古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:ドナルド・ラムズフェルド

 古村治彦です。

 2025年11月21日に『シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体』 (ビジネス社)を刊行します。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
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シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体 
 最新刊の刊行に連動して、最新刊で取り上げた記事を中心にお伝えしている。各記事の一番下に、いくつかの単語が「タグ」として表示されている。「新・軍産複合体」や新刊のタイトルである「シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体」を押すと、関連する記事が出てくる。活用いただければ幸いだ。

 911テロ事件(2001年)が発生した当時のジョージ・W・ブッシュ政権(2001~2009年)の副大統領を務めたディック・チェイニーが今年2025年に死去した。ジョージ・W・ブッシュ(子)政権の副大統領、実質的には大統領として、「影の大統領」として、911テロ事件後のアフガニスタン戦争、イラク戦争を主導し、アメリカを泥沼(quagmire)に引きずり込んだ。毀誉褒貶の多い政治家だった。

 チェイニーはイェール大学に入学したが、勉学に身が入らず、中退する羽目になった。故郷のワイオミング州に戻り、建設業に従事したが、生活は乱れ、酒におぼれ、飲酒運転で逮捕されるということもあった。高校時代からの恋人リンがチェイニーの生活を立て直し、チェイニーはワイオミング大学に編入学し卒業できた。リンと一緒にウィスコンシン大学大学院に進学した(リンは文学専攻、チェイニーは政治学専攻)。大学院在学中にウィスコンシン州のウォーレン・ノールス州知事のスタッフとなり、そこから政治の世界に入った。

連邦議会フェローシップでワシントンに行き、そこで当時若手の連邦下院議員だったドナルド・ラムズフェルドと知り合い、ラムズフェルドがリチャード・ニクソン大統領の辞任後に大統領に昇格したジェラルド・フォード大統領によって大統領首席補佐官に任命された際、チェイニーはラムズフェルドの首席補佐官となり、ホワイトハウス入りした。そして、ラムズフェルドが1年で大統領首席補佐官から国防長官に転身すると、大統領首席補佐官となった。当時34歳、史上最年少の大統領首席補佐官就任だった。フォード政権終了後は1979年から1989年までワイオミング州選出の連邦下院議員(5回当選)を務め、連邦下院共和党内で地歩を固め、政策委員長、共和党連邦下院議員会長(序列第3位)、連邦下院少数党(共和党)院内幹事(序列第2位)を務めた。院内総務、連邦下院議長を狙える位置にいたが、1989年、ジョージ・HW・ブッシュ(父)政権の国防長官に就任した。1991年の湾岸戦争を主導したことで知られる。

ビル・クリントン政権時代は、ハリバートンでCEOを務めた。チェイニーはリバートンの最大の個人株主であった。ハリバートンは、世界最大の石油掘削機の販売会社であり、イラク戦争後のイラクの復興支援事業やアメリカ軍関連の各種サービスも提供したことでも知られている。湾岸戦争と後のイラク戦争で巨額の利益を得た。

 2001年からのジョージ・W・ブッシュ(子)政権では副大統領を務めた。前述した通り、911テロ事件後のアフガニスタン戦争とイラク戦争を主導し、アメリカを泥沼に引きずり込んだ。チェイニーの基本的な考えは、「アメリカ大統領への徹底的な献身」であり、「大統領権限の強化」である。このことを1970年代から半世紀近くにわたって矜持として持っていた。「強い大統領」が多くのことを決定するという考えである。これは、現在で言えば、単一執行権理論(Unitary Executive Theory)と呼ばれる考えであり、その先駆けであった。ジョージ・W・ブッシュ政権下でのアフガニスタン戦争とイラク戦争の遂行で、大統領の権限強化が進められたが、このことを説明する理論が単一執行権理論である。現在のトランプ政権の動きもこの理論で説明できる。もちろん、三権分立(separation of power)を弱めるという批判もある。アメリカの民主政治体制への信頼が揺らぐ中で、賢人王(哲人王)への希求が高まっている。チェイニーはその先駆けとなった人物と言えるだろう。

(貼り付けはじめ)

対テロ戦争の設計者ディック・チェイニーが死去(Dick Cheney, Architect of the War on Terrorism, Dies

-元アメリカ副大統領は大統領と国家の権力強化を目指したが、最終的には両者を弱体化させた。

ジェフリー・A・エンゲル筆

2025年11月4日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2025/11/04/dick-cheney-obituary-legacy-iraq-war-bush-torture-9-11/?tpcc=recirc_latest062921

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2005年12月18日、イラク西部のアル・アサド空軍基地で海兵隊員たちに演説を行うディック・チェイニー米副大統領

1941年、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦し、世界との関係を根本的に変革した年に生まれたリチャード・ブルース・「ディック」・チェイニーは、人脈と強い信念を武器に、30代半ばを迎える頃にはアメリカ政界の中心へと華々しく上り詰め、40年近くその地位に留まった。11月3日、肺炎と心血管疾患の合併症により84歳で逝去した。

物腰柔らかで、自らの判断力に極めて自信を持っていたチェイニーのキャリアは、世界におけるアメリカの役割が絶えず変化していく中で、変革をもたらす可能性と、同時に、人々を不安にさせる不安を象徴するものとなった。チェイニーはヴェトナム戦争後に海外でのアメリカ軍の展開に課された制約に難色を示し、1990年代初頭には当初アメリカの冷戦と湾岸戦争での勝利に疑問を呈しながら、その後はアメリカの勝ち誇った態度(triumphalism)を共有し、911テロ攻撃に対するワシントンの恐怖と攻撃的な反応を体現し、そして最終的には混沌とした世界における完璧な安全を求めて、アメリカ史上最悪の戦略的決定の1つに数えられる2003年のイラク侵攻と占領の指揮に協力した。

2009年に正式に公職を退く頃には、彼の助言はほぼ無視され、アメリカは就任時よりも貧しく、弱体化し、分断が進み、国際的な人気も低下していた。また、アメリカ本土で911同時多発テロのような別のテロ攻撃に見舞われることもなかった。

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1975年4月18日、当時大統領次席補佐官だったチェイニー氏は、ワシントンのホワイトハウス閣議室で話を聞いている

ネブラスカ州とワイオミング州で育ったチェイニーは、若い頃から公職で成功するために必要な知性(the intelligence)は備えていたものの、規律(the discipline)は身につけていなかった。「ビールこそが人生に欠かせないものだという信念を共有していた(shared my belief that beer was one of the essentials of life)」同級生たちと過ごす時間が長すぎたため、イェール大学を2度にわたって退学処分された後、故郷に戻り建設業に就き、将来は不透明だった。「イェール大学を退学処分になった後、私は悪い道を歩み始めた。22歳の時、飲酒運転で2度逮捕されてしまった」とチェイニーは2015年に当時を振り返ってこのように語った。「刑務所にも行った。・・・それが私にとっての目覚めの音(a wake-up call)となった」。高校時代の恋人リン・ヴィンセントからの最後通牒(an ultimatum)も同様に彼を突き動かした。リン・チェイニーは後に「最終的には、田舎の電線作業員とは結婚する気はないとはっきりと言った」と述べている。

