古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:ジョージ・W・ブッシュ

 古村治彦です。

 2025年11月21日に『シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体』 (ビジネス社)を刊行します。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
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シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体 
 最新刊の刊行に連動して、最新刊で取り上げた記事を中心にお伝えしている。各記事の一番下に、いくつかの単語が「タグ」として表示されている。「新・軍産複合体」や新刊のタイトルである「シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体」を押すと、関連する記事が出てくる。活用いただければ幸いだ。

 911テロ事件(2001年)が発生した当時のジョージ・W・ブッシュ政権(2001~2009年)の副大統領を務めたディック・チェイニーが今年2025年に死去した。ジョージ・W・ブッシュ(子)政権の副大統領、実質的には大統領として、「影の大統領」として、911テロ事件後のアフガニスタン戦争、イラク戦争を主導し、アメリカを泥沼(quagmire)に引きずり込んだ。毀誉褒貶の多い政治家だった。

 チェイニーはイェール大学に入学したが、勉学に身が入らず、中退する羽目になった。故郷のワイオミング州に戻り、建設業に従事したが、生活は乱れ、酒におぼれ、飲酒運転で逮捕されるということもあった。高校時代からの恋人リンがチェイニーの生活を立て直し、チェイニーはワイオミング大学に編入学し卒業できた。リンと一緒にウィスコンシン大学大学院に進学した(リンは文学専攻、チェイニーは政治学専攻)。大学院在学中にウィスコンシン州のウォーレン・ノールス州知事のスタッフとなり、そこから政治の世界に入った。

連邦議会フェローシップでワシントンに行き、そこで当時若手の連邦下院議員だったドナルド・ラムズフェルドと知り合い、ラムズフェルドがリチャード・ニクソン大統領の辞任後に大統領に昇格したジェラルド・フォード大統領によって大統領首席補佐官に任命された際、チェイニーはラムズフェルドの首席補佐官となり、ホワイトハウス入りした。そして、ラムズフェルドが1年で大統領首席補佐官から国防長官に転身すると、大統領首席補佐官となった。当時34歳、史上最年少の大統領首席補佐官就任だった。フォード政権終了後は1979年から1989年までワイオミング州選出の連邦下院議員(5回当選)を務め、連邦下院共和党内で地歩を固め、政策委員長、共和党連邦下院議員会長(序列第3位)、連邦下院少数党(共和党)院内幹事(序列第2位)を務めた。院内総務、連邦下院議長を狙える位置にいたが、1989年、ジョージ・HW・ブッシュ(父)政権の国防長官に就任した。1991年の湾岸戦争を主導したことで知られる。

ビル・クリントン政権時代は、ハリバートンでCEOを務めた。チェイニーはリバートンの最大の個人株主であった。ハリバートンは、世界最大の石油掘削機の販売会社であり、イラク戦争後のイラクの復興支援事業やアメリカ軍関連の各種サービスも提供したことでも知られている。湾岸戦争と後のイラク戦争で巨額の利益を得た。

 2001年からのジョージ・W・ブッシュ(子)政権では副大統領を務めた。前述した通り、911テロ事件後のアフガニスタン戦争とイラク戦争を主導し、アメリカを泥沼に引きずり込んだ。チェイニーの基本的な考えは、「アメリカ大統領への徹底的な献身」であり、「大統領権限の強化」である。このことを1970年代から半世紀近くにわたって矜持として持っていた。「強い大統領」が多くのことを決定するという考えである。これは、現在で言えば、単一執行権理論(Unitary Executive Theory)と呼ばれる考えであり、その先駆けであった。ジョージ・W・ブッシュ政権下でのアフガニスタン戦争とイラク戦争の遂行で、大統領の権限強化が進められたが、このことを説明する理論が単一執行権理論である。現在のトランプ政権の動きもこの理論で説明できる。もちろん、三権分立(separation of power)を弱めるという批判もある。アメリカの民主政治体制への信頼が揺らぐ中で、賢人王(哲人王)への希求が高まっている。チェイニーはその先駆けとなった人物と言えるだろう。

(貼り付けはじめ)

対テロ戦争の設計者ディック・チェイニーが死去(Dick Cheney, Architect of the War on Terrorism, Dies

-元アメリカ副大統領は大統領と国家の権力強化を目指したが、最終的には両者を弱体化させた。

ジェフリー・A・エンゲル筆

2025年11月4日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2025/11/04/dick-cheney-obituary-legacy-iraq-war-bush-torture-9-11/?tpcc=recirc_latest062921

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2005年12月18日、イラク西部のアル・アサド空軍基地で海兵隊員たちに演説を行うディック・チェイニー米副大統領

1941年、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦し、世界との関係を根本的に変革した年に生まれたリチャード・ブルース・「ディック」・チェイニーは、人脈と強い信念を武器に、30代半ばを迎える頃にはアメリカ政界の中心へと華々しく上り詰め、40年近くその地位に留まった。11月3日、肺炎と心血管疾患の合併症により84歳で逝去した。

物腰柔らかで、自らの判断力に極めて自信を持っていたチェイニーのキャリアは、世界におけるアメリカの役割が絶えず変化していく中で、変革をもたらす可能性と、同時に、人々を不安にさせる不安を象徴するものとなった。チェイニーはヴェトナム戦争後に海外でのアメリカ軍の展開に課された制約に難色を示し、1990年代初頭には当初アメリカの冷戦と湾岸戦争での勝利に疑問を呈しながら、その後はアメリカの勝ち誇った態度(triumphalism)を共有し、911テロ攻撃に対するワシントンの恐怖と攻撃的な反応を体現し、そして最終的には混沌とした世界における完璧な安全を求めて、アメリカ史上最悪の戦略的決定の1つに数えられる2003年のイラク侵攻と占領の指揮に協力した。

2009年に正式に公職を退く頃には、彼の助言はほぼ無視され、アメリカは就任時よりも貧しく、弱体化し、分断が進み、国際的な人気も低下していた。また、アメリカ本土で911同時多発テロのような別のテロ攻撃に見舞われることもなかった。

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1975年4月18日、当時大統領次席補佐官だったチェイニー氏は、ワシントンのホワイトハウス閣議室で話を聞いている

ネブラスカ州とワイオミング州で育ったチェイニーは、若い頃から公職で成功するために必要な知性(the intelligence)は備えていたものの、規律(the discipline)は身につけていなかった。「ビールこそが人生に欠かせないものだという信念を共有していた(shared my belief that beer was one of the essentials of life)」同級生たちと過ごす時間が長すぎたため、イェール大学を2度にわたって退学処分された後、故郷に戻り建設業に就き、将来は不透明だった。「イェール大学を退学処分になった後、私は悪い道を歩み始めた。22歳の時、飲酒運転で2度逮捕されてしまった」とチェイニーは2015年に当時を振り返ってこのように語った。「刑務所にも行った。・・・それが私にとっての目覚めの音(a wake-up call)となった」。高校時代の恋人リン・ヴィンセントからの最後通牒(an ultimatum)も同様に彼を突き動かした。リン・チェイニーは後に「最終的には、田舎の電線作業員とは結婚する気はないとはっきりと言った」と述べている。

同時に、チェイニーはヴェトナムにおけるアメリカ軍の泥沼に自ら関与する気はなかった。家族や学業上の理由で5回も徴兵猶予(draft deferments)を受けた。「1960年代は兵役よりも優先すべきことがあった」と彼は数十年後に語っている。そのなかにはウィスコンシン大学大学院での勉学も含まれていた。リンはそこで文学を学び、チェイニー自身も政治学の博士号を取得することを目指していたが、結局は取得しなかった。兵役義務の年齢制限に達すると、チェイニーは連邦議会フェローシップを熱心に受け入れた。このフェローシップは、政治を単に学ぶだけでなく、実際に政治に関わる機会を与えてくれた。

チェイニーは、当時イリノイ州選出の若手連邦下院議員だったドナルド・ラムズフェルドとの最初の面談について「面接で落とされた」と語った。フェローシップは連邦議会のスポンサーを見つける必要があり、ラムズフェルドに十分な印象を与えることができず、彼のスタッフに加わることができなかった。チェイニーは、当初ウィスコンシン州選出のウィリアム・スタイガー連邦下院議員の事務所に入ることができた。それでもラムズフェルドは後にチェイニーをリチャード・ニクソン大統領の経済機会局the Office of Economic OpportunityOEO)に入れた。ラムズフェルドとチェイニーはその後数十年にわたり、政治的にも個人的にも深い結びつきを持ち続けた。1974年、ジェラルド・フォード大統領がラムズフェルドにホワイトハウススタッフのリーダーを任命すると、チェイニーは33歳にしてラムズフェルドの主席補佐官となった。

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1974年11月16日、ホワイトハウスのウエストウイングのオフィスで、ベティ・フォード大統領夫人と話す大統領首席補佐官ドナルド・ラムズフェルド(左)と大統領次席補佐官ディック・チェイニー

チェイニーがわずか5年で連邦議会の一スタッフから大統領補佐官へと驚異的な出世を遂げたことは、近接性と人脈(proximity and personal connections)の力だけでなく、粘り強さ(perseverance)の証明でもあった。チェイニーはラムズフェルドに対する最初の悪い印象を、自ら進んで経済機会局の再編案を提出することで覆し、ラムズフェルドが国家において存在感を増すにつれ、忠実で信頼でき、いつでも対応できる人物であることを示した。ラムズフェルトは「ディックに何かを任せると、それは実現した。必ず実行された」と述べている。

フォードはチェイニーに注目した。1975年に大規模な閣僚の変更でラムズフェルドが国防長官に就任すると、大統領はチェイニーを大統領首席補佐官に昇格させた。34歳という史上最年少の大統領首席補佐官となり、フォード政権が抱える問題に対応できる実務家としての役割を果たした。フォードは後に、「ディックは素晴らしかった。彼は入ってきて、10項目の議題を処理し、処理し終えて去っていった」と語った。

チェイニーはまた、効果的な「嫌な仕事ができる人間(hatchet-man)」としての手腕も示した。「私の方法は直接的だった」とチェイニーは後に、他人を解雇する手腕と評判が高まったことについて説明している。「ほのめかしも、冷たい態度も、苦痛に満ちた長期の退職手続きもなかった。それらは誰にとっても良くない——大統領にとっても、解雇される側にとっても」と述べた。大統領首席補佐官としての彼の支持基盤はただ1つ、最終的に気にかけた意見もただ1つだった。「大統領の利益に反する行動を取る者は——意図的であれそうでなくとも——ただ去るべきだった」とチェイニーは語った。

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1976年8月7日、メリーランド州キャンプ・デイヴィッドへの週末旅行中にアスペン・ロッジのリビングルームで書類に目を通すホワイトハウス首席補佐官チェイニーとジェラルド・フォード大統領

チェイニーが上司の政策を露骨に優先させたことで、政治的傾向は見えにくくなりながらも、職の安定性は確保された。これは意図的なものだった。彼の唯一の政策は、ウォーターゲート事件とニクソン大統領の辞任を受けて昇格した、選挙で選ばれていない大統領フォードの政策だけだった。政治的に穏健派だったフォードは、チェイニーについて「私に絶対的に忠実だ」と結論付けた。しかし、別の側近はチェイニーを「フォード、ラムズフェルド、いや、チンギス・ハーンよりもやや右派」と考えていた。

チェイニーのホワイトハウス初期の経験は、彼の官僚政治(bureaucratic politics)へのアプローチを形作り、大統領権力への制約に対する生来の嫌悪感を強めた。その点で、彼は20世紀における絶え間ない安全保障危機の中で、大統領が外交においてあまりにも全能になりすぎたという通説に反論した。歴史家アーサー・シュレジンジャーが1973年に主張したように、大統領はあまりにも「帝国主義的(imperial)」だった。東南アジアにおける泥沼の混乱と敗北は、統制されない行政権というより大きな問題の兆候であり、憲法の再構築が必要だという論理が展開された。

チェイニーはこれに反対した。大統領による制約はアメリカの力、特に軍事力の有効性を弱めるだけだと彼は主張した。外交政策はしばしば厳しい選択を迫られ、必ずしも公の場で精査されることが最善とは限らない。時には、有能な参謀総長(an effective chief of staff)と同様に、軍最高司令官(the commander in chief)でさえ国家の優先事項を追求するために、真の戦略や動機を隠さなければならない。「ウォーターゲート事件やヴェトナム戦争をめぐる多くの出来事が・・・(大統領の)権威を弱めることになった」と彼は数年後に説明した。

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1976年10月9日、フォードと共にダラスで選挙運動をしていたチェイニーがバンパーカーを運転している

チェイニーは、真の憲法上の問題は、現代世界が、アメリカ合衆国憲法の起草者たちが想像していたよりもはるかに速く、相互に結びついていることだと主張した。「特に私たちが生きているこの時代においてはそうなっている」とチェイニーは2005年に述べた。もっとも、チェイニーの政治活動のどの年代にも同様の感情が見受けられるが、「私たちが直面する脅威の性質を考えると・・・合衆国大統領は憲法上の権限を損なわれてはならない」。ヴェトナム戦争の真の教訓は、卓越した武力が機能しなかったということではなく、武力が過度に抑制されていたということだとチェイニーは結論づけた。

