古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:フランクリン・D・ルーズヴェルト

 古村治彦です。

 下記論考は、現在の世界には4つの大国(昔は「列強と呼んでいた」)があり、大国に分類されるのは、アメリカ、中国、イギリス、ロシアであると主張している。下記論考の著者のケンブリッジ大学教授ブレンダン・シムズは、大国の条件として、(1)資源(resources)、(2)影響力(reach)、(3)名声(reputation)、(4)回復力(resilience)を挙げている。軍事力や経済力だけではなく、諸外国からの評価や歴史的な経緯を総合的に判断して、大国仮想ではないかということを決めている。ドイツや日本、インド、インドネシア、ブラジルなどは大国には認定されていない。

下記論考では、国連安保理常任理事国であるフランスを大国としては分類していない。しかし、私から見れば、イギリスもフランスもすでに昔日のような軍事力や経済力、世界への影響力を失っている。そうした点では似たり寄ったりであり、フランスどころか、イギリスも大国の分類から外れるのではないかと考える。国連安保理常任理事国、つまり第二次世界大戦の戦勝国側である、連合国(Allied Powers)が戦後世界の大国ということになっていたが、現在はそこから英仏が外れ、準大国[quasi great powers]ということになる。

そうなると、米中露が大国であり、この3カ国が「ヤルタ2.0(Yalta 2.0)」体制を構築しているのが現状ということになる。ヤルタ2.0体制の中心は中国である。20世紀の冷戦期に超大国であったアメリカとロシア(旧ソ連)は、現在、それぞれがイランとウクライナで戦争状態となっている。それぞれが停戦を模索する中で、その仲介役を引き受けられるのは21世紀の超大国である中国だ。中国は21世紀型の超大国、世界覇権国として新たな型を模索している。こうした動きを象徴しているのが、2026年に実施された、米中首脳会談、中露首脳会談である。
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 米中露の「ヤルタ2.0」体制は相互に戦争をしないようにということを取り決めている枠組みである。米中露が直接戦争をすることは世界に甚大な被害を与え、人類の文明に計り知れない影響を与える。そして、この枠組みは、21世紀における世界覇権国交代を平和裏に進めるための枠組みということも言える。「覇権戦争(hegemonic war)」を起こさないことが米中露の共通の目標であり、利益ということになる。

(貼り付けはじめ)

大国は4つのみ存在する(There Are Only Four Great Powers

-大国間の競争の時代が始まった―しかし、全ての競争相手が資格を満たしてはいない。

ブレンダン・シムズ筆

2026年6月2日
『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2026/06/02/great-powers-four-united-states-china-russia-great-britain-france-germany/

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大国間競争(great-power competition)の新たな時代において、競争相手を特定することは重要だ。しかし、大国について語ることは、それを定義するよりも常に容易だった。大国の地位、特にどの国が「最も偉大な(greatest)」国であるかについての意見の相違は、過去と同様に、今日の国際システムの特徴となっている。大国を構成する要素についての共通の定義はなく、大国がいくつ存在するかといった基本的な問題についても合意は存在しない。

それにもかかわらず、大国を共通の特徴によって区別することは可能だ。これらの特徴から、今日存在する大国は4つしかないことが明らかだ。そして、それらは必ずしも予想通りの国家ではない。

第一に、大国には共通の行動様式(a set of behaviors in common)がある。彼らは常に、その時々の主要な国際問題について、自らが影響力を行使するか、少なくとも意見を求められることを期待する。彼らは自らの存在感を強く示し、彼らの不在は埋めるべき空白を生み出す。多くの場合、大国は自らの絶対的な主権(absolute sovereignty)を主張する一方で、特に近隣の小国には限定的な主権(the qualified sovereignty)しか認めない。大国は、極限状況下では、自らを脅かしたり不快にさせたりする政権を転覆させる権利を留保する一方で、自国に対してはそのような権利を一切認めない。

大国は時に国際法を超越した存在(to be above international law)であると主張する。またある時は、国際法を擁護することを美徳とし(make a virtue of vindicating that law)、国際規範を守ると主張する。言い換えれば、大国はルールを作る力と破る力の両方を持ち、決してルールに従うだけの国ではない。彼らは秩序を与える側であり、秩序を与えられる側ではない。

大国がこのような振る舞いをできるのは、中堅国や小国(the middling and smaller states)に比べて圧倒的に優れた能力を持っているからである。その第一の能力は資源(resources)である。この国家は、自国の意思を押し付けたり、他国の意思に抵抗したりするだけの軍事力を持っているだろうか? 軍事力を完全に満足のいく形で評価する方法はないが、軍事費の額とその効果は、防衛能力を大まかに測る指標となる。

配備可能な核兵器(deployable nuclear weapons)もまた、今日の大国としての地位に不可欠な要素である。原子爆弾を運搬する確実な能力、ひいては核攻撃を抑止する能力を持つことは、国家に世界における特別な地位を与える。だからこそ、大国はこれらの兵器に関連する計画、研究、維持、保管、訓練、そして安全保障といった膨大な負担を担うのである。全ての核保有国が大国であるとは限らないが、すべての大国は核保有国である。

次に経済の問題がある。国家は地政学的競の経済的逆風(the financial headwinds of geopolitical competition)を乗り越え、大規模な軍事活動を維持できるだけの強さを持っているだろうか? 通常、経済力はGDPで測定される。GDPは国家の国境内で生産される全てのものを網羅している。購買力平価(purchasing power parity)という代替指標は、国内経済において一定額の資金がどれだけの価値を持つかを考慮に入れている。購買力平価は、生活水準や生産コストが低い非西洋諸国が高く出る傾向がある。

非常に重要でありながら評価が難しいのは、これらの資源がどれほど国家固有のものであるかという問題だ。平時のGDP、紛争時のGDP、そして戦時のGDPは、全く異なる。関税、制裁、あるいは封鎖によって国家を市場、信用源、原材料、食料供給から切り離せば、その経済はたちまち全く異なる様相を呈するだろう。だからこそ、特定の国家の管轄外にあるグローバル・コモンズ、特に世界の海上交通路を支配することが、大国の地位、あるいは少なくとも大国間の序列を決定する上で非常に重要だ。

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左:メリーランド州アナポリスで行われた卒業式と任官式(a graduation and commissioning ceremony)で、ブルーエンジェルスによる祝賀飛行(a flyover salute)を見守るアメリカ海軍兵学校の卒業生たち(2026年5月22日)、右:北京で行われた軍事パレードのリハーサルで、人民解放軍の兵士たちを指導した後、持ち場に戻る士官(2025年8月20日)

経済力は重要ではあるが、大国としての地位を決定づける唯一の要素ではない。過去20年間の軍事力と軍事費で測ると、世界最強の軍隊は、圧倒的なリードを誇るアメリカと中国であり、イギリスとロシアがそれに続く。上位3カ国は、世界経済大国ランキングでも5位、もしくは6位に入る。経済的に弱いロシアは、世界最大の核兵器保有量を誇ることで、大国としての地位を確立している。

大国としての地位を決定づける2つ目の基準は影響力(reach)である。その国家は世界的大国(global power)なのか、それとも単なる地域大国(regional power)なのか。また、本国から遠く離れた地域に武力を行使する意思と能力はどの程度あるのか? 地理的に認められた勢力圏を有しているのか。世界的な基地ネットワークを活用できるのか? 主要な輸送拠点やチョークポイントを支配しているのか? 情報・諜報機関は、世界のほとんどの地域、そしてサイバー空間や宇宙空間に関する質の高い情報を提供できるのか? 大規模で高度な外交組織を有しているのか? 多額の海外援助予算を有しているのか?

影響力は地理的な(geographic)ものと仮想的な(virtual)ものの両方を含む。大国は自国地域をはるかに超えて存在感を示す能力を持つだけでなく、国連、市場、その他の国際機関といった国際機関に影響を与え、場合によっては取り込む能力も持つ。

今日、影響力は各国間で非常に不均等に分布している。アメリカは、広大な軍事基地ネットワークによって際立っている。イギリスはかつてのような世界的な地位を享受してはいないが、ジブラルタル、キプロス、フォークランド諸島など、世界各地に重要な主権拠点を維持している。また、インド洋に面したオマーンのドゥクムなどにも拠点を置いている。ロシアは近隣諸国に勢力圏(a sphere of influence)を主張しているが、近年アフリカや中東では勢力を失っている。ロシアはまた、プロパガンダ、偽情報、破壊的なデジタル活動の分野で世界的な影響力を誇っている。

中国は、ジブチに基地を構え、世界各地のインフラプロジェクトを保護する大規模な準軍事組織を擁し、いずれは世界的な軍事大国となる可能性を秘めている。しかし、その真のグローバルな影響力は、世界のサプライチェインと、技術革命やグリーン革命を支える重要な鉱物資源(リチウムなど)を部分的に支配している点にある。

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3日間の国賓訪問中、ロンドンのザ・モールを馬車に乗ったチャールズ3世国王と日本の徳仁天皇が騎馬警官隊の先導で進んでいる(2024年6月25日)

3つ目の基準は、国家としての評判(reputation)である。その国は、他国、特に他の大国から大国とみなされているか? そして、ほぼ同じくらい重要なのは、その国自身が自らを大国と認識しているかだ。今日、アメリカと中国が大国であることに疑いを持つ者はほとんどおらず、ロシアも、世界秩序を形成、あるいは少なくとも混乱させる軍事力を持つ国として、多くの人が大国とみなしている。イギリスの地位については議論の余地があるものの、ほとんどのヨーロッパ人は依然として英国を主要大国とみなしている。

