古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:ソヴィエト連邦

 古村治彦です。

1945年2月4日から11日にかけて行われた、アメリカのフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソヴィエト連邦のヨシフ・スターリン書記長が参加して、戦争の結末と戦後世界の行方について話し合いが行われた。戦後世界の構造が決定された重要な首脳会談であった。

日本関係で言えば、ソ連が対日参戦し、千島列島を含む地域をソ連が獲得するということが決定された。ヨーロッパ関係で言えば、ポーランドの国境線が西寄りに設定され、東ヨーロッパ諸国をソ連が実質的に支配すること、共産ブロックに含まれるということが決定された。ソ連は東ヨーロッパを緩衝地帯とすることで、西欧列強からの侵略を防ぐことができるという安心感を得ることができた。

 重要なことは、これらの重要な事項をアメリカ、イギリス、ソ連で決めたということだ。そこにはフランスは入っていない。フランスはドイツに敗れた時点で、列強の地位から脱落しているということになる。これこそが大国間政治(great-power politics)ということである。これらの大国が世界の運命を決め、一国の行く末を決める。決められる弱小国には何の相談もなく、小国の国民の意思など全く考慮されない。これが国際政治の真骨頂だ。

 今回の論稿で重要なのは、指導者個人レヴェルの分析がなされていることだ。国際政治では、個人レヴェル、国内政治レヴェル、国際関係レヴェルの3つの分析のレヴェル(levels of analysis)がある。今回の論稿や個人レヴェル、具体的には、ヤルタ会談に参加したルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの考えや行動を分析の中心に据えている。何よりも重要なのは、ルーズヴェルトが瀕死の状態であったということだ。実際に階段から2か月後の4月にルーズヴェルトは死亡した。その状態で世界の運命を決める会談に臨んでいたということは世界にとって大きな不幸であった。そして、ルーズヴェルトは副大統領ハリー・トルーマンを信頼しておらず、彼の抗争を全く伝えていなかった。そのため、トルーマンは何も知らない状態で大統領に昇格することになった。ルーズヴェルトは自身の死後のことまで考えていなかった。チャーチルはイギリスの国力が減退している中で、大国としての矜持を保とうとして、得意の弁舌を駆使し、ソ連のスターリンと対峙したが、気力が充実し、自身の要求貫徹にこだわったスターリンの主張を覆すには至らなかった。チャーチルとスターリンは、自国の利益を第一に考えていたということになる。その点で彼らは交渉しやすかったと言えるだろう。ルーズヴェルトは国際連合や世界の秩序維持について話したが、チャーチルとスターリンも、それぞれの国が何を得られるのかということにしか関心がなかった。それがイギリスの帝国(植民地)の維持であり、東ヨーロッパのソ連の勢力圏入りであった。両国は、戦後ポーランドの体制について対立したが、最終的には米英側が譲歩した。しかし、スターリンの要求も全てが実現するには至らなかった。スターリンとソ連に対する米英両国の信頼は失われていた。

 ルーズヴェルトがより健康であったならば、ヤルタ会談の結果はどうだっただろうかということは今でも話さされることである。歴史に「If」はないというのは常套文句であるが、たとえルーズヴェルトの健康状態がより良かったところで、どこまで結果が変わっていたかというとそれには疑問が残る。

(貼り付けはじめ)

ルーズヴェルト、ヤルタ、そして冷戦の起源(Roosevelt, Yalta, and the Origins of the Cold War

-末期病状のアメリカ大統領がヨーロッパの半分をソ連が支配すると決定した協定についていかに交渉したか。

フィリップ・パイソン・オブライエン筆

2024年9月1日

『フォーリン・ポリシー』

https://foreignpolicy.com/2024/09/01/roosevelt-stalin-yalta-europe-division-soviet-world-war/

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「ヨーロッパのごった煮」と題された漫画で、ヤルタ会談でのルーズヴェルト、スターリン、チャーチルが描かれている。

フランクリン・D・ルーズヴェルト米大統領が1943年末にワシントンに戻ったとき、彼はほとんど働くことができなかった。ルーズヴェルトは、元々が病弱であり、そして運動不足で、酒もタバコも止められず、特にタバコが大好きだった。血圧は危険なレヴェルまで上昇し、冠状動脈疾患も進行していた。彼は、彼の参謀であり、いつも一緒にいたウィリアム・リーヒに、この仕事を続ける体力が自分にあるかどうか分からないと打ち明けたほどだった。

しかし、それから間もなく、ルーズヴェルトは他に選択肢がないと判断した。権力を手放し、戦後の新たな世界秩序の構築において尊敬はされるものの、二の次的な人物になるという見通しは、彼にとってあまりにも恐ろしかった。そして1944年、ルーズヴェルトは国際関係史上最も利己的な選択をすることになるが、これは非常に自己中心的であり、歴史家たちは未だにこの問題に言及することを避けている。

ルーズヴェルトは、死にかけながら大統領選に出馬することを決めただけでなく、副大統領候補を、自分が好きでもなく、打ち解けることもなく、自分の後を継いで大統領になる準備も一切していない人物に変更することに決めたのだ。ルーズヴェルトは、現職のヘンリー・ウォレス副大統領が左翼的すぎると見られていることを懸念し、より穏健なハリー・トルーマンを副大統領候補に選んだ。政治的には賢明な選択だった。トルーマンは、ミズーリ州出身で、ルーズヴェルトの貴族的な存在感をうまく引き立てる政治的庶民感覚を持っていた。トルーマンは、急進的なウォレスに特に魅力を感じなかった中西部と南部で、ルーズヴェルトを助けることができた。

トルーマンは、彼自身の評価では、国際関係の経験がほとんどなかったが、ルーズヴェルトは、トルーマンが何も得られないようにするつもりだった。1944年11月の選挙から1945年4月にルーズヴェルトが死去するまでの間、彼の業務日誌には2人の会談が6回しか記録されていない。ルーズヴェルトは、1945年2月の重要なヤルタ会談などの計画にトルーマンを加えることを積極的に避けていたようだ。ルーズヴェルトは基本的に、この危機において、アメリカと世界を率いることができるのは自分だけであり、だから自分は生きなければならない、と語っていた。もし彼が死んだら、そう、「我が亡き後に洪水よ来たれ(Après moi, le déluge)」だ。

その理由は、ルーズヴェルトが戦後世界についての具体的なヴィジョンを書き記すことも、議論することもほとんどなかったからだ。ルーズヴェルトは通常、「4人の警察官(four policemen)」-イギリス、中国、ソ連、アメリカを通じて秩序を保つという広範で不定形な概念で人々を幻惑し、国際連合(United States)の創設について希望的観測を語ったが、難しい質問に答えることは避けた。

戦争終結後、アメリカ軍はヨーロッパに永久に駐留するのか? ドイツは永久に分割されるべきなのか? ソ連との軍事同盟は継続されるのか、もしそうなら、アメリカは、ソ連の東欧支配を受け入れるのか? アジアと太平洋における戦後処理はどうなるのか? オランダやフランスのようなヨーロッパ帝国は再建を許されるのか? アメリカ軍はかつて日本が占領していた地域に入るだろうか? 混沌とした政治状況にある中国は、どのようにして世界の警察官の一人となるのだろうか?

もしルーズヴェルトが、これらの質問に対する明確な答えを持っていたとしても、ルーズヴェルトはそれを自分の胸に秘めていた。リーヒが回顧録で認めているように、「もしルーズヴェルト以外に、アメリカが何を望んでいるのかを知っている人物を見つけられたら、それは驚くべき発見だろうと感じたこともあった」ということであった。

ルーズヴェルトは、アメリカ政府に具体的な戦争の目的と目標を提示することを拒否することで、プロイセンの軍事戦略家カール・フォン・クラウゼヴィッツが提唱した「戦略とは目的、方法、手段を結びつけることである(strategy is the connection between ends, ways, and means)」という公理を嘲笑していた。ルーズヴェルトは、どの戦争指導者よりも、方法と手段については明確な考えを持っていた。それは、兵士ではなく、空と海の力と多くの機械で戦争を戦うことであった。しかし、それらは目的から切り離されているように見えた。目的とは、彼がその時々に望むものだった。

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1944年のモスクワ訪問で、英首相ウィンストン・チャーチル(左)がヨシフ・スターリンと歩く

ルーズヴェルトが戦後、アメリカにとって何を望むかについて、いろいろな意味で秘密主義を強めていたとすれば、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは直接的であることを厭わなかった。ルーズヴェルトは安全保障と強靭さを求めており、無定形な国際保証や国際理解よりも直接的な支配を好んだ。スターリンは、優雅(airy-fairy)に見えるルーズヴェルトの考えから離れ、ソ連の独裁者は直接支配への希望を明確にした。

スターリンが最も明晰になったのは、おそらく1944年10月、モスクワでウィンストン・チャーチル英首相と二人きりで会談したときだろう。チャーチルとスターリンは、しばしばアヴェレル・ハリマン駐ソ連大使も同席した公式会談では、ルーズヴェルト的概念に基づく和平を模索しているふりをしようとしていた。しかし、二人きりになると、二人の態度は違った。

ある晩、二人きりの会話の中で、二人は未来に目を向け、アメリカの影響力のないヨーロッパについて語った。その結果、有名な「パーセンテージ協定(Percentages Agreement)」が結ばれ、チャーチルとスターリンはこの地域を利益圏(spheres of interest)に分割した。

この合意は、スターリンとチャーチルがどのように交渉を進めたかったかを、おそらく最も忠実に表している。ルーズヴェルトと比べれば、彼らには戦争に対するより具体的な目的があったことは確かだ。チャーチルにとっては、大国としてのイギリスとその帝国の維持であった。スターリンにとっては、東欧、中欧、南欧におけるソ連の最大限の拡大だった。どちらも、ルーズヴェルトの国際親善と協力(international goodwill and cooperation)という概念にあまり時間を割いていなかった。

パーセンテージ協定もまた、政治的かつ個人的な夢物語だった。ルーズヴェルトは政治的な理由からこのような協定に同意するはずもなく、3人は戦後のヨーロッパと世界にとってより実行可能な枠組みを考案するために集まる必要があった。チャーチルとスターリンの極めて具体的な戦略目標と、ルーズヴェルトの無定形な戦略目標を調和させる必要があった。

この違いの結果は、1945年2月4日から2月11日までクリミアで開催された、戦争中の全ての大戦略会議(grand-strategic meetings)の中で最も物議を醸したヤルタ会議、コードネーム「アルゴナウト(Argonaut)」となった。

今日に至るまで、ヤルタ会談は、何が合意されたのか、より正確に言えば、3人の主役が何に合意したと考えていたのかについて、激しい議論を巻き起こしている。ある意味、問題は会議そのものではなく、その結論は当時ビッグスリーの誰にとっても「決定的(definitive)」なものではなかった。

本当の問題は、ルーズヴェルトがほどなく死去したことであり、ルーズヴェルトは自分が行った取引の真意を極秘にしていたため、トルーマンは結局、ルーズヴェルトの意図を推測するしかなかった。

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左から:チャーチル、ルーズヴェルト、そしてヨシフ・スターリン(1945年2月のヤルタ会談での交渉の後)

ヤルタ会談開催の頃までには、アメリカ大統領は終わりに近づいていた。1944年の再選を目指し、わずかなエネルギーも使い果たしていた。選挙運動には比較的わずかしか顔を出さなかったが、選挙が終わると、持続的な仕事はできなくなっていた。ルーズヴェルト大統領の本当の状態はアメリカ国民には知らされていなかった。1945年1月20日の大統領就任式など、公の場に姿を見せなければならないときは、ホワイトハウスに担ぎ込まれる前に数分間だけ話をした。

ルーズヴェルトがヤルタに到着する頃には、彼の体調は更に悪化していた。体重はさらに減り、目の下には大きく膨らんだ黒いクマができており、常に休息を必要としていた。1944年8月のケベック会議で最後にルーズヴェルトを見た、イギリス代表団の何人かは、この短期間でのルーズヴェルトの衰えにショックを受けた。チャーチルの秘書の1人は、ルーズヴェルトを見て「この世の人とは思えない(was hardly in this world at all)」と言った。

スターリンは元気だった。首脳会談までに、ロシア軍はベルリンから100マイルも離れていないオーデル川に到達していた。いったん再編成し、次の攻撃のために休息を取れば、ドイツの首都は陥落することは確実だった。ヤルタ会談前にポーランドの大部分を征服したことは、スターリンにとって今後の会談で非常に有利に働いた。彼は、どのようなポーランドを建設したいかの構想を持っており、妥協する気はなかった。

ヤルタ会談の主役はルーズヴェルトとスターリンだった。この頃、イギリスには、アメリカやソ連に自国の要求を呑ませるだけの軍事力も財政力もなかった。スターリンはまだ武器貸与プログラム(lend-lease program)によるアメリカの支援を必要としており、ドイツが敗北した後の太平洋戦争への参加を熱望していた。ルーズヴェルトは、世界平和の保証として、戦後も何らかの形で米ソ戦時同盟(U.S.–Soviet wartime alliance)の継続を画策していた。