チェイニーは1980年代初頭、アメリカン・エンタープライズ研究所のフォーラムで次のように語った。「ウォーターゲート事件とヴェトナム戦争のトラウマに苛まれ、私たちは行政機関と連邦議会の関係を改変してきた。その主目的は、過去に起きたとされるような権力乱用を将来にわたり回避することにある」チェイニーは「アメリカは1980年代のどこかで、世界のどこかで武力行使に訴えざるを得ない状況に直面するだろう」と警告した。その避けられない決着の日へ備えるため、「ここ数年の傾向を抑制しなければ、大統領の権威を損なうことになる」とも述べた。

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1984年度予算の行き詰まりを協議するため、当時ワイオミング州選出の連邦下院議員だったチェイニーなど共和党指導部と会談するロナルド・レーガン大統領(1983年517日)

フォードは1976年の大統領選挙で敗北し、チェイニーは束縛から解放された。独立性を貫く彼は、1978年のワイオミング州選出の連邦下院議員選挙に出馬し圧勝した。しかし彼には暗い影が差していた。選挙運動中、チェイニーは恐ろしい心臓発作を起こした。これは今後数年間で彼が経験する一連の心臓疾患の始まりであった。この経験に戒められ、彼は1日に3箱も吸っていた喫煙の習慣を止め、コーヒーの摂取も制限した。しかし、家族や友人の助言にもかかわらず、政治から離れることはなかった。チェイニーは近しい人々の考えを次のように説明した。「賢明な人間なら、自分が送っているこの狂った生活を辞めるのが賢明だ。心臓発作を起こしたのだ。もう諦めて家に帰り、ゆっくり休むべきだ。家族への責任を果たしながら、こんな生活を続けて生き延びられると思うか?」

チェイニーは政界に復帰し、共和党内で急速に地位を固めた。共和党政策委員会の委員長に選出された最年少の連邦下院議員となった彼は、選挙区の支持基盤に沿って、議会で最も一貫して保守的な投票記録の1つを積み重ねてきたにもかかわらず、イデオロギー的な硬直性よりも和解(reconciliation)を重視する姿勢で評判を築いた。ある時、深夜の電話で、彼を「穏健派(moderate)」と呼んだ記者を激しく非難したことがある。しかし、その後、連邦議会での交渉のプロであり、約束を守る人物として知られるようになった。

しかし、大統領の権威に対する揺るぎない信念は変わらなかった。ロナルド・レーガン大統領の最初の任期末にチェイニーは次のように書いている。「大統領の外交政策にさらなる制約が必要だと考える人々には、基本的に同意できない。さらなる制約は必要ない。・・・必要なのは、自らの指揮下にある手段を自由に使いこなせる大統領だ」。そして、無知な連邦議員に詮索される恐怖から解放された大統領だ。特にこの時代においては、連邦議員としては異例なことに、チェイニーは行政権を促進し、その効率性、柔軟性、そして他の連邦議員たちが躊躇するだけだった一方で、力強く問題を解決する能力を称賛した。チェイニーは1983年に、「もし大統領が過ちを犯したら、当然その代償を払うことになる。しかし、特定の決定を下す際には、大統領を信頼しなければならない。軍事力が行使される可能性のあるあらゆる状況において、協議と法的議論が可能であるという考えに常に立ち返るのは良いことだが、世の中はそうはいかないのだ」と述べた。

レーガン大統領のホワイトハウスが連邦議会の意見を度々無視したことは、チェイニーの立場を不利に働かせた。レーガン政権第2期には、無許可かつ違法な外交政策の発覚が相次ぎ、イラン・コントラ事件へと発展した。しかし、チェイニーは批判に動じることはなかった。レーガン政権の不正行為に関する正式調査に関する反対意見書(minority report)を主導した際、大統領にも守護者が必要だと考えた。チェイニーは、「連邦下院共和党幹部として、レーガンの選択を支持し擁護するためにできる限りのことをするのが私の責任だ」と述べた。たとえそれが間違っていたとしても、賢明な人物たちが国家の安全保障を念頭に置いて行った選択であり、事後には寛大に評価されるべきであり、あるいは、むしろ全く評価されるべきではないとチェイニーは主張した。

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西ドイツのキルヒ=ゴンスでブラッドレー戦闘車両の能力について説明を受けるチェイニー国防長官(1989年10月26日)

1989年初頭、連邦下院共和党序列第2位だったチェイニーは、連邦下院議長就任を視野に入れつつも、ホワイトハウス復帰への関心を失っていなかった。そして運命と人脈が再び彼を取り巻く。ジョージ・HW・ブッシュ大統領が国防長官に最初に指名した、ブッシュと同じテキサス州出身のジョン・タワーは、その年に連邦上院で否決された。ブッシュ大統領は、主にジェイムズ・ベイカー国務長官とブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官の助言を受け、チェイニーに目を向けた。2人はフォード大統領時代にチェイニーと仕事をした経験があり、彼の能力を高く評価し、判断力を信頼していた。そしておそらくこの時、最も重要なのは、チェイニーがすぐに承認されるだろうと確信していたことだった。2人はまた、チェイニーが大統領権限にどれほど熱心であるかを身をもって知っていた。 1980年、レーガン政権の首席補佐官に任命された後、ベイカーがチェイニーに助言を求めた際、ワイオミング州唯一の連邦下院議員が最初に助言したのは「行政府の権力と権限を回復すること(restore power and authority to the executive branch)」だった。

国防長官を務めるには、まさに目まぐるしくも気が遠くなるような時代だった。冷戦終結が近づく中、超大国間の関係は流動的であり、その波紋は世界中に広がっていた。そうした波紋の1つが中東で生じた。チェイニーは、1990年から1991年にかけてイラクが隣国クウェートへの征服を試みた動きを阻止するため、アメリカが主導し国連が承認した戦争の主要な立案者だった。しかしチェイニーは戦争の初期段階では支持派ではなかった。チェイニーは、イラクのサダム・フセイン大統領による侵攻後の最初の緊急会議で大統領と国家安全保障会議に「世界は石油を切実に必要としている」と訴えた。チェイニーは、イラクのサダム・フセイン大統領による侵攻後の最初の緊急会議で大統領と国家安全保障会議に「貧しいクウェートにはほとんど関心がない」と述べた。チェイニーは、米国もそうであると主張した。クウェートの石油こそが真に重要なものだった。

チェイニーはソ連の改革や超大国関係における新たな平和的時代の展望に対しても、同様の冷徹な計算を適用した。他の人々がソ連指導者ミハイル・ゴルバチョフの民主化への約束を称賛する中、チェイニーはブッシュ(父)政権最高幹部の中でも、ゴルバチョフが提案した改革の誠実さやその妥当性さえも疑う懐疑派(skeptics)の1人であり続けた。チェイニーは1989年に国防長官に就任して間もなく公の場で次のように主張した。「冷戦の終結を宣言したい人間たちがいる。彼らは脅威が大幅に減ったと認識し、警戒レヴェルをそれに応じて下げられると信じたいのだ。しかし私は慎重さが求められると考える」。この発言はゴルバチョフを不安にさせ、ゴルバチョフはイギリスのマーガレット・サッチャー首相に電話し、ブッシュ大統領がチェイニーのような人物の影響を強く受けており、「我々のペレストロイカの成功、ソ連の新たなイメージの構築が西側にとって有益ではない」と信じていると不満を訴えた。

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ジョージ・HW・ブッシュ大統領とチェイニー国防長官がホワイトハウスのローズガーデン付近を歩きながら、砂漠の嵐作戦の準備について話し合っている(1991年頃)

ゴルバチョフが、チェイニーの真意を聞いていたら、さらに不安になっただろう。「独裁政権に服従している人々に自由の息吹が与えられることを、私たちは十分に期待できる」と、ペンタゴンでの最初の夏にチェイニー副大統領は記している。彼は続けて「しかし、希望だけで国防政策を決定づけることはできない。グラスノスチ(glasnost)とペレストロイカ(perestroika)の結果がどうなるかは確かではないし、ソ連経済がより近代化されたからといって、ソ連軍の脅威が軽減されるとも断言できない」と書いている。したがって、チェイニー副大統領は「(ソ連の力を封じ込めて、対抗するために)効果的な政策を、希望があるという理由によって放棄すべきだと考えるのは危険だ。極めて危険だ」と結論付けた。

ゴルバチョフが嘘をついている可能性、あるいは彼の成功がソ連の強気派の台頭につながるといった可能性は、チェイニーがアメリカの防衛体制強化を勧告するのに十分な理由だった。しかし、チェイニーは大統領の権威を重んじており、上司への揺るぎない忠誠心もその一因となった。自分の見解がブッシュの考えと合致しないと告げられても、チェイニーはソ連問題でもクウェート問題でも、直ちに政権の方針に従った。彼の考えでは、大統領の下で働く者には真の顧客であり支持者となる存在はただ1人しかおらず、その人物こそがたまたま世界で最も権力のある人物、アメリカ合衆国大統領であった。

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1991年、サウジアラビアの某所にある秘密のF-11基地の格納庫で、チェイニーと統合参​​謀本部議長コリン・パウエル将軍がアメリカ軍兵士たちに演説している

クウェートに対する戦争計画を策定し、実行するのはチェイニーと当時統合参謀本部議長だったコリン・パウエルの責務であり、2人はためらうことなく、持てる限りの軍事力の行使を求めた。これはヴェトナム戦争の二の舞ではない。今回は「軍関係者が、文民の支持を得ていないなどと言い訳することは不可能だ」とチェイニーは回想している。

ブッシュ大統領はチェイニーとパウエルの要請を受け、テーブルから立ち上がり部屋を出て行った。その時に「君たちの言うことはよく分かった。アメリカ軍がもっと必要であれば言って欲しい」と述べた。チェイニーは驚きつつも、同時に喜びも覚えていた。「大統領は自分が今承認したことを理解しているのか?」と声に出して自問した。信じられないというよりは、むしろ確認の意味でそのような行動を取った。ブッシュ大統領は戦争担当者たちに、アメリカの力を最大限に活用する自由を与えた。これはヴェトナム戦争時代の前任者たちには与えられなかった裁量権だった。

一世代の中で最大規模のアメリカの海外軍事遠征(the largest U.S. overseas military expedition in a generation)が実施され、それは成功を収めた。しかしチェイニーとパウエルは、クウェートの解放が確実になればブッシュ大統領は戦闘を終結させ、イラクの長期占領につながるようないかなる措置も避けるべきだと助言した。ブッシュ大統領は、彼らの勝利のスピードに驚き、わずか100時間の地上戦で本当に戦争を終わらせるべき時なのかと自問した。チェイニーは後に「そこにいた私たち、軍民の全員の意見はイエスだった。私たちの目的はクウェートの解放だった」と述べた。

その目的が達成され、勝利を宣言し、感謝する同盟国からの称賛を受けると同時に、アメリカの軍事力の鮮明な示威に震え上がった世界中の人々の尊敬を集める時が来た。「この全てを通して、アメリカは明らかに世界唯一の真の超大国(the one real superpower in the world)として出現した」とチェイニーは誇らしげに語った。ヴェトナムの亡霊はついに払拭されたのだ。チェイニーは更に「アメリカのリーダーシップ能力は改めて実証された」と述べた。地球上のどの国も、アメリカのスピード、富、そして殺傷力に匹敵しないものとなった。

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1991年6月10日、ニューヨークで行われた湾岸戦争勝利記念パレードに出席したチェイニー、パウエル、そしてノーマン・シュワルツコフ将軍

この成功の鍵は、アメリカが新たな泥沼、特に自国の軍事力と技術的優位性(military and technological advantages)にそぐわない泥沼に陥らなかったことだった。アメリカ軍は空、夜、そして広大な砂漠地帯を掌握していた。しかし、都市や民間人の統制については同じことが言えなかった。チェイニーはこの点を、耳を傾ける人全員に、特に大統領に強調した。もしアメリカがフセインを捕らえ、その政権を転覆させていたら、「問題は、その代わりに何を置くかだ」とチェイニーは1992年に説明した。彼は次のように述べた。「その時、イラク統治の責任を引き受けることになる。さらに私の頭に浮かぶ疑問は、サダムがどれだけのアメリカ人の犠牲者を生むに値するのかということだ。・・・そして、その答えは、それほど多くはないということになる」。チェイニーは2000年になっても同じ考えだった。「私たちは今でも正しい決断をしたと思っている」と、副大統領退任後に初めて公開された口述記録の中で語っている。「1991年にバグダッドに行くべきではなかったと思う」。

アメリカの歴史がどれだけ長く研究され、教えられても、この言葉の皮肉は薄れることはないだろう。チェイニーは10年後、まさにそのような占領を主張し、彼の当初の評価が正しかったことを証明するために、一世代のアメリカ軍と同盟諸国軍、そして何百万人ものイラク人が血を流した。この10年間で変化したのは、フセインが驚くべきことに生き延びたことだ。これは長引く傷となった。冷戦後の多くの勝利主義者と同様に、チェイニーは、アメリカの指導力に対する危険な非難であり、ひいてはアメリカの覇権にとっての障害だと考えた。