同時に、チェイニーはヴェトナムにおけるアメリカ軍の泥沼に自ら関与する気はなかった。家族や学業上の理由で5回も徴兵猶予(draft deferments)を受けた。「1960年代は兵役よりも優先すべきことがあった」と彼は数十年後に語っている。そのなかにはウィスコンシン大学大学院での勉学も含まれていた。リンはそこで文学を学び、チェイニー自身も政治学の博士号を取得することを目指していたが、結局は取得しなかった。兵役義務の年齢制限に達すると、チェイニーは連邦議会フェローシップを熱心に受け入れた。このフェローシップは、政治を単に学ぶだけでなく、実際に政治に関わる機会を与えてくれた。

チェイニーは、当時イリノイ州選出の若手連邦下院議員だったドナルド・ラムズフェルドとの最初の面談について「面接で落とされた」と語った。フェローシップは連邦議会のスポンサーを見つける必要があり、ラムズフェルドに十分な印象を与えることができず、彼のスタッフに加わることができなかった。チェイニーは、当初ウィスコンシン州選出のウィリアム・スタイガー連邦下院議員の事務所に入ることができた。それでもラムズフェルドは後にチェイニーをリチャード・ニクソン大統領の経済機会局the Office of Economic OpportunityOEO)に入れた。ラムズフェルドとチェイニーはその後数十年にわたり、政治的にも個人的にも深い結びつきを持ち続けた。1974年、ジェラルド・フォード大統領がラムズフェルドにホワイトハウススタッフのリーダーを任命すると、チェイニーは33歳にしてラムズフェルドの主席補佐官となった。

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1974年11月16日、ホワイトハウスのウエストウイングのオフィスで、ベティ・フォード大統領夫人と話す大統領首席補佐官ドナルド・ラムズフェルド(左)と大統領次席補佐官ディック・チェイニー

チェイニーがわずか5年で連邦議会の一スタッフから大統領補佐官へと驚異的な出世を遂げたことは、近接性と人脈(proximity and personal connections)の力だけでなく、粘り強さ(perseverance)の証明でもあった。チェイニーはラムズフェルドに対する最初の悪い印象を、自ら進んで経済機会局の再編案を提出することで覆し、ラムズフェルドが国家において存在感を増すにつれ、忠実で信頼でき、いつでも対応できる人物であることを示した。ラムズフェルトは「ディックに何かを任せると、それは実現した。必ず実行された」と述べている。

フォードはチェイニーに注目した。1975年に大規模な閣僚の変更でラムズフェルドが国防長官に就任すると、大統領はチェイニーを大統領首席補佐官に昇格させた。34歳という史上最年少の大統領首席補佐官となり、フォード政権が抱える問題に対応できる実務家としての役割を果たした。フォードは後に、「ディックは素晴らしかった。彼は入ってきて、10項目の議題を処理し、処理し終えて去っていった」と語った。

チェイニーはまた、効果的な「嫌な仕事ができる人間(hatchet-man)」としての手腕も示した。「私の方法は直接的だった」とチェイニーは後に、他人を解雇する手腕と評判が高まったことについて説明している。「ほのめかしも、冷たい態度も、苦痛に満ちた長期の退職手続きもなかった。それらは誰にとっても良くない——大統領にとっても、解雇される側にとっても」と述べた。大統領首席補佐官としての彼の支持基盤はただ1つ、最終的に気にかけた意見もただ1つだった。「大統領の利益に反する行動を取る者は——意図的であれそうでなくとも——ただ去るべきだった」とチェイニーは語った。

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1976年8月7日、メリーランド州キャンプ・デイヴィッドへの週末旅行中にアスペン・ロッジのリビングルームで書類に目を通すホワイトハウス首席補佐官チェイニーとジェラルド・フォード大統領

チェイニーが上司の政策を露骨に優先させたことで、政治的傾向は見えにくくなりながらも、職の安定性は確保された。これは意図的なものだった。彼の唯一の政策は、ウォーターゲート事件とニクソン大統領の辞任を受けて昇格した、選挙で選ばれていない大統領フォードの政策だけだった。政治的に穏健派だったフォードは、チェイニーについて「私に絶対的に忠実だ」と結論付けた。しかし、別の側近はチェイニーを「フォード、ラムズフェルド、いや、チンギス・ハーンよりもやや右派」と考えていた。

チェイニーのホワイトハウス初期の経験は、彼の官僚政治(bureaucratic politics)へのアプローチを形作り、大統領権力への制約に対する生来の嫌悪感を強めた。その点で、彼は20世紀における絶え間ない安全保障危機の中で、大統領が外交においてあまりにも全能になりすぎたという通説に反論した。歴史家アーサー・シュレジンジャーが1973年に主張したように、大統領はあまりにも「帝国主義的(imperial)」だった。東南アジアにおける泥沼の混乱と敗北は、統制されない行政権というより大きな問題の兆候であり、憲法の再構築が必要だという論理が展開された。

チェイニーはこれに反対した。大統領による制約はアメリカの力、特に軍事力の有効性を弱めるだけだと彼は主張した。外交政策はしばしば厳しい選択を迫られ、必ずしも公の場で精査されることが最善とは限らない。時には、有能な参謀総長(an effective chief of staff)と同様に、軍最高司令官(the commander in chief)でさえ国家の優先事項を追求するために、真の戦略や動機を隠さなければならない。「ウォーターゲート事件やヴェトナム戦争をめぐる多くの出来事が・・・(大統領の)権威を弱めることになった」と彼は数年後に説明した。

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1976年10月9日、フォードと共にダラスで選挙運動をしていたチェイニーがバンパーカーを運転している

チェイニーは、真の憲法上の問題は、現代世界が、アメリカ合衆国憲法の起草者たちが想像していたよりもはるかに速く、相互に結びついていることだと主張した。「特に私たちが生きているこの時代においてはそうなっている」とチェイニーは2005年に述べた。もっとも、チェイニーの政治活動のどの年代にも同様の感情が見受けられるが、「私たちが直面する脅威の性質を考えると・・・合衆国大統領は憲法上の権限を損なわれてはならない」。ヴェトナム戦争の真の教訓は、卓越した武力が機能しなかったということではなく、武力が過度に抑制されていたということだとチェイニーは結論づけた。

チェイニーは1980年代初頭、アメリカン・エンタープライズ研究所のフォーラムで次のように語った。「ウォーターゲート事件とヴェトナム戦争のトラウマに苛まれ、私たちは行政機関と連邦議会の関係を改変してきた。その主目的は、過去に起きたとされるような権力乱用を将来にわたり回避することにある」チェイニーは「アメリカは1980年代のどこかで、世界のどこかで武力行使に訴えざるを得ない状況に直面するだろう」と警告した。その避けられない決着の日へ備えるため、「ここ数年の傾向を抑制しなければ、大統領の権威を損なうことになる」とも述べた。

