古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:ハーヴァード大学

 古村治彦です。

※2025年3月25日に最新刊『トランプの電撃作戦』(秀和システム)が発売になりました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
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 今回は、ズビグニュー・ブレジンスキー(Zbigniew Brzezinski、1928-2017年、89歳で没)についての論稿を紹介する。ブレジンスキーは、2023年に亡くなったヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger、1923-2023年、100歳で没)と並び称されるほどの著名な大物学者だった。2人の共通点はヨーロッパ生まれ(キッシンジャーはドイツ、ブレジンスキーはポーランド)、ナチズムから逃れた亡命者、ハーヴァード大学で博士号(キッシンジャーは政治学、ブレジンスキーは国際関係論)を取得、大統領国家安全保障問題担当大統領補佐官(キッシンジャーはニクソン政権・フォード政権[フォード政権では国務長官を兼任]、ブレジンスキーはカーター政権)に就任が挙げられる。
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ヘンリー・キッシンジャー(左)とズビグニュー・ブレジンスキー
 ブレジンスキーはまた、こちらもまた有名な学者だったサミュエル・P・ハンティントン(Samuel P. Huntington、1927-2008年、81歳で没)とは終生の友人だった。ハンティントンは、「諸文明間の衝突(The Clash of Civilizations)」を提唱したことで知られる。2人はほぼ同時期に、ハーヴァード大学大学院を修了した。学生時代から英才の誉れが高く、そのままハーヴァード大学に残っていたが、ハーヴァード大学での終身在職権(テニュア)付のポジションに就けず(リベラルな教授会に忌避された)、2人は揃ってニューヨークにあるコロンビア大学に移籍した。ハンティントンは1963年に懇願され、ハーヴァード大学に復帰したが、ブレジンスキーは復帰を拒否してコロンビア大学にとどまった。ブレジンスキーは、ニューヨークでの生活を気に入っていたという話が残っている。ハンティントンとブレジンスキーは性格こそ大きく違ったが、終生の友人関係を続けた。ブレジンスキーがジミー・カーター政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任した際には、安全保障計画調整担当として国家安全保障会議に招集した。2人は米連邦緊急事態管理庁(Federal Emergency Management AgencyFEMA)創設を行った。
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サミュエル・P・ハンティントン

・ヘンリー・キッシンジャー:ハーヴァード大学(1954-1968年)

・サミュエル・ハンティントン:ハーヴァード大学(1950-1958年)、コロンビア大学(1958-1962年)、ハーヴァード大学(1963-2008年)

・ズビグニュー・ブレジンスキー:ハーヴァード大学(1953-1959年)、コロンビア大学(1960-1989年)

 キッシンジャーとブレジンスキーは学者よりも、実務者としての面が強く、ハンティントンは大学人の面が強い。彼らはそれぞれの立場で大きな影響力を持った。ブレジンスキーはジミー・カーター政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官としてホワイトハウス入りしたが、サイラス・ヴァンス国務長官と対立し、ヴァンスから外交の実権を奪って活動した。1979年に発生したイラン革命に伴う、在テヘラン米大使館人質事件(1981年まで)では、反対を押し切り、米特殊部隊を起用しての人質救出事件を立案・実行し、失敗している。結果として、カーター政権の命運が尽きた事件となった。

 ブレジンスキーは、出身がポーランドということもあり(貴族であったブレジンスキー家の領地は現在のウクライナにあったそうだ)、ロシア(ソヴィエト連邦)を敵視し、ソ連によるアフガン侵攻では、ムジャヒディン支援を行った。ムジャヒディンにはオサマ・ビン・ラディンも参加していた。コロンビア大学時代の学生にはバラク・オバマがおり、オバマに大統領選挙に出馬するように勧め、陣営の外交顧問に就任したことでも知られる。民主党内のリベラルホーク(liberal hawk、国内問題ではリベラルな立場を取り、対外問題では強硬な姿勢を取る)であり、彼らの仲間の内、共和党に移っていた人々がネオコン派を形成している。リベラルホークは、民主党内の人道的介入派の源流ともなっている。

 しかし、対中国に関しては、ロシアをけん制するという意味もあり宥和的であり(カーター政権では米中国交正常化に取り組んだこともあり)、米中で世界を管理するG2路線に理解を示していた。その点でヘンリー・キッシンジャーと共通する。ブレジンスキーの反ロシア、反ソ連は骨絡みで、子供の頃からの信念、ポーランド貴族出身としての意地ということもあるだろう。冷戦の闘士であったブレジンスキーは現在の状況をどう見ているだろうか。そして、アメリカ外交政策に関して言えば、有名な大物学者が参加する、影響を与えるという時代は終わったと言えるだろう。そして、これはアメリカの世紀の終わりを示す1つの現象ということになるだろう。

(貼り付けはじめ)

地政学戦略家たちはどこへ行ってしまったのか?(Where Have All the Geostrategists Gone?