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共和党大統領候補のジョージ・W・ブッシュと副大統領候補のチェイニーはワイオミング州キャスパーでの最初の訪問中に群衆を見渡している(2000年7月26日)

フセイン大統領は1991年の湾岸戦争を辛うじて生き延びたが、その後の10年間は​​国際制裁やアメリカの圧力を無視し続けた。2000年の大統領選挙で共和党が僅差で勝利し、副大統領として権力の座に返り咲いたチェイニーは、この任務を完遂しようと決意していた。「この男(サダム・フセイン)を始末するつもりか、それともしないのか?」と、2003年のイラク侵攻を前に、ブッシュ大統領が新たな外交措置を議論していた際、チェイニーは挑発的に問いかけた。外交ではアメリカの力、そして大統領が持つ強大な力を十分に発揮することはできないとチェイニーは考えていた。

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左:2001年9月11日のテロ攻撃後、ホワイトハウスを出発するチェイニーと妻のリン・チェイニー。右:キャンプ・デイヴィッドへ向かう途中、マリーン・ツーに搭乗するチェイニー

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2001年9月11日のテロ攻撃について話し合うチェイニーとブッシュ

恐怖が変化を促した。キャリアを通じて一貫して大統領権限を擁護してきたチェイニーが、イラク問題、占領の責任を負うことになってもフセイン打倒が必要だという考え(the need to topple Hussein even given the responsibility of occupation)、について心変わりしたのは、2001年9月11日のテロ攻撃が生み出した恐怖によるものだった。ハイジャックされた飛行機がワシントンに急降下する中、地中深くのホワイトハウス地下壕に身を潜めたチェイニーは、初めて暴力と権力の標的となる感覚を味わった(Cheney for the first time felt what it was like to be on the receiving end of violence and power)。それはトラウマ的でありながら、同時に物事を明快にした。あの忘れがたい日の終わりに、煙を上げる国防総省上空を飛行しながら、彼は後に次のように回想している。「私たちはどのように対応すべきか、アメリカの力と影響力をいかに発揮すべきかを考え始めた」。

チェイニーは前年2000年に共和党の副大統領候補に指名された(彼は選考プロセスも主導した)。外交経験の乏しい大統領選挙候補者ブッシュ(子)に重みと経験をもたらすためだった。彼は今や新たなテロ脅威への最大限の攻撃的対応の触媒(a catalyst for a maximally aggressive response to the new terrorist threat)となった。国防長官として復帰した旧友ラムズフェルドと協力し、チェイニーはアメリカの対応を国務省ではなく国防総省と中央情報局(CIA)に集中させることに貢献した。彼は、影響力や威信といったソフトな資源ではなく、アメリカのハードな軍事力を使うことに注力した。アメリカが主導する相互接続性(interconnectivity)、民主的平和(democratic peace)、グローバリズム(globalism)の称賛は、アメリカの国土に死と破壊をもたらした。武力こそがより良く国土を守ることができるということになった。

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2001106日、アメリカがタリバン支配下のアフガニスタン攻撃を開始する前日、ワシントンで会談するチェイニー副大統領とラムズフェルド国防長官(当時)

チェイニーは、国務省の文化的に根付いた行動前の交渉重視の姿勢について、「私の考えでは、国務省は逆のことをしていた」と書いている。外交は時間がかかるものであり、チェイニーの考えでは、外交推進派は、9月の朝に世界がどれほど変化したかを理解していなかった。チェイニーは、「他国を怒らせることを懸念して国益にかなう政策を妥協するのではなく、同盟諸国やパートナー諸国を説得するための外交努力を行いつつ、自国の安全保障に最も役立つ政策を行うべきだ」と主張した。

当時のチェイニーのメッセージは明確で、率直で、そして警告に満ちていた。「テロリストたちに避難所(sanctuary)を与えれば、アメリカ合衆国の激しい怒りに直面することになる」と、911同時多発テロの数日後に公に警告し、これは映画館で歓声をあげるようなクリーンな紛争ではないと付け加えた。チェイニーは「目的を達成するためには、基本的にあらゆる手段を使うことが不可欠になる。外の世界は卑劣で、下劣で、危険で、汚いビジネスであり、私たちはその中で活動しなければならない」と述べた。アメリカ人は「いわばダークサイドで働かなければならない(work sort of the dark side)」とチェイニーは言った。数日のうちに、チェイニーのオフィスは新たな種類の戦争のガイドライン策定を支援した。それは敵という概念だけでなく、概念に対しても戦うものであり、拷問を含むこれまで考えられなかった手段や戦術が新たな影響力を持つものだった。

全員が同意した訳ではない。当時のFBI長官ロバート・モラーはブッシュ大統領に次のように警告した。「もし私たちがこれらの措置のいくつかを実行すれば、テロ実行犯を訴追する能力を損なう可能性がある」。当時国務長官を務めていたコリン・パウエルもまた、世界が過度に好戦的な対応を取れば、世界貿易センターとペンタゴンの煙と瓦礫の中から生まれた国際的な善意が最終的に損なわれることを懸念していた。『ル・モンド』紙の見出しは「私たちは皆アメリカ人だ(We are all Americans)」(フランス語で「私たちは皆アメリカ人だ(Nous sommes tous Américains)」)と宣言した。「もし私たちが単独で行動し、何が最善かを知っていると主張し、世界の支持を失うならば、私たちは戦略的に誤りを犯すことになるだろう」とパウエルは記者団に語った。

チェイニーは、新たなテロ攻撃から国土を守るという点において、国際世論(world opinion)は有益ではあるものの必ずしも必要ではないと考えていた。そして、1970年代における大統領の行動に対する連邦議会の監視と同様に、国際世論は潜在的に制約となると考えていた。チェイニーは同僚たちに次のように語った。「私たちの任務を他者に決めさせてはならない。私たちはアメリカを守るためにあらゆる手段を講じる義務があり、そのために賛同してくれる連合パートナーが必要だった」。しかし、そのような連合はワシントンの行動能力を決して阻害してはならない。そして、国土安全保障の「任務(the mission)」が「連合を定義づけるべきであり、その逆ではない」と彼は述べた。

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2006年4月18日、カンザス州フォート・ライリーで行われた部隊集会でアメリカ軍兵士たちに手を振るチェイニー

チェイニーはブッシュ政権の対応、特によりデリケートな(つまり違法となる可能性のある)側面を主導した。具体的には、アフガニスタンおよび世界各地でアルカイダのテロリスト容疑者たちを逮捕または排除する権限の付与、捕獲された戦闘員とその支持者の無期限拘留、そして彼らが提供する可能性のあるあらゆる有用な情報の積極的な追及(拷問を含む)などが挙げられる。ブッシュ政権とチェイニーの顧問弁護士たちは、自らの新たな政策を「超法規的移送(extraordinary rendition)」および「強化尋問(enhanced interrogation)」と呼んだ。これらの政策は、新立法というよりも、既存の法律の強引な解釈と期限の定めのない権限付与によって正当化されていた。「連邦議会に訴えれば、望むだけの法改正を実現できたはずだ」と新政策の実施に関わった連邦判事は説明した。この判事は続けて「しかし、このホワイトハウスは、大統領の権力が最高であることを示すことを望んでいた」と述べた。

ブッシュ政権による国際法・国際規範の違反は、グアンタナモ湾アメリカ軍施設などにおける公然の場で無期限拘束されるカフカ的な状況(the Kafkaesque quality of indeterminate detention in public view at places like the U.S. military compound at Guantanamo Bay)、そしてイラクのアブグレイブ刑務所施設などで生み出された暴力的な画像によって露呈し、最終的にアメリカの評判を傷つけた。国際社会におけるアメリカの対テロ戦争への支持は減退し、特に長年の同盟諸国において、アメリカの指導力に対するより根本的な信頼も失われた。2000年に実施された世論調査では、ドイツ人の78%がアメリカに好意的な見解を持っていたが、2007年までにその割合は30%にまで低下した。イギリスではブッシュ政権発足時83%だった支持率が退陣時には53%に。フランス国民の支持はほぼ半減となった。トルコでは2007年までに、アメリカを好意的に見る回答者は10人に1人以下になった。世界の大国の中で、ブッシュ政権終了時点で2001年よりアメリカを高く評価していたのはロシアのみだった。

チェイニーは再び動じなかった。世論は政策を決定しない(public opinion didn’t make policy)——外国人がアメリカの選挙で投票する訳でもない——厳格な合法性は、アメリカ国民を守るために必要な行動を取る勇気のない者、あるいは実際の責任から遠く離れて意見が無意味な者たちが提起する哲学的問題に過ぎない。「名誉を守りたいがために、多くの人の命を犠牲にするつもりか?」と彼は修辞的に問いかけた。「それとも、第一に求められる職務を果たすのか? アメリカ合衆国とその国民の命を守るという、お前の責任を果たすのか?」

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2004年5月8日、アブグレイブ刑務所でアメリカ当局に拘束されているイラク人囚人の親族が収容所内でアメリカ兵がイラク人囚人を虐待している写真を見て反応を示している

連邦議会調査官を含む事後批判者たちは、政権のやり方を「拷問(torture)」と呼んだ。チェイニーは「強化尋問技術」を好み、「大統領が承認した全ての技術は、事実上、司法省によって承認されていた」と主張した。さらに、チェイニーは言葉や定義をめぐる論争は、国民の安全を守るというアメリカの政策の本質を見失っているとさらに激しく主張した。 「私たちがやったことと同じことをするか、それとも引き下がって『アメリカに対するテロ攻撃があることは皆さんご存知でしょうが、私たちに悪いイメージを与える可能性があるため、内容を伝えるよう強制はしません』と言うか、どちらかを選ぶとしたら、それは私にとっては難しい選択ではない」とチェイニーは続けた。

チェイニーの拷問に対する信念は、明白な強制下で得られた情報に疑問を呈し、軽視し、あるいは完全に無視する、圧倒的多数の専門家によって誤った、あるいは少なくとも異論を唱えられた。苦痛に苦しむ人々は、拷問を止めさせるために何でも言うだろう。しかし、チェイニーはそうではないと信じていた。拷問は効果的であり、対テロ戦争においてブッシュ政権は国際的な配慮よりも必要性を優先せざるを得なかったと彼は主張した。911事件は酷い出来事だった。もっと酷い事態になっていた可能性もあった。次のテロ攻撃――そしてまた確実に起こると思われた――は、計り知れないものになるかもしれない。

チェイニーは、歴史家ロン・サスキンドが「1%ドクトリン(the one percent doctrine)」と名付けた理論を展開した。これは、ある出来事の発生確率とその潜在的な結果をプロットすることでリスク評価を計算する最も基本的な方法を指している。次の攻撃は核兵器や生物兵器によるものになる可能性があり、その結果は計り知れないほど恐ろしいものになる可能性があるため、わずかなリスクでさえ許容できないとされた。チェイニーはブッシュの国家安全保障ティームに対し、「脅威が現実となる可能性が1%でもあれば、対応においてはそれを確実なものとして扱わなければならない」と繰り返し警告した。

その根拠に基づき、アメリカは軍事連合を率いてフセインを権力の座から引きずり下ろし、実際には数年前に停止されていたとされる大量破壊兵器計画を根絶させた。チェイニーは政権の応援団長として、情報機関や国家安全保障関係者が入手可能な証拠から結論づけられなかったことを明言した。「端的に言えば、フセインが現在、大量破壊兵器を保有していることに疑いの余地はない」と、2002年初頭、アフガニスタンで911テロ攻撃を企て支援した者たちとの戦闘が依然として激化していたにもかかわらず、チェイニーは公に警告した。「[フセインが]それらの兵器を蓄積し、友好国、同盟国、そして私たち自身に対して使用しようとしていることは疑いようがない」とチェイニーは述べた。

チェイニーは、長年彼のトレードマークとなってきた冷静な確信をもって、中東、そして実に世界全体がイラクの独裁者なしでより良い場所になるだろうと断言した。「イラク国民の立場から見れば、イラク国内の状況は非常に悪化している」と、かつては反対を唱えていたアメリカ主導の占領開始の数日前にチェイニーは次のように説明した。「実際、私たちは解放者(liberators)として迎え入れられるだろうと私は確信している」。

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2008年3月18日、イラクのバグダッド北部にあるバラド空軍基地に駐留するアメリカ軍兵士と話すチェイニー

イラク戦争も、世界的な対テロ戦争も、チェイニーが予言した通りには進まなかった。チェイニーとその直属の部下たちは、フセインに不利な証拠と論拠を無謀に集めたと当時の専門やや後の学者たちは認めている。民主党からこのような批判が出るのは当然かもしれないが、ブッシュ政権、特にチェイニーが、情報の質に関わらずイラク戦争に突入することに固執していたという見方は、従来の党派の垣根を越えたものとなっている。

