古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:ヘンリー・キッシンジャー

 古村治彦です。

※2025年3月25日に最新刊『トランプの電撃作戦』(秀和システム)が発売になりました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
trumpnodengekisakusencover001
『トランプの電撃作戦』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに行きます。
 

 今回は、ズビグニュー・ブレジンスキー(Zbigniew Brzezinski、1928-2017年、89歳で没)についての論稿を紹介する。ブレジンスキーは、2023年に亡くなったヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger、1923-2023年、100歳で没)と並び称されるほどの著名な大物学者だった。2人の共通点はヨーロッパ生まれ(キッシンジャーはドイツ、ブレジンスキーはポーランド)、ナチズムから逃れた亡命者、ハーヴァード大学で博士号(キッシンジャーは政治学、ブレジンスキーは国際関係論)を取得、大統領国家安全保障問題担当大統領補佐官(キッシンジャーはニクソン政権・フォード政権[フォード政権では国務長官を兼任]、ブレジンスキーはカーター政権)に就任が挙げられる。
zbigniewbrzezinskihenrykissinger001

ヘンリー・キッシンジャー(左)とズビグニュー・ブレジンスキー
 ブレジンスキーはまた、こちらもまた有名な学者だったサミュエル・P・ハンティントン(Samuel P. Huntington、1927-2008年、81歳で没)とは終生の友人だった。ハンティントンは、「諸文明間の衝突(The Clash of Civilizations)」を提唱したことで知られる。2人はほぼ同時期に、ハーヴァード大学大学院を修了した。学生時代から英才の誉れが高く、そのままハーヴァード大学に残っていたが、ハーヴァード大学での終身在職権(テニュア)付のポジションに就けず(リベラルな教授会に忌避された)、2人は揃ってニューヨークにあるコロンビア大学に移籍した。ハンティントンは1963年に懇願され、ハーヴァード大学に復帰したが、ブレジンスキーは復帰を拒否してコロンビア大学にとどまった。ブレジンスキーは、ニューヨークでの生活を気に入っていたという話が残っている。ハンティントンとブレジンスキーは性格こそ大きく違ったが、終生の友人関係を続けた。ブレジンスキーがジミー・カーター政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任した際には、安全保障計画調整担当として国家安全保障会議に招集した。2人は米連邦緊急事態管理庁(Federal Emergency Management AgencyFEMA)創設を行った。
samuelphuntington101
サミュエル・P・ハンティントン

・ヘンリー・キッシンジャー:ハーヴァード大学(1954-1968年)

・サミュエル・ハンティントン:ハーヴァード大学(1950-1958年)、コロンビア大学(1958-1962年)、ハーヴァード大学(1963-2008年)

・ズビグニュー・ブレジンスキー:ハーヴァード大学(1953-1959年)、コロンビア大学(1960-1989年)

 キッシンジャーとブレジンスキーは学者よりも、実務者としての面が強く、ハンティントンは大学人の面が強い。彼らはそれぞれの立場で大きな影響力を持った。ブレジンスキーはジミー・カーター政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官としてホワイトハウス入りしたが、サイラス・ヴァンス国務長官と対立し、ヴァンスから外交の実権を奪って活動した。1979年に発生したイラン革命に伴う、在テヘラン米大使館人質事件(1981年まで)では、反対を押し切り、米特殊部隊を起用しての人質救出事件を立案・実行し、失敗している。結果として、カーター政権の命運が尽きた事件となった。

 ブレジンスキーは、出身がポーランドということもあり(貴族であったブレジンスキー家の領地は現在のウクライナにあったそうだ)、ロシア(ソヴィエト連邦)を敵視し、ソ連によるアフガン侵攻では、ムジャヒディン支援を行った。ムジャヒディンにはオサマ・ビン・ラディンも参加していた。コロンビア大学時代の学生にはバラク・オバマがおり、オバマに大統領選挙に出馬するように勧め、陣営の外交顧問に就任したことでも知られる。民主党内のリベラルホーク(liberal hawk、国内問題ではリベラルな立場を取り、対外問題では強硬な姿勢を取る)であり、彼らの仲間の内、共和党に移っていた人々がネオコン派を形成している。リベラルホークは、民主党内の人道的介入派の源流ともなっている。

 しかし、対中国に関しては、ロシアをけん制するという意味もあり宥和的であり(カーター政権では米中国交正常化に取り組んだこともあり)、米中で世界を管理するG2路線に理解を示していた。その点でヘンリー・キッシンジャーと共通する。ブレジンスキーの反ロシア、反ソ連は骨絡みで、子供の頃からの信念、ポーランド貴族出身としての意地ということもあるだろう。冷戦の闘士であったブレジンスキーは現在の状況をどう見ているだろうか。そして、アメリカ外交政策に関して言えば、有名な大物学者が参加する、影響を与えるという時代は終わったと言えるだろう。そして、これはアメリカの世紀の終わりを示す1つの現象ということになるだろう。

(貼り付けはじめ)

地政学戦略家たちはどこへ行ってしまったのか?(Where Have All the Geostrategists Gone?

-ズビグニュー・ブレジンスキーの人生とその意義。

セオドア・バンゼル筆

2025年5月16日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2025/05/16/zbigniew-brzezinski-zbig-review-edward-luce/

zbigniewbrzezinskiforeignpolicy001
2010年の夏、蒸し暑い北京で会議を行き来しながら、ズビグニュー・ブレジンスキーに外交政策において最も大きな影響を与えたのは誰かと尋ねたことがある。当時、私はこの偉大な人物のリサーチアシスタントをしており、ぎこちなく時間をつぶそうとしていた。彼は少し間を置いて、困惑したような表情を浮かべた。「本当に誰も(Nobody, really)」と彼は答えた

第一印象では、ブレジンスキーの無表情な答えは自慢げだと思った。しかし、今にして思えば、ズビグ(彼の愛称)はただ正直だっただけだった。ポーランド生まれの戦略家であり、ジミー・カーター大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官として最もよく知られた彼は、安易なカテゴライズを逃れた人物だった。彼は民主党の冷戦の賢人(the Democrats’ Cold War sage)で、ロナルド・レーガン大統領の外交政策ティームにも崇拝者がいた。ジョージ・W・ブッシュ政権時代にはネオコンの宿敵(an arch-nemesis)だった根っからの対ロシア強硬派であり、バラク・オバマ米大統領の初期からの支持者でもあった。

ブレジンスキーは、同時代人で、ライヴァルでもあったヘンリー・キッシンジャーとしばしば比較される。2人は共にヨーロッパからの亡命者で、訛りの強いで話し、スター学者から国家安全保障問題担当大統領補佐官へと転身するという共通の経歴を持っていた。しかし、2人はアメリカの戦略に全く異なる視点からアプローチしていた。ドイツ生まれで旧世界のヨーロッパ外交を研究していたキッシンジャーは、アメリカの進路について悲観的な見方をし、ソ連については過大評価しており、デタント(détente、緊張緩和)を通じて米ソ両国の力の均衡(a balance of power)を図ろうとしていた。ソ連のイデオロギー的・政治的弱点を研究していたブレジンスキーは、東ヨーロッパを隷属させたモスクワに恨み(grudge)を抱き、冷戦においてアメリカが勝利すると確信していた。

ブレジンスキーの輝かしい生涯は、『フィナンシャル・タイムズ』紙のコラムニストであるエドワード・ルースによって鮮やかに語り直され、素晴らしい伝記となっている。ルースの著書は、思想家として、そして人間として、ブレジンスキーの真髄を捉えようとする初の試みである。辛辣なウィット、並外れた競争心、滑稽なほどのケチさ(comical tight-fistedness)、そして家族への優しくも揺るぎない献身。ルースは、この重要な新著でこれを見事に描き出し、アメリカ外交政策思想家たちの殿堂におけるブレジンスキーの地位を正当に高めている。

ルースの著書は多くの印象を残したが、中でも最も印象深いのは、アメリカがもはやブレジンスキーやキッシンジャーのような偉大な戦略家を生み出していないということだ。これは、第二次世界大戦の荒廃を経た世代が成熟し、世界秩序の問題に執着する思想家を輩出したという、彼らの世代の特殊性によるところもあるかもしれない。しかし、おそらくそれ以上に、現代のアメリカの外交政策立案における成功の要件に関係しているだろう。現代の巨大な国家安全保障国家、そしてブレジンスキー時代には数十人だった国家安全保障会議(NSC)自体でさえ、戦略的深みと同じくらい多くの運用上の専門知識をますます要求している。世界が大きく変貌を遂げているこの時代に、この地政学戦略家の不足は残念なことだ。キッシンジャーが2017年にライヴァルの訃報を受けた際に書いたように、「ズビグがその洞察力の限界を押し広げなければ、世界はより空虚な場所になる(The world is an emptier place without Zbig pushing the limits of his insights)」のだ。

zbigniewbrzezinskiforeignpolicy002
左:ブレジンスキーとジミー・カーター米大統領が1977年12月にエアフォースワンに搭乗している。右:イスラエルのメナヘム・ベギン首相(左)が、当時ホワイトハウスの国家安全保障問題担当大統領補佐官だったブレジンスキーとチェスの対局に臨む(1978年9月9日、メリーランド州キャンプ・デイヴィッドでの首脳会談にて)。

ブレジンスキーはポーランド人外交官の息子として生まれた。生まれてから10年間は​​断続的にしかポーランドに住んでいなかったが、ポーランドとその悲劇的な歴史はブレジンスキーの人生において大きな影を落とすことになった。1940年代のモントリオールで成人を迎えるまで、幼いズビグはポーランドの騎士や英雄を夢見ていた。高校時代には、国際関係におけるポーランド問題をテーマにした早熟なエッセイを書いた。