例えば、フィンランドとスウェーデンは、NATOの安全保障体制が発動する前の2022年に、英国から二国間安全保障の保証を求めた。イギリス主導の統合遠征軍は、バルト海と北極圏の安全保障に大きく貢献している。イギリスはまた、日本をはじめとするアジアの重要国、そしてレヴァントやペルシャ湾岸諸国からも同盟国として高く評価されている。さらに、アメリカがヨーロッパとアジアから撤退すれば、イギリスの限られた軍事力は重要性を増すだろう。

加えて、大国は常に武力以上のものを象徴している。その偉大さは、文化的、イデオロギー的なものだ。今日、イギリスをはじめとする西側諸国は、民主政治体制の原則と自由貿易に基づく自由主義的な国際秩序(a liberal international order)を支持している。イギリスは、ドナルド・トランプ米大統領によるイラン攻撃への参加を拒否することで、アメリカに追従する「プードル(poodle)」ではないことを証明し、そのイメージを強化した。他の国々は、より文明的な観点から自らの立場を表明している。

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ロシア国営通信社スプートニクが配信した写真で、モスクワでヴィデオリンクを通じて核訓練を視察するウラジーミル・プーティン大統領の姿が写っている(2023年10月25日)

例えば、中国の習近平国家主席は、中国は「巨大国家(major country)」として、「際立った中国らしさと中国のヴィジョン(salient Chinese feature and a Chinese vision)」を特徴とする「独自の(distinctive)」外交を展開すべきだと述べている。大国の中でも最も残忍な国の1つであり、軍事力と核兵器の威力を常に誇示するロシアでさえ、「魂のない(soulless)」西側諸国に対抗し、キリスト教的価値観と家族の価値観(Christian and family values)を世界的に代表していると主張している。かつてルールに基づく国際秩序の要であったアメリカが、トランプ政権再選後、一体何を象徴するのかはまだ明らかではない。

国家の評判は、グローバル・ガヴァナンスの構造におけるその国の立場によって左右される部分が大きい。アメリカは、国際通貨基金(IMF)や世界銀行といった経済機関において、主要な役割を担っており、支配的であると言う人もいる。ロシア、中国、イギリス、フランスとともに、国連安全保障理事会の常任理事国(a permanent member of the United Nations Security Council)でもある。これら5カ国は国際システムにおいて大きな特権を享受しており、その特権はしばしば批判にさらされるが、国連改革は依然として実現の可能性は低い。

大国としての地位を決定づける4つ目の基準である「回復力(resilience、レジリエンス)」は、社会と経済がどれだけの苦痛に耐えられるかを示す。歴史的な実績は重要な役割を果たす。過去において、勝利は必ずしも最も大きな損害を与えられる者にもたらされるとは限らず、時には最も大きな苦痛に耐えられる者にもたらされることもあった。ハプスブルク帝国のような過去の大国は、逆境の中で驚異的な粘り強さ(enormous staying power in adversity)を示した。敗北とそこからの回復は、勝利と同じくらい重要である。国家が豊富な資源を保有し、目覚ましい影響力と名声を誇っていたとしても、回復力を欠いていれば大国とは言えない。

長年にわたり最も回復力の高い国は、イギリスとアメリカだ。米英両国は長期にわたる戦いを戦い抜き、アメリカ植民地の喪失やヴェトナム戦争といった深刻な敗北から立ち直る能力を証明してきた。米英両国とも現在、それぞれ異なる形で国内危機に直面しているものの、比較的速やかに回復することが期待される。一方、ロシアと中国は、現在の形では比較的若い大国であり、中露両国とも政治的な混乱と分裂を経験したばかりである。他の多くの事柄と同様に、回復力は歴史、特に長期にわたる社会的な結束の発展に根ざしている。

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南アフリカのヨハネスブルグで開催されたG20サミットで、イタリアのジョルジア・メローニ首相(左)が日本の高市早苗首相と挨拶を交わす。傍らにはフランスのエマニュエル・マクロン大統領が立っている(2025年11月22日)

これらの基準に基づくと、大国候補として挙げられる国々のいくつかは除外される。ドイツや日本といった経済的に重要な国々は、大国となるための軍事力、特に核兵器を欠いている。

影響力という点では、ドイツ、日本、ブラジル、インドネシアは主に地域的な軍事力を有している。これらの国々の中には、外交活動や海外援助政策を通じて相当な国際的影響力を持つ国もある。ドイツと日本は大きなソフトパワーを持っているが、ブラジルとインドネシアはそうではない。これら4カ国は過去に脆弱な面を見せており、必要な回復力を欠いている。

多くの支持を得ているにもかかわらず、インドもほとんどの基準を満たしていない。インドは核兵器を保有し、世界第5位または第6位の経済規模を誇るが、ニューデリーの軍事力は主に地域的な範囲にとどまっている。インドは「世界の教師(world teacher)」としての評判を自負しているが、その役割を大国としての役割とは異なる視点から捉えている。近代国家としてのインドの歴史は比較的浅いため、その回復さを測るのは難しい。しかし、テロや民族間の暴力に悩まされやすく、貧困が根強く残っていることは、脆弱性(vulnerabilities)を示唆している。

フランスは評価することが難しい。巨大な経済規模を持ち、イギリスよりも独立した核兵器を保有しているが、国境管理や通貨管理といった主権の重要な部分をヨーロッパ連合に譲り渡している。パリは依然としてアフリカで大きな影響力を持ち、インド太平洋地域にも重要な存在感を示しているが、アフリカでは後退傾向にあり、インド太平洋地域では反植民地運動の脅威にさらされている。また、フランスはアングロサクソン諸国、中国、ロシアとは異なる独自のグローバルブランドを確立している。

しかし、回復力という点では、フランスは19世紀と20世紀に幾度となく国家崩壊を経験しており、中でも1940年にドイツに占領され、戦後英米連合(the Anglo-Americans after the war)によって再建されたことは特筆すべきである。フランスはイギリスよりもはるかに脆弱(brittle)である。

明らかなのは、大国が持つ資源(resources)、影響力(reach)、名声(reputation)、そして回復力(resilience)の程度、そしてこれらの能力のバランスは、国によって大きく異なるということである。どの大国も全く同じ構造ではなく、能力と脆弱性(capacity and vulnerabilities)において大きな違いがある。これは常にそうであった。過去には、どの大国も他の大国と全く同じ強さではなく、中には著しく弱い国もあった。例えば、18世紀のプロイセンや19世紀末のオーストリア=ハンガリー帝国などが挙げられる。

同様に、今日の大国も、個々の強みと総合的な強さの両面において、互いに大きく異なっている。アメリカと中国は経済力と軍事力においてロシアとイギリスをはるかに凌駕しているものの、これら4カ国はいずれも、世界の舞台における主要国の中でも、他の国々とは一線を画す特徴を持っている。また、フランスという、大国としての地位が明確でない国も存在する。

このリスト―含まれる国と含まれない国―は、一部の人々を驚かせるかもしれない。しかし、歴史的に見ると、その一貫性は驚くべきものだ。各国間の力関係は大きく変化してきたものの、この大国構成は、私たちの祖父母だけでなく、曽祖父母の世代にも馴染み深いものだっただろう。そしておそらく、私たちの子供や孫の世代にも、この構成は変わらないだろう。

※ブレンダン・シムズ:ケンブリッジ大学地政学センター部長。著書に『大国の復活(The Return of the Great Powers)』がある。

(貼り付け終わり)

(終わり)



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 古村治彦です。

 ドナルド・トランプ大統領が共和党のビル・キャシディ連邦上院議員(ルイジアナ州選出)と激しい言い争いになったことについてこのブログで昨日書いた。キャシディ議員は、イラン戦争停戦決議に共和党から賛成に回った4名の上院議員のうちの1人だ。キャシディ議員はトランプ大統領に対して長年にわたり批判的であり、2021年の弾劾裁判で、有罪に賛成票を投じており、トランプとは「犬猿の仲」だった。

 キャシディ議員は今年11月の中間選挙で改選となるということで、共和党予備選挙に立候補していた。トランプ大統領はルイジアナ州選出のジュリア・レットロー連邦下院議員に上院議員選挙への立候補を促し、支持を表明した。これは同時に現職のキャシディ議員を支持しないということになった。そして、ルイジアナ州選出連邦所運議員選挙の共和党予備選挙が実施され、レットロー議員が45%、ジョン・フレミング州財務長官が28%、キャシディ議員が25%の得票率となり、現職のキャシディ議員は惨敗した。共和党優勢州でのトランプ大統領の影響力のすさまじさを改めて見せつける結果となった。

 トランプ大統領はイラン戦争の失敗もあり、現在、支持率が低迷している。そのあおりを受けて、11月の中間選挙での共和党の苦戦が伝えられている。共和党の候補者になるためにはトランプ大統領の支持が必要であるが、本選挙(民主党の候補者と戦う)では、トランプの支持が足枷になる可能性もある。それでも最初から共和党が勝利を確実にしている共和党優勢州ではトランプ支持が絶大な効果を発揮する。