例えばスコウクロフトやローレンス・イーグルバーガー国務長官といった共和党の重鎮たちは、戦闘開始前にイラク侵攻の是非を疑問視していた。彼らには経験が味方していたが、ブッシュ元大統領の元報道官が持つ内部の視点はなかった。この人物は2008年、ホワイトハウスが「戦争の正当性を主張する上で率直さと誠実さを欠いていた」と指摘している。他にも批判は数多くある。当時、影響力のある人物で懐疑的な見解を公に表明する者はほとんどいなかったが、戦争開始から一世代が経過した今、侵攻を称賛する政策立案者や有識者はごくわずかである。大統領の弟であり大統領候補でもあるジェブ・ブッシュは2016年に、「今知っていることを当時知っていたなら、私はイラクに侵攻するという決断はしないだろう」と認めている。

より強い非難が続いた。「彼らは嘘をついた」と大統領候補のドナルド・トランプは2016年に断言した。チェイニーとブッシュは共に「大量破壊兵器があると発言したが、実際には存在しなかった」と述べた。さらに重要なのは、トランプがさらに「彼らは大量破壊兵器が存在しないことを知っていた」と付け加えたことだ。トランプは、いかなる基準で見ても、真実性や歴史的正確さを測る指標としては信頼できない。しかし、ブッシュ、チェイニー、そしてその他の侵略推タカ派(pro-invasion hawks)に、単に無能さだけでなく不正行為をも押し付けることで、この問題に関するアメリカ有権者の不満と不信感を煽った。2004年初頭の世論調査では、半数強が、ブッシュ(子)政権が「戦前の情報に関して誇張したり嘘をついたりした」と考えていた。それから15年が経ち、世論調査では、回答者の3分の2、その中にはアメリカ軍退役軍人の64%も含まれ、911事件後に始まり、2003年のイラク侵攻によって促進された軍事作戦は「戦う価値がない(not worth fighting)」と考えた。

将来の歴史家たちは、チェイニーがフセインについて、大量破壊兵器計画を進行中だと信じたことが誤りだったのか、あるいは意図的に断片的なデータを選び出してそう見せかけたのか、疑問を抱き、議論するのは間違いないだろう。その議論は間違いなく、キャリアや評判、終身在職権の決定に影響を与えるだろう。既に疑いの余地のない事実もある。チェイニーは戦争を主張した。フセインが当時大量破壊兵器を保有し、さらに増強を望んでいるだけでなく、テロリストに密かに渡してアメリカに対して使用する可能性があると公の場で自信満々に述べた。チェイニーは、アメリカ主導のイラク占領が歓迎され、比較的容易に進むと確信を持って約束した。そして結局、チェイニーの助言はブッシュが承認した決定に重大な影響を与えた。この決定は、アメリカ外交・軍事史上おそらく最悪の戦略的判断として歴史に刻まれるだろう。

イラクでの敗北は、一世代前のウォーターゲート事件やヴェトナム戦争と同様に、アメリカ国民の政府への信頼を崩壊させた。この敗北が直接的な原因ではないにせよ、党派対立が激化し、2021年1月6日の連邦議会議事堂乱入事件の記憶がまだ生々しい現在、南北戦争以来の最も深刻な政治危機と一部で評される状況を生み出した。しかし敗北は亀裂を深刻化させた。数兆ドルの支出、数万人の戦死・負傷兵、国際社会における米国の地位低下、そしてアメリカ国民による自国制度への信頼喪失は、チェイニーが2009年に退任してから何年も経った今も、アメリカ社会に傷跡を残し続けている。

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2011年9月9日、ワシントンのアメリカン・エンタープライズ研究所で、911同時多発テロに関する議論に参加するチェイニー

チェイニーは、任期の最後まで、現実の世界では政治指導者は不完全な情報に基づいて難しい選択を迫られると主張し自分自身を弁護してきた。「ホワイトハウスの地下バンカーから、我が国への組織的かつ壊滅的な攻撃を目の当たりにすると、自らの責任に対する考え方が変わることは認める」と発言した。こうした見方は、不作為(inaction)を無効化した。2018年にも、イラク侵攻と占領は「正しい行動(the right thing to do)」だったと主張し、同じ情報があれば、再びそう助言するだろうと述べた。「私たちは(情報諜報)を47通りの方法で検証し、最終的に、必要な正しい行動をとったと確信している」と述べた。結果が重要だとチェイニーは主張した。「サダムがいなくなったことで世界はより良い場所になったと思う。ブッシュ大統領は2003年当時、必要な正当性を全て持っていたと思う」と彼は述べた。最終的に、イラク、アフガニスタン、そして911後のより広範な対テロ戦争において、「私たちは必要なことをした」と語った。

チェイニーは注目すべき人生を送った。しかし、ワシントンでの輝かしい経歴と長年にわたる功績は、信念を貫く保守派としての実績と同様に、いずれは姿を消していくことになるだろう。彼の最大の遺産は、むしろ、執拗に、そして最終的には有害な形で行使してきた行政権(executive authority)である。

チェイニーの遺産を考える上で、イラクでの泥沼、チェイニーが未完で残したアフガニスタン戦争、あるいはアメリカの国際的地位の毀損と空っぽの財政にどれほどの重みを与えるべきかを評価する際には、1983年の彼の言葉を思い出すべきである。「現実の世界は確実性を求め、大多数の魂を震撼させるような決断を下す覚悟のある男女を必要とする。大統領が、側近の補佐官たちの支援を受けて、『過ちを犯したなら、当然その代償を払うことになる』が、『大統領が特定の決断を下す際には、私たちは大統領を信頼しなければならない』」。

チェイニーとブッシュは、記録的な低支持率で政権を去った。経済は大恐慌以来最悪の不況に直面し、イラクとアフガニスタンでは終息の見通しが立たないまま戦争が続き、ワシントンの国際的な評判は深く傷ついた。しかし、チェイニーは、911同時多発テロ後に祖国への2度目の大規模テロ攻撃がなかったことを何よりも強調し、持ち前の自信を見せ、自らの功績を認められていると感じていた。自身が策定に関わった包括的国家安全保障戦略について、2009年には「機能した」と語った。「もし私が決断するとなれば、もう一度やるだろう」と述べた。

任期を2期務めた大統領ブッシュを含め、他の人々はとっくの昔にチェイニーの言うことに耳を傾けなくなっていた。チェイニーの不安な脅威予測に早くから賛同し、それを広めたブッシュは、2期目の終わりには彼の助言をほとんど無視していた。2007年、チェイニーからイランがスタートさせつつあった核開発計画への攻撃を迫られたブッシュ大統領は、チェイニーが退任前にイランの大量破壊兵器の可能性に「対処する(take care of)」必要があると繰り返し主張したことに憤慨し、その助言を拒否した。「副大統領の意見に賛同する人は他にいるか?」とチェイニー副大統領が即時軍事攻撃(an immediate military strike)を主張した後、ブッシュ大統領は主要な補佐官たちに質問した。チェイニーが後に回想しているように、「部屋の中で誰も手を挙げなかった」ということだ。

※ジェフリー・A・エンゲル:サザンメソジスト大学米大統領歴史研究センターの創設担当部長。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体 

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『トランプの電撃作戦』
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世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。

 2023年12月27日に『バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる』(徳間書店)を刊行しました。『週刊現代』2024年4月20日号「名著、再び」(佐藤優先生書評コーナー)に拙著が紹介されました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

 ジョージ・W・ブッシュ大統領(在任:2001-2009年)の外交政策は、ネオコン派と呼ばれる人々によって牛耳られていた。彼らは、介入主義を基盤とする、外交政策を展開した。2001年9月11日の同時多発テロ「911事件」の報復として、アフガニスタン(2001年)とイラク(2003年)に侵攻した。その当時の両国の政権を倒すことはアメリカにとっては容易(たやす)いことだった。それからはアメリカ軍が占領しながら、新体制、新政権を樹立することになった。それからは厳しい状況が続いた。自爆テロや地元の人々の反感を受けて、アメリカ軍の占領は泥沼状態に陥った。結局、アメリカ軍(と同盟諸国の軍隊)は両国から撤退し、両国の状態は大きく改善(西側の視点から)されることはなかった。ベトナム戦争からの撤退を思い出させる混乱があった。

 そもそも論として、アメリカは外交政策を失敗したのだ。安易な介入主義、「アメリカの力をもってすれば、一国の政治体制を変革し、資本主義と民主政治体制を確立することは可能だ」という介入主義の傲慢さが、泥沼化(quagmire)を招き、最終的にはアメリカ軍は撤退するに至った。ブッシュ政権のネオコン派による外交の失敗、介入主義の失敗が、バラク・オバマ大統領を誕生させた。しかし、オバマ政権(リアリズム外交を志向した)も、1期目にはヒラリークリントンを国務長官に据えて、「アラブの春」を演出した。アメリカ軍が介入することはなかったが、介入主義の外交政策が続き、結局それらは失敗に終わった。アメリカの権威を大いに傷つける結果となった。

 介入しての体制転換、政権交代、新体制樹立が成功したのは、敗戦後の日本だ。アフガニスタンやイラクへの侵攻が行われた後、アメリカ国内のメディアでは、「イラク(アフガニスタン)は次の日本になれるか」というようなタイトルや趣旨の記事が多く出た。結局、失敗したのであるが、日本における、特殊な成功体験が、アメリカを狂わせたということになる。「あれだけ激しく抵抗した日本が戦後はおとなしく属国になり果てた」ということが、歴史的に見れば、アメリカの失敗を引き出したということになる。

(貼り付けはじめ)

バイデン政権の外交政策の原罪(The Original Sin of Biden’s Foreign Policy

-ジョー・バイデン政権の外交的弱点は全て、アフガニスタンからの撤退に既に現れていた。

ジョン・カンプナー筆

2024年5月5日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2024/05/05/the-original-sin-of-bidens-foreign-policy/?tpcc=recirc062921

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ワシントンDCのホワイトハウスのイーストルームから、アフガニスタンのカブール情勢について語るジョー・バイデン米大統領(2021年8月26日)。

数週間前、トロントで私は20代半ばの若いアフガニスタン女性に会った。彼女はアフガニスタンの国際援助機関で働いており、精神の健康に関する問題に苦しむ女性たちを支援していた。2021年にタリバン軍が国中に押し寄せる中、彼女は外国人と協力したことで罰せられることを知り、必死に逃げようとした。彼女は最終的に弟と妹と一緒に脱出し、まずイランを経由してブラジルへ逃亡した。その後、彼女は南米を縦断し、パナマのジャングルを抜け、ドナルド・トランプ元大統領の壁を乗り越え、アメリカを通過し、最終的にはカナダに至るという危険な旅を経験した。
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彼女の物語はその勇敢さにおいて並外れたものだが、決して特別なものではない。数え切れないほどのアフガニスタン人が、殺人、拷問、レイプ、強制結婚から逃れるためにできる限りのことをした。カブールの空港から避難する際、西側諸国の軍隊によって空輸された幸運な人たちもいた。多くの人々が故郷に捨てられ、運命に翻弄された。また、危険な旅に出た人たちもいる。幸運な人たちは新しい生活を始めたが、それ以上の人たちは難民キャンプに取り残されている。数え切れないほどの人々が、危険な旅の途中で命を落とした。
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こうした人々は全て、統計の数字であり、より大きなパワーゲームの犠牲者である。彼らは、2001年のアメリカによる侵攻の瞬間から、20年後の悲惨な撤退まで、アフガニスタンにとって何が最善かを知っていると主張していた、アメリカとその同盟諸国に失望させられてきた。3500人以上の外国の将兵たちが戦死された「不朽の自由作戦(Operation Enduring Freedom,)」は、永続する自由をもたらしたわけではなく、アフガニスタン人に与えられた、より良い生活というつかの間の希望だけが、突然そして残酷に打ち消された。

その中で、1人の男が傲慢であった。ジョー・バイデン米大統領は、前任のドナルド・トランプ大統領が打ち出した方針を貫いた。バイデンはホワイトハウスに入るずっと以前から、アフガニスタンとイラクでの無益と思われる軍事作戦に何十万人ものアメリカ軍が投入されることを批判していた。これは、バイデンがトランプの仕事を引き継いだ、アメリカの外交・安全保障政策のいくつかの分野の1つであった。2021年8月にカブール国際空港で起こった、半世紀前のサイゴン陥落を彷彿とさせるような恐ろしい光景の中でさえ、バイデンは自らの評価に固執した。バイデンは「私はこの永久戦争(forever war)を延長するつもりはなかったし、永遠の撤退を延長するつもりもなかった」と述べた。

逆襲の中、連邦議会による多くの調査が行われ、大失敗から数カ月の間に、多くの報告書が発行された。映画も作られ、何が起こったのか、誰に最も重い責任があるのかを説明する本も多く書かれた。それとは対照的に、政策立案者や軍の最高責任者たちはすぐに次の段階に移った。彼らの関心は、ロシアのウクライナ侵攻、そしてイスラエルとハマスの紛争という中東問題へと移った。その間も、中国は西側諸国の利益に対する、長期的な最大の戦略的脅威とみなされている。公平を期すなら、ワシントンやその同盟諸国が、アフガニスタンに駐留し続けるだけの資源や政治的支持を持つとは考えられない。