-ズビグニュー・ブレジンスキーの人生とその意義。

セオドア・バンゼル筆

2025年5月16日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2025/05/16/zbigniew-brzezinski-zbig-review-edward-luce/

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2010年の夏、蒸し暑い北京で会議を行き来しながら、ズビグニュー・ブレジンスキーに外交政策において最も大きな影響を与えたのは誰かと尋ねたことがある。当時、私はこの偉大な人物のリサーチアシスタントをしており、ぎこちなく時間をつぶそうとしていた。彼は少し間を置いて、困惑したような表情を浮かべた。「本当に誰も(Nobody, really)」と彼は答えた

第一印象では、ブレジンスキーの無表情な答えは自慢げだと思った。しかし、今にして思えば、ズビグ(彼の愛称)はただ正直だっただけだった。ポーランド生まれの戦略家であり、ジミー・カーター大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官として最もよく知られた彼は、安易なカテゴライズを逃れた人物だった。彼は民主党の冷戦の賢人(the Democrats’ Cold War sage)で、ロナルド・レーガン大統領の外交政策ティームにも崇拝者がいた。ジョージ・W・ブッシュ政権時代にはネオコンの宿敵(an arch-nemesis)だった根っからの対ロシア強硬派であり、バラク・オバマ米大統領の初期からの支持者でもあった。

ブレジンスキーは、同時代人で、ライヴァルでもあったヘンリー・キッシンジャーとしばしば比較される。2人は共にヨーロッパからの亡命者で、訛りの強いで話し、スター学者から国家安全保障問題担当大統領補佐官へと転身するという共通の経歴を持っていた。しかし、2人はアメリカの戦略に全く異なる視点からアプローチしていた。ドイツ生まれで旧世界のヨーロッパ外交を研究していたキッシンジャーは、アメリカの進路について悲観的な見方をし、ソ連については過大評価しており、デタント(détente、緊張緩和)を通じて米ソ両国の力の均衡(a balance of power)を図ろうとしていた。ソ連のイデオロギー的・政治的弱点を研究していたブレジンスキーは、東ヨーロッパを隷属させたモスクワに恨み(grudge)を抱き、冷戦においてアメリカが勝利すると確信していた。

ブレジンスキーの輝かしい生涯は、『フィナンシャル・タイムズ』紙のコラムニストであるエドワード・ルースによって鮮やかに語り直され、素晴らしい伝記となっている。ルースの著書は、思想家として、そして人間として、ブレジンスキーの真髄を捉えようとする初の試みである。辛辣なウィット、並外れた競争心、滑稽なほどのケチさ(comical tight-fistedness)、そして家族への優しくも揺るぎない献身。ルースは、この重要な新著でこれを見事に描き出し、アメリカ外交政策思想家たちの殿堂におけるブレジンスキーの地位を正当に高めている。

ルースの著書は多くの印象を残したが、中でも最も印象深いのは、アメリカがもはやブレジンスキーやキッシンジャーのような偉大な戦略家を生み出していないということだ。これは、第二次世界大戦の荒廃を経た世代が成熟し、世界秩序の問題に執着する思想家を輩出したという、彼らの世代の特殊性によるところもあるかもしれない。しかし、おそらくそれ以上に、現代のアメリカの外交政策立案における成功の要件に関係しているだろう。現代の巨大な国家安全保障国家、そしてブレジンスキー時代には数十人だった国家安全保障会議(NSC)自体でさえ、戦略的深みと同じくらい多くの運用上の専門知識をますます要求している。世界が大きく変貌を遂げているこの時代に、この地政学戦略家の不足は残念なことだ。キッシンジャーが2017年にライヴァルの訃報を受けた際に書いたように、「ズビグがその洞察力の限界を押し広げなければ、世界はより空虚な場所になる(The world is an emptier place without Zbig pushing the limits of his insights)」のだ。

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左:ブレジンスキーとジミー・カーター米大統領が1977年12月にエアフォースワンに搭乗している。右:イスラエルのメナヘム・ベギン首相(左)が、当時ホワイトハウスの国家安全保障問題担当大統領補佐官だったブレジンスキーとチェスの対局に臨む(1978年9月9日、メリーランド州キャンプ・デイヴィッドでの首脳会談にて)。

ブレジンスキーはポーランド人外交官の息子として生まれた。生まれてから10年間は​​断続的にしかポーランドに住んでいなかったが、ポーランドとその悲劇的な歴史はブレジンスキーの人生において大きな影を落とすことになった。1940年代のモントリオールで成人を迎えるまで、幼いズビグはポーランドの騎士や英雄を夢見ていた。高校時代には、国際関係におけるポーランド問題をテーマにした早熟なエッセイを書いた。

鉄のカーテンがポーランドと東ヨーロッパ諸国に降りる中、ブレジンスキーはその類まれな才能を敵国の研究に注ぎ込んだ。彼はロシア語を学び、1953年に当時黎明期にあったソヴィエト学(Sovietology)の分野でハーヴァード大学で博士号を取得した。ズビグが1960年に修士論文に基づいて著した『ソヴィエト圏:統一と対立(The Soviet Bloc: Unity and Conflict)』は、先見の明があり、かつ永続的な内容であった。彼は、ソヴィエト圏の民族分離、更にはソ連自体の民族の寄せ集め(バルト人からウクライナ人まで)が、最終的にソ連を破滅させるアキレス腱となると主張した。冷戦時代には、モスクワが汎ソ連的な市民意識をうまく醸成したという主張が盛んに行われていたが、ブレジンスキーはしばしばこう反論した。「それでは、彼らはソヴィエト語を話しているのか?(So do they speak Soviet?)」