首脳たちと最側近のアドヴァイザーたちによる最初の全体会議では、戦争に勝利しようとしているという事実が祝われた。それは、ヨーロッパにおける戦争の軍事的概観であり、アドルフ・ヒトラーのドイツが必然的に粉砕されたことを物語るものだった。指導者それぞれが互いの軍のパフォーマンスを称賛し、戦争の最終段階における緊密な連携について語った。

軍事的な概要が明らかになると、指導者たちは戦後の世界に目を向けた。スターリンは、大国政治(great-power politics)について、未来を決めるのはこの3人であり、小国の意見に耳を傾けることに時間を費やすべきではないという見解を述べた。ルーズヴェルトはスターリンを支持し、「大国はより大きな責任を負っており、和平はこのテーブルについた三大国によって書かれるべきだ(the Great Powers bore the greater responsibility and that the peace should be written by the Three Powers represented at this table)」という意見に同意した。

しかし、チャーチルには居心地が悪かった。スターリンと対立して、真っ向から反論するつもりはなく、代わりに、大英帝国に対するチャーチルのヴィジョンが、この見解にどのように適合するかは決して明確にしなかったが、小国の意見に耳を傾け、ある程度の謙虚さを示すことが大国の義務であると主張した。スターリンはそれを面白がったようで、次の選挙で負けるかもしれないと言ってチャーチルをからかい始めた。

会議の残りの時間は、ビッグスリーが世界の他の国々の運命を決定し、その大部分は友好的に行われた。ドイツについては、主にドイツを解体すべきかどうかで意見が分かれた。反対していたスターリンは、そのような決定を将来まで先送りすることを望んだ。実際、そのような決定を先延ばしにするのは簡単だった。重要な第一歩であるドイツの明確な占領区域への分割は既に行われていたからだ。

この話し合いで最も興味深かったのは、ルーズヴェルトがアメリカ軍は、2年以上はヨーロッパに駐留しないと主張したことだろう。それを聞いたチャーチルは、今こそフランスに強力な軍隊を増強すべきだと答えた。スターリンは、それは構わないが、フランスにはドイツの支配について大きな発言権を与えるべきではないと主張した。

ヤルタ会談で決着したもう1つの大きな問題は、ソ連の対日参戦(Soviet entry into the war against Japan)だった。春にはドイツに勝利することが決まっていたため、スターリンは崩壊する日本からできるだけ多くの戦利品(spoils)を奪おうと躍起になっていた。この時点で、アメリカは日本を倒すためにロシアの助けなど必要ないことを十分承知していたが、スターリンはそれを、以前の誓約を果たすためという枠にはめた。

自縄自縛に陥ったルーズヴェルトは、スターリンの援助をありがたく受け入れるしかなかった。もちろん、スターリンには代償が用意されていた。最終合意では、ソ連は南サハリン、千島列島、中国の大連港の支配権(ソ連から大連港までの鉄道を含む)を手に入れることになる。

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ロックフェラーセンターに掲揚されている連合国の各国の国旗が半旗になっている(1945年4月13日)

翌日は、新しい国際連合についての議論から始まった。スターリンもチャーチルも、自分たちにはそれほど関心がなかったとしても、ルーズヴェルトにとってそれがいかに重要であるかを理解していたようだ。スターリンは、前年8月から10月にかけてワシントンのダンバートン・オークス邸宅で開催された会議で作成された国連機構の概要を読んでいなかったことを認めた。

そして、ポーランドの運命が持ち出され、会場の緊張は高まった。ポーランドの問題は、ある意味では単純であり、ある意味では基本的に難解であった。ポーランドは戦後、国家として再興されるが、その国境はずっと西にあるという合意があった。ルーズヴェルトとチャーチルは、ヒトラーとの汚い取引で確保したポーランドの東半分をスターリンが保持し、その代わりに新生ポーランドがドイツ東部の大部分を与えられることを受け入れた。

ポーランドの将来の政治構造は全く別の問題だった。アメリカとイギリスは戦前のポーランド亡命政府をロンドンに認めていた。スターリンは、戦前のポーランドの手によるソ連軍の敗北を思い出し、直ちにルブリン委員会(Lublin Committee)と呼ばれる新しい共産主義政府の樹立に動いた。

ロンドンか、ルブリンか、どちらのポーランド政府が統治するかという問題は、ヤルタの大きな対立点(confrontation)となった。この問題が最初に持ち上がったとき、ルーズヴェルトは会議全体を通じて最も長い演説を行った。持てる力を振り絞り、普段の理性的で魅力的な自分を演出しようとしたルーズヴェルトは、強い親ソ派を含む5つの異なる政党の代表からなる複数政党による暫定大統領評議会の設立を提案した。この組織が、新しい選挙が行われるまでポーランドを統治することになる。チャーチルは、いつものように雄弁に、自由で独立したポーランドをさらに力強く訴えた。「チャーチルは、「ポーランドが自分の家の主人となり、自分の魂の支配者となることが、英政府の切なる願いである」と述べた。

スターリンは、ルーズヴェルトの魅力やチャーチルの雄弁など気にも留めなかっただろう。この時点でスターリンは、東ヨーロッパにおける自らの優越(supremacy)が米英両国に認められたと計算していた。彼は、ポーランドの運命が「戦略的安全保障(strategic security)」の問題であり、ポーランドがソ連と国境を接する国であるからというだけでなく、歴史を通じてポーランドがロシアへの攻撃の通路であった」と述べた。

そして、スターリンはナイフを深く突き刺した。彼もまた、民主的なポーランドを望んでいた。彼の見る限り、ルブリン・ポーランド政府は自由で効率的な統治を行っており、しかも赤軍の後方地域の安全確保とパトロールに貢献していた。ところが、ロンドン・ポーランド政府は、この調和を終わらせ、ソ連戦線の背後で反乱を起こす恐れがあった。要するに、彼らはヒトラーの仕事を代わりにしていたということになる。

スターリンは「ルブリン政府の工作員がやったこととロンドン政府の工作員がやったことを比較すると、前者は良くて、後者は悪いことが分かる。私たちは後方に平和を与えてくれる政府を支持するつもりであり、軍人としてそれ以外のことはできなかった」と述べスターリンは鉄槌(gauntlet)を下し、議論は何日も続いたが、変わることはなかった。赤軍はポーランドに進駐し、スターリンは赤軍を指揮し、ルブリン政府に権力を握らせ、戦前のポーランド国家からのいかなる影響も容認しなかった。ルーズヴェルトとチャーチルは、スターリンの条件を受け入れるか、あるいは同盟を破棄するかという、ほとんど不可能な窮地に立たされた。首脳3人全員が分かっていたように、スターリンにポーランド政府の構成を変更させることは不可能だった。

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ヤルタ会談で会談するスターリンとルーズヴェルト(1945年2月)

しかし、ルーズヴェルトは試してみることを決心した。翌日、彼らがこの問題に戻ると、彼はスターリンをなだめるためにロンドン政府をすべて切り捨てることから始めた。ルーズヴェルトは、ルブリン政府は何があっても力を持つだろうと理解し、新しい臨時政府の樹立を協議するために、ルブリン政府と他の政党からなる委員会を半分ずつ設置し、バランスをとることだけを提案した。

スターリンは失速し、それが延々と続いた。ルーズヴェルトはスターリンに私信を送り、ポーランドには多党制の民主的な政府が誕生することをアメリカ国民に伝えてもらえれば国内にとって大きな助けになると懇願した。

たとえルーズヴェルトが、スターリンが自らの選択と条件で政権を樹立しようとしていることを理解していたとしても、ルーズヴェルトが国内でそのような政治的ニーズを抱いていることをスターリンが理解できなかったことは、彼の戦略家としての進化がそこまでしか進んでいなかったことを示している。スターリンは、ルーズヴェルトが本当にアメリカ連邦議会や有権者、その他の権威に答える必要があるとは思えなかった。

これはスターリンがいかに全てを台無しにしようとしていたかを示すものだった。ドイツ軍の侵攻以来、彼が機転を利かせて行動してきたのは、生き残るために現実的な面が偏執的な面を抑えてきたからだとすれば、戦争が終結し勝利が確実となったとき、昔の偏執的なスターリンが姿を現したということになる。スターリンには、ルーズヴェルトが融通を利かせるというサインを本当に望んでいることが理解できなかった。

ルーズヴェルトは会議の残りの時間についてスターリンに圧力をかけたが、最終的にスターリンはほんのわずかな譲歩しかしなかった。スターリンは、資本主義政府は実際には民主的ではないという暗黙の指摘とともに、ルブリン政府は真の民主政治体制を代表していると既に述べていたため、これにはほとんど何の意味もなかった。

ポーランドに関するこの合意は、ソ連の東欧支配の基本的枠組みを確立した歴史的なものだった。赤軍が支配するところでは、スターリンは自分の利益に合う政府を樹立するためにやりたい放題だった。

ルーズヴェルトは、この侮辱を個人的に受け止めたが、他にどうすればいいのか分からなかった。ルーズヴェルトは、病気がちで、闘い続けるには疲れきっていた。彼が真実を認めた相手は、会議のほとんど全ての時間をルーズヴェルトと過ごしたリーヒだった。ポーランドで合意された文言は基本的にスターリンのやりたい放題を許すものだとリーヒがコメントしたとき、ルーズヴェルトにできたのは譲歩することだけだった。

彼には他のことをする力がなかった。ルーズヴェルトは「それは分かっている、ビル、でももう戦うには疲れたんだ」と述べた。
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1944年8月、ワシントンのホワイトハウスで会食をするハリー・トルーマンとルーズヴェルト

ヤルタ会談が終わるまでには、スターリンは満足せざるを得なかった。わずか4年足らずの間に、彼の国際的立場は一変し、その変化の多くは彼自身の行動に責任があった。ヒトラーを助けることで、結果としてソ連を攻撃されるという自分が作り出した災難から、米英両国に東欧支配を受け入れさせるまで押し戻したのだ。スターリンは今や、帝政ロシアがかつて支配していた以上の領土の領主であり支配者であった。その過程で、彼は米英両国の援助を使って力をつけ、世界最大の軍隊を作り上げた。第二次世界大戦の初期、スターリンは、最悪の大戦略家(the worst of the grand strategists)だったが、ヤルタ会談の頃には間違いなく最高の戦略家になっていた。

その後、スターリンは自分が成し遂げたことを全て破壊すると脅した。ヤルタ以後、スターリンは米英両国との協力関係を装うことからさえも遠ざかり始めた。彼の以前の戦略的成功は、同盟国、特にルーズヴェルトのニーズに合わせて行動を調整することで、ダイナミックな状況に実質的に対応する能力から生まれたものだった。しかし今、彼は公然と東ヨーロッパを従属させ始め、ルーズヴェルトやチャーチルの必要性にはリップサービスすら行わなくなった。

スターリンは、ルーズヴェルトに対して、常に示していた配慮と機転をもって接することさえ止めた。彼は、ドイツの収容所から解放されたアメリカ人捕虜の世話をするためにポーランドにアメリカ人将校を入国させることを拒否し、アメリカ大統領を深く侮辱した。間もなく、スターリンはさらに踏み込むことになる。スターリンは、ルーズヴェルトがヒトラーと土壇場で取引をすることで自分を裏切ろうとしていると、奇妙な言葉で非難したのだ。

これは、スターリンがルーズヴェルトに対して行ったのと同じくらい侮辱的な告発だった。スターリンの頭の中では、ルーズヴェルトはスターリンに歩み寄ろうとしていたのであり、スターリンがルーズヴェルトを極悪非道な裏切り者として非難したことは、ルーズヴェルトの心に深く突き刺さった。ルーズヴェルトはついに我慢の限界に達したようで、1945年3月、スターリンに対する彼の態度は大きく変化した。ルーズヴェルトのスターリンに対する最後の電報は、戦争期間において、もっとも厳しく、率直なものだった。

ポーランドに関する長い電報の中で、ルーズヴェルトは基本的に、ヤルタでスターリンが自分に嘘をつき、ルブリン委員会に他の要素を入れることを拒否したと非難した。「私は、このことが私たちの合意にも、私たちの話し合いにも合致しない」と述べている。

チャーチルは、ルーズヴェルトの強い口調を喜んだ。イギリスの指導者チャーチルは、ヤルタ会談について嫌悪感を抱き、ルーズヴェルトにスターリンに対する「断固とした、露骨な態度(firm and blunt stand)」をとるよう迫った。事態は対決(confrontation)の様相を呈していた。

そして4月12日、ルーズヴェルトはジョージア州ウォームスプリングスの屋敷で再び休暇を取っていた。

アメリカの政策は、トルーマンの手に委ねられたが、トルーマンはルーズヴェルトが本当は何を達成したかったのか、どのように達成するつもりだったのか、まったく知らなかった。その後の3年間、トルーマンは、無知(ignorance)であったために、スターリンの戦略的な行き過ぎと失策(Stalin’s strategic overreach and blundering)と相まって、ルーズヴェルトが常に避けたいと望んでいた冷戦を生み出すことになる。