それにもかかわらず、道徳的な観点だけでなく、政策立案の観点からも、アフガニスタンで何が間違っていたのかに立ち返ることは有益である。アフガニスタンからの撤退は、その後の世界を包んでいる、絶えることのない危機の多くがそうであったように、外交官や軍人たちが善意と誠実な努力で、できる限り多くの人々を守ろうとした物語だった。しかし、それはまた、現地の担当者たちと政治的意思決定者たちの致命的な判断ミスの物語でもあった。

当時のイギリス大使であったローリー・ブリストウによる新たな証言(アメリカでは近日発売予定だが、イギリスではすでに発売されている)は、この大惨事が展開された際の重要な洞察を更に深めるための材料となる。

ブリストウは、2021年6月14日にカブールに到着する前から、自分の任期が短いことを分かっていた。2020年2月29日にトランプ政権が、カタールのドーハでタリバンと署名した「アフガニスタンに平和をもたらす」ための協定(agreement for “bringing peace to Afghanistan”)は、現代の最も評判の悪い協定の1つだった。タリバンが合意されたスケジュールを遵守し、どういう訳か、信じられないことに、より現代的なものに改革したと信じるのは世間知らずだったばかりでなく、キャンペーンを通じて、他の主要な参加者、つまりアフガニスタン政府そのものとアメリカ政府、重要な同盟国、特にイギリスをこれ見よがしに排除した。

2021年前半を通じて、アメリカが兵力を削減することで自国の立場を守ったため、不吉な予感はたちまちパニックにつながった。タリバンはほとんど抵抗を受けることなく、アフガニスタン国内を席巻した。

イギリス大使館にとっての主な任務の一つは、アフガニスタン移転・援助政策(Afghan Relocations and Assistance PolicyARAP)に基づいてどのアフガニスタン人が出国の資格があるかを特定することであった。ブリストウは、日記形式で書かれた自身の説明の中で、運命に見捨てられたらどうなるかを知っていた地元の従業員やアドヴァイザーたちとの困難な会議について説明している。

ブリストウは85日の日記の中で次のように書いている。「私たちは戦没者慰霊碑の隣にある大使館の庭に輪になって座り、必要な人のために男性の1人が通訳となった。私は1人ずつ発言するよう呼びかけた。女性たちが最初に、まとまった長さで話した。そのうちの1人、年配の女性は自信に満ち、自然な威厳をもって話し、男性にまったく譲らなかった。空気には恐怖と怒りがあり、涙も見られたが、アフガニスタン人本来の礼儀と威厳で和らげられた」。ブリストウは続けて次のように書いている。「彼らの目を見て、出国の申請を拒否したのは正当な判断だと思うと言うのは不可能だった」。

何人かは幸運だったが、ほとんどはそうではなかった。いずれにせよ、事態は収拾がつかなくなり、本国の官僚たちが申請を処理し続けることは不可能だった。数日もしないうちに、イギリスをはじめとする、諸外国からの軍隊は大使館を空港に避難させる準備をしていた。彼らはタリバンにプロパガンダの勝利を提供できるものは全て処分した。ブリストウは「女王の写真、旗、公式ワインショップ、全てを撤去するか、破壊しなければならなかった」と書いている。

タリバンによる8月15日の占領宣言から8月21日の最終撤退までの最後の日々の混乱した光景は記憶に刻まれている。ブリストウは次のように回想する。「空港は膨大な数の人々に圧倒されて混雑していた。アメリカ軍だけでも約1万4500人が飛行場にいて、カブールから空輸されるのを待っていた。ゲートや北ターミナルの周り、どこに行っても、どこを見ても、日よけの下、屋外、出入り口に人がいた。子どもたち、年老いた親、惨めな荷物など、ボロボロのケースやスーパーマーケットのビニール袋に人生全体が詰め込まれていた」。

故郷のホワイトホールでは、夏休みのピーク時期だった。ドミニク・ラーブ英外務大臣は家族とともにギリシャに滞在しており、休暇の邪魔をされたくないと怒って主張した。ティームがカブールとロンドンでできるだけ多くの人々を避難させるために24時間体制で活動している一方で、政治工作員たちには別の優先事項があった。ブリストウはこれを「非難と責任転嫁の醜いゲーム(an ugly game of recrimination and buck-passing)」と形容し、次のように付け加えた。「ロンドンの一部の人たちの優先事項は、閣僚とその側近たちに個人的かつ政治的な恥をかかせないことだと私には見えた。現場の人々からの助言、評価、福利厚生は二の次だった」。ボリス・ジョンソン政権時代の最も不運な閣僚の一人であったラーブ外相は、その職をめぐって多くの競争があったが、その後すぐに政治家としてのキャリアが消滅することになった。

ブリストウの全体的な評価は注目に値する。彼は次のように述べている。「アフガニスタン作戦の失敗は、資源不足のためではなかった。2011年、『オバマ・サージ』の最盛期には、NATOは13万人以上の兵力をアフガニスタンに展開していた。イギリスは2001年から2021年にかけて、アフガニスタンへの軍事作戦と援助に300億ポンド以上を費やした。20年間で1兆ドルから2兆ドルで、この間のアフガニスタンのGDPの累計を上回った。しかし、20年近くにわたって行われたこれらの莫大な支出は、アフガニスタンに平和も安定も良い統治ももたらさなかった」。

ブリストウは続けて次のように書いている。「ドーハ合意は、交渉による解決を達成するための真剣な試みとして理解されれば、史上最悪の合意の有力な候補となる」と付け加えている。しかし、そうではなかった。トランプ大統領の合意は、アメリカの選挙日程というかなり異なるものによって推進された」。ブリストウが会ったアフガニスタンに詳しい人は皆、「トランプ大統領とタリバンとの間の酷い内容の合意と、その後のバイデン大統領の失敗に終わった撤退実行に愕然とした」と述べている。

2024年の多くの危機の渦の中で、アフガニスタンは既に歴史の脚注のように感じられる。ブリストウは、アフガニスタンの失敗がもたらした多くの教訓の1つは、アメリカと同盟諸国との間の協力のあり方だと書いている。ブリストウは「イギリスはジュニア・パートナーであり、アメリカの意思決定に対して対等な発言権はなかった。私たちが軍事的撤退を賢明でなく、熟慮が足りないと考えたからといって、アメリカの方針が変わることはなかった」と書いている。これは言い換えれば、トランプ流とバイデン流の「アメリカ・ファースト」(“America First,” Trump-style and Biden-style)の最初の大きな試練であり、他の誰もがその後塵を拝した。バイデンが再選されようがされまいが、他の紛争地域でもこのようなことが起こるのは間違いない。

ジョン・カンプナー:『なぜドイツ人はうまくやれるのか:成熟した国からの教訓(Why the Germans Do It Better: Notes from a Grown-Up Country)』の著者。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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ビッグテック5社を解体せよ

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 2023年12月27日に最新刊『バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる』(徳間書店)を刊行しました。準備中に、イスラエルとハマスの紛争が始まり、そのことについても分析しました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

 アメリカは戦後、中東地域で大きな影響力を保持してきた。親米諸国と反米諸国が混在する中で、石油を確保するために、中東地域で超大国としての役割を果たしてきた。1993年にはオスロ合意によって、イスラエルとパレスティナの和平合意、二国間共存(パレスティナ国家樹立)を実現させた。しかし、中東に平和は訪れていない。パレスティナ問題は根本的に解決していない。今回、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相はパレスティナ問題を「最終解決」させようとしているかのように、徹底的な攻撃を加えている。アメリカは紛争解決について全くの無力な状態だ。イスラエルを抑えることもできていないし。パレスティナへの有効な援助もできていない。

 アメリカの中東政策について、下の論稿では、「社会工学(social engineering)」という言葉を使っている。この言葉が極めて重要だ。「社会工学」を分かりやすく言い換えるならば、「文明化外科手術」となる。はっきり書けば、非西洋・非民主的な国々を西洋化する(Westernization)、民主化する(democratization)ということだ。日本も太平洋戦争敗戦後、アメリカによって社会工学=文明化外科手術を施された国である。アメリカの中東政策は、アラブ諸国に対して、西洋的な価値観を受け入れさせるという、非常に不自然なことを強いることを柱としていた。結果として、アメリカの註徳政策はうまくいかない。それは当然のことだ。また、アメリカにとって役立つ国々、筆頭はサウジアラビアであるが、これらに対しては西洋化も民主化も求めないという二重基準、ダブルスタンダード、二枚舌を通してきた。

 アメリカの外交政策の大きな潮流については、私は第一作『アメリカ政治の秘密』(PHP研究所)で詳しく書いたが、大きくは、リアリズムと介入主義(民主党系だと人道的介入主義、共和党系だとネオコン)の2つに分かれている。第三作『悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める』(秀和システム)で、私は「バイデン政権は、ヒラリー・クリントン政権である」と結論付けたが、ヒラリー・クリントンは人道的介入主義派の親玉であり、バイデンはその流れに位置する。従って、アラブ諸国を何とかしないということになるが、それではうまくいかないことは歴史が証明している。それが「社会工学」の失敗なのである。

 最新作『バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる』(徳間書店)で、私は世界が大きく「ザ・ウエスト(西洋諸国)対ザ・レスト(西洋以外の国々)」に分裂していくということを書いたが、西洋による社会工学=文明化外科手術への反発がその基底にある。私たちは、文明化外科手術を中途半端に施された哀れな国である日本という悲しむべき存在について、これから向き合っていかねばならない。

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「バイデン・ドクトリン」は物事をより悪化させるだろう(The ‘Biden Doctrine’ Will Make Things Worse

-ホワイトハウスは中東に関して、自らの利益のために野心的過ぎる計画を策定している。

スティーヴン・A・クック筆

2024年2月9日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2024/02/09/biden-doctrine-israel-palestine-middle-east-peace/

アメリカに「中東についてのバイデン・ドクトリン(Biden Doctrine for the Middle East)」は必要か? 私がこの質問を発するのは、トーマス・フリードマンが先週の『ニューヨーク・タイムズ』紙でバイデン・ドクトリンについて述べていたからだ。どうやらバイデン政権は、「イランに対して強く毅然とした態度(a strong and resolute stand on Iran)」を採用し、パレスティナの国家化(statehood)を進め、サウジアラビアに対して、サウジアラビアとイスラエルとの関係正常化(normalization)を前提とした、防衛協定(defense pact)を提案する用意があると考えられている。

フリードマンのコラムがホワイトハウス内の考え方を正確に反映しているなら、そしてそうでないと信じる理由はないが、私は「ノー」の評価を下すことになる。これまで中東変革を目的とした大規模プロジェクトを避けてきたジョー・バイデン大統領とその側近たちは、特にパレスティナ国家建設に関しては、噛みつく以上に多くのことを実行しようとしている。これが更なる地域の失敗になる可能性が高い。

第二次世界大戦後のアメリカの中東外交を振り返ると、興味深いパターンが浮かび上がってくる。政策立案者たちがアメリカの力を使って悪いことが起こらないようにした時は成功したが、ワシントンの軍事、経済、外交資源を活用して良いことを起こそうとした時は失敗してきた。

中東地域で国際的な社会工学(social engineering 訳者註:文明化外科手術)にアメリカが公然と取り組もうとしたきっかけは、1991年にまでさかのぼる。その年の1月から2月にかけて、アメリカはイラクの指導者サダム・フセインのクウェート占領軍を打ち破った。そしてその10ヵ月後、ソ連の指導者たちはこの連合を終わらせることを決定した。アメリカは、唯一残された超大国として独り立ちしたのである。冷戦に勝利したワシントンは、平和を勝ち取ること、つまり世界を救済することを決意した。中東でこれを実現するために、アメリカ政府高官が求めた主な方法は「和平プロセス(the peace process)」だった。

フセインによるクウェート吸収への努力が行われ、イスラエルとその近隣諸国との紛争との間に関連性がほとんどなかったにもかかわらず、イスラエルとアラブとの間に和平を築こうとするアメリカの努力は、砂漠の嵐作戦後のワシントンの外交の中心となった。もちろん、抽象的なレベルでは、イラクもイスラエルも武力によって領土を獲得していたが、1990年8月のイラクのクウェート侵攻と1967年6月のイスラエルの先制攻撃はあまりにも異なっていたため、比較の対象にはなりにくかった。

中東和平へのアメリカの衝動は、国際法(international law)というよりも、アメリカの力がより平和で豊かな新しい世界秩序の触媒になりうるという信念に基づくものだった。もちろん、これは主流の考え方から外れたものではなかった。結局のところ、アメリカは世界をファシズムから救ったのであり、ジョージ・HW・ブッシュ大統領がマドリードで平和会議を招集した当時、ソヴィエト共産主義は死にかけていた。

あらゆる努力にもかかわらず、ブッシュの中東における目標は依然として主にアラブとイスラエルの和平問題の解決に限定されていた。和平プロセスが決定的に変化する様相を呈したのはクリントン政権になってからである。 1993年の同じ週、イスラエルのイツハク・ラビン首相とパレスティナ解放機構の指導者ヤセル・アラファトが、当時のアメリカのアメリカ大統領ビル・クリントンと国家安全保障問題担当大統領補佐官アンソニー・レイクの支援と許可のもとでオスロ合意の最初の合意に署名した。ビル・クリントンとアンソニー・レイクは、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題大学院(SAIS)の学生と教職員の前に現れ、冷戦直後の世界におけるクリントン政権の米国外交政策の目標を述べた。クリントン大統領のアプローチの中心は、レイクが「民主政治体制の拡大(democratic enlargement)」と呼んだものだった。

