古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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 古村治彦です。※2025年3月25日に最新刊『トランプの電撃作戦』(秀和システム)が発売になります。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
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『トランプの電撃作戦』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに行きます。

 ドナルド・トランプの登場は、アメリカ国民の「心性(mentalities、フランス語ではMentalité)」、「時代精神spirit of the age、ドイツ語ではZeitgeist」を象徴するものだ。アメリカ国民は自国アメリカの設立原理である民主政治体制と既存の政治、政治家たちに対する不満と不信を募らせている。アメリカ人の多くは、既存の政治家たち、エスタブリッシュメントたちが民主政治体制を歪めている、国民の希望や考えを無視していると考えるようになっている。これはもう確信に近い。現在のアメリカの民主政治体制は変革されるか、消え去ってしまうかということになる。
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 この点で、アメリカは2000年前のローマに擬せられる。そして、ドナルド・トランプは、ローマ共和制の終焉を導いたユリウス・カエサルに擬せられることになる。共和制のローマの最終盤の状況と現在のアメリカはよく似ている。人々は既存のエスタブリッシュメントの政治家たちを信頼していない。そして、彼らが選出された既存の民主政治体制を信頼していない。そして、力強い指導者、ストロングマンの出現を求めている。民主政治体制が堅固に、永続的に続くということはない。世界的な潮流で見れば、民主政体の数が増減する。サミュエル・ハンティントンの『第三の波:20世紀後半の民主化(The Third Wave: Democratization in the Late Twentieth Century)』は、民主化(democratization、非民主的な制度から民主的な制度への移行)の波と反対の波(reverse wave)が繰り返すと主張している。ソ連の崩壊後の世界は、民主政治体制国家が増大したことで「民主化の第三の波」ということになったが、民主政治体制への不満や不信が高まることで、「反対の波」が起きることが考えられる。そして、それが、西洋先進諸国で起きるということが考えられる。

 以下の論稿は2020年に書かれたものだが、アメリカの現状をよく表している。ポピュリズムという言葉は日本ではマイナスの要素を含んだ言葉として使われるが、アメリカでは、「一般の人々の、ワシントン政治に対する怒りが沸き起こり、自分たちの真の代表をワシントンに送り込む」という運動を示す言葉だ。トランプはポピュリスト政治家である。トランプは多くのアメリカ国民の代表である。彼らはアメリカの既存の民主政治体制をスクラップ・アンド・ビルドするために、トランプを大統領に選んだ。トランプの登場は、洒落や冗談ではない。アメリカの心性、時代精神を象徴するものであり、大きな歴史の流れに位置付けられる。それは、アメリカの衰退と民主政治体制の崩壊だ。事態はここまで来ている。

(貼り付けはじめ)

アメリカはローマの崩壊の足跡を不気味にたどりつつある。手遅れになる前に方向転換できるだろうか?(America Is Eerily Retracing Rome’s Steps to a Fall. Will It Turn Around Before It’s Too Late?

-2000年前、有名な共和国には危険なポピュリストを拒否するチャンスがあった。それは失敗し、それからどうなかったかは歴史が証明している。

ティム・エリオット筆

By Tim Elliott

11/03/2020 02:30 PM EST

https://www.politico.com/news/magazine/2020/11/03/donald-trump-julius-caesar-433956

今日、アメリカ人は根本的に異なる2つの道から1つを選択することになる。それは、国自体の価値観を変えるポピュリストのイデオロギー(a populist ideology transforming the values of the country itself)とそれを拒絶しようとする試み(an attempt to reject it)だ。

しかしながら、この時代が前例のないことに思えるかもしれない。それは民主政治体制そのものと同じくらい古い決断だ。2000年以上前、アメリカのモデルとなった共和国も同じ選択に直面した(the Republic on which America was modeled faced the same choice)。ドナルド・トランプの時代のジュリアス・シーザー(Julius Caesar)は、ローマを想像上の古代の栄光に戻す(to return Rome to an imagined ancient glory)と約束したが、代わりに自ら王座を築き、民主政治体制の規範を強引に解体し、彼の権力の抑制を無視し、政治的議論を衰えさせた。ローマはシーザーに従うことを選び、有名な共和国を破滅への滑走路に乗せた(putting the famed Republic on a glide path to destruction)。

トランプ自身は間違いなくアメリカのシーザーとしてどんな特徴づけも喜ぶだろうが、その比較は彼が望む以上に非難に値する。

トランプと同様に、ジュリアス・シーザーはローマの最高職に就いたとき、既に有名人であり、支配階級の多くから軽蔑されていた。指導者としての彼の適格性については、常に疑問が投げかけられた。単に型破りなだけでなく、彼はまったく新しい一連の規則に従って行動し、都合が良ければいつでも手順を覆し、法律を曲げた。シーザーは個人的な欠点に関して頻繁に嘲笑された。数々の衝撃的なセックススキャンダルに巻き込まれた彼は、若い頃にニコメデス4世と不倫関係にあったという噂を振り払うことはなく、「ビテュニアの女王(the Queen of Bithynia)」という嘲笑的なあだ名がつけられた。

シーザーもまた、自分のイメージを宣伝するために派手な祭りや剣闘士の試合を催そうとしたために、多額の借金を抱えていた。外見に非常にこだわっていた彼は、贅沢な富の誇示を行い、できるだけ多くの金を誇示する傾向を示し、目が飛び出るほどの額の借金を負うことでそれを実現した。反対派は、薄毛を隠すために樫の冠をかぶって禿げ頭を隠そうとする彼のやり方を嘲笑した。

しかし、批判者たちにとって最も不快だったのは、国家の構造を崩壊させる恐れのある彼のメッセージの爆発的な形だった。トランプのように、シーザーは国民に直接語りかけ、伝統的なエリートを非難し、外国人が仕事を奪い、暴力を奨励していることに不満を述べた。ローマ人は、自分たちの共和国が因習破壊的なポピュリズムの脅威(the threat of iconoclastic populism)に耐えられると信じていた。自分たちの規範は神聖で、自分たちの制度は倒されないと信じていた。しかし、ユリウス・カエサルの執政官(the consulship)就任により、この幻想は打ち砕かれた。トランプとトランプ主義(Trumpism)が現代のアメリカ政治における容認範囲を根本的に再編し、権威主義(authoritarianism)の侵食に耐える制度の能力に亀裂が生じたのと同じだ。

共和国が下した選択により、最終的に共和国はカエサルの執政官の座を生き延びることはできなかった。むしろ、彼の在任期間中、国家は致命的に分裂し、残忍な街頭暴力(brutal street violence)によって麻痺し、内戦(civil war)へと進みつつあった。この内戦は、カエサル自身が最終的に内部の敵と戦い、今度は終身で世界において最も権力のある人物となるために指揮することになる。彼が最終的に解任されたとき、それは投票箱での法的拒否ではなく、永久独裁者の残忍な暗殺であり、被害は既に出ていた。再び内戦に突入した後、カエサルの後継者が唯一の生存者となって絶対君主制(an absolute monarchy)を確立し、共和国の最後の痕跡(the last vestiges of the Republic)は消滅した。

共和制のローマ(the Roman Republic)は、トガを着てヤマネを食べる寡頭政治家たち(toga-wearing, dormouse-eating oligarchs)が元老院(the Senate house)という閉鎖的な場で権力を争うという一般的なイメージから多くの人が想像するよりもはるかに民主的だった。元老院が通常の場合は議題を決めたが、「人民(the People)」、つまり男性の自由な市民権保持者たち(the male, free, citizenry)が、ほとんど全ての法律について自ら投票し、戦争を宣言し、政府の支出を決定し、行政官たち(magistrates)を選出した。

共和制のローマの民主政治体制の中心には、世論(public opinion)とイデオロギー(ideology)の戦場、コンティオ(the contio)、つまりローマの最も神聖なモニュメントの影にあるフォーラムで開かれる公開集会(the public meeting held in the forum in the shadow of Rome’s most sacred monuments)があった。

この騒々しい直接民主政体の機関は共和制の中心だった。立法と公的情報(legislation and public information)が国民に提示され、議論される公式の手段として、それは気の弱い者のための場所ではなかった。コンティオにおける叫び声があまりに大きくて空の鳥を​​吹き飛ばしたという話があり、暴動やリンチの危険さえ常に存在した。しかし、何世紀にもわたって、コンティオは、国民の主権と国家の権威のバランスを取る(balanced the sovereignty of the people with the authority of the state)、モス・マイオルム(mos maiorum)、つまり「祖先のやり方(ways of the ancestors)」として知られる一連の規範によって制約されていた。

共和制の行政において強力で不可欠なものであったにもかかわらず、コンティオの権力は政府の他の部門の権力によって制限されていた。コンティオは、上院が世論を測定し、同意とコンセンサス(consent and consensus.)を構築するための手段として、上院と連携して機能した。最も重要なことは、会議を司る行政官たちが、認可された種類の政治的コミュニケイションからあまり逸脱することはめったになかったことだ。法律、慣習、憲法上の正当性(laws, conventions and a sense of constitutional propriety)という感覚に従うことは、永遠の国家自体への信仰(a faith in the eternal state itself)、つまりローマの「原文主義(originalism)」の一種を表していた。

しかし、この憲法への信仰、つまり政治は最終的には常に「正しい方法(the right way)」で行われるという主張、そしてシステムへの脅威を是正するメカニズムが常に存在するという主張は、国家内の深刻な構造的脆弱性(the deep structural vulnerabilities within the state)を覆い隠す強力な幻想だった。

呪いが解けたのは、ユリウス・カエサルが執政官として初めて演壇に立ったときだった。カエサルは、コンティオを激しい多面的な議論の場(an arena of fierce, multisided debate)から集会(a rally)へと変え、エリート層の腐敗(the corruption of the elites)に対する抵抗を訴えて信者の群衆に語りかけた。これは「ドレイン・ザ・スワンプ(drain the swamp)」というメッセージで、不満を抱く平民たち(disaffected plebeians)の間で大きな支持を育んだ。

カエサルは通常の権力経路を迂回した。通常、執政官は、国家のもう一つの大きな機関である元老院と密接に連携していたが、彼の急進的な法案を批准しない反対派の抵抗に遭遇すると、カエサルはあっさりと立ち去った。彼はその代わりに、フォーラムで自分のイデオロギー的なメッセージを直接人々に伝えることを選んだ。このようにして、カエサルは、何世紀にもわたって施行されてきた執政官の権力に対する抑制と均衡(the checks and balances)を回避し、同時に人々からの支持を固めた。彼は、元老院の承認なしに法案の採決を行うと発表した。これは、厳密に言えば違法な政治的動きだったが、民意として正当化された(one justified as the Will of the People)。

この「ツイッター民主主義(Twitter democracy)」の初期形態は、過激で力強いものだったに違いない。しかし、それは危険でもあった。真の討論や議論が消えるにつれ、市民団体は対立するイデオロギー陣営にますます過激化していった。プルタルコスが語るように、カエサルの著名な反対者たちは、保護なしで公の場に出るのを恐れるようになり、政治的暴力は避けられなくなっていた。

