には日本語で本が出ている。

 マクスウェルはチェコスロヴァキア出身のユダヤ人で極貧の中で生まれ育った。十代で、ナチスの侵攻によって故郷を追われ、イギリスに逃げることが出来た。彼の家族は全員がアウシュビッツで亡くなっている。イギリス軍で活躍し、その後は出版社経営をスタートさせて巨万の富を得て、新聞社をいくつも買収して、メディア帝国を築き上げた。同時期に活躍していたルパート・マードックとの争いは語り草になっている。また、政界進出を目指して、下院議員にもなったが、こちらの方はうまくいかなかった。熱心なイスラエル支援者、投資家で、死後はイェサレムにあるオリーヴ山に埋葬されている。その後、彼のメディア帝国は巨額の負債のために崩壊したが、娘ギレーヌのことがなければ、「冷戦期のスパイの大立者の都市伝説」の主人公として語られる人物だっただろう。

 ギレーヌが関係した二人の男性、父ロバート・マクスウェルと恋人ジェフリー・エプスタインは共に、イスラエルとの深い関係を持つユダヤ人で、謎に包まれた死を遂げた。マクスウェルは上流階級から拒絶されたが、エプスタインは卑劣な性的搾取を通じて、上流階級に浸透し、緊密なネットワークを形成した。そのことが暴露されつつある。全容が完全に明らかになることはないだろうが、様々な事実が出てくるだろう。エプスタイン・ファイルは西洋近代600年の築いてきた価値観や制度の陰の部分を象徴するものとなるだろう。光が明るければ明るいほど、陰は暗くなるという。エプスタイン・ファイルはまさに西洋近代の陰と言うことが出来るだろう。

(貼り付けはじめ)

粗末な丸太小屋から世界的なメディア王へ:ロバート・マクスウェルの台頭と転落(From wooden shack to global media magnate: The rise and fall of Robert Maxwell

-30年前の彼の死は未だ謎に包まれているが、イギリス作家ジョン・プレストンの新著が、この英国の新聞社の帝王の驚くべき人生を解き明かす。

ロバート・フィルポット筆

2021年2月23日

『タイムズ・オブ・イスラエル』紙

https://www.timesofisrael.com/from-wooden-shack-to-global-media-magnate-the-rise-and-fall-of-robert-maxwell/

ロンドン発。1991年3月初旬、ロバート・マクスウェルの4階建てヨットがニューヨークに到着した時、彼は権力と影響力の頂点にいたように見えた。推定10億~20億ドルの資産を持つこのイギリス人出版王は、アメリカ最古のタブロイド紙である『ニューヨーク・デイリー・ニューズ』紙の買収を完了させ、世界のメディア市場で宿敵ルパート・マードックに並ぶという夢を実現するためにニューヨークを訪れていた。

その後数日間、数週間にわたり、自称「ボブ・ザ・マックス(Bob the Max)」は勝利の瞬間を存分に味わった。レディ・ギレーヌ号でニューヨークのセレブリティたちをもてなし、毎年恒例のグリディロン・ディナーでワシントンのエリート層と歓談し、湾岸戦争での勝利後、アメリカ軍の帰国を歓迎するティッカーテープ・パレードでコリン・パウエル将軍の隣に立った。

しかし、数ヶ月後、マクスウェルはミステリアスな状況でヨットのデッキから転落した。彼のメディア帝国は莫大な負債の重みであっという間に崩壊し、銀行家たちを寄せ付けまいと必死になって会社の年金基金から何百万ドルも横領していたことが発覚し、彼の評判は永遠に傷ついた。

イギリス人作家ジョン・プレストンによる明確で説得力のある新著『転落:ロバート・マクスウェルのミステリー』の主題であるマクスウェルの成功と転落の物語はシェイクスピアの悲劇を彷彿とさせる。

プレストンは『タイムズ・オブ・イスラエル』紙のインタヴューで、「20世紀において、マクスウェルほど自らのルーツから遠く離れた人物を思い浮かべることはほぼ不可能だ」と語っている。マクスウェルのルーツは、ルテニア(Ruthenia 訳者註:ウクライナ、ベラルーシ、ポーランド東部を含めた地域)地方(当時はチェコスロヴァキアの一部)のソロトヴィノという小さな町にあり、1923年6月、マクスウェルはそこでメーヘルとチャンカ・ホッホ夫妻の9人の子供の長男として生まれた。反ユダヤ主義が蔓延し、一家は極貧生活を送っていた。家は土間と裏手に汲み取り式トイレを備えた2部屋の丸太小屋で、冬には2人の子供が1足の靴を共有していた。

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「レディ・ギレーヌ」として知られた「ダンシング ヘア」(2020年1月)

●数々の嘘、半分の真実、誇張(Lies, half-truths and exaggeration

当時ヤン・ホッホとして知られていた彼は、スロヴァキアのブラティスラヴァにあるイェシヴァ(yeshiva、ユダヤ教神学校)で学んでいた。1939年3月、ナチス・ドイツがチェコスロヴァキアに侵攻し、ルテニアをハンガリーの同盟者たちに引き渡した。ホッホは自分の横鬢(sidelocks、サイドロック 訳者註:正統派ユダヤ人が伸ばしている髪の毛)を切り落とした。これはユダヤ教との象徴的な断絶であり、この断絶は40年以上も癒えることはなかった。そして3カ月後、ウクライナのソロトヴィノを去った。彼は母、父、祖父、3人の姉妹、そして弟に二度と会うことはなかった。兄弟姉妹は一人を除いて全員アウシュビッツで亡くなった。伝記を書いたプレストンは、彼の脱出と彼らの運命が、マクスウェルの生涯を永遠に苦しめたと考えている。

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『転落:ロバート・マクスウェルのミステリー(Fall: The Mystery of Robert Maxwell)』の著者ジョン・プレストン

マクスウェルの初期の人生の多くは謎に包まれている。放送キャスターのマイケル・パーキンソンは、ほぼ半世紀後、この出来事は「真実はしばしばフィクションよりもエキゾティックであるという理論を裏付けるものだ」と述べた。

実際のところ、伝記作家プレストンが詳述するように、このエキゾティックさは、マクスウェルの嘘、半分の真実、そして誇張を好む傾向に大きく起因していた。例えば、ソロトヴィノを去った後、この少年は反ナチス抵抗運動に参加したが、スパイ容疑で捕らえられ、死刑判決を受けた。マクスウェルは後に、裁判に出廷する途中、片腕の看守を制圧し「比較的容易に(relatively easily)」脱出できたと主張している。後に彼が語り直したある回想録では、橋の下に隠れていたところ、「あるジプシーの女性(a gypsy lady)」に助けられ、手錠を外してもらったと語っている。

「この物語は興味深いものだが、多くの疑問を抱かせる」とプレストンは書いている。「当時のハンガリーの刑務所がどれほど逼迫していたとしても、両腕を備えている看守を一人も集められなかったというのは奇妙に思える」。謎めいた「あるジプシーの女婿」は、マクスウェルの初期の記述にも登場しない。「なぜ彼はこれまで彼女のことを言及する価値があると考えなかったのだろうか? 単に忘れ去ってしまったのだろうか?」とプレストンは問いかける。あるいは、彼女は「マクスウェルの想像力のどこか色鮮やかな片隅から、こっそりと舞台に現れたのだろうか?」と疑問を投げかける。

プレストンは「マクスウェルは彼自身の神話(myth)を創造した。そして、彼が自身の神話を創造した理由の一つは、隠れるための一種の煙幕(smokescreen)だったのだ」と述べている。

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ジョン・プレストン著『転落:ロバート・マクスウェルのミステリー』

しかし、これはマクスウェルの真の戦時中の英雄的行為を損なうものではない。「片腕の看守」から逃れた後、彼はベオグラード、ベイルート、マルセイユを経由してイギリスにたどり着いた。Dデイ(ノルマンディー上陸作戦)の3週間後、彼はフランスに向けて出航し、初めての戦闘を経験した後、士官に昇進した。

ウィンストン・チャーチルの演説を聞いて完璧にマスターしたイギリス訛りを身につけ、レスリー・スミス伍長という典型的なイギリス人名を名乗っていたマクスウェルは、後に包囲された連合軍小隊を救出した功績で軍事十字章を授与された。勇敢さと残酷さは混在していた。ある時、彼はドイツの町の町長を冷酷にも射殺し、抵抗を封じ込めた。またある時、彼は既に降伏していたドイツ兵にサブマシンガンを向けた。

それでもなお、プレストンが「生まれながらの策略の才能(natural flair for subterfuge)」と呼ぶマクスウェルの才能23歳までに4回も名前を変えていたは、上司から高く評価されていたことは明らかだった。フランス語、ドイツ語、英語、チェコ語、ルーマニア語、イディッシュ語に堪能な彼は、1944年10月、共産主義蜂起の脅威に関する情報を収集するためパリに派遣された。終戦後、彼はドイツに派遣され、廃墟となったベルリンで英情報部のためにスパイ活動を行った。また、チェコスロヴァキアへの潜入捜査も開始し、これは1940年代から1950年代にかけて続いた。

●メディア帝国の建設(Constructing a media empire

ベルリンと英諜報機関との関係は、後にマクスウェルがメディア帝国を築き上げた二つの基盤を証明することになる。占領下のイギリス軍のために働く中で、マクスウェルはシュプリンガー出版社のオーナーだったフェルディナント・シュプリンガーと出会った。世界最大の科学書籍・学術雑誌出版社であったシュプリンガー出版社は、膨大な量の資料を抱え、戦時中入手できなかった世界中の学者を熱心な読者として抱えていた。

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イギリスの新聞王ロバート・マクスウェルの写真(日付不明)

シュプリンガーにとっての問題―ドイツ国民は海外への大量輸送を禁じられていた―は、マクスウェルにとっては好機だった。膨大な資料の世界的な流通権を確保した24歳のマクスウェルは、大規模な鉄道とトラックを使ってロンドンへ輸送する手配をした。この大規模な物流作戦の資金の大部分は、英諜報機関から提供されたようだ。マクスウェルの死後、ある元諜報員が回想したところによると、MI6が誰かのために事業を買収したのはこれが唯一のケースだったという。これは、マクスウェルの諜報機関とのつながりが利用価値があり、かつ有益であることが証明された最後の機会ではなかった。