鉄のカーテンがポーランドと東ヨーロッパ諸国に降りる中、ブレジンスキーはその類まれな才能を敵国の研究に注ぎ込んだ。彼はロシア語を学び、1953年に当時黎明期にあったソヴィエト学(Sovietology)の分野でハーヴァード大学で博士号を取得した。ズビグが1960年に修士論文に基づいて著した『ソヴィエト圏:統一と対立(The Soviet Bloc: Unity and Conflict)』は、先見の明があり、かつ永続的な内容であった。彼は、ソヴィエト圏の民族分離、更にはソ連自体の民族の寄せ集め(バルト人からウクライナ人まで)が、最終的にソ連を破滅させるアキレス腱となると主張した。冷戦時代には、モスクワが汎ソ連的な市民意識をうまく醸成したという主張が盛んに行われていたが、ブレジンスキーはしばしばこう反論した。「それでは、彼らはソヴィエト語を話しているのか?(So do they speak Soviet?)」

ハーヴァード大学教授、それからコロンビア大学教授となり、ブレジンスキーの関心は次第にワシントンへと向けられていった。リンドン・B・ジョンソン政権時代に国務省に短期間勤務した際には、東ヨーロッパをモスクワから引き離すために平和的な関与(peaceful engagement)を提唱した。しかし、ブレジンスキーが国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任したことで、彼はアメリカ外交のコックピットに座ることになった。カーター政権内でズビグの最大のライヴァルであったサイラス・ヴァンス国務長官は、ソ連との関係安定化を支持していたのに対し、ブレジンスキーはデタントを一方的な交渉と見なしていた。内部での影響力争いで、彼はヴァンスを昼食代わりに食べ、カーターの耳目を独占した。ブレジンスキーがホワイトハウスに近かったせいもあるが、ズビグは新しいアイデアと愉快な仲間の宝庫でもあった。あるとき、カーターがソ連の歴史を教えて欲しいと頼んだとき、ブレジンスキーは、レーニンのもとでは「復興集会(a revival meeting)のようだった、スターリンのもとでは監獄(a prison)のようだった、フルシチョフのもとではサーカス(a circus)のようだった、ブレジネフのもとではアメリカ合衆国郵便公社(a United States Post Office)のようだった」と答えた。

ブレジンスキーは影響力を行使して、膠着状態にあったデタントにナイフを突き刺した。ニクソンとキッシンジャーによる対中開放を土台に、カーターは1979年に北京との関係を完全に正常化した。小柄な鄧小平と、モスクワに対する相互の反感に基づく深い信頼関係を築いた。ブレジンスキーがヴァージニア州の自宅で開いた晩餐会では、レオニード・ブレジネフお気に入りのウォッカで米中友好を祝った。キッシンジャーは、対中開放はアメリカをモスクワと北京の両方に近づける優雅な「戦略的三角形(strategic triangle)」を生み出すと主張していた。ブレジンスキーはその代わりに、ソ連に対抗して米中関係を操作した。1979年のクリスマスにソ連が侵攻した際、カーター政権は中国の助けを借りてアフガニスタンの抵抗勢力を支援し、ソ連を永続的な泥沼(an enduring quagmire)に沈め、その崩壊(demise)を加速させた。

ブレジンスキーはまた、ソヴィエトをイデオロギー的に守勢に立たせる方法として、カーターの人権擁護を奨励したが、モスクワとの協力関係を維持したい国務省関係者の反発を招いた。この追求においてブレジンスキーは、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世という偶然のパートナーを見つけた。ルースは、戦略家とローマ法王の感動的な往復書簡を掲載し、この重要な歴史的関係を鮮明に回想している。

しかし、ブレジンスキーの遺産を永久に傷つけたのはイランだった。皮肉なことに、ズビグは1979年のイラン革命の危険性について先見の明があった。彼は1917年のロシアの影を見ていたし、ウィリアム・サリヴァン米大使のように、ホメイニ師を「ガンジーのように」なる可能性を持つ重要人物(a potential “Gandhi-like” figure)と見る人もいた。しかし、ズビグは、彼が提唱し、大失敗に終わり、カーターの選挙の運命を決定づけた、テヘランでのアメリカ人人質救出作戦「イーグル・クロー作戦(Operation Eagle Claw)」と永遠に結びつくことになる。

iranianhostagecrisis1979101
1979年11月9日、人質事件の最中にテヘランの米大使館の屋上に集まったデモ参加者たちがアメリカ国旗に火をつけている。

ブレジンスキーはまた、イラン情勢の背後にソ連の関与があると過度に疑心暗鬼に陥っていた。カイ・バードによるカーター元大統領の伝記『アウトライアー(The Outlier)』では、ブレジンスキーは無謀な超タカ派(a reckless superhawk)として描かれ、「地政学的なゴブルディゴック(geostrategic gobbledygook[難解な、意味不明な言葉])」(ストローブ・タルボットがかつて『タイム』誌で表現したように)に傾倒し、至るところにソ連の影を感じている人物として描かれている。この風刺画には一片の真実も含まれている。ズビグは1980年のカーター・ドクトリン(Carter Doctrine)の立案者であり、このドクトリンはアメリカが「外部勢力(outside force)」(つまりモスクワ)によるペルシャ湾支配の試みを阻止することを約束した。今にして思えば、ソ連が終末的な衰退へと突き進む中で、この地域へのソ連の進出の脅威はあまりにも誇張されていたと言えるだろう。

その9年後、鉄のカーテンが崩壊し、ブレジンスキーの少年時代と職業上の夢が実現した。ブレジンスキーはそのわずか数カ月前に共産主義の崩壊が間近に迫っていることを予言し、1989年の著書『大いなる失敗――20世紀における共産主義の誕生と終焉』の中でミハエル・ゴルバチョフの改革努力は絶望的であると力説した。フランシス・フクヤマは、「ブレジンスキーほど、歴史的な出来事の実際の流れによって正当性が証明された人物はいない」と書いている。そしてソ連は、40年前にズビグが修士論文で予見したように、構成民族に分解した。

ルースは、ブレジンスキーが冷戦時代にはアメリカの能力について楽観的であったにもかかわらず、その後、アメリカがグローバル・リーダーのマントを担う能力については皮肉屋に転じたことを鋭く指摘している。ズビグは、ジョージ・HW・ブッシュがスローガン以上の「新しい世界秩序(new world order)」のヴィジョンを具体化できなかったことを悔やみ、ビル・クリントン政権がイスラエルとパレスチナの恒久和平に失敗したことを批判した。ブレジンスキーは、ジョージ・W・ブッシュのイラク戦争を即座に痛烈に批判し、対テロ世界戦争を「準神学的」な不条理(“quasi-theological” absurdity)だと断じた。

ズビグがよく知るロシアについては、彼は特徴的に予言的であった。ブレジンスキーは、ソヴィエト連邦崩壊後のロシア連邦が間もなく報復主義(revanchism)に取り込まれると予言し、西側の利益を強固にするためにNATOの東方拡大を提唱した。この予言の中で、ブレジンスキーはウクライナの中心性に焦点を当てた。彼は1994年に、「ウクライナがなければロシアは帝国ではなくなるが、ウクライナが従属し、そして従属させられれば、ロシアは自動的に帝国になる(without Ukraine, Russia ceases to be an empire, but with Ukraine suborned and then subordinated, Russia automatically becomes an empire)」と書いている。彼の予測がなんと正しかったことか。

zbigniewbrzezinskiforeignpolicy003
左上から時計回りに:ブレジンスキーとマデレーン・オルブライト元米国務長官(2006年、ワシントンにて)、ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官(2016年、オスロにて)、ドナルド・トゥスク・ポーランド首相(2008年、ワシントンにて)、潘基文国連事務総長(2012年、ワシントンにて)。

何が優れた戦略思考者を作るのか? 歴史的視点、政治的意志を直感的に読み取る能力、そして軍事から人間心理に至るまでの様々な分野の統合だ。ブレジンスキーはこれらの資質を全て見事に体現していた。彼の理論は、政治、イデオロギー、そして社会発展という多様な要素を統合し、鋭くも学術的な文体で表現していた。その典型は、1970年に出版された著書『二つの時代の狭間:テクネトロニック時代におけるアメリカの役割(Between Two Ages: America’s Role in the Technetronic Era)』に象徴されている。

優れた戦略家の特徴としてしばしば過小評価されるのが、独創的な思考力だ。ズビグはそれを自分の中で大事に育んだ。ブレジンスキーは、ワシントンの集団思考(gtoupthink)を助長するようなことは決してしなかった。ブレジンスキーは、望ましくない影響を避けるため、自分が執筆しているテーマに関する意見記事を読んだり、重要なスピーチをしたりすることを意図的に避けていた。私はブレジンスキーのリサーチアシスタントとして、彼が外国の視点をより深く理解できるよう、毎週国際新聞の速報記事をまとめていた。

知的な面で恐れを知らないことも重要であり、それはしばしば鋭い攻撃を伴う。ブレジンスキーはなかなか魅力的で、ジョージタウン(ワシントン)の社交界よりも家族を優先する姿勢で、多くの同僚とは一線を画していた。しかし、タカ派の顔立ちは、彼の使命感と物事への真摯なアプローチを露呈していた。彼は国務省をはじめとするあらゆる部署で、巧妙にライヴァルを出し抜き、更にそれを大いに楽しんでいた。かつて彼は、カーター政権時代に関するある本で、ブレジンスキーの描写が「マキャベリがボーイスカウトのように見えるようにさせた」と自慢げに語ったことがある。

zbigniewbrzezinskiforeignpolicy004
ワシントンの事務所にいるブレジンスキー(1981年12月1日)