 下記論考では、大統領の影響力について、トランプ大統領と、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領を比較している。ルーズヴェルト大統領は社会主義に近い、リベラルな政策を実施したことで知られているが、そのために、いわゆるニューディール連合を形成しようとした。リベラルな議員たちを多く当選させようとした。しかし、民主党の地盤は南部である。南部には強固な保守イデオロギーを持つ議員たちが多くいた。ルーズヴェルト大統領は彼らをリベラル派に取り換えようと、トランプと同じような動きをしたが、ルーズヴェルト大統領はトランプ大統領ほどにはうまくいかなかった。有権者が地方政治への介入を嫌ったということが理由に挙げられているようだ。トランプ大統領は、「党内粛清力」だけならば、歴代トップ3の評価になるルーズヴェルト大統領を上回るということになる。

 ルーズヴェルト大統領の考えはその後、民主党に引き継がれ、良い評価、悪い評価それぞれあるが、リベラル政党となった。2016年にドナルド・トランプが大統領に当選し、共和党は金持ちのための政党から変質しつつある。これまで民主党を組合関連で応援していた白人労働者たちが支持するようになった。また、特に共和党優勢州で強固な支持基盤もある。これからトランプの「遺産」がどのようになるかということが検証され、評価されていくことになるだろう。

(貼り付けはじめ)

ドナルド・トランプはフランクリン・D・ルーズヴェルトができなかったことをやっている(Trump Is Doing What FDR Could Not

-しかし、トランプ大統領による党内粛清の成功は長期的には共和党にとって大きな代償となる可能性がある。

ジュリアン・E・ゼリザー筆

2026年6月8日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2026/06/08/trump-republican-party-purge-fdr/

ドナルド・トランプ大統領は苦闘している。支持率は過去最低を記録し、2024年の大統領選挙で支持基盤を構築した主要有権者層、特にラテン系有権者からの支持も急激に低下している。彼は、生活費の高騰や人工知能が中流階級の雇用に及ぼす脅威など、勤労しているアメリカ人にとって最も重要な問題に目を向けようとしない、あるいは向けることができないでいる。あらゆる指標において、トランプ政権は、来る中間選挙で共和党が連邦上院を含む連邦議会の過半数を維持できる見込みを著しく低下させている。共和党にとって、大統領以上に大きな問題となっているものはない。彼らを救う唯一の道は、選挙区の再編成、投票制限、そして都市部への連邦軍の駐留といった手段が、民主的な意思の自然な流れを覆すことだろう。

しかし、トランプは依然として極めて強力な党指導者である。彼は共和党内で確固たる支持基盤を維持し、政敵に閥を与える能力を繰り返し示してきた。近年の予備選挙では、彼に反抗したと彼が考える複数の共和党現職連邦議員を落選させることで、その強さを改めて示した。

インディアナ州では、トランプの州議会選挙への介入が、選挙区再編要求に応じなかった共和党現職議員の落選につながった。ケンタッキー州では、トランプは反対運動を組織し、トーマス・マッシー連邦下院議員の予備選敗北を確実にした。ルイジアナ州では、ビル・キャシディ連邦上院議員も敗北した。キャシディは医師であり、ロバート・F・ケネディ・ジュニアが医療承認済みのワクチンを執拗に攻撃していたにもかかわらず、ケネディを保健福祉長官の承認に賛成した。

テキサス州の共和党連邦上院予備選挙では、トランプの支持が、スキャンダルにまみれたケン・パクストン州司法長官の勝利を確実なものにした。多くの共和党員は、民主党のジェイムズ・タラリコに勝つ可能性はコーニンの方がはるかに高いと考えていたにもかかわらず、このような結果になった。

言い換えるならば、トランプは党内粛清(a primary purge)を敢行し、成功した。彼は党をしっかりと掌握しており、政治的リスクを顧みず、党を思いのままに操れることを証明した。共和党にとってのパラドックスは、党の利益を顧みず、党の政治的イメージを自らも引きずり下ろしている党の指導者に、依然として依存せざるを得ないという点にある。

トランプが党をいかに支配しているかを理解するには、1938年の中間選挙を振り返ることが有効だ。当時、アメリカ史上最も影響力のある大統領の1人であるフランクリン・D・ルーズヴェルトは、民主党の方向性を統一することに失敗した。ルーズヴェルトは、ニューディール政策を阻害する保守的な南部出身議員たち(conservative Southern legislators)を民主党から排除しようとしたが、結果的に敗北を喫し、まさに阻止しようとしていた勢力を勢いづかせてしまった。

ルーズヴェルトが、自身の政策を妨害する党内の南部出身連邦議員たちに立ち向かうことを決意した時、2期目の任期中だった。1936年以降、ルーズヴェルトは勢いに乗っていた。共和党のアルフ・ランドンを圧倒的な勝利で破り(連邦下院で334対88、上院で77対16の多数派)、ニューディール連合(New Deal coalition)を確固たるものにし、連邦政府を大幅に拡大する一連の革新的な法案を連邦議会と協力して可決させた。

しかし、こうした立法実績を築くにあたり、ルーズヴェルトは民主党内の深い分裂に常に対処しなければならなかった。民主党は扱いにくい連合体(an unwieldy coalition)だった。社会保障ネットの整備、産業別労働組合との連携、経済の行き過ぎた行為の規制を政府に求める北部リベラル派(Northern Liberals)、人種関係への干渉を防ぐためにこれらのプログラムの運営を自分たちで管理できる限り連邦政府の支援を受け入れる南部民主党員(Southern Democrats)、20世紀初頭に北部の大都市に移住してきた労働者階級や少数派移民、知識人や進歩主義者、そしてリンカーンの党から離れ始めていた黒人有権者など、様々な勢力が入り混じっていた。

南部民主党員は、1936年の勝利においてこれらの派閥が果たした影響力に動揺したものの、連邦下院と連邦上院の主要委員会を多数支配していたため、党内で不均衡な権力を握っていた。彼らはニューディール政策の多くを支持していた。貧しい白人農業コミュニティは、連邦政府の支援を最も必要とする地域の1つだったからだ。しかし、連邦政府が労働力を管理することや、地域における労働組合の結成を容認するような政策には断固として反対した。例えば、家事労働者や農業労働者が当初社会保障制度から除外されたのは、これが大きな理由の1つだった。

南部の白人民主党員は、大統領とその政策に対してますます反対の姿勢を強めていった。1937年、彼らはルーズヴェルト大統領がニューディール政策に比較的寛容な判事を最高裁判事に加えることで最高裁判所を拡大しようとする、いわゆる「裁判所詰め込み計画(court-packing plan)」に最も強く反対したグループの1つだった。産業別組合会議(the Congress of Industrial OrganizationsCIO)が南部労働者の組織化に本格的に取り組み、民主党指導部が南部の有力候補であるミシシッピ州のパット・ハリソンではなく、ケンタッキー州のアルベン・バークリーを連邦上院多数党(民主党)院内総務に選出したことで、緊張はさらに高まった。ホワイトハウスがバークリー支持を議員たちに圧力をかけた結果、ハリソンはわずか1票差で敗れた。「私たちはアメリカを巡る大いなる戦いに身を投じている。境界線は引かれた」とノースカロライナ州選出のジョサイア・ベイリー連邦上院議員は警告した。「アメリカの社会主義勢力は社会党だけに留まらない」。ルーズヴェルト大統領はヘンリー・モーゲンソー財務長官に対し、南部派が「保守民主党(Conservative Democratic Party)」の結成を目指していると伝えた。モーゲンソー長官もこれに同意し、「戦いと粛清が必要だ(There has got to be a fight and there has got to be a purge)」と述べた。

ルーズヴェルト大統領は自ら事態の解決に乗り出すことを決意した。大統領は通常、党の予備選挙には介入しないものだが、ルーズヴェルトは党が右傾化するのを防ぐために必要だと考え、介入を選んだ。1938年6月の炉辺談話(a fireside chat)で、彼はアメリカ国民に対し、多くの民主党予備選挙は「一般的にリベラルと保守に分類される2つの思想潮流(between two schools of thought, generally classified as liberal and conservative)」の衝突を中心に展開されるだろうと語った。「民主党の党首(head of the Democratic Party)」として、ルーズヴェルトは「1936年の民主党綱領に示された、明確にリベラルな原則宣言」を擁護することが自分の責任だと説明した。

ルーズヴェルトは、ジョージア州のウォルター・ジョージ、サウスカロライナ州のエリソン・“コットン・エド”・スミス、メリーランド州のミラード・タイディングス、アイオワ州のガイ・ジレットなどの民主党連邦議員に加え、連邦下院規則委員長を務めていたニューヨーク州のジョン・オコナーという、問題のある北部民主党議員を破るために選挙運動を展開した。彼は全ての保守派を攻撃した訳ではないが、数人の保守派に勝利することで、党内の保守派に対し、彼にもっと従わなければならないという強いメッセージを送ることができた。これは、彼が最高裁判事の増員をちらつかせた後、最高裁がより彼に同情的な判決を下すようになったのと同様の効果を狙ったものだった。

大統領は遠慮なく行動した。ジョージア州バーンズビルで行われた、新たな農村電化計画の開始を祝う式典で、FDRはジョージの実績を公然と批判し、もし可能であればジョージの対立候補に投票すると述べた。この式典には、5万人以上がゴードン・インスティテュート・スタジアムに詰めかけた。ジョージが怒りを隠そうと前を見つめる中、ルーズヴェルトはこう言い放った。「私の旧友であり、この州選出の連邦上院議員である彼は、私の判断では、リベラルな思想の持ち主とは到底言えない。したがって、彼が長年連邦上院議員を務めてきたという主張は、全く説得力に欠ける。」