※フィリップ・パイソン・オブライエン:セントアンドリュース大学戦略学教授。最新刊に『戦略家たち:チャーチル、スターリン、ルーズヴェルト、ムッソリーニ、そして、ヒトラー-いかにして戦争が彼らを形作り、いかにして彼らが戦争を形作ったか(The Strategists: Churchill, Stalin, Roosevelt, Mussolini, and Hitler—How War Made Them and How They Made War)』がある。ツイッターアカウント:@PhillipsPOBrien

(貼り付け終わり)

(終わり)

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる
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ビッグテック5社を解体せよ

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。

 第二次世界大戦後から1991年のソヴィエト連邦崩壊まで、アメリカとソ連は激しく対立した、資本主義と共産主義というイデオロギー上の対立から、世界各地で代理戦争が勃発した。しかし、同時に、米ソは直接戦うことはなく、核戦争の危機を回避するために、米ソ両国の首脳はホットラインを設置し、核兵器削減のための枠組みを構築した。冷戦期は、「長い平和(Long Peace)」という評価もある。

 冷戦後は、冷戦に勝利したアメリカの一極(unipolar)支配状態が続いたが、21世紀に入り、アメリカ支配への反発(ブローバック)が起き、アメリカはテロとの戦争(war on terror)の泥沼にはまり込んだ。そして、中国の台頭という新たな局面にも直面している。中国の台頭は、世界構造を「西側諸国(the West、ザ・ウエスト)」対「西側以外の国々(the Rest、ザ・レスト)」の対立構造へと変化させた。これは、グローバルノース対グローバルサウスの対立と言い換えることもできる。現在は、米中両国による新冷戦時代へ突入しつつあるという見立てがある。これは正しい見立てということになる。米中による二極(bipolar)構造、G2体制が形成されつつある。

 ここで重要なのは、米中が直接戦うことがなく、世界大戦も核戦争も起きなかった、冷戦期から教訓を引き出すことである。米中両国の直接の戦い、熱い戦い(hot war)を防ぐことが何よりも重要だ。

 下記論稿の著者アジーム・イブラヒムは、中国が中国であることが理由による敵意を高めず、協力の可能性を追求することが重要だと指摘している。しかし、同時に、西側諸国は、中国に対して過度に依存することなく、戦略的物資供給や技術独立を重視しなければならない。中国に対する抑止力のバランスや明確な交戦規則が重要であり、中国による民主国家への不干渉が、中国との共存に不可欠だとしている。米ソ冷戦時代のように、熱い戦争を避けるため、冷静な判断と宥和を選択すべきであるとしている。

 米中関係は相手の意図を読み取り、コミュニケーションを途切れさせず、世界の諸問題や衝突を深刻化させない、エスカレーションさせないという協力の枠組みが必要だ。アメリカが国力を減退させ、中国が国力を増進させる中で、長期的に見れば、米中逆転が起きる可能性は高まっている。そうした中で、アメリカによる一極支配から米中による二極構造へと変化していく。そうした中で、世界が戦争を避けるために、冷戦時代に培った教訓を活かす時期が来ている。

(貼り付けはじめ)

新たな冷戦には独自のルールが必要となる(A New Cold War Needs Its Own Rules

-中国との衝突は避けられないが、コントロールは可能だ。

アジーム・イブラヒム筆

2024年66

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2024/06/06/china-cold-war-rules-competition/

写真

ワシントンのホワイトハウスで中国の習近平国家主席とのヴァーチャル会談に参加するジョー・バイデン米大統領(2021年11月15日)。

ソヴィエト連邦との冷戦の記憶は薄れつつある。多くの人は、中国と新たな冷戦が始まるという考えや、差し迫った核による絶滅の脅威(threat of imminent nuclear annihilation)が頭上に漂う世界に戻っているという考えに躊躇(ためら)いを抱いている。専門家の一部は、中国との貿易から戦略物資を削減する取り組みは行き過ぎだと考えている。

残念なことに、多くの人が、中国の人権侵害や地政学的な挑発に対して、それらに対処することで、世界の国々が統合されている貿易関係が混乱することを避けることと求めており、何の影響も発生しないことを望んでいる。

サルマン・ラシュディやシャルリー・エブドに対して団結し、そして今度は再びイスラエルに対しても立ち上がったイスラム世界ですら、中国に対して沈黙を選択している。西側諸国に住む私たちが、同じように宥和を求める圧力(same pressure to appease)から免れているなどと想像しないで欲しい。

新冷戦に代わる選択肢が、激戦であるならば、前者は後者よりも限りなく好ましい。これha,

私たちが直面している二分法(dichotomy)だ。戦争を回避するということは、中国の野望と戦うために何が必要なのかという現実を受け入れることを意味する。

中国とワシントンが、特に世界市場(global markets)で競争するのは当然のことだ。競争は建設的である場合もあれば、破壊的な場合もある。技術的および経済的な競争は、誰にとっても良い結果となる可能性がある。たとえば、アメリカとソ連の間の宇宙開発競争(space race)は、科学技術における恩恵だ。これとは対照的に、戦争は当然、私たち全員をより貧しくさせ、安全性を低下させることになるだろう。

台頭する大国が衰退する大国に遭遇すると、常に暴力が発生する可能性がある。大英帝国とアメリカの間の覇権(hegemonic power)の譲渡のような友好的な移行(transfer)はまれだ。 1990年代の活気に満ちた時代、更には2000年代においても、中国の台頭により中国がアメリカの敵ではなくパートナーになる可能性があるように思われた。ナイオール・ファーガソンのような著名な歴史家は、リーダーシップを共有する世界的な双子である「G-2」と「チャイメリカ(Chimerica)」について語った。これは中国の一部の人たちに受け入れられている考えだ。

しかし、そうした世界は、中国共産党(Chinese Communist PartyCCP)において、習近平が政権を掌握した2012年に終焉を迎えた。習近平は、中国が地球上で最も強力な国になる運命に揺るぎない信念を持ち、西側諸国に対する復興主義者の熱意(revanchist fervor)を持った漢民族至上主義者(Han supremacist)である。習近平は、他の最近の中国指導者よりも、この国の「屈辱の世紀(Century of Humiliation)」について中国の学校で教えられた教訓を吸収してきた。中国の教科書によると、この期間は、第一次アヘン戦争から中国共産党が権力を掌握するまでの期間のことである。この時期、西側諸国は中国の首を絞め続けた。

今日、再び熱い戦争が起こる可能性があるが、それに対しては冷戦がより良い選択肢だ。

習近平の中国共産党総書記(CCP general secretary)への昇格が実現したとき、中国政府は容赦ない地政学的競争の道を選択した。おそらく一部の前任者とは異なり、習近平は、既存のグローバル化した自由主義秩序(incumbent globalized liberal order)内での必然的な中国権力の台頭が中国の「正当な立場(rightful standing)」にとって十分であるとは考えていない。米大統領ジョージ・HW・ブッシュ、ビル・クリントン、ジョージ・W・ブッシュは皆、中国がグローバル化した世界経済の中心となる未来を予見し、黙認したが、その中で、アメリカは引き続きこの世界秩序のハードパワーの執行者であった。習近平は、そのような取り決めは中国の力と潜在力に不当な制約を課すものだと考えている。

言い換えれば、習近平は、前任者たちがそうしたように、アメリカが制定し強制する世界秩序が、中国の必然的な成功への道であるとは考えていない。むしろ、彼はそれを、挑戦しなければならない束縛(straitjacket)だと考えている。彼は同じように世界的にアメリカの力に挑戦したいと考えている。彼はウクライナでも同様のことを行っており、ロシアの軍産基盤を支援し、モスクワの侵略を非難することを拒否している。習近平はまた、ハマス、ヒズボラ、その他の代理勢力を通じて中東に大きな不安定化をもたらすテヘランの影響を考慮し、中国がイランの石油の主要顧客となり、イランの軍事近代化を支援している。習近平は、アメリカに対抗して深まりつつあるイランとの連携を維持するため、フーシ派反政府勢力(Houthi rebels)を巡る航路など共通の利益を犠牲にする用意がある。

もちろん、中国が自国の再建を可能にした貿易から利益を得ることを依然として望んでいるため、その全てが常にそうであるとは限らないが、現在の国際秩序の規範や制度が、中国共産党の気まぐれや企みを制約する可能性がある場合には、習近平の提唱している「チャイニーズ・ドリーム(Chinese Dream)」を確保するために、その全てに挑戦しなければならない。

現在の国際的な制度的秩序は、中国共産党だけでなく、グローバルイーストとグローバルサウスの大部分の動機ややり方と衝突する価値観や規範を前提としている。西側の偽善は、確かにそれらは偽善ではあるけれども、中国のレトリック攻撃に対して危険なほど脆弱になっている。アメリカによる、悲惨かつ誤った戦争の真最中にあるイスラエルへの支援により、アメリカの立場は世界的に弱体化している。アメリカ主導の秩序と協力してきた長い歴史を持つインド、パキスタン、インドネシアを含む第三世界の国々は、最近の国連総会での投票結果が示しているように、中国が西側の行動を牽制できるようになる、多極化世界を非公式に、あるいは公然と応援している。中国のソフトパワーは、残忍な人権侵害に対する抗議活動をかき消すほど遠く離れた北京において仲介された、サウジアラビアとイランの国交回復合意などの成果を上げている。

現在の中国共産党を支配している世界観は、西側諸国との対決、そして西側諸国が第二次世界大戦後に構築し、冷戦終結時に作り直した国際統治システムの転覆、占領、破壊に取り組んでいる。

西側諸国の指導者たちは、この現実を認識し、世界システムとその価値観に対する攻撃に適切に対応することができる。理由が何であれ、彼らがそうしないことを選択した場合、それは紛争の、善意による回避とはならない。それは、弱みを察知し、更なる要求をするだけの危険な権威主義体制に対する宥和(appeasement)に過ぎない。中国がより強力になり、抑制力を失っていることで、熱戦のリスクが増大している。

中国自体も、道徳的にも戦略的にもより強硬な姿勢を正当化するほどの深刻な国内課題に直面している。最近の中国共産党中央委員会政治局(Politburo)の粛清、景気低迷、信用危機、企業や資本逃避(capital flight)の取り締まりにより、中国は特に制裁に対して脆弱になっている。習主席は久しぶりに、アメリカがいくつかの重要な難題、特に半導体への技術禁輸問題を解決し、アメリカ企業の中国からの投資引き揚げの流れを逆転させることを求めている。西側諸国は譲歩(concessions)を強要し、中国の軍事技術を後追いの状態においておけるだけの影響力を持っている。

中国との新冷戦は、紛争と競争を確立された範囲内に厳密に制限し、真の紛争に波及する可能性を制限するだろう。ソ連に対する冷戦から私たちが学べる貴重な教訓がある。

第一に、冷戦は慎重に行われた熱戦であるかのように語られてはならない。中国政府の敵対的な立場を認めて適切に対応することと、中国であるという理由だけで中国に対する敵意を高めることにイデオロギー的に関与することは別だ。冷戦が示すように、一般的な正反対の対立の中には、アメリカとソ連がポリオワクチンで協力している場合でも、現在中国と気候変動やパンデミックで協力している場合でも、協力の例が含まれる可能性がある。これは、世界の人権や国際秩序に対する中国の攻撃に全面的に従うことを要求するものではなく、問題を慎重に切り離し、独自のスペースを作り出すことを要求するものだ。

1990年代と2000年代の経験が示すように、アメリカと中国の間で協力は可能だった。将来の中国政権が西側諸国およびルールに基づく国際秩序(rules-based international order)とのより友好的で協力的な関係を選択できるよう、私たちは扉を開いたままにしておくべきである。習近平が権力を握っている間に、これが起こる可能性は低いが、中国が現在の行動を撤回する限り、西側諸国はそれが可能であるとシグナルを送り続ける必要がある。

中国はソ連ではない。ソ連のように、戦争の失敗や軍拡競争によって経済的に挫折することはない。モスクワに対して有効だった解決策は、中国に対しては有効ではないかもしれない。それは、特に北京もまた、冷戦に関する歴史書を読むことができるからだ。

しかし、私たちが長期に​​わたる紛争に陥っているという現実を考慮すると、戦略的物資供給(strategic supplies)を中国に依存しないことが絶対に必要となる。中国はアメリカの技術から戦略的に、特に軍事的に独立するために、最善を尽くしている。西側諸国も同様に、中国の技術、バリューチェイン、製造業の戦略的独立性を発展させなければならない。西側経済と防衛力に対する、非対称的なレバレッジは災厄を招くことになる。抑止力の安定したバランスにより、ソ連との対決中に大惨事は避けられた。中国に対してもまたそうなる可能性がある。