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1984年度予算の行き詰まりを協議するため、当時ワイオミング州選出の連邦下院議員だったチェイニーなど共和党指導部と会談するロナルド・レーガン大統領(1983年517日)

フォードは1976年の大統領選挙で敗北し、チェイニーは束縛から解放された。独立性を貫く彼は、1978年のワイオミング州選出の連邦下院議員選挙に出馬し圧勝した。しかし彼には暗い影が差していた。選挙運動中、チェイニーは恐ろしい心臓発作を起こした。これは今後数年間で彼が経験する一連の心臓疾患の始まりであった。この経験に戒められ、彼は1日に3箱も吸っていた喫煙の習慣を止め、コーヒーの摂取も制限した。しかし、家族や友人の助言にもかかわらず、政治から離れることはなかった。チェイニーは近しい人々の考えを次のように説明した。「賢明な人間なら、自分が送っているこの狂った生活を辞めるのが賢明だ。心臓発作を起こしたのだ。もう諦めて家に帰り、ゆっくり休むべきだ。家族への責任を果たしながら、こんな生活を続けて生き延びられると思うか?」

チェイニーは政界に復帰し、共和党内で急速に地位を固めた。共和党政策委員会の委員長に選出された最年少の連邦下院議員となった彼は、選挙区の支持基盤に沿って、議会で最も一貫して保守的な投票記録の1つを積み重ねてきたにもかかわらず、イデオロギー的な硬直性よりも和解(reconciliation)を重視する姿勢で評判を築いた。ある時、深夜の電話で、彼を「穏健派(moderate)」と呼んだ記者を激しく非難したことがある。しかし、その後、連邦議会での交渉のプロであり、約束を守る人物として知られるようになった。

しかし、大統領の権威に対する揺るぎない信念は変わらなかった。ロナルド・レーガン大統領の最初の任期末にチェイニーは次のように書いている。「大統領の外交政策にさらなる制約が必要だと考える人々には、基本的に同意できない。さらなる制約は必要ない。・・・必要なのは、自らの指揮下にある手段を自由に使いこなせる大統領だ」。そして、無知な連邦議員に詮索される恐怖から解放された大統領だ。特にこの時代においては、連邦議員としては異例なことに、チェイニーは行政権を促進し、その効率性、柔軟性、そして他の連邦議員たちが躊躇するだけだった一方で、力強く問題を解決する能力を称賛した。チェイニーは1983年に、「もし大統領が過ちを犯したら、当然その代償を払うことになる。しかし、特定の決定を下す際には、大統領を信頼しなければならない。軍事力が行使される可能性のあるあらゆる状況において、協議と法的議論が可能であるという考えに常に立ち返るのは良いことだが、世の中はそうはいかないのだ」と述べた。

レーガン大統領のホワイトハウスが連邦議会の意見を度々無視したことは、チェイニーの立場を不利に働かせた。レーガン政権第2期には、無許可かつ違法な外交政策の発覚が相次ぎ、イラン・コントラ事件へと発展した。しかし、チェイニーは批判に動じることはなかった。レーガン政権の不正行為に関する正式調査に関する反対意見書(minority report)を主導した際、大統領にも守護者が必要だと考えた。チェイニーは、「連邦下院共和党幹部として、レーガンの選択を支持し擁護するためにできる限りのことをするのが私の責任だ」と述べた。たとえそれが間違っていたとしても、賢明な人物たちが国家の安全保障を念頭に置いて行った選択であり、事後には寛大に評価されるべきであり、あるいは、むしろ全く評価されるべきではないとチェイニーは主張した。

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西ドイツのキルヒ=ゴンスでブラッドレー戦闘車両の能力について説明を受けるチェイニー国防長官(1989年10月26日)

1989年初頭、連邦下院共和党序列第2位だったチェイニーは、連邦下院議長就任を視野に入れつつも、ホワイトハウス復帰への関心を失っていなかった。そして運命と人脈が再び彼を取り巻く。ジョージ・HW・ブッシュ大統領が国防長官に最初に指名した、ブッシュと同じテキサス州出身のジョン・タワーは、その年に連邦上院で否決された。ブッシュ大統領は、主にジェイムズ・ベイカー国務長官とブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官の助言を受け、チェイニーに目を向けた。2人はフォード大統領時代にチェイニーと仕事をした経験があり、彼の能力を高く評価し、判断力を信頼していた。そしておそらくこの時、最も重要なのは、チェイニーがすぐに承認されるだろうと確信していたことだった。2人はまた、チェイニーが大統領権限にどれほど熱心であるかを身をもって知っていた。 1980年、レーガン政権の首席補佐官に任命された後、ベイカーがチェイニーに助言を求めた際、ワイオミング州唯一の連邦下院議員が最初に助言したのは「行政府の権力と権限を回復すること(restore power and authority to the executive branch)」だった。

国防長官を務めるには、まさに目まぐるしくも気が遠くなるような時代だった。冷戦終結が近づく中、超大国間の関係は流動的であり、その波紋は世界中に広がっていた。そうした波紋の1つが中東で生じた。チェイニーは、1990年から1991年にかけてイラクが隣国クウェートへの征服を試みた動きを阻止するため、アメリカが主導し国連が承認した戦争の主要な立案者だった。しかしチェイニーは戦争の初期段階では支持派ではなかった。チェイニーは、イラクのサダム・フセイン大統領による侵攻後の最初の緊急会議で大統領と国家安全保障会議に「世界は石油を切実に必要としている」と訴えた。チェイニーは、イラクのサダム・フセイン大統領による侵攻後の最初の緊急会議で大統領と国家安全保障会議に「貧しいクウェートにはほとんど関心がない」と述べた。チェイニーは、米国もそうであると主張した。クウェートの石油こそが真に重要なものだった。

チェイニーはソ連の改革や超大国関係における新たな平和的時代の展望に対しても、同様の冷徹な計算を適用した。他の人々がソ連指導者ミハイル・ゴルバチョフの民主化への約束を称賛する中、チェイニーはブッシュ(父)政権最高幹部の中でも、ゴルバチョフが提案した改革の誠実さやその妥当性さえも疑う懐疑派(skeptics)の1人であり続けた。チェイニーは1989年に国防長官に就任して間もなく公の場で次のように主張した。「冷戦の終結を宣言したい人間たちがいる。彼らは脅威が大幅に減ったと認識し、警戒レヴェルをそれに応じて下げられると信じたいのだ。しかし私は慎重さが求められると考える」。この発言はゴルバチョフを不安にさせ、ゴルバチョフはイギリスのマーガレット・サッチャー首相に電話し、ブッシュ大統領がチェイニーのような人物の影響を強く受けており、「我々のペレストロイカの成功、ソ連の新たなイメージの構築が西側にとって有益ではない」と信じていると不満を訴えた。