クリントン率いるティームが中東の変化を促進する方法はパレスティナを通じてであった。クリントンは、イスラエル人とパレスティナ人の間の和平は、より平和で繁栄した統合された地域を生み出し、それによって中東の国家安全保障至上国家群の存在の理論的根拠を損なうことになると推論した。平和の後、アラブ世界では権威主義が民主的な政治制度に取って代わられることになる。主要な側近の一人の言葉を借りれば、「クリントンは変革の目標を自らに設定した。それはアラブ・イスラエル紛争を終わらせることによって中東を21世紀に移行させることだ」ということだ。

和平が政治的変化をもたらすという考えは魅力的だったが、クリントンはこの地域の権威主義的な政治の理由を見誤っていた。いずれにせよ、イスラエル人とパレスティナ人の間で紛争終結に向けた合意を成立させようとしたクリントンの努力は、ほぼ10年かけても実を結ばなかった。クリントンが大統領を退任すると、暴力がイスラエルとパレスティナの両地域を巻き込み、第2次インティファーダ(Intifada)が発生した。

クリントンの次の大統領ジョージ・W・ブッシュは当初、クリントンが中東和平に割いた時間とエネルギーに懐疑的だったが、実はブッシュはパレスティナ国家をアメリカの外交政策の目標と宣言した最初の大統領だった。そこに到達するために、彼は前任者の論理をひっくり返した。ブッシュのホワイトハウスにとって、パレスティナの政治機構を民主的に改革し、ヤセル・アラファトを追放して初めて和平が成立するということになっていた。

クリントン前大統領と同様、ブッシュは失敗した。大統領執務室をバラク・オバマ大統領に譲った時、パレスティナの民主政治体制も和平もパレスティナ国家も存在しなかった。クリントンとブッシュは、中東に対するアプローチがまったく異なる2つの政権にもかかわらず、中東の政治的・社会的変革という共通の野心的目標を共有していた。

イラクの変革であれ、いわゆるフリーダム・アジェンダによる民主政体の推進であれ、パレスティナ国家建設の努力であれ、中東においてアメリカは失敗を繰り返していると認識していながら、オバマもドナルド・トランプ大統領もバイデンもそのことを念頭に置いていなかった。新しい中東を社会工学的に設計したいという願望を持っていた。バイデンの場合、彼はイスラエル人とパレスティナ人を交渉させ、和平協定に署名させるための当時の国務長官ジョン・ケリーの奮闘を監督したが、二国家解決には悲観的な見方をした。バイデンの側近たちは就任直後、過去の政権の地域的野望は繰り返さないと明言した。

そして、2023年10月7日、ハマスによる約1200名のイスラエル人の残忍な殺害と、イスラエルによるガザ地区での徹底的な破壊を伴う軍事的対応が始まった。トーマス・フリードマンによれば、イスラエルとハマスの戦争が続き、ほとんどがパレスティナの民間人である死体が積み重なる中、バイデンは中東で成し遂げたいこと、つまり、石油の自由な流れを確保すること、イスラエルの安全保障に対する脅威を防ぐ手助けをすること、中国を出し抜くこと、は、再び外部から中東の変化を促すような新しく野心的なアメリカのドクトリンなしには実現しそうにないという結論に達したということだ。

公平を期すなら、イランがワシントンとの新たな関係を望んでいないことをホワイトハウスが理解したことは好ましい進展だ。また、サウジアラビアとの防衛協定は、中国との世界的な競争という点では理にかなっている。しかし、パレスティナの国家建設にアメリカが多額の投資をすることは、以前の取り組みのように失敗に終わる可能性が高い。

確かに、今回は違いがある。10月7日以降、専門家たちが何度も繰り返してきたように、戦争は新たな外交の機会を開く。しかし、イスラエルとパレスティナという2つの国家が並んで平和に暮らすことで、現在の危機から脱するチャンスが訪れると信じる理由はほとんど存在しない。

バイデンと彼のティームは、二国家解決を追求するしかないと感じているかもしれないが、自分たちが何をしようとしているのかを自覚すべきである。今回のイスラエル・パレスティナ紛争は、アイデンティティ、歴史的記憶、ナショナリズムといった、とげとげしい、しかししばしばよく理解されていない概念に縛られている。

イスラエル人とパレスティナ人の闘争には宗教的な側面もある。特にハマスとメシアニック・ユダヤ人グループ(messianic Jewish groups)は、ヨルダン川と地中海の間の土地を神聖化している。パレスティナの政治指導者たち(ハマスもパレスティナ自治政府も)は、ユダヤ教とパレスティナの歴史的つながりを日常的に否定している。これらの問題から生まれる対立的な物語は、バイデン政権が現在思い描いているような共存には向いていない。

そして、イスラエルとパレスティナの社会における残忍な政治が、長年にわたる当事者間の膠着状態を助長してきた。ガザを中心としたイスラエルとハマスの闘争は、イスラエル人がパレスティナ人の和平のための最低限の要求(完全な主権を持つ独立国家[a fully sovereign independent state]、エルサレムに首都設置[a capital in Jerusalem]、難民の帰還[a return of refugees])を受け入れることをより困難にする可能性が高い。同様に、パレスティナ人は、自分たちの鏡像であるイスラエルの最低限の和平要求に同意することはできないだろう。 イスラエル人が求めているのは、エルサレムをイスラエルの分割されていない永遠の首都とすること、1967年6月4日に引かれた線を越えて領土が広がる国家とすること、そしてパレスティナ難民を帰還させないことである。

新しいアイデアを失い、ガザ戦争で世界の競争相手である中国に立場を譲ることを懸念し、若い有権者たちからの支持の喪失を懸念しているバイデンとそのティームは、和平プロセスにしがみついているが、失敗に終わった事業であり、過去30年間で、今ほど、これ以上成功する見込みはない時期は存在しなかった。

ある意味、大統領を責めるのは難しい。和平プロセスの努力をしていれば安全なのだ。大統領の党内にはそれを支持する政治的支持がある。彼は努力したと言うことができる。中東を変革しようとするこの最新の動きが、おそらく何年にもわたる交渉の結論の出ない交渉の末にパレスティナ国家を生み出せなかった時、バイデンはとうに大統領職を終えていることだろう。

その代わりにアメリカは何をすべきか? これはとても難しい問題だ。それは、この問題が、解決不可能な紛争を解決するためのアメリカの力の限界を認識するように、特にアメリカの政策立案者、連邦議会議員、そしてワシントン内部(the Beltway、ベルトウェイ)の政策コミュニティに求めているからだ。

それでも、アメリカにできる重要なことは存在する。それは、イランがこれ以上地域の混乱を招くのを防がなければならないということだ。ワシントンは、既に起こっている地域統合の後退を食い止めるために努力しなければならない。そしてアメリカの指導者たちは、イスラエル人に対し、なぜイスラエルを支持する政治が変わりつつあるのかを説明することができる。ある意味では、これはイスラエル人とパレスティナ人の間の和平について、より利益をもたらす環境作りに役立つだろうが、それが実現し、実際に利益をもたらす保証はない。

2001年のある出来事を思い出す。イスラエルのアリエル・シャロン首相との記者会見で、コリン・パウエル米国務長官(当時)は「アメリカは当事者たち以上に和平を望むことはできない(The United States cannot want peace more than the parties themselves)」と発言した。これこそがバイデン大統領が陥っている罠なのである。

※スティーヴン・A・クック:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト、米外交評議会中東・アフリカ研究部門エニ・エンリコ・マテイ記念上級研究員。最新作『野心の終焉:中東におけるアメリカの過去、現在、未来(The End of Ambition: America’s Past, Present, and Future in the Middle East)』が2024年6月に発刊予定。ツイッターアカウント:@stevenacook

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(終わり)
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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 2月に入り、事務作業や2023年4月9日に東京・御茶ノ水の全電通労働会館において、副島隆彦の学問道場が主催する定例会の準備も少しずつありでブログの更新頻度がだいぶ落ちまして申し訳ありません。もっと多くの方々にお読みいただくためには更新頻度を上げるのが最善だと思いますが、なかなか難しい状況です。ご理解をいただきまして、ご指導、ご鞭撻を賜りますよう、今後もどうぞよろしくお願いいたします。

 アメリカ外交について皆さんはどのような考えを持っておられるだろうか。ここでは第二次世界大戦後の1946年から現在までについて考えていきたいが、ソ連との二極構造の下、自由主義陣営の旗頭として、ソ連と直接戦争をすることはなかったが、ヨーロッパ、東アジア、中南米といった地域で、ソ連と戦った。影響圏をめぐる戦いだった。社会主義の人気が落ち、社会主義国の生活の苦しさが明らかになるにつれ、共産圏、社会主義圏の敗北ということになり、最終的にはソ連崩壊に至り、冷戦はアメリカの勝利となった。その間には中国とソ連の仲違いを利用して、中国との国交正常化を達成した。アメリカは世界で唯一の超大国となった。日本は先の大戦でアメリカに無残な敗北を喫したが、「反共の防波堤」という役割を与えられ、経済成長に邁進することができた。

 21世紀に入り、2001年の911同時多発テロ事件が起きた。アメリカに対する反撃、ブローバック(blowback)ということになった。アメリカが世界を支配し、管理するまでならまだしも、非民主的な国々、独裁的な国々に対する恣意的な介入(王政や独裁性が良くないというならばどうしてもサウジアラビアや旧ソ連の独裁者が支配する国々の体制転換を行わないのか)を行って、体制転換する(民主政体、法の支配、資本主義、人権擁護などを急進的に実現する)という「理想主義」がアメリカ外交で幅を利かせて、世界の多くの国々が不幸になった。私の考えの根幹はこれだ。共和党のネオコン派(ジョージ・W・ブッシュ政権を牛耳った)、民主党の人道的介入主義派(バラク・オバマ政権第一期やジョー・バイデン政権を主導する、ヒラリー・クリントンを頭目とする人々)は、「理想主義」である。彼らの源流は世界革命を志向したトロツキー主義者である。彼らは世代を超えて、世界を理想的な「民主的な国々の集まり」にしようとしている。こうしたことは拙著『アメリカ政治の秘密』で詳しく分析している。

 イラク、アフガニスタン、アラブの春などでアメリカの外交は失敗した。こうした失敗をアメリカ外交の別の潮流であるリアリズムから見れば当然のことということになる。アメリカが普通の国であればそもそも介入主義など発生しないだろう。世界帝国、超大国であるために、介入できるだけの力(パワー)を持ってしまうのである。経済力も考えれば、世界を牛耳りたいと思うのもまた当然だし、それでうまくいっていたことも事実だ。しかし、アメリカの力が強かったことがアメリカの不幸の始まりであったとも言えるだろう。「外国のことなんてどうでもよいじゃないか、自分たちの国の中で穏やかに暮らせればよいではないか」という考えを持つ人々も多くいるが、彼らの考えはワシントン政治には反映されなかった。一般国民の意思が政治に反映される機会になりそうだったのはドナルド・トランプ政権時代だったがそれもまた逆転された。アメリカはまた不幸な時代を続けていくだろう。そして、世界中が不幸を共有することになる。

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アメリカはたとえアメリカ自体が止めたいと望んでも愚かであることは止められないだろう(The United States Couldn’t Stop Being Stupid if It Wanted To

-ワシントンにとって自己抑制は常に矛盾をはらんでいる。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2022年12月13日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/12/13/the-united-states-couldnt-stop-being-stupid-if-it-wanted-to/

アメリカの「グローバル・リーダーシップ(global leadership)」を擁護する人々は、アメリカが自らを拡大しすぎ、愚かな政策を追求し、外交政策上の目標を達成できず、公然と掲げる政治原則に反したことを認めることがある。しかし、彼らはそのような行為を残念な異常事態(regrettable aberrations)と考え、米国はこうした、数少ない失敗から学び、将来においてより賢明な行動を取ることができると確信している。例えば、10年前、政治学者のスティーヴン・ブルックス、ジョン・アイケンベリー、ウィリアム・ウォールフォースは、イラク戦争が誤りであったことを認めながらも、「深い関与(deep engagement)」という彼らの好む政策がアメリカの大戦略(grand strategy)として正しい選択であることを主張した。彼らの考えでは、アメリカが良性の世界秩序を維持するために必要なことは、既存の関与を維持し、イラクを再び侵略しないことであった。バラク・オバマ前大統領が好んで言ったように、「愚かな行為(stupid shit)」を止めればいいのだ。

