古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:ヘンリー・キッシンジャー

 古村治彦です。

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 今回は、ズビグニュー・ブレジンスキー(Zbigniew Brzezinski、1928-2017年、89歳で没)についての論稿を紹介する。ブレジンスキーは、2023年に亡くなったヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger、1923-2023年、100歳で没)と並び称されるほどの著名な大物学者だった。2人の共通点はヨーロッパ生まれ(キッシンジャーはドイツ、ブレジンスキーはポーランド)、ナチズムから逃れた亡命者、ハーヴァード大学で博士号(キッシンジャーは政治学、ブレジンスキーは国際関係論)を取得、大統領国家安全保障問題担当大統領補佐官(キッシンジャーはニクソン政権・フォード政権[フォード政権では国務長官を兼任]、ブレジンスキーはカーター政権)に就任が挙げられる。
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ヘンリー・キッシンジャー(左)とズビグニュー・ブレジンスキー
 ブレジンスキーはまた、こちらもまた有名な学者だったサミュエル・P・ハンティントン(Samuel P. Huntington、1927-2008年、81歳で没)とは終生の友人だった。ハンティントンは、「諸文明間の衝突(The Clash of Civilizations)」を提唱したことで知られる。2人はほぼ同時期に、ハーヴァード大学大学院を修了した。学生時代から英才の誉れが高く、そのままハーヴァード大学に残っていたが、ハーヴァード大学での終身在職権(テニュア)付のポジションに就けず(リベラルな教授会に忌避された)、2人は揃ってニューヨークにあるコロンビア大学に移籍した。ハンティントンは1963年に懇願され、ハーヴァード大学に復帰したが、ブレジンスキーは復帰を拒否してコロンビア大学にとどまった。ブレジンスキーは、ニューヨークでの生活を気に入っていたという話が残っている。ハンティントンとブレジンスキーは性格こそ大きく違ったが、終生の友人関係を続けた。ブレジンスキーがジミー・カーター政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任した際には、安全保障計画調整担当として国家安全保障会議に招集した。2人は米連邦緊急事態管理庁(Federal Emergency Management AgencyFEMA)創設を行った。
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サミュエル・P・ハンティントン

・ヘンリー・キッシンジャー:ハーヴァード大学(1954-1968年)

・サミュエル・ハンティントン:ハーヴァード大学(1950-1958年)、コロンビア大学(1958-1962年)、ハーヴァード大学(1963-2008年)

・ズビグニュー・ブレジンスキー:ハーヴァード大学(1953-1959年)、コロンビア大学(1960-1989年)

 キッシンジャーとブレジンスキーは学者よりも、実務者としての面が強く、ハンティントンは大学人の面が強い。彼らはそれぞれの立場で大きな影響力を持った。ブレジンスキーはジミー・カーター政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官としてホワイトハウス入りしたが、サイラス・ヴァンス国務長官と対立し、ヴァンスから外交の実権を奪って活動した。1979年に発生したイラン革命に伴う、在テヘラン米大使館人質事件(1981年まで)では、反対を押し切り、米特殊部隊を起用しての人質救出事件を立案・実行し、失敗している。結果として、カーター政権の命運が尽きた事件となった。

 ブレジンスキーは、出身がポーランドということもあり(貴族であったブレジンスキー家の領地は現在のウクライナにあったそうだ)、ロシア(ソヴィエト連邦)を敵視し、ソ連によるアフガン侵攻では、ムジャヒディン支援を行った。ムジャヒディンにはオサマ・ビン・ラディンも参加していた。コロンビア大学時代の学生にはバラク・オバマがおり、オバマに大統領選挙に出馬するように勧め、陣営の外交顧問に就任したことでも知られる。民主党内のリベラルホーク(liberal hawk、国内問題ではリベラルな立場を取り、対外問題では強硬な姿勢を取る)であり、彼らの仲間の内、共和党に移っていた人々がネオコン派を形成している。リベラルホークは、民主党内の人道的介入派の源流ともなっている。