彼は他のいくつかの州でも同様の発言をした。サウスカロライナ州への列車旅行の途中、ルーズヴェルトは「1日50セントで生活できる家族や人はいないと思う」と述べた。これは、ルーズヴェルトの最低賃金法案に反対し、その立場を説明する際に「サウスカロライナ州では1日50セントで生活できる」と述べていたスミスへの暗黙の批判だった。

ミシガン州選出の共和党連邦上院議員アーサー・ヴァンデンバーグは、「アメリカに起こったこの『粛清(purge)』は、極めて不吉な意味合いを持つ」と警告した。「政治指導者が同情的な支持者を求めるのはよくあることだが、このいまだ自由な共和国の大統領が、立憲政府の立法府と司法府を支配しようとするのは全く別の問題となる」。

スーザン・ダン著『ルーズヴェルトの粛清(Roosevelt’s Purge)』によれば、この一連の取り組みは全体的に拙劣だった。ルーズヴェルトは一貫性のない計画で場当たり的な戦いを展開し、この取り組みを監督した「粛清委員会(elimination committee)」も機能不全に陥った。さらにダンは、アメリカ国民は地方選挙への大統領の介入を望んでいなかったと指摘している。

この取り組みはルーズヴェルトにとって良い結果にはならず、彼は大統領権限の限界を痛感することになった。ルーズヴェルトが選挙戦で対抗した候補者のうち4人が当選した。大統領が唯一成功を収めたのは、ニューヨーク州のオコーナーに対する選挙戦だけだった。

オコーナーの失脚は、ルーズヴェルトが大敗したというメディアの報道を覆すには至らなかった。南部民主党は中間選挙で非常に好成績を収め、共和党も連邦下院(81議席)と連邦上院(8議席)の両方で議席を大幅に増やした。その後、保守派連合が出現した。南部民主党員と共和党員によるこの同盟は、ルーズヴェルトの国内政策への野望、そしてより広範なリベラルに対する防波堤として、1960年代を通じて機能することになる。

​​ルーズヴェルトは自身の決断を擁護し続けた。1941年の『コリアーズ』誌のインタヴューで、ルーズヴェルトは「私が最も関心を寄せていたのは、民主党と共和党が互いに単なるつまらない政党にならないようにすることだった。私は、民主党がアメリカ合衆国において、自由主義的で、未来志向的で、進歩的な政党であり続けることを何よりも望んでいた」と述べている。

トランプは党指導者として、はるかに手強い手腕を発揮してきた。もちろん、彼の成功の多くは、1970年代以降、民主、共和両党が内部的に均質化してきたという事実に基づいている。ルーズヴェルトにとって厄介な存在だった南部民主党員は、1990年代以降、大部分が共和党員となった。今日、両党には1930年代のような内部分裂は存在しない。さらに、大統領が予備選挙に影響を与えるために利用できる手段、例えば政治活動委員会(PAC)、ソーシャルメディア、高度なコンピューターデータ分析などは、88年前には存在しなかった。

しかし皮肉なことに、1938年の敗北にもかかわらず、ルーズヴェルトは最終的に、より強固な民主党連合の構築に貢献したのである。時が経つにつれ、党内のリベラル派は勢力を増し、1960年代には、投票権法の成立や1965年のメディケア創設など、いくつかの主要な問題において南部の抵抗を打ち破ることに成功した。ルーズヴェルトはアメリカ政治において深く尊敬される人物であり続けたため、民主党は彼とその遺産との結びつきによって、数十年にわたり党の地位を高めてきた。

一方、トランプは、極めて不人気な指導者と政策に党を縛り付けてしまった。共和党は今や、個々の連邦議員がトランプ大統領の支配から容易に抜け出すことができない状況に陥っている。もし抜け出そうとすれば、次の選挙での敗北はほぼ確実となる(ワイオミング州のリズ・チェイニーの例を見て欲しい)。トランプは共和党の長期的な将来をほとんど顧みず、短期的にも長期的にも党に害を及ぼすような行動を厭わない。

今日に至るまで多くの民主党員がルーズヴェルトの遺産を誇り高く主張しているのに対し、共和党員が数十年後もトランプを同じように称えることができるかどうかは全く不透明である。むしろ、彼らは、党内での地位を利用して意思決定を行い、内部抗争に巻き込まれた、並外れた影響力を持つ人物を振り返ることになるのかもしれない。その人物は、共和党が長期的なヴィジョンを持ち、広範な共和党連合の構築を目指し、永続的な足跡を残す法案に注力する指導者に運命を委ねていれば築けたであろう潜在的な優位性を損なった。ルーズヴェルトの直感は、今なお絶大な人気を誇る政策を生み出し、民主党が支持基盤を頼りにできる理由の1つとなっている。数年後、共和党も同じことをするだろうか?

※ジュリアン・E・ゼリザー:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。プリンストン大学歴史学・公共問題担当教授。ニュースを多角的に捉えるニュースレター「ザ・ロング・ヴュー」の著者。彼が編集した新刊『ジョセフ・R・バイデン・ジュニア大統領:初の歴史的評価(The Presidency of Joseph R. Biden Jr.: A First Historical Assessment)』は、プリンストン大学出版局から47日に刊行された。Xアカウント:@julianzelizer

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

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 古村治彦です。

※2025年3月25日に最新刊『トランプの電撃作戦』(秀和システム)が発売になります。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
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日本では高齢社会が深化し、社会保障費の増加により、現役世代の社会保障負担が増大し、社会保険制度に対する不満が高まっている。「世代間の助け合い」という聞こえの良いスローガンはあるにしても、現在の高齢者たちが現役時代に負担した割合と、現在の現役世代の負担率を考えるならば、現役世代の不満は理解できる。消費税が全て社会保障に使われるというおためごかしもあって、国民は増税や負担増に辟易している(野党第一党の立件民主党すらもその国民の不満にこたえていない)。

 アメリカでも同様の不満が起きている。イーロン・マスクは社会保障を「最大のネズミ講」と呼んで非難している。社会保障制度に対する不満が起きている。そうした中で、『フォーリン・ポリシー』誌に、アメリカの社会保障制度の歴史に関する論稿が掲載されたのでご紹介したい。アメリカの社会保障制度の歴史は1930年代に始まったもので、100年ほどの歴史を持っている。

制度の歴史を振り返ると、1935年にフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領のもとで始まった。それまでそのような制度は存在しなかった。社会保障は普遍的な給付を重視し、全ての労働者を対象にすることで多様な層の支持を得る仕組みである。しかし、制度の創設当初から南部民主党による黒人労働者や女性の排除があり、その後も特定のカテゴリーの労働者が除外される政治的な障害が続いてきた。

そして、制度開始からの政治的混乱を経て、1950年代には大幅な改善が図られ、保守的な選択肢としての老齢保険が支持を集めた。社会保障税は制度の財源として重要であり、労働者が支払うことで制度の安定が図られてきた。その後、制度は徐々に拡大し、1960年代には医療給付が追加され、民主、共和両党間で給付の増額を競う展開へと発展した。1972年以降、社会保障制度は増税を伴いながらも給付金の調整が行われ、その人気は根強いものである。

これに対し、共和党は制度削減の選択肢を模索したが常に反発に遭い、制度の存続が続いている。例えば、レーガン大統領の提案に民主党が反対したことで、制度が保護される結果となった。現在も社会保障は多くのアメリカ人の重要な収入源であり、87%が優先事項と考えている。特に65歳以上の高齢者にとっての依存度が高く、将来的にも6900万人が受給予定だ。

マスクの「政府効率化省」の案は、この制度に対して新たな脅威となる可能性があり、労働人口の減少や退職者の増加に如何に対処するかが重要な課題である。トランプ政権下での改革が高齢者に与える影響が懸念され、ルーズヴェルト時代の理念が再確認される必要がある。

 社会保障制度がセーフティネットであることはアメリカも日本も共通している。問題は負担と受益のバランスだ。2つがちょうどイーヴンであれば問題ではないが、世代間で、負担よりも受益が大きい、樹液よりも負担が大きいということの不公平が出ているのが現状だ。ここを解決することが制度を存続させ、セーフティネットとしての役割を果たさせるために重要ということになるだろう。「私たちは逃げ切って良かったわ」というような言葉が出てくるようでは、社会保障制度の未来はない。

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社会保障(ソーシャル・セキュリティ)は「ネズミ講」か?(Is Social Security a “Ponzi Scheme”?