しかし、ブレジンスキーの最もマキャベリ的な駆け引きは、権力のために権力(power for power’s sake)を求めるのではなく、理念の追求(the pursuit of idea)に向けられた。ルースによれば、ジョンソン政権下でズビグは、ロバート・F・ケネディがジョンソンの冷戦政策を批判する演説を予定しているという作り話をでっち上げ、大統領がブレジンスキーの東ヨーロッパ戦略を盛り込んだ演説でライヴァルに先手を打つよう仕向けた可能性が高い。ブレジンスキーは当然ながら人気と報道に恵まれていたが、人気は常に二の次であり、自らが正しいと考えることを主張することの方が重要だった。ズビグは初期から二国家共存の解決(a two-state solution)とイラク戦争反対を強く訴え、ワシントンの多くの場所で疎外されたが、それでも決して諦めなかった。

アメリカの外交政策におけるリーダーシップの必要条件は、ブレジンスキーの全盛期とは根本的に変化しており、ズビグのような地政学戦略家はかつてないほど見つけにくくなっている。ブレジンスキーはNSCを大学のゼミのように運営していた。20人ほどのスタッフがそれぞれ異なる地域を担当し、1つのテーブルを囲んで座っていた。しかし、今日の国家安全保障官僚機構はあまりにも巨大で複雑であるため、深い地政学的思考はあっても十分ではない。膨大な資料を処理し、経済と国家安全保障の分野横断的な課題に取り組むには、ブレジンスキーには到底及ばなかったであろうスキルと姿勢が求められる。国際関係論の著名な学者も姿を消した。かつてないほど細分化され専門化された学界は、そのような学者を輩出していない。そして、国民の関心が内向きになるにつれ、彼らも彼らに価値を見出さなくなっている。

ブレジンスキーは晩年、アメリカ人の外交問題に対する無知を一貫して嘆いていた。例えば、アメリカの高校生の3分の1が地図上で太平洋の位置が分からないといったエピソードを、演説に盛り込み、説得力を持たせていた。このようにブレジンスキーは、ジョージ・ケナンのような国際関係論学者の偉大な伝統を受け継いでいた。ケナンは、アメリカの一般国民の唯物主義と浅薄さ(materialism and superficiality)を、時代錯誤に聞こえるほどに嘆いていた。しかし、アメリカが旧来の同盟関係から離脱し、自国中心主義とポピュリズムに囚われつつある今、この点においてブレジンスキーは再来した予言者だったのかもしれない。

※セオドア・バンゼル:ラザード・ジオポリティカル・アドバイザリーのマネージングディレクター兼責任者。以前は駐モスクワ米大使館の政治部と米国財務省に勤務した。2008年から2010年まで、ズビグニュー・ブレジンスキーのリサーチアシスタントを務めた。

(貼り付け終わり)

(終わり)

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 古村治彦です。
※2025年3月25日に最新刊『トランプの電撃作戦』(秀和システム)が発売になりました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
trumpnodengekisakusencover001
『トランプの電撃作戦』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに行きます。

 アメリカの外交政策において、学識経験者や専門家が重責を担ってきた。その代表例がヘンリー・キッシンジャーだ。彼はハーヴァード大学教授から、国務長官と国家安全保障問題担当大統領補佐官に転身した。その他に、コロンビア大学教授だったズビグニュー・ブレジンスキーやスタンフォード大学教授だったコンドリーザ・ライスといった人々が国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めた。
 国家安全保障問題担当大統領補佐官は戦後の1952年にドワイト・アイゼンハワー大統領時代に設置された。今ではホワイトハウスにおける外交政策の指揮官として、国家安全保障会議を主宰するなど最重要のポストになっている。国家安全保障会議のスタッフとして、学識経験者が入ることも多い。

 下記論稿の著者ジェレミ・スリは、トランプ大統領が国家安全保障の専門家を排除し、政治家を重視したため、国家安全保障の能力が低下していると批判している。スリは、トランプの政権では、熟練した専門家が解任され、意思決定の質が著しく低下した。これに伴い、無知や不適切な判断がもたらされたとして不安が広がっていると批判している。

 アメリカの外交政策の大きな流れには、リアリズム(現実主義)とアイディアリズム(理想主義)とう2つの潮流がある。このことは、このブログでも何度も書いているし、拙著でも何度も触れている。アメリカの外交政策が失敗するのは多くの場合、アイディアリズムが採用されている時だ。アイディアリズムで世界を変えるということで、外国に介入して多くの場合に失敗している。最近の例で言えば、ジョージ・W・ブッシュ政権時代にネオコンが主導したアフタにスタンとイラクへの侵攻が挙げられる。

 このような失敗と専門家の学識が結びつけられ、専門家たちへの信頼が揺らいでいる。そのことに、下記論稿の著者スリのような専門家たちが気付くべきだ。学問上の理論であれば、何でも言える。しかし、問題はその理論を実践に使って失敗してしまう時だ。それで大きな傷や負担を追うのは国民である。それに対して、専門家たちは何か責任を取るとか、謝罪をするとか、反省するとかそういう姿勢を見せてきただろうか。この点は学術界全体として大いに反省すべきだと私は考える。専門家たちがアメリカの外交政策に対して大いなる貢献をしたことは間違いないが、専門家たちが増上慢となり、過度なエリート主義を持ってしまえば、大きな失敗をして、民意と乖離する結果となってしまう。その大きな動揺が現状であると言えるだろう。

(貼り付けはじめ)

何世代にもわたる専門家がいかにしてアメリカの力を築き上げてきたか(How Generations of Experts Built U.S. Power

-そして今、トランプはそれを全て捨て去ろうとしている。

ジェレミ・スリ

2025年4月17日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2025/04/17/trump-national-security-experts-loyalists-intelligence-community-purge-history-geopolitics/

プロイセンの軍事理論家カール・フォン・クラウゼヴィッツは、戦争は「政策を別の手段で継続するに過ぎない(mere continuation of policy by other means)」という有名な言葉を残しているが、戦争が単なる政治である(war is merely politics)とは考えていない。1832年に発表されたクラウゼヴィッツの影響力ある論文『戦争論(On War)』は、複雑な国防を管理する上で、訓練(training)、専門性(expertise)、そして卓越した才能(exceptional talent)が果たす重要な役割について深く考察している。戦争には、技術的技能(technical skill)、組織力(organizational acumen)、歴史的知識(historical knowledge)、そして戦略的洞察力(strategic insights)が必要だ。勇気と強靭さは必要不可欠だが、これらの資質は学問の代わりにはならないとクラウゼヴィッツは述べている。戦争はあまりにも危険であり、素人や偽善者に任せておくべきものではない。

大陸軍(the Continental Army)の創設以来、アメリカ人は常に防衛管理において専門知識を求めてきた。ジョージ・ワシントンが革命軍(the revolutionary military)の指揮官に選ばれたのは、イギリス陸軍での豊富な経験があったからだ。彼の兵士たちは未熟な戦士だったが、彼はそのリーダーシップに知識をもたらした。彼が兵士たちに高く評価された主な理由の1つは、戦闘での波乱に満ちた記録ではなく、知識をもたらす能力だった。

トーマス・ジェファーソン大統領は軍国主義(militarism)を嫌悪していたにもかかわらず、1802年にエリート陸軍士官学校であるウェストポイント陸軍士官学校を設立した。これは、建国間もない国家の防衛を担う最高レヴェルの指導者を育成するためのものだった。ウェストポイントの初代校長ジョナサン・ウィリアムズ陸軍少佐は、軍の指導者にとっての学問の重要性を強調した。ウィリアムズは「私たちの軍の士官は科学者であり、その学識によって学術界から注目されるに値する者でなければならないことを、私たちは常に心に留めなければならない」と述べた。

1884年、アメリカ海軍はさらに一歩進み、「戦争に関するあらゆる問題、そして戦争にまつわる政治手腕、あるいは戦争の予防に関する独創的な研究」を行う大学院機関であるアメリカ海軍戦争大学を設立した。この新設機関の初代学長スティーブン・ルース海軍中佐は、成功する軍の指導者にとって教育がいかに重要であるかを強調した。彼は、経験豊富な海軍司令官がより「完全な存在(complete creature)」となることを望んだ。そうでなければ、「私たちの教育を受けていない船員は、イギリスとフランスの訓練された砲兵に対抗するチャンスはないだろう」とルースは警告を発した。

ウェストポイントと海軍戦争大学は、第二次世界大戦後、アメリカが半球の強国(a hemispheric power)から卓越した世界覇権国(the preeminent global hegemon)へと成長を遂げた際、アメリカ外交政策の画期的な転換の不可欠な基盤となった。1945年、アメリカ陸軍将兵は各大陸の軍事拠点を占領し、アメリカ海軍将兵は世界の主要な海域を哨戒し、アメリカ空軍将兵は世界中の空を制覇し、アメリカの科学者たちは「絶対兵器(absolute weapon)」である原子爆弾を投下した。

アメリカの力は、最高指導者の訓練や専門知識をはるかに凌駕していた。ハリー・トルーマン大統領は大学の学位を持っておらず、第一次世界大戦での軍事経験も浅く、物理学を学んだこともなかった。彼の最初の陸軍長官であったヘンリー・スティムソンは、アメリカが国際的野心も能力も限られていた1890年代初頭にキャリアをスタートさせていた。ヨーロッパでの連合国軍の勝利を指揮したドワイト・アイゼンハワー大将は、アメリカ軍はすぐにでも大陸から撤退しなければならないと予想していた。1945年当時でさえ、アメリカはグローバルなリーダーシップを発揮した経験がなかった。