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ジョージ・HW・ブッシュ大統領とチェイニー国防長官がホワイトハウスのローズガーデン付近を歩きながら、砂漠の嵐作戦の準備について話し合っている(1991年頃)

ゴルバチョフが、チェイニーの真意を聞いていたら、さらに不安になっただろう。「独裁政権に服従している人々に自由の息吹が与えられることを、私たちは十分に期待できる」と、ペンタゴンでの最初の夏にチェイニー副大統領は記している。彼は続けて「しかし、希望だけで国防政策を決定づけることはできない。グラスノスチ(glasnost)とペレストロイカ(perestroika)の結果がどうなるかは確かではないし、ソ連経済がより近代化されたからといって、ソ連軍の脅威が軽減されるとも断言できない」と書いている。したがって、チェイニー副大統領は「(ソ連の力を封じ込めて、対抗するために)効果的な政策を、希望があるという理由によって放棄すべきだと考えるのは危険だ。極めて危険だ」と結論付けた。

ゴルバチョフが嘘をついている可能性、あるいは彼の成功がソ連の強気派の台頭につながるといった可能性は、チェイニーがアメリカの防衛体制強化を勧告するのに十分な理由だった。しかし、チェイニーは大統領の権威を重んじており、上司への揺るぎない忠誠心もその一因となった。自分の見解がブッシュの考えと合致しないと告げられても、チェイニーはソ連問題でもクウェート問題でも、直ちに政権の方針に従った。彼の考えでは、大統領の下で働く者には真の顧客であり支持者となる存在はただ1人しかおらず、その人物こそがたまたま世界で最も権力のある人物、アメリカ合衆国大統領であった。

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1991年、サウジアラビアの某所にある秘密のF-11基地の格納庫で、チェイニーと統合参​​謀本部議長コリン・パウエル将軍がアメリカ軍兵士たちに演説している

クウェートに対する戦争計画を策定し、実行するのはチェイニーと当時統合参謀本部議長だったコリン・パウエルの責務であり、2人はためらうことなく、持てる限りの軍事力の行使を求めた。これはヴェトナム戦争の二の舞ではない。今回は「軍関係者が、文民の支持を得ていないなどと言い訳することは不可能だ」とチェイニーは回想している。

ブッシュ大統領はチェイニーとパウエルの要請を受け、テーブルから立ち上がり部屋を出て行った。その時に「君たちの言うことはよく分かった。アメリカ軍がもっと必要であれば言って欲しい」と述べた。チェイニーは驚きつつも、同時に喜びも覚えていた。「大統領は自分が今承認したことを理解しているのか?」と声に出して自問した。信じられないというよりは、むしろ確認の意味でそのような行動を取った。ブッシュ大統領は戦争担当者たちに、アメリカの力を最大限に活用する自由を与えた。これはヴェトナム戦争時代の前任者たちには与えられなかった裁量権だった。

一世代の中で最大規模のアメリカの海外軍事遠征(the largest U.S. overseas military expedition in a generation)が実施され、それは成功を収めた。しかしチェイニーとパウエルは、クウェートの解放が確実になればブッシュ大統領は戦闘を終結させ、イラクの長期占領につながるようないかなる措置も避けるべきだと助言した。ブッシュ大統領は、彼らの勝利のスピードに驚き、わずか100時間の地上戦で本当に戦争を終わらせるべき時なのかと自問した。チェイニーは後に「そこにいた私たち、軍民の全員の意見はイエスだった。私たちの目的はクウェートの解放だった」と述べた。

その目的が達成され、勝利を宣言し、感謝する同盟国からの称賛を受けると同時に、アメリカの軍事力の鮮明な示威に震え上がった世界中の人々の尊敬を集める時が来た。「この全てを通して、アメリカは明らかに世界唯一の真の超大国(the one real superpower in the world)として出現した」とチェイニーは誇らしげに語った。ヴェトナムの亡霊はついに払拭されたのだ。チェイニーは更に「アメリカのリーダーシップ能力は改めて実証された」と述べた。地球上のどの国も、アメリカのスピード、富、そして殺傷力に匹敵しないものとなった。

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1991年6月10日、ニューヨークで行われた湾岸戦争勝利記念パレードに出席したチェイニー、パウエル、そしてノーマン・シュワルツコフ将軍

この成功の鍵は、アメリカが新たな泥沼、特に自国の軍事力と技術的優位性(military and technological advantages)にそぐわない泥沼に陥らなかったことだった。アメリカ軍は空、夜、そして広大な砂漠地帯を掌握していた。しかし、都市や民間人の統制については同じことが言えなかった。チェイニーはこの点を、耳を傾ける人全員に、特に大統領に強調した。もしアメリカがフセインを捕らえ、その政権を転覆させていたら、「問題は、その代わりに何を置くかだ」とチェイニーは1992年に説明した。彼は次のように述べた。「その時、イラク統治の責任を引き受けることになる。さらに私の頭に浮かぶ疑問は、サダムがどれだけのアメリカ人の犠牲者を生むに値するのかということだ。・・・そして、その答えは、それほど多くはないということになる」。チェイニーは2000年になっても同じ考えだった。「私たちは今でも正しい決断をしたと思っている」と、副大統領退任後に初めて公開された口述記録の中で語っている。「1991年にバグダッドに行くべきではなかったと思う」。

アメリカの歴史がどれだけ長く研究され、教えられても、この言葉の皮肉は薄れることはないだろう。チェイニーは10年後、まさにそのような占領を主張し、彼の当初の評価が正しかったことを証明するために、一世代のアメリカ軍と同盟諸国軍、そして何百万人ものイラク人が血を流した。この10年間で変化したのは、フセインが驚くべきことに生き延びたことだ。これは長引く傷となった。冷戦後の多くの勝利主義者と同様に、チェイニーは、アメリカの指導力に対する危険な非難であり、ひいてはアメリカの覇権にとっての障害だと考えた。

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共和党大統領候補のジョージ・W・ブッシュと副大統領候補のチェイニーはワイオミング州キャスパーでの最初の訪問中に群衆を見渡している(2000年7月26日)

フセイン大統領は1991年の湾岸戦争を辛うじて生き延びたが、その後の10年間は​​国際制裁やアメリカの圧力を無視し続けた。2000年の大統領選挙で共和党が僅差で勝利し、副大統領として権力の座に返り咲いたチェイニーは、この任務を完遂しようと決意していた。「この男(サダム・フセイン)を始末するつもりか、それともしないのか?」と、2003年のイラク侵攻を前に、ブッシュ大統領が新たな外交措置を議論していた際、チェイニーは挑発的に問いかけた。外交ではアメリカの力、そして大統領が持つ強大な力を十分に発揮することはできないとチェイニーは考えていた。