-引退した全てのアメリカ人にとって、この恩恵(benefits)は非常に現実的なものだ。

ジュリアン・E・ゼリザー筆

2025年3月10日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2025/03/10/social-security-musk-ponzi-scheme-benefits/

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社会保障システムの紹介を行うポスター(1935年)

大統領のアドヴァイザーであるイーロン・マスクは最近、ジョー・ローガンのポッドキャストに出演し、社会保障制度(Social Security)は「史上最大のネズミ講(the biggest Ponzi scheme of all time)」だと主張した。実際、社会保障制度はアメリカの社会的セーフティネットの中で最も効果的かつ永続的な構成要素の一つである。社会保障制度は、高齢者の貧困問題(problem of poverty amongst the elderly)を緩和するために、他の何よりも大きな役割を果たしてきた。この制度は完璧とはとても言えないが、連邦議会は改革が必要な場合には、長期にわたってその構造を改善・強化し続けてきた。この制度は、赤(共和党優勢州)と青(民主党優勢州)の両方の州に住む家族の生活の中心であるため、国政における「第三のレール(third rail)」となっている。

最近まで、ドナルド・トランプ大統領はこの問題から距離を置くことを十分承知していた。おそらく、トランプ大統領を誕生させた多くの有権者を含め、ほとんどの有権者にとって、この制度の削減はほとんど魅力がないという事実を敏感に感じ取っているのだろう。

しかし、政府の労働力を鑿(のみ、chisel)ではなく大ハンマー(sledgehammer)で再編しようとする彼の取り組みと同様、マスクは結局、政権のエネルギーの多くを消耗する政治的泥沼に大統領を引きずり込むことになるかもしれない。今年90周年を迎える社会保障制度を脅かすことは、民主党を活気づけ、共和党を萎縮させるのに他のほとんど何にもまして効果的だろう。共和党は、社会保障制度を党にとって負ける問題と認識するだろう。

フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領と民主党が過半数を占める連邦議会は、ニューディール(New Deal)の最盛期である1935年に社会保障制度を創設した。アメリカは、ドイツ(1889年)やデンマーク(1891年)のようなヨーロッパ諸国が数十年前に導入したような、退職者のための連邦社会保険制度(federal social insurance programs for retirees)をまだ採用していなかった。1934年、フランシス・パーキンス労働長官を委員長とする経済保障委員会(the Committee on Economic Security)は、退職者に給与税を財源とする年金(pensions)を支給する連邦保険制度(federal insurance program)の創設を連邦議会に提案した。

重要なのは、この制度が普遍的(universal)なものであることで、ミーンズテスト(訳者註:社会保障制度の給付を申請する市民の資格を確認するための資力調査)によって受給者を決定するのではなく、対象となる仕事に従事する全ての労働者を含めることであった。この制度の創設者たちの信念は、歴史的に連邦政府のプログラムに対してアンビバレントな(二律背反的な)国民性において、ミーンズテストが受給者に汚名を着せるのに対し、普遍的給付は手当てとは見なされないというものだった。普遍的給付はまた、保険の傘の下にある全ての人が何かを受け取ることになるため、多くの異なる所得階層をプログラムの継続に投資できるという利点もあった。

加えて、老齢保険(Old-Age Insurance)と呼ばれるこの制度は、一部の改革派が求めていた連邦政府が負担する定額の月額年金に代わる、より保守的な選択肢とみなされていた。ルーズヴェルトは次のように述べた。「私たちは、人生の危険や変化に対して国民の100% を保険で守ることはできないが、失業や貧困に苦しむ老年期(poverty-ridden old age)に対して、平均的な市民とその家族をある程度保護する法律を制定しようと努めてきた」。

社会保障税(Social Security taxes)は、この法案の重要な部分であった。第一に、社会保障税は、一般的な税収に頼らない、財政的に保守的な給付金の支払い方法を提供するものであった。連邦議会は、労働者に増税する必要がないよう、長期的な年間コストを考慮することを余儀なくされた。当初、連邦議会は余剰資金の蓄積も計画していた。第二に、給与税(payroll taxes)は、労働者に制度に「お金を払っている(paying into)」という感覚を与えることで、制度に投資しているという感覚を与え、その結果、将来にわたって給付を受ける資格がある。「この税金があれば、政治家が私の社会保障制度を廃止することはできない」とルーズヴェルトは後に語っている。

しかし、すぐに問題に直面した。

多くの主要委員会を支配していた南部民主党(Southern Democrats 訳者註:アメリカ南部を地盤とする保守的な民主党員たち)は、黒人の雇用が多い2つの労働力層である農業労働者と家事労働者を制度から除外するよう主張した。アメリカ南部は、公民権介入への扉を容易に開く可能性のある連邦政策に、彼らを巻き込みたくなかった。また、連邦議員たちは単身賃金世帯のためのプログラムを構想していたため、女性も除外された。当時、こうした労働者は男性であると想定されていた。最後に、将来のための余剰金という概念は、このパッケージの最も疑わしい部分であった。実際には、余剰資金は国債に投資されることになった。(労働者がまだ大恐慌の影響と闘っていた時期に、短期的には使われない資金を集めることは好都合だった)

社会保障制度開始から最初の5年間、この制度は政治的に不安定な状況にあった。連邦議会は1939年に労働者の未亡人と扶養家族にまで適用範囲を拡大したが、老齢年金保険に対する政治的な支持は弱いままだった。多くの共和党員がルーズヴェルトの施策を攻撃した。1936年、共和党の大統領候補アルフ・ランドンは、この制度は巨大な官僚機構(a massive bureaucracy)を生み出す「残酷な詐欺(cruel hoax)」であり、「彼らが納める現金が現在の赤字と新たな浪費に使われる可能性は十分にある」と考えた。連邦議会の反対派は、1939年から給与税の増税を8回凍結し、一般歳入から給付金を賄うようロビー活動することで、この制度を覆そうとした。一般歳入から給付金を賄うと、政治的に価値のある特定給与税がなくなり、社会保障が他の全ての裁量的制度の変動に左右されることになる。

1950年、民主党のハリー・トルーマン大統領がホワイトハウスに入ると、彼の政党がこの制度を救った。連邦議会は老齢年金保険(Old Age Insurance)を増額し、税金を上げ、農業労働者から始めて徐々に対象となる仕事の種類を拡大した。連邦議会は剰余金を集めるという考えを放棄し、給付金が厳格な賦課方式(strict pay-as-you go basis)で支払われるようにした。今日の労働者たちが今日の退職者を賄うということになった。1954年、共和党のドワイト・アイゼンハワー大統領は弟に宛てた手紙の中で、「いかなる政党であれ、社会保障や失業保険を廃止し、労働法や農業プログラムを撤廃しようとするなら、我が国の政治史上、その政党の名前は二度と聞かれなくなるだろう」と警告した。国民一人ひとりの個人番号が記載された社会保障カードは誇りとなった。社会保障番号はもともと、政府が制度のために労働者の収入を記録できるようにするために作られたものだが、現在では最も一般的な身分証明書の1つとなった。

その後の数十年間、社会保障は着実に拡大した。1964年、共和党候補のバリー・ゴールドウォーターがプログラムを任意にすることを提案し、それによってその普遍的な構造を弱めると、リンドン・ジョンソン大統領はゴールドウォーターを非難した。ジョンソン大統領はゴールドウォーターの提案を、自分が急進的な保守主義者であることを示すもう一つの証拠として使った。1965年、連邦議会は医療給付(これも普遍的な給付として構築されたメディケア)を社会保障に加えた。これはジョンソンの立法上の最大の勝利の一つであった。1972年、ヴェトナム戦争の支出から生じたインフレにアメリカ人が苦しむ中、共和党と民主党は給付の増額を競った。両党間の競争は拡大の是非ではなく、どのように拡大するかについてになった。リチャード・ニクソン大統領と連邦議会の共和党所属の議員たちは、物価上昇時に生活費の自動調整(automatic cost-of-living adjustments)が行われるよう、インフレに対する給付のスライド制(index benefits to inflation)を推進した。連邦下院歳入委員会委員長で民主党のウィルバー・ミルズ議員は、給付金に対する裁量権の維持を目指し、連邦議会に増額を投票させるという昔ながらの方法を選んだ(これにより、控除も確実に受けられる)。最終的な社会保障改正案には、両党の提案が盛り込まれた。給付金はなんと20%も増加し、法案はプログラムを指数化した。

1972年以降、社会保障局や超党派委員会による保険数理予測(actuarial predictions)に基づいて、連邦議会が段階的に増税し、給付金を調整した事例が数多くある。たとえば、1983年の社会保障改正案では、給与税を増税し、生活費調整を延期して、近い将来までプログラムを支払い可能な状態にした。

社会保障給付を直接削減しようとする共和党の努力は決して成功していない。この制度は非常に人気がある。1981年にレーガンが財政不足に対処しようとしたとき、予算管理局(Office of Management and Budget)のデイヴィッド・ストックマン局長は早期退職者への給付を大幅に削減することを提案した。連邦下院民主党はこれに反発し、ティップ・オニール連邦下院議長は「これは制度破壊への第一歩だ(the first step to destroying the program)」と警告した。レーガンは手を引き、この制度がアメリカ政治の「第三のレール(third rail)」になったという見方が生まれた。2005年、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、ジョン・ケリー連邦上院議員に勝利して再選を果たしたばかりであったため、社会保障制度を民営化し(privatize)、労働者が給与課税の一部を投資口座に投資できるようにすることで、退職時にその口座がどうなっているかというリスクを負うという大規模な計画を提案した。ナンシー・ペロシ連邦下院少数党(民主党)院内総務とハリー・リード上院少数党(民主党)院内総務は、大統領に大敗を喫した。

2008年には5000万人以上が社会保障給付を受けていた。2025年には、約6900万人のアメリカ人が約1兆6000億ドルの給付を受けることになる。この中には、65歳以上のアメリカ人10人のうちほぼ9人が含まれ、社会保障は収入の31%を占める。加えて、65歳以上の男性の39%、同年齢の女性の44%が、収入の少なくとも50%を社会保障から受け取っている。国立退職保障研究所によると、アメリカ人の87%が、社会保障は予算の優先事項であり続けるべきだと考えている。この数字には共和党員の86%も含まれている。

なぜ多くのアメリカ人が、この制度の創設者が予言したように、この制度に払い込んだというプライドを持ち、毎月の給付金を受け取るに値すると等しく信じているのかは、衝撃的なことではない。