転機(tipping point)は重要な投票の前夜に訪れた。カエサルが画期的な土地改革法案(land reform legislation)を可決するための集会を開いていたとき、その年のカエサルの共同執政官マルクス・ビブラスを含む数人の著名な行政官たちが、法的拒否権を行使するために投票所に到着した。突然、カエサルの支持者が攻撃を仕掛けた。考えられないことだが、人民護民官(Tribunes of the People)2人 (神聖法によりその身体は神聖視されていた) とビブラスが襲撃され、攻撃中にビブラスのファスケス (fasces、国家権力の象徴[the symbolic totem of state authority]) が折られ、更に、文字通りの負傷に加え、最もひどい侮辱として、バケツの排泄物が彼の上に投げつけられた。傷つき屈辱を受けた行政官たちは元老院に退き、法律は反対なく可決された。

カエサルは、敵対者と政治的に関わっても何も得るものはないと宣言し、忠実な支持者に直接語りかけたことで、ローマを一世代にわたって蝕む内紛の戦線を引いた政治的軍拡競争(a political arms race)に乗り出した。同じことが今日のアメリカでも起こっている。トランプがソーシャルメディア上でコミュニケイションを取るとき、議論はなく、合意や協力を求めることもなく、単に「腐敗したエリート(corrupt elite)」を攻撃し、トランプ主義というブランドを宣伝するツイートが次々と投稿されるだけだ。今年の重要な選挙が近づくにつれて、トランプのレトリックはより扇動的になり、敵対者を腐敗または悪意(corrupt or malign)のあるものとして描き、Qアノンのような陰謀論を煽り、アメリカの政治を善と悪の戦い(a war between good and evil)として描いている。ブラック・ライヴズ・マターに対する自警行為(the vigilantism)からミシガン州知事グレッチェン・ホイットマーの誘拐計画まで、それに伴う暴力の増加は憂慮すべきものだ。

同時に、アメリカはローマ同様、権威主義(authoritarianism)の受容へと大きくシフトしつつある。襲撃を受けた後、元老院に戻ったビブラスは、明らかに違法な行為についてカエサルを糾弾しようとした。フォーラムの混乱にもかかわらず、拒否権(veto)はまだ宣言されていたとビブラスは抗議した。カエサルを否認する機会があったにもかかわらず、決定的な瞬間に彼は無罪となった。カエサルは、恩恵と物質的利益(favors and the promise of material gain)の約束を通じて、国家機構の中に支持者たちを潜り込ませていた。彼らは、カエサルに代わって妨害、策略、誤報を行うことができ、法の支配を守ることよりも権力に関心を持つ弁護者たちだった。カエサルに対する支持が強かったため、彼を解任すれば武装した民衆によるクーデター(an armed, popular coup)の可能性があった。カエサルは、前例のない3つの属州(the provinces)の知事職、軍隊、訴追免除という保証と莫大な個人的利益だけを手にして執行官を退任した。今日、カエサルとローマ元老院の場合と同様に、共和党は4年前の選挙勝利後にトランプへの反対から全面的な支持へと方向転換し、大統領に対抗することを全く望まない機関へと変貌を遂げた。

同時に、トランプとカエサルの反対派は両者の魅力をひどく誤解している。トランプと同様に、カエサルのイメージは反対派が常に彼の没落の原因になると考えていたものに染み付いていた。それらは、彼の自慢話(braggadocio)、政治上の反対者たちに対する敵意(his hostility toward political opponents)、金銭的、政治的、性的不正行為の履歴(a history of financial, political and sexual irregularities)だ。しかし、彼の振る舞いがとんでもないほど、彼の信奉者はより熱狂的になった(the more outrageously he behaved, the more devoted his followers became)。カエサルとトランプの時代の政治家たちは、そのイメージを根底にあるメッセージの一部だと理解できなかった。彼らは自分たちの利益のために国家の慣習(the conventions)を粉砕するという綱領(a platform)を掲げて改革運動を行っていたが、その慣習は彼らの熱烈な支持者にとってはほとんど意味がなかった。

トランプの反対派もまた、しばしば、カエサルの反対派と同じような反応を示してきた。最初は彼の「大統領らしからぬ(unpresidential)」イメージに驚愕し、一方で彼のメッセージの力に全く対処できず、続いてトランプ流の、カエサル流の「私たち対彼ら(us vs. them)」のコミュニケイションを自ら採用する傾向が続いた。最初の大統領選討論会ではこの変化が裏付けられ、バイデンはトランプの絶え間ない攻撃に対し、痛烈な個人的反論で応じた。多くの民主党員は和解(reconciliation)による「正常(normalcy)」への回帰を主張しているのではなく、むしろバイデンが勝利した場合の清算(a reckoning)、つまり、最高裁判所の拡大と増員、州としての選挙権の拡大、トランプ政権の確信確保に向けて準備を進めている。

これらの類似点は、今日のアメリカにとって警告となる。2000年前、多くのローマのエスタブリッシュメントたちは、カエサルが国家の政治文化と制度に与えている損害を誤解しており、神経質な自己満足感(a nervously asserted sense of complacency)が一部の界隈で続いていた。史上最も有名な弁論家キケロは、この自己満足、つまり「一人の悪い執政官」の損害はいつでも取り消せるという信念(the belief that the damage of “one bad consul” could always be undone)を非難した。ローマでは、それはまったく当てはまらなかった。カエサルは、その職を正当とされ、勇気づけられ、不在の間も共和制ローマの政治情勢において常に存在感のある勢力として公職の座から去った。カエサルが属州へ去った時、既に権威主義的ポピュリズムの腐敗(the rot of authoritarian populism)が始まっていた。カエサル派のイデオロギーを掲げる新しい指導者たちが権力を争うようになると、ローマはすぐに市民暴動(civic violence)に陥った。国家内の合意という考え(the idea of consensus within the state)に基づいて政治哲学を構築したキケロでさえ、社会が「2つに分断されている(divided in two)」と語り始めた。エスタブリッシュメント側は、カエサルの勢力を抑制できず、一般の支持者をカエサルの支持に駆り立てた、深刻な社会的、構造的不平等(the deep social and structural inequalities)に対処できなかったので、コンティオでカエサルが唱えた部族的レトリック(the tribal rhetoric)が破壊的で蔓延する権威主義的イデオロギー(authoritarian ideology)に変換されることを確実にした。

暴力が今や正当な政治的表現の形態となったため、カエサルがローマに戻ったとき、彼は軍隊を率いていた。彼が作り出したストロングマンによる強権的な政治の環境(the environment of strongman politics)は、内戦と暴力を政治的変革の唯一の有効な手段とし、最終的に彼自身の運命を決定づけた。彼自身が「終身独裁官(Dictator for Life)」に任命された後、彼を解任する正当な政治的手段はもはや存在しなかった。その結果は、よく知られているように、元老院自体での血みどろの暴君殺害(a bloody tyrannicide)が起きた。しかし、彼が死んでも、ローマの政治文化が強者の支配へと変貌したことは覆すことができず、新たな候補者が現れてまたもや残忍な内戦が起こり、最終的に共和制は完全に消滅した。

紀元前59年のローマ人は、自分たちが現在「後期ローマ共和制(Late Roman Republic)」として知られている時代に生きていることに気づいていなかった。未来の歴史家が「後期アメリカ共和国(Late American Republic)」と呼ぶ時代でも同じことが言えるだろう。その時代を回避するには、過去の教訓を学ばなければならない。ローマの例は、民主政治体制が機能するためには議論する能力が必要であることを教えてくれる。ソーシャルメディアによる支配と議論する能力の崩壊により、各メッセージがそれぞれのバブルに合わせて調整され、同じ意見が真の信者の間で繰り返し語られるようになると、根深い相互が敵対する諸国家が生まれるだけだ。

ローマ人が発見したように、アメリカの政治構造は多くの人が考えていたほど強固ではない。民主政体の合意の原則(the conditions for enabling real debate based on democratic principles of consensus)に基づく真の議論を可能にする条件は、慣習(conventions)だけで支えるのではなく、システム自体に組み込まれる、または書き込まれる必要がある。今日、分裂した政治環境を修正するためのいくつかの措置が講じられている。ソーシャルメディア企業による直接的な誤情報に対処するための象徴的な取り組み、前回の大統領討論会での待望の「ミュートボタン(mute-button)」の追加などだが、それはごくわずかで、あまりにも遅すぎる。Qアノンとコロナ陰謀論の時代に公共の議論を修正するという課題は、特に今週、トランプ主義を正当に拒否する圧倒的な結果が出ない限り、克服できないかもしれない。それにもかかわらず、誰が勝っても、ローマ共和制の運命を回避するには、社会全体の大きな変化と、18世紀の多元的な政治システムの弱さの率直な再評価(a frank reappraisal of the weaknesses of an 18th-century pluralistic political system)が必要になるだろう。本当の民主政治体制は多様な意見(a range of voices)を奨励する。ツイッター民主政体、つまり、コンティオの民主政体は、最も声の大きい意見を優先する。アメリカがこの新しい時代を生き残るには、話し方と聞き方を再学習しなければならない。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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『トランプの電撃作戦』
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世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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古村治彦です。※2025年3月25日に最新刊『トランプの電撃作戦』(秀和システム)が発売になります。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
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『トランプの電撃作戦』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに行きます。世界の民主政治体制国家が不安定になっている。それもこれまで世界の模範とされてきた、西側諸国の民主政治体制が動揺している。民主政治体制として歴史の浅い国や、非民主的な国の方が政治的に安定しているというのが現状だ。民主政治体制の「危機」という主張も聞かれるが、それを招いたのは選挙で選ばれた権力者たちによる独走と失敗である。多くの先進諸国で既存の政治に対する失望が広がっているのは、既存の政治家たちが国民を見ていない、国民の意向を無視しているということが原因だ。

 下に掲載した論考では、ナショナリズムと民主政治の不安定な関係を取り上げている。特に、国家がメンバーをどう定義するか、歴史的記憶をどう扱うか、そしてグローバライゼーションにどう対抗するかが問題となっている。ナショナリズムはリベラリズムと緊張関係にあり、一部の国ではその影響が強まっている。

国家のメンバーシップの基準に関しては、各国が民族的要因や共通の憲法上の価値の忠誠を重視している。アメリカでは移民政策が政治問題として浮上し、トランプ政権下では新たな差別の恐れが生じた。ヨーロッパの難民危機やインドでの国籍法改正も、メンバーシップに対する懸念を強化している。これらの動きは、リベラリズムの基盤に影響を与えており、閉鎖的な政策が多くの国で台頭している。

歴史的記憶もその重要な側面であり、国家の集団的アイデンティティにとって欠かせない要素となっている。インドにおけるヒンドゥー教のナショナリズムは、この点で特に顕著であり、宗教的シンボルが政治的課題に利用されている。南アフリカでは、経済的正義を犠牲にした妥協の是非が議論されている。