1950年代を通して、マクスウェルの事業ネットワークとその旗艦であるペルガモン・プレス(Pergamon Press)は繁栄し、成長を遂げた。

プレストンは「多くの点で、マクスウェルは優れたビジネスマンだった。彼は1950年代に世界最大かつ最も成功した科学雑誌の出版人となりましたが、それは偶然ではなかった」と述べている。

しかし、プレストンが「卑劣で汚い(low and dirty)」戦い方をする傾向と表現するマクスウェルの性癖はすでに明らかだった。例えば1955年、彼が主要事業の一つの資産を剥奪していたことが発覚した。つまり、彼がその事業のために借り入れた融資を、彼の新興帝国の他の事業を強化するために流用していた。これに怒った債権者たちは、英国破産庁に連絡した。これが、マクスウェルが生涯にわたってイギリスの国家体制への恐怖と憎悪、そして彼らが自分を狙っているという感覚を抱くきっかけとなった。

●政治的な役立たず(A political dud

とはいえ、1960年までにマクスウェルはオックスフォード郊外にあるイタリア風の邸宅、ヘディントン・ヒル・ホールに住み、1945年に結婚したフランス人プロテスタントの妻ベティも間もなく9人目の末っ子ギレーヌを出産することになる。マクスウェルはまた、政界進出の準備も進めており、友人たちに「私は首相になることを決めた(I’ve decided to become prime minister)」と高らかに宣言した。

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ヘディントン・ヒル・ホールの外観

しかし、1991年の出来事が示すように、マクスウェルにとって勝利と破滅(triumph and disaster)は常に隣り合わせだった。

マクスウェルの議会でのキャリア―1964年にバッキンガムの接戦区で労働党所属の下院議員に当選―は短命に終わり、輝かしいものもほとんどなかった。ウェストミンスター(イギリスの政治の中心)の社交的で伝統に縛られた世界は、自己アピールばかりで派手な一匹狼マクスウェルには不向きであり、メディアは彼の議会でのパフォーマンスを嘲笑した。1966年の労働党の圧勝で再選されたマクスウェルは、4年後に議席を失い、1974年に議席を取り戻そうとしたが失敗した。

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ロバート・マクスウェル(右)がアムステルダムで開催された世界経済フォーラムでヘンリー・キッシンジャー(中央)とオランダの政府関係者たちと歩いている(1989年4月11日)

●悲劇が何度も何度も襲う(Tragedy strikes again, and again

しかし、マクスウェルにとってさらに悲惨だったのは、より身近なところで起きた二つの悲劇だった。1957年、マクスウェル一家は3歳の娘を白血病で亡くした。4年後、長男マイケルが交通事故で重傷を負い、昏睡状態に陥り、1968年初頭に亡くなった。伝記作家のプレストンが「家族の上に垂れ込め、決して消えることのない恐ろしい暗雲」と表現するこの事故により、マクスウェルは妻や生き残った子供たちとの間に感情的な距離を置くようになった。ギレーヌは3歳になったばかりで、「ママ、私はここにいるの」と母親に告げざるを得ない、そんな状況になった。

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故ロバート・マクスウェルの娘ギレーヌ・マクスウェルがサンタ・クルス・デ・テネリフェ島に停泊中のクルーズ船「レディ・ギレーヌ」上でスペイン当局に対し家族からの感謝を表明するスペイン語の声明文を読み上げている(1991年11月7日)

マクスウェル自身は娘を甘やかし、明らかにお気に入りとして扱うようになったが、妻や他の子供たちは、彼の激しい怒りの矛先を次第に感じ、軽蔑や非難を浴びせるようになっていった。

196910月、マクスウェルはさらなる打撃を受けることになる。アメリカ最年少の億万長者ソール・スタインバーグとの有利な取引が大失敗に終わり、ペルガモン・プレスの取締役会からあっさりと解任されたのだ。マクスウェルは誰のせいにもできなかった。スタインバーグは、新しいビジネスパートナーであるマクスウェルが様々な粉飾会計処理によって利益を水増ししていたことを発見したのだ。

プレストンは、「再び、彼は自らの帝国の一部を別の部分で支えようとしていたのだ」と書いている。

そして、これが最後ではなかった。18カ月後、この失態に関する政府の報告書は、マクスウェルは「上場企業の適切な経営を任せられる人物」ではないと断言した。マクスウェルは、「いわゆるシティのエスタブリッシュメント(so-called City establishment)」による「魔女狩り(witch hunt)」の犠牲者だと反論したが、説得力があると考える人間はほとんどいなかった。

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当時世界一の大富豪だった笹川良一(右)の伝記を出版したペルガモン・プレス会長ロバート・マクスウェル(1980年10月29日)

マクスウェルは失脚したが、まだ終わってはいなかった。追放から5年も経たないうちに、マクスウェルはペルガモン・プレスの経営権を奪還した。

プレストンは「彼は驚くほど早く巻き返した」と語っている。しかし、彼の復帰は策略によって早まった。スタインバーグは、1969年の当初の取引において、マクスウェルがペルガモン・プレスの高収益な米子会社の経営権を維持していたことに気付いていなかった。マスコミが「跳ね回るチェコ人(the Bouncing Czech)」と渾名したマクスウェルは、その後、親会社から資金を事実上枯渇させ、最終的にスタインバーグを屈辱的で多額の費用を伴う撤退へと追い込んだ。

●ノー・マードック(No Murdoch

10年後、サッカークラブとヨーロッパ最大の印刷会社のオーナーとなったマクスウェルは、ついに過去15年間叶わなかった目標である全国紙の買収を達成した。努力が足りなかった訳ではない。1968年にはイギリス最大の日曜タブロイド紙『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』紙、1969年には『ザ・サン』紙、そして1981年には『ザ・タイムズ』紙の買収を試みた。しかし、いずれの場合でもマードックを相手にして敗北した。

タブロイド紙ニューズ・オブ・ザ・ワールドをめぐる争いは特に醜いものだった。ニューズ・オブ・ザ・ワールドの社説欄は「マクスウェル(旧姓ヤン・ルートヴィヒ・ホッホ)がこの新聞の経営権を握るのは得策ではない・・・これはイギリス人が運営するイギリスの新聞だ。このまま維持しよう」と宣言していた。プレストンが今回の本のためにインタヴューしたマードックはこう回想している。「エスタブリッシュメント側が彼を入れないだろうと感じていた(I could smell that the establishment would not let him in)」。

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1989年にアムステルダムで開催された国際経済会議でのロバート・マクスウェル

プレストンも、より広い意味で、マクスウェルがエスタブリッシュメントから軽蔑され、妨害されていると感じていたのは「純粋なパラノイア(purely paranoia)」ではなかったと同意する。

プレストンは次のように述べている。「反ユダヤ主義が蔓延しており、マクスウェルはユダヤ人であることを否定していたものの、誰もが彼がユダヤ人であることを知っていた。彼はアウトサイダーであり、傲慢な成り上がり者とみなされており、人々はそれを非常に嫌っていた」。

1984年、マクスウェルが『デイリー・ミラー』紙(当時、発行部数は『ザ・サン』紙に次ぐ2位)を買収したことが、マードックとの壮絶な闘いの始まりとなり、彼は次第にその闘いに囚われていった。

「かつては、世界で同じ空気を吸っているのは父とマードック氏だけだったような時代もあった」と、マクスウェルの息子イアンはプレストンに語った。

マクスウェルの新聞運営は悲惨なものだった。彼は紙面制作のあらゆる側面に介入し、買収後の最初の6カ月間で自分の写真が100回以上紙面に掲載されるようにした。彼がコストを削減し利益を増やした一方で、ミラー紙とその2つの系列紙は歴史上最も速いペースで読者を失った。

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ロンドンのミラー・グループ・ニューズ・ペーパーズ印刷工場で、名前の分からない印刷工がイギリスの全国紙デイリー・ミラーの第一刷をチェックしている(1991年11月5日)

●「M」の文字と共にあるマクスウェル(Maxwell with an ‘M’

同時に、マクスウェルの富、権力、そして誇大妄想は増大し続けた。ミラー・ビルの隣にある彼の豪邸は、彼が「マクスウェル・ハウス」と名付け、カーペットには「M」の文字が飾られていた。この邸宅は、ロンドンでわずか3軒しかない専用ヘリポートを持つ邸宅の1軒だった。

「狂気じみた自己顕示欲(crazed self-aggrandizement)という点では、マクスウェルは[元アメリカ大統領ドナルド・]トランプの先駆者と言えるだろう」とプレストンは語っている。 1988年に行われたマクスウェルの65歳の誕生日パーティーでは、ロスチャイルド銀行の専務取締役から「10年間で最高のパーティー」と称賛され、3000人のゲストが出席した。ロナルド・レーガンとマーガレット・サッチャーからの祝電が送られ、花火が打ち上げられ、「ハッピー・バースデー・ボブ」という言葉がオックスフォードのスカイラインを照らした。

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妻と共にモロッコのタンジールにあるマンドゥーブ宮殿でマルコム・フォーブスと共にいる、モロッコの伝統衣装を身にまとっている新聞王ロバート・マクスウェル(1989年8月20日土曜日)

プレストンは、マクスウェルは「畏敬の念、恐怖、嘲笑が絶えず入り混じった、人々を魅了する人物」となっていたと書いている。

当時、チャールズ王太子は当時のデイリー・ミラー紙編集長に、「実に非凡な人物だ。彼の仕事ぶりはどうだ? 彼は一体どうやって金を儲けているのか?」と質問した。実際、マクスウェルの下で働くのは恐ろしいことだった。彼は執拗に部下をいじめ、辱め、ある土曜日の午前4時に「首席補佐官」という滑稽な肩書きを持つ人物に電話をかけて時間を尋ね、不信感と対立の文化を植え付けた。彼は部下を執拗に追い回し、不忠の証拠を探すために何時間も一人で録音を聞き、さらには尾行までさせた。