ハーヴァード大学教授、それからコロンビア大学教授となり、ブレジンスキーの関心は次第にワシントンへと向けられていった。リンドン・B・ジョンソン政権時代に国務省に短期間勤務した際には、東ヨーロッパをモスクワから引き離すために平和的な関与(peaceful engagement)を提唱した。しかし、ブレジンスキーが国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任したことで、彼はアメリカ外交のコックピットに座ることになった。カーター政権内でズビグの最大のライヴァルであったサイラス・ヴァンス国務長官は、ソ連との関係安定化を支持していたのに対し、ブレジンスキーはデタントを一方的な交渉と見なしていた。内部での影響力争いで、彼はヴァンスを昼食代わりに食べ、カーターの耳目を独占した。ブレジンスキーがホワイトハウスに近かったせいもあるが、ズビグは新しいアイデアと愉快な仲間の宝庫でもあった。あるとき、カーターがソ連の歴史を教えて欲しいと頼んだとき、ブレジンスキーは、レーニンのもとでは「復興集会(a revival meeting)のようだった、スターリンのもとでは監獄(a prison)のようだった、フルシチョフのもとではサーカス(a circus)のようだった、ブレジネフのもとではアメリカ合衆国郵便公社(a United States Post Office)のようだった」と答えた。

ブレジンスキーは影響力を行使して、膠着状態にあったデタントにナイフを突き刺した。ニクソンとキッシンジャーによる対中開放を土台に、カーターは1979年に北京との関係を完全に正常化した。小柄な鄧小平と、モスクワに対する相互の反感に基づく深い信頼関係を築いた。ブレジンスキーがヴァージニア州の自宅で開いた晩餐会では、レオニード・ブレジネフお気に入りのウォッカで米中友好を祝った。キッシンジャーは、対中開放はアメリカをモスクワと北京の両方に近づける優雅な「戦略的三角形(strategic triangle)」を生み出すと主張していた。ブレジンスキーはその代わりに、ソ連に対抗して米中関係を操作した。1979年のクリスマスにソ連が侵攻した際、カーター政権は中国の助けを借りてアフガニスタンの抵抗勢力を支援し、ソ連を永続的な泥沼(an enduring quagmire)に沈め、その崩壊(demise)を加速させた。

ブレジンスキーはまた、ソヴィエトをイデオロギー的に守勢に立たせる方法として、カーターの人権擁護を奨励したが、モスクワとの協力関係を維持したい国務省関係者の反発を招いた。この追求においてブレジンスキーは、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世という偶然のパートナーを見つけた。ルースは、戦略家とローマ法王の感動的な往復書簡を掲載し、この重要な歴史的関係を鮮明に回想している。

しかし、ブレジンスキーの遺産を永久に傷つけたのはイランだった。皮肉なことに、ズビグは1979年のイラン革命の危険性について先見の明があった。彼は1917年のロシアの影を見ていたし、ウィリアム・サリヴァン米大使のように、ホメイニ師を「ガンジーのように」なる可能性を持つ重要人物(a potential “Gandhi-like” figure)と見る人もいた。しかし、ズビグは、彼が提唱し、大失敗に終わり、カーターの選挙の運命を決定づけた、テヘランでのアメリカ人人質救出作戦「イーグル・クロー作戦(Operation Eagle Claw)」と永遠に結びつくことになる。

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1979年11月9日、人質事件の最中にテヘランの米大使館の屋上に集まったデモ参加者たちがアメリカ国旗に火をつけている。

ブレジンスキーはまた、イラン情勢の背後にソ連の関与があると過度に疑心暗鬼に陥っていた。カイ・バードによるカーター元大統領の伝記『アウトライアー(The Outlier)』では、ブレジンスキーは無謀な超タカ派(a reckless superhawk)として描かれ、「地政学的なゴブルディゴック(geostrategic gobbledygook[難解な、意味不明な言葉])」(ストローブ・タルボットがかつて『タイム』誌で表現したように)に傾倒し、至るところにソ連の影を感じている人物として描かれている。この風刺画には一片の真実も含まれている。ズビグは1980年のカーター・ドクトリン(Carter Doctrine)の立案者であり、このドクトリンはアメリカが「外部勢力(outside force)」(つまりモスクワ)によるペルシャ湾支配の試みを阻止することを約束した。今にして思えば、ソ連が終末的な衰退へと突き進む中で、この地域へのソ連の進出の脅威はあまりにも誇張されていたと言えるだろう。

その9年後、鉄のカーテンが崩壊し、ブレジンスキーの少年時代と職業上の夢が実現した。ブレジンスキーはそのわずか数カ月前に共産主義の崩壊が間近に迫っていることを予言し、1989年の著書『大いなる失敗――20世紀における共産主義の誕生と終焉』の中でミハエル・ゴルバチョフの改革努力は絶望的であると力説した。フランシス・フクヤマは、「ブレジンスキーほど、歴史的な出来事の実際の流れによって正当性が証明された人物はいない」と書いている。そしてソ連は、40年前にズビグが修士論文で予見したように、構成民族に分解した。