トルーマン、スティムソン、アイゼンハワー、そして同世代の多くの人々にとって最大の功績は、国家安全保障に関する新たな機関の創設に資金を投じたことだろう。これらの機関は、国家が新たに獲得した力と責任を担う上で、訓練を受けた専門家で満たされていた。「国家安全保障(national security)」は、近代戦争への軍事、外交、そして技術的準備、そして戦争を阻止するための様々な取り組みが交差する領域を指す新しい専門用語となった。

新たな国家安全保障専門家の育成と配置には、ウェストポイントと海軍戦争大学の経験が活かされた。アメリカの指導者たちは、戦争から帰還した優秀な陸軍兵、水兵、空軍兵を募集し、1947年の国家安全保障法に基づいて設立された新たな機関の一員とした。政府の資金援助を受けて高等教育を受ける機会を得た退役軍人たちは、新設された国防総省、秘密主義のCIA、そして初期の原子爆弾を管理した原子力委員会といった官僚組織に多数参加した。

陸軍や海軍の前任者たちと同様に、第二次世界大戦後の国家安全保障専門家たちは、それぞれの戦争関連分野における最高レヴェルの知見を政府に持ち込み、脅威、機会、そして戦略について政治指導者に助言する任務を負っていた。連邦議会は、大統領、副大統領、そして内閣に政府の最高の専門知識を提供するために、ホワイトハウスに国家安全保障会議(National Security CouncilNSC)を設置した。政策決定は政治家に委ねられたが、それは彼らが核時代の戦争と安全保障に関する最も深い知識に触れた後にのみ行われた。

1952年、アイゼンハワーはロバート・カトラーを国家安全保障問題担当大統領特別補佐官[special assistant to the president for national security affairs](後に「国家安全保障問題担当大統領補佐官(national security advisor)」と呼ばれる)に任命した。ワシントン以外でカトラーの名を知る人はほとんどいなかったが、彼は専大統領と内閣への専門家から情報の流れを管理していた。カトラーとアイゼンハワーにとって、国家安全保障プロセスの目的は、アメリカの力と財源を国益の促進に活用するための最善の選択肢をホワイトハウスに持ち込むことだった。大統領が兵器の配備、援助の分配、同盟の形成、共産主義の進出の阻止について情報に基づいた決定を下すには、技術的な正確さ、問題に関する専門知識、政策経験が不可欠だった。

NSCはワシントンの冷戦政策立案の重要な中心となった。NSCで議論されるブリーフィングやオプションペーパーに情報を提供する専門家は、政府官僚、大学、ランド研究所、ブルッキングス研究所などのシンクタンクに多くいた。アメリカの外交政策は、ヨーロッパや日本の復興、軍備管理の追求、国際的な経済開発など、その最盛期には、最も鋭敏な頭脳の知識を意思決定に反映させていた。アメリカの外交政策において最も影響力のある選挙を経ていない専門家の中には、マクジョージ・バンディ、ヘンリー・キッシンジャー、ズビグニュー・ブレジンスキー、ブレント・スコウクロフト、コンドリーザ・ライスなど、国家安全保障問題担当大統領補佐官として働いていた者もいる。

もちろん、国家安全保障の専門家たちは、特にヴェトナム戦争やイラク戦争を支持したことで、重大な過ちを犯した。しかし、彼らは70年以上にわたって、比較的安定した国際秩序を管理するのに貢献した。アメリカの国家安全保障システムは、軍事力、経済力、ソフト・パワーを駆使して世界に影響を与え、おおむねアメリカの利益に資するような形で、大統領に適切な選択肢を与えた。アメリカは安全保障を維持し、あらゆる大陸で同盟関係を管理し、経済成長の恩恵を受け、ついに主要な敵対国であったソ連が崩壊するのを見た。専門家は、核戦争やその他の世界的大災害を防ぐのに役立った。アメリカの国家安全保障の専門家たちは、海外の専門家たちと協力しながら、国際法や人権を擁護し、外交政策の文明化に貢献したと主張する学者もいる。

ドナルド・トランプ大統領は、アメリカの外交政策から国家安全保障の専門家を排除し、政権の国益追求能力を低下させている。彼は国家安全保障のトップに政策の専門家ではなく、忠実な政治家を据えた。マイク・ウォルツは、選挙で選ばれた政治家として初めて安全保障問題担当大統領補佐官に就任した。マルコ・ルビオ国務長官も選挙で選ばれた政治家であり、ジョン・ラトクリフCIA長官やトゥルシ・ギャバード国家情報長官も選挙で選ばれた政治家だった。ピート・ヘグセス国防長官は二流のTVニューズキャスターだった。これらの人物はいずれも、国家安全保障問題に関して本格的な専門知識を持っている訳でもなく、専門家のコミュニティと深いつながりがある訳でもない。どちらかといえば、彼らは専門家を敵視しているからこそ、トランプに選ばれたのだ。

知識と能力の欠如は、3月にトランプ大統領の国家安全保障の最高責任者が、安全でない、「シグナル」のメッセージング・チャンネルを通じて、アメリカ軍のイエメンに対する攻撃計画に関する詳細な情報を『アトランティック』誌編集者のジェフリー・ゴールドバーグと不注意にも共有したことで、憂慮すべき低水準に達した。彼らが漏らした情報は、敵国が攻撃を妨害し、アメリカ軍関係者の安全を脅かすために使われる可能性があった。この災難に責任のある明らかに無能な役人は、誰も解雇されず、辞任もしていない。

トランプ大統領が4月初旬に行ったのは、国家安全保障システムの最高幹部に近い、最も有能な専門家数名を解雇することだった。極右の911陰謀論者ローラ・ルーマーの助言を受けたとみられるが、トランプ大統領はティモシー・ハウ大将を解任した。ハウ大将は、通信諜報を担当する国家安全保障局(National Security AgencyNSA)と、外国のハッキングやサイバーテロからアメリカを守る任務を担う米サイバー軍の両方を率い、世界的に尊敬されている四つ星将軍だった。ハウ大将の文民副官ウェンディ・ノーブルも解任された。国家安全保障会議(NSC)では、技術と諜報の分野で高く評価されている専門家たちも解任された。トランプ大統領はこれに先立ち、統合参謀本部議長と海軍作戦部長という、更に2人の尊敬される軍指導者を解任している。

その理由は、トランプ大統領への忠誠心が足りなかったからだという。しかし、これらの専門家や解雇された他の数百人の専門家が、研究対象の証拠と論理に従う以外のことをしたという証拠はない。彼らは効果的な政策を行うために必要な知識を追求し、その知識が導く先を大統領とその政治的支持者が好まなかったために職を失った。これはワクチンが効くことを否定することに等しいが、国家安全保障の場合は、サイバー防衛、核兵器、そして中国、イラン、北朝鮮との戦争の見通しなど、賭け金は更に高くなる。

アメリカの最も強力な外交政策手段が、無知で経験が浅く、適切な意思決定に必要な知識から切り離された人々によって管理されていることを、私たちは今認識しなければならない。今後数カ月以内に深刻な軍事衝突が起きれば、トランプ政権は無能さを露呈し、有害な間違いを犯すだろう。最近のウクライナ支援の放棄、明らかに嘘のクレムリンのトーキングポイントを採用するトランプ大統領の奇妙な行動、そして悲惨な関税発表は、国家安全保障に関する行き当たりばったりで無秩序な意思決定の兆候であり、世界はこれから4年近くこのような状況を見ることになるだろう。

反専門家のリーダーシップ(ani-expert leadership)は、第二次世界大戦後のほとんどの時代を特徴づけていた、思慮深く慎重な政策決定を覆すものだ。専門知識は、アメリカの安全保障(security)、安定(stability)、そして繁栄(prosperity)を守る上で役立ってきた。専門知識の欠如は、さらなる不確実性と軽率な行動をもたらすだろう。国家安全保障の専門家がいなければ、アメリカの外交政策は、国家と国民を守るための十分な準備が整わないだろう。

クラウゼヴィッツは私たちに、戦争は政治の問題であるということを思い出させるが、同時に、その問題に対する知的な真剣さも必要だ。テレビやソーシャルメディアで大統領、国防長官、あるいは将軍を演じている者たちは、現代の戦場の複雑さに対応できていない。クラウゼヴィッツが軽蔑した自信過剰なヨーロッパ貴族たちのように、彼らは誇り高き社会を驚くべき敗北へと導くだろう。

※ジェレミ・スリ:テキサス大学オースティン校のマック・ブラウン記念国際問題リーダーシップ特別教授、テキサス大学歴史学部、リンドン・B・ジョンソン公共政策大学院の教授。

(貼り付け終わり)

(終わり)
trumpnodengekisakusencover001

『トランプの電撃作戦』
sekaihakenkokukoutaigekinoshinsouseishiki001
世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む

bidenwoayatsurumonotachigaamericateikokuwohoukaisaseru001

バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

akumanocybersensouwobidenseikengahajimeru001

 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 古村治彦です。

 2023年12月15日に、副島隆彦先生の最新刊『中国は嫌々(いやいや)ながら世界覇権を握る』が発売になります。

chugokuhaiyaiyanagarasekaihakenwonigiru001
中国は嫌々ながら世界覇権を握る

 以下にまえがき、目次、あとがきを掲載します。是非手に取ってお読みください。

(貼り付けはじめ)