イアン・マクスウェルは、ある時、些細な失敗を理由に父親に解雇された時のことを思い出し、その時の感情について、「ありがたい、やっと狂った場所から脱出できる」と思ったと述べている。3カ月後、マクスウェルは息子を以前の半分のサラリーで再雇用した。

●再発見されたルーツ(Rediscovered roots

しかし、富と成功を重ねても、マクスウェルの旺盛な欲望は満たされなかったようだ。不幸の源の一つは40年間ユダヤ教を否定し続けてきたことへの罪悪感だった。

1984年、マクスウェルの友人で率直な実業家ジェラルド・ロンソンは、「どうして突然、あなたはユダヤ人じゃなくなったのか?」と質問した。その後まもなく、ロンソンはマクスウェルとベティをイスラエル訪問に同行するよう誘った。ロンソンのプライヴェートジェットがテルアヴィヴに近づくと、マクスウェルの頬を一瞥すると、彼の頬に涙が流れていた。「何年も前にここに来るべきだったのに(I should have come here years ago)」とマクスウェルは何度も繰り返した。

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産業担当大臣を辞任した直後の当時のアリエル・シャロン国会(クネセト)議員(右)はイェルサレムでイギリス人富豪ロバート・マクスウェル(左)と会談した(1990年2月20日火曜日)

マクスウェルのイスラエルへの新たな熱意は、翌日のイツハク・シャミル首相との会談で、ユダヤ国家であるイスラエルに「少なくとも2億5000万ドル」を投資したいという意向を表明するほどに高まったようだった。プレストンによると、マクスウェルは珍しく、この誓約を守ることを選んだという。

その後4年間、ミラー・グループの利益のおかげで、マクスウェルはイスラエルに数百万ドルを注ぎ込み、新聞社を買収し、ハイテク企業や製薬会社に投資した。そして、その過程でイスラエル経済における最大の個人の投資家となった。マクスウェルはまた、モサドに有益な情報を提供するようになった。ベティにとっても、この訪問は決定的な出来事となった。ホロコーストへの関心が芽生え、やがて彼女はホロコースト研究家として高く評価されるようになる。

「イスラエルはマクスウェルに、他の場所では決して得られなかった、ある種の感情的な帰郷の感覚を与えた」とプレストンは語っている。しかし、マクスウェルのユダヤ教への回帰は「非常に重要だった」とプレストンは述べている。しかし、大富豪の彼はますます過去に悩まされ、家族の運命に対する罪悪感に苛まれていった。

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イギリス・ロンドンにあるミラー・グループ・ニューズ・ペーパーズの本社前でケヴィン・マクスウェル(32歳、左)と兄のイアン・マクスウェル(35歳)が報道陣に対応している。兄弟の父ロバート・マクスウェルは海上において遺体で発見されていた(1991年11月5日火曜日)

ベティは回想録の中で、「ロバート(・マクスウェル)は、もし家にいたら両親と弟妹の命を救えたはずだと確信していた。人生で成し遂げたどんなことでも、家族を救うという、成し遂げられなかったことの代償にはならなかっただろう」と書いている。

マクスウェルの人生の終わり頃、イアンは父親の寝室に入り、父親がかがみ込んでアウシュビッツに到着するユダヤ人たちのドキュメンタリーニューズ映像を熱心に見ていたのを発見した。何をしているのかと質問されると、マクスウェルは「両親を見つけられるか探しているんだ」と答えた。プレストンは「これは本当に胸が締め付けられる話だ」と述べた。

「年齢を重ねるにつれて、過去の出来事が彼の足元をかすめ、彼の功績を嘲笑っているような感覚が湧いてくる」とプレストンは語った。

●財政的な破綻(Financial ruin

過去がマクスウェルに追いつきつつあったのと同様に、銀行家や監査人も彼に迫っていた。彼の財政的破綻への道は1988年に始まった。当時、マクスウェルはアメリカの出版社マクミランを26億ドルで買収したが、これはマクミランの取締役でさえ想定していた価値を約10億ドルも上回る金額だった。買収資金を調達するため、マクスウェルは44の異なる銀行や金融シンジケートから融資を受けた。アメリカでの知名度向上を目論んだ『ニューヨーク・デイリー・ニューズ』紙の買収も同様に誤った判断だった。ニューヨーク・デイリー・ニューズの財政状態は極めて深刻で、オーナーはマクスウェルに6000万ドルを支払って手放したほどだった。

このメディア王の一見常軌を逸した支出の原動力となったものは、ほとんど謎めいていない。プレストンは、「マクスウェルは必死になって、自分がマードックと同じリングに立つ存在であり、同等の実力者であることを証明したかったのだ。しかし、それがやがて、このような恐ろしい勢いを生み出してしまったのだ」と語っている。

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ロンドンのミラー・グループ・ニューズペーパーズのオフィス前にカメラクルーが集まり、ミラー紙の社員がデイリー・ミラーの発行人でオーナーのロバート・マクスウェルが海上で行方不明になったことを伝える声明を読み上げている(1991年11月5日)

マクスウェルはマードックを打ち負かし、尊敬を得たいと願っていたが、どちらも叶わなかった。「マクスウェルは相手のボクサーとリングに上がったと思っていたが、そうではなかった。実際は、同じくハイヒールを履いた柔術家とリングに上がったのだ」とマードックが経営するタイムズ紙の元編集者ハリー・エヴァンスは指摘する。マードックはプレストンに対し、マクスウェルを「詐欺師(crook)」で「全くの道化者(total buffoon)」としか考えていなかったと語った。

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出版王ロバート・マクスウェルの息子ケヴィン(左)とイアン・マクスウェルは1996年9月19日にロンドンの高等法院に出廷した。判事はケヴィン・マクスウェルに対し、この不名誉な大物実業家のメディア帝国崩壊に関連する容疑で二度目の裁判は行わないと判決を下した

マクスウェル自身、彼の家族、そして何よりも彼の従業員にとって、その代償は最終的に悲惨なものとなった。1980年代のバブル崩壊と金利の急騰の中、マクスウェルは負債を抱えた帝国を支え、下落する株価を支えるために、必死に数百万ドルを運用した。資産は売却され、1991年3月には彼の最高傑作であるペルガモン・プレスも売却された。そして、彼は会社の年金基金に段々と手を付けていった。

1991年秋、負債が10億ドルを超え、銀行から返済を迫られると、マクスウェルは心身ともに崩壊寸前の状態になった。不眠症、鬱病、そして体調不良に悩まされ、夜な夜なロンドンのカジノでギャンブルに明け暮れたり、家に閉じこもってジェームズ・ボンド映画を見ながら中華料理のテイクアウトをひたすら貪り食ったりしていた。

プレストンは次のように語っている。「マクスウェルのような大物ギャンブラーにとってさえ、そのストレスは計り知れないものだったに違いない。面目を失う恐怖は非常に強かっただろうし、もちろん、この頃には相談相手もいなかった。家族全員を遠ざけ、妻ともほとんど会話をしていなかった。彼は極めて孤独な男だった」。

●最後の転落(The final plunge

1991年11月1日、レディ・ギレーヌ号で出航した頃には、マクスウェルは窃盗と詐欺が発覚間近であることを悟っていた。年金基金の大きな穴が議題に上がっていたデイリー・ミラー紙の監査委員会と、彼の会社の支払い能力を厳しく追及するであろうイングランド銀行総裁との会合が、5日後に予定されていた。一方、事件の公開という脅しをしていたスイス銀行から「法律違反の疑い(suspected breaches of the law)」の通報を受け、ロンドン市警は出動を控えていた。

そして、マクスウェルに向かって突き進んでいた災難は、ほんの一瞬で収束した。ロンドンで処罰を受けるはずだったまさにその日の午前5時頃、彼はグラン・カナリア島を通過し、テネリフェ島へ向かう途中、ヨットの船尾から転落した。約12時間後、膨れ上がったマクスウェルの遺体はスペイン国家救助隊のヘリコプターによって発見された。

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カナリア諸島サンタクルス島のレディ・ギレーヌ号のデッキに立つ名前を発表していない乗組員たち。英国の実業家ロバート・マクスウェルが全長150フィートのヨットから転落した数日後のことだ(1991年11月7日)

マクスウェルは死亡してから5日後、オリーヴ山の墓地で自ら購入した一区画に埋葬された。ベティは後にこう記している。「英雄の送別式(send-off)であり、国葬(a state funeral)とも言うべきものだった」。シャミール、当時のイスラエル大統領ハイム・ヘルツォク、シモン・ペレスなどが参列した。「国王や男爵たちが彼の玄関口を囲んだ。彼はほとんど神話的な存在だった」とヘルツォク大統領は挨拶した。

しかし、こうした神話はあっという間に打ち砕かれた。死後数週間のうちに、彼の略奪行為の真相―彼の会社から7億6300万ポンドが横領され、その中には年金基金からの4億ポンド以上も含まれていた―が明らかになり、負債も露呈した。「世紀の詐欺師(the Crook of the Century)」という言葉がニューズウィーク誌の表紙に踊った。

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故ロバート・マクスウェルの遺体はイェルサレムのオリーヴ山にあるユダヤ人墓地に埋葬された(1991年11月10日)

これらの暴露は、マクスウェルの死が発表されて以来、メディアを賑わせていた疑問をめぐる憶測を一層煽った。彼は事故で転落したのか、突き落とされたのか、それとも飛び降りたのか? ベティの最初の反応は明白だった。「彼は絶対に自殺しない(He would never kill himself)」とグラン・カナリア島行きの飛行機に乗りながら彼女は断言した。30年経った今も、マードックはマクスウェルが自殺したと確信している。「彼は銀行が迫っていることを知っていて、自分が何をしたのか分かっていた。そして飛び降りたのだ」とマードックは語っている。

マクスウェルが殺害されたという説を否定する一方で(当然のことながら、その責任はモサドに向けられることが多い)、プレストンは、彼が滑って転落したのか、飛び降りたのかについては決定的な証拠がないと示唆する。プレストンは、ある一つの点が明確だという確信を持っている。

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故ロバート・マクスウェルのロンドンのアパートにあった家財道具(1992年1月20日撮影)。1992年2月14日にサザビーズでオークションにかけられた。バスローブから美術品まであらゆる品が出品された。