 しかし、対中国に関しては、ロシアをけん制するという意味もあり宥和的であり(カーター政権では米中国交正常化に取り組んだこともあり)、米中で世界を管理するG2路線に理解を示していた。その点でヘンリー・キッシンジャーと共通する。ブレジンスキーの反ロシア、反ソ連は骨絡みで、子供の頃からの信念、ポーランド貴族出身としての意地ということもあるだろう。冷戦の闘士であったブレジンスキーは現在の状況をどう見ているだろうか。そして、アメリカ外交政策に関して言えば、有名な大物学者が参加する、影響を与えるという時代は終わったと言えるだろう。そして、これはアメリカの世紀の終わりを示す1つの現象ということになるだろう。

(貼り付けはじめ)

地政学戦略家たちはどこへ行ってしまったのか?(Where Have All the Geostrategists Gone?

-ズビグニュー・ブレジンスキーの人生とその意義。

セオドア・バンゼル筆

2025年5月16日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2025/05/16/zbigniew-brzezinski-zbig-review-edward-luce/

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2010年の夏、蒸し暑い北京で会議を行き来しながら、ズビグニュー・ブレジンスキーに外交政策において最も大きな影響を与えたのは誰かと尋ねたことがある。当時、私はこの偉大な人物のリサーチアシスタントをしており、ぎこちなく時間をつぶそうとしていた。彼は少し間を置いて、困惑したような表情を浮かべた。「本当に誰も(Nobody, really)」と彼は答えた

第一印象では、ブレジンスキーの無表情な答えは自慢げだと思った。しかし、今にして思えば、ズビグ(彼の愛称)はただ正直だっただけだった。ポーランド生まれの戦略家であり、ジミー・カーター大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官として最もよく知られた彼は、安易なカテゴライズを逃れた人物だった。彼は民主党の冷戦の賢人(the Democrats’ Cold War sage)で、ロナルド・レーガン大統領の外交政策ティームにも崇拝者がいた。ジョージ・W・ブッシュ政権時代にはネオコンの宿敵(an arch-nemesis)だった根っからの対ロシア強硬派であり、バラク・オバマ米大統領の初期からの支持者でもあった。

ブレジンスキーは、同時代人で、ライヴァルでもあったヘンリー・キッシンジャーとしばしば比較される。2人は共にヨーロッパからの亡命者で、訛りの強いで話し、スター学者から国家安全保障問題担当大統領補佐官へと転身するという共通の経歴を持っていた。しかし、2人はアメリカの戦略に全く異なる視点からアプローチしていた。ドイツ生まれで旧世界のヨーロッパ外交を研究していたキッシンジャーは、アメリカの進路について悲観的な見方をし、ソ連については過大評価しており、デタント(détente、緊張緩和)を通じて米ソ両国の力の均衡(a balance of power)を図ろうとしていた。ソ連のイデオロギー的・政治的弱点を研究していたブレジンスキーは、東ヨーロッパを隷属させたモスクワに恨み(grudge)を抱き、冷戦においてアメリカが勝利すると確信していた。

ブレジンスキーの輝かしい生涯は、『フィナンシャル・タイムズ』紙のコラムニストであるエドワード・ルースによって鮮やかに語り直され、素晴らしい伝記となっている。ルースの著書は、思想家として、そして人間として、ブレジンスキーの真髄を捉えようとする初の試みである。辛辣なウィット、並外れた競争心、滑稽なほどのケチさ(comical tight-fistedness)、そして家族への優しくも揺るぎない献身。ルースは、この重要な新著でこれを見事に描き出し、アメリカ外交政策思想家たちの殿堂におけるブレジンスキーの地位を正当に高めている。