ジョージ・パッカーが最近『アトランティック』誌で発表したアメリカのパワーの擁護は、この使い古された論法の最新版となっている。パッカーは論稿の冒頭で、アメリカ人は「海外での聖戦(foreign crusades)をやりすぎ、そして縮小(retrenchments)をやりすぎ、普通の国なら絶妙なバランスを取ろうとするような間合いを決して取らない」と主張し、明らかに誤った比較をしている。しかし、世界中に700以上の軍事施設を持ち、世界のほとんどの海域に空母戦闘群を配備し、数十カ国と正式な同盟関係を結び、現在ロシアに対する代理戦争、中国に対する経済戦争、アフリカでの対テロ作戦、さらにイラン、キューバ、北朝鮮などの各国政府の弱体化と将来の打倒に向けた果てしない努力をしている国(アメリカ)が、過度の「縮小(retrenchment)」を非難されることはないだろう。パッカーの考える「良いバランス(fine balance)」、つまり、暑すぎず、寒すぎず、ちょうど良い外交政策とは、アメリカが世界のほぼ全域で野心的な目標に取り組むことである。

残念ながら、パッカーをはじめとするアメリカの優位性(U.S. primacy)を擁護する人々は、アメリカのような強力な自由主義国家が外交政策の野心を制限することがいかに困難であるかを過小評価している。私はアメリカのリベラルな価値観を好むが、リベラルな価値観と巨大なパワーの組み合わせは、アメリカがやり過ぎること、むしろやり過ぎないことをほぼ必然としている。もしパッカーが絶妙なバランスを好むのであれば、介入主義的な衝動(interventionist impulse)の方向性についてもっと心配する必要があり、それを抑制しようとする人々についてはあまり心配する必要はないだろう。

なぜアメリカは自制を伴う(with restraint)行動を取ることが難しいのだろうか? 第一の問題は、リベラリズム(1liberalism)そのものだ。リベラリズムは、全ての人間は確固とした自然権[natural rights](例えば「生命、自由、幸福の追求」)を持っているという主張から始まる。リベラリズムを信奉する人々にとって、政治的課題の核心は、我々を互いから守るのに十分なほど強力でありながら、同時に人々の権利を奪うほどには強力ではなく、チェックされる政治制度(political institutions)を作り出すことである。リベラルな国家は、政治権力の分割、選挙を通しての指導者の責任追求、法の支配、思想・言論・結社の自由の保護、寛容の規範の重視によって、不完全ながらもこのバランス感覚を獲得している。従って、真のリベラル派にとって、唯一の合法的な政府とは、これらの特徴を持ち、それを用いて各市民の自然権を保護する政府なのだ。

しかし、これらの原則は、全ての人間が同一の権利を有するという主張から始まっているため、リベラリズムは、単一の国家や人類の一部分にさえも限定することができず、その前提に一貫性を保つことができない。アメリカ人、デンマーク人、オーストラリア人、スペイン人、韓国人には権利があるが、ベラルーシ、ロシア、イラン、中国、サウジアラビア、ヨルダン川西岸地区、その他多くの場所に住んでいる人々には権利がない、と宣言できる真のリベラル派は存在しない。このため、自由主義国家はジョン・ミアシャイマーが言うところの「十字軍の衝動(crusader impulse)」、つまり、パワーの許す限り自由主義原則を広めたいという願望に強く傾く。ところで、マルクス・レーニン主義であれ、全人類を特定の信仰の支配下に置くことを使命とする様々な宗教運動であれ、他の様々な普遍主義的イデオロギー(universalist ideologies)にも同じ問題を持っている。ある国とその指導者が、自分たちの理想が社会を組織し、統治するための唯一の適切な方法であると心から信じている場合、その理想を受け入れるように他者を説得し、強制しようとする。少なくとも、そうすれば、異なる考えを持つ人々との摩擦(friction)は避けられない。

第二に、アメリカは強大なパワーを有しているため、自制して行動することが困難である。1960年代、連邦上院軍事委員会の委員長を務めたリチャード・B・ラッセル元連邦上院議員は、「もし私たちがどこに行っても、何をするのも簡単ならば、私たちは常にどこかに行き、何かをすることになるだろう」と述べている。世界のほぼ全域で問題が発生した場合、アメリカは常にそれに対して何かしようとすることができる。弱い国家は同じ自由度を持たず、したがって同じ誘惑に直面することもない。ニュージーランドは健全な自由民主国家であり、多くの立派な資質を備えているが、ロシアのウクライナ侵攻、イランの核開発、中国の南シナ海での侵略に対してニュージーランドが率先して対処するとは誰も考えない。

対照的に、米大統領執務室に座る人は、問題が発生した時、あるいは好機が訪れた時に、多くの選択肢を手にすることができる。米大統領は、制裁(sanctions)を科す、封鎖(blockade)を命じ、武力行使の脅し(あるいは直接の武力行使)を発し、その他多くの行動を取ることができ、しかもほとんどの場合、アメリカを、少なくとも短期的には、深刻な危険に晒すことはない。このような状況下で、行動の誘惑に抗することは極めて困難である。特に、いかなる自制的行動も意志の欠如、宥和的行動(act of appeasement)、アメリカの信頼性への致命的打撃として非難する批判者の大群が控えている場合、なおさらである。

第三に、米国は70年以上にわたって世界のパワーの頂点に君臨してきたため、現在、その卓越した世界的役割を維持することに既得権(vested interests)を持つ官僚や企業の強力な勢力が存在している。ドワイト・アイゼンハワー元米大統領が1961年の大統領退任演説で警告したように、第二次世界大戦と冷戦初期の強力な「軍産複合体(military-industrial complex)」の出現は、アメリカの外交政策をより軍事的で介入的な方向に永久に歪曲させる重大な進展があった。その影響は、特に外交政策シンクタンクの世界において顕著であり、その大部分はアメリカの関与を促進し、アメリカ中心の世界秩序(U.S.-centered world order)を擁護することに専念している。その結果、数年前にザック・ボーチャンプが指摘したように、「ワシントンの外交政策の議論は、ほとんどが中道と右派の間で行われる傾向にある。問題は、アメリカがまったく武力を行使しないかどうかよりも、どの程度武力を行使すべきなのかということである」ということである。

第四に、以前にも述べたように、リベラルなアメリカは、他の多くの国にはない方法で外国の影響にオープンである。外国政府は、ワシントン内部、特に連邦議会で自分たちの主張を通すためにロビー活動会社を雇うことができるし、場合によっては自分たちのために行動を起こすよう圧力をかけてくれる国内団体に頼ることもできる。また、アメリカの大義(cause)を推進するシンクタンクに多額の寄付をしたり、外国の指導者がアメリカの有力な出版物に論説や記事を掲載し、エリートや大衆の意見に揺さぶりをかけたりすることも可能である。もちろん、このような努力は常に成功するわけではないが、正味の効果は、アメリカの行動を減らすのではなく、むしろ増やすように促す傾向がある。

更に言えば、アメリカが新しい同盟諸国、「パートナー」、「特別な関係(special relationship)」を加えるたびに、アメリカの耳元でささやく外国の声の数は増えている。かつて、アメリカの対ヨーロッパ政策を形成しようとするNATOの同盟国は11カ国だったが、現在は29カ国である。これらの国の中には集団防衛(collective defense)に多大な資源を提供している国もあるが、その他の国の中には弱く脆弱で、対等なパートナーというよりは保護国(protectorates)と見るのが適切であろう国も存在する。当然のことながら、これらの国々は、アメリカが公約を守り、自国を保護するよう声高に主張し、グローバルパワーとしてのアメリカの信頼性が危険に晒され、より穏やかな世界秩序への希望は、彼らの助言を受けることにかかっていると警告している。多くのクライアント国によれば、アメリカは深く関与すればするほど、更により深く関与し続けなければならない。

誤解しないでいただきたい。私は同盟諸国の懸念を無視したり、彼らの助言を頭ごなしに否定したりすることを主張しているのではない。同盟諸国の指導者たちは、現代の世界規模の諸問題についてしばしば賢明なことを言うし、アメリカが自国内からの助言だけに頼らず、フランスやドイツの警告に耳を傾けていれば、より良い結果になったであろう例を考えるのは簡単だ(イラクについてはどうだろうか?)。しかし、外交政策分野の「エリートたち(Blob)」の多くが持つ介入主義的衝動(interventionist impulse)と、アメリカの保護と援助を望む国々が外交政策に関する議論に熱心に挿入する利己的な助言の間には、依然として不健康な共生が存在し得る。驚くべきことではないのだが、アメリカの海外パートナーは通常、アメリカに自分たちのためにもっとやってもらうことを望み、アメリカが少し手を引くことを勧めることはほとんどない。

このような様々な要素を組み合わせると、なぜアメリカが愚かなことを止めるのが難しいのかが分かるだろう。イデオロギー、パワー、官僚的な勢い、そしてアメリカのパワーを自国の目的のために利用しようとする他国の欲望が相まって、何かをしたいという強力な原因を生み出し、誘惑が生じた時に明確な優先順位を決めてそれを守ることができない。パッカーや他の人々が望んでいると思われる絶妙なバランスを達成するためには、このような傾向を擁護したり強化したりするのではなく、それに対抗するためにもっと多くのことがなされる必要がある。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。ツイッターアカウント:@stephenwalt

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 2021年に正式に発足したジョー・バイデン政権1期目は後半戦に入っている。2024年の大統領選挙もスタートに近づきつつある。中間選挙では大敗しなかったということで、バイデン政権の外交政策は及第点だという主張もあるが、果たしてそうであろうか?私はバイデン政権がヒラリー政権であり、オバマ政権の焼き直しだと主張する。

 ヒラリー・クリントン元国務長官をはじめとする人道的介入主義(Humanitarian Interventionism)という民主党の外交政策の流れがある。これは共和党のネオコンと対をなす外交潮流である。外国の諸問題に介入し、問題のある政府や独裁者を打倒し、体制転換を行う。そして、自由、人権、資本主義、民主政治体制といった西側の価値観を人工的に植え付けるということだ。ネオコンと基本的に同じ考えだ。ネオコンが牛耳ったジョージ・W・ブッシュ政権、ヒラリーが外交政策を主導したバラク・オバマ政権1期目は、アメリカの外交政策の失敗の歴史だった。これに嫌気がさしたことで、アメリカ国民は、ヒラリー・クリントンではなく、国内問題解決優先主義(アイソレイショニズム、Isolationism)、「アメリカ・ファースト」のドナルド・トランプを大統領に選んだ。
 しかし、2020年の大統領選挙ではジョー・バイデンが大統領に当選した。バイデン政権の外交政策は基本的にオバマ政権1期目の焼き直しだ。ウクライナをめぐっては、私は今から考えれば、トランプがバイデン父子のウクライナとのかかわりをウクライナに捜査してもらうことの引き換えで軍事支援を行うと述べたことは正しかったと考える。バイデンは副大統領時代からウクライナに深くかかわり、ウクライナの実質的なNATO加盟国化を進め、ロシアに脅威を与えた。そのバイデンが大統領になってウクライナ支援を強化したことがウクライナ戦争につながったということが言える。
 アメリカは海外への積極的な介入を進めることで、再び間違いを犯そうとしている。それを修正しようにもその修正の仕方が分からない、そのまま突っ走るしかないというのが今のバイデン政権の外交政策を立案する面々だ。下記論稿の著者スティーヴン・M・ウォルトはこのことを「メカニック(整備士)はいるが設計者がいない」状態と形容している。設計図は既にヒラリー・クリントンが国務長官の時にできていた。その設計図のままに、ところどころ修理をしながらやるしかないというのが現状だ。これでは世界の不幸がこれからも続くということになる。私は常々「アメリカの理想主義(Idealism)が世界を壊す」ということを考えている。理想は暴走を生み、現実を見えなくする。結果として大きな地獄を生み出す。

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バイデンがアメリカの外交政策を修理するためには整備士(メカニック)ではなく、設計者(アーキテクト)が必要だ(Biden Needs Architects, Not Mechanics, to Fix U.S. Foreign Policy

-アメリカの中間選挙が近づくにつれ、ワシントンは集団思考とヴィジョンの欠如に悩まされ、新しい時代の問題に対する創造的な解決策を阻んでいる。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2022年7月12日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/07/12/biden-foreign-policy-outdated-groupthink/

私は休暇から戻ったばかりだが、ジョー・バイデン米大統領は現在中東諸国を訪問している。今回の訪問について私は、バイデン政権の外交政策のパフォーマンスを評価するための絶好の機会だと考えた。私は2020年の大統領選挙でバイデンに投票した。彼が当選して安堵した。それでも、バイデンと内部で競争がない(ノンライヴァル)ティームが21世紀の外交政策と大戦略を設計する任務を果たせないのではないかと心配してきた。明らかな危険(the obvious danger)という概念は、冷戦中にうまく機能したかもしれないが、現在は効果があるのかないのか分からない、様々な特効薬、発言と映像、および政策に頼ってばかりになっている。

バイデン政権が何をすると言ったか覚えているだろうか? アメリカの同盟関係を活性化し、独裁政治の台頭に対抗して民主政治体制世界を団結させる。中国にレーザーのように照準を合わせ、主導権争いに勝利するつもりだと主張していた。気候変動は最優先課題である。アメリカはまた、イランとの核取引に再び加わり、サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン王太子を「除け者(pariah)」と呼び、「永遠の戦争(forever wars)」を終わらせ、それがどんな意味であれ「中間層(middle class)」のための外交(経済)政策をアメリカ人に与える位置を持っていた。そして、アントニー・ブリンケン米国務長官は、人権を政権の外交政策の「中心(at the center)」に据えることを約束した。

それで、これまでのところ、どうなっているのだろうか?