国民ポピュリズムの台頭により、国家的アイデンティティに異議を唱える意見は反国家的とされることが多く、異論は犯罪化される事例が増えている。ナショナリズムとグローバライゼーションの関係も、選挙において重要な課題となり、自国の利益を優先する傾向が強まっている。グローバライゼーションの否定的な側面が明らかになり、国家の自給自足を求める動きが加速している。

ナショナリズムの特徴は、民主政治体制の誕生とも深く関連しており、経済とナショナリズムの交わりが各国に影響を与えている。ナショナリズムはアイデンティティ政治に強く、リベラリズムとの対立が顕著になる可能性がある。2024年の選挙は、このような闘争を反映しており、リベラルな価値観への脅威が増すか、またはその逆となるかが焦点となる。 この課題に関して、過去の歴史家が述べたように、ナショナリズムに人道的側面を与えることが、未来の歴史についての重要な鍵である。

 リベラルな価値観とは、西洋諸国の推進する価値観であり、これまではそれを受け入れることが進歩であり、文明的な動きであった。しかし、それらに対する異議申し立てや疑問が出ている現状で、それらは揺らいでいる。そして、民主政治体制についても揺らいでいる。そうした中でナショナリズムが影響力を増している。こうした現状はアメリカでも見られる。世界は大きく変わりつつある。

(貼り付けはじめ)

ナショナリズムの亡霊(The Specter of Nationalism

-アイデンティティ政治は選挙に常に影響を与えてきた。2024年、アイデンティティ政治はリベラリズムと、民主政治体制自体に対しての深刻な脅威となるだろう。

プラタップ・バーヌ・メサ筆

2024年1月3日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2024/01/03/nationalism-elections-2024-democracy-liberalism/?tpcc=recirc_trending062921

世界は民主政治体制(democracy)の未来にとって重要な年が始まろうとしている。インド、インドネシア、南アフリカ、アメリカなど、2024年に投票が行われる主要国のほんの数例を挙げると、これらの国での選挙は通常通りの行事である。しかし、これらの民主政治体制国家の多くは転換点(inflection point)を迎えている。分極化(polarization)、制度の劣化(institutional degradation)、権威主義(authoritarianism)の強まる潮流は逆転できるのだろうか? それとも、民主政治体制は限界点(breaking point)に達するのだろうか?

民主政治体制国家にはそれぞれ独自の特徴が存在する。今年選挙が行われる各国では、有権者はインフレ、雇用、個人の安全、将来の見通しに対する自信など、おなじみの問題で現政権を判断することになる。しかし、2024年の世界選挙に伴う不吉な予感は、1つの事実に起因している。それは、ナショナリズム(nationalism)と民主政治体制の間の不安定な妥協(uneasy accommodation)が深刻なストレスに晒されているということだ。

民主政体の危機は、部分的にはナショナリズムの危機でもあり、現在では4つの問題を中心に展開しているようだ。国家がメンバーシップ(国民、有権者)をどう定義するか、歴史的記憶(historical memory)のあり方をどう普及させるか、主権者としてのアイデンティティをどう位置付けるか、そして、グローバリゼーション勢力とどう戦うかである。これらのそれぞれにおいて、ナショナリズムとリベラリズムはしばしば緊張関係にある。民主政治体制は、この緊張関係を解決するのではなく、うまく切り抜けようとする傾向がある。しかし、世界中で、ナショナリズムがゆっくりとリベラリズムを窒息させつつあり、この傾向は今年、有害な形で加速する可能性がある。2024年には世界史上どの年よりも多くの国民が投票するが、彼らは特定の指導者や政党だけでなく、市民的自由の未来(very future of their civil liberties)そのものに投票することになる。

まず、社会がメンバーシップの基準をどのように設定するかについて議論しよう。政治共同体が主権を持つ場合、誰をメンバーから除外するか、またはメンバーに含めるかを決定する権利がある。自由主義的民主政治体制国家は歴史的に、メンバーの基準として様々なものを選択してきた。民族的および文化的要因を優先する国もあれば、共通の憲法上の価値観への忠誠を要求するだけの市民基準を選択する国もある。

実際には、自由主義的民主政体国家の移民政策は、移民の経済的利点、特定の人々の集団との歴史的つながり、人道的配慮など、様々な考慮事項に基づいて行われてきた。ほとんどの自由主義社会は、メンバーシップの問題を原則的にではなく、様々な取り決めを通じて扱ってきた。その中には、よりオープンなものもあればそうでないものもある。

加盟の問題は政治的に重要性を増している。その原因は様々だ。アメリカでは、南部国境での移民の急増により、この問題が政治的に前面に押し出され、バイデン政権でさえも、約束したリベラル政策の一部を撤回せざるを得なくなった。確かに、移民はアメリカでは常に重要な政治問題であった。しかし、ドナルド・トランプが政治的に登場して以来、移民は新たな側面を獲得した。トランプのいわゆるイスラム教徒入国禁止令は、最終的には撤回されたが、アメリカの将来の移民制度の基礎となる可能性のある、新たな形の明白または隠れた差別の恐怖(the specter of new forms of overt or covert discrimination)を引き起こした。

世界的な紛争や経済および気候の苦境によって引き起こされたヨーロッパの難民危機(Europe’s refugee crisis)は、全ての国の政治に影響を与えている。スウェーデンは、移民を統合するモデルについて深い懸念を強め、2022年に右派政権を誕生させる。イギリスでは、移民に対する懸念がブレグジット(Brexit)に一部影響した。またインドでは、ナレンドラ・モディ首相率いる政府が2019に年国籍改正法を施行し、近隣諸国からのイスラム教徒難民を国籍取得の道から除外することになった。インド政府にとって、加盟を巡る懸念は、多数の民族を優先する必要性から生じている。同様に、南アフリカでは移民の地位をめぐる論争がますます激しくなっている。

メンバーシップの重要性が増していることは、リベラリズムの将来にとって懸念事項だ。リベラルな価値観は歴史的に様々な移民制度やメンバーシップ制度と両立してきたため、リベラルなメンバーシップ制度はリベラルな社会を作るための必要条件ではないかもしれない。よく管理されたメンバーシップ政策がないと、リベラリズムが依拠する社会的結束(the social cohesion)が乱れ、リベラリズムが損なわれる可能性が高いと主張する人もいるだろう。しかし、ハンガリーのヴィクトル・オルバンからオランダのヘルト・ウィルダースまで、閉鎖的または差別的なメンバーシップ制度を支持する世界の政治指導者の多くが、リベラルな価値観にも反対しているというのは注目すべき事実である。そのため、反移民と反リベラルを区別することが難しくなっている。

記憶は、保持し、前進させるべき、集団的アイデンティティに関する永遠の真実の一種(a kind of eternal truth)である。

ナショナリズムの2つ目の側面は、歴史的記憶(historical memory)をめぐる争いである。全ての国家には、集団のアイデンティティと自尊心(self-esteem)の基盤となることができる、使える過去(a usable past)、つまり国民を結びつける物語(a story that binds its peoples together)が必要だ。歴史と記憶の区別(the distinction between history and memory)は誇張されがちだが重要だ。フランスの歴史家ピエール・ノラが述べたように、記憶は事実、特に思い出す主な対象への崇拝にふさわしい事実を探す。記憶には感情的な性質がある。それはあなたを動かし、あなたのアイデンティティを構成するはずだ。それはコミュニティの境界を設定する。歴史はより距離を置いている。事実は常にアイデンティティと共同体の両方を複雑にする。

歴史は道徳に関する物語(a morality tale)というよりは、苦労して得た知識の非常に難しい形態であり、常に選択可能性(selectivity)を意識している。

記憶(memory)は道徳に関する物語として保持するのが最も簡単だ。それは単に過去に関するものではない。記憶は、保持し、前進させるべき、ある個人の集団的アイデンティティに関する一種の永遠の真実だ。

様々な記憶は政治の場でますます強調されている。インドについて、最も明白な例を挙げると、歴史的記憶はヒンドゥー教のナショナリズムの強化の中心だ。2024年1月に、モディ首相はアヨーディヤーでラーマ神を祀る寺院を建立した。この寺院は、1992年にヒンドゥー教のナショナリストがモスクを破壊した場所に建てられている。ラーマ神寺院は重要な宗教的シンボルだ。しかし、インド人にとって最も顕著な歴史的記憶はイギリスによる植民地支配ではなく、イスラム教による千年にわたる征服の歴史であるべきだという与党インド人民党(the ruling Bharatiya Janata Party)の主張の中心でもある。モディ首相は、2020年に寺院の礎石が据えられた8月5日を、1947年にインドがイギリスから独立した8月15日と同じくらい重要な国家の節目であると宣言した。

南アフリカでは、記憶の問題はそれほど顕著ではないように思えるかもしれない。しかし、ネルソン・マンデラ時代の妥協(compromise)は、社会的連帯(social solidarity)のために経済的正義(economic justice)を犠牲にしたと今では一部の人が見ているが、ますます問われている。不平等の継続、経済不安、社会的流動性の低下に直面して、南アフリカ人の多くはマンデラの遺産と、国内の黒人に力を与えるために彼が十分なことをしたかどうかを疑問視している。これは、与党のアフリカ民族会議(the ruling African National Congress)に対する幻滅(disillusionment)を反映している。しかし、この再考は、現代の南アフリカが自らを理解してきた観点から、記憶を再定義する可能性もある。

アメリカでは、国家の物語をどう語るかをめぐる争いは建国の父たち(the Founding Fathers)にまで遡る。ドナルド・トランプからフロリダ州知事ロン・デサンティスまで、政治家たちはアメリカ人であることの意味や「アメリカを再び偉大な国にする(make America great again)」方法に基づいて立候補している。たとえばフロリダ州では、黒人の歴史を教えるための怪しげな基準を設け、生徒が人種や奴隷制度について学ぶ内容を規制しようとしている。これは単なる教育方法の政治的論争ではなく、その背後には、アメリカが過去をどのように記憶し、それゆえに未来をどのように築いていくのかという、より大きな、不安な政治的論争がある。

ナショナリズムの高揚における3つ目の次元は、人民主権(popular sovereignty)、すなわち人々の意思(the will of the people)をめぐる争いである。人民主権とナショナリズムの間には常に密接な関係があり、前者には明確なアイデンティティと互いに特別な連帯感を持つ国民という概念の形成が必要だったからである。フランス革命の時代、ジャン=ジャック・ルソーの思想に触発され、人民主権者は唯一無二の意思を持つとされた(the popular sovereign was supposed to have a singular will)。しかし、もし人民の意志が単一(unitarity)であるならば、差異(differences)をどう説明するのだろうか? 更に言えば、当然のように人々の間に違いがあるのなら、どうやって民意を確かめればいいのだろうか? このパズルを解く1つの方法は、誰が有能な人々の意志を効果的に代表していることができるか、そしてそうすることで、相手側を、単にその意志の代替的な解釈を持っているのではなく、その意志を裏切っているものとして表現できるかということである。このようなパフォーマンスが行われるためには、代替的な視点を代弁する者を民衆の敵(an enemy of the people)として厳しく非難しなければならない。その意味で、「人民(the people)」、一元的な存在として理解される、という修辞的な呼びかけは、常に反多元主義的である危険性(the risk of being anti-pluralist)をはらんでいる。世界中の民主政治体制国家が民主政治体制の多元主義的で代表的な概念を受け入れているときでさえ、国家に転嫁される単一性の痕跡が残っている。国家は団結していなければ国家ではないし、意志を持つこともできない。