伝記作家のプレストンは「もし事故だったとしても、驚くほど幸運な事故だったと言えるだろう。彼は生きてイギリスに戻れば、警察、年金受給者、そして銀行家たちから銃殺隊3隊分の刑罰を受けることになると分かっていたのだから」と語った。

マクスウェルが家族と従業員に遺した経済的荒地(wasteland)もまた疑いようがない。4億600万ポンドの負債を抱えた息子のケヴィンは史上最大規模の破産者という不名誉なレッテルを貼られた(ケヴィンとイアンは後に複数の詐欺共謀罪に関して無罪となった)。彼の豪邸とヘディントン・ヒル・ホールの蔵書は競売にかけられた。そして「マクスウェルの年金受給者」の大半は、本来受け取るべき金額の半分しか受け取れなかった。

マクスウェルがデイリー・ミラー紙を買収した直後、デイリー・ミラーの編集者は精神科医である友人と新しいオーナーについて議論した。友人の精神科医は、「マクスウェルは最終的に帝国全体を崩壊させるだろう。何も残らないだろう。・・・ただ灰だけが残るだろう」と予言した。

(貼り付け終わり)

(終わり)

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シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体 
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『トランプの電撃作戦』
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世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。

 ジェフリー・エプスタイン事件はアメリカでも波紋を広げている。容疑者のジェフリー・エプスタインは既に死亡し、恋人で側近のギレーヌ・マクスウェルは既に刑務所で刑に服している。しかし、アメリカでは既に複数の著名人が職を追われたり、非難に晒されたりしている。また、ギレーヌの生まれ育ったイギリスでは、チャールズ国王の弟アンドルー元王子が、公務に関する秘密漏洩で逮捕された。これもエプスタイン事件関連である。
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 エプスタイン事件に関しては、ギレーヌ・マクスウェルを窓口にしたイギリスでも波紋を広げているが、ギレーヌ・マクスウェルの父親ロバート・マクスウェルにも再び注目が集まっている。ロバート・マクスウェルは戦後のイギリスにおいて出版界で身を起こし、メディア王と呼ばれた人物である。チェコスロヴァキア出身のユダヤ人でナチスの台頭とチェコスロヴァキア併合もあり、17歳でイギリスに難民として入国し、その後はイギリス軍に入隊し、独学で習得した10カ国語を駆使して情報将校にまでなった。ロバート・マクスウェルは国際的なスパイでもあり、イギリスのMI6、イスラエルのモサド、旧ソ連のKGBのトリプルスパイだったという話もある。1991年に地中海で所有するヨットから転落して死亡した。謎の多い人物でもある。エプスタインはロバート・マクスウェルの死亡の真相に関して関心を持っていたことがメールに残っている。

 そして、日本においては、このロバート・マクスウェルと日本船舶振興会(現在は日本財団)の創始者である笹川良一との関係に注目が集まっている。ロバート・マクスウェルと笹川良一の関係を調べると、1985年にグレイトブリテン・ササカワ財団(大英笹川財団)が設立され、ロバート・マクスウェルが理事長を務めた。この時に、当時の日本船舶振興会が約30億円を拠出したそうだ。

また、同時期の1986年にスコットランドのエディンバラで開催されたコモンウェルスゲームズ(英連邦競技大会)に2人は絡んでいる。英連邦とは、イギリスとイギリスの植民地だった国々が形成している国際的な枠組みである。50カ国以上が参加している。コモンウェルスゲームズはそれらの国々の代表が一堂に会して実施されるスポーツ競技大会だ。オリンピックや各競技の世界選手権ほど注目を集めることはなく、日本では知られていないが、英連邦の国々では関心の高い国際的なスポーツ競技大会になっている。

 1986年エディンバラ大会では、当時、アパルトヘイト政策(人種隔離政策)を実施していた南アフリカに対する経済制裁について、イギリスのマーガレット・サッチャー首相が実施しないと決定したことを受けて、英連邦の多くの国々がこの決定に抗議して、コモンウェルスゲームズに参加しない、ボイコットするという決定を行っていた。そのために、退会そのものが低調となり、スポンサーも集まらず、開催ができないというところまで追い込まれた。そこに、ロバート・マクスウェルが登場して、大会の会長として、大会へ資金を提供するという形で開催まで漕ぎつけた。このコモンウェルスゲームズに多額の資金を提供したのが笹川良一だった。ロバート・マクスウェルが笹川良一の資金力を利用したということになる。イギリスメディアは、笹川良一の前歴(第二次世界大戦後にA級戦犯として巣鴨拘置所に収監された)を知り、どうしてそのような人物がコモンウェルスゲームズに多額の資金を提供したのかといぶかしがったということだ。

 笹川良一は統一教会を母体する国際勝共連合の名誉会長を務めるなど、統一教会とも関係が深い人物である。トリプルスパイのロバート・マクスウェルと元A級戦犯にして統一教会とも関係の深い笹川良一の関係がどのようなものであったか、どうして2人が結びつくことになったのかということはこれから調査され、明らかにされることを期待する。

(貼り付けはじめ)

ボイコットと破れた夢:ロバート・マクスウェルと戦争犯罪容疑者(Boycotts and Broken Dreams: Robert Maxwell and the suspected war criminal

グラハム・フレイザー筆

2014年7月17日

BBCスコットランド

https://www.bbc.com/news/uk-scotland-edinburgh-east-fife-28316707

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ロバート・マクスウェル(左)は友人の笹川良一が1986年のコモンウェルスゲームズを救うのを支援してくれることを期待していた

来週、コモンウェルスゲームズ(the Commonwealth Games、英連邦競技大会)がグラスゴーで開幕し、世界の注目が集まる。

スコットランドがこの競技大会を開催するのは今回で3回目であり、1970年と1986年にはエディンバラで開催された。

1970年大会は疑いの余地のないほどの成功を収めた。

しかし、1986年大会は、南アフリカのアパルトヘイト問題をめぐり、アフリカ、アジア、カリブ海の32カ国がボイコットを表明し、開催は危うく頓挫するところにまで追い込まれた。

BBCの新ドキュメンタリー『ボイコットと破れた夢:1986年コモンウェルスゲームズの物語』は、コモンウェルス(Commonwealth)がいかに屈服し、競技大会(Games、ゲームズ)がいかに茶番劇(farce)に彩られたか、そして最終的にイギリスのスポーツファンが競技大会を成功として記憶しているかを描いている。

ゲームズ開催前、アフリカ諸国は、人種差別に関与する政権への経済制裁を拒否したマーガレット・サッチャー首相の行動は誤りだと考えていた。

しかし、サッチャー首相は、制裁が南アフリカ国民にもたらすであろう悲惨な状況は、支払うに値しない代償だと考えていました。

「鉄の女(the Iron Lady)」であるサッチャー首相は揺るがない姿勢を示し、多くのアフリカ人にとって、それはもはや越えてはならない一線だった。

競技大会開幕の2週間前、ナイジェリアとガーナが競技大会をボイコットした。しかし、これが最後ではなかった。

当時のコモンウェルス事務総長シュリダス・“ソニー”・ランパル卿は「かつてサッチャー首相にどうか大会を救ってほしいと懇願したのを記憶している。結局のところ、あれはイギリスで開催されるコモンウェルスゲームズだったのだから」と語った。

ランバル卿は「彼女は私に『あれは私のゲームズじゃない。あなたたちのゲームズだ』と厳しい返答を受けた」とも述べた。

高まる不満を鎮めるための方策とみられる措置として、コモンウェルスゲームズ関係者たちは、居住地に関する規定を理由に、南アフリカ出身のゾーラ・バッドとアネット・カウリーのイングランド代表としての出場を禁止した。

しかし、それはうまくいかなった。最終的に、参加資格のある59カ国のうち32カ国が不参加を決定した。

●バルミューダのボイコット(Bermudan boycott

その一カ国がバミューダだった。背後のテレビ画面で開会式が流れる中、短距離走者のビル・トロットは選手村にいたが、どうしたらいいのか分からず途方に暮れていた。

選手たちはバミューダの国家指導者ジョン・スワンから大会参加の支持を受け、トロットを含む一部の選手はパナマ帽、青いブレザー、ベージュのショートパンツ姿で開会式に駆けつけた。

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1986年コモンウェルスゲームズの開会式に臨むバミューダ代表ティーム

しかし、全ては無駄に終わった。翌朝、ついに決定が下され、バミューダの選手たちはボイコットに加わった。

トロットは次のように語った。「当時の私の考えは、アパルトヘイトに賛同するものではなかった。私は政治には興味がなかった。私にとって、競技にこそ意味があったのだ」。

撤退するティームの数が増えるにつれて、放送局とスポンサー収入も減少した。そうした中で、コモンウェルスゲームズを救えると宣言した人物の一人がロバート・マクスウェルだった。

物議を醸したメディア王は数百万ドルの拠出を約束した。計画の一環として、大会閉幕間際に記者会見を開き、同じく大会に資金を提供する用意のある日本人男性である笹川良一を紹介した。

『非友好的な大会:ボイコットと破産』の共著者であるデレク・ダグラスは、「その後、この男性が戦争犯罪容疑者として連合国の捕虜収容所に数年間収監されていたことが明らかになった」と述べている。

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リズ・リンチ(現リズ・マッコルガン)は1万メートルで優勝し、スコットランドのファンにとって大会のハイライトとなった。

ダグラスは「文字通り、想像もできないような出来事だった。シェラトンホテルの公衆電話の周りでは、ジャーナリストたちがニューズ編集者に「信じられないかもしれないけど…」と話している声が聞こえてきた」と述懐している。

ダグラスは続けて「コモンウェルスゲームズの思い出の中で、日本の戦犯容疑者である笹川良一がコモンウェルスゲームズの救世主(saviour)として登場したことは今でも最高の思い出だ」とも述べている。

「そして付け加えるなら、もちろん彼は実際には多額の寄付をしていなかったのだ」とダグラスは述べている。

●マクスウェルの遺産(Maxwell's legacy

当時サンデー・タイムズ紙の編集長だったアンドリュー・ニールはこう付け加えた。「コモンウェルスゲームズが終わった瞬間、私たちは最高の調査報道ジャーナリストたちを投入し、真相を究明しようとした」。