まえがき 中国人がいま本気で考えていること  副島隆彦(そえじまたかひこ)

この本の書名は「中国は嫌々(イヤイヤ)ながら世界覇権を握る」である。なぜ中国が「嫌々ながら世界覇権を握る」のか。そのことを説明することから始める。
大きく言うと、ウクライナ戦争はロシアが勝つ。今のような戦争状態はもう続かない。何らかの形の停戦がある。停戦が破られてもどうせ膠着(こうちゃく)状態になる。
世界が第3次世界大戦に入り、核戦争の可能性もある。この問題については、後ろのほうで書く。

ヘンリー・キッシンジャー博士がちょうど100歳で死んだ(11月29日)。この人が世界皇帝であったデイヴィッド・ロックフェラーの代理だった。
キッシンジャーは、2023年7月19日に北京へ向かい、このあと更迭された李尚福(りしょうふく)国防部長と会っている。

chugokuhaiyaiyanagarasekaihakenwonigirumaegakisashikae001

(新聞記事貼り付けはじめ)

「100歳キッシンジャー氏、軍同士の対話復活探る 中国国防相と会談」

 米国のキッシンジャー元国務長官が中国を訪問し、7月19日に北京で李尚福国務委員兼国防相と会談した。李氏が米国の制裁対象となっていることが、米中が国防分野での対話を再開できない大きな要因となっているが、中国側は米国の対応次第で再開の意図があることを改めて示した。

 キッシンジャー氏はニクソン米政権の大統領補佐官として極秘訪中し、米中の国交正常化に道筋を付けた立役者。100歳となったキッシンジャー氏は現在の米中関係の緊張に危機感を持っており、2019年に習近平国家主席とも会談するなどいまでも中国側からの信頼は厚い。(朝日新聞 2023年7月18日)

 (新聞記事貼り付け終わり)

キッシンジャー博士が死んでも、当分の間(あいだ)は核戦争は起きない。なぜなら、核戦争を食いとめるためにヘンリー・キッシンジャーという大御所が存在したからだ。この構造はすぐには変わらない。だから大丈夫である。

chugokuhaiyaiyanagarasekaihakenwonigirumaegaki002
=====

『中国は嫌々(いやいや)ながら世界覇権を握る』 目次

まえがき 中国人がいま本気で考えていること ──3

第1章  中国が嫌々ながら世界覇権を握る理由

目の前に迫るアメリカの没落 ──16
アメリカはもはや核ミサイルを打てない ──21
世界覇権が「棚からぼたもち」で中国のものになる ──26
「賃労働(ちんろうどう)と資本の非和解的(ひわかいてき)対立」という中国の大問題 ──30
人権は平等だが、個人の能力は平等ではない ──36
李克強の死 ──44
アメリカに通じた大物たちの〝落馬〟 ──48
中国の不動産価格は落ち着いていく ──49
民衆にものすごく遠慮している中国共産党 ──53
統一教会に対して空とぼけている連中 ──57

第2章  中国はマルクス主義と資本主義を乗り越える

中国は自分たち自身の過去の大失敗を恥じている ──68
鄧小平と Y=C+I ──78
ジャック・マーを潰すな ──85
中国が気づいた有能な資本家の大切さ ──90
中国版のオリガルヒを絶対に潰さない ──97
中国は他国に攻め入るどころではない ──100
イデアとロゴス ──102
賃労働と資本 ──107
「賃労働と資本の非和解的対立」について ──111

第3章  中国と中東、グローバルサウスの動き

ハマスを作ったのはCIAである ──120
パレスチナの若者はハマスに騙されて死んだ ──126
中国が成し遂げたイランとサウジの歴史的仲直り ──128
もうこれ以上アメリカに騙されない中東諸国 ──134
追い詰められているのはディープステイト ──136
一帯一路、発足10年で強まるヨーロッパとの関係 ──138
グローバルサウスの結集 ──154
進むアメリカの国家分裂 ──159

第4章  台湾は静かに中国の一部となっていく

ムーニーの勢力にヘイコラする日本 ──164
何よりも台湾人は中国人である ──170
台湾軍幹部の9割は退役後、中国に渡る ──175
基地の島、金門島の知られざる現実 ──182
ラーム・エマニュエルという戦争の火付け役 ──184

第5章  中国経済が崩壊するという大ウソ

ファーウェイ Mate60pro の衝撃 ──190
中国の勝利に終わった半導体戦争 ──195
半導体製造にまで進出するSBI ──202
アメリカが80年代に叩き潰した日本の半導体産業の真実 ──205
日本人が作った革新的な技術 ──208
量子コンピュータは東アジア人しか作れない ──212
アメリカが敗れ去った量子暗号通信技術戦争 ──213
EVという幻想 ── 218
TSMCの奪い合いこそが「台湾有事」の本態 ──221
世界を牛耳る通信屋たちの最大の弱点 ──225

あとがき ──228

=====

あとがき

 私が、この本で描きたかったことは。中国がもうすぐ次の世界支配国になる。アメリカ帝国は早晩(そうばん)崩(くず)れ落ちる。そのとき中国人は、どういう新(しん)思想で世界経営(けいえい)をするか、という課題だ。

 今の中国人は、総体としてもの凄(すご)く頭がいい。文化大革命の大破壊のあとの44年間を、ずっと苦労して這(は)い上がって来た。このことが私は分かる。中国(人)は、もうイギリス(大英帝国。ナポレオンを打ち倒した1815年からの100年間)と、アメリカ帝国(1914年からの100年間)の2つの世界覇権国(ヘジェモニック・ステイト)がやった、ヨーロッパ白人文明(ぶんめい)(実は帝国が文明も作るのである)の救済(サルベーション)と博愛思想[フラターニティ](代表キリスト教) の偽善(ぎぜん)と騙(だま)しによる世界管理はやらない。棚(たな)からぼた餅(もち)が落ちてくる。嫌々(いやいや)ながらの世界覇権国だ。

 中国は、カール・マルクスが発見した「賃労働(者)[ウエイジレイバラー]と資本(家)[カピタリスト]の非和解的対立」を何とか、180年ぶりに部分的に乗り越える新(しん)思想(イデー)で、世界を良導(りょうどう)しようと思っている。それを見つけることができるか。全てはここに掛(かか)っている。私自身の1973年(大学入学、20歳)以来の丁度50年間のマルクス思想との浮沈(ふちん)、泥濘(でいねい)でもある。

 中国は、もう核戦争と第3次世界大戦の脅威さえも乗り越えた。そんなものは怖くない、という段階まで一気に到達した。私は誰よりも早くこのことに気づいた。

 何という大ボラ吹きの大言壮語(たいげんそうご)を、と思われることはすでに計算のうちだ。先へ先へ、未来へ未来へと、予言(プレディクション)で突き進まなければ、知識・思想・言論を職業(生業[なりわい]) としてやっていることの意味がない。すでに私には、村はずれの気違い(village idiot、ヴィレッジ・イデオット)の評価がある。私だけは他のどんな知識人たちよりも、大きな言論の自由(フリーダム・オブ・エクスプレッション) を、この国で保障されている。しかも、出版ビジネス(商業出版物) としての信用の枠にもきちんと収まっている。

 この本を急速に書き上げるために、ビジネス社編集部の大森勇輝氏の優れた時代感覚に

大いに助けられた。記して感謝します。

2023年11月

副島隆彦

(貼り付け終わり)

(終わり)

bigtech5shawokaitaiseyo501
ビッグテック5社を解体せよ

akumanocybersensouwobidenseikengahajimeru001

 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
20211129sankeiad505

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 古村治彦です。

 ヘンリー・キッシンジャー逝去のニューズは日本のテレビニューズでも報じられた。視聴者の多くは「そんな人もいたね」というよりは、「この人は偉い人なの?誰なの?」という疑問を持ったに違いない。キッシンジャーとはどのような人物であったのか、ということにつちえ、アメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』誌に掲載された追悼記事(obituary)をご紹介したい。

 キッシンジャーは学問の世界、現実政治の世界の両方で成功を収めた人物である。彼の行動指針は「リアリズム(realism)」「現実政治(realpolitik)」だった。リアリズムは、理想、道徳、価値観にとらわれない。キッシンジャー自身はリアリズムについて、「国際システムは不安定の中に生きている。あらゆる "世界秩序 (world order"は永続性への願望(aspiration to permanence)を表現している。しかし、それを構成する要素は常に流動的(constant flux)である。実際、世紀が進むごとに、国際システムの持続期間(duration)は縮まっている」と定義している。

 キッシンジャーのリアリズムは、私たちが日本の将来について、外交政策について考える際にも参考になるものだ。そして、キッシンジャーのいない世界は、これから更に不安定さを増していく。そして、最悪の事態まで突き進む可能性も高まる。核兵器を使用する、第三次世界大戦を私たちは目撃するかもしれない。

(貼り付けはじめ)

追悼記事(Obituary

ヘンリー・キッシンジャー、世界の舞台に屹立した大巨人(Henry Kissinger, Colossus on the World Stage

-この故人となった政治家はリアルポリティックス(realpolitik)の達人だった。ある人々は彼を戦争犯罪人(war criminal.)だと考えた

マイケル・ハーシュ筆

2023年11月29日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2023/11/29/henry-kissinger-obituary-cambodia-war-crimes-secretary-of-state/

henrykissingerobituary001
インタヴューを受けているキッシンジャー(1980年8月にワシントンにて)