政治スタイルとしての国民ポピュリズムは、人民の敵(enemies of the people)ではなく国民の敵(enemies of the nation)を見つけることで繁栄する。

人々は、自分たちの国のアイデンティティを基準にすることで、統一された意志のもとに結集する。つまり、時には、このようなアイデンティティの評価は非常に生産的である。しかし、ナショナリズムの特徴の1つは、ナショナリズム自身が異議を唱える余地を作ろうともがくことだ。反対派が委縮したり汚名を着せられたりするのは、政策的な問題に関して異なる見解を持っているからではなく、その見解が反国家的なものとして表象されるからである。国民ポピュリストのレトリックが、自分たちの国民的アイデンティティやナショナリズムの基準に異議を唱える勢力に向けられることが多いのは偶然ではない。国民のアイデンティティがより争われるようになるにつれ、押し付けられることによってのみ統一が達成される可能性が高まっている。

政治スタイルとしての国民ポピュリズムは、人民の敵ではなく国民の敵を見つけることによって繁栄し、その敵はしばしば特定の複数のタブーによって評価される。トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアンからモディ、オルバン、トランプに至るまで、現代のポピュリストのほぼ全員が、人民とエリートを階級ではなく、誰が国家を真に代表するかという観点から区別している。真のナショナリストとして評価されるのは誰なのか? エリートに対する文化的軽蔑(the cultural contempt for the elite)は、彼らがエリートであるという事実だけでなく、いわばもはや国民の一部ではないエリートとして代表されることができるという事実から強まっている。この種のレトリックは、違いを単なる意見の相違ではなく、扇動的であると見なす傾向がますます強まっている。たとえばインドでは、カシミールに対する政府の姿勢に疑問を呈する学生たちに対して国家安全保障関連の罪が問われている。これは、単なる異議申し立て(a contestation)、あるいはおそらく誤った見解としてではなく、犯罪化される必要がある反国家行為(anti-national act)と見なされている。

ナショナリズムの危機の第4の側面は、グローバライゼーションに関するものだ。ハイパー・グローバライゼーションの時代になっても、国益が色褪せることはなかった。各国がグローバライゼーションや世界経済への統合を受け入れたのは、それが自国の利益につながると考えたからだ。しかし、全ての民主政治体制国家において、今年の選挙で重要なのは、国際システムに関与する条件の再考である。

グローバライゼーションは勝者を生み出したが、同時に敗者も生み出した。アメリカにおける製造業の雇用喪失やインドにおける早すぎる脱工業化(premature de-industrialization)は、グローバライゼーションの再考を促すに違いない。こうしたことは全て、グローバル・サプライチェインへの依存に対する恐怖を際立たせた新型コロナウイルス感染拡大(パンデミック)以前から起こっていたことだ。

世界各国は、経済に対する政治的コントロールの主張、つまり合法的な社会契約(social contract)を結ぶ能力が、グローバライゼーションの条件を再考する必要があると確信するようになっている。傾向としては、グローバライゼーションに懐疑的になり、国家安全保障や経済的な理由から、より大きな自給自足を求めるようになっている。「アメリカ・ファースト」や「インド・ファースト」は、特に中国が権威主義的な競争相手(an authoritarian competitor)として台頭してきた状況では、ある程度理解できる。

しかし、現在のこの瞬間はナショナリズムの政治における大きな転換期のようだ。グローバライゼーションは国益の推進を目指す一方で、ナショナリズムを緩和した。グローバライゼーションは、統合の拡大によって全ての国が相互に利益を得ることができるゼロサムゲーム以外の世界秩序を提示した。国際的な連帯を疑うことはなかった。民主政治体制国家はますますこの前提を放棄しつつあり、世界に重大な影響を及ぼしている。グローバライゼーションが減り保護主義が強まると、必然的にナショナリズムが強まる。この傾向は世界貿易にも悪影響を及ぼし、特に国境開放と商業の高まりを必要とする小国にとっては打撃となる。

ここで説明したナショナリズムの4つの特徴(メンバーシップ、記憶、主権的アイデンティティ、世界への開放性)はそれぞれ、民主政治体制の誕生以来、その影を落としてきた。アメリカでは格差と賃金の低迷、インドでは雇用の危機、南アフリカでは汚職など、どの民主政治体制国家もそれぞれ深刻な経済的課題に直面している。経済問題とナショナリズム政治の間に必要な二項対立(binary)はない。モディのような成功したナショナリストの政治家は、経済的成功をナショナリズムのヴィジョンを強固なものにする手段と考えている。そして、ストレスの多い時代には、ナショナリズムは不満を明確にするための言語となる。ナショナリズムは、政治家が人民に帰属意識と参加意識を与える手段だ(It is the means by which politicians give a sense of belonging and participation to the people)。

ナショナリズムはアイデンティティ政治(identity politics)の最も強力な形態だ。ナショナリズムは、個人とその権利を、ナショナリズムが個人を束縛する強制的なアイデンティティのプリズムを通して見ている。ナショナリズムとリベラリズムは長い間、対立する勢力だった。ナショナリズムをめぐる利害関係が高まらず低まれば、ナショナリズムとリベラリズムと両者の間の緊張関係をうまく乗り越えやすくなる。しかし、2024年の多くの選挙では、これらの国の国民的アイデンティティの性質が、上記の4つの側面に沿って危機に晒される可能性が高まっている。これらの争いは民主政治体制を活性化させる可能性がある。しかし、最近の例を参考にすると、政治におけるナショナリズムの優越性は、リベラルな価値観に対する脅威となる可能性が高い。

ナショナリズムの前進する形態が、その意味を争うことを許さず、あるいは特定のグループの特権を維持しようとすると、一般的に、より分裂的で分極化した社会(a more divisive and polarized society)が生み出される。インド、イスラエル、フランス、そしてアメリカは、それぞれこの課題に直面している。記憶とメンバーシップの問題は、単純な政策審議によって解決される可能性が最も低い。彼らが取引する真実は、共通基盤の基礎となりうる事実に関するものではない。たとえば、私たちがしばしば歴史を選択するのは、その逆ではなく、むしろ私たちのアイデンティティのためであることはよく知られている。

おそらく、最も重要なことは、ナショナリズムの名の下に、リベラルな自由に対する攻撃が正当化されることが多いということだ。例えば、表現の自由(freedom of expression)は、深く大切にされている国家神話(national myth)を標的にすると見なされれば、その限界を知る可能性が最も高い。市民の自由を狭めたり、制度の完全性を軽んじたりすることを厭わないポピュリストや権威主義的な指導者は皆、ナショナリズムのマントをまとっている。そのような指導者は、「反国家的(anti-national)」という言葉を用いて反対意見を取り締まることができる。多くの意味で、今年の選挙は、民主政治体制がナショナリズムのディレンマとうまく折り合いをつけられるか、あるいはナショナリズムを衰退させるか、打ち砕くかを決めるかもしれない。

20世紀のファシズム史の偉大な歴史家であるジョージ・L・モスは、1979年にイェルサレムのヘブライ大学で行われた教授就任講演で、この課題について次のように述べている。「もし私たちがナショナリズムに人間的な側面を与えることに成功しなければ、将来の歴史家たちは、私たちの文明について、エドワード・ギボンがローマ帝国の崩壊について書いたことと同じことを書くかもしれない。つまり、最盛期には穏健主義が卓越し、国民はお互いの信念を尊重していたが、不寛容な熱意と軍事的専制によって崩壊したということだ(that at its height moderation prevailed and citizens had respect for each other’s beliefs, but that it fell through intolerant zeal and military despotism)」。

※プラタップ・バーヌ・メサ:プリンストン大学ロウレンス・S・ロックフェラー記念卓越訪問教授、ニューデリーにあるセンター・フォ・ポリシー・リサーチ上級研究員。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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『トランプの電撃作戦』
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世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。

 今回は、福祉国家(welfare state)に関する、少し古くて短い論稿をご紹介する。福祉国家とは、人々の生活の安定を図るために、福祉の拡充を行う国家ということで、それまでは、国防や治安維持に重きを置かれていた国家の役割を拡大するということである。1970年代以降、先進諸国を中心に取り入れられてきた考えであるが、現在は、財政赤字や非効率のために評判が悪い。

 下の論稿では、市場万能論では駄目で、国民生活安定のために福祉国家論も必要であり、それが資本主義の生き残りの方策だというものだが、現在、多くの先進諸国で共通の課題となっている高齢化(aging)と移民(immigration)については変革をしなければならないと主張している。高齢者と移民に対する寛大な福祉政策は温めるべきだという主張である。

 現在、世界の中で最も高齢化が進んでいるのが日本だ。日本は「高齢化社会」という段階から更に進んで「高齢社会」となっている。更に言えば、平成の30年間に経済成長もなく、若い世代では、子どもを複数持つことは贅沢、結婚することも躊躇してしまうようになり、少子化も進んでいる。日本の総人口が約1億2600万人、65歳以上の人口は約3600万人で、人口比は約28.4%、75歳以上の人口は1849万人で、人口比は14.7%だ。15歳未満の人口は約1520万人で、人口比は12.1%だ。
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15歳以下の子供たちは同世代の平均の数は108万人となる。65歳から74歳までの人口は1740万人、人口比は13.8%、同世代の平均の数は174万人となる。65歳まで至らずに亡くなった人たちを考えると、現在15歳以下の子供たちと比べると、同世代の人数は2倍ほどあったものと考えられる。日本は急速な少子高齢化が進み、国全体が老衰しているということになる。

 そうした中で、これまでのような高齢者に対する福祉はできない(財源と人手がない)ということになる。日本は現在、団塊の世代(欧米で言えばベイビーブーマーズ[baby boomers])が高齢者となっている。この人たちがどんどん数が少なくなっていっても、今度は団塊ジュニア(アメリカで言えばX世代[X Generations])と呼ばれる人々が高齢者となっていく。高齢者福祉の負担はこれからも半世紀近く続いていくことになる。その間に人口は減り、生産人口も減少していく。日本は人口の面で言えば小国へと変化していく。その調整過程にある。そこで高齢者福祉の漸進的な削減、「自分で老後の資金を準備しましょう、目安は2000万円です」ということになるが、団塊ジュニア世代で果たしてどれほどの人たちが2000万円のお金を用意できるだろうか。