ニールは「間もなく、彼(マクスウェル)は私財を一切投じていなかったことが明らかになった。多くの中小企業が未払いとなり、企業は未払いのために倒産し、契約は守られていなかった。実際、彼はコモンウェルスゲームズの偽りの救世主であり、結局は自分が引き継いだ以上の問題を引き起こしていた」と語っている。

コモンウェルスゲームズは490万ポンドの負債を抱えて終了したと報じられている。

しかし、マクスウェルが最後に輝いた瞬間があった。

閉会式で、スコットランドの旗手であるレスラーのアルバート・パトリックが女王陛下の前を行進中に窮地に陥ったとき、新聞王は駆けつけて彼を助けようとした。

マクスウェルは旗を修理しようとしたが失敗し、女王陛下の側に戻った。

ヘラルド紙の著名な陸上競技担当記者ダグ・ギロンは次のように述懐している。「スコットランド国旗が旗竿から外され、ロバート・マクスウェルがスコットランドの威厳を守ろうとしていた」。

ギロンは「彼の関与という点では、コモンウェルスゲームズの行方を象徴しているようだった。全く哀れで、それでいて滑稽でもあった」と語っている。

=====

ロバート・マクスウェルの1986年コモンウェルスゲームズの忘れられた物語(The forgotten story of … Robert Maxwell’s 1986 Commonwealth Games

-1986年エディンバラ大会はボイコットと資金不足で頓挫しかけていたが、メディア王が介入して事態を収拾した・・・。少なくともそう見えた

ブライアン・オリヴァー筆

2014年7月22日

https://www.theguardian.com/sport/2014/jul/22/commonwealth-games-1986-robert-maxwell

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ロバート・マクスウェル(右)は1986年コモンウェルスゲームズ開幕の3週間前に会長に就任し、自らを競技大会の「救世主(saviour)」と称した

the Commonwealth Games、英連邦競技大会)がスコットランドで最後に開催されたのは1986年のことで、エディンバラで開催レタ。優勝者たちの顔ぶれは実に印象的だった。スティーヴ・オヴェットは800メートルと1500メートルをスティーヴ・クラムに託し、代わりに5000メートルに出場した。クラムは見事に優勝を果たした。デイリー・トンプソンは十種競技で3連覇を達成したが、リンフォード・クリスティは100メートルでベン・ジョンソンに敗れた。スティーヴ・レッドグレイヴはボートで3つの金メダルを獲得し、初優勝者にはサリー・ガンネルと、後にリズ・マッコルガンとして世界チャンピオンとなるリズ・リンチがいた。そして、新設されたスーパーヘビー級で優勝したレノックス・ルイスは、当時の大会のあらゆる欠点を象徴する勝利を収めた。

BBCのカメラが決勝でルイスの対戦相手だったアナイリン・エヴァンスに焦点を合わせたとき、英ボクシング界で最も有名な声はこう言った。「彼は本当に力不足だ。もし私が彼だったら、命からがら逃げ出すだろう」。おそらくエヴァンスは名解説者ハリー・カーペンターのこの発言を聞いたのだろう。彼はその後数分間、ルイスの容赦ないパンチをかわそうと試みたが、ことごとく失敗に終わった。エヴァンスのコーナーは第2ラウンド開始23秒でタオルを投げ込んだ。タイトルは、コモンウェルスゲームズ史上最高のボクサーであるルイスの手に渡った。そして、ウェールズ出身の若きエヴァンスは、予想外の銀メダリストとなった。

大会開幕の2日前、ボクサーの増員を求める声が急遽上がった。スーパーヘビー級のエントリーはルイスと、その年の初めにエヴァンスを破ったイギリス人選手ジェームズ・オイェボラの2人だけだった。アフリカ諸国を筆頭とする大規模な大会ボイコットは、ボクシング界に他のどのスポーツよりも大きな打撃を与えた。ナイジェリア、ガー、ケニア、ウガンダ、ザンビアには、いずれも国内にとどまった有力選手たちがいた。

ウェールズは幸運にもエヴァンスを指名した。彼はスコットランドへ急行し、決勝への出場権を獲得した。幼少期の大半を過ごしたイギリスへ移籍する前はカナダ代表だったルイスは、まずオイェボラをあっさりと倒し、続いてエヴァンスを圧倒して屈服させた。

大会中にルールが変更されていなければ、エヴァンスはまだ表彰台に上がれていなかったかもしれない。どの競技にも最低5人の選手がエントリーしなければ、3つのメダルは授与されなかった。しかし、ボイコットという「特別な事情(special circumstances)」のため、コモンウェルス諸国は大会の途中で、エントリー人数に関わらず3つのメダルを授与することに投票した。ルイスは世界的な名声を獲得し、エヴァンスはケアフィリーで再び無名の人に戻った。

スコットランドの観客にとって最大のヒーローは、何と言ってもリズ・リンチだった。彼女は1万メートルで優勝した当時、失業手当をもらっていた。コモンウェルスゲームズで女子がこの距離を走ったのはこれが初めてであり、スコットランドが獲得した唯一の陸上競技の金メダルだった。リンチの同走者2人は、彼女がメダル授与式で泣くことに75ポンドを賭けていた。しかし、彼女は負けた。リンチは次のように語っている。「まさか自分がそうなるとは思っていなかったが、観客は最高だったし、スコットランド・ザ・ブレイヴの演奏も素晴らしかった。本当に圧倒されて、信じられない気持ちになった。あの瞬間は二度と味わえないと思う」。

1986年エディンバラ大会で一番にメディアと人々の注目を集めた人物は、これらのメダリストではなかった。アウシュビッツで母親を亡くしたユダヤ系チェコ人で戦争の英雄であり、小作人の息子として生まれながら独学で10カ国語を話す人物だった。出版業で財を成し、伝えられるところによるとイギリスの諜報機関の支援を受け、6年間下院議員を務めたが、彼の取引を調査した商務省によれば、「上場企業の適切な経営を任せられる人物ではない」と評価した。彼は世界最大の科学教育出版会社ミラー・グループ・ニュースペーパーズと2つのサッカークラブを所有し、巨大なエゴの持ち主でもあった。風刺雑誌『プライヴェート・アイ』で「キャプテン・ボブ」と揶揄された彼は、政治家としての国際的な地位を切望していた。彼はヤン・ルドヴィク・ホッホとして生まれたが、ロバート・マクスウェルとしてよく知られていた。

これは、史上最も奇怪で、最も困難なコモンウェルスゲームズだった。開会式の数週間前には、危機に晒され、さらには中止さえも取り沙汰されていた。コモンウェルス加盟国の半数以上が不参加を表明し、エディンバラの債務返済を支えてくれたであろうスポンサーも不参加を表明した。マーガレット・サッチャーが悪役だとすれば(彼女をその役に押し上げたいと熱望する人は少なくなかった)、マクスウェルはヒーローだと主張した。開会式まで5週間を残し、ミラー・グループ・ニュースペーパーズが主要なスポンサーとなり、彼が大会運営会社の会長に就任すると、マスコミは彼を「ホワイトナイト(the white knight)」と呼んだ。

マクスウェル自身も「救世主」と称した。エディンバラで、専属カメラマンであり補佐官でもあるマイク・マロニー(王室の任務を数多くこなしていた)から女王に紹介された際、マクスウェルは女王にそのことをほのめかし、女王は大変喜んだ。マクスウェルは、豪華な展示箱に入ったコインのセットを女王に贈り、「私が企画したこの偉大なイヴェントの記念品を贈呈させていただきたい」と述べた。

3年近く経ち、最後の請求書がようやく支払われた時も、マクスウェルの役割については議論が続いていた。もっとも、支払いは彼自身によるものではなかったが。1998年の夏の終わり、担当会社であるコモンウェルスゲームズ1986(スコットランド)社が最後の会議を開いた時も、マクスウェルの名前は依然として議論されていた。その時までに「ホワイトナイト」はとっくに亡くなり、その汚名は永遠に汚された。1991年11月、マクスウェルは地中海でプライヴェートヨットから海に落ちた。彼の死後、従業員年金基金から数億ポンドもの資金を不正に流用していたことが明らかになった。

しかし、彼がいなければ、1986年エディンバラ大会はスコットランド、イギリス、そしてコモンウェルスゲームズ連盟にとって、決して忘れることのできない恥辱となっただろう。また、物事を人とは違うやり方で進めることを好んだマクスウェルがいなければ、大会ははるかに華やかさに欠けたものになっていただろう。ある時、彼は数人のVIPとそのパートナーを自身のプライヴェートスイートルームに夕食に招いた。彼はバケツから直接ケンタッキーフライドチキンを出した。

別の会合で、マクスウェルは友人である笹川良一を報道陣に紹介した。マクスウェル自身よりもはるかに多額の寄付をしたこの日本人実業家を、彼は「ハンセン病の撲滅に単独で資金を提供した」億万長者の慈善家だと紹介した。四半世紀後も20万人以上がハンセン病に苦しんでいたことを考えると、この主張自体が奇妙だった。しかし、笹川自身は27歳の当時に200歳まで生きると語り、記者たちをさらに驚かせた。当時、彼は87歳だった。

なぜマクスウェルは関与したのか?マロニーは、誰かがコモンウェルスゲームズ支援について憶測めいた提案をし、それがきっかけで大きなチャンスが訪れたと考えている。「マクスウェルは自分が救世主になれると考え、そして実際にそうなったのだ」とエディンバラでの6週間の活動にマクスウェルに同行したマロニーは語った。

1970年のエディンバラ大会とは大きく異なる。当時、この大会は初めて「ザ・フレンドリー・ゲームズ」と称された。総予算は300万ポンドだったが、1986年には1700万ポンドにまで膨れ上がった。

ボイコットの影は最初からあった。モントリオール市で、莫大な費用をかけて開催された、1976年のオリンピックでは、ニュージーランドが参加していたため、26のアフリカ諸国が参加を拒否した。問題はラグビーだった。ニュージーランドのオールブラックスは、イギリスのティームと同様に、アパルトヘイトを理由に国連の支援を受ける他のスポーツがニュージーランドを敬遠していた時代にも、南アフリカとの対戦に抵抗しなかった。1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻は、アメリカ合衆国が主導者となった、1980年モスクワ大会のボイコットへと発展した。数年後には、スポーツは政治家たちの最大の標的となった。