紛争から抜け出す道を提供すること(providing a path out of conflict)は、この新たな競争において何が許容され、何が許容されないか、そして最終的にどのようなステップが紛争につながるのかについて明確な一線を引くことを意味する。曖昧さがあるとエスカレーションが起こる。エスカレーションはすぐに手に負えなくなる可能性がある。民主政治体制国家への不干渉により、中国は受け入れ可能な世界的パートナーとなり、無数の敵対的な国家行動にもかかわらず、アメリカとの共存が可能になるだろう。経済戦争やサイバー戦争(economic and cyberwarfare)といった現在の敵対行為、特にイギリス選挙管理委員会やアメリカ軍施設などを標的とした行為には、長期にわたるエスカレーションのリスクが伴う。しかし、西側諸国は、これらの犯罪行為を非難以上にエスカレートさせるつもりはないことを既に示しており、おそらくそれが私たちにできる最善のことである。

これまでのところ、戦略的曖昧さ(strategic ambiguity)が唯一明確に機能している例は、台湾に対するアメリカの立場である。そしてその場合、台湾に間違った動機を与えたり、無用な不安を煽ったりしないように、政策を維持することができる。しかし、それ以外の場合は全て、アメリカが中国の何らかの行動を懸念するのであれば、その懸念を明確に説明し、一線を越える場合に、どのようなコストを課す準備ができているかを事前に正確に述べるべきだ。明確な交戦規則(clear rules of engagement)は冷戦時代の紛争管理に有益だった。それらは新冷戦にも役立つだろう。

このような見立ては西側の人々の懸念を掻き立てることだろう。それは、私たちの思考と内省を研ぎ澄ますはずだ。しかし、宥和は有益な選択肢でも道徳的な選択肢でもない。私たちは、直接的な軍事衝突、つまり熱い戦争への不必要なエスカレーションを避けるために必要な行動について、冷静に判断しなければならない。

冷戦は恐ろしい時代だった。しかし、私たちが思っているよりもうまく管理されていた。戦争は避けられた。熱い戦争はなかったし、現在もあってはならない。実際、中国は冷戦時代のソ連のように激しい代理戦争(proxy wars)に資金を提供してはいない。中東におけるイランの植民地獲得の野心やソ連のイデオロギー闘争とは異なり、中国の目標はより独善的であるが、恐ろしいほど偽りのないものである。

そして、少なくとも、その意味では、政府、学者、軍隊内の「冷戦の心性(Cold War mentality)」は、本能的な宥和、あるいはその恐ろしい2つの要素、制御不能なエスカレーション(uncontrolled escalation)を避けるためにまさに必要なものなのかもしれない。私たちは、この新冷戦を正確に把握し、それに応じて行動する準備をしなければならない。

※アジーム・イブラヒム:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。アメリカ陸軍大学戦略研究所研究教授。ワシントンのニューラインズ戦術・政策研究所部長。著書に『過激な起源:なぜ私たちはイスラム過激派との戦いに敗れつつあるのか(Radical Origins: Why We Are Losing the Battle Against Islamic Extremism)』と『ロヒンギャ族:ミャンマーの隠された大量虐殺の内側(The Rohingyas: Inside Myanmar’s Hidden Genocide)』がある。ツイッターアカウント:@azeemibrahim

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる
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 古村治彦です。

 2023年12月27日に『バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる』(徳間書店)を刊行しました。アメリカの衰退が明らかになりつつある中で、世界の構造が大きく変化していることを分析しています。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

 アメリカは第二次世界大戦後、世界覇権国となり、セ狩りを支配し、リードしてきた。冷戦期にはソヴィエト連邦というライヴァルがいたが、ソ連崩壊により、冷戦に勝利し、世界で唯一の超大国となった。ソ連崩壊の前後、アメリカには戦勝気分があった。2000年代以降は、中国の台頭があり、現在は冷戦期のソ連寄りも軍事的、経済的に強大となり、アメリカが中国に追い抜かれるのも時間の問題となっている。そして、世界は、「ザ・ウエスト(the West、西側諸国)対ザ・レスト(the Rest、西側以外の国々)」の二極構造に分裂しつつある。

 アメリカは世界の警察官としてふるまってきたが、直接武力を使ったのは、「自分が確実に勝てると考えた相手」に対してのみだった。その想定がそのままであれば、アメリカの思い通りになったのであるが、ヴェトナムやアフガニスタン、イラクではアメリカの想定通りにはいかず、苦戦し、最終的には撤退することになった。世界で唯一の超大国であるアメリカが、国力で言えば全く相手にならない、問題にならない国々に敗れさったというのは、確かに、周辺諸国からの支援ということもあるが、「決意(resolve)」の問題もあったと、下記論稿の著者スティーヴン・M・ウォルトは主張している。

 アメリカは自国の周辺に深刻な脅威は存在してこなかった。カナダもメキシコもアメリカ侵略を虎視眈々と狙うような国ではなかったし、これからもそうだと言える。東側と西側は大西洋と太平洋によって守られている。大陸間弾道弾(ICBM)の時代となったが、それでもアメリカの存在している、北アメリカ地域、そして、大きくは米州地域に脅威は存在しない。キューバ危機で、キューバにソ連のミサイルが設置される瀬戸際まで行った時が、アメリカにとっての最大の脅威であったと言えるだろう。

 アメリカが軍隊を送ったり、何かしらの問題解決のために介入したりする際には、自国から遠く離れた地域ということになる。世界の様々な問題は、アメリカにとっては遠い世界のことでしかない。敵対国にしても、アメリカ本土に直接進行してくる懸念はない。ミサイルは怖いが、「アメリカにミサイルを発射すれば、その国が終わりになる、なくなってしまうことくらいはよく何でも分かっているだろう」という前提で行動している。アメリカの決意は当事者の中では低くならざるを得ない。結果として、アメリカによる問題解決はうまくいかないということになり、「アメリカは駄目になっている」という印象だけが強まっていく。

 これは世界帝国、世界覇権国の隆盛と衰退のサイクルを考えると仕方のないことだ。ローマ帝国や秦帝国以来、衰退しなかった世界覇権国、世界帝国は存在しない。このことは、『バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる』の第5章で詳しく紹介した。国旅国の低下に合わせて、決意も低下し、問題解決もできずに力の減退だけが印象付けられる。大相撲、日本のスポーツ界で一時代を築いた、大横綱であった千代の富士が、当時伸び盛りだった、貴花田(後の横綱貴乃花)に敗れ、引退を決意した際の言葉「体力の限界、気力も失せて引退することになりました」はアメリカにも当てはまるようだ。

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アメリカは決意の固さの格差に苦しんでいる最中だ(America Is Suffering From a Resolve Gap

-敵国群が自分たちの思い通りにしようとする決意を固めた時にワシントンがすべきこと。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2024年1月30日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2024/01/30/biden-america-foreign-policy-middle-east-jordan-china/

近年のアメリカの外交政策は、イラクとアフガニスタンでの戦争の失敗、中東での和平努力の失敗、対立している大国の一部の核能力増強、その他数多くの不祥事など、一連の不幸のように見えることがある。そして、親イラン民兵組織による無人機(ドローン)攻撃でヨルダンで3人のアメリカ兵が死亡した最近の逆境は、アメリカ軍がこれらの激動の地域で何をしているのか、そしてアメリカ軍をそこに駐留させておくのは理にかなっているのかという新たな疑問を引き起こしている。

こうした度重なる失敗を、民主、共和両党の無能なアメリカの指導力や、間違った大戦略(grand strategy)のせいにしたくなる誘惑に駆られるが、世界政治を形成しようとするアメリカの取り組みは、次のようなより深刻な構造的問題に直面している。私もその種の批判をたくさん書いてきた。私たちは時々見落としてしまっている。アメリカの取り組みが失敗することがあるのは、アメリカの戦略が必ずしも悪いからでも、政府職員たちの熟練度が思ったほど低いからでもなく、敵対者が結果に大きな利害関係を持ち、彼らの思い通りにするために我々よりも大きな犠牲を払うことをいとわないためである。このような状況では、アメリカの優れた力が敵の優れた決意によって打ち破られる可能性が存在する。

このような問題が生じるのは、アメリカが現代史においてはるかに安全な大国だからである。自国の領土の近くには強力なライヴァルがおらず、大規模で洗練された多様な経済を持ち、数千発の核兵器を保有し、非常に有利な地理的条件を享受している。現在の安全保障と繁栄が永遠に続くとは限らないが、今日、これほど恵まれた立場にある国は他にない(このような大国は他に存在しない)。

その結果、矛盾が生じることになる。アメリカは武力攻撃から自国の国土を守ることを心配する必要がないため、世界各地に進出し、遠く離れた多くの問題に介入できる。しかし、これらの有利な状況は、これら遠く離れた地域で起こっていることがアメリカの生存にとって重大であることはほとんどなく、長期的な繁栄とは、ほぼ関係していない可能性があることも意味している。とりわけ、これは、アメリカが戦ったほぼ全ての主要な対外戦争が、ある程度、選択された戦争(a war of choice)であることを意味する。敵対的な侵略者や急速に悪化する治安状況に直面している国家には、独立を維持するために戦う以外に選択肢はないかもしれないが、アメリカは19世紀以来、こうした問題に直面していない。二度の世界大戦へのアメリカの参戦ですら、厳密に言えば、必要ではなかった可能性が高い。私は、二度の世界大戦に参戦したことは戦略的および道徳的見地から正しい決断だったと信じているが、アメリカの関与については当時激しく議論されており、それには当然の理由がある。

それ以来、アメリカは頻繁に、自国の海岸から遠く離れた敵と、敵の領土の近くまたは領土内で敵と戦うようになった。アメリカに比べてはるかに弱体だった中国が朝鮮戦争に介入したのは、アメリカ軍が中国国境に迫っていたためであり、毛沢東はアメリカとその同盟諸国が朝鮮半島全体を支配するのを阻止するために10万人以上の軍隊を犠牲にすることを厭わなかった。アメリカはヴェトナムに200万人以上の軍隊を派遣し、そのうち5万8000人以上を失うほどヴェトナムに深く介入した。しかし、北ヴェトナムは私たち以上に決意をもって戦い、より深刻な損失に耐え、最終的には勝利した。 2001年9月11日の同時多発攻撃の後、アメリカはアフガニスタンでアルカイダに対して積極的に攻撃な加え、タリバンが権力を取り戻すのを阻止するために何年も留まり続けることさえ厭わなかった。しかし最終的には、タリバンは私たちよりもアフガニスタンの運命を真剣に捉え、決意をもって戦った。同様の状況はウクライナでも明らかだ。アメリカと西側諸国はキエフを支援するために資金や武器を送るなど、費用のかかる手段をウクライナに提供する用意をしているが、ロシアの指導者たちは現地で戦って死ぬために兵士を派遣する強い決意を持っている。ウクライナを支援する諸外国はそうではない。それは、西側諸国の指導者たちが軽薄だからではなく、モスクワ(そしてウクライナ)にとって、それが世界の他の国々よりも大きな問題だからだ。台湾に関する議論にも同じ不快な問題が潜んでいる。アメリカ政府当局者や国防専門家たちが台湾の自治はアメリカにとって極めて重要な国益であるとどれほど強調しても、彼らがこの問題を中国政府よりも重視していると確信するのは難しい。

ここで注意して欲しい。敵国がより多くの利害関係を持ち、より大きな決意を持つという事実は、アメリカがグローバルな関与を引き受けるべきでない、あるいは遠くの紛争に介入すべきではないということを意味するものではない。例えば、相手が危険な行動を選択しないように抑止するためには、同等の決意は必要ないかもしれない。また、1991年のイラク、1999年のセルビア、そしてイラクのイスラム国との対立が示しているように、決意の固い敵が必ずしも勝つということでもない。しかし、アメリカは通常、自国から遠く離れた場所で活動しており、それゆえ敵対する相手が、アメリカより強い決意を持つ傾向があるという事実は、より広範な戦略環境の繰り返し見られる特徴である。

実際、アメリカはこの問題に対して、2つの方法で対処してきた。第一の方法は、アメリカの決意と信頼性に対する評判を、特定の紛争の結果に結びつけることだ。たとえ利害関係がそれほど大きくなくても、アメリカ政府高官たちは、将来どこかで起こる挑戦を抑止するためには、自分たちは勝たなければならないのだと主張する。この戦略は事実上、ある問題に対するアメリカの関心は、当初考えられたものよりも大きく、それはアメリカが過去に行ったかもしれない他のあらゆる公約や関心と結びついていると主張して、アメリカの政策に反対する国々や敵対勢力を納得させようとするものだ。

ヴェトナム、イラク、アフガニスタンで私たちが見てきたように、このやり方は、うまくいっていない戦争や、利益がコストを上回ると思われる戦争に対する国民の支持を維持するのに役立つ。しかし、アメリカに敵対する、もしくは不満を持っている国々を納得させることはできないかもしれない。特に、敵たちの決意が固まる、もしくは他の同盟諸国から、「自国を守るために使えるはずの資源を浪費している」と不満が出たりすればなおさらだ。更に言えば、1つの国家がより多くの関与を引き受ければ引き受けるほど、それら全てを一度に守ることは難しくなり、それぞれの関与の信頼性も低下する。挑戦者たちはいずれこのことを理解し、優位に立つ機会を待つことになる。ドミノ理論(domino theory)の応用形態を持ち出しても、それだけでは効果的な戦略にはならない。