ルースは、ブレジンスキーが冷戦時代にはアメリカの能力について楽観的であったにもかかわらず、その後、アメリカがグローバル・リーダーのマントを担う能力については皮肉屋に転じたことを鋭く指摘している。ズビグは、ジョージ・HW・ブッシュがスローガン以上の「新しい世界秩序(new world order)」のヴィジョンを具体化できなかったことを悔やみ、ビル・クリントン政権がイスラエルとパレスチナの恒久和平に失敗したことを批判した。ブレジンスキーは、ジョージ・W・ブッシュのイラク戦争を即座に痛烈に批判し、対テロ世界戦争を「準神学的」な不条理(“quasi-theological” absurdity)だと断じた。

ズビグがよく知るロシアについては、彼は特徴的に予言的であった。ブレジンスキーは、ソヴィエト連邦崩壊後のロシア連邦が間もなく報復主義(revanchism)に取り込まれると予言し、西側の利益を強固にするためにNATOの東方拡大を提唱した。この予言の中で、ブレジンスキーはウクライナの中心性に焦点を当てた。彼は1994年に、「ウクライナがなければロシアは帝国ではなくなるが、ウクライナが従属し、そして従属させられれば、ロシアは自動的に帝国になる(without Ukraine, Russia ceases to be an empire, but with Ukraine suborned and then subordinated, Russia automatically becomes an empire)」と書いている。彼の予測がなんと正しかったことか。

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左上から時計回りに:ブレジンスキーとマデレーン・オルブライト元米国務長官(2006年、ワシントンにて)、ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官(2016年、オスロにて)、ドナルド・トゥスク・ポーランド首相(2008年、ワシントンにて)、潘基文国連事務総長(2012年、ワシントンにて)。

何が優れた戦略思考者を作るのか? 歴史的視点、政治的意志を直感的に読み取る能力、そして軍事から人間心理に至るまでの様々な分野の統合だ。ブレジンスキーはこれらの資質を全て見事に体現していた。彼の理論は、政治、イデオロギー、そして社会発展という多様な要素を統合し、鋭くも学術的な文体で表現していた。その典型は、1970年に出版された著書『二つの時代の狭間:テクネトロニック時代におけるアメリカの役割(Between Two Ages: America’s Role in the Technetronic Era)』に象徴されている。

優れた戦略家の特徴としてしばしば過小評価されるのが、独創的な思考力だ。ズビグはそれを自分の中で大事に育んだ。ブレジンスキーは、ワシントンの集団思考(gtoupthink)を助長するようなことは決してしなかった。ブレジンスキーは、望ましくない影響を避けるため、自分が執筆しているテーマに関する意見記事を読んだり、重要なスピーチをしたりすることを意図的に避けていた。私はブレジンスキーのリサーチアシスタントとして、彼が外国の視点をより深く理解できるよう、毎週国際新聞の速報記事をまとめていた。

知的な面で恐れを知らないことも重要であり、それはしばしば鋭い攻撃を伴う。ブレジンスキーはなかなか魅力的で、ジョージタウン(ワシントン)の社交界よりも家族を優先する姿勢で、多くの同僚とは一線を画していた。しかし、タカ派の顔立ちは、彼の使命感と物事への真摯なアプローチを露呈していた。彼は国務省をはじめとするあらゆる部署で、巧妙にライヴァルを出し抜き、更にそれを大いに楽しんでいた。かつて彼は、カーター政権時代に関するある本で、ブレジンスキーの描写が「マキャベリがボーイスカウトのように見えるようにさせた」と自慢げに語ったことがある。

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ワシントンの事務所にいるブレジンスキー(1981年12月1日)

しかし、ブレジンスキーの最もマキャベリ的な駆け引きは、権力のために権力(power for power’s sake)を求めるのではなく、理念の追求(the pursuit of idea)に向けられた。ルースによれば、ジョンソン政権下でズビグは、ロバート・F・ケネディがジョンソンの冷戦政策を批判する演説を予定しているという作り話をでっち上げ、大統領がブレジンスキーの東ヨーロッパ戦略を盛り込んだ演説でライヴァルに先手を打つよう仕向けた可能性が高い。ブレジンスキーは当然ながら人気と報道に恵まれていたが、人気は常に二の次であり、自らが正しいと考えることを主張することの方が重要だった。ズビグは初期から二国家共存の解決(a two-state solution)とイラク戦争反対を強く訴え、ワシントンの多くの場所で疎外されたが、それでも決して諦めなかった。

アメリカの外交政策におけるリーダーシップの必要条件は、ブレジンスキーの全盛期とは根本的に変化しており、ズビグのような地政学戦略家はかつてないほど見つけにくくなっている。ブレジンスキーはNSCを大学のゼミのように運営していた。20人ほどのスタッフがそれぞれ異なる地域を担当し、1つのテーブルを囲んで座っていた。しかし、今日の国家安全保障官僚機構はあまりにも巨大で複雑であるため、深い地政学的思考はあっても十分ではない。膨大な資料を処理し、経済と国家安全保障の分野横断的な課題に取り組むには、ブレジンスキーには到底及ばなかったであろうスキルと姿勢が求められる。国際関係論の著名な学者も姿を消した。かつてないほど細分化され専門化された学界は、そのような学者を輩出していない。そして、国民の関心が内向きになるにつれ、彼らも彼らに価値を見出さなくなっている。