これまでの第二次トランプ政権の実績を考えれば、マスクが本気で社会保障を政権の矢面に立たせようとしていないと信じる理由はない。実際、社会保障の効率化にとって現在最大の脅威は、マスクのいわゆる「政府効率化省(Department of Government Efficiency)」そのものであり、社会保障庁から数千人の雇用を削減する案を推進し、支払いシステムにアクセスできるようになったからだ。

確かに、この制度は退職者の増加や労働人口の減少に対処しなければならない。しかし、トランプとマスクの「焦土作戦的アプローチ(burn-down-the-house approach)」は高齢者にとって危険であり、1970年代から制度の不均衡を是正し続けてきた漸進的改革(賃金の課税上限額の引き上げや給与課税の引き上げなど)よりも悪い選択肢である。例えば、ブルッキングス研究所は、基本プログラムの完全性を維持しながら支払能力を達成する方法を示す1つの包括的な研究を提唱している。

これまでこの戦いから遠ざかっていたトランプだが、パートナーのマスクが、トランプでさえ逃げ出せないような事態に彼を引きずり込んでいることに気づくかもしれない。雇用不安と物価の上昇、そして年金支給額の伸び悩み(stagnant pension coverage)が深刻化している今、ルーズヴェルトの遺産はかつてないほど重要である。

※ジュリアン・E・ゼリザー:プリンストン大学歴史学・公共問題教授。最新刊に『コロンビア・グローバル・リポーツ』誌との共著となった『パートナーシップの防御』がある。Xアカウント:@julianzelizer

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『トランプの電撃作戦』
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 古村治彦です。

1945年2月4日から11日にかけて行われた、アメリカのフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソヴィエト連邦のヨシフ・スターリン書記長が参加して、戦争の結末と戦後世界の行方について話し合いが行われた。戦後世界の構造が決定された重要な首脳会談であった。

日本関係で言えば、ソ連が対日参戦し、千島列島を含む地域をソ連が獲得するということが決定された。ヨーロッパ関係で言えば、ポーランドの国境線が西寄りに設定され、東ヨーロッパ諸国をソ連が実質的に支配すること、共産ブロックに含まれるということが決定された。ソ連は東ヨーロッパを緩衝地帯とすることで、西欧列強からの侵略を防ぐことができるという安心感を得ることができた。

 重要なことは、これらの重要な事項をアメリカ、イギリス、ソ連で決めたということだ。そこにはフランスは入っていない。フランスはドイツに敗れた時点で、列強の地位から脱落しているということになる。これこそが大国間政治(great-power politics)ということである。これらの大国が世界の運命を決め、一国の行く末を決める。決められる弱小国には何の相談もなく、小国の国民の意思など全く考慮されない。これが国際政治の真骨頂だ。

 今回の論稿で重要なのは、指導者個人レヴェルの分析がなされていることだ。国際政治では、個人レヴェル、国内政治レヴェル、国際関係レヴェルの3つの分析のレヴェル(levels of analysis)がある。今回の論稿や個人レヴェル、具体的には、ヤルタ会談に参加したルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの考えや行動を分析の中心に据えている。何よりも重要なのは、ルーズヴェルトが瀕死の状態であったということだ。実際に階段から2か月後の4月にルーズヴェルトは死亡した。その状態で世界の運命を決める会談に臨んでいたということは世界にとって大きな不幸であった。そして、ルーズヴェルトは副大統領ハリー・トルーマンを信頼しておらず、彼の抗争を全く伝えていなかった。そのため、トルーマンは何も知らない状態で大統領に昇格することになった。ルーズヴェルトは自身の死後のことまで考えていなかった。チャーチルはイギリスの国力が減退している中で、大国としての矜持を保とうとして、得意の弁舌を駆使し、ソ連のスターリンと対峙したが、気力が充実し、自身の要求貫徹にこだわったスターリンの主張を覆すには至らなかった。チャーチルとスターリンは、自国の利益を第一に考えていたということになる。その点で彼らは交渉しやすかったと言えるだろう。ルーズヴェルトは国際連合や世界の秩序維持について話したが、チャーチルとスターリンも、それぞれの国が何を得られるのかということにしか関心がなかった。それがイギリスの帝国(植民地)の維持であり、東ヨーロッパのソ連の勢力圏入りであった。両国は、戦後ポーランドの体制について対立したが、最終的には米英側が譲歩した。しかし、スターリンの要求も全てが実現するには至らなかった。スターリンとソ連に対する米英両国の信頼は失われていた。

 ルーズヴェルトがより健康であったならば、ヤルタ会談の結果はどうだっただろうかということは今でも話さされることである。歴史に「If」はないというのは常套文句であるが、たとえルーズヴェルトの健康状態がより良かったところで、どこまで結果が変わっていたかというとそれには疑問が残る。

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ルーズヴェルト、ヤルタ、そして冷戦の起源(Roosevelt, Yalta, and the Origins of the Cold War

-末期病状のアメリカ大統領がヨーロッパの半分をソ連が支配すると決定した協定についていかに交渉したか。

フィリップ・パイソン・オブライエン筆

2024年9月1日

『フォーリン・ポリシー』

https://foreignpolicy.com/2024/09/01/roosevelt-stalin-yalta-europe-division-soviet-world-war/

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「ヨーロッパのごった煮」と題された漫画で、ヤルタ会談でのルーズヴェルト、スターリン、チャーチルが描かれている。

フランクリン・D・ルーズヴェルト米大統領が1943年末にワシントンに戻ったとき、彼はほとんど働くことができなかった。ルーズヴェルトは、元々が病弱であり、そして運動不足で、酒もタバコも止められず、特にタバコが大好きだった。血圧は危険なレヴェルまで上昇し、冠状動脈疾患も進行していた。彼は、彼の参謀であり、いつも一緒にいたウィリアム・リーヒに、この仕事を続ける体力が自分にあるかどうか分からないと打ち明けたほどだった。

しかし、それから間もなく、ルーズヴェルトは他に選択肢がないと判断した。権力を手放し、戦後の新たな世界秩序の構築において尊敬はされるものの、二の次的な人物になるという見通しは、彼にとってあまりにも恐ろしかった。そして1944年、ルーズヴェルトは国際関係史上最も利己的な選択をすることになるが、これは非常に自己中心的であり、歴史家たちは未だにこの問題に言及することを避けている。

ルーズヴェルトは、死にかけながら大統領選に出馬することを決めただけでなく、副大統領候補を、自分が好きでもなく、打ち解けることもなく、自分の後を継いで大統領になる準備も一切していない人物に変更することに決めたのだ。ルーズヴェルトは、現職のヘンリー・ウォレス副大統領が左翼的すぎると見られていることを懸念し、より穏健なハリー・トルーマンを副大統領候補に選んだ。政治的には賢明な選択だった。トルーマンは、ミズーリ州出身で、ルーズヴェルトの貴族的な存在感をうまく引き立てる政治的庶民感覚を持っていた。トルーマンは、急進的なウォレスに特に魅力を感じなかった中西部と南部で、ルーズヴェルトを助けることができた。

トルーマンは、彼自身の評価では、国際関係の経験がほとんどなかったが、ルーズヴェルトは、トルーマンが何も得られないようにするつもりだった。1944年11月の選挙から1945年4月にルーズヴェルトが死去するまでの間、彼の業務日誌には2人の会談が6回しか記録されていない。ルーズヴェルトは、1945年2月の重要なヤルタ会談などの計画にトルーマンを加えることを積極的に避けていたようだ。ルーズヴェルトは基本的に、この危機において、アメリカと世界を率いることができるのは自分だけであり、だから自分は生きなければならない、と語っていた。もし彼が死んだら、そう、「我が亡き後に洪水よ来たれ(Après moi, le déluge)」だ。

その理由は、ルーズヴェルトが戦後世界についての具体的なヴィジョンを書き記すことも、議論することもほとんどなかったからだ。ルーズヴェルトは通常、「4人の警察官(four policemen)」-イギリス、中国、ソ連、アメリカを通じて秩序を保つという広範で不定形な概念で人々を幻惑し、国際連合(United States)の創設について希望的観測を語ったが、難しい質問に答えることは避けた。

戦争終結後、アメリカ軍はヨーロッパに永久に駐留するのか? ドイツは永久に分割されるべきなのか? ソ連との軍事同盟は継続されるのか、もしそうなら、アメリカは、ソ連の東欧支配を受け入れるのか? アジアと太平洋における戦後処理はどうなるのか? オランダやフランスのようなヨーロッパ帝国は再建を許されるのか? アメリカ軍はかつて日本が占領していた地域に入るだろうか? 混沌とした政治状況にある中国は、どのようにして世界の警察官の一人となるのだろうか?