 日本における外国人労働者数は年々増加している。これは生産年齢人口の減少に伴って起きている現象だ。非熟練労働においては、日本人がやりたがらない仕事を外国人、特に発展途上国からの人々が担っているという現実がある。アメリカでも不法移民が安い給料で働くことで、農産物や食料品の価格が安く抑えられているという現実がある。日本ではこれからも外国人労働者の数が増えていく。そうなれば、日本に住み、家族を作るという人たちも増えていく。日本の少子高齢化問題と移民数の増加はリンクしている。
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 こうした中で、外国人労働者や移民に対する日本人の見方は厳しい。受け入れ賛成と反対は拮抗している。また、移民よりも自国民優先をと考える人たちの割合も高い。しかし、これはどこの国においてもそうだ。
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下の論稿にあるように、移民に対する福祉を行うべきではないという極端な考えを持つ人は少ないにしても、過剰な福祉は行うべきではないと考える人は多いだろう。問題は「過剰」の線引きだ。どこまでが適正で、どこからが過剰なのか、日本国民と全く同じ福祉を、国籍や永住権を持たない外国人に与えるべきなのかどうか、ということになる。

 経済格差があまりにも拡大すると、社会に分断と亀裂が起きる。豊かな人たちはより豊かになり、貧しい人たちはより貧しくなるということでは、社会は維持できない。そうなれば、政治において極端な主張を行う勢力が台頭することになる。社会の分断と格差の拡大によって、政治や民主政治体制への失望も拡大していく。ナチスドイツを思い起こす人も多いだろう。資本主義を守り、民主政治体制を守るためには、行き過ぎた格差の是正や強欲資本主義に対する制限が必要となる。下の論稿の主張には首肯できる点が多い。

(貼り付けはじめ)

基本に戻る(Back to basics

資本主義は生き残るために福祉国家を必要としている。しかし、高齢化と移民に対処するために福祉は改革しなければならない。

2018年7月12日

『エコノミスト』誌

https://www.economist.com/leaders/2018/07/12/capitalism-needs-a-welfare-state-to-survive?fsrc=scn/tw/te/bl/ed/capitalismneedsawelfarestatetosurvivebacktobasics

左派と右派両方の神話では、福祉国家(welfare state)は社会主義(socialism)の作品である。しかし、福祉国家の知的伝統は自由主義に最も依存している。イギリス版の福祉国家の設計者であるウィリアム・ベヴァリッジは、国家権力を福祉国家のために使うことを望んでいなかった。重要なことは、あらゆる人たちが自分の好きな人生を歩むことができるように、安心感を与えるということだ。そして、リベラル派の改革者たちは、「創造的破壊(creative destruction)のリスクの一部から人々を守ることで、福祉国家は、自由市場に対する民主的な支持を強化する」と考えていた。

1942年にベヴァリッジが重要な報告書を発表して以来、数十年の間に福祉国家は拡散し、拡大し、複雑になり、そしてしばしば人気を失ってきた。この変化にはさまざまな原因がある。その1つは、福祉国家がその基盤となる自由主義的な原則からしばしば逸脱してきたことだ。この原則を再確認する必要がある。

世界各国はより豊かになれば、公共サーヴィスとベネフィットに国家収入のより高い割合を支出する傾向にある。富裕な国々における年金、失業保険、生活困窮者たちに対する支援のような「社会的保護(social protection)」への支出は、1960年の段階では5%だったが、現在では20%になった。医療や教育への支出を含めると、その割合は約2倍になる。これらの福祉国家の規模の大きさが、改革の十分な理由になるという人々も存在する。

しかし、福祉国家が何をしているかの方が、その規模よりも重要だ。福祉国家は各個人が自身で選択ができるようにすべきだ。スカンジナヴィア諸国で行われている親たちの復職支援やイギリスで行われている障碍者たちが自身のサーヴィスを選択できるパーソナル・べネフィッツ、シンガポールで行われている失業者たちが新しいスキルを身につけるための学習支援を通じて、選択が実行されるべきだ。

誰もが生きていくためには十分な量を手にすることを必要とする。雇用市場で落ちこぼれた人々やギグ・エコノミー(gig economy 訳者註:インターネットを通じて行われる単発の仕事)で働く人々の多くは、生活を営むのに苦労している。貧困層への支援は、残酷で非効率的、父性的で複雑な方法で行われることがあまりにも多い。富裕な国々の一部では、失業者が仕事を始めると、給付金がなくなるために限界税率が80%以上になる。

福祉改革には、制度のコストと、貧困対策への効率化、就労への動機付けとの間にプラスマイナスが生じる。どの制度も完璧ということはない。しかし、基本となるのは負の所得税(negative income tax)であり、これは所得基準以下の労働者には補助金を出し、それ以上の労働者には課税するというものだ。負の所得税は全ての人を対象とする最低収入と結合することができる。これは、税率が高すぎない限り、働くインセンティブを維持しながら貧困をターゲットにする、比較的シンプルで効率的な方法となる。

しかしながら、改革のためには、ベヴァリッジがあまり気にしていなかった2つの課題にも取り組まなければならない。一つ目の問題は高齢化(aging)だ。富裕な国々の現役世代と退職者の比率は、2015年には約41だったのが、2050年には21になると予測されている。また、国が高齢化すると、福祉支出が高齢者に偏るようになる。世代間格差の拡大を緩和するためには、高齢者への最も寛大な給付を削減し、退職年齢を着実に引き上げることが有効な手段となる。

二つ目の問題は移民(immigration)だ。ヨーロッパ全体で、「福祉愛国主義(welfare chauvinism)」が台頭している。福祉愛国主義は、より貧しい国民と自国で生まれた国民に対して手厚い福祉を行うことを支持しているが、移民には及んでいない。ポピュリストたちは、貧しい国から豊かな国へ人々が自由に移民できると、福祉国家が破綻すると主張している。自由主義的な移民政策は、福祉へのアクセスを制限することにかかっていると主張する人々もいる。つまり、物理的な国家ではなく、福祉国家の周りに壁を作るということだ。各種世論調査によると、新たに入国してきた人々から医療や子供のための学校へのアクセスをすぐに奪いたいと思っている、自国生まれのヨーロッパ各国の国民はほとんどいないということだ。しかし、アメリカやデンマークですでに実施されているような、現金給付に対する何らかの制限が必要かもしれない。

ベヴァリッジのようなリベラル派が認識したように、自由市場への支援を確実にする最良の方法は、より多くの人々に自由市場にかかわる利害関係を与えることだ。福祉国家とは、貧しい人々に靴やスープを与えたり、老後の生活を保障したりするだけのものではないと見なければならない。民主主義社会では、福祉国家は資本主義を擁護するためにも重要だ。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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ビッグテック5社を解体せよ

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 

2018年3月19日、ユヴァル・ノア・ハラリは『ニューヨーク・タイムズ』紙の著名なコラムニストであるトーマス・L・フリードマンとロンドンでシンポジウムを行ったそうです。その時の記事が出ていましたのでご紹介します。

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サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

ハラリが書いた『サピエンス全史』は日本でも大ヒットしましたが、上下2巻もあってなかなか読み通すことはできません。今回のシンポジウムでハラリは人類の未来が決して明るくないということを述べています。

 
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サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福


人類(ホモ・サピエンス)はその知恵(サピエンス)のために滅んでいくことになるでしょう、ということがハラリの言いたいことなのでしょう。人類は地球上の王者でござい、という顔をして威張っていますが、地球という惑星にとってみれば、突然頭でっかちになって他の種を殺しまくって、支配しまくって、地球を汚しまくってきた迷惑な存在ということになるでしょう。

 

私は人類自体が滅んでしまうのならばそれはそれで仕方がない(生きている間に滅ぶのかどうかは分からない)、地球の「意志」がそこにあるのなら仕方がない、と考えます。滅びの時に生を受けている人類の子孫、後輩の皆さんは恐怖を味わうでしょうから申し訳ないことですが、多くの場合に死とは恐怖を覚えるものでしょうから、そこは申し訳ないが甘受していただくしかありません。

 

暗い話になりましたが、このように考えると、失敗や後悔をしていることでも、自分が背負う以上に背負い込まなくても良いと考えられるようになります。これがハラリの本が受け入れられた時代背景なのではないかと思います。

 アルゴリズム、AI、ビッグデータで民主政治体制が乗っ取られるということは、既に起きています。ケンブリッジ・アナリティカという企業が様々な国の選挙に影響を与えようとしてSNS、特にフェイスブックを使っていたことは既に報道されています。個人の好み、好きな食べ物から政党まで私たちは知らず知らずのうちに個人情報を表に出し、フェイスブックはただで使わせる代わりにそうした情報を企業に提供するということをしています。また、アマゾンでは、「あなたはあの商品をお買いになったのでこれがお好きではないですか」という「提案」的な宣伝がなされます。これも同じことです。私たちを私たち自身よりもより詳しく正確に分析し、影響を与えることが出来る存在が出てきたということで、人類の進む方向はこれまた暗いものとならざるを得ません。

 しかし、こうしたことを頭に入れながら、最悪のことに備える、という姿勢を取ることは、人類普遍(不変)の知恵なのかもしれません。

 

=====

 

●ハラリが言いたいこと

・ハラリは「人類は複雑な世界を創造してしまい、もはや起きている現象について理解できないようになっている」と警告を発した。

 

●ハラリが述べていること(記事からの抜粋)

・アルゴリズムと技術によって人類は神のような力を持つ「超人」のような存在にみえるようになっている。

・人工知能と自動化によって「世界規模の役に立たない階級(global useless class)」が生み出される(19世紀の産業革命によって労働者階級が生み出された)。

・破壊的な技術は、大きな進歩をもたらしてくれたが、コントロールができなくなったら破滅的な結果をもたらすことになる。

 

・新しい技術は民主政治体制と自己意識を乗っ取ることになる。

・バイオ技術、IT、アルゴリズムといったものが私たち自身よりも私たちをよりよく理解するようになる。

・私たち自身よりも私たちを理解する外部の存在が出てくれば、20世紀からの自由主義的民主政治体制の形は崩壊する。

・自由主義的民主政治体制は人間の感情を基礎にしている。そして、あなた自身もしくは母親以上にあなたのことを理解している人はいないということを前提にして機能している。アルゴリズムがあなた以上にあなたのことを理解し、こうしたことが起きるということを理解しなければ、自由主義的民主政治体制は操り人形ショーにすぎなくなる。感情を操られてしまう。

 

・技術はグループではなく、個人に対する差別のための新しい道具となるだろう。

・20世紀において差別はあるグループ全体に対して様々な偏見や先入観を基礎にして行われた。差別に対してなくすための行動をとり、なくすことが可能であった。

・私たちは個人に対する差別に直面するだろう。私たちがどのような人間かを判定されて差別される。

・フェイスブックやDNAのような企業を理想とするある企業はアルゴリズムを使って、人々の記録からその人がどんな人間かを判定できるようになる。こうした差別は、その人が少数派に属しているからではなく、その人自身に基づいて差別を行う。これは実際に起きるであろうし、恐ろしいことだ。

 

・人類が何かを決断し、その結果が出るまでに数世紀、数千年かかっていた。

・時間は加速している。長期間という言葉は今や20年ほどの期間のことを指す。

・20年から30年で世界がどのようになっているかが誰にも分からないというのは歴史上初めての経験だ。様々なことがほんの20、30年でどうなっているか分からないということになると、学校で何を教えるべきかが分からない、そんな状況になる。

 

・指導者たちは過去にばかりこだわっている。それは彼らは未来に関する意味のあるヴィジョンを持っていないからだ。

・指導者たちは2050年の人類がどのようになっているかというヴィジョンを持っていないが、過去についてノスタルジックな虚構を生み出している。どれほど昔に戻りたいと考えているかの競争のようだ。

・あらかじめ方向性が決められた歴史がなくなった。

・不可避性をめぐる物語が崩壊した中で私たちは生きている。

・極端な幻滅と困惑の中に私たちは生きている、それは物事がどのように進むか分からないからだ。

・下落傾向と新しい技術に関わる危険なシナリオについて認識することは重要だ。

 

・複雑化し、相互につながる世界において、道徳の再定義が必要となってくる。

・素晴らしい価値観を持つだけでは十分ではなく、因果関係の連鎖を理解しなければ素晴らしい行動を取ることはできない。

 

(貼り付けはじめ)

 

What’s Next for Humanity: Automation, New Morality and a ‘Global Useless Class’

 

By KIMIKO de FREYTAS-TAMURAMARCH 19, 2018

https://www.nytimes.com/2018/03/19/world/europe/yuval-noah-harari-future-tech.html?smid=fb-share

 

Humans, Mr. Harari warned, “have created such a complicated world that we’re no longer able to make sense of what is happening.”