スポーツへの貢献により後にナイトの称号を授与されたピーター・ヒートリーは、エディンバラが再びコモンウェルスゲームズを開催すべきだと最初に提案した。彼は飛び込み選手で、1950年代のオリンピックで3度の金メダルを獲得し、後にスポーツ管理者となり、最終的にはコモンウェルスゲームズ連盟のトップに就任した。ヒートリーはボイコットの話題は常にあったと振り返り、「しかし、実際に起こった時、その規模と範囲は皆を驚かせた。コモンウェルスゲームズ開催の10日前に発覚し、毎朝目覚めると、どこかの国が退会不参加を決めていた。本当に恐ろしい出来事だった。10日間、毎日少しずつ死んでいくような気がしたものだ」と語った。

1986年エディンバラ大会の落とし穴と問題点を事細かに記した著書『アンフレンドリー・ゲームズ』の中で、著者たちは、ヒートリーがエディンバラに名乗りを上げさせなかったら、コモンウェルスゲームズは開催されなかったかもしれないと結論づけている。他の都市は立候補しなかった。

1984年、スポーツ、少なくともその商業化において、大きな飛躍があった。共産圏諸国による報復ボイコットにもかかわらず、ロサンゼルス・オリンピックは、敏腕ビジネスマンが交渉した広告とスポンサー契約によって巨額の利益を上げた。アメリカが道を開き、今度はスコットランドもスポンサー収入を得られるようになった。ところが、スコットランドは惨敗した。契約交渉にはプロが必要だったにもかかわらず、アマチュアに頼っていたのだ。「フレンドリー・ゲームズ」をスポンサーに売り込むのは彼らには不可能だった。だからこそ、マクスウェルに頼ることになったのだ。

大会開幕の2週間前の7月10日、世界中の新聞がロンドン通信社の報道を掲載した。ナイジェリアとガーナという2つのアフリカの黒人国家が前日、イギリスが南アフリカに対する大規模な経済制裁に同意しなかったことに抗議し、今月末に開催される1986年コモンウェルスゲームズをボイコットすると発表した。

このボイコットは、長年経済制裁に反対してきたマーガレット・サッチャー首相に圧力をかけるための試みとみられる。ロンドン駐在のナイジェリア大使館は前日、このボイコットは「イギリス政府に対し、私たちがこの問題にどれほど強い思いを抱いているかを明確に示す」ためだったと述べた。

最終的な敗北は壊滅的なものとなった。32ティーム、約1500人の選手が参加を見送った。

1984年オリンピックの大成功は、ピーター・ユベロスという一人の実業家の功績によるところが大きい。彼はロサンゼルス大会の運営を引き継ぐ際、アイデアを生み出すために150人の「有力者」からなる委員会を設立した。経済への懸念とソ連主導のボイコットにもかかわらず、コカ・コーラをはじめとするスポンサー企業を説得し、オリンピックへの支援を取り付けた。オリンピックは2億5千万ドルの利益を生み出した。ユベロスの資産は1億ドルと言われている。

エディンバラで同じ役職に就いていたのは、菓子職人で保守党議員のケネス・ボスウィックだった。1977年から1980年までエディンバラ市長を務めていた。当時エディンバラ市議会議長だったアレックス・ウッドは、ボスウィックに感銘を受けなかった。ウッドは「ボスウィックは昔ながらの中小企業経営者で、保守的な保守主義者だった。ためらって何もしないのが彼の常套手段だった」と述べた。

コモンウェルスゲームズ1990年オークランド大会の商業的指導者であり、ニュージーランドのスポーツスポンサーシップ界の重鎮であるマルコム・ビーティーは、より率直な意見を述べた。ビーティーは「ケン・ボスウィックは非常に古い考え方の持ち主だった。女王陛下や権力者には大変敬意を払っていたが、大規模なスポーツイヴェントの運営については何も理解していなかった。私たちが知りたいのは資金、宿泊施設、スポンサーのことだった。彼が話すのは夜明けのバグパイプの音ばかりでした。ティーム全体が素人同然だった」と語った。

マクスウェルが招集された時、エディンバラが2度目のコモンウェルスゲームズ開催都市となった誇りは「屈辱に変わった」とベイトマンとダグラスは記している。マクスウェルが最初に述べた言葉の一つは、初期の準備が「ひどく素人っぽかった(appallingly amateurish)」というものだった。

マクスウェルが6月19日に会長に就任した時​​点では、撤退した代表ティームはまだなかった。開会式前の最後の2週間で、各国は次々と撤退した。8ティームが到着し、選手村にチェックインしたところ、各国政府がボイコットに加わっていたことが判明した。バミューダは、選手たちが競技に参加できないよう命じられる前に開会式に参加していた。「長年の準備が無駄になったことに、何百人もの選手たちが心痛と失望に苛まれていることを、考えてみてほしい」とマクスウェルは語った。

少なくとも、マクスウェルは就任直後から大きなインパクトを与えた。ロンドンとエディンバラのメディア委員会に新聞社のオーナーや編集者を任命し、全国的な好意的な報道を確保した。彼は素晴らしいプレーを見せ、数百万ポンド相当の好意的な宣伝効果を得た。ミラー紙とそのスコットランド版姉妹紙であるレコード紙のロゴは、リプレイ画面、メインスタジアムのスコアボード上、水泳のスコアボード、飛び込みプール、ボクシングリングのコーナーポストなど、あらゆる場所に掲示された。公式にはコモンウェルスゲームズの主要スポンサーはギネスだったが、実際にはミラー・グループだったようだ。

会計事務所のクーパース・アンド・ライブランドは、こうした露出を全て合計し、430万ポンドと評価した。最終的にマクスウェルが支払ったのは30万ポンドにも満たなかった。「当時、ホワイトナイトが380万ポンドの負債を残して夕日の中へと去っていくとは誰も予想していなかった」と彼のカメラマン助手マロニーは語った。「彼は世界的な知名度を獲得した。それが彼の最大の目標だった。それでもなお、彼はコモンウェルスゲームズの救世主であり、コモンウェルスゲームズを愛していた」。

「エディンバラでの滞在は、まるで現実離れしたものだった。到着するや否や、彼は全てを掌握した。彼は常に会議に出席し、どんな議題であっても、たとえその内容について何も知らなくても、主導権を握った。ある時、彼は会議を終えてホテルに戻りたくなり、道路に出て公式大会車両を止め、運転手に『シェラトンまで連れて行って』と言った。運転手は別の人を乗せる予定だったので無理だと言ったが、ボブは『私はロバート・マクスウェルだ。上司に提出するための免責状を渡そう』と言った。彼は車の中で私にそれを口述した」。

マロニーは「ボブはユニークな人物だった。私たちはすっかり親しくなったが、食べるとなると少々強欲なところがあった」と語った。ある時、マクスウェルはエディンバラの最高級中華料理店に14人分の宴会料理を注文した。「ドン・ペリニヨンもたくさんあった。『どうぞ召し上がれ』と言われたとき、他のゲストを待たなくてもいいかと尋ねた。他のゲストはいなかった。あと12人分の料理があったのに、彼はただひたすら食べ続けた。時には指でつまむこともあった。彼がベッドに向かった時には、カレーソースがシャツの胸元に滴っていた」とマロニーは語った。

マロニーは次のように述懐している。「別のレセプションでケンタッキーフライドチキンを出した時は、初めてではなかった。労働党大会でもそうしていた。バケツを回していた時、彼は実際に鶏もも肉を一口かじり、女性ゲストの一人に『美味しいですよ、これを食べてみて。きっと気に入ると思いますよ』と言っていた。そして、鶏もも肉をバケツに戻した」。

明らかにマクスウェルは食べ物が好きだった。では、スポーツも楽しんでいたのだろうか? マロニーは「彼には集中力がなかった。サッカーの試合でさえ、いつも電話をしなければならないと言い訳をして席を立っていた。例えば、5000メートル走なんて最後まで座っていられなかった。彼には長すぎだった。100メートル走が限界だっただろう」と述べた。

マクスウェルが好んだのはスタジアムではなく、カメラの前だった。競技大会最終日前日、マクスウェルは記者会見を開いた。その会見は、デイリー・メール紙のイアン・ウッドリッジをはじめ、一部の人々から「これまでで最も奇妙な会見だった」と評された。マクスウェルは笹川良一を歓迎し、通訳を通して質問に答えた。笹川良一は「戦後、自国の経済復興に重要な役割を果たした元政治家」と紹介された。彼は「世界慈善事業(world philanthropy)」に身を捧げ、世界消防団連盟、世界空手道連盟、日本科学会などの会長を務めていた。笹川良一は5分間、日本語で世界の調和のために何をしているのかを説明した。

マクスウェルは笹川良一に関するいくつかの事実を軽く触れた。確かに彼は20年間で120億ドルを寄付したが、造船業で財を成したわけではない。彼の人物像がより鮮明になったのは、1995年に彼が亡くなった後(享年200には届かなかった)、インディペンデント紙の死亡記事で、笹川良一は「利己主義(egotism)、強欲(greed)、冷酷な野心(ruthless ambition)、そして政治的悪辣さ(political deviousness)の化け物として際立った、日本の最後のA級戦犯」と評された。彼は500人の女性と寝たと主張し、CIAと繋がりがあったとされ、アヘン取引にも関与していたとされている。彼はギャンブルで財を成し、数十億ドル規模のビジネス帝国を築き上げた。コモンウェルスゲームズ1986年エディンバラ大会への寄付金は126万5000ポンドだった。

笹川良一の寄付前の1986年エディンバラ大会の最終赤字は、マクスウェルが会長に就任する前とほぼ同じ、約400万ポンドだった。日本からの寄付は大きな変化をもたらした。マクスウェルは債権者(その中には2つの地方議会も含まれていた)との交渉によって損失をさらに削減した。大会運営会社は、最も緊急を要する書類処理を1989年まで全て処理できなかった。それから10年経っても、不満は消えなかった。