もしルーズヴェルトが、これらの質問に対する明確な答えを持っていたとしても、ルーズヴェルトはそれを自分の胸に秘めていた。リーヒが回顧録で認めているように、「もしルーズヴェルト以外に、アメリカが何を望んでいるのかを知っている人物を見つけられたら、それは驚くべき発見だろうと感じたこともあった」ということであった。

ルーズヴェルトは、アメリカ政府に具体的な戦争の目的と目標を提示することを拒否することで、プロイセンの軍事戦略家カール・フォン・クラウゼヴィッツが提唱した「戦略とは目的、方法、手段を結びつけることである(strategy is the connection between ends, ways, and means)」という公理を嘲笑していた。ルーズヴェルトは、どの戦争指導者よりも、方法と手段については明確な考えを持っていた。それは、兵士ではなく、空と海の力と多くの機械で戦争を戦うことであった。しかし、それらは目的から切り離されているように見えた。目的とは、彼がその時々に望むものだった。

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1944年のモスクワ訪問で、英首相ウィンストン・チャーチル(左)がヨシフ・スターリンと歩く

ルーズヴェルトが戦後、アメリカにとって何を望むかについて、いろいろな意味で秘密主義を強めていたとすれば、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは直接的であることを厭わなかった。ルーズヴェルトは安全保障と強靭さを求めており、無定形な国際保証や国際理解よりも直接的な支配を好んだ。スターリンは、優雅(airy-fairy)に見えるルーズヴェルトの考えから離れ、ソ連の独裁者は直接支配への希望を明確にした。

スターリンが最も明晰になったのは、おそらく1944年10月、モスクワでウィンストン・チャーチル英首相と二人きりで会談したときだろう。チャーチルとスターリンは、しばしばアヴェレル・ハリマン駐ソ連大使も同席した公式会談では、ルーズヴェルト的概念に基づく和平を模索しているふりをしようとしていた。しかし、二人きりになると、二人の態度は違った。

ある晩、二人きりの会話の中で、二人は未来に目を向け、アメリカの影響力のないヨーロッパについて語った。その結果、有名な「パーセンテージ協定(Percentages Agreement)」が結ばれ、チャーチルとスターリンはこの地域を利益圏(spheres of interest)に分割した。

この合意は、スターリンとチャーチルがどのように交渉を進めたかったかを、おそらく最も忠実に表している。ルーズヴェルトと比べれば、彼らには戦争に対するより具体的な目的があったことは確かだ。チャーチルにとっては、大国としてのイギリスとその帝国の維持であった。スターリンにとっては、東欧、中欧、南欧におけるソ連の最大限の拡大だった。どちらも、ルーズヴェルトの国際親善と協力(international goodwill and cooperation)という概念にあまり時間を割いていなかった。

パーセンテージ協定もまた、政治的かつ個人的な夢物語だった。ルーズヴェルトは政治的な理由からこのような協定に同意するはずもなく、3人は戦後のヨーロッパと世界にとってより実行可能な枠組みを考案するために集まる必要があった。チャーチルとスターリンの極めて具体的な戦略目標と、ルーズヴェルトの無定形な戦略目標を調和させる必要があった。

この違いの結果は、1945年2月4日から2月11日までクリミアで開催された、戦争中の全ての大戦略会議(grand-strategic meetings)の中で最も物議を醸したヤルタ会議、コードネーム「アルゴナウト(Argonaut)」となった。

今日に至るまで、ヤルタ会談は、何が合意されたのか、より正確に言えば、3人の主役が何に合意したと考えていたのかについて、激しい議論を巻き起こしている。ある意味、問題は会議そのものではなく、その結論は当時ビッグスリーの誰にとっても「決定的(definitive)」なものではなかった。

本当の問題は、ルーズヴェルトがほどなく死去したことであり、ルーズヴェルトは自分が行った取引の真意を極秘にしていたため、トルーマンは結局、ルーズヴェルトの意図を推測するしかなかった。

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左から:チャーチル、ルーズヴェルト、そしてヨシフ・スターリン(1945年2月のヤルタ会談での交渉の後)

ヤルタ会談開催の頃までには、アメリカ大統領は終わりに近づいていた。1944年の再選を目指し、わずかなエネルギーも使い果たしていた。選挙運動には比較的わずかしか顔を出さなかったが、選挙が終わると、持続的な仕事はできなくなっていた。ルーズヴェルト大統領の本当の状態はアメリカ国民には知らされていなかった。1945年1月20日の大統領就任式など、公の場に姿を見せなければならないときは、ホワイトハウスに担ぎ込まれる前に数分間だけ話をした。

ルーズヴェルトがヤルタに到着する頃には、彼の体調は更に悪化していた。体重はさらに減り、目の下には大きく膨らんだ黒いクマができており、常に休息を必要としていた。1944年8月のケベック会議で最後にルーズヴェルトを見た、イギリス代表団の何人かは、この短期間でのルーズヴェルトの衰えにショックを受けた。チャーチルの秘書の1人は、ルーズヴェルトを見て「この世の人とは思えない(was hardly in this world at all)」と言った。

スターリンは元気だった。首脳会談までに、ロシア軍はベルリンから100マイルも離れていないオーデル川に到達していた。いったん再編成し、次の攻撃のために休息を取れば、ドイツの首都は陥落することは確実だった。ヤルタ会談前にポーランドの大部分を征服したことは、スターリンにとって今後の会談で非常に有利に働いた。彼は、どのようなポーランドを建設したいかの構想を持っており、妥協する気はなかった。

ヤルタ会談の主役はルーズヴェルトとスターリンだった。この頃、イギリスには、アメリカやソ連に自国の要求を呑ませるだけの軍事力も財政力もなかった。スターリンはまだ武器貸与プログラム(lend-lease program)によるアメリカの支援を必要としており、ドイツが敗北した後の太平洋戦争への参加を熱望していた。ルーズヴェルトは、世界平和の保証として、戦後も何らかの形で米ソ戦時同盟(U.S.–Soviet wartime alliance)の継続を画策していた。

首脳たちと最側近のアドヴァイザーたちによる最初の全体会議では、戦争に勝利しようとしているという事実が祝われた。それは、ヨーロッパにおける戦争の軍事的概観であり、アドルフ・ヒトラーのドイツが必然的に粉砕されたことを物語るものだった。指導者それぞれが互いの軍のパフォーマンスを称賛し、戦争の最終段階における緊密な連携について語った。

軍事的な概要が明らかになると、指導者たちは戦後の世界に目を向けた。スターリンは、大国政治(great-power politics)について、未来を決めるのはこの3人であり、小国の意見に耳を傾けることに時間を費やすべきではないという見解を述べた。ルーズヴェルトはスターリンを支持し、「大国はより大きな責任を負っており、和平はこのテーブルについた三大国によって書かれるべきだ(the Great Powers bore the greater responsibility and that the peace should be written by the Three Powers represented at this table)」という意見に同意した。

しかし、チャーチルには居心地が悪かった。スターリンと対立して、真っ向から反論するつもりはなく、代わりに、大英帝国に対するチャーチルのヴィジョンが、この見解にどのように適合するかは決して明確にしなかったが、小国の意見に耳を傾け、ある程度の謙虚さを示すことが大国の義務であると主張した。スターリンはそれを面白がったようで、次の選挙で負けるかもしれないと言ってチャーチルをからかい始めた。

会議の残りの時間は、ビッグスリーが世界の他の国々の運命を決定し、その大部分は友好的に行われた。ドイツについては、主にドイツを解体すべきかどうかで意見が分かれた。反対していたスターリンは、そのような決定を将来まで先送りすることを望んだ。実際、そのような決定を先延ばしにするのは簡単だった。重要な第一歩であるドイツの明確な占領区域への分割は既に行われていたからだ。

この話し合いで最も興味深かったのは、ルーズヴェルトがアメリカ軍は、2年以上はヨーロッパに駐留しないと主張したことだろう。それを聞いたチャーチルは、今こそフランスに強力な軍隊を増強すべきだと答えた。スターリンは、それは構わないが、フランスにはドイツの支配について大きな発言権を与えるべきではないと主張した。

ヤルタ会談で決着したもう1つの大きな問題は、ソ連の対日参戦(Soviet entry into the war against Japan)だった。春にはドイツに勝利することが決まっていたため、スターリンは崩壊する日本からできるだけ多くの戦利品(spoils)を奪おうと躍起になっていた。この時点で、アメリカは日本を倒すためにロシアの助けなど必要ないことを十分承知していたが、スターリンはそれを、以前の誓約を果たすためという枠にはめた。

自縄自縛に陥ったルーズヴェルトは、スターリンの援助をありがたく受け入れるしかなかった。もちろん、スターリンには代償が用意されていた。最終合意では、ソ連は南サハリン、千島列島、中国の大連港の支配権(ソ連から大連港までの鉄道を含む)を手に入れることになる。

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ロックフェラーセンターに掲揚されている連合国の各国の国旗が半旗になっている(1945年4月13日)

翌日は、新しい国際連合についての議論から始まった。スターリンもチャーチルも、自分たちにはそれほど関心がなかったとしても、ルーズヴェルトにとってそれがいかに重要であるかを理解していたようだ。スターリンは、前年8月から10月にかけてワシントンのダンバートン・オークス邸宅で開催された会議で作成された国連機構の概要を読んでいなかったことを認めた。

そして、ポーランドの運命が持ち出され、会場の緊張は高まった。ポーランドの問題は、ある意味では単純であり、ある意味では基本的に難解であった。ポーランドは戦後、国家として再興されるが、その国境はずっと西にあるという合意があった。ルーズヴェルトとチャーチルは、ヒトラーとの汚い取引で確保したポーランドの東半分をスターリンが保持し、その代わりに新生ポーランドがドイツ東部の大部分を与えられることを受け入れた。

ポーランドの将来の政治構造は全く別の問題だった。アメリカとイギリスは戦前のポーランド亡命政府をロンドンに認めていた。スターリンは、戦前のポーランドの手によるソ連軍の敗北を思い出し、直ちにルブリン委員会(Lublin Committee)と呼ばれる新しい共産主義政府の樹立に動いた。