アメリカ史上最も影響力を持つ政治家(statesmen)の一人であるヘンリー・アルフレッド・キッシンジャーが11月29日に100歳で亡くなった。アメリカ外交の偉大な勝利と悲劇的な失敗のいくつかに貢献した長く波乱に満ちたキャリアの末の逝去となった。

ドイツ生まれで、ナチズムからの難民として15歳でアメリカに渡ったキッシンジャーは、第二次世界大戦後、最も画期的な(epoch-making、エポックメイキング)な外交成果をいくつも残したと言われている。冷戦期の平和を維持するためにソヴィエト連邦との緊張緩和(détente、デタント)を開始し、上司であるリチャード・ニクソン(Richard Nixon)大統領とともに、1972年に共産主義中国との関係を開くことによって、この40年にわたる対立の条件を劇的に変化させたことなどがその例だった。

ニクソン大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官、そして国務長官という2つの役割を兼任したキッシンジャーは、おそらく中東交渉で最も成功した人物であり、4つのアラブ・イスラエル合意を生み出した「シャトル外交(shuttle diplomacy)」の技術を生み出した。そうすることで、彼は「世界において激動する地域にアメリカ主導の新しい秩序を確立し、アラブ・イスラエル和平の基礎を築いた(established a new American-led order in that turbulent part of the world and laid the foundations for Arab-Israeli peace)」と、『ゲームの達人:ヘンリー・キッシンジャーと中東外交術(Master of the Game: Henry Kissinger and the Art of Middle East Diplomacy)』の著者である、ヴェテランの中東交渉官のマーティン・アインディクは書いている。

一部の伝記作家の見解では、キッシンジャーは、アメリカの冷戦の封じ込め戦略の主要な設計者として成功させた(he principal author of America’s successful Cold War containment strategy)ジョージ・ケナン(George Kennan)や、その他の、第二次世界大戦後の世界システムの神聖な立役者たちと並ぶ地位にある。「キッシンジャーが設計した平和の構造は、ヘンリー・スティムソン、ジョージ・マーシャル、ディーン・アチソンとともに、近代アメリカの政治家の頂点に位置する(The structure of peace that Kissinger designed places him with Henry Stimson, George Marshall, and Dean Acheson atop the pantheon of modern American statesmen)」と、ウォルター・アイザックソンは1992年のキッシンジャーの伝記に書いている。アイザックソンはまた、「加えて、彼は今世紀最高のアメリカ人交渉官であり、ジョージ・ケナンと並んで最も影響力のある外交知識人であった」とも書いている。

henrykissingerobituary002

キッシンジャーが見ている前で、ジョージ・シュルツ元米国務長官(右)が、「戦争犯罪でヘンリー・キッシンジャーを逮捕せよ」と叫ぶ抗議者たちを押し返している。2015年1月29日の連邦上院軍事委員会での公聴会の前(ワシントンにて)

しかし、キッシンジャーはまた、特にリベラル派から、無数の死者を出した冷血なアメリカ権力の象徴と見なされ、非難されるようになった。ニクソンの側で、彼はクメール・ルージュ(Khmer Rouge)の台頭と100万人以上の虐殺を引き起こした、悲惨なカンボジア空爆を支持した。アメリカのカンボジア侵攻後、キッシンジャーはヴェトナムとの和平交渉をまとめ上げ、ノーベル平和賞を受賞したが、最終的にはわずか2年後に屈辱的な北ヴェトナムの南ヴェトナム占領を招き、それまでの戦争でアメリカは最悪の敗北を喫することになった。

キッシンジャーはまた、共産主義に友好的とされたチリのサルヴァドール・アジェンデ(Salvador Allende)大統領に対する1973年のクーデターを支持し、1971年のバングラデシュでの大量虐殺にはむか新だった。ニクソンとキッシンジャーは、東パキスタン(後のバングラデシュ)の独立を阻止しようとするパキスタン軍を支持し、ベンガル人の大量虐殺とレイプを監督するために、米国の法律に違反して彼らを武装させた。プリンストン大学の政治学者ゲイリー・バスは、後にこのエピソードを「冷戦における最も暗い章のひとつ」と評した。バスが引用した機密解除されたホワイトハウスのテープや文書によれば、当時の内部会議でキッシンジャーは、「死にゆくベンガル人(dying Bengalis)」のために「血を流す(bled)」人々を軽蔑していた。

故クリストファー・ヒッチェンズは、2001年の著書『ヘンリー・キッシンジャーの裁判(The Trial of Henry Kissinger)』の中で、キッシンジャーは「民間人の殺害、都合の悪い政治家の暗殺、邪魔な兵士やジャーナリスト、聖職者の誘拐と失踪を命じ、承認した」として、国際法の下で訴追されるべきだと主張した。

henrykissingerobituary003

1969年ホワイトハウスのシチュエイションルームで肖像写真のためにポーズを取るキッシンジャー。当時はリチャード・ニクソン大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めていた。

1923年5月27日、ドイツのフュルトで、ハインツ・キッシンジャーとして生まれたキッシンジャーは、ワイマール・ドイツの秩序崩壊とナチスの台頭に永遠に悩まされ、家族の多くを殺された。アメリカに亡命したキッシンジャーは、熱烈な情熱(passionate zeal)をもって新天地を受け入れたが、バイエルン訛りが抜けなかったのと同様、ヨーロッパ流の現実政治(European-style realpolitik)への憧れを捨て去ることはなかった。

キッシンジャーの国際問題における英雄は、後に彼が書いているように、「外交政策は情緒ではなく、強さの評価に基づいていなければならない(foreign policy had to be based not on sentiment but on an assessment of strength)」と主張した、伝説的な「鉄血宰相(iron chancellor)」オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck)であった。アイザックソンは、「それがキッシンジャーにとっての指針(Kissinger’s guiding principles)のひとつにもなった」と述べている。

ハーヴァード大学に在職し、学術界のスターであったキッシンジャーは、ジョン・ケネディ(John Kennedy)に始まり、ネルソン・ロックフェラー(Nelson Rockefeller)、そして最後はニクソンと、アメリカの新進の指導者たちの信頼を得て、その才能と野心で知られるようになった。キッシンジャーはしばしば舞台裏で人々を鼓舞するようなな気性を見せ、ニクソン政権の最初の国務長官ウィリアム・ロジャースなどのライヴァルを蹴落とそうと常に動いていた。

キッシンジャーはまた、ニクソンや政府内の多くのライヴァルを失望させたが、国際的な有名人となり、映画の試写会や高級レストランのオープニングセレモニーにハリウッド女優たちを引き連れて出席した。「権力は究極の媚薬である(Power is the ultimate aphrodisiac)」とキッシンジャーが言ったのは良く知られている。1972年、『ゴッドファーザー』の主演俳優マーロン・ブランドが同映画のプレミアへの出席を辞退したとき、プロデューサーのロバート・エヴァンスは、キッシンジャーがブランドの代わりに出席するよう説得した。

しかし、キッシンジャーが最も永続的な足跡を残したのは、卓越した(par excellence)学者としてであり、説得者としてであった。ハーヴァード大学で、クレメンス・フォン・メッテルニヒ(Klemens von Metternich)やカースルレー卿(Lord Castlereagh)が成功した19世紀のリアリズムを論じた博士論文を完成させた後、キッシンジャーはまず、『核兵器と外交政策(Nuclear Weapons and Foreign Policy)』という本で名を知られるようになった。この本は限定核戦争(limited nuclear war)を支持したが、キッシンジャーは後にこの考えを否定した。

バリー・ゲーウェンという学者によれば、キッシンジャーは1965年の時点で、ヴェトナムを訪問した後、ヴェトナム戦争は無益であるという結論に達していたにもかかわらず、ヴェトナム戦争を支持した。こうして彼は、多くの保守派を怒らせながら、ソヴィエトとの緊張緩和(détente、デタント)と核兵器削減交渉の時代をスタートさせた。

しかし同時に、キッシンジャーは1972年、ソ連が対立していた共産主義中国との前例のない和解(unprecedented rapprochement with communist China)を打ち出し、モスクワの意表を突いた。一部の学者によれば、これは、ワシントンが国内の混乱に気を取られ分裂していた時期に、ソヴィエトとの開戦を防ぐのに役立った可能性があるという。

henrykissingerobituary004
中国を公式訪問中の1972年2月23日、ニクソンとキッシンジャーは中国の周恩来首相と共に北京のスポーツイヴェントに出席した。

henrykissingerobituary005

1973年の北京の人民大会堂での公式晩餐会で中国の周恩来首相から食べ物を取り分けてもらうキッシンジャー。

それは、キッシンジャーと、同じくリアリスト志向の上司であったニクソンにとって、歴史上もっともふさわしい瞬間であった。二人とも、1960年代の「共産主義諸国は一枚岩だ(monolithic communism)」という概念や、ドミノ理論(domino theory)が不健全であることにいち早く気づいていた。ゲーウェンが2020年の著書『悲劇の必然性-ヘンリー・キッシンジャーとその世界(The Inevitability of Tragedy: Henry Kissinger and His World)』で「共産主義は一枚岩という考え方が捨て去られれば、二人の現実政治家にとって、反目する共産主義者同士を戦わせること以上に健全な政策があるだろうか?」と書いている。