ブレジンスキーは晩年、アメリカ人の外交問題に対する無知を一貫して嘆いていた。例えば、アメリカの高校生の3分の1が地図上で太平洋の位置が分からないといったエピソードを、演説に盛り込み、説得力を持たせていた。このようにブレジンスキーは、ジョージ・ケナンのような国際関係論学者の偉大な伝統を受け継いでいた。ケナンは、アメリカの一般国民の唯物主義と浅薄さ(materialism and superficiality)を、時代錯誤に聞こえるほどに嘆いていた。しかし、アメリカが旧来の同盟関係から離脱し、自国中心主義とポピュリズムに囚われつつある今、この点においてブレジンスキーは再来した予言者だったのかもしれない。

※セオドア・バンゼル:ラザード・ジオポリティカル・アドバイザリーのマネージングディレクター兼責任者。以前は駐モスクワ米大使館の政治部と米国財務省に勤務した。2008年から2010年まで、ズビグニュー・ブレジンスキーのリサーチアシスタントを務めた。

(貼り付け終わり)

(終わり)

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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12

 

 リアリストであれば、オバマ大統領に対して、「アサドは権力の座から退かねばならない」とか化学兵器使用について「レッドライン」をひく、などと言わないように助言するだろう。それはバシャール・アル・アサドが擁護されるべき存在であるからでも化学兵器が戦時における正当な武器であるからでもなく、アメリカの重要な国益に関わらないし、何よりもアサドと彼の側近たちはとにかく権力を掌握し続けたいともがいているとことは明らかであったからだ。最重要なことは、人命をできるだけ損なうことなく内戦を速やかに終結させることであり、そのために必要とあれば、暴力的な独裁者とでも取引をするということであった。数年前にオバマ大統領がリアリストの意見に耳を傾けていたら、シリア内戦は多くの人命が失われ、国土が荒廃する前に集結していた可能性は高い。これはあくまで可能性が高いとしか言えないことではある。

 

 言い換えると、リアリストが過去20年のアメリカの外交政策の舵取りをしていれば、アメリカの国力を無駄に使うことになった失敗の数々を避け、成功を収めることが出来たはずだ。こうした主張に疑問を持つ人もいるだろう。しかし、「アメリカは世界の全ての重要な問題に対処する権利、責任、知恵を持っている」と主張した人々や、現在は馬鹿げたことであったとばれてしまっている、アメリカ政府の介入を執拗に主張した人々に比べて、リアリストは外交政策でより良い、まっとうなことを主張してきたことは記録が証明している。

 

 ここで疑問が出てくる。それは「リアリズムの助言は過去25年にわたり、ライヴァルの助言よりも好成績をあげているのに、リアリストの文章は主要なメディアには登場しない。それはどうしてか?」というものだ。

 

 『ニューヨーク・タイムズ』紙、『ワシントン・ポスト』紙、そして『ウォールストリート・ジャーナル』紙の論説ページに定期的に寄稿しているコラムニストについて考えてみる。この3紙はアメリカにおいて最も重要な紙媒体である。この3紙の記事と論説は他のメディアの論調を決定するくらいの力を持っている。それぞれの新聞のコラムニストは、講演を行ったり、他のメディアに出たりしている。そして、政策決定において影響力を行使している。この3紙はリアリストを登場させることはなく、『ワシントン・ポスト』紙と『ウォールストリート・ジャーナル』紙は、国際政治とアメリカの外交政策についてのリアリズム的な考えに対して敵意を持っている。

 

 『ニューヨーク・タイムズ』紙の場合、外交問題に関して定期的に寄稿しているコラムニストのリストを見てみると、ネオコン1名(デイヴィッド・ブルックス)と有名なリベラル介入派(トーマス・フリードマン、ニコラス・クリストフ、ロジャー・コーエン)が存在する。ロス・ドウサットは伝統的保守派に分類される。しかし、彼が国際問題について書くことはほとんどなく、世界各地へのアメリカの介入政策を様々な理由を挙げて声高に擁護している。『ワシントン・ポスト』紙は、4名の強硬なネオコン、論説ページの編集者フレッド・ハイアット、チャールズ・クラウトハマー、ロバート・ケーガン、ジャクソン・ディールを起用している。過去にはウィリアム・クリストルを起用していたこともある。定期的に寄稿しているコラムニストには、ジョージ・W・ブッシュ前政権のスピーチライターだったマーク・ティエッセンとマイケル・ガーソン、極右のブロガーであるジェニファー・ルービン、中道のデイヴィッド・イグナティウスと論争好きのリチャード・コーエンがいる。言うまでもないことだが、この中にリアリストはいないし、彼ら全員が積極的なアメリカの外交政策を支持している。昨年に『ザ・ナショナル・インタレスト』誌に掲載されたある記事の中でジェイムズ・カーデンとジェイコブ・ハイルブランが書いているように、ハイアットは「『ワシントン・ポスト』紙を頭の凝り固まった戦う知識人たちのマイク」に変えてしまい、「アメリカ国内で最もひどい内容の論説ページ」を作っている。

 