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左:2001年9月11日のテロ攻撃後、ホワイトハウスを出発するチェイニーと妻のリン・チェイニー。右:キャンプ・デイヴィッドへ向かう途中、マリーン・ツーに搭乗するチェイニー

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2001年9月11日のテロ攻撃について話し合うチェイニーとブッシュ

恐怖が変化を促した。キャリアを通じて一貫して大統領権限を擁護してきたチェイニーが、イラク問題、占領の責任を負うことになってもフセイン打倒が必要だという考え(the need to topple Hussein even given the responsibility of occupation)、について心変わりしたのは、2001年9月11日のテロ攻撃が生み出した恐怖によるものだった。ハイジャックされた飛行機がワシントンに急降下する中、地中深くのホワイトハウス地下壕に身を潜めたチェイニーは、初めて暴力と権力の標的となる感覚を味わった(Cheney for the first time felt what it was like to be on the receiving end of violence and power)。それはトラウマ的でありながら、同時に物事を明快にした。あの忘れがたい日の終わりに、煙を上げる国防総省上空を飛行しながら、彼は後に次のように回想している。「私たちはどのように対応すべきか、アメリカの力と影響力をいかに発揮すべきかを考え始めた」。

チェイニーは前年2000年に共和党の副大統領候補に指名された(彼は選考プロセスも主導した)。外交経験の乏しい大統領選挙候補者ブッシュ(子)に重みと経験をもたらすためだった。彼は今や新たなテロ脅威への最大限の攻撃的対応の触媒(a catalyst for a maximally aggressive response to the new terrorist threat)となった。国防長官として復帰した旧友ラムズフェルドと協力し、チェイニーはアメリカの対応を国務省ではなく国防総省と中央情報局(CIA)に集中させることに貢献した。彼は、影響力や威信といったソフトな資源ではなく、アメリカのハードな軍事力を使うことに注力した。アメリカが主導する相互接続性(interconnectivity)、民主的平和(democratic peace)、グローバリズム(globalism)の称賛は、アメリカの国土に死と破壊をもたらした。武力こそがより良く国土を守ることができるということになった。

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2001106日、アメリカがタリバン支配下のアフガニスタン攻撃を開始する前日、ワシントンで会談するチェイニー副大統領とラムズフェルド国防長官(当時)

チェイニーは、国務省の文化的に根付いた行動前の交渉重視の姿勢について、「私の考えでは、国務省は逆のことをしていた」と書いている。外交は時間がかかるものであり、チェイニーの考えでは、外交推進派は、9月の朝に世界がどれほど変化したかを理解していなかった。チェイニーは、「他国を怒らせることを懸念して国益にかなう政策を妥協するのではなく、同盟諸国やパートナー諸国を説得するための外交努力を行いつつ、自国の安全保障に最も役立つ政策を行うべきだ」と主張した。

当時のチェイニーのメッセージは明確で、率直で、そして警告に満ちていた。「テロリストたちに避難所(sanctuary)を与えれば、アメリカ合衆国の激しい怒りに直面することになる」と、911同時多発テロの数日後に公に警告し、これは映画館で歓声をあげるようなクリーンな紛争ではないと付け加えた。チェイニーは「目的を達成するためには、基本的にあらゆる手段を使うことが不可欠になる。外の世界は卑劣で、下劣で、危険で、汚いビジネスであり、私たちはその中で活動しなければならない」と述べた。アメリカ人は「いわばダークサイドで働かなければならない(work sort of the dark side)」とチェイニーは言った。数日のうちに、チェイニーのオフィスは新たな種類の戦争のガイドライン策定を支援した。それは敵という概念だけでなく、概念に対しても戦うものであり、拷問を含むこれまで考えられなかった手段や戦術が新たな影響力を持つものだった。

全員が同意した訳ではない。当時のFBI長官ロバート・モラーはブッシュ大統領に次のように警告した。「もし私たちがこれらの措置のいくつかを実行すれば、テロ実行犯を訴追する能力を損なう可能性がある」。当時国務長官を務めていたコリン・パウエルもまた、世界が過度に好戦的な対応を取れば、世界貿易センターとペンタゴンの煙と瓦礫の中から生まれた国際的な善意が最終的に損なわれることを懸念していた。『ル・モンド』紙の見出しは「私たちは皆アメリカ人だ(We are all Americans)」(フランス語で「私たちは皆アメリカ人だ(Nous sommes tous Américains)」)と宣言した。「もし私たちが単独で行動し、何が最善かを知っていると主張し、世界の支持を失うならば、私たちは戦略的に誤りを犯すことになるだろう」とパウエルは記者団に語った。

チェイニーは、新たなテロ攻撃から国土を守るという点において、国際世論(world opinion)は有益ではあるものの必ずしも必要ではないと考えていた。そして、1970年代における大統領の行動に対する連邦議会の監視と同様に、国際世論は潜在的に制約となると考えていた。チェイニーは同僚たちに次のように語った。「私たちの任務を他者に決めさせてはならない。私たちはアメリカを守るためにあらゆる手段を講じる義務があり、そのために賛同してくれる連合パートナーが必要だった」。しかし、そのような連合はワシントンの行動能力を決して阻害してはならない。そして、国土安全保障の「任務(the mission)」が「連合を定義づけるべきであり、その逆ではない」と彼は述べた。

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2006年4月18日、カンザス州フォート・ライリーで行われた部隊集会でアメリカ軍兵士たちに手を振るチェイニー

チェイニーはブッシュ政権の対応、特によりデリケートな(つまり違法となる可能性のある)側面を主導した。具体的には、アフガニスタンおよび世界各地でアルカイダのテロリスト容疑者たちを逮捕または排除する権限の付与、捕獲された戦闘員とその支持者の無期限拘留、そして彼らが提供する可能性のあるあらゆる有用な情報の積極的な追及(拷問を含む)などが挙げられる。ブッシュ政権とチェイニーの顧問弁護士たちは、自らの新たな政策を「超法規的移送(extraordinary rendition)」および「強化尋問(enhanced interrogation)」と呼んだ。これらの政策は、新立法というよりも、既存の法律の強引な解釈と期限の定めのない権限付与によって正当化されていた。「連邦議会に訴えれば、望むだけの法改正を実現できたはずだ」と新政策の実施に関わった連邦判事は説明した。この判事は続けて「しかし、このホワイトハウスは、大統領の権力が最高であることを示すことを望んでいた」と述べた。