 

LONDON — What will our future look like — not in a century but in a mere two decades?

 

Terrifying, if you’re to believe Yuval Noah Harari, the Israeli historian and author of “Sapiens” and “Homo Deus,” a pair of audacious books that offer a sweeping history of humankind and a forecast of what lies ahead: an age of algorithms and technology that could see us transformed into “super-humans” with godlike qualities.

 

In an event organized by The New York Times and How To Academy, Mr. Harari gave his predictions to the Times columnist Thomas L. Friedman. Humans, he warned, “have created such a complicated world that we’re no longer able to make sense of what is happening.” Here are highlights of the interview.

 

Artificial intelligence and automation will create a ‘global useless class.’

 

Just as the Industrial Revolution created the working class, automation could create a “global useless class,” Mr. Harari said, and the political and social history of the coming decades will revolve around the hopes and fears of this new class. Disruptive technologies, which have helped bring enormous progress, could be disastrous if they get out of hand.

 

Every technology has a good potential and a bad potential,” he said. “Nuclear war is obviously terrible. Nobody wants it. The question is how to prevent it. With disruptive technology the danger is far greater, because it has some wonderful potential. There are a lot of forces pushing us faster and faster to develop these disruptive technologies and it’s very difficult to know in advance what the consequences will be, in terms of community, in terms of relations with people, in terms of politics.”

 

New technologies could hijack democracy, and even our sense of self.

 

The combination of biotech and I.T. might reach a point where it creates systems and algorithms that understand us better than we understand ourselves.

 

Once you have an external outlier that understands you better than you understand yourself, liberal democracy as we have known it for the last century or so is doomed,” Mr. Harari predicted.

 

Liberal democracy trusts in the feelings of human beings, and that worked as long as nobody could understand your feelings better than yourself — or your mother,” he said. “But if there is an algorithm that understands you better than your mother and you don’t even understand that this is happening, then liberal democracy will become an emotional puppet show,” he added. “What happens if your heart is a foreign agent, a double agent serving somebody else, who knows how to press your emotional buttons, who knows how to make you angry, how to make you bold, how to make you joyful? This is the kind of threat we’re beginning to see emerging today, for example in elections and referendum.”

 

Technology will be a new tool for discrimination — not against groups but individuals.

 

In the 20th century, discrimination was used against entire groups based on various biases. It was fixable, however, because those biases were not true and victims could join together and take political action. But in the coming years and decades, Mr. Harari said, “we will face individual discrimination, and it might actually be based on a good assessment on who you are.”

 

If algorithms employed by a company look up your Facebook profile or DNA, trawl through school and professional records, they could figure out pretty accurately who you are. “You will not be able to do anything about this discrimination first of all because it’s just you,” Mr. Harari said. “They don’t discriminate against your being because you’re Jewish or gay, but because you’re you. And the worst thing is that it will be true. It sounds funny, but it’s terrible.”

 

Time is ‘accelerating.’

 

It took centuries, even thousands of years, for us to reap the rewards of decisions made by our forebears, for example, growing wheat that led to the agricultural revolution. Not anymore.

 

 Time is accelerating,” Mr. Harari said. The long term may no longer be defined in centuries or millenniums — but in terms of 20 years. “It’s the first time in history when we’ll have no idea how human society will be like in a couple of decades,” he said.

 

 We’re in an unprecedented situation in history in the sense that nobody knows what the basics about how the world will look like in 20 or 30 years. Not just the basics of geopolitics but what the job market would look like, what kind of skills people will need, what family structures will look like, what gender relations will look like. This means that for the first time in history we have no idea what to teach in schools.”

 

Leaders focus on the past because they lack a meaningful vision of the future.

 

Leaders and political parties are still stuck in the 20th century, in the ideological battles pitting the right against the left, capitalism versus socialism. They don’t even have realistic ideas of what the job market looks like in a mere two decades, Mr. Harari said, “because they can’t see.”

 

Instead of formulating meaningful visions for where humankind will be in 2050, they repackage nostalgic fantasies about the past,” he said. “And there’s a kind of competition: who can look back further. Trump wants to go back to the 1950s; Putin basically wants to go back to the Czarist Empire, and you have the Islamic State that wants to go back to seventh-century Arabia. Israel — they beat everybody. They want to go back 2,500 years to the age of the Bible, so we win. We have the longest-term vision backwards.”

 

●‘There is no predetermined history.’

 

We’re now living with the collapse of the last story of inevitability,” he said. The 1990s weres flush with ideas that history was over, that the great ideological battle of the 20th century was won by liberal democracy and free-market capitalism.

 

This now seems extremely naïve, he said. “The moment we are in now is a moment of extreme disillusionment and bewilderment because we have no idea where things will go from here. It’s very important to be aware of the downside, of the dangerous scenarios of new technologies. The corporations, the engineers, the people in labs naturally focus on the enormous benefits that these technologies might bring us, and it falls to historians, to philosophers and social scientists who think about all of the ways that things could go wrong.”

 

In a complex, interconnected world, morality needs to be redefined.

 

To act well, it’s not enough to have good values,” Mr. Harari said. “You have to understand the chains of causes and effects.”

 

Stealing, for example, has become so complicated in today’s world. Back in biblical times, Mr. Harari said, if you were stealing, you were aware of your actions and their consequences on your victim. But theft today could entail investing — even unwittingly — in a very profitable but unethical corporation that damages the environment and employs an army of lawyers and lobbyists to protect itself from lawsuits and regulations.

 

Am I guilty of stealing a river?” asked Mr. Harari, continuing his example. “Even if I’m aware, I don’t know how the corporation makes its money. It will take me months and even years to find out what my money is doing. And during that time I’ll be guilty of so many crimes, which I would know nothing about.”

 

The problem, he said, is understanding the “extremely complicated chains of cause and effect” in the world. “My fear is that homo sapiens are not just up to it. We have created such a complicated world that we’re no longer able to make sense of what is happening.”

 

(貼り付け終わり)


※私の仲間である石井利明さんのデビュー作『福澤諭吉フリーメイソン論』が2018年4月16日に刊行されます。大変充実した内容になっています。よろしくお願いいたします。

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(仮)福澤諭吉 フリーメイソン論

 

(終わり)


アメリカ政治の秘密日本人が知らない世界支配の構造【電子書籍】[ 古村治彦 ]

価格:1,400円
(2018/3/9 10:43時点)
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 古村治彦です。

 

 今回は、アメリカの政府機関である米国国際開発庁(USAID)についての記事をご紹介します。USAIDについては、拙著『アメリカ政治の秘密』(PHP研究所、2012年)で詳しく書きましたが、アメリカの外国介入の尖兵です。


 今回の記事の主張は、
USAIDの目的をはっきりさせろ、それは、外国に行って、政府機関を作ったり、改善したりすることだ、というものです。USAIDは現在、衛生や教育、人権などの改善のために、世界100カ国近くで活動しています。しかし、そうしたものは、他の省庁や機関に任せて、USAIDは、世界各国の政府機関の創設や改善に特化しろと言うのです。

 この主張は、ヒラリー・クリントンが大統領になったら、実際に行われることになるでしょう。現在でも国務省やUSAID内部には、人道的介入主義派がたくさんいるのですから。

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USAIDの本部 

 
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 これは恐ろしいことです。1930年代の日本と満洲国の関係を考えてみてください。満洲国は、清帝国最後の皇帝であった溥儀を執政(後に皇帝)にして誕生しました。独立国ですが、政府機関は日本が作り、日本の官僚たちが実権を握りました。また、関東軍司令官が駐満日本大使を兼務し、定期的に溥儀と面会し、日本の意向を伝え、強制しました。これは「内面指導」と呼ばれます。満洲国の事例を考えると、論稿の著者たちがUSAIDにやれ、と言っているのは、この内面指導のような形の「外国支配」の基礎を作れ、というものです。これは、実際に政府機関をアメリカに作られる方からしてみれば、大変なことで、アメリカは憎悪の対象になることも起きるでしょう。

 

 また、興味深いのは、国家機関創設の専門家がいないので、最近のイラクやアフガニスタンでその分野の経験がある陸軍の将校たちを雇用しろと言っている点です。アメリカ軍は、膨大な予算を食いつぶす機関であり、その縮小がオバマ政権下で進められました。縮小となると、人員も整理されます。つまり、解雇になったり、これ以上いても昇進はないと言われたりすることになります。そうなると、不満が溜まる訳ですが、「経験を活かして、引き続き、公務員として働ける(しかも表向きは世界に貢献できる仕事ということで)」となれば、不満もある程度は解消されます。

 論稿の著者たちは、USAIDが衛生や教育の分野は別の組織や団体に任せるべきだと書いています。「トイレを作るような事業は平和部隊に任せろ」と。私はここで、自衛隊のアメリカ軍による下請け化が進んでいる中で、日本の海外援助組織のUSAIDによる下請け化が進むのではないかと思います。7月1日、バングラデシュのダッカで痛ましい事件が起きました。JICAがUSAIDと連動して動くというようなことになると、残念ながらこうした事件がこれからも起きてしまうかもしれません。

 

 こうやって読むと、なかなか危険な論稿であることが分かっていただけると思います。それではお読みください。

 

=====

 

米国国際開発庁は「海外の国家機関創設省」となるべきだ(USAID Should Become the Department of Nation-Building

―ワシントンにある海外の発展途上国の発展に関わる政府機関は、無秩序状態に陥った外国に民主政治体制ではなく、まずは政府を樹立することに集中する必要がある

 

マックス・ブート、マイケル・ミクラウシック筆

2016年6月22日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2016/06/22/usaid-should-become-the-department-of-nation-building/#_ftn1

 