 ここで明確にしたいのは、こうしたコラムニストたちに執筆の機会を与えることは正しいことだし、私が名前を挙げた人々の多くの書く内容は一読に値するものである、ということだ。私が間違っていると考えているのは、現在の世界政治に関してより明確なリアリス的な考えを発表する人間が起用されていないということだ。ごくたまにではあるが、3紙も不定期にリアリストに論説ページに記事を書かせている。しかし、リアリスト的なアプローチを持っている人々で定期的に論説を書いて3紙から報酬を得ている人はいない。読者の皆さんは、ほんの数名のリアリストがフォックス、CNN,MSNBCのようなテレビの他に、この『フォーリン・ポリシー』誌や『ナショナル・インタレスト』誌のような特別なメディアに出ていることはご存じだと思う。それ以外の主流のメディアには出られないのだ。

 

 これら3つの主要な大新聞がリアリスト的な観点を恐れているのはどうしてなのだろう?リアリストはいくつかの極めて重要な問題に対してほぼ正しい見方を提供してきた。一方、これらのメディアで発表の機会を得てきたコラムニストたちの意見はほぼ間違っていた。私にはこんなことがどうして起きたのかその理由は分からない。しかし、現役の外交政策専門家は、アメリカをより豊かにそしてより安全にするにはどの政策がいちばんよいのかということを必死になって考えるよりも、空疎な希望や理想を語りたがっているのではないかと私は考えている。そして、アメリカは既に強力で安全なので、アメリカは繰り返し繰り返し非現実的な目的を追求し、素晴らしい意図のためにそのために何も悪くない人々を犠牲者になって苦しむことになってしまっているのだ。

 

私は、メディア大企業を経営しているルパート・マードック、ジェフ・ベソス、サルツバーガー一族に訴えたい。リアリストを雇ってみてはどうか?国際問題について評論や提案をする人々を探しているのなら、ポール・ピラー、チャス・フリーマン・ジュニア、ロバート・ブラックウェル、スティーヴ・クレモンス、マイケル・デシュ、スティーヴ・チャップマン、ジョン・ミアシャイマー、バリー・ポーゼン、アンドリュー・バセヴィッチ、ダニエル・ラリソンを検討してみてはどうか?こうした人々に週一回のコラムを書かせてみてはどうか。そうすることで、読者の人々に対して、国際的な問題について包括的なそしてバランスのとれた意見を提供することができる。私が言いたいことは、「あんたたちはいったい何を怖がっているんだい?」ということだ。

 

(終わり)

野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23






メルトダウン 金融溶解
トーマス・ウッズ
成甲書房
2009-07-31


 
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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12

 

 もしビル・クリントン、ジョージ・W・ブッシュ、そしてバラク・オバマがリアリズムの諸原理を採用していたら、1993年以降のアメリカの外交政策はどれほど違ったものになったのだろうか?

 

 第一にそして最も明らかなことは、ブッシュがブレント・スコウクロフト、コリン・パウエル、その他のリアリストたちの意見を聞いていれば、2003年にイラクに侵攻することはなかっただろう。ブッシュは、イラクで泥沼にはまるのではなく、アルカイーダの殲滅に集中したことであろう。数千のアメリカ兵たちが戦死したり、戦傷を受けたりすることもなかったことだろう。数十万のイラク国民が亡くなることもなく、今でも生きていたことだろう。イランの影響力は今よりもだいぶ小さいものだっただろうし、イスラミック・ステイトが生まれることもなかっただろう。リアリストによる正しい助言を拒絶することで、アメリカの納税者のお金を数兆ドルも無駄にした。そして、多くの人々の声明が失われ、地政学的に見て混乱が発生することにもなってしまった。

 

 第二に、アメリカの指導者たちがリアリズムの知恵をきちんと理解していれば、アメリカは1990年代にNATOを拡大させることはなかっただろう。NATOの範囲をポーランド、ハンガリー、チェコまでとしただろう。リアリストは、大国というものは自国に接する外側世界の力の構成に特に神経を尖らせるものだということを理解している。ジョージ・ケナンはNATOの拡大はロシアとの関係を悪化させるという警告を発していた。NATOの拡大は同盟関係を強化することにはつながらなかった。NATOの拡大によって、アメリカは一群の弱小なそしてアメリカから遠く離れてはいるが米軍が防衛しづらい国々を防衛する責務を負うことになってしまった。そうした国々はロシアと国境を接している。読者の皆さん、NATOの拡大は、傲慢さと地政学の間違った応用の結果なのだ、と私は申し上げたい。

 

 より良い選択肢だったのは、ロシアを含むワルシャワ条約機構に加盟していた国々と建設的な安全保障に関するつながりを求める「パートナーシップ・フォ・ピース」を構築することであった。残念なことに、注意深いアプローチは、NATO拡大を急がせる理想主義を掲げる動きを前にして放棄されてしまった。この決定は、リベラルの掲げる希望に基づいて行われた。彼らはNATOの拡大で安全保障が強化されると考えていたが、そんなことは起きなかった。

 

 リアリストは、グルジアとウクライナを「西側」陣営に引き込もうとすることで、ロシア政府から厳しい反応を引き起こすこと、ロシアはそうした試みを台無しにするだけの能力を持っていることを理解していた。リアリストがアメリカの外交政策を担当していたら、ウクライナ情勢は不安定なままであっただろうがクリミア半島はウクライナの一部であっただろう。そして、2014年から続いているウクライナ東部での戦闘は恐らく起きなかっただろう。クリントン、ブッシュ、オバマがリアリストの助言に耳を傾けていたら、ロシアとの関係は今よりもだいぶ良いものであっただろうし、東欧の状況はより安定したものとなっただろう。