ルースの著書は多くの印象を残したが、中でも最も印象深いのは、アメリカがもはやブレジンスキーやキッシンジャーのような偉大な戦略家を生み出していないということだ。これは、第二次世界大戦の荒廃を経た世代が成熟し、世界秩序の問題に執着する思想家を輩出したという、彼らの世代の特殊性によるところもあるかもしれない。しかし、おそらくそれ以上に、現代のアメリカの外交政策立案における成功の要件に関係しているだろう。現代の巨大な国家安全保障国家、そしてブレジンスキー時代には数十人だった国家安全保障会議(NSC)自体でさえ、戦略的深みと同じくらい多くの運用上の専門知識をますます要求している。世界が大きく変貌を遂げているこの時代に、この地政学戦略家の不足は残念なことだ。キッシンジャーが2017年にライヴァルの訃報を受けた際に書いたように、「ズビグがその洞察力の限界を押し広げなければ、世界はより空虚な場所になる(The world is an emptier place without Zbig pushing the limits of his insights)」のだ。

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左:ブレジンスキーとジミー・カーター米大統領が1977年12月にエアフォースワンに搭乗している。右:イスラエルのメナヘム・ベギン首相(左)が、当時ホワイトハウスの国家安全保障問題担当大統領補佐官だったブレジンスキーとチェスの対局に臨む(1978年9月9日、メリーランド州キャンプ・デイヴィッドでの首脳会談にて)。

ブレジンスキーはポーランド人外交官の息子として生まれた。生まれてから10年間は​​断続的にしかポーランドに住んでいなかったが、ポーランドとその悲劇的な歴史はブレジンスキーの人生において大きな影を落とすことになった。1940年代のモントリオールで成人を迎えるまで、幼いズビグはポーランドの騎士や英雄を夢見ていた。高校時代には、国際関係におけるポーランド問題をテーマにした早熟なエッセイを書いた。

鉄のカーテンがポーランドと東ヨーロッパ諸国に降りる中、ブレジンスキーはその類まれな才能を敵国の研究に注ぎ込んだ。彼はロシア語を学び、1953年に当時黎明期にあったソヴィエト学(Sovietology)の分野でハーヴァード大学で博士号を取得した。ズビグが1960年に修士論文に基づいて著した『ソヴィエト圏:統一と対立(The Soviet Bloc: Unity and Conflict)』は、先見の明があり、かつ永続的な内容であった。彼は、ソヴィエト圏の民族分離、更にはソ連自体の民族の寄せ集め(バルト人からウクライナ人まで)が、最終的にソ連を破滅させるアキレス腱となると主張した。冷戦時代には、モスクワが汎ソ連的な市民意識をうまく醸成したという主張が盛んに行われていたが、ブレジンスキーはしばしばこう反論した。「それでは、彼らはソヴィエト語を話しているのか?(So do they speak Soviet?)」

ハーヴァード大学教授、それからコロンビア大学教授となり、ブレジンスキーの関心は次第にワシントンへと向けられていった。リンドン・B・ジョンソン政権時代に国務省に短期間勤務した際には、東ヨーロッパをモスクワから引き離すために平和的な関与(peaceful engagement)を提唱した。しかし、ブレジンスキーが国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任したことで、彼はアメリカ外交のコックピットに座ることになった。カーター政権内でズビグの最大のライヴァルであったサイラス・ヴァンス国務長官は、ソ連との関係安定化を支持していたのに対し、ブレジンスキーはデタントを一方的な交渉と見なしていた。内部での影響力争いで、彼はヴァンスを昼食代わりに食べ、カーターの耳目を独占した。ブレジンスキーがホワイトハウスに近かったせいもあるが、ズビグは新しいアイデアと愉快な仲間の宝庫でもあった。あるとき、カーターがソ連の歴史を教えて欲しいと頼んだとき、ブレジンスキーは、レーニンのもとでは「復興集会(a revival meeting)のようだった、スターリンのもとでは監獄(a prison)のようだった、フルシチョフのもとではサーカス(a circus)のようだった、ブレジネフのもとではアメリカ合衆国郵便公社(a United States Post Office)のようだった」と答えた。