ジョージタウン大学の国際問題研究者であるチャールズ・カプチャンは次のように書いている。「緊張緩和(デタント)は結局のところ、ヴェトナム戦争と、過剰拡大(overreach)という考えに突き動かされていた。キッシンジャーとニクソンは、冷戦について、後退させ、温度を下げる必要があると考えた。特に中国を敵の列から引き離すことに成功した。キッシンジャーは、他の重要人物にはない戦略的な考え方をした。アメリカの国家運営(U.S. statecraft)に関して、私(カプチャン)は政策が多すぎて戦略が足りないという問題が存在すると考えている。キッシンジャーはそれを逆転させた人物だ」。

henrykissingerobituary006

1975年にエジプトのアレキサンドリアで、エジプト大統領アンワール・サダトと、シナイⅡ交渉で、会談を持つヘンリー・キッシンジャー。交渉の結果、エジプトに領土が返還された。

キッシンジャーはまた、その魅力とユーモア、そして歴史の達人ぶり(mastery of history)で外国の指導者や外交官を虜にし、その人間的な魅力でも有名になった。もちろん、彼が交渉相手の独裁者たちの虐待をひどく気にしているようには見えなかったことも助けになった。

アイザックソンによれば、キッシンジャーが最も尊敬する二人の外国指導者は、中国の周恩来首相とエジプトのアンワール・サダト大統領だ。キッシンジャーは、サダト大統領がイスラエルとの交渉に積極的に参加する姿勢を取っていることを「預言者(prophet)」と評価した。1974年にキッシンジャーが初めてシャトル外交を試みた際、サダトはキッシンジャーを大統領邸宅の近くにある熱帯植物園に連れて行き、「マンゴーの木の下でキスした」とアイザックソンは書いている。驚くキッシンジャー国務長官に対し、サダトは「あなたは私の友人だけではない。あなたは私の弟でもある」と語った。キッシンジャーは後に記者団に対し、「イスラエル人がより良い待遇を受けられないのは、彼らが私にキスをしないからだ」と冗談を飛ばした。

henrykissingerobituary007

2001年9月11日の同時多発テロ攻撃の後、破壊の程度をニューヨーク市長ルディ・ジュリアーニから説明を受けるヘンリー・キッシンジャー

henrykissingerobituary008

連邦上院外交委員会でのイラクに関する公聴会を前にして、連邦上院外交委員会委員長ジョー・バイデンと話をするヘンリー・キッシンジャー(2007年1月31日)。

彼を取り巻く論争が激しかったにもかかわらず、キッシンジャーはアメリカの卓越した外交政策専門家としての名声を失うことはなかった。彼が亡くなるまでの数十年間、共和党と民主党の両方が、また多くの世界の指導者たちが彼の助言を求めた。キッシンジャーは、回想録、書籍、記事、著作を勢力に発表してきた。これらの業績は、一部の学者たちは、アメリカの専門家による外交政策の最も徹底的で深遠な解明である、と評価している。キッシンジャーはこうした業績を通じて、名声の復活を強化した。

アメリカ最高のリアリストとされるキッシンジャーは、世界を変えるウィルソン流の理想主義(world-changing Wilsonian idealism)、基本的にはワシントンがアメリカのイメージ通りに世界を再編成できるという考え方に対する懐疑主義においても、先見の明を証明した。彼は、ウィルソン主義がアメリカ外交の「基盤(bedrock)」であることを認めながらも、ウィルソン主義の落とし穴を誰よりもはっきりと見抜いていた。

冷戦後、民主政治体制の拡散(spread of democracy)が万能薬(panacea)になるという考えに対する、キッシンジャーの懐疑論ほど、彼の正当性が証明されたものはない。ゲーウェンが指摘したように、キッシンジャーは冷戦の終結がアメリカ型の自由民主体制資本主義(American-style liberal democratic capitalism)の大勝利につながるのではなく、むしろ「輝かしい夕日のようなもの(in the nature of a brilliant sunset)」であることを予見していた。

過去10年ほどの進展が示しているように、これはキッシンジャーが最もよく知るようになった中国に特に当てはまることが判明した。ビル・クリントンからの歴代米政権は、キッシンジャーがかつて「敵対者の回心によって平和が達成されるという古くからのアメリカの夢(the age-old American dream of a peace achieved by the conversion of the adversary)」と呼んだものを、冷戦後の世界市場と新興民主主義国家のシステム(post-Cold War system of global markets and emerging democracies)に中国を取り込もうとした。しかし、中国はソ連崩壊後のロシアとともに、独裁(autocracy)と人権抑圧の新時代の原動力となっている。

henrykissingerobituary009

2018年11月8日、北京の人民大会堂で中国の習近平国家主席と会談を持つキッシンジャー

キッシンジャーは長い間、中国やその他の大国に対する唯一の合理的なアプローチとして、理想主義的な方法で世界の問題を解決しようとするのではなく、むしろ刻々と変化する勢力均衡(バランス・オブ・パウア)を注意深く調整することによって問題を管理する(manage)という現実政治(realpolitik)を主張してきた。ゲーウェンは、「キッシンジャーの考えは、政策決定者に課せられた任務は控えめで、本質的に消極的なものであるというものだ。世界を普遍的な正義へと導くのではなく、力と力を競わせ、人間の様々な攻撃性(assorted aggressions of human beings)を抑制し、できる限り災難を避けようとするのである」と書いている。

キッシンジャーのアプローチの鍵は、恒久的な解決策ではなく、達成可能な目標を特定することだった。アインディクの言葉を借りれば、「キッシンジャーにとって、平和創造外交(peacemaking diplomacy)とは、対立する大国間の対立を解決するために設計されたプロセスではなく、対立を緩和するためのプロセスであった」ということになる。

キッシンジャー自身、1994年に刊行した代表作『外交』の中で、このリアリズム哲学を次のように定義している。「国際システムは不安定の中に生きている。あらゆる "世界秩序 (world order"は永続性への願望(aspiration to permanence)を表現している。しかし、それを構成する要素は常に流動的(constant flux)である。実際、世紀が進むごとに、国際システムの持続期間(duration)は縮まっている」。

この考えは、特に21世紀は当てはまるだろう。キッシンジャーは、「世界秩序を構成する要素、相互作用する能力、そしてその目標が、これほど急速に、これほど深く、これほどグローバルに変化したことはかつてなかった」と書いている。

キッシンジャーは次のように結論づけた。「次の世紀(21世紀)には、アメリカの指導者たちは国民のために国益(national interest)の概念を明確にし、ヨーロッパとアジアにおいてその国益が勢力均衡の維持によってどのように果たされるのかを説明しなければならないだろう。アメリカは世界のいくつかの地域で均衡(equilibrium)を維持するためのパートナーを必要とするが、これらのパートナーは道徳的考慮を基にするだけで選ぶことはできない」。

キッシンジャーは晩年に差し掛かり、ワシントンが道徳的あるいはイデオロギー的な理由で中国とロシアの両方に対立的なアプローチを採用することで、自らを孤立させ、北京とモスクワの古い同盟関係を復活させる危険性があることを恐れていた。2018年、キッシンジャーは、ドナルド・トランプ大統領(当時)に、中国に対抗するためにロシアともっと緊密に協力するよう助言したと伝えられている。

同時にキッシンジャーは、中国に対して新たな冷戦を仕掛けることで、ワシントンはソ連に対して直面したよりも更に大きな危険を作り出しているかもしれないとも警告した。ソ連は2021年5月、キッシンジャーは、マケイン・インスティテュートのセドナ・フォーラムで、「ソ連は中国のような発展的な技術力を持っていなかった。中国は巨大な経済大国であり、軍事大国でもある」と述べた。

アメリカがアフガニスタンから屈辱的な撤退をした後、『エコノミスト』誌に寄稿した最後のエッセイの一つの中で、キッシンジャーは世界をより良い方向に変えようとする過剰な理想主義的熱意(excess of idealistic zeal)に再び警告を発した。キッシンジャーは、ヴェトナムでの対反乱作戦の失敗を思い起こし、ワシントンの失敗を、彼の外交政策に対する生涯のアプローチにふさわしい言葉で次のように診断した。

キッシンジャーは次のように書いている。「アメリカは、達成可能な目標を定義することができず、アメリカの政治プロセスによって持続可能な方法でそれを結びつけることができないために、対反乱活動において自らを引き裂いてきた。軍事的目標はあまりに絶対的で達成不可能であり、政治的目標はあまりに抽象的でとらえどころがない。軍事的な目標はあまりにも絶対的で達成不可能であり、政治的な目標はあまりにも抽象的でとらえどころがなかった」。

henrykissingerobituary010

ニューヨークのパークアヴェニューにある事務所でのキッシンジャー(2011年5月10日)

キッシンジャーは最後まで、世界を解明しようと懸命に努力した。2021年にグーグル元最高経営責任者(CEO)エリック・シュミット(Eric Schmidt)、マサチューセッツ工科大学コンピューターサイエンス学部長ダニエル・ハッテンローチャー(Daniel Huttenlocher)と共著で出版した『AIの時代(The Age of AI)』を代表とする一連の著作の中で、彼は物事が間違った方向に進んでいるという深刻な懸念を表明した。

キャリアの大半で道徳的配慮を無視していると非難されてきたキッシンジャーにとって皮肉なことに、彼の主な心配は人間的要素(human element)の喪失だった。彼は、啓蒙主義(the Enlightenment)以来支配的になったパラダイム、つまり人間理性(human reason)の優位性が覆されつつあり、『アトランティック』誌での論説の中で述べたように、現在ではあまりにも多くの決定が「データとアルゴリズム(algorism)によって動かされ、倫理的または哲学的な規範によって制御されていない機械に依存している」ことを懸念していた。

重厚な物腰とドイツ訛りのキッシンジャーは、しばしば飄々(aloof)とした印象を与える。しかし、彼は広義でも狭義でも人間性をよく研究する人物であり、そのキャリアを通じて、交渉相手の指導者の性格をよく研究していた。死の間際、彼はこれらの経験をまとめた最後の本を執筆中だった。