果たして、それだけの価値があったのだろうか? アレックス・ウッドの意見はノーだった。彼の「非常に個人的な視点から振り返ってみると」、市はそもそも関与すべきではなかったという。「ロバート・マクスウェルは、とてつもなく大きな利益に奉仕する意欲を欠いた、とてつもないエディンバラ市議会議員たち(保守党、労働党ともに)は、大会開催の正当な理由として「市の宣伝(promoting the city)」を主張していたが、実際には、彼らは海外旅行や富裕層や権力者との交流に関心を持っていた。「エディンバラはコモンウェルスゲームズ開催に巻き込まれるべきではなかったというのが私の見解だ」とウッドは述べた。

数々の失敗や恥辱にもかかわらず、コモンウェルスゲームズ連盟は開催を決定したことを永遠に感謝するだろう。1986年にコモンウェルスゲームズが開催されていなかったら、2014年にスコットランドで開催できたかどうかは誰にも分からないだろう。

※ブライアン・オリヴァー:オブザーヴァー紙スポーツ部門編集者を務めた。本稿は、ブルームズベリー社から出版され、12.99ポンドで販売されている著書『コモンウェルスゲームズ:メダルにまつわる驚くべき物語』からの抜粋だ。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD (1)

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。

 エプスタイン・ファイルをめぐる連邦議会での激しいやり取りについては、このブログでもご紹介した。エプスタイン・ファイルは既に、アメリカ政治において熱を帯びた戦いの最前線になっている。司法省は未編集の資料を保有しており、連邦議会は被害者の名前などの編集を認めながら公開を求めてきた。そして、今年に入って約350万ページにも及ぶ資料が公開された。それらは編集されたもので、どうしても「加害者の名前が編集されているのではないか」という疑いが付きまとう。

 司法省は、連邦議会の議員たちに司法省の事務所内での未編集の資料の閲覧を認めている。議員たちは全てを見ることが出来る。もちろん、約350万ページの資料を見ることなど不可能だ。それでも民主党側の議員たちの中から、加害の証拠があり、有罪の可能性があるという人物たちの名前が発表されている。これからも、編集された部分から、重大な加害に関与した可能性がある人物たちの名前が出てくるだろう。「○○の名前があった」「■■に加害の可能性がある」ということが取り沙汰されている様子は、戦後アメリカに吹き荒れた、マッカーシズム(McCarthyism)、赤狩り(Red ScareRed Purge)を思い起こさせる。

 司法省がどの議員がどのような検索や調査を行ったかについて記録を取っていることが問題視されている。司法省は、被害者の名前が漏洩しないように、もしもの場合の責任の所在を明らかにするために記録を取っているとしている。一方で、民主党所属の議員たちからは、これは行政権による司法権に対する侵害であるとして批判を強めている。司法省が、議員たちがどのような調査をしたかの記録を取って、それをマスコミにリークなどすれば、議員たちに批判が集まるという危険性もある。

 司法省の主張にも、連邦議会民主党側の主張にも説得力があるが、日ごろは問題視されないことが、粒立てて問題視されるということはそれだけの緊張感があるということだ。民主、共和両党は、中間選挙に向けて、お互いを攻撃しようとし、エプスタイン・ファイルはその攻撃材料となっている。これからファイルの調査が進むことで、展開は大きく変わっていくことも予想される。

(貼り付けはじめ)

民主党が司法省による連邦議員のエプスタイン文書検索追跡を調査開始(Democrats launch investigation into DOJ tracking of lawmakers’ Epstein files searches

レベッカ・ベイッチ筆

2026年2月13日

『ザ・ヒル』誌

https://thehill.com/homenews/house/5738162-epstein-files-doj-bondi-house-democrats/

連邦下院司法委員会と監視委員会の民主党所属の連邦議員は、パム・ボンディ司法長官が、ある議員によるジェフリー・エプスタイン事件の未編集ファイルに関する調査の概要を閲覧しているのが目撃されたことを受け、金曜日に司法省に対する合同調査を開始した。

この書簡は、司法省に対し「連邦議員によるエプスタイン・ファイル閲覧の追跡を直ちに中止する」よう求め、連邦議員が閲覧した未編集ファイルを追跡する意図を問う内容だ。

連邦下院司法委員会と監視・政府改革委員会の民主党側トップであるジェイミー・ラスキン連邦下院議員(メリーランド州選出)とロバート・ガルシア連邦下院議員(カリフォルニア州選出)は、プラミラ・ジャヤパル連邦下院議員(ワシントン州選出、民主党)と共に、「水曜日、連邦下院司法委員会の公聴会に持参された『バーン・ブック』バインダーのページの写真は、司法省が、多少編集が緩められたエプスタイン・ファイルを閲覧する議員たちを秘密裏に追跡していたことを連邦議会と世界に明らかにした」と書簡に記した。

議員たちは、「私たちが憲法上の監視義務を遂行する中で、連邦議員たちがあずかり知らないうちに、あるいは同意なく行われるこうした監視は、三権分立(separation of powers)の明白な侵害であり、司法省がジェフリー・エプスタインとギレーヌ・マクスウェルの共謀者、共犯者、そして幇助者を守るために手段を選ばず、被害者とアメリカ国民に正義を否定する姿勢をさらに強めていることの証拠である」と書いている。

司法省立法局(Office of Legislative AffairsOLA)は「秘密裏に連邦議会を監視する活動を行うべきではない」と議員たちは主張した。

写真には、ボンディ氏が「ジャヤパル・プラミラ捜査履歴」と題された文書を確認している様子が捉えられている。これは、司法長官と口論になったワシントン州選出の民主党議員の行動を確認しているように見える。

この写真は、議会で異例の超党派の合意を招き、両党の議員が自らの行動を追跡されることに憤慨した。

このような動きはマイク・ジョンソン連邦下院議長(ルイジアナ州選出、共和党)から異例の叱責を受けた。

ジョンソン議長は、「連邦議員には当然、それぞれのペースと裁量でそれらの資料を閲覧する権利があるべきであり、誰かがそれを追跡するのは適切ではないと考える。司法省関係者全員に同じ意見を述べたい」と述べ、これが「見落としや漏れ(oversight)」であることを願うと付け加えた。

ボンディ司法長官は水曜日、民主党所属の連邦議員たちに反論するために頻繁にバインダーを取り出し、各議員の選挙区で犯された具体的な犯罪の概要を手元に用意していた一方で、大統領と株式市場のパフォーマンスについては称賛していた。

「ジャヤパル議員は火曜日の朝、この公聴会開始の約23時間前にエプスタイン・ファイルを閲覧していた。その23時間の間に、司法省は彼女の検索履歴を取得し、それを利用して、監督に関する重大な疑問をかわすための党派的な攻撃を準備したようだ。ジャヤパル議員は検索履歴文書の正確性を確認した」と議員たちは書簡に記している。

司法省は金曜日、新たな調査について言及しなかったが、以前の発言については指摘した。

司法省の広報官は木曜日に「司法省は連邦議会に対し、エプスタイン・ファイルの非編集文書を閲覧する機会を与えた。この閲覧の一環として、司法省は被害者情報の漏洩を防ぐためであり、民主党は、検索の監視が司法省に彼らの潜在的な捜査計画に関する洞察を誤って与えている」と主張している。

連邦議員たちは、エプスタイン・ファイルの未編集版を閲覧するよう招請され、月曜日から司法省内の事務所に出向き始めている。

連邦議員たちが出した書簡には、少なくとも12名の民主党所属の連邦議員がエプスタイン・ファイルを閲覧したと記されており、ファイル公開を求める法案の共同提案者である共和党のトーマス・マシー下院議員(ケンタッキー州選出)とナンシー・メイス下院議員(サウスカロライナ州選出)も閲覧した。

エプスタイン・ファイルの閲覧要請書には、司法省が「全議員の閲覧日時」を記録すると記載されていたものの、連邦議員たちの書簡では、連邦議員たちは検索履歴が集計されることを知らされていなかったと書かれている。書簡ではまた、検索履歴の閲覧に何人の司法省職員が関与したのか、そしてボンディ長官が水曜日に連邦下院司法委員会に出席した際、「その準備と出席中に、情報はどのように使用されたのか」についても質問している。

連邦議員たちは、「検索に加えて、連邦議員に関するどのような情報を収集しているのか?」と質問した。

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。

 ジェフリー・エプスタインの性犯罪に関するファイル公開で、アメリカ連邦議会では公聴会の席上で激しいやり取りがなされている。パム・ボンディ司法長官は民主党所属の連邦議員たちからの攻撃に対して反撃を行った。ボンディ司法長官の防衛ラインは、ドナルド・トランプ大統領に飛び火しないことで、トランプの周辺人物たちに関してはいざとなったら切り捨てることも視野に入っていると思われる。1回目の公開で50万ページ、今回の公開で300万ページという膨大な分量で、被害者の名前以外にも重要な部分は編集されているということで、編集されていない文書の閲覧が認められている議員たちが司法省に行って調べるということも難しいとなると、事件に関わった全員の名前が判明することはほぼないだろう。
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アラン・ダーショウィッツ(左)とジェフリー・エプスタイン

 ジェフリー・エプスタインが、アメリカ国内の「イスラエル・ロビー」と深い関係にあったことは分かっている。エプスタインの顧問弁護士を長年にわたって務めたアラン・ダーショウィッツ(元ハーヴァード大学法学教授)は、イスラエル・ロビーの一員と言える存在である。エプスタインとダーショウィッツが攻撃対象にしたのは、『イスラエル・ロビー』の共著者シカゴ大学教授ジョン・J・ミアシャイマーとハーヴァード大学教授スティーヴン・M・ウォルトだった。『イスラエル・ロビー』は、アメリカ国内の親イスラエル諸組織(総称して「イスラエル・ロビー」)がいかにしてアメリカ政治に影響を与えてきたかを詳述した内容だ。もちろん、イスラエル・ロビーの後ろにはイスラエル政府、特に情報機関であるモサドが控えている。イスラエル・ロビーの活動が明らかにされてしまうと、アメリカ政界への影響力行使がやりにくくなる。イスラエル政府とイスラエル・ロビーが共著者であるミアシャイマーとウォルトを貶めよう、彼らの評判を落とそうとするのは当然のことだ。
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スティーヴン・M・ウォルト(左)とジョン・J・ミアシャイマー