ブレジンスキーは影響力を行使して、膠着状態にあったデタントにナイフを突き刺した。ニクソンとキッシンジャーによる対中開放を土台に、カーターは1979年に北京との関係を完全に正常化した。小柄な鄧小平と、モスクワに対する相互の反感に基づく深い信頼関係を築いた。ブレジンスキーがヴァージニア州の自宅で開いた晩餐会では、レオニード・ブレジネフお気に入りのウォッカで米中友好を祝った。キッシンジャーは、対中開放はアメリカをモスクワと北京の両方に近づける優雅な「戦略的三角形(strategic triangle)」を生み出すと主張していた。ブレジンスキーはその代わりに、ソ連に対抗して米中関係を操作した。1979年のクリスマスにソ連が侵攻した際、カーター政権は中国の助けを借りてアフガニスタンの抵抗勢力を支援し、ソ連を永続的な泥沼(an enduring quagmire)に沈め、その崩壊(demise)を加速させた。

ブレジンスキーはまた、ソヴィエトをイデオロギー的に守勢に立たせる方法として、カーターの人権擁護を奨励したが、モスクワとの協力関係を維持したい国務省関係者の反発を招いた。この追求においてブレジンスキーは、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世という偶然のパートナーを見つけた。ルースは、戦略家とローマ法王の感動的な往復書簡を掲載し、この重要な歴史的関係を鮮明に回想している。

しかし、ブレジンスキーの遺産を永久に傷つけたのはイランだった。皮肉なことに、ズビグは1979年のイラン革命の危険性について先見の明があった。彼は1917年のロシアの影を見ていたし、ウィリアム・サリヴァン米大使のように、ホメイニ師を「ガンジーのように」なる可能性を持つ重要人物(a potential “Gandhi-like” figure)と見る人もいた。しかし、ズビグは、彼が提唱し、大失敗に終わり、カーターの選挙の運命を決定づけた、テヘランでのアメリカ人人質救出作戦「イーグル・クロー作戦(Operation Eagle Claw)」と永遠に結びつくことになる。

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1979年11月9日、人質事件の最中にテヘランの米大使館の屋上に集まったデモ参加者たちがアメリカ国旗に火をつけている。

ブレジンスキーはまた、イラン情勢の背後にソ連の関与があると過度に疑心暗鬼に陥っていた。カイ・バードによるカーター元大統領の伝記『アウトライアー(The Outlier)』では、ブレジンスキーは無謀な超タカ派(a reckless superhawk)として描かれ、「地政学的なゴブルディゴック(geostrategic gobbledygook[難解な、意味不明な言葉])」(ストローブ・タルボットがかつて『タイム』誌で表現したように)に傾倒し、至るところにソ連の影を感じている人物として描かれている。この風刺画には一片の真実も含まれている。ズビグは1980年のカーター・ドクトリン(Carter Doctrine)の立案者であり、このドクトリンはアメリカが「外部勢力(outside force)」(つまりモスクワ)によるペルシャ湾支配の試みを阻止することを約束した。今にして思えば、ソ連が終末的な衰退へと突き進む中で、この地域へのソ連の進出の脅威はあまりにも誇張されていたと言えるだろう。

その9年後、鉄のカーテンが崩壊し、ブレジンスキーの少年時代と職業上の夢が実現した。ブレジンスキーはそのわずか数カ月前に共産主義の崩壊が間近に迫っていることを予言し、1989年の著書『大いなる失敗――20世紀における共産主義の誕生と終焉』の中でミハエル・ゴルバチョフの改革努力は絶望的であると力説した。フランシス・フクヤマは、「ブレジンスキーほど、歴史的な出来事の実際の流れによって正当性が証明された人物はいない」と書いている。そしてソ連は、40年前にズビグが修士論文で予見したように、構成民族に分解した。