公正を期すために言えば、バイデン&カンパニー(バイデン株式会社)は初期の公約のいくつかを実現した。彼はアフガニスタン戦争を終結させたが、結末は混乱してしまった。これはおそらく避けられなかったことだろう。バイデンは、前任者の悪ふざけによって疎外された同盟諸国を宥め、ウクライナでの戦争は、当面の間、NATO(ネイトー)に新しい息吹を与えた。アメリカはパリ協定に再加盟した。バイデンは就任以来、いくつかの失策を犯してきたが(イギリス、オーストラリアとのいわゆるAUKUS[オウカス]潜水艦の素人同然の契約展開や大統領の口が滑ったことを何度も撤回する必要性など)、バイデンの下での18カ月間の失策は、ドナルド・トランプ前米大統領のショーの任意の2週間よりも少なかった。

しかし、全体として、バイデン政権が明確な説得力を持ち、成功する戦略を有している兆候はほとんどない。この1年半の間に追求した様々な取り組みや対応を見てみると、バイデン政権の記録は印象に残らない。

ウクライナについて言えば、バイデンのティームは、ロシアの侵攻に対して大西洋をまたぐ形で対応を行った。実際に開戦に至るまでの諜報活動の巧みで政治的に効果的な活用に始まりうまく指揮を執った。ヨーロッパが(ほぼ)一体となって対応し、ドイツなどが(ほぼ)助け舟を出したのは、バイデンの努力(とウクライナのヴォロディミール・ゼレンスキー大統領の巧みな公共外交[パブリックディプロマシー、public diplomacy])のおかげであり、ウラジミール・プーティン大統領に大きな衝撃を与えたのは間違いないだろう。

しかし、アメリカ人は、ビル・クリントン元大統領の時代に始まり、その後の全ての指導者の時代に続いた一連の間違いである、より大きな状況に対するアメリカの誤った対処から目を背けるべきではない。この問題を提起することは激しい論争となり、これらの不手際の立役者は、西側の政策がこの悲劇と何の関係もないことを否定するために不自然なまでに力を尽くしている。しかし、プーティンの侵攻を古典的な予防戦争(preventive war)と見なさないわけにはいかない。ウクライナを武装化し、欧米の軌道に乗せるというアメリカの加速された努力を挫くために行われた不法な侵攻ということになる。

プーティンが軍隊を動員し、自らの懸念が晴らされねば侵攻すると明言した時、NATO(ネイトー)の「門戸開放政策(open door policy)」の終了を検討することさえ拒否し続けたバイデン政権は戦争の到来を約束する結果となった。1990年代にウクライナに旧ソ連から受け継いだ核兵器を放棄させ、将来のロシアの攻撃に対する強力な抑止力を取り除いたのに、西側がロシアの懸念を認めず、モスクワがどう反応するかも予想しなかったのは、とんでもない戦略的誤算であった。

私が心配なのは(そしてバイデンと民主党側を本当に心配するべきなのは)次の点である。ウクライナの英雄的な抵抗と数十億ドルに及ぶ西側の軍事支援があっても、ロシアがウクライナの領土のかなりの部分を掌握することを防ぐことができていない。制裁は時間をかけてロシアを弱体化させるだろうが、おそらくプーティンをクレムリンから追い出したり、撤退を納得させたりすることはできないだろう。その結果、西側の決定的な勝利ではなく、長引く膠着状態に陥り、ウクライナ(および食糧やエネルギー不足に直面している発展途上諸国)にとって恐ろしいほどの代償を払うことになるだろう。ロシアがより悪い状況に陥ったとしても、これを外交政策の大成功と言い張ることはできないだろう。

更に加えれば、この危機によって、アメリカは冷戦時代の習慣に逆戻りし、再びヨーロッパの第一対応者(ファーストレスポンダー、first responder)として行動するようになった。ヨーロッパの豊かな民主政治体制諸国には自衛のための十分な潜在能力があるが、特にロシアが時間とともにかなり弱体化することを考えると、アメリカ(アンクルサム、Uncle Sam)は再び、彼ら自身と同じ程度に彼らを守るために行動するようになったという点は重要だ。NATO(ネイト―)は新しい戦略コンセプトを掲げているが、ヨーロッパの加盟諸国はそのコンセプトの高尚な美辞麗句に見合うだけのハードパワー(軍事)能力を持っていない。そして、アメリカは更に多くの軍隊、資金、武器をヨーロッパ大陸に送っているが、ヨーロッパ諸国が公約を守り、軍隊を再建すると本気で信じている人がいるだろうか? 歴史を振り返れば、ヨーロッパ諸国が歴史を守る可能性はほとんどない。

アジア地域ではその記録はあまり良くない。バイデンは中国との競争に新たに焦点を当てることを誓って就任したが、実質的な内容を伴う明確で首尾一貫したアジア戦略を探しても無駄なことだ。日米豪印の四極安全保障対話(Quadrilateral Security DialogueQuad)は協議の場ではあっても同盟の場ではないし、大きな話題となったAUKUS(オウカス)協定も、アジアの海軍力のバランスに影響を与えることは(あったとしても)今後10年以上はないだろう。

中国はこの地域で経済的足跡を拡大し続けており、アメリカは最近の「繁栄のためのインド太平洋経済枠組み(Indo-Pacific Economic Framework for Prosperity)」のような限定的な取り組みや、ソロモン諸島のような場所での中国の進出に対するその場しのぎの対応で応じている。しかし、アメリカの公約は連邦議会で承認された正式な貿易協定に組み込まれていないため、アジアのパートナー諸国は、新大統領が方針を転換するかもしれないと当然ながら懸念している。この問題はバイデンの責任ではないが、アジアの同盟諸国はいずれ、アメリカは中国が提供できるような市場アクセスや投資機会を提供できないし、アメリカは他国の出来事に気を取られやすく、信頼できる保証人にはなり得ないと結論付ける可能性がある。

中国自体については、バイデン政権はトランプ大統領の輸出規制を維持し、台湾防衛の公約に近づき、多くの反中国的なレトリックにふけるようになった。しかし、気候変動問題など協力が必要な分野と競争が避けられない分野とを区別して、対中アプローチを継続的に展開する試みが欠落している。中国の行動やレトリックはこれを容易にするものではないが、地球上で2番目に強い国である中国に対処するための明確な戦略の欠如は顕著である。

中東地域では、バイデンはイランとの核合意を回復し、サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマンのような不正な指導者に厳しい態度で臨むことを公約に掲げて就任した。また、バイデンとブリンケンは、人権や「ルールに基づく秩序(rules-based order)」を再構築する必要性について多くを語った。しかし、実際には、バイデンとブリンケンはトランプと同様に取引重視であり、実際、この地域に対する政権のアプローチは、本質的に「トランプ・ライト(Trump=lite、訳者註:トランプ色を薄めた戦術)」である。イランのハサン・ロウハニ前大統領が在任中に核合意への復帰を躊躇した結果、新たな合意の見込みはほぼ消滅し、イランはかつてないほど核兵器に近づいた。

アメリカはイエメンでのサウジアラビアの戦争を黙認し続け、バイデンはムハンマド・ビン・サルマンを「除け者」にすると宣言したがそれは頓挫した。ヨルダン川西岸をさらに吸収しようとするイスラエルの執拗な努力は、いつものように意味のない反応を示す。著名なパレスチナ系アメリカ人ジャーナリストであるシリーン・アブ・アクレの射殺事件は様々な調査によれば、ほぼ確実にイスラエル兵によるものだが、彼女がアメリカ国民であったにもかかわらず、政権からは鋭い言葉さえ発せられない。トランプはアメリカの中東の顧客(クライアント)たちが望むことはほとんど何でもさせた。バイデンとブリンケンはそれに倣っている。

バイデンが今週イスラエルとサウジアラビアを訪問するというのも、戦略的な観点からするといささか不可解なことである。ホスト国はバイデンに新たな安全保障の約束を迫るだろうし、それはアメリカを次の地域紛争に容易に引きずり込むことになる。このような措置は、イランがついに核武装に走ることを誘発しかねない。そうなれば、バイデン政権は予防戦争を行うか、核武装したイランという現実を受け入れるかのどちらかを迫られることになる。しかし、バイデンが現地の権力者の誘惑に抵抗すれば、彼らは苛立って失望し、今回の訪問は当然ながら時間の無駄だったと判断されることになる。それではなぜ行くのか?

本誌の寄稿者であるアーロン・デイヴィッド・ミラーとスティーヴン・サイモンは正しい。バイデンは、主に国内的な理由で、ウクライナ戦争によって引き起こされたエネルギーコストの高騰に対処しようとするためにこれをやっている。しかし、その見方は酷いものだ。アメリカ大統領は、非民主的な従属国家にもっと石油を産出させるために、中東に手ぶらで飛び、真の大国のように行動する代わりに、議論したい問題があれば、ワシントンに飛んできて歓迎すると言っているのだ。彼が得る国内的な利益は、ささやかで短期に終わるだろう。

最後に、バイデンとそのティームは、米国の民主的価値の重要性と、独裁政治に対抗する「自由世界(free world)」の団結を繰り返し強調してきた。これは価値ある目標だが、プーティンや中国の習近平国家主席のような人々から意図しない援助を受けたにもかかわらず、それを示すものはあまりない。また、最近開催された米州首脳会議では、メキシコ、ホンジュラス、グアテマラ、エルサルヴァドルの各首脳が出席を拒否し、出席した一部の首脳がこの地域におけるアメリカの役割を批判する機会として利用したため、その成果は不十分なものとなった。

更に重要なことは、アメリカ自身が深く分裂し、永久に少数派の支配へと向かっているこの時期に、そして正統性が減少している連邦最高裁が、銃製造者や企業には女性よりも権利があると考えるような時に、なぜアメリカは他の国々が「民主的価値(democratic values)」を受け入れることを期待しなければならないのだろうか? もしバイデンが海外で民主主義を拡大したいのであれば、まず手始めに国内でもっとうまく民主政治体制を守ることから始めなければならない。

私は、賢明で経験豊富な外交政策の達人たちが、なぜこのような失敗を犯しているのか、その原因を突き止めたいと考えている。バイデンは、自分と同じように世界を見て、何十年にもわたってアメリカの外交政策に影響を与えてきた使い古された手法にこの上なく慣れている人々を、意図的に一つのティームに集めたのである。

しかし、「グローバル・リーダーシップ(global leadership)」、「共有された価値観(shared values)」、「ルールに基づく秩序(a rules-based order)」、「自由世界(free world)」といったキャッチフレーズは、戦略の代用にはならない。戦略には、国際情勢を形成する中心的な力を特定する一連の一般原則、その論理から導き出される明確な優先順位、そして国をより安全または繁栄(あるいはその両方)させるための一連の政策ステップが必要である。

国家が脅威の均衡(balance threats)を図る傾向を無視したり、経済的相互依存(economic interdependence)や強固な制度が紛争を不可能にすると考えたり、ナショナリズムの力を無視するなど、戦略の基礎となる世界観に欠陥があれば、優先順位が狂ってしまい、いかなる取り組みも裏目に出る可能性が高くなる。

世界は複雑な場所であり、ある分野での行動が他の分野での努力を損なうことも起きる。明確で根拠のある優先順位がない限り、これらの相殺取引(トレイドオフ、trade-offs)を賢く解決することはほとんど不可能だ。明確な戦略がなければ、予期せぬ出来事によって簡単に軌道修正されてしまうし、国内の有権者、外国のロビー団体、自由世界のリーダーとしてのアメリカの自画像に訴える術を身につけた同盟国からの圧力に対抗することも難しくなる。

バイデンとそのティームは、外交政策のマシーンを動かす方法を知っているという意味では、熟練した整備士(メカニック)たちの一群のようなものである。しかし、彼らが操作するために訓練された国内および国際機関は、もはやその目的に適っておらず、経験豊富なフォードやシボレーの整備士がテスラを整備しようとするような結果に終わっている。当然のことながら、機械が生み出す政策対応は、世界が望むような結果をもたらしてはいない。

バイデンに必要なのは整備士ではなく、建築家(アーキテクト)たちだ。今日の課題により適した新しい取り決めとアプローチを生み出す想像力とヴィジョンを持った人たちだ。残念ながら、今日のエスタブリッシュメントは、適合性と、安全でますます懐古的なコンセンサスの中に留まることに高い優先順位を置いているため、創造量とヴィジョンを持つ人々が権力の座に就くことはないのだ。

希望を持てる理由はあるだろうか? 確かに。アメリカ人たちは、主要な敵国が大きな間違いを犯しているという事実に、いくらかの慰めを得ることができるかもしれない。プーティンのウクライナ侵攻は彼の期待通りにはいかず、中国のゼロ新型コロナウイルス感染拡大政策は中国経済の深刻な構造的不均衡を悪化させ、両国ともほんの数年前より強力な世界的敵対勢力に直面している。

しかし、モスクワや北京がワシントンよりも多くの誤りを犯すことを期待することは、長期的なアプローチとして有望とはいえない。他国の失敗を当てにするのではなく、賢明な政策と効果的な実行こそが、成功への唯一の道だ。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。

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