 エプスタインは各名門大学に多額の資金提供を行い、学者たちにも食い込んでいた。彼の顧問弁護士であるアラン・ダーショウィッツはハーヴァード大学教授でもあった。彼らの工作によって、ウォルトは、ハーヴァード大学ジョン・F・ケネディ記念行政大学院(通称ケネディスクール)の学院長就任を妨害された。このことをミアシャイマーは証言している。

 こうしたことから、ジェフリー・エプスタインはイスラエル政府、情報機関モサドのエイジェントだったのではないかという疑惑も出ている。これについての確たる証拠は出ていない。しかし、周辺人物、協力者であったことは間違いない。
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ジェフリー・エプスタインとギレーヌ・マクスウェル
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ギレーヌ・マクスウェルとロバート・マクスウェル

 今回のエプスタイン・ファイル公開で、エプスタインの恋人で側近のギレーヌ・マクスウェルの父親ロバート・マクスウェルにもスポットライトが当たることになった。それは、マクスウェルが冷戦下における、国際スパイ、しかもトリプルエイジェントだったという話が現在も出残っているからだ。マクスウェルはチェコスロヴァキア出身のユダヤ人で、ナチス政権下の迫害を逃れ、若くしてイギリスに難民として渡り、イギリス軍に参加して、語学の才能を活かして昇進を重ねた。戦後は巨大な出版グループを作り上げ、新聞王ロバート・マー―ドックを向こうに回して戦い、メディア帝国を築いた。また、労働党所属で下院議員を務めたこともあった。ロバート・マクスウェルは社会主義にも親近感を持っていたという話もある。そして、彼は、イギリス情報部MI6、旧ソヴィエト連邦のKGB、イスラエルのモサドの3つの機関のスパイだったとも言われている。1991年にはスペインのカナリア諸島沖で所有するヨットから転落して死亡している。これも怪死と言われている。彼は、イスラエルに大いに貢献した人物として、イェルサレムのオリーヴ山に埋葬されている。

ジェフリー・エプスタインとロバート・マクスウェルは直接面識があったかどうかは定かではないが、ロバートの娘であるギレーヌを通じてつながり、両者ともにイスラエルのために働いたという共通点を持つ。エプスタイン事件は、富裕層のセックススキャンダルという側面以外にも、国際エリート層と情報機関の関係など、様々な側面を持つ事件ということが出来るだろう。

(貼り付けはじめ)

ジェフリー・エプスタインとイスラエルの関係とはどのようなものか?(What were Jeffrey Epstein’s links to Israel?

-新たな文書によると、この不名誉なアメリカ人金融家はイスラエルの諜報機関や入植者グループと関係があったと一部の人が考えていることが明らかになった。

サイモン・スピークマン・コーダル筆

2026年2月9日

アルジャジーラ

https://www.aljazeera.com/news/2026/2/9/what-were-jeffrey-epsteins-links-to-israel

米司法省が長年にわたるキャンペーンを経て、有罪判決を受けた性犯罪者に関する数百万点に及ぶ文書を公開したことで、悪名高いアメリカの金融家ジェフリー・エプスタインとイスラエルの関係がますます明確になりつつある。

これらの文書は、イスラエルの元首相エフード・バラクを含むエプスタインと世界のエリート層との交流について、より詳細な情報を明らかにしている。しかし、これらの文書には、「イスラエル国防軍友人の会(Friends of the Israeli Defense Forces)」や、入植者組織である「ユダヤ人国家基金(Jewish National Fund)」といったイスラエルの諸組織への資金提供、そしてイスラエルの海外諜報機関との関係も記録されている。

米司法省がエプスタインに関する数百万点に及ぶ文書を最後に公開してから10日、そして彼がアメリカ国内で拘束中に死亡してから10年半が経過した現在も、エプスタインと世界のエリート層との交流に関する詳細は、依然として世界のニューズの見出しを飾っている。

私たちにとって分かっていることを以下に掲載する。

(1)エプスタインはイスラエルのスパイだったのか?(Was Epstein a spy for Israel?

これらの文書は、エプスタインがイスラエルの情報機関の工作員だったと考える人々にとってさらなる証拠となるものの、依然として確言できるものではない。

FBIロサンゼルス支局が2020年10月に作成したメモによると、情報筋の1人がエプスタインを「モサドに雇われたエイジェント(was a co-opted Mossad agent)」だと信じるようになったということだ。

このメモによると、この悪名高い金融業者はイスラエルの情報機関のために「スパイとして訓練された(trained as a spy)」とされている。

情報筋はまた、エプスタインが長年顧問弁護士を務めた、ハーヴァード大学法学教授アラン・ダーショウィッツを通じて、アメリカおよび同盟諸国の情報機関と繋がりを維持していたと主張した。ダーショウィッツのネットワークには「裕福な家庭出身の多くの学生(many students from wealthy families)」が含まれていたという。メモには、ドナルド・トランプ米大統領の義理の息子で特使を務めるジャレッド・クシュナーと、その弟ジョシュ・クシュナーの2人がダーショウィッツの元学生として挙げられている。

エプスタインのメールのやり取りからは、彼がエフード・バラクの上級補佐官やイスラエル軍情報部のヨニ・コーレンと広範囲に接触していたことも明らかになっている。コーレンはエプスタインのニューヨークの自宅を定期的に訪れており、2012年の癌治療費もエプスタインが支払ったとみられる。

イスラエルとのつながりはさらに遡る。エプスタインの元恋人で共謀者でもあるギレーヌ・マクスウェルの父親であるイギリスの新聞王ロバート・マクスウェルは、イスラエル情報機関とのつながりが長らく噂されていた。

マクスウェルはイスラエル経済に資金を注ぎ込み、1991年に会社の年金基金から数百万ドルを横領した後、ヨットから転落して謎の死を遂げたとされている。

エプスタイン自身も、イスラエルの諜報機関モサドがマクスウェルの死に関与したのではないかと疑っていたようだ。エプスタインが2018年に送ったメールの件名は「彼は逝去した」でマクスウェルに言及していた。

メッセージの中で、エプスタインはマクスウェルが以前イスラエルの諜報機関を脅迫したと主張し、「彼ら(モサド)が崩壊しつつある彼(マクスウェル)の帝国を救うために4億ポンドを提供しなければ、自分が彼らのためにしてきたことを全て暴露すると脅した」と記していた。

エプスタインはまた、マクスウェルが非公式の工作員(an informal operative)としてアメリカ、イギリス、ソ連に関する情報を収集していたとも主張した。

(2)エプスタインは各諜報機関の関心の対象だったのだろうか?(Would Epstein have been of interest to intelligence agencies?

世界のエリート層と強いつながりを持ち、彼らに関する機密情報も潜在的に持つ国際的な金融家であるエプスタインは、諜報機関が頼りにするタイプの人物だ。

キングス・カレッジ・ロンドンの講師であるアーロン・ブレグマンは「エプスタインがモサドに接触しなかったとは考えにくい」と述べた。ブレグマンとエジプトのモサド工作員とされるアシュラフ・マルワンとの関係は、書籍と映画『地球に落ちたスパイ』の原作となっている。

「アシュラフ・マルワンのケースと同じだ。イスラエルとエジプト両国間の和平が成立したため、エジプトに関する報道はもはや必要なかったにもかかわらず、モサドは彼と再び接触し、扉を開くために利用しようとしたのだ」とブレグマンは述べた。

彼自身も親イスラエル派として物議を醸す人物であるダーショウィッツは、エプスタインについて「どの情報機関も彼を本当に信頼することはないだろう(No intelligence agency would really trust him)」と述べ、これらの主張を否定している。ダーショウィッツはさらに、もしエプスタインが情報工作員であったなら、弁護士(つまり自分自身のこと)に報告していたはずだと付け加えた。

イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ現首相も、エプスタインがモサド工作員だったという主張を否定し、ツイッターで「ジェフリー・エプスタインとエフード・バラクの異常に親密な関係は、エプスタインがイスラエルのために働いていたことを示唆するものではない。むしろその逆である」と投稿した。

バラクは長年にわたりネタニヤフの政敵の一人であった。

英国の諜報機関MI6のロシア担当部門をかつて率いていたクリストファー・スティールを含む他の情報筋は、エプスタインが「ロシアの組織犯罪者にリクルートされた」可能性が「かなり高い」と示唆している。また、ポーランド政府は、故人となった性犯罪者とロシア国家情報機関とのつながりについて調査を開始した。

(3)エプスタインと複数のイスラエル関連組織との関係について、私たちは何を知っているだろうか?(What do we know about Epstein’s relationship with Israel-linked organisations?

エプスタインは自身のCOUQ財団を通じて、少なくとも1回は「イスラエル国防軍友の会(FIDF)」と「ユダヤ国家基金(JNF)」に資金を提供しており、2006年には「イスラエル国防軍友の会」に2万5000ドル、「ユダヤ国家基金」に1万5000ドルを寄付した。

「イスラエル国防軍友の会」のウェブサイトによると、この組織はイスラエル軍兵士向けのプログラムに資金を提供している。同組織はウェブサイトを通じて、寄付者に対し、非武装民間人の殺害、被拘禁者の殺害、拷問、虐待行為で広く非難されている第97ネツァ・イェフダ大隊のような旅団や大隊への支援を呼びかけている。

「ユダヤ国家基金」はまた、歴史的にユダヤ人市民にイスラエル国内への上陸を特権的に認めながら、「環境保護主義(environmentalism)」を装ってパレスチナ人のアクセスを制限してきたとして非難されている。

活動家たちは、「ユダヤ国家基金」が過疎化した村落に植林事業を行うことでパレスチナ人コミュニティの強制移住を助長していると非難している。占領下のヨルダン川西岸、特にグシュ・エツィオン入植地群における入植活動を支援しているとの疑惑から、一部の国から慈善団体としての地位剥奪を求める声が上がっている。さらに、「ユダヤ国家基金」は環境活動が地域の生態系に悪影響を及ぼしているとの批判も受けている。

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