2つ目の解決策は、アメリカが自国にほとんど、またはまったく犠牲を与えずに敵国を倒すことができるように、十分な軍事的および経済的優位性を維持することだ。敵対勢力は、深刻になっている問題により懸念を持つので、彼らが目的を達成するために高い代償を払わなければならないかどうかは、彼らにとって問題にはならないかもしれない。しかし、私たちはそうではない。サダム・フセインが1990年にアメリカに反抗したのは、アメリカ社会が1回の戦争で1万人の兵力を失うことを受け入れないだろうと考えたからだ。ところが、アメリカ政府の指導者たちは、アメリカがそのような多大な犠牲を払って戦いに舞えるということはないということを確信しており、「砂漠の嵐」作戦は、アメリカ政府の指導者たちが正しかったことを証明した。実際、この原則がアメリカの国防と外交政策全体のアプローチを支えていると主張する人もいるだろう。比較的低コストで敵を倒すことができる能力を獲得するために多額の資金を費やしている。アメリカは、多種多様な武力による保護手段に多くの資源を投入し、世界金融システムの主要な結節点に対する支配を利用して他国に一方的な制裁を課している。そして可能な限り、問題が起きている国の地上軍(例えば、イラク特殊部隊対イスラム国、今日のウクライナ軍対ロシア軍といった形)に依存している。

 

 

 

 

 

問題は、特に一極時代(unipolar moment)が終わり、諸大国のライヴァルたちが再び台頭しつつある現在、アメリカがこの規模での優位性を維持するのが難しいことだ。更に言えば、反乱やその他の形態の局地的な抵抗に直面すると、アメリカの軍事的優位性は低下する。テクノロジーの発展(具体例:無人機、監視強化、ミサイル能力の普及など)は、イエメンのフーシ派などの比較的軍事力の弱い主体にも、全体的な能力がはるかに強い敵にコストを課す能力を与えている。ヨルダンで無人機攻撃を行った民兵組織など、弱いながらも意欲的な現地主体は、アメリカに自分たちの望むことを強制することはできないかもしれないが、アメリカが思い通りに行動することが困難にすることはできる。アメリカはこれまで数十年にわたり思い通りに行動することができた。

もし世界が防衛力優位の時代に突入し、ほとんどの国家の決意が身近な地域を対象にすることで最大になるのであれば、どの国にとっても、広大で揺るぎない世界的影響力を行使する能力は低下するだろう。5つ以上の大国が、自国が存在する地域である程度の影響力を行使するが、自国の領土から離れれば離れるほど、その影響力は急速に低下するという多極的な秩序(multipolar order)が出現することも想像できる。影響力が低下するのは、パワーを投射する能力(the ability to project power)が距離とともに低下するためでもあるが、遠くへ行けば行くほど、決意のバランスが他国へシフトするためでもある。

このような世界では、アメリカはこれまでよりも慎重に戦いを選択する必要があるだろう。なぜなら、どこにでも行き、あらゆることを行うコストは上昇し、遠く離れた敵国は、自分たちが存在する地域内で、それらのコストをより喜んで支払うようになる。私たちよりも彼らがコストを負担する決意を持っている。良いニュースとしては、アメリカの現在の同盟諸国の一部が、自分たちの利益になるということで、自分たちと自分たちの周囲を守るためにもっと行動し始める世界になるかもしれないということだ。私たちが過去75年暮らしてきた世界とは異なる世界になるだろうが、アメリカ人はそれを過度に心配する必要はない。以前にも主張したように、それはアメリカ人にとって有利な世界になる可能性さえある。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。ツイッターアカウント:@stephenwalt

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 古村治彦です。

 第二次世界大戦後からソヴィエト連邦崩壊までの約半世紀、世界は「冷戦構造(Cold War)」にあった。アメリカとソヴィエト連邦がそれぞれの影響圏を確立し、その影響圏がぶつかるとことで、局地的な戦争が行われたが、米ソ両国間での直接の戦争は起きなかった。冷戦については「長い平和(Long Peace)」という評価をする学者もいるが、戦争が起きた地域においてはそのような言葉は空虚に聞こえることだろう。マクロでみるか、ミクロで見るかの差ではあるが、世界は世界大戦が起きなかったということにはなるだろう。

 ソ連崩壊後、アメリカ陣営は「勝った、勝った」の大合唱、民主政治体制、資本主義、法の支配が勝利したと喧伝された。アメリカはこれらの価値観の伝道者、庇護者を自認し、他の国々にこれらを広げて、世界全体を1つの価値観に染め上げよう、そうすれば戦争などなくなり、平和な世界が到来するという「理想主義」が主流になった。アメリカが盟主の世界を改めてきっちりと構築しようということになった。この世界には多様性は存在しない。自分たちの価値観の正しさを押し付ける、押し付けられる、発展具合を勝手に判断されて進んでいる、遅れているということが判定される世界である。

 ポスト冷戦時代において、アメリカを中心とする西側諸国(the West)と、それに対抗するBRICS諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)を中心とする「それ以外の国々(the Rest)」という2つのグループ分け、勢力圏という構図になっている。ポスト冷戦期、アメリカが世界唯一の超大国となる一極構造(unipolar system)が崩れつつある。冷戦期のような二極構造(bipolar system)となるか、多極構造(multipolar system)となるか、という話であるが、やはり、米中二極構造の冷戦期と同じような構造になるだろう。アメリカをはじめとする西側諸国は衰退を続け、それ以外の国々がこれから伸びていくことで、これら2つの勢力圏は均衡状態に入り、やがて、西側陣営が逆転される。前回の冷戦では勝者となった西側が、今回の冷戦では敗者になるという可能性が高まっている。

 アメリカの最大の失敗は、ロシアを自陣営への取り込みに失敗したことだ。中国がここまで急速にかつ強力に成長、台頭すると予測できなかったということはあるだろうが、中露の間を緊密にさせないこと、もしくは離間させることが何よりも重要だった。

しかし、ソ連崩壊を受けて、「お前らは負け犬だ、俺たちの言うことを全て受け入れろ」「民主政体、資本主義、法の支配、人権など、俺たちの価値観を全て完璧に受け入れて実践しろ、そうしたら幸せになるぞ、日本を見て見ろ」という態度で、ロシアを徹底的に見下して、傲岸不遜の態度を取った。それはまるで敗戦国日本の占領と同様であった。誇りと尊厳を傷つけた。結果として、ロシアは「アメリカの価値観を受け入れても幸せにならず、アメリカにずっと下に見られ続ける」ということに気づいてしまった。

 結果として、アメリカは中露を中心とする非西側諸国という対抗グループを生み出してしまった。「これでは新しい冷戦が始まってしまう」という懸念の声が出ている。しかし、既に米中対立は始まっている。冷戦構造になりつつある。そして、今回の冷戦の勝者がアメリカになる可能性は低くなっている。私たちは世界史の大きな転換点に直面している。

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冷戦は避けられないのか?(Is Cold War Inevitable?

-封じ込め政策の父ジョージ・ケナンの新しい伝記は、古い冷戦と出現しつつある中国との新しい冷戦は避けられるのかどうかについて疑問が出てくる。

マイケル・ハーシュ筆

2023年1月23日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2023/01/23/cold-war-george-kennan-diplomacy-containment-united-states-china-soviet-union/

ジョージ・ケナンは94歳という高齢になっても、冷戦は避けられないものではなかった、少なくとも回避できたはずだ、あるいは状況を改善できたはずだと主張していた。冷戦終結から10年後、アメリカの冷戦封じ込め戦略(Cold War containment strategy)のやや弱腰な態度の父であったケナンは、よりタカ派で、ケナンの伝記を執筆したジョン・ルイス・ギャディスへの手紙の中で、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンが生きている間は、早期撤退が可能だったかもしれないと主張した。

1952年3月のいわゆる「スターリン・ノート」は、第二次世界大戦後のヨーロッパのあり方について話し合おうというモスクワからの申し出であり、アメリカが「交渉、とりわけ公的な姿勢とは異なる真の交渉(negotiation, and especially real negotiation, in distinction from public posturing)」によって達成される平和の可能性を無視していたことを示した、とケナンは1999年に書いている。

この言葉は今日もなお有効性を持っている。なぜなら、アメリカが中国やロシアとの新たな冷戦に突入している現状では、公的な表向きのポーズがほとんどを占めているからである。しかし、これらの政策について、ワシントンではほとんど議論や考察が行われていない。特に、ソ連に代わってアメリカにとっての地政学的脅威となった中国の挑戦については、民主、共和両党の政治家たちが、北京に対してより厳しい姿勢を取ることで、政敵を互いに出し抜くことに政治的利益を見出そうとしている。その結果、世界のパワーと影響力をめぐる長期的な闘争が勃発し、それは前回の冷戦をはるかに凌ぐものになりかねない。2022年11月に行われた中国の習近平国家主席との首脳会談の後、ジョー・バイデン大統領が「新たな冷戦は必要ない」と主張したにもかかわらず、状況は冷戦に向かっているようになっている。数週間後にアントニー・ブリンケン国務長官が北京を初訪問する予定であるが、これは、昨年のナンシー・ペロシ前米連邦下院議長の台湾訪問以来、全面的に中断している外交関係を修復しようとするものである。

ケナンからのギャディスへの書簡は、新しい伝記『ケナン:2つの世界の間の人生(A Life Between Worlds, by Frank)』に掲載されている。2011年に出版されたギャディスの大著『ジョージ・F・ケナン:あるアメリカ人の生涯(George F. Kennan: An American Life)』には、この手紙のやり取りは掲載されていない。今回の新刊では、ケナンの私的な文書やその他の資料を基礎にして、冷戦が軍事的瀬戸際政策(military brinkmanship)の世界的ゲームに発展した際に、ケナンがいかに熱心にその緩和を追い求めたか、また冷戦後にNATOの国境が急速に東へ拡大することに反対したかが明らかにされている。ウラジーミル・プーティン大統領が出現する直前、ケナンはこの政策がロシアのナショナリズム、反西洋主義を煽り、「冷戦の雰囲気を取り戻す(restore the atmosphere of the Cold War)」と予言した。

コネティカット大学の歴史学者であるコスティリオラは、「ギャディスはケナンの生涯を描いたのだが、冷戦を和らげようとしたケナンの努力に対してはほとんど共感を集められず、注目もされていない」と書いている。また、コスティリオラはケナンの経歴と業績の真実について、「冷戦を、私たちが見るようになった不可避の対立と危機の連続ではなく、対話と外交の可能性の時代として考え直すことを要求している」とも書いている。

ケナンの見解を見直すことは、今日、かつてないほど正当なことになっている。アメリカ史上最も影響力のある戦略家の1人であるこの偉大な外交官ジョージ・F・ケナンは、交渉によって冷戦を脱することができると約束した訳ではなく、やってみなければ分からないと述べただけであった。しかし、当時も今も、新たなチャンスが訪れているにもかかわらず、懸命な努力はしなかったように見える。「20世紀の冷戦を理解し、21世紀の爆発的緊張を和らげる上で、ケナンの教訓は、一見難解に見える紛争について和解の可能性が高いかもしれないということだ」とコスティリオラは書いている。

プーティンはウクライナへの侵攻によって、ロシアを当分の間、和解の外に置くことになったが、中国はまだ外交の門戸を開いているようである。習近平と新しく就任した秦剛外交部長は、1952年のスターリンになぞらえる形で、バイデン政権の最初の2年間、米中両国の対立という厳しい雰囲気から身を引く方法を示唆している。12月31日に放送された新年のメッセージで、習近平は台湾に対して以前は冷淡だった態度をやや和らげたように見えた。秦外交部長は『ワシントン・ポスト』紙の寄稿で、駐米中国大使としての別れを惜しみ、米中関係は「一方が他方を打ち負かし、他方を犠牲にして一国が繁栄するゼロサムゲームであってはならない」と述べた。更に「中米関係のドアは開いたままであり、閉じることはできないという確信をより強めている」とも付け加えた。この数週間、北京では、反米的な言動で知られる外務省の趙立堅報道官をあまり目立たないような形で異動させた。

ソヴィエト連邦とアメリカが対立した冷戦時代と、現在の北京とワシントンの緊張関係には、類似点よりも相違点の方が多いのは不思議なことではない。しかし、その違いは、冷戦時代以上に、長期的な米中対立への転落を断ち切る可能性を持っている。ソ連とアメリカが全く別の勢力圏に存在していたあの時代とは対照的に、世界経済は深く統合されており、アメリカも中国もその中で取引や投資を行うことで多くの富を得ている。昨年、中国経済が急激に減速し、人口が減少したことで、習近平はこのことをあらためて認識した。更に言えば、持続的な国際協力を必要とする新たな課題、とりわけ気候変動や将来のパンデミックの阻止は、当時とは比較にならないほど切実なものとなっている。実際、地球温暖化や新型コロナウイルスのような新型ウイルスによる脅威は、中国とアメリカが互いにもたらす戦略的脅威よりもはるかに大きい可能性が高い。