ブッシュ政権による国際法・国際規範の違反は、グアンタナモ湾アメリカ軍施設などにおける公然の場で無期限拘束されるカフカ的な状況(the Kafkaesque quality of indeterminate detention in public view at places like the U.S. military compound at Guantanamo Bay)、そしてイラクのアブグレイブ刑務所施設などで生み出された暴力的な画像によって露呈し、最終的にアメリカの評判を傷つけた。国際社会におけるアメリカの対テロ戦争への支持は減退し、特に長年の同盟諸国において、アメリカの指導力に対するより根本的な信頼も失われた。2000年に実施された世論調査では、ドイツ人の78%がアメリカに好意的な見解を持っていたが、2007年までにその割合は30%にまで低下した。イギリスではブッシュ政権発足時83%だった支持率が退陣時には53%に。フランス国民の支持はほぼ半減となった。トルコでは2007年までに、アメリカを好意的に見る回答者は10人に1人以下になった。世界の大国の中で、ブッシュ政権終了時点で2001年よりアメリカを高く評価していたのはロシアのみだった。

チェイニーは再び動じなかった。世論は政策を決定しない(public opinion didn’t make policy)——外国人がアメリカの選挙で投票する訳でもない——厳格な合法性は、アメリカ国民を守るために必要な行動を取る勇気のない者、あるいは実際の責任から遠く離れて意見が無意味な者たちが提起する哲学的問題に過ぎない。「名誉を守りたいがために、多くの人の命を犠牲にするつもりか?」と彼は修辞的に問いかけた。「それとも、第一に求められる職務を果たすのか? アメリカ合衆国とその国民の命を守るという、お前の責任を果たすのか?」

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2004年5月8日、アブグレイブ刑務所でアメリカ当局に拘束されているイラク人囚人の親族が収容所内でアメリカ兵がイラク人囚人を虐待している写真を見て反応を示している

連邦議会調査官を含む事後批判者たちは、政権のやり方を「拷問(torture)」と呼んだ。チェイニーは「強化尋問技術」を好み、「大統領が承認した全ての技術は、事実上、司法省によって承認されていた」と主張した。さらに、チェイニーは言葉や定義をめぐる論争は、国民の安全を守るというアメリカの政策の本質を見失っているとさらに激しく主張した。 「私たちがやったことと同じことをするか、それとも引き下がって『アメリカに対するテロ攻撃があることは皆さんご存知でしょうが、私たちに悪いイメージを与える可能性があるため、内容を伝えるよう強制はしません』と言うか、どちらかを選ぶとしたら、それは私にとっては難しい選択ではない」とチェイニーは続けた。

チェイニーの拷問に対する信念は、明白な強制下で得られた情報に疑問を呈し、軽視し、あるいは完全に無視する、圧倒的多数の専門家によって誤った、あるいは少なくとも異論を唱えられた。苦痛に苦しむ人々は、拷問を止めさせるために何でも言うだろう。しかし、チェイニーはそうではないと信じていた。拷問は効果的であり、対テロ戦争においてブッシュ政権は国際的な配慮よりも必要性を優先せざるを得なかったと彼は主張した。911事件は酷い出来事だった。もっと酷い事態になっていた可能性もあった。次のテロ攻撃――そしてまた確実に起こると思われた――は、計り知れないものになるかもしれない。

チェイニーは、歴史家ロン・サスキンドが「1%ドクトリン(the one percent doctrine)」と名付けた理論を展開した。これは、ある出来事の発生確率とその潜在的な結果をプロットすることでリスク評価を計算する最も基本的な方法を指している。次の攻撃は核兵器や生物兵器によるものになる可能性があり、その結果は計り知れないほど恐ろしいものになる可能性があるため、わずかなリスクでさえ許容できないとされた。チェイニーはブッシュの国家安全保障ティームに対し、「脅威が現実となる可能性が1%でもあれば、対応においてはそれを確実なものとして扱わなければならない」と繰り返し警告した。

その根拠に基づき、アメリカは軍事連合を率いてフセインを権力の座から引きずり下ろし、実際には数年前に停止されていたとされる大量破壊兵器計画を根絶させた。チェイニーは政権の応援団長として、情報機関や国家安全保障関係者が入手可能な証拠から結論づけられなかったことを明言した。「端的に言えば、フセインが現在、大量破壊兵器を保有していることに疑いの余地はない」と、2002年初頭、アフガニスタンで911テロ攻撃を企て支援した者たちとの戦闘が依然として激化していたにもかかわらず、チェイニーは公に警告した。「[フセインが]それらの兵器を蓄積し、友好国、同盟国、そして私たち自身に対して使用しようとしていることは疑いようがない」とチェイニーは述べた。

チェイニーは、長年彼のトレードマークとなってきた冷静な確信をもって、中東、そして実に世界全体がイラクの独裁者なしでより良い場所になるだろうと断言した。「イラク国民の立場から見れば、イラク国内の状況は非常に悪化している」と、かつては反対を唱えていたアメリカ主導の占領開始の数日前にチェイニーは次のように説明した。「実際、私たちは解放者(liberators)として迎え入れられるだろうと私は確信している」。

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2008年3月18日、イラクのバグダッド北部にあるバラド空軍基地に駐留するアメリカ軍兵士と話すチェイニー

イラク戦争も、世界的な対テロ戦争も、チェイニーが予言した通りには進まなかった。チェイニーとその直属の部下たちは、フセインに不利な証拠と論拠を無謀に集めたと当時の専門やや後の学者たちは認めている。民主党からこのような批判が出るのは当然かもしれないが、ブッシュ政権、特にチェイニーが、情報の質に関わらずイラク戦争に突入することに固執していたという見方は、従来の党派の垣根を越えたものとなっている。

例えばスコウクロフトやローレンス・イーグルバーガー国務長官といった共和党の重鎮たちは、戦闘開始前にイラク侵攻の是非を疑問視していた。彼らには経験が味方していたが、ブッシュ元大統領の元報道官が持つ内部の視点はなかった。この人物は2008年、ホワイトハウスが「戦争の正当性を主張する上で率直さと誠実さを欠いていた」と指摘している。他にも批判は数多くある。当時、影響力のある人物で懐疑的な見解を公に表明する者はほとんどいなかったが、戦争開始から一世代が経過した今、侵攻を称賛する政策立案者や有識者はごくわずかである。大統領の弟であり大統領候補でもあるジェブ・ブッシュは2016年に、「今知っていることを当時知っていたなら、私はイラクに侵攻するという決断はしないだろう」と認めている。

より強い非難が続いた。「彼らは嘘をついた」と大統領候補のドナルド・トランプは2016年に断言した。チェイニーとブッシュは共に「大量破壊兵器があると発言したが、実際には存在しなかった」と述べた。さらに重要なのは、トランプがさらに「彼らは大量破壊兵器が存在しないことを知っていた」と付け加えたことだ。トランプは、いかなる基準で見ても、真実性や歴史的正確さを測る指標としては信頼できない。しかし、ブッシュ、チェイニー、そしてその他の侵略推タカ派(pro-invasion hawks)に、単に無能さだけでなく不正行為をも押し付けることで、この問題に関するアメリカ有権者の不満と不信感を煽った。2004年初頭の世論調査では、半数強が、ブッシュ(子)政権が「戦前の情報に関して誇張したり嘘をついたりした」と考えていた。それから15年が経ち、世論調査では、回答者の3分の2、その中にはアメリカ軍退役軍人の64%も含まれ、911事件後に始まり、2003年のイラク侵攻によって促進された軍事作戦は「戦う価値がない(not worth fighting)」と考えた。