 外国の国家機関創設(nation-building)は、アメリカ政治においては痛みを思い出させる言葉となっている。この言葉を聞くと、アフガニスタンとイラクにおける長きにわたる、人的、物理的に消耗の激しかった戦争を思い出す人々が多い。バラク・オバマ大統領とドナルド・トランプとの間に一致する点はほとんどないが、外国の国家機関建設への反対では両者は一致している。歴代の大統領も「国家機関の創設(問題の解決)はまず国内から」と言っていたが、オバマ大統領とトランプもまたこの考えを持っている。

 

 しかしながら、アメリカの指導者たちは国家機関創設に対する反対を唱えながらも、破綻国家(failed states)がアメリカの国益にとって深刻な脅威となっていることを認めている。オバマ大統領は2016年の一般教書演説の中で、「たとえ、イスラム国が存在しない場合でも、不安定はこれから世界の多くの場所で増大していくだろう。中東で、アフガニスタンで、パキスタンの一部で、中央アメリカの一部で、アフリカで、そしてアジアで。これらの場所の中には、テロリスト・ネットワークの避難場所となるところも出てくるだろう。その他の場所では、民族紛争、飢餓、新たな難民を生み出すことだろう。世界は、私たちにこうした問題の解決のための手助けをしてくれるように求めているのだ」と述べている。

 

 しかし、アメリカは、軍事力の使用のみで世界の不安定さに対処することはできないのだ。アメリカ国民は、大義がないイラクやアフガニスタンで行った大規模な介入を支持しないだろう。一方、ドローンによる空襲や特殊部隊による急襲のような小規模な軍事的手段は、アメリカの安全保障を守る上で適切な手段とはなっていない。「活発な」攻撃でタリバンのムラー・マンスールやアルカイーダのオサマ・ビン・ラディンのようなテロ組織の指導者を殺害することは可能だが、確立されたテロ組織自体を壊滅することはほぼ不可能だ。そして、法と秩序の維持を実行できる自生的な政府機関を構築することは不可能だ。

 

 アメリカには、無秩序に陥った国々で、より良く機能する政府機関を作り上げる、いわゆる政府機関創設能力を持つ文民側の行政機関が必要だ。国務省や農務省といった様々な連邦政府の省庁はそれぞれが政府機関創設プロジェクトを行っているが、それを主要な目的にしている訳ではない。政府機関創設準備の失敗が明らかになったのは、2003年のイラク侵攻の時だ。当時のブッシュ政権は、サダム・フセイン政府から引き継ぐために、機能不全に陥った連合国暫定当局を創設したが、悲劇的な結果になった。この結果は予測されていた。現在、国家機関創設事業は、アメリカ軍に押し付けられている。アメリカ軍は他にも多くの任務をこなさねばならない。アメリカ軍は急ごしらえで国家機関創設を行える能力を持ってはいるが、しっかりと計画を立て確実に実行するまでの能力は備えていない。

 

 アメリカは、国家機関創設を目的とする政府機関を必要としている。軍事占領をせずに、つまり、アメリカ軍の駐屯を必要とせずに自国の領土を守れるようにするために、アメリカの同盟諸国の助けを借りながら、国家機関を作ることにまい進する連邦政府の機関が必要なのだ。幸運なことに、アメリカ政府には既にこの目的にうってつけの機関が既に存在している。それがアメリカ国際開発庁(U.S. Agency for International DevelopmentUSAID)だ。しかし、外国の国家機関創設という目的を達成するためには、USAID自体を変革する必要がある。USAIDは少ない労力で最大の成果を上げるような組織にならねばならない。USAIDは、戦略的に重要な国々での中核的な機能を強化するような事業を行うべきだ。世界各地の全ての貧困国で活動することで組織自体を拡大すべきではない。

 

 USAIDの2016年度予算は、223億ドル(約2兆4000億円)である。その中で、107億ドル(約1兆500億円)は、USAIDが直接管理し、運用できる中核的予算である。その中で、外国の国家機関創設に使われる予算は、24億ドル(約2700億円)のみだと考えられている。その他の予算は、貧困解消、世界各国の健康状態の改善、女性の地位向上、教育、衛生、経済発展、農業改良に使われている。これらの事業は素晴らしいものだ。しかし、USAIDは、これらの事業に関して、これらの分野で活動する国連や世界銀行のような国際機関とオックスファムとアフリケアのような非政府組織と比較して、優れた成果を上げているとまでは言えない。従って、USAIDは、これらの分野を国際機関や民間組織に任せるべきだ。そのために、これらの分野で活動するNGOへの支援を削減すべきだ。

 

 USAIDと擁護者たちは、USAIDが行うことは全て、外国の国家機関創設に貢献するためのものだと主張するだろう。USAIDは外国で衛生、電気、環境保護のような公共財の支援を行っている。成功している国々というのは、こうした公共財の国民への提供を行っている国々のことだと考えられている。USAIDのウェブサイトには次のように書かれている。「国民への衛生、安全、福祉の提供を確保できる政府や機関が存在する時のみ、進歩は継続される」。これは正しい。しかし、これらの国々が公共財を国民に供給するから、これらの国々は成功していると言われているのではない。これらの国々は国家機関創設に成功しているから、公共財を供給しているのだ。USAIDは、公衆衛生や教育、その他の分野で一時的に成果を上げるよりも、支援している国々がそれぞれの抱える問題に対処できるように国家機関を創設し、その能力を引き上げることに力を注ぐべきだ。そうした事業がたとえ、USAIDの理想からかけ離れたものであったとしても、そうすべきだ。

 

 発展途上諸国では、民主政治体制がぜいたく品となっている場合が多い。しかし、USAIDの外国の国家機関創設に関するプログラムは、「民主政治体制・人権・統治」プログラムと名付けられている。最も重要な問題である「統治」が最後にきている。これは、USAIDが、政府機関を一から作り上げ、育て上げるという仕事よりも、選挙、政党、市民社会の組織の育成に力を入れていることを示している。しかし、非民主的な国々が責任ある行動を取る限りにおいて、アメリカはそれらと共存できる。ヨルダンとシンガポールはアメリカにとって緊密な関係にある同盟国だ。韓国、チリ、インドネシアのような現在の同盟諸国の多くは元々非民主的であったが、今は民主国家になっている。アメリカは、エジプトやヴェトナムのような戦略的に重要な国々の人権侵害を見て見ぬふりをする傾向にある。これには批判的な人も多い。

 

 無政府状態の場所が世界各地にある状態で、アメリカは生きていくことが出来ない。なぜなら、それらの土地は、テロ組織、犯罪組織、伝染病、難民、その他の諸問題を生み出し、世界中に送り出すからだ。代議制の機関を育て上げることは、全米民主政治体制のための基金(National Endowment for DemocracyNED)にとってはふさわしい仕事である。しかし、USAIDは、民主的な統治よりも実際に成果が上がる統治の方に主眼を置くべきだ。

 

 電気から自由な選挙まで、誰からも歓迎されるが緊急的に必要とは言えないサーヴィスばかりをやるのではなくて、USAIDは安定した国家にとっと必要不可欠な事業に集中すべきなのだ。そうした事業として、暴力の正当な使用を独占できる軍隊や警察などの訓練、正義を実行することが出来る裁判所の支援、根深い腐敗に負けない職業意識の高い公務員の育成と支援、透明性を確保しながら税収を確保することが出来る財政システムの構築が挙げられる。現在のUSAIDはこうした事業を行うだけの能力を持っていない。これらの事業を適切に行うための政府機関はアメリカ国内に存在していない。たとえば、アメリカ軍は外国の軍隊を支援している。しかし、肝心の外国の警察と裁判所を支援するという仕事は、国務省と司法省に任せる。国務省と司法省は、価値観が疑わしい契約業者にこれらの事業を丸投げしてしまう。USAIDは、あまり重要ではない事業から手を引き、機能を起用化する方向に進むべきだ。言い換えるなら、USAIDは、モザンビークでトイレを作る仕事は、平和部隊(Peace Corps)に任せるべきなのだ。

 

 USAIDは現在100を超える国々で活動している。そのうちの約半数の国々で、「民主政治体制・人権・統治」に関するプログラムを実行している。このように手広く事業を展開すると、一つ一つの事業の内容が薄くなってしまう。現在の職員の数と予算から考えて、30から40までに事業対象国を絞らないと成果を上げることはできない。アメリカにとって重要な外国における国家機関創設という目的を達成するために何も今以上の予算を付ける必要もない。

 

 USAIDは、アメリカの戦略にとって極めて重要な、効果をあげられる国々に努力を傾注すべきだ。アメリカにとってイスラム教徒によるテロ攻撃は脅威となっている。この状況下では、イスラム教徒の人口が多い国々を優先すべきだ。こうした国々は、西アフリカから東南アジアまでの「不安定の弧」に位置している。リビア、ソマリア、シリア、イエメンのような国々では、中央政府は存在しないか、とても弱体化している。

 

 トルコやペルシア湾岸の君主国のように比較的富裕な国々、そしてスーダンやイランのようにアメリカに敵対的な国々は除外する。パキスタンやパレスティナ政府のような名目上の同盟国に対して支援を行うかどうかを判断することは大変難しい。それは、これらの国々の政府はテロを支援しているからだ。USAIDが成果を上げられないなら(政府機関がその基本的な機能を果たす能力を上げることができないなら)、USAIDは関わるべきではない。

 

 USAIDは、イスラム過激主義の拡散を止めるために、各国の地方政府の統治能力を確立する仕事をしている。しかし、それよりも、他国に従属させられる危険に直面している戦略的重要な国々の国家機関創設事業に集中すべきだ。ロシアからの進攻の危険があるウクライナとグルジア、中国からの進攻の危険があるモンゴルとミャンマー、巨大な麻薬密売組織の卿に晒さられている南米諸国、特にコロンビア、エルサルヴァドル、グアテマラ、ホンデュラス、メキシコといった国々に集中すべきだ。USAIDはこれらの国々には既に進出している。しかし、曖昧な目標と手を広げ過ぎた事業のために、基本的な政府機能の確立を重要としている、破綻国家になりかねない国々に予算と人材を重要な事業に集中させることが出来ていないのだ。

 

 こうした事業は重要である。そして、現在、USAIDが活動している国のうち、半分の国では必要ではない事業である。USAIDは、レソトやマダガスカルのような戦略的に重要ではない国々や中国のようなアメリカに友好的ではない国々、インドのような発展著しい国々に対して、基本的に不足している予算を投入すべきではない。予算と人材は、地政学的に見返りが大きい国々に投入すべきだ。

 

 外国の国家機関創設をより効果的に行うために、USAIDはその方法を変える必要がある。そのためには、USAIDはアメリカ軍から学ぶべきだ。最近の外国の国家機関創設の経験から教訓を学び取り、外部の専門家たちに事業の成果を精査し、評価してもらうのだ。USAIDが使っている契約業者や職員が事業の成果を評価するべきではない。取り敢えず予算が消化されたからその事業は成功したと言うのではなく、失敗したなら失敗したとはっきりさせるべきだ。

 