ソ連が協力的で統制のとれた各国政府で自らを囲んでいたのとは異なり、現在の中国は、増大する軍事力に対抗するアメリカの同盟諸国や西洋化した諸国家に事実上囲まれている。バイデン政権は既に、オーストラリアと日本の武装を支援し、日本、インド、オーストラリアと四極安全保障対話(クアッド)を形成し、アメリカの競争力強化を目的とした率直な保護主義的産業政策を含む、中国とのハイテク貿易の前例のないデカップリングを調整するなど、中国に対する厳しい政策アプローチを打ち出している。

ヴァージニア大学の冷戦専門の歴史学者、メルヴィン・レフラーは必至との電話インタヴューで、ケナンはこのようなアプローチを認めていたかもしれないと指摘しながら、同時にこのような強者の立場から真剣に交渉するよう促していたと語っている。ケナンは、1947年に『フォーリン・アフェアーズ』誌に掲載した有名な「X」論文(“X” article)でソ連封じ込めを提案した時、ソ連の侵略に対して「平和で安定した世界の利益を侵害する兆候を示すあらゆる地点で、ロシアに不変の対抗力をもって立ち向かうよう設計した(designed to confront the Russians with unalterable counterforce at every point where they show signs of encroaching upon the interest of a peaceful and stable world)」強力な対応を促した。彼が交渉を提案したのはその後である。

同様に、今日、レフラーは、ケナンが「もし生きていれば、現状では、中国の周囲に張り巡らされている力関係について話すことになるだろう」と述べた。そして、中国がロシアと戦略的に連携することを懸念するよりも、たとえ習近平が今年モスクワを訪問する予定であっても、ケナンはおそらく、依然として深い関係にある両国の異なる利益に焦点を当てるだろう。特に、ロシアと中国は中央アジアで影響力を競い合っている、とレフラーは指摘している。また、モスクワと北京は、アメリカの支配に敵対しているにもかかわらず、互いに深刻な不信感を抱いている。

これらの相違点は、「今、両者を結びつけている短期的な便宜的な都合よりも」、より重要であるとレフラーは述べている。レフラーは「中国とロシアの協力関係について、冷戦時代の中ソ協力への不安と似ているが、それは誇張であったことが判明している」と述べている。

実際、現代の政策立案者たちがケナンから学べることは多い。特に、地政学(geopolitics)とパワーに対する深い理解から学ぶべき点は多い。ケナンは長年にわたり、優れた戦略的・抽象的な思想家として評価されてきたが、同時に、現実的な外交に関しては、しばしば簡潔な人物であったという評価もある。しかし、生前、ケナンを非難していた人々でさえ、アメリカの国家安全保障体制において、ロシアについて、ケナン以上に知っている人間は誰一人いなかったと認めている。また、ケナンはリベラルなハト派という訳ではなかった。コラムニストのウォルター・リップマンは、封じ込め政策の初期に、後に『冷戦』という本に収められた有名な一連の記事の中で、ケナンを無鉄砲なタカ派、封じ込め政策を戦略上の「怪物(monstrosity)」として激しく攻撃し、この戦略によってアメリカは海外への無限の介入を余儀なくされると書いているほどだ。コスティリオラは、「ケナンが1944年から1948年までの4年間を冷戦の推進に費やしたが、その後の40年間は、彼や他の人々がもたらしたものを元に戻すことに専念した。これは悪くない記録だ」と指摘している。

ケナンは後にリップマンの意見に同意し、封じ込めを主に軍事的な意味で捉えることは意図していなかったと主張するようになった。1948年の時点で、ケナンは交渉の必要性を訴え始め、そのキャンペーンは彼の長い生涯の間継続したとコスティリオラは書いている。2005年に101歳で亡くなる8年前、ケナンは再びロシアの専門知識を駆使して、「NATOの国境をロシアの国境まで拡大することは、ポスト冷戦時代全体において最大の過ちを犯している」と警告した。

プーティンとクレムリンに対する支持者たちの超国家主義や反欧米熱の理由は複雑で、ロシアの歴史に深く遡る。しかし、ケナンは、ロシアの熊を長く強く突きすぎることの危険性について正しかっと言えるだろう。トランプ政権が5年近く前に依頼した、あまり知られていない米陸軍の研究は、プーティンの攻撃性とウクライナ侵攻に対するロシアの大衆的支持の両方を予期していた。情報専門家のC・アンソニー・ファフの共著の中で、この研究について言及していて、「ロシア国民は、地理的な不安と政治的な屈辱感を政府と共有しており、特に東ヨーロッパにおいて、グローバルなパワーと西洋との対立を示すことは、将来のロシア政府の人気を高めることにしかならない」と結論付けている。

このような他国の戦略的利益に対する現実政治的な感性は、ケナンの思考に一貫したテーマとなった。1950年代後半、コスティリオラは、ケナンの有名な「長い電報」や『フォーリン・アフェアーズ』の「X」論文よりも「間違いなく印象的」な一連のラジオ演説で、ケナンは「イギリス、西ドイツ、アメリカの冷戦体制の根幹を揺さぶった」と書いている。ケナンは、当時の冷戦正統派の硬直した核心的な考えであった、ドイツを西半分と東半分に分けることに異議を唱えた。ケナンは、西側がドイツから撤退する代わりに、ソ連が東ヨーロッパから軍事的に撤退すれば、西側と東側は部分的に直接対峙しないようにするための交渉ができると提案した。統一ドイツは中立を保ち、軽武装にとどめ、後に1958年から1959年に、そして1961年から1962年にかけて起きたキューバ・ミサイル危機とハルマゲドンの脅威に至る瀬戸際外交を回避する緩衝材となり得たはずだ。また、統一ドイツはNATOに残留しないということも可能だった。これは、1952年にスターリンが最初に提示した取引提案の内容と同じだった。ケナンは、抑止力のために核兵器を保持することを提案したが、戦術核はヨーロッパの分裂を堅固なものにするだけだと述べた。もし何もしなければ、核軍拡競争の暴走が起こると警告した。

ケナンは、この点でも正しいことを証明した。特に、1957年にモスクワがスプートニクを打ち上げ、ニューヨークとワシントンに核の黙示録的惨禍の脅威をもたらした後、ケナンはミュンヘン会議の時と同じ宥和主義(appeasement)だと非難された。彼の友人で戦略をめぐってライヴァルであったディーン・アチソンは、ケナンが「空想の世界(fantasy)に生きている」と不満を漏らし、ある時は、昔の外交仲間を「馬鹿馬鹿しい、くだらないおしゃべり」をする猿の一種に例えたこともあった。ケナンは打ちのめされ、権力者の誰も「ロシア人との政治的解決に関心がない」と嘆いた。しかし、その間に世界がどれだけ核戦争に近づいたか、人々は忘れがちである。

ケナンは、ヴェトナム戦争についても先見の明を持って反対した。1966年の連邦上院での証言において、人気ドラマ「アイ・ラブ・ルーシー」の放送が延期されるほど全米で注目された、とコスティリオラは書いている。ケナンは、「貧しくて無力な人々」を攻撃して威信を損なうだけで、ヴェトナムの内戦には、封じ込めは適用できないと宣言した。ジョン・クインシー・アダムズの言葉を引用して、アメリカは「破壊すべき怪物を求めて外国に出かけてはならない」と述べた(U.S. should not go “abroad in search of monsters to destroy”)。しかし、NATOの対応と同様、その時点でアメリカの方針は固まっていた。

今日、最も重要な問題は、ワシントンの対決姿勢が同じように定着しているかどうかということだ。民主党と共和党の双方が中国への厳しい対応に同意する理由の1つは、自分たちは長い間北京に騙されてきたという共通意識だ。この四半世紀の間、アメリカの両政党は中国との関わりを熱望していたが、結局、中国の指導者たちは知的財産を盗み、中国経済を発展させ、アメリカを世界を主導する超大国の座から駆逐することに主眼を置いてきたのだと結論付けた。そのためバイデンは、カート・キャンベルやラッシュ・ドーシといったタカ派を対中国のアドヴァイザーとして政権に迎えている。

超党派のコンセンサスを超えて、交渉よりも対決に政治的な偏りがあるのは、少なくともネヴィル・チェンバレン元英首相がミュンヘンでの宥和政策によって悪評を得て以来続言えていることだ。冷戦を含む全ての戦争は、大統領が強気でタフな印象を与えることで有利になるように政治が動いている。このようなアプローチの利点は、大統領に強いリーダー的なイメージを与え、世論調査での評価を高めるという直接的なものだ。一方、コストは長期的かつ拡散的で、悪化し続ける地球温暖化、ゆっくりとエスカレートする軍拡競争と更にゆっくりとした国際システムの崩壊、将来のパンデミックの漠然としたしかし増大する脅威などが挙げられる。一方、より融和的で現実的なアプローチについては、その利点は長期的かつ拡散的であり、そのコストは即時的である。

これらの疑問は、冷戦に関するもう1冊の最新刊『ケネディの撤退:キャメロットとアメリカのヴェトナム封じ込め(The Kennedy Withdrawal: Camelot and the American Commitment to Vietnam)』の核心に触れるものだ。ヴァージニア大学の歴史家マーク・J・セルヴァーストーンは、過剰反応の危険性を認識していた各大統領でさえも、戦争に引きずり込まれてしまうと論じている。セルヴァーストーンは、この本の中で、冷戦時代の最後のタブーの一つである、ジョン・F・ケネディ大統領が生きていればヴェトナムの泥沼化を避けられたというキャメロット神話を解き明かしている。

確かにケネディは、若い連邦上院議員として、本質的にはフランスの植民地主義に対する民族主義的な運動であると認識していた紛争に巻き込まれることに警戒心を抱いていた。これは多くの人々がそのように説明している。セルヴァーストーンが書いているように、ケネディは1954年の時点で、先見の明を持って連邦上院の同僚議員たちに「アメリカの軍事援助をいくら受けても、どこにでもいて同時にどこにもいない敵を征服することはできない」と語っている。ケネディは、暗殺されるまで、より繊細な外交政策を採用し、米ソ間の緊張を緩和するための新しい方法を模索していた。しかし、それでも、ケネディが大統領就任演説で宣言したように、「自由の生存と成功を保証するために、いかなる代償も払い、いかなる重荷も負い、いかなる苦難にも耐え、いかなる友をも支持し、いかなる敵にも対抗する」覚悟を持ち、信頼性に懸念を持った冷戦の戦士であることは確かである。セルヴァーストーンは、ケネディが「ドミノ思考と決意の表明という世界観で行動し続けた」と主張し、コスティリオラは、ケネディがケナンの「離脱」支持を理由にケナンとの関係を避けようとしたと指摘する。

しかし、他の学者たちはそのように考えていない。ピューリッツァー賞を受賞した『戦争の残り火:帝国の崩壊とアメリカのヴェトナムの形成(Embers of War: The Fall of an Empire and the Making of America’s Vietnam)』の著者であり、ケネディの伝記2巻を執筆中のハーヴァード大学の歴史学者フレドリック・ログヴァルは、ケネディはリンドンBジョンソン元大統領よりもはるかに繊細に歴史を学び、ドミノ理論には懐疑的だったと主張している。ケネディなら、勝ち目のない戦争におけるアメリカの存在感を縮小する方法を見つけただろうと考えている。「冷戦が不可避だったとは考えない。また、ヴェトナム戦争も不可避だったとも思わない」と、ログヴァルは電子メールの中で語った。

現状はどうだろうか? 冷戦時代にアチソンたちがソ連について論じたように、現在の習近平政権下の中国は、アメリカの力に対してより強くなるまでの時間稼ぎと、その後の台湾への攻撃しか考えていないと、多くの政策立案者たちは言う。そして、その先にあるのは、何が何でもアメリカに代わって世界をリードする大国となることだと、タカ派は主張している。そして、習近平はこの野望を実現するために、巨大で技術的に進んだ中国経済と、資源に恵まれたロシアの国土を結びつけようとしている。

そうかもしれない。しかし、北京がプーティンをレトリック的に支持する一方で、モスクワのウクライナでの侵略行為に対して、軍事援助や多くの経済援助を行っていないことは注目に値する。中国とロシアのパートナーシップは、冷戦初期の中ソ間のパートナーシップのように、薄っぺらいものであることが証明されるかもしれない。一方、ジョー・バイデン政権は、中国、そしていつの日かプーティン政権後のロシアと共存の道を探るというリアリスト(現実)的アプローチへの真の努力よりも、世間体を気にしているようだが、これは深刻なリスクである。NATOはまたしても、ワシントンや他の西側諸国の首都でほとんど議論されることなく、物議を醸す役割を担っている。

NATOは「北大西洋」の脅威を想定した同盟であるにもかかわらず、昨年夏、ほとんど注目されることなく、その焦点を事実上、中国に対する新たな封じ込め政策へと拡大した。マドリードでの首脳会談で、同盟は初めて日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランドの首脳を招待し、NATOの新しい「戦略コンセプト(strategic concept)」は、北京の野望が西側の「利益、安全、価値」に挑戦するということで、中国を優先事項の1つに挙げている。