ロンドンか、ルブリンか、どちらのポーランド政府が統治するかという問題は、ヤルタの大きな対立点(confrontation)となった。この問題が最初に持ち上がったとき、ルーズヴェルトは会議全体を通じて最も長い演説を行った。持てる力を振り絞り、普段の理性的で魅力的な自分を演出しようとしたルーズヴェルトは、強い親ソ派を含む5つの異なる政党の代表からなる複数政党による暫定大統領評議会の設立を提案した。この組織が、新しい選挙が行われるまでポーランドを統治することになる。チャーチルは、いつものように雄弁に、自由で独立したポーランドをさらに力強く訴えた。「チャーチルは、「ポーランドが自分の家の主人となり、自分の魂の支配者となることが、英政府の切なる願いである」と述べた。

スターリンは、ルーズヴェルトの魅力やチャーチルの雄弁など気にも留めなかっただろう。この時点でスターリンは、東ヨーロッパにおける自らの優越(supremacy)が米英両国に認められたと計算していた。彼は、ポーランドの運命が「戦略的安全保障(strategic security)」の問題であり、ポーランドがソ連と国境を接する国であるからというだけでなく、歴史を通じてポーランドがロシアへの攻撃の通路であった」と述べた。

そして、スターリンはナイフを深く突き刺した。彼もまた、民主的なポーランドを望んでいた。彼の見る限り、ルブリン・ポーランド政府は自由で効率的な統治を行っており、しかも赤軍の後方地域の安全確保とパトロールに貢献していた。ところが、ロンドン・ポーランド政府は、この調和を終わらせ、ソ連戦線の背後で反乱を起こす恐れがあった。要するに、彼らはヒトラーの仕事を代わりにしていたということになる。

スターリンは「ルブリン政府の工作員がやったこととロンドン政府の工作員がやったことを比較すると、前者は良くて、後者は悪いことが分かる。私たちは後方に平和を与えてくれる政府を支持するつもりであり、軍人としてそれ以外のことはできなかった」と述べスターリンは鉄槌(gauntlet)を下し、議論は何日も続いたが、変わることはなかった。赤軍はポーランドに進駐し、スターリンは赤軍を指揮し、ルブリン政府に権力を握らせ、戦前のポーランド国家からのいかなる影響も容認しなかった。ルーズヴェルトとチャーチルは、スターリンの条件を受け入れるか、あるいは同盟を破棄するかという、ほとんど不可能な窮地に立たされた。首脳3人全員が分かっていたように、スターリンにポーランド政府の構成を変更させることは不可能だった。

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ヤルタ会談で会談するスターリンとルーズヴェルト(1945年2月)

しかし、ルーズヴェルトは試してみることを決心した。翌日、彼らがこの問題に戻ると、彼はスターリンをなだめるためにロンドン政府をすべて切り捨てることから始めた。ルーズヴェルトは、ルブリン政府は何があっても力を持つだろうと理解し、新しい臨時政府の樹立を協議するために、ルブリン政府と他の政党からなる委員会を半分ずつ設置し、バランスをとることだけを提案した。

スターリンは失速し、それが延々と続いた。ルーズヴェルトはスターリンに私信を送り、ポーランドには多党制の民主的な政府が誕生することをアメリカ国民に伝えてもらえれば国内にとって大きな助けになると懇願した。

たとえルーズヴェルトが、スターリンが自らの選択と条件で政権を樹立しようとしていることを理解していたとしても、ルーズヴェルトが国内でそのような政治的ニーズを抱いていることをスターリンが理解できなかったことは、彼の戦略家としての進化がそこまでしか進んでいなかったことを示している。スターリンは、ルーズヴェルトが本当にアメリカ連邦議会や有権者、その他の権威に答える必要があるとは思えなかった。

これはスターリンがいかに全てを台無しにしようとしていたかを示すものだった。ドイツ軍の侵攻以来、彼が機転を利かせて行動してきたのは、生き残るために現実的な面が偏執的な面を抑えてきたからだとすれば、戦争が終結し勝利が確実となったとき、昔の偏執的なスターリンが姿を現したということになる。スターリンには、ルーズヴェルトが融通を利かせるというサインを本当に望んでいることが理解できなかった。

ルーズヴェルトは会議の残りの時間についてスターリンに圧力をかけたが、最終的にスターリンはほんのわずかな譲歩しかしなかった。スターリンは、資本主義政府は実際には民主的ではないという暗黙の指摘とともに、ルブリン政府は真の民主政治体制を代表していると既に述べていたため、これにはほとんど何の意味もなかった。

ポーランドに関するこの合意は、ソ連の東欧支配の基本的枠組みを確立した歴史的なものだった。赤軍が支配するところでは、スターリンは自分の利益に合う政府を樹立するためにやりたい放題だった。

ルーズヴェルトは、この侮辱を個人的に受け止めたが、他にどうすればいいのか分からなかった。ルーズヴェルトは、病気がちで、闘い続けるには疲れきっていた。彼が真実を認めた相手は、会議のほとんど全ての時間をルーズヴェルトと過ごしたリーヒだった。ポーランドで合意された文言は基本的にスターリンのやりたい放題を許すものだとリーヒがコメントしたとき、ルーズヴェルトにできたのは譲歩することだけだった。

彼には他のことをする力がなかった。ルーズヴェルトは「それは分かっている、ビル、でももう戦うには疲れたんだ」と述べた。
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1944年8月、ワシントンのホワイトハウスで会食をするハリー・トルーマンとルーズヴェルト

ヤルタ会談が終わるまでには、スターリンは満足せざるを得なかった。わずか4年足らずの間に、彼の国際的立場は一変し、その変化の多くは彼自身の行動に責任があった。ヒトラーを助けることで、結果としてソ連を攻撃されるという自分が作り出した災難から、米英両国に東欧支配を受け入れさせるまで押し戻したのだ。スターリンは今や、帝政ロシアがかつて支配していた以上の領土の領主であり支配者であった。その過程で、彼は米英両国の援助を使って力をつけ、世界最大の軍隊を作り上げた。第二次世界大戦の初期、スターリンは、最悪の大戦略家(the worst of the grand strategists)だったが、ヤルタ会談の頃には間違いなく最高の戦略家になっていた。

その後、スターリンは自分が成し遂げたことを全て破壊すると脅した。ヤルタ以後、スターリンは米英両国との協力関係を装うことからさえも遠ざかり始めた。彼の以前の戦略的成功は、同盟国、特にルーズヴェルトのニーズに合わせて行動を調整することで、ダイナミックな状況に実質的に対応する能力から生まれたものだった。しかし今、彼は公然と東ヨーロッパを従属させ始め、ルーズヴェルトやチャーチルの必要性にはリップサービスすら行わなくなった。

スターリンは、ルーズヴェルトに対して、常に示していた配慮と機転をもって接することさえ止めた。彼は、ドイツの収容所から解放されたアメリカ人捕虜の世話をするためにポーランドにアメリカ人将校を入国させることを拒否し、アメリカ大統領を深く侮辱した。間もなく、スターリンはさらに踏み込むことになる。スターリンは、ルーズヴェルトがヒトラーと土壇場で取引をすることで自分を裏切ろうとしていると、奇妙な言葉で非難したのだ。

これは、スターリンがルーズヴェルトに対して行ったのと同じくらい侮辱的な告発だった。スターリンの頭の中では、ルーズヴェルトはスターリンに歩み寄ろうとしていたのであり、スターリンがルーズヴェルトを極悪非道な裏切り者として非難したことは、ルーズヴェルトの心に深く突き刺さった。ルーズヴェルトはついに我慢の限界に達したようで、1945年3月、スターリンに対する彼の態度は大きく変化した。ルーズヴェルトのスターリンに対する最後の電報は、戦争期間において、もっとも厳しく、率直なものだった。

ポーランドに関する長い電報の中で、ルーズヴェルトは基本的に、ヤルタでスターリンが自分に嘘をつき、ルブリン委員会に他の要素を入れることを拒否したと非難した。「私は、このことが私たちの合意にも、私たちの話し合いにも合致しない」と述べている。

チャーチルは、ルーズヴェルトの強い口調を喜んだ。イギリスの指導者チャーチルは、ヤルタ会談について嫌悪感を抱き、ルーズヴェルトにスターリンに対する「断固とした、露骨な態度(firm and blunt stand)」をとるよう迫った。事態は対決(confrontation)の様相を呈していた。

そして4月12日、ルーズヴェルトはジョージア州ウォームスプリングスの屋敷で再び休暇を取っていた。

アメリカの政策は、トルーマンの手に委ねられたが、トルーマンはルーズヴェルトが本当は何を達成したかったのか、どのように達成するつもりだったのか、まったく知らなかった。その後の3年間、トルーマンは、無知(ignorance)であったために、スターリンの戦略的な行き過ぎと失策(Stalin’s strategic overreach and blundering)と相まって、ルーズヴェルトが常に避けたいと望んでいた冷戦を生み出すことになる。

※フィリップ・パイソン・オブライエン:セントアンドリュース大学戦略学教授。最新刊に『戦略家たち:チャーチル、スターリン、ルーズヴェルト、ムッソリーニ、そして、ヒトラー-いかにして戦争が彼らを形作り、いかにして彼らが戦争を形作ったか(The Strategists: Churchill, Stalin, Roosevelt, Mussolini, and Hitler—How War Made Them and How They Made War)』がある。ツイッターアカウント:@PhillipsPOBrien

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(終わり)

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