将来の歴史家たちは、チェイニーがフセインについて、大量破壊兵器計画を進行中だと信じたことが誤りだったのか、あるいは意図的に断片的なデータを選び出してそう見せかけたのか、疑問を抱き、議論するのは間違いないだろう。その議論は間違いなく、キャリアや評判、終身在職権の決定に影響を与えるだろう。既に疑いの余地のない事実もある。チェイニーは戦争を主張した。フセインが当時大量破壊兵器を保有し、さらに増強を望んでいるだけでなく、テロリストに密かに渡してアメリカに対して使用する可能性があると公の場で自信満々に述べた。チェイニーは、アメリカ主導のイラク占領が歓迎され、比較的容易に進むと確信を持って約束した。そして結局、チェイニーの助言はブッシュが承認した決定に重大な影響を与えた。この決定は、アメリカ外交・軍事史上おそらく最悪の戦略的判断として歴史に刻まれるだろう。

イラクでの敗北は、一世代前のウォーターゲート事件やヴェトナム戦争と同様に、アメリカ国民の政府への信頼を崩壊させた。この敗北が直接的な原因ではないにせよ、党派対立が激化し、2021年1月6日の連邦議会議事堂乱入事件の記憶がまだ生々しい現在、南北戦争以来の最も深刻な政治危機と一部で評される状況を生み出した。しかし敗北は亀裂を深刻化させた。数兆ドルの支出、数万人の戦死・負傷兵、国際社会における米国の地位低下、そしてアメリカ国民による自国制度への信頼喪失は、チェイニーが2009年に退任してから何年も経った今も、アメリカ社会に傷跡を残し続けている。

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2011年9月9日、ワシントンのアメリカン・エンタープライズ研究所で、911同時多発テロに関する議論に参加するチェイニー

チェイニーは、任期の最後まで、現実の世界では政治指導者は不完全な情報に基づいて難しい選択を迫られると主張し自分自身を弁護してきた。「ホワイトハウスの地下バンカーから、我が国への組織的かつ壊滅的な攻撃を目の当たりにすると、自らの責任に対する考え方が変わることは認める」と発言した。こうした見方は、不作為(inaction)を無効化した。2018年にも、イラク侵攻と占領は「正しい行動(the right thing to do)」だったと主張し、同じ情報があれば、再びそう助言するだろうと述べた。「私たちは(情報諜報)を47通りの方法で検証し、最終的に、必要な正しい行動をとったと確信している」と述べた。結果が重要だとチェイニーは主張した。「サダムがいなくなったことで世界はより良い場所になったと思う。ブッシュ大統領は2003年当時、必要な正当性を全て持っていたと思う」と彼は述べた。最終的に、イラク、アフガニスタン、そして911後のより広範な対テロ戦争において、「私たちは必要なことをした」と語った。

チェイニーは注目すべき人生を送った。しかし、ワシントンでの輝かしい経歴と長年にわたる功績は、信念を貫く保守派としての実績と同様に、いずれは姿を消していくことになるだろう。彼の最大の遺産は、むしろ、執拗に、そして最終的には有害な形で行使してきた行政権(executive authority)である。

チェイニーの遺産を考える上で、イラクでの泥沼、チェイニーが未完で残したアフガニスタン戦争、あるいはアメリカの国際的地位の毀損と空っぽの財政にどれほどの重みを与えるべきかを評価する際には、1983年の彼の言葉を思い出すべきである。「現実の世界は確実性を求め、大多数の魂を震撼させるような決断を下す覚悟のある男女を必要とする。大統領が、側近の補佐官たちの支援を受けて、『過ちを犯したなら、当然その代償を払うことになる』が、『大統領が特定の決断を下す際には、私たちは大統領を信頼しなければならない』」。

チェイニーとブッシュは、記録的な低支持率で政権を去った。経済は大恐慌以来最悪の不況に直面し、イラクとアフガニスタンでは終息の見通しが立たないまま戦争が続き、ワシントンの国際的な評判は深く傷ついた。しかし、チェイニーは、911同時多発テロ後に祖国への2度目の大規模テロ攻撃がなかったことを何よりも強調し、持ち前の自信を見せ、自らの功績を認められていると感じていた。自身が策定に関わった包括的国家安全保障戦略について、2009年には「機能した」と語った。「もし私が決断するとなれば、もう一度やるだろう」と述べた。

任期を2期務めた大統領ブッシュを含め、他の人々はとっくの昔にチェイニーの言うことに耳を傾けなくなっていた。チェイニーの不安な脅威予測に早くから賛同し、それを広めたブッシュは、2期目の終わりには彼の助言をほとんど無視していた。2007年、チェイニーからイランがスタートさせつつあった核開発計画への攻撃を迫られたブッシュ大統領は、チェイニーが退任前にイランの大量破壊兵器の可能性に「対処する(take care of)」必要があると繰り返し主張したことに憤慨し、その助言を拒否した。「副大統領の意見に賛同する人は他にいるか?」とチェイニー副大統領が即時軍事攻撃(an immediate military strike)を主張した後、ブッシュ大統領は主要な補佐官たちに質問した。チェイニーが後に回想しているように、「部屋の中で誰も手を挙げなかった」ということだ。

※ジェフリー・A・エンゲル:サザンメソジスト大学米大統領歴史研究センターの創設担当部長。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体 

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『トランプの電撃作戦』
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世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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ダニエル・シュルマン
講談社
2015-12-09



アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 以下の記事にあるように、今年の秋の叙勲で、ジョージ・W・ブッシュ大統領時代の副大統領だったディック・チェイニー、国防長官だったドナルド・ラムズフェルドに「旭日大綬章」がそれぞれ与えられました。これは昔で言えば、勲一等という大変な名誉ある勲章だそうです。

 

 外務省は、このネオコン派の頭目2人が日米関係の強化に貢献したという理由で叙勲の推薦を行ったそうです。彼らがやった日米関係の強化とは、日本の自衛隊の下請け化と日本のアメリカ属国化の強化でありました。そのことを賞賛して勲章を与えるというのは、何とも間の抜けた、自虐的な行為であると思います。

 

 日本人以外の人間からすると、神秘の国のエンペラーから貰う勲章、ということで喜びもひとしおでしょうが、税金を支払っている国民からすれば、何とも馬鹿げた話です。彼らの何が「勲功が第一等」なのでしょう。勲章などというのはそれにふさわしい人に、ふさわしいレベルのものが与えられないということの好例でしょう。

 