シリアの独裁者、ハーフィズ・アサド(Hafez Assad)の死後、2000年の私とのインタヴューで、キッシンジャーはその独裁者の血塗られた歴史には口をつぐみがちだったが、それ以外はアサドの長所と短所を率直に評価した。キッシンジャーは次のように述べた。「アサドの成功は30年間も権力の座に居座り続けたことだが、それは何か大きな業績を残したということはなかった。彼は生き残りと小さな努力を積み重ねた人だった。彼は超越した人物ではなかった。彼に欠けていたのは、彼が育った環境を超越することだった」。

キッシンジャー自身が超越した人物であることは証明されたが、アサドに対する彼の評価は、少なくとも彼が生まれ育った環境を本当に超越したかどうかという点では、ある意味で彼にも当てはめることができるだろう。キッシンジャーは生涯を通じてヨーロッパの亡命者(refugee)であり続け、ビスマルクやメッテルニヒの弟子であり、アメリカを熱烈に支持しながらも、良くも悪くも、自分を受け入れてくれた国家の道徳に基づいた権力政治(morality-based power politics)を巧みに操った。

キッシンジャーの教え子であり、後にハーヴァード大学で政治的ライヴァルとなった外交官で政治学者のジョセフ・ナイは次のように述べている。「キッシンジャーは、外交政策における道徳について、評価されている以上に意識していた。彼は、秩序(order)が勢力均衡(balance of power)と同時に正統性(legitimacy)の上に成り立っていることを知っていた。彼は粗雑な現実政治(crude realpolitik)ではなかった。洗練された現実政治(sophisticated realpolitik)だった。

この複雑な遺産こそが、アメリカと世界にとって、キッシンジャーが遺したものだ。

※マイケル・ハーシュ:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。『資本攻勢:ワシントンの賢人たちはいかにしてアメリカの未来をウォール街に委ねたか(Capital Offense: How Washington’s Wise Men Turned America’s Future Over to Wall Street)』と『私たちとの戦争:アメリカがより良い世界を築くチャンスを無駄にする理由(At War With Ourselves: Why America Is Squandering Its Chance to Build a Better World)』がある。ツイッターアカウント:@michaelphirsh

(貼り付け終わり)

(終わり)

bigtech5shawokaitaiseyo501
ビッグテック5社を解体せよ

akumanocybersensouwobidenseikengahajimeru001

 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
20211129sankeiad505

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

古村治彦です。

ヘンリー・キッシンジャー元国務長官・元国家安全保障問題担当大統領補佐官が100歳で亡くなった。彼が創設したコンサルティング会社キッシンジャー・アソシエイツが発表した。キッシンジャーについては、このブログでも特に多くご紹介してきた。このページの右側にある、「記事検索」の欄に「キッシンジャー」と入れてもらうと、キッシンジャーに関する記事がたくさん表示される。一番下まで行くと、「次の5件」という表示が出るので、それを押すと、次々と表示されるので、是非お試しいただきたい。

 私は2023年5月に長文の「キッシンジャー論」を翻訳し、このブログでご紹介した。以下にそのリンクを貼るので、「記事検索」と併せてご覧いただきたい。

(1)「同意しないことに同意する」というところから始めるキッシンジャーのリアリズム的な外交政策の真髄(第1回・全3回) 20230501

http://suinikki.blog.jp/archives/87343779.html

(2)「同意しないことに同意する」というところから始めるキッシンジャーのリアリズム的な外交政策の真髄(第2回・全3回) 20230502

http://suinikki.blog.jp/archives/87343787.html

(3)「同意しないことに同意する」というところから始めるキッシンジャーのリアリズム的な外交政策の真髄(第3回・全3回) 20230503

http://suinikki.blog.jp/archives/87343791.html  
 キッシンジャーについては1960年代からアメリカの安全保障。外交政策に関わり、様々な業績を残したので、それを簡単にまとめることは難しい。上記記事のようにどうしても長くなる。キッシンジャーについては近年であれば、中国の習近平国家主席、ロシアのウラジーミル・プーティン大統領と頻繁に会談を持っていた。両首脳はキッシンジャーを厚遇した。キッシンジャーは非西洋諸国の中心的な2人の首脳に対して、様々な指南を行い、その最大のものはアメリカとは戦争してくれるな、ということだった。
 キッシンジャーはドナルド・トランプ大統領に対しても外交的な指南を行った。大統領選挙期間中、トランプは、娘イヴァンカの夫ジャレッド・クシュナーを介して、キッシンジャーとコンタクトを取り、キッシンジャーのニューヨークの私邸を訪問した。大統領当選後も、キッシンジャーはホワイトハウスを訪問している。トランプ政権下では、アメリカは大きな戦争を起こさず、巻き込まれることもなかった。バイデン政権下では、ウクライナ戦争とパレスティナ紛争が起きた。
 キッシンジャーについては毀誉褒貶がつきまとい、厳しい批判がある。しかし、彼の業績を今一度振り返り、リアリズムに基づいた外交政策とは何かについて、私たちはよくよく考える必要がある。
 キッシンジャー亡き世界とは、日本の戦前に例えるならば、最後の元老西園寺公望が亡くなった後の日本のようなことになるかもしれない。アメリカ、そして世界において、ブレーキ役がいなくなり、世論を含めて、強硬論が更に強くなり、戦争の可能性が高まるということも考えられる。しかし、少なくとも、習近平とプーティンがいる限りは、アメリカ、中国、ロシアが直接戦うということは起きないだろう。そのことはキッシンジャーの置き土産、遺産ということになるだろう。
(貼り付けはじめ)

アメリカの外交官ヘンリー・キッシンジャーが100歳で死去(American diplomat Henry Kissinger dies at 100

ミランダ・ナッザリオ筆

2023年11月29日

『ザ・ヒル』誌

https://thehill.com/blogs/blog-briefing-room/4334541-american-diplomat-henry-kissinger-dies-at-100/

元外交官・元大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーが水曜日、100歳で死去した。彼のコンサルティング会社が水曜日夜に発表した。

キッシンジャー・アソシエイツの声明によると、キッシンジャーはコネティカット州にある自宅で死去した。

キッシンジャーは、国家安全保障分野と外交政策分野で幅広いキャリアで知られた。1969年から1975年にかけて、リチャード・ニクソン大統領の下で、国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めた。補佐官在任中に、ニクソンはキッシンジャーを第56代国務長官に指名し、国務長官と国家安全保障問題担当大統領補佐官の両方を同時に務めた最初の人物となった。

ジェラルド・フォード大統領の下で、国務長官に留任したが、フォード大統領は国家安全保障問題担当大統領補佐官からは退任させた。

キッシンジャーは1923年生まれ、当時はハインツ・アルフレード・キッシンジャーという名前だった。彼は人生の初期をドイツで過ごした。彼の家族はユダヤ系で、ナチスが権力を掌握した後、アメリカに移民した。アメリカに移民後、キッシンジャーは名前をヘンリーに改めた。

第二次世界大戦中、ドイツ語通訳としてアメリカ陸軍に入隊した。戦後、キッシンジャーはハーヴァード大学に入学し、1950年に学士号を取得し、1954年に博士号を取得した。その後は、アイヴィーリーグに残り、ハーヴァード大学政治学部教授、国際問題研究センター副所長を歴任した。

彼のキャリアは1960年代までに政府の仕事に移行し、ニクソンに国家安全保障問題担当大統領補佐官に任命されるまで、いくつかの政府機関でコンサルタントを務めた。

国務省に入ったのは、エジプトがイスラエルに奇襲攻撃を仕掛けて、1973年に起きたアラブ・イスラエル戦争が勃発する数週間前のことだった。キッシンジャーは国務省で指揮を執り、イスラエルが米国からの物資を確実に受け取れるよう支援し、その後、イスラエルとエジプト、後にシリアとイスラエル間の交渉を仲介するため、中東地域を行き来する「シャトル外交(shuttle diplomacy)」を開始し、何度も中東を訪問した。

国務長官を退任した後も、キッシンジャーは外交問題に関するアドヴァイザーを務め、後に「中央アメリカに関する全米超党派委員会(National Bipartisan Commission on Central America)」の委員長を務めた。その後、ロナルド・レーガン元大統領とジョージ・HW・ブッシュ(父)元大統領の下で大統領対外情報・諜報諮問委員会(President’s Foreign Intelligence Advisory Board)の委員を務めた。

=====

●「キッシンジャー元米国務長官が100歳で死去、米中国交樹立の立役者」

11/30() 10:49配信 ブルームバーグ

https://news.yahoo.co.jp/articles/53d6bd8d43b33168aecaa2d6d2eec8952d74fd42

(ブルームバーグ): ニクソン、フォード米政権で国務長官を務め、1970年代の米外交政策決定で重要な役割を果たしたキッシンジャー元米国務長官が、米コネティカット州の自宅で死去した。100歳だった。元国務長官の関係者が明らかにした。

キッシンジャー氏は大統領補佐官として、72年のニクソン大統領による電撃的な中国訪問を実現させ、79年の米中の国交樹立につながる土台を築いた。

冷戦下での旧ソ連とのデタント(緊張緩和)や戦略兵器制限条約の実現に貢献したことで歴史に名を残す一方、ベトナムとカンボジアに対する大規模な空爆を支持したことなどで批判も受けた。

(貼り付け終わり)

(終わり)

bigtech5shawokaitaiseyo501
ビッグテック5社を解体せよ

akumanocybersensouwobidenseikengahajimeru001

 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
20211129sankeiad505

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