 

 第三に、リアリズムの諸原理に大統領が従っていれば、ペルシア湾岸地域に対して、「二重の封じ込め」戦略を取らなかったであろう。イランとイラクを同時に封じ込めようとする代わりに、両国間のライヴァル関係を利用して、お互いを牽制させて均衡させようとしただろう。二重の封じ込め政策によって、アメリカはイラン、イラク両国を利用することが出来なくなり、サウジアラビアとペルシア湾岸地域に大規模な地上軍と空軍を駐留させ続けることになってしまった。長期にわたる米軍のサウジアラビア駐留は、オサマ・ビンラディンの怒りの理由となり、それが2001年9月11日に発生したアメリカに対する攻撃につながったのだ。ペルシア湾岸地域に対してリアリストが考える政策を行っていれば、アメリカに対する攻撃を根絶することはできなくても、少なくすることはできただろう。

 

 第四に、リアリストは、イラクに侵攻して、タリバンのネットワークの再構築を許してしまった時点で、アフガニスタンで「国家建設」をしようとすることは愚か者の先走りだと警告を発していた。そして、2009年にオバマ大統領が行った「増派」は全く役に立たなかった。オバマ大統領がリアリストたちの意見を聞いていたら、アメリカはアフガニスタンでの消耗をかなり早い段階で止めることが出来ただろう。結果としては失敗であってもその程度はだいぶ軽くで済んだはずだ。多くの命と莫大なお金が失われずに済み、アメリカは現在よりもより強力な戦略的立場に立てていたはずだ。

 

 第五に、イランとの核開発を巡る合意は、アメリカが現実的なそして柔軟的な外交を展開すれば成功を収めることが出来ることを示した。しかし、ブッシュかオバマがリアリストの助言を受け入れていれば、アメリカ政府はより良い条件で合意を結ぶことが出来ただろう。イランの核開発施設が小さい段階で合意を結ぶことが出来ただろう。リアリストは、繰り返し「イランはウラン濃縮技術を放棄することはないだろう、そしてイラン政府と軍部は核兵器開発を進めるだろう」と警告を発した。アメリカが、リアリストの助言通りにもっと早い時期に柔軟性を見せていたら、イランの核開発をより低いレヴェルの段階で止めることが出来たはずだ。アメリカの外交がより巧妙であったなら、2005年にムアマド・アフマディネジャドが大統領に当選することを阻止し、二国間の関係をより建設的な方向に進めることが出来たはずだ。たとえそこまでなくても、アメリカはそこまで悪い状況に追い込まれることはなかっただろう。

 

 第六に、様々な考えを持つリアリストたちは、アメリカとイスラエルとの間の「特殊な関係」に疑問を持ち、この特殊な関係が両国に害をもたらしていると警告を発している。イスラエルの熱心な擁護者たちの中にはリアリストに対して中傷を行っている。しかし、リアリストがアメリカとイスラエルの関係を批判しているのは、イスラエルの存在に対して敵意を持っているからではない。また、アメリカとイスラエル両国の国益が一致している場合にはアメリカとイスラエルは協力すべきだという考えに反対しているからではない。リアリストは、「イスラエルに対するアメリカからの無条件の支援は、世界におけるアメリカのイメージを悪く、テロリズム問題を悪化させ、パレスチナ人の犠牲の上に“大イスラエル”を建設しようとするイスラエル政府の自滅的な努力を続けさせている」という考えから、批判をしている。リアリストは、イスラエルとパレスチナの平和共存を進めるためには、アメリカが「イスラエルの弁護士」としてではなく、双方に圧力をかけるべきだと主張している。こうした考え以外のアプローチが繰り返し失敗している状況で、この考えの正しさに疑問を持つことができるだろうか?

 

 最後に、オバマがロバート・ゲイツのようなリアリストの助言を聞いていたら、リビアのムアンマール・カダフィを権力の座から追い落とすようなこともなかっただろう。そして、リビアが破綻国家の仲間入りをすることもなかっただろう。カダフィは独裁的な支配者であったが、人道主義的介入を主張する人々は、「大量虐殺」のリスクを誇張し、カダフィの独裁政治の崩壊の後に起きた無秩序と暴力を過小評価した。

 

(つづく)

野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23







 
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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 今回から3回に分けて、外交・国際問題専門誌『フォーリン・ポリシー』誌に掲載されたハーヴァード大学教授スティーヴン・ウォルトの国際関係論の一潮流であるリアリズムについての論説を皆様にご紹介します。

 

 ウォルト教授は私も翻訳作業に参加した『イスラエル・ロビー』の著者の一人で、国際関係論の大物学者です。今回の論説では、彼が信奉している国際関係論の一潮流であるリアリズムを紹介し、「これまでの3名のアメリカ大統領がリアリズムの諸原理に従っていれば、世界はもっと違って、より良いものになっていた」と主張しています。

 

 私は拙著『アメリカ政治の秘密』の中で、このリアリズムとネオコン・人道主義的介入の対立がアメリカ外交の流れだということを書きました。合わせてお読みいただければと思います。

 

==========

 

リアリストの世界はどのように見えるのか?(What Would a Realist World Have Looked Like?)①

 