バイデンが新たな冷戦を望んでいないのであれば、習近平が望んでいると考えても不思議ではないだろう。しかし、習近平は新型コロナウイルス感染拡大の封じ込めと経済の低迷のために後手に回っており、外交的関与の新たな可能性が存在するかもしれない。レフラーは、「習近平は、自分自身や中国が、競合するイデオロギー体系をめぐるアメリカとの絶対的な存亡の争いに巻き込まれているとは考えていないと思う。習近平は、アメリカと中国の利益が相互に排他的であるとは考えていないようだ」と述べている。あるいは、コスティリオラによれば、ケナンが言うように、「鋭く対立する立場は、外交という長く、必ずしも忍耐強いプロセスにおける提示価格に過ぎない」ということになる。

一つだけ確かなことがある。真剣な外交を試みない限り、それが正しいかどうかは分からないということだ。ケナンが生きていたら、間違いなくこの言葉に同意するだろう。

※マイケル・ハーシュ:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。『資本攻撃:ワシントンの賢人たちがいかにしてアメリカの未来をウォール街に売り渡したか(Capital Offense: How Washington’s Wise Men Turned America’s Future Over to Wall Street)』『私たち自身との戦い:なぜアメリカはより良い世界を築くチャンスを無駄にしているのか(At War With Ourselves: Why America Is Squandering Its Chance to Build a Better World)』2冊の著作がある。ツイッターアカウント:@michaelphirsh

(貼り付け終わり)

(終わり)

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ビッグテック5社を解体せよ

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 今回はロシアのウラジミール・プーティン大統領やロシアのエリートたちが持っている歴史観と今回のロシアによるウクライナ侵攻について絡めて分析した論稿をご紹介する。もし今でも高校時代の世界史の教科書が取ってあるという方は少し読み返していただくと良いかもしれない。ただ、ウクライナの歴史について『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』で付け焼刃で勉強してみたが、教科書の記述は多少荒っぽいということが分かる。それは仕方がないことだ。資料集や歴史年表、地図があるとより理解しやすいと思う。

 ウクライナとロシアの間にある歴史観の違いを簡単過ぎるほど簡単にまとめると、ロシアからすれば「キエフ・ルーシの正統な後継国家はモスクワ大公国、そしてロシア帝国だ。そして、ウクライナはロシアの一部だ」ということになる。ウクライナとしてはこのような歴史認識など認められない。日本風な言い方に言えば、「お前らは分家じゃないか、それが全ルースの庇護者面をするな」ということになる。ウクライナの歴史について言えるのは、東西南北のあらゆる勢力から狙われる地域であること、生産力が高く気候が良い土地が丁度の場所にあるということで、ウクライナの歴史は非常に複雑な波瀾万丈な歴史となっている。もっと大きく言えばバルト海と黒海との間にある、現在のロシアとドイツ、ポーランドに囲まれた地域の歴史は波瀾万丈、合従連衡、裏切り合い、キリスト教と言ってもロシア正教とカトリック、後にはプロテスタントと色々な要素が複雑に絡み合っている。

 プーティンが「脱ナチス化」という言葉を使っているのは、ドイツに対する嫌がらせもあると私は考える。独ソ戦(ソ連とロシアでは「大祖国戦争」と呼称)が勃発しウクライナにもドイツ軍が侵攻してきた。ウクライナではドイツと結んでソ連から独立することを選んだ勢力と、ソ連とも戦うしドイツとも戦うという勢力が出現した。ドイツの敗退と共に前者は掃討され、後者も戦後しばらく抵抗を続けたが、期待した欧米からの支援もなく、抵抗は終わった。ウクライナの民族主義的な勢力がネオナチ化し、反ユダヤ的な言動を行ったり、犯罪行為に手を染めたりしたような人々で結成された「アゾフ大隊」と呼ばれる準軍事組織がウクライナ内務省の所属となり、ロシア系住民の弾圧や殺害に関与しているということは国連にも報告されている。ドイツはNATOの主要メンバーであり、ウクライナ支援の中心国であるが、「お前たちはネオナチメンバーにも支援するんだな、ナチス時代を忘れた訳ではあるまい」という論理構成がロシア側化すれば成り立つ。

 プーティンをはじめとするロシアのエリートたちが反西洋的な言辞を使い、「ロシアと西洋は違うのだ」という主張を行っていることに注目したい。ロシア帝国がヨーロッパの列強の仲間入り(近代化とも言い換えられる)を果たす過程でヨーロッパ諸国から学んだことを私たちは世界史の授業で習った。その点では日本ともよく似ている。しかし、それが良くないことであったという評価をプーティンはしているようだ。端的に言えば、「ロシア文明は西洋文明とは違うのだ」ということになる。ここで思い出されるのは、サミュエル・ハンティントンの『』だ。このタイトルは「文明間の衝突(原題ではCivilizationsと複数形になっているのだから)」と訳さねばならない。ロシア(の最高指導者層とインテリたち)が自分たちは西洋文明とは別個の文明なのだと自己規定しているとするならば、今回のロシアによるウクライナ侵攻は「文明間の衝突」という分析もでき、ロシア側からすれば「ロシア文明に属するウクライナを西洋が奪いに来たから膺懲する」ということになる。

 西洋近代化への「ブローバック(blowback)」ということも言えるだろう。それがロシアによってはじめられたということは興味深い。

(貼り付けはじめ)

プーティンの1000年戦争(Putin’s Thousand-Year War

-プーティンの反西洋憎悪の理由はロシアの歴史全体に遡り、これから長期にわたりその理由は私と共に存在し続けることになる。

マイケル・ハーシュ筆

2022年3月12日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/03/12/putins-thousand-year-war/

プーティンによるウクライナ侵攻がすぐに終わるかどうかは別として、確実に続くのは、アメリカをはじめとする西側諸国に対するロシア大統領プーティンが持つ変わらぬ憎悪と不信であり、そのためにいわれのない戦争を仕掛けるしかなかったと考えることだ。

それはプーティンだけのことではない。こうした考え方は、20年間プーティンを支えてきた多くのロシア人エリートが共有しているものだ。少なくとも、プーティンの侵攻が激しい抵抗に遭った最近までは、プーティン自身が独裁者になり、ロシアが最悪のソ連を思わせるような、ほぼ全体主義的な国家になったとしても、プーティンの国内人気を支えてきたのもこの考え方だった。ジョン・F・ケネディ元大統領の言葉を借りれば、45年に及ぶ冷戦に匹敵する「長い黄昏の戦い(long twilight struggle)」に、ワシントンや西側諸国が再びモスクワとの間で直面することはほぼ間違いないだろう。

ロシア大統領プーティンの西洋に対する根強い反感は、第二次世界大戦後に生まれた子供(a child of World War II)でソ連のスパイだった69歳のプーティンの個人史と、ロシアそのものの、少なくともプーティンが読んでいるロシアが持つ1000年の歴史が複雑に絡み合った物語である。プーティンと彼を支持する多くの右寄りのロシア政府高官、エリート、学者たちは、西側とその戦後の自由主義的価値体系に属したくないだけでなく、西側に対する大国として防波堤(great-power bulwark)となることがロシアの運命であると考えているのだ。

仮にプーティンが権力の座から追い落とされたとしても、彼の周囲にいる将軍や安全保障担当の政府高官たちは、プーティンと同様に彼の侵略に加担している。ロシアはソ連時代と同じように経済的にほぼ孤立している。

実際、プーティンは、人々が考えているよりもずっと前から、この瞬間のために準備をしていたのかもしれない。2014年にロシアの指導者がクリミアを併合した後、クレムリンの長年の思想家であるウラジスラフ・スルコフ(Vladislav Surkov)は、ロシアによるクリミア併合によって「ロシアの西洋への壮大な旅の終わり、つまり、西洋文明の一部になることを目指して繰り返された実りのない試行の最終的な停止」を示すだろうと書いている。スルコフは、ロシアは少なくとも今後100年間は地政学的な孤独(geopolitical solitude)の中に存在することになるだろうと予言した。

ストーンヒル大学の政治学者で、ロシアに関する複数の著書を持つアンナ・オハニャンは「プーティンはもう後戻りできない」と言う。他のロシア専門家同様、オハニャンもプーティンの20年にわたる権力の中で、彼は国際システムの制度の中でロシアの影響力を行使する方法を模索しながら、上海協力機構(Shanghai Cooperation Organization)のような新しい対抗的な制度を構築しようとしていると考えていた。今、その構想はほとんど灰燼に帰している。オハニャンは「領土に関する規範に挑戦することで、プーティンはこれまで築いてきた道のりの見通しを捨てている」と語った。

複数のジョー・バイデン政権幹部は、新たな長期的闘争の意味合いについて把握しつつある。そのため、春に予定されていた新しい国家安全保障戦略の発表が遅れている。バイデン政権はインド太平洋重視の姿勢を維持する見込みだが、複数の関係者によれば、プーティンのウクライナ攻撃は、ジョー・バイデン米大統領の主要目標の一つであったNATOと西側同盟の活性化、特にこれまで防衛上の主導的役割を果たすことに消極的だったドイツなどヨーロッパ連合の主要国の新たな軍事化をより強力に推進させることにつながっているということだ。

ウクライナはプーティンの反西洋的態度の試金石(touchstone)となったが、その理由の大部分は、ロシアの指導者プーティンと支持者たちが、歴史的な兄弟国であるウクライナを、西側から与えられる一連の屈辱の最終レッドラインと見なしたからである。プーティンは演説の中で、ウクライナの西側への仲間入りを西側の「反ロシアプロジェクト」と繰り返し呼んだ。冷戦終結から30年、1922年のソヴィエト連邦成立から100年という長期間にわたって、このような屈辱を受け続けてきた。自由(liberty)、民主政治体制(democracy)、人権(human rights)を生み出した3世紀以上前のヨーロッパ啓蒙主義(European Enlightenment)にまで遡ることができる。プーティンのようなロシア民族主義者にとって、これらの発展はロシアの文明としての個性を失わせるようになったと考えられるものだ。

プーティン自身が語っているところによると、彼は自分自身をソ連の後継者ではなく、ロシア文明とモスクワを中心とするユーラシア帝国の擁護者と考えている。そのルーツは、より古いウラジーミル、つまり聖ウラジーミル(St. Vladimir,)、980年から1015年まで在位したキエフ大公(Grand Prince of Kyiv)に遡る。聖ウラジーミルは、ロシア人が最初の帝国と考える、キエフ・ルーシ(Kievan Rus)と呼ばれるスラヴ国家の支配者だった。キエフ・ルーシは当然のことだが、現在のウクライナの首都であるキエフに首府を置いていた。988年に聖ウラジーミルがキリスト教に改宗したことから、ローマ帝国とオスマントルコに降伏したビザンチン帝国を継承する「第三のローマ(third Rome)」がロシアであるという考え方が生まれた。プーティンをはじめとする多くのロシア人たちがキエフ・ルーシを「ロシア文明の揺籃(the cradle of Russian civilization)」、キエフを「ロシア諸都市の母(the mother of Russian cities)」と呼ぶのはそのためだ。

このような歴史は全て、ウクライナはロシアから離れた独立国ではなく、また決して独立国にはなり得ないし、「純粋な国家としての伝統をもつことはなかった(never had a tradition of genuine statehood)」というプーティンの妄想を理解するための鍵になる。プーティンは、侵攻の3日前の2月21日の演説、2021年7月の「ロシア人とウクライナ人の歴史的統一について」という6800語の論稿の中で、こうした考えを明言した。この論稿の中で、プーティンは10世紀以上前に遡って、「ロシア人とウクライナ人は一つの民族、つまり一つの全体である」と確信している理由を説明している。プーティンは、ロシア人とウクライナ人、そしてベラルーシ人は全て、「ヨーロッパで最大の国家であった古代ルーシ(Ancient Rus)の子孫である」ことを理解することが重要であると主張した。プーティンは、「聖ウラジーミルが行った精神的な選択は、今日でも私たちの親和性(our affinity)に大きな影響を与えている」と書いている。

20年以上権力の座に居座っているプーティンについては、狡猾で抑制的な戦術家だと考えられてきた。それなのに、ウクライナ侵攻というキャリア最大の誤算(miscalculation)を犯したのは、こうした過去の歴史への執着(this obsession with long-ago history)が理由だと考える学者もいる。この無謀な行動によって、プーティンはウクライナ人とヨーロッパ人、そして世界中の人々を敵に回してしまった。国防大学の教授で、新刊『ロング・テレグラム2.0:ネオ・ケナン主義の対ロシアアプローチ(The Long Telegram 2.0: A Neo-Kennanite Approach to Russia)』の著者であるピーター・エルツォフは、「「ウクライナ東部のロシア語を話す人々の多くも、自分たちをウクライナ人と見なしていること、つまり過去30年の間にウクライナ人が自分たちの国を形成したことをプーティンは理解していなかった。プーティンは、彼らのアイデンティティが変化したことに気づいていなかった」と述べた。エルツォフは続けて次のように語った。「プーティンはまた、彼自身がヨーロッパを分割するために行っていた全ての進歩を挫折させた。中立だったフィンランドとスウェーデンさえもNATOへの加盟を口にするようになった。彼は彼自身が望んでいたことの100%反対の