 日本の外務省が恥をかいてしまったのは、同じ時期に、叙勲を受けたドナルド・ラムズフェルドがジョージ・H・W・ブッシュ(父)元大統領に批判されてしまったことです。父ブッシュとラムズフェルドは政敵同士であったため、仲は良くなかったようです。それでも、自分の息子ジョージ・Wの国防長官を務めた訳ですから、「お世話になった」ということはあるでしょうが、それでも批判されるというのはよほどのことです。

 

 父ブッシュとアホ息子・ブッシュは共にアメリカ大統領を務めましたが、その外交政策は大きく違いました。父は現実主義的で、バカ息子の方はネオコンによる理想主義的な外交政策でした。父の時代にも多くのネオコンが政権に入っていましたが、父ブッシュとジェイムズ・ベイカー国務長官(当時)は彼らを抑え切りました。第一次湾岸戦争の時、父ブッシュ政権内のネオコンたちは、イラク軍をクウェートから追い払った後、イラク国内に進撃、サダム・フセインを倒すことを強硬に主張しましたが、父ブッシュはそれを許可しませんでした。イラクに侵攻し、フセインを倒すことは混乱と無秩序を生み出すだけだということを知っていたからです。

 

 そうした父から見れば、自分のアホ息子が大統領になったのは良かったが、周りのネオコンたちにいいようにやられて、イラクやアフガニスタンに侵攻して、手痛い失敗をしたことは残念でならなかったことでしょう。それが掟破りの批判につながったのだと思います。

 

 そして、現在、ややましな次男ジェブが大統領選挙に出馬しています。父ブッシュとしては、ジェブが勝てるとは思っていないでしょうが、彼に、「バカな兄貴の真似なんかするんじゃないぞ」ということを教えているのだと思います。ジェブの外交政策ティームにはネオコンも入っていますが、リアリストたちも多く入っています。そうしたこともあって、今回、父ブッシュは声を上げたのだと思います。

 

 結局、バカを見たのは外務省であり、日本国民です。そして、日本が世界の大勢に反した、孤立(アメリカ[の一部]とイスラエルしか友人がいない)状態になってしまっているということがまた明らかになりました。これからもこの「世界からの孤立化」はもっと進んでいくものと思われます。

 

(新聞記事転載貼り付けはじめ)

 

●米国の“戦争屋”2人に旭日大綬章…安倍ポチ政権の恥知らず

 

日刊ゲンダイ 2015年11月5日

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/168651/1

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/168651/2

 

 今年秋の叙勲受章者が3日に発表されたが、かつての勲一等、「旭日大綬章」の名簿に驚いた。受章した19人のうち日本人は7人。半数以上の12人が外国人だった。

 

 外国人の受章者数は過去最多。一番多いのは米国で5人が受章する。その面々にはさらに驚く。大義なきイラク戦争を主導したラムズフェルド元国防長官とアーミテージ元国務副長官にまで、日本は勲章を贈るのだ。

 

 2人への叙勲を推薦したのは外務省儀典官室。授章を決めた内閣府は、「戦後70年の節目ということで、戦後日本の平和と発展の重要な基盤を形成した日米関係の増進に大きな功績のあった方々を特に推薦した、と外務省から説明された」(賞勲局の担当者)と言うのだが、ちっともピンとこない。2人とも「日本の平和と発展の基盤を形成」するどころか、ぶっ壊してきたではないか。

 

 ラムズフェルドはイラク開戦直後から自衛隊に再三「イラクの治安維持」への参加を打診。日本政府に集団的自衛権の行使をたき付けた人物だし、日本を飼い慣らす「ジャパンハンドラー」として知られるアーミテージは、もっと露骨だ。

 

9.11テロ以降、「ショウ・ザ・フラッグ」「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と恫喝し、日本政府に軍国化を迫ってきただけではない。3年前に公表した「第3次アーミテージ・リポート」では、日本の原発再稼働やTPP参加、特定秘密保護法の制定、武器輸出三原則の撤廃を要求。安倍政権は言われるがまま、実現してきた。

 

「安倍政権が強引に成立させた安保法制も、リポートの中身を実現させたものです。アーミテージは『集団的自衛の禁止が日米間の障害』などと断定的に記しています。今や自衛隊は米軍の下請けとなり、安倍政権も元請けのオバマ政権への従属を隠そうとしない。叙勲制度を利用してまで、米国にゴマをするとは、独立国としての誇りを完全に失っています」(政治評論家・森田実氏)

 

 かつて「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい。正常に近い」とホザいた太田誠一元農相まで旭日大綬章を受章するご時世だ。いくら勲章の価値が落ちているとはいえ、戦争屋2人にくれてやる必要はない。

 

●「Former President George H.W. Bush raps Cheney, Rumsfeld in biography: Fox News

 

Reuters

2014/11/15

 

WASHINGTON (Reuters) - Former President George H.W. Bush takes some unexpected swipes at Dick Cheney and Donald Rumsfeld, key members of his son's administration, over their reaction to the Sept. 11 attacks, in a new biography of the 41st president, Fox News reported on Wednesday.

 

In "Destiny and Power: The American Odyssey Of George Herbert Walker Bush," author Jon Meacham quotes Bush as saying that Cheney and Rumsfeld were too hawkish and that their harsh stance damaged the reputation of the United States, the cable news network said.

 

Speaking of Cheney, who was vice president under President George W. Bush, the senior Bush said: "I don't know, he just became very hard-line and very different from the Dick Cheney I knew and worked with," according to the report.

 

Cheney served as defense secretary during George H.W. Bush's 1989-1993 presidency.

 

"The reaction (to Sept. 11), what to do about the Middle East. Just iron-ass. His seeming knuckling under to the real hard-charging guys who want to fight about everything, use force to get our way in the Middle East," Bush told Meacham in the book to be published next Tuesday.

 

Bush believes Cheney acted too independently of his son by creating a national security team in his own office, and may have been influenced to become more conservative by his wife and daughter, Lynne and Liz Cheney, the report cites the biography as saying.

 

View galleryFormer U.S. President George H.W. Bush looks attends …

Former U.S. President George H.W. Bush looks into the audience during the Medal of Freedom ceremony  …

On Rumsfeld, secretary of defense for most of the two terms served by his son, Bush is even more critical. He is quoted as saying: "I don't like what he did, and I think it hurt the President," referring to his son.

 

"I've never been that close to him anyway. There's a lack of humility, a lack of seeing what the other guy thinks. He's more kick ass and take names, take numbers. I think he paid a price for that. Rumsfeld was an arrogant fellow," he was quoted as saying in the biography.

 

Fox News quoted Cheney as denying his family had influenced his views, saying: "It's his view, perhaps, of what happened, but my family was not conspiring to somehow turn me into a tougher, more hardnosed individual. I got there all by myself."

 

Bush's spokesman could not immediately be reached for comment.

 

Rumsfeld declined to comment on the book, Fox News said.

 

(Reporting by Eric Walsh; Editing by Peter Cooney)

 

(新聞記事転載貼り付け終わり)

 

(終わり)





野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23





 

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