 USAIDは内部の官僚機構を合理化すべきだ。現在、USAID内部には、14の局と11の独立した事務局が存在するが、これほど多くの部局は必要ではない。USAIDには管理局が存在するが、それなのに他に、人的資本・才能管理事務局が存在する必要があるだろうか?中間管理者たちに、大きな出来事が起きた際には、部局の垣根を越えて、予算や人材の配分を変更するための責任と権限を与えるべきだ。ロビイスト、弁護士、補助金行政の専門家たちを使って、複雑な契約をして、補助金をがっぽりと稼ぐ、ワシントンに本社を置く決まった契約業者ばかりを使うべきではない。例えば、2010年に発生したハイチの大地震の後、USAIDは、アメリカ連邦議会に承認されて、36億ドル(約4000億円)を支出した。AP通信の報道によると、全支出のうち、ハイチの企業に流れたのは、1.6%しかなかった。USAIDの援助予算の最大の受け手は、ワシントンに本社を置く、USAIDからの補助金を特に受けているケモニクス・インターナショナルであった。

 

 USAIDが契約業者への依存を減らすためには、職員たちを変革する必要がある。USAIDの職員たちは、才能はあるのだが、国家機関創設にとって必要な知識を持つ専門家ではない。土木工学、都市管理、公務システム開発、治安維持、開発経済の専門家はほとんどいない。職員の多くは、国際関係論の修士課程を修了したばかりで、政府機関やビジネスの警官が乏しい。USIADは、巨大組織の運営や外国文化の中での勤務の経験豊富な中途採用の専門家をより多く採用すべきだ。そうした人材の供給源として、アメリカ陸軍が考えられる。アメリカ陸軍では現在、国家機関創設の経験を持つ将校たちが多く除隊させられている。

 

 これまでに提案してきたいくつもの変革案はどれを行うにしても、既得権益を持つ勢力によって激しい抵抗に遭うだろう。USAIDのプログラムが撤退する国々からは不平不満が出るだろう。USAIDの職員や契約業者で仕事や補助金を失う人々もまた不平不満を訴えるだろう。USAIDの変革を成功させるには、次期政権がUSAIDの変革を重要政策に位置付けるしかない。

 

 もちろん、USAIDを再編しても、全てのケース、もしくはほとんどのケースで国家機関創設に成功する保証はない。国家機関創設は大変な困難の伴う事業なのだ。しかし、アメリカには、コロンビア、東ティモール、エルサルヴァドル、ドイツ、イタリア、日本、コソヴォ、フィリピン、韓国と言った共通点のない様々な国々の国家機関創設に貢献してきた歴史がある。USAIDはこうしたケースで一定の役割を果たしてきた。USAIDがこれからどれくらい成功を収めることが出来るかを予測することはできないが、政府の基準から見て比較的適当な投資でいくつかの成功が収められたら投資に見合っていると言える。アメリカが際限のない軍事介入を避けて破綻国家の問題に対処したいと望むなら、国家機関創設以上の選択肢はない。アメリカ政府が外国の国家機関創設で成功しようという場合には、再編されたUSAIDが主導的な立場に立たねばならない。

 

(終わり)





 

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 古村治彦です。

 

 昨日、2016年4月24日に北海道第5区と京都第3区で衆議院議員補欠選挙が行われました。北海道では自民党の 京都では民進党の がそれぞれ当選しました。

 

 今年は夏に参議院議員の通常選挙が行われます。また、政界では、安倍晋三首相がそれに合わせて衆議院を解散して、いわゆる「ダブル選挙」を行うのではないかという話も出ています。ダブル選挙で勝利を収めた場合、政権基盤はますます強固になります。ですが、ダブル選挙となると与野党ともに準備が大変ですし、与党が敗北した場合には安倍首相の退陣にまで話が及ぶという危険もあり、大きな賭けとなります。

 

 1986年の衆参ダブル選挙では、公職選挙法改正もあって、「衆議院の解散はない」と当時の中曽根康弘内閣の後藤田正晴官房長官が「煙幕」を張っていたこともあり、「抜き打ち」解散によるダブル選挙が成功し、野党側は準備をしていなかった(民社党の春日一幸最高顧問は見抜いていたが執行部が油断していたという話もあります)ために、与党が圧勝し、派閥の規模が小さく、田中派の影響下にあった(田中曽根内閣と呼ばれた)、中曽根政権の基盤強化につながりました。

 

 話が飛んでしまいました。私は、選挙の結果と共に、両選挙区での投票率を見ていたのですが、北海道で約57%、京都で約30%いう結果になりました。北海道の結果を先に見て、「かなり注目された選挙だったけど、ちょっと低かったな」と思ったのですが、京都の結果を見て、大変驚きました。確かに補選が行われる理由が理由でしたし、自民党は候補者を出せないという状況ではありましたが、それでも30%そこそこ、あやうく30%を切ってしまうという数字でした。「プロ野球の打者だってもっと高い打率を残す選手がたくさんいるのに」と、野球好きなもので、思ったほどでした。

 

 この低投票率については、何も今回のことだけではなく、また、北海道や京都に限った話ではありません。これまでも多く目にしてきたことです。政治に参加することは、これまで人類の歴史において、多くの血が流された結果、獲得された権利ですから、それを行使すべきだということを声高に叫んでみても、それで投票率が上がるということは残念ながらありません。それは、私たちの中に「政治に参加する権利を人々が多大な犠牲を払いながら獲得したもの」という意識や、「自分が当事者である」という意識が欠如しているからだと思われます。

 

 このことについて、思い出されるのは、戦後日本政治学の泰斗であった丸山眞男(1914~1996年)です。丸山は、1944年に『国家学会雑誌』第58巻3・4号に「国民主義理論の形成」という論文を掲載しました。この時、東京帝国大学法学部助教授であった丸山は応召し、再び帰って来られないという気持ちを抱きながら、この論文を発表したといわれています。この論文は後に、「国民主義の『前期的』形成」と改題され、『日本政治思想史研究』(東京大学出版会、1952年/新装版:1983年)に収められました。また、法政大学教授・杉田敦編『丸山眞男コレクション』(平凡社ライブラリー、2010年)にも入っています。

 

 この論文で丸山は大略次のようなことを主張しています。かなり乱暴ですが、大まかにまとめます。

 

ある集団が国民となるには、国民意識が必要である。日本の場合は、西洋列強の来航によって、国民意識が醸成された。それまでは、日本国内に住む人々は、支配階級(侍)と被支配階級(侍以外)に分けられ、地域的にもそれぞれの藩が大きな権利を持っていたために、国内で統一的な意識が無かった。この分裂状態を江戸幕府は支配のために利用した。江戸時代、被支配階級は政治に参加することは許されず、その権利は与えられなかった。

 

 幕末には海外列強の来航により、危機感が醸成され、国防のための統一的な国家が必要だという主張がなされるようになったが、江戸幕府は自分たちの支配の前提が崩れることを恐れてこれを弾圧した。しかし、こうした集権的な国家論が拡大していく。そして、尊王攘夷論に結びついていくが、上層武士は体制変更を望まない形、下級武士は体制変更、つまり討幕まで主張するようになった。そして、倒幕が実現した。

 

 統一的な国家、つまり明治新政府が誕生したが、その過程で、政治の中央集権化と国民意識の拡大という2つの動きがあったが、政治の中央集権化は成功し、国民意識の拡大は中途半端に終わった。資本主義の発展段階になぞらえて、これを国民主義(ナショナリズム)の「前期的』形成と呼ぶ。

 

 私たちが政治をどこか他人事としてとらえるのは、丸山の唱えた「国民主義の『前期的』形成」段階から、進歩していないからではないかと思います。ここで言う「国民主義」とか「国民意識」について簡単に定義するならば、「自身も国民として政治に参加する権利と責任を持つ」ということだと思います。この点で、私たちは、まだまだ進歩、発展、展開する余地を多く残しているものと思われます。

 

 TwitterFacebookなどのSNSの発達に伴って、かなり詳細な情報や個人の率直な感想や行動を目にすることが出来るようになりました。今回の補選を見ていて思ったことは、政治に関係する場合に、当事者と傍観者に大きく分かれるが、その分かれ方やその程度のために、政治に参加することが億劫に感じられてしまうことが出てくるということです。

 

 話は大きく飛びますが、戦国時代、合戦や戦があると、近隣の住民たちは、山の上などに避難し、そしてお弁当を持って見物に出かけていたという話を聞いたことがあります。戦の展開によってはとばっちりで巻き込まれることもあったでしょうが、スポーツ観戦のような感覚だったんだろうと思います。しかし、当事者たちは現在のスポーツとは大きく違って、命のやり取りをするわけですから、目が血走っていったり、極度に興奮したりしていたことでしょう。私は現在の日本の政治も同じだなと思います。

 

 選挙となった場合、立候補者と選挙の手伝いをする人々や応援をする人々は必死です。戦国時代の戦のように物理的に生命を取られることはありませんが、色々な思いや背景があって、当選しようと必死です。そして、その周囲には、遠巻きに見ている人たちがいます。彼らは選挙の結果にも影響を与える有権者ですが、傍観者であり、だれが勝つか負けるか(生き残るか)を冷ややかにかつ面白そうに見ています。当事者と傍観者の間に大きな溝があり、分裂があります。

 

 当事者たちは傍観者たちに投票を訴えるわけですが、その表情はこわばり、その訴える声はとても大きくなります。そうなると、傍観者たちは、恐怖感を感じます。自分たちは、何も被害が無いところで、面白いゲームを見せてもらいたいだけのことなのに、時に叱咤されるようなことまで言われて、不愉快だということになります。当事者たちは、自分たちの訴えは正しいのにどうして届かないのかということになって、途中で脱落する人やもっと力みあがってしまう人まで出てくることになります。

 

 そうなると、当事者と傍観者の間に溝はもっと大きくなり、政治に参加すること、つまり当事者になることは、ちょっとおかしくなることだ、普通ではなくなることだという間違った意識が出てきて、政治は怖い、ということになり、傍観者たちは本当に傍観するだけ、最低限の投票にすらいかないということになります。

 

 良く考えてみれば、当事者も傍観者にも政治に参加する権利は保障されており、かつその責任もあります。しかし、政治はとても特別な行為ということになってしまいます。

 

 そして、私たちの中に「政治は自分たちは関係ない」「空中戦を見ているようなものだ」という意識がある、「国民主義の『前期的』形成」段階から抜け出していないという状況となると、ますます、政治から足が遠のく人たちが出てくるのは当然です。

 

 それならどうしたらよいのかということになると、即効性のある妙案は浮かびません。「投票に行かなければ罰則」ということがデモクラシーに合った方式とも言えません。何かに強制されて投票するという行為は人々の自発的な行為を制限するということになります。

 

 これに近道は無いように思われますが、まずは政治にかかわることは怖いことであるとか、政治は玄人のものという意識を弱めることが必要ではないかと思います。そのためには、当事者の人たちは忍耐強くかつ穏やかに行動すべきでしょうし、傍観者の方もまた、ちょっとした勇気を出してみることではないかと思います。こんなことは当たり前で、もうやっているという方も多いと思いますが、投票率の低さということを考えると、こうしたことがもっと広がっていくべきではないかと思います。

 

(終わり)





 

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