プーティンが歴史に焦点を置いているのは、ロシアは西欧と共通点の少ない別個の文明であるという彼の深い信念を伝える意味もあると考えられる。これは「ユーラシア主義(Eurasianism)」の重要な要素である。ハーヴァード大学のロシア史研究者ケリー・オニールは「このユーラシア主義は100年以上前からあるロシア帝国のイデオロギーだが、今日ではプーティンと彼の支持者が西洋の“実利主義(philistinism)”とその民主政治体制の腐敗とみなすものに向けられている」と述べている。プーティンが現代ロシアを世界経済に完全に統合しようとしないのは、石油やガスを大量に売りつける以上に、ロシアとその支配地域は「この美しい帝国全体に属する別個の経済である(distinct economies that belong to this beautiful imperial whole)」というユーラシア主義の信念に基づいている」とオニールは示唆している。オニールは「これは防衛的なメカニズムだ。統合すれば、より脆弱になってしまう。私たちは要塞ロシアだ。それ以上は必要ではないのだ」と述べた。

この姿勢はロシアの歴史にも深く根ざしており、特にプーティンら保守的なロシア人が啓蒙思想に堕落したと見なしている、西ヨーロッパの自由主義的なキリスト教に対して、ロシア正教(Orthodox Christianity)が優れていると考えるのは、ロシアの歴史に関する事実だ。19世紀初頭、フランス革命の啓蒙主義的信条「自由、平等、友愛(Liberté, Égalité, Fraternité [Freedom, Equality, Fraternity])」に対するロシアの答えは「正教、独裁、民族(Orthodoxy, Autocracy, and Nationality)」であり、ニコライ1世の公教育大臣だったセルゲイ・ウヴァーロフは、これをロシア帝国の概念的基盤として定式化した。この三信条はプーティンの演説や著作には出てこない。彼はいまだにロシアが民主政治体制国家であるかのように装うが、プーティンに影響を与えたとされるアレクサンドル・ドゥーギン、レフ・グミレフ、イヴァン・イリイン、コンスタンティン・レオンティエフ、セルゲイ・ペトロヴィッチ・トラベツコイら極右思想家たちは200年前から三信条を引用して使ってきたのである。

オニールは「ユーラシア主義が帝国的な思想であるのは、民族全体の統一とその多様性を調和させる方法を提供しているからだ。帝国を持たなければ、それを実現するのは難しい」と指摘している。

前述のエルツォフは「ウヴァーロフの公式は、ロシアが危機の時代にいつも独裁的な帝国を復活させるように見える理由を説明している。1917年のボルシェヴィキ革命後にそうだったし、ソ連崩壊後の現在もそうだ」と述べた。プーティンのユーラシア主義的な目標も、独裁と帝国権力によってのみ生きるか死ぬか決まる、とエルツォフや他の学者たちは主張している。オニールは「ユーラシア主義が帝国的な思想であるのは、国民全体の統一とその多様性を調和させる方法を提供しているからだ。帝国を持たなければ、それを実現するのは難しい」と述べている。

プーティンにとって、ウクライナを含むユーラシア帝国の再興は指導者としての宿命(destiny)なのである。ロシアはヨーロッパとアジアにまたがる広大な国土を持ち、ヨーロッパ的なのかアジア的なのか決めかねている文明だ。モンゴルが240年間支配してタタール(Tatar)の子孫を何百万人も残したことが、そのジレンマをさらに複雑にしている。また、ロシアは1000年経っても国境線のあり方に納得をしていないのだ。

アメリカの上級外交官出身で現在は外交問題評議会のロシア専門家であるトーマス・グラハムは「ヨーロッパでは、国境は川や山脈で決まっているが、ロシアはそういう考え方をしていない。モスクワの侵略に対する恐怖が主な原因となって国境は時代とともに変動してきた。歴史上、ロシアの国民国家は存在しなかったと言われてきた。今のロシアの国境は、1721年、帝国が成立したときのロシアの国境とほぼ同じだ。1991年のソ連崩壊によって、200年から300年にわたる地政学的進歩(geopolitical advances)が台無しになったというのが、彼らの考えなのだ」。

プーティンは大統領就任以来、その流れをできるだけ逆流させることを最大の目標としてきた。あるいはクレムリンの思想家スルコフが2019年に書いたように、「ソ連のレヴェルからロシア連邦のレヴェルにまで崩壊したロシアは、崩壊を止め、回復し始め、民族の共通性を結合し増大させる、大きな土地としての自然かつ唯一可能な状態に戻り始めた」のである。その結果、スルコフは、ロシアはすぐに過去の栄光と地政学的闘争のトップランクに戻るだろう、と結論づけた。

グラハムをはじめとするロシア専門家たちは、欧米の論客がよく描くように、プーティンを単にソ連崩壊と冷戦後のNATOの侵攻に怒った元KGBの幹部と単純に見るのは間違いだと指摘している。プーティン自身、2月21日の演説で、ソ連の遺産を否定し、ウラジミール・レーニンやヨシフ・スターリンがウクライナに部分的自治権を与えたことを過ちとして痛烈に批判したことで、このことが明らかになったのだ。それどころか、プーティンをはじめとするロシアのナショナリストたちは、マルクス・レーニン主義を西側からの残念な輸入品(regrettable Western import)だったと考えている。

プーティンはむしろメシア志向のロシア民族主義者でユーラシア主義者であり、キエフ・ルーシにまで遡る歴史を常に持ち出している。専門家たちはこの歴史観がウクライナをロシアの勢力圏の一部としなければならないという彼の考えを最もよく説明していると指摘している。2021年7月の論稿で、プーティンは、独立した民主的なウクライナ国家の形成は、「その結果、私たちに対する大量破壊兵器の使用に匹敵する(its consequences to the use of weapons of mass destruction against us)」とまで示唆したのだ。

プーティンは、エリツィン前大統領の下で行われたソヴィエト連邦崩壊後のロシアの短期間の民主化実験を自分の権力構造に変質させることで示したように、戦後の西側の自由主義的民主政体資本主義の秩序に共感を示すこともなかった。むしろ、冷戦後のロシアは、国境と権力の再設計(redesigning)が主なテーマであった。プーティンは、ナポレオン・ボナパルトやアドルフ・ヒトラーなど、最近の数世紀の独裁者たちによって受け入れられてきた古い戦略概念、すなわち自国の国境を守るための「戦略的深度(strategic depth)」または緩衝地帯(buffer zones)の必要性に主に駆り立てられてきた。第二次世界大戦を戦った父を持つプーティン(プーティンは毎年、大祖国戦争を記念するナショナルパレードで父の写真を持っている)、そして他の多くのロシア人にとって、人生を決定づける出来事は、ヒトラーの侵略と数千万人の同胞の死というトラウマであった。それは、当時も今も、100年前のナポレオンのロシアに対する悲惨な戦争になぞらえることができる。

グラハムは次のように述べた。「ロシアは繰り返し侵略されてきた。そのような規模の大惨事に直面したことがないアメリカの私たちにとっては、理解しがたいことだ。何世紀も前に遡ることができる感覚だ。生き残るためには、戦略的な深さが必要だ。そのためには、物理的というよりも地政学的な障壁として、できるだけ中心地から遠く離れたところに国境を押し出す必要がある。物理的というより地政学的な障壁ということだ。ロシアに抵抗する何かに出くわすまで押しまくるだけのことだ」。

プーティンが侵略を正当化するためにウクライナを「脱ナチス化(de-Nazify)」するという奇妙な公約を掲げているが、ウクライナのヴォロディミール・ゼレンスキー大統領はユダヤ人なので特に奇妙だ。相当数のウクライナ人がナチスに加わった第二次世界大戦をまだ戦っているとプーティンが思っているかもしれないと考えればもっと理解できるだろう。ウクライナの国民的英雄ステパン・バンデラ[Stepan Bandera](首都キエフをはじめとする多くの通りにその名が刻まれ、国中にその銅像がある)は、ナチスと同盟しユダヤ人虐殺を監督した極右の民族主義者であった。プーティンは演説の中で、ナチスとの連合軍による戦いを、ロシアの勝利として再表現することが多い。ジョージ・ワシントン大学のロシア研究者マレーネ・ラルーユは「彼はおそらく、自分が戦争を再現し、再びナチズムと戦っていると純粋に信じているのだろう」と述べた。

2008年のグルジア侵攻をスタートにして、プーティンが権力を強化し、旧ソ連圏の一部を取り戻そうとしているのは、エルツォフが「ワイマール症候群(Weimar syndrome)」と呼ぶ、冷戦でソ連が敗北した後の敗北感や屈辱感の燃え上がるような感情(a burning sense of defeat and humiliation after Soviet Russia’s defeat in the Cold War)の結果でもあるのだろう。プーティンがこれまで人気を博してきた理由の一つは、一般ロシア人の多数がプーティンの持つ国家的不公平感(national injustice)を共有しているからだとエルツォフは指摘する。第一次世界大戦後のドイツで、ヴェルサイユ条約やワイマール共和国の弱体化・混乱に対する国民の怒りが右翼的な反動を生み、最終的にヒトラーの台頭を招いたことと似ている。

もちろん、全てのロシア人がこのような反西欧的な考えをもっているわけではない(数百年前に遡ったとしても)。ロシアの歴史上の偉人、特にピョートル大帝(Peter the Great)とエカテリーナ大帝(Catherine the Great)は、しばしば西洋を受け入れ、ロシアのヨーロッパ的なアイデンティティを確立しようとした。1682年から1725年までロシアを統治したピョートル大帝は西洋に魅了され、ボヤール(領主)[boyars, or lords]に子供たちをヨーロッパで教育するよう命じ、髭のないヨーロッパ人のように見えるようにと「髭税(beard tax)」を課したほどである。カトリーヌは啓蒙思想家のドゥニ・ディドロ(Denis Diderot)と文通し、フランスの作家ヴォルテール(Voltaire)を自分にとっての英雄と呼んだ。統治の初めの頃には議会の設立と農奴(serfs)の解放を目指した。ロシアの王侯貴族はヨーロッパ人との婚姻に熱心で、エカテリーナ自身もプロイセン出身であった。

しかし、ピョートルもエカテリーナも征服者でもあった。こうした改革的な統合の努力は、ロシアの近代化を助け、レオ・トルストイ(Leo Tolstoy)やアントン・チェーホフ(Anton Chekhov)の作品に登場するフランス語を話すロシア貴族を生み出した。しかし、保守的なロシアの深い恐怖心によって、改革はほとんど常にぼんやりとしたものにとどまった。今日、ロシアのナショナリストたちは、ピョートル大帝が行った西洋の改革努力を、扇動的な「第五列」(seditious “fifth column”)だと揶揄している。プーティン政権に反対するリベラル派で、2015年にクレムリン近くの橋の上で殺害されたボリス・ネムツォフでさえ、1993年頃にはロシアは立憲君主制(constitutional monarchy)から利益を得ることができると示唆したことがある。

多くの西洋人にはほとんど理解されていないが、彼らが尊敬するロシアの文学者、フョードル・ドストエフスキー(Fyodor Dostoevsky)やアレクサンドル・ソルジェニーツィン(Aleksandr Solzhenitsyn)もまた、絶対的独裁者(absolute autocrat)のもとでの「より巨大なロシア(greater Russia)」という考えの信奉者であった。ソ連の収容所の惨状を暴露した著作で知られるノーベル賞作家のソルジェニーツィンは、後にプーティンお気に入りの知識人の一人となった。2008年に亡くなる前、ソルジェニーツィンはある論稿に次のように書いている。「9世紀頃からウクライナ人が存在し、ロシア語以外の独自の言語を持っているという話は、すべて最近になって作り出された虚偽(invented falsehood)である」。1881年に亡くなる直前、ドストエフスキーは「民衆にとって皇帝は自分たち自身の化身(incarnation)であり、彼らの全思想、希望、信念である」と書いた。

ロシア専門家の多くにとって、プーティンはロシアの最新の皇帝に過ぎず、欧米の戦略家たちは彼を止める方法を探しているのだと主張している。結局のところ、プーティンは強さよりも弱さから行動していると理解することが答えになるのかもしれない。つまり、プーティンはウクライナをはじめとする旧ロシア圏の民主的自決(democratic self-determination)の虎に乗っているのであり、その虎は西側諸国への加盟を望んでいるが、彼は虎から降りる術を知らないのだろう。エルツォフは、ロシアは何世紀にもわたり、国境を越えて多くの民族を支配しようとした結果、真の自由主義的民主政治体制国家として長くは存続できないようになっているのだと主張する。

エルツォフは「もし西側諸国とその民主主義的価値観を受け入れたら、ロシアは崩壊してしまうかもしれない」と述べた。

(貼り付け終わり)

(終わり)


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