イラク問題、大量破壊兵器、イスラエル・パレスチナ問題、シリアとロシアまでの中で、アメリカはアメリカの最大の誤りのいくつかをどのようにしたら避けることが出来ただろうか。

 

スティーヴン・M・ウォルト(Stephen M. Walt)筆

2016年1月8日

『フォーリン・ポリシー』誌

http://foreignpolicy.com/2016/01/08/what-would-a-realist-world-have-looked-like-iraq-syria-iran-obama-bush-clinton/

 

 アメリカの外交政策を研究している全学徒にとっての疑問、それは「外交政策研究分野における卓越したそしてよく知られたアプローチが、世論形成の場、特に主要な新聞の中で隅に追いやられているのはどうしてだろうか?これまでの記録を見てみれば、このアプローチが他のアプローチよりも好成績をあげているのに、隅に追いやられているのだ」というものだ。

 

 私はもちろん、リアリズムを好んでいる。私はリアリズムとリアリストが現在、完全に少数派に追いやられているというつもりはない。第一、今現在、あなたはリアリストの書いた文章を読んでいる。しかし、民主党内のリベラル介入主義(liberal internationalism)や共和党内のネオコンサヴァティズム(neoconservatism)に比べて、リアリズムが人々の目に触れることは極端に少なく、政策に与える影響もその存在に比べて小さい。

 

 外交政策研究の分野の中で、リアリズムが隅に追いやられている状況は驚くべきものだ。リアリズムは国際問題研究の分野で伝統的なアプローチとなっている。そして、ジョージ・ケナン、ハンス・モーゲンソー、ラインホールド・ニーバー、ウォルター・リップマンなどのリアリストたちは、過去においてアメリカの外交政策について鋭い、示唆に富んだ言葉を数多く残している。リアリズムは国際問題の学術的な研究において基礎となる考え方となっている。ここまで述べてきた通りだとすると、この洗練された思想体系は外交政策の議論の中で確固とした地位を保持していると皆さんは考えることだろう。そして、本物のリアリストはアメリカ政治や学術の世界において大きな影響力を持っているのだろうと思っているに違いない。

 

 更に言えば、過去25年にわたるリアリズムの行ってきた予測は、リベラル派とネオコン派の行ってきた予測よりもより質の高いものであった。しかし、冷戦終結後の25年間のアメリカの外交政策立案の分野においてリベラル派とネオコン派が大多数を占めてきた。更には、歴代大統領は、リベラル派・ネオコン派の主張を政策として追求し、リアリズムを無視する場合が多かった。また、主要なメディアはリアリストに対して、考え方を拡散するための手段を与えてこなかった。

 

 その結果は以下の通りだ。冷戦が終結した時、アメリカは世界の諸大国に対して有利な立場に立っていた。この時、アルカイーダの存在は取るに足らないものであり、中東における和平プロセスはしっかりと進んでいた。アメリカは「一極」世界で指導的な立場を享受した。権力政治は過去の遺物となったと考えられ、人類はグローバライゼーション時代において豊かになることに忙しくなり、繁栄、民主政治体制、人権が国際政治の重要なテーマとなった。リベラルな価値観は世界の隅々にまで行き渡るだろうと考えられた。そのペースがゆっくりとしたものであっても、アメリカの力はその拡散に貢献するだろうと見られていた。

 

状況は急激に変化している。対ロシア、対中国関係は徐々に敵対的になっている。東ヨーロッパ諸国とトルコにおける民主政治体制は後退している。中東全域の状況は悪いから最悪に移ってきている。アメリカは過去14年間にアフガニスタンで数十億ドルを使ってきた。しかし、タリバンは勢力を維持しているし、更に勝利を収める可能性を持っている。アメリカはイスラエルとパレスチナとの間の「和平プロセス」を20年にわたり仲介し、関与してきた。しかし、それによって「和平プロセス」は実現から遠ざかっている。更には、地上で最も明確にリベラル派の理想が現実化したヨーロッパ連合は、修復方法が見つからないような厳しい状況に直面している。

 

 こうした状況は、次の疑問を生み出す。それは、「最近の3人のアメリカの大統領たちがリベラルやネオコンではなく、リアリズムの諸原理に従っていれば、アメリカと世界はより良いものになったのではないだろうか?」というものだ。この疑問に対する答えは「イエス」だ。

 

 皆さんにリアリズムについて説明したい。リアリズムは、「パワー(力、権力)」を政治における中心要素であると考える。国家は、自国を他国から守ってくれる世界政府が存在しない世界において自国の安全保障を維持することを第一に考える存在だ、と考える。リアリストは、軍事力は国家の独立と自律性を維持するために必要不可欠だと考える。しかし、リアリストは、軍事力が多くの場合に意図しなかった結果を生み出すための手段にもなり得るとも考える。リアリストは、ナショナリズムと地域的アイデンティティは強力で持続的だと考える。そして、次のように考える。国家はほとんどの場合、自己中心的である。利他主義はほぼ存在しない。信頼関係が醸成されることは稀だ。規範や国際機関は強力な国家が行うこと大して限定的な影響力しか行使し得ない。まとめると、リアリストは、国際問題に関して悲観的な見方をし、それがどんなに抽象的なイデオロギーを基にした、魅力的な設計図に従って世界を作り変えようとする試みに懸念を持っている。

 

(つづく)

野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23






 
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