ルースは、ブレジンスキーが冷戦時代にはアメリカの能力について楽観的であったにもかかわらず、その後、アメリカがグローバル・リーダーのマントを担う能力については皮肉屋に転じたことを鋭く指摘している。ズビグは、ジョージ・HW・ブッシュがスローガン以上の「新しい世界秩序(new world order)」のヴィジョンを具体化できなかったことを悔やみ、ビル・クリントン政権がイスラエルとパレスチナの恒久和平に失敗したことを批判した。ブレジンスキーは、ジョージ・W・ブッシュのイラク戦争を即座に痛烈に批判し、対テロ世界戦争を「準神学的」な不条理(“quasi-theological” absurdity)だと断じた。

ズビグがよく知るロシアについては、彼は特徴的に予言的であった。ブレジンスキーは、ソヴィエト連邦崩壊後のロシア連邦が間もなく報復主義(revanchism)に取り込まれると予言し、西側の利益を強固にするためにNATOの東方拡大を提唱した。この予言の中で、ブレジンスキーはウクライナの中心性に焦点を当てた。彼は1994年に、「ウクライナがなければロシアは帝国ではなくなるが、ウクライナが従属し、そして従属させられれば、ロシアは自動的に帝国になる(without Ukraine, Russia ceases to be an empire, but with Ukraine suborned and then subordinated, Russia automatically becomes an empire)」と書いている。彼の予測がなんと正しかったことか。

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左上から時計回りに:ブレジンスキーとマデレーン・オルブライト元米国務長官(2006年、ワシントンにて)、ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官(2016年、オスロにて)、ドナルド・トゥスク・ポーランド首相(2008年、ワシントンにて)、潘基文国連事務総長(2012年、ワシントンにて)。

何が優れた戦略思考者を作るのか? 歴史的視点、政治的意志を直感的に読み取る能力、そして軍事から人間心理に至るまでの様々な分野の統合だ。ブレジンスキーはこれらの資質を全て見事に体現していた。彼の理論は、政治、イデオロギー、そして社会発展という多様な要素を統合し、鋭くも学術的な文体で表現していた。その典型は、1970年に出版された著書『二つの時代の狭間:テクネトロニック時代におけるアメリカの役割(Between Two Ages: America’s Role in the Technetronic Era)』に象徴されている。

優れた戦略家の特徴としてしばしば過小評価されるのが、独創的な思考力だ。ズビグはそれを自分の中で大事に育んだ。ブレジンスキーは、ワシントンの集団思考(gtoupthink)を助長するようなことは決してしなかった。ブレジンスキーは、望ましくない影響を避けるため、自分が執筆しているテーマに関する意見記事を読んだり、重要なスピーチをしたりすることを意図的に避けていた。私はブレジンスキーのリサーチアシスタントとして、彼が外国の視点をより深く理解できるよう、毎週国際新聞の速報記事をまとめていた。

知的な面で恐れを知らないことも重要であり、それはしばしば鋭い攻撃を伴う。ブレジンスキーはなかなか魅力的で、ジョージタウン(ワシントン)の社交界よりも家族を優先する姿勢で、多くの同僚とは一線を画していた。しかし、タカ派の顔立ちは、彼の使命感と物事への真摯なアプローチを露呈していた。彼は国務省をはじめとするあらゆる部署で、巧妙にライヴァルを出し抜き、更にそれを大いに楽しんでいた。かつて彼は、カーター政権時代に関するある本で、ブレジンスキーの描写が「マキャベリがボーイスカウトのように見えるようにさせた」と自慢げに語ったことがある。

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ワシントンの事務所にいるブレジンスキー(1981年12月1日)

しかし、ブレジンスキーの最もマキャベリ的な駆け引きは、権力のために権力(power for power’s sake)を求めるのではなく、理念の追求(the pursuit of idea)に向けられた。ルースによれば、ジョンソン政権下でズビグは、ロバート・F・ケネディがジョンソンの冷戦政策を批判する演説を予定しているという作り話をでっち上げ、大統領がブレジンスキーの東ヨーロッパ戦略を盛り込んだ演説でライヴァルに先手を打つよう仕向けた可能性が高い。ブレジンスキーは当然ながら人気と報道に恵まれていたが、人気は常に二の次であり、自らが正しいと考えることを主張することの方が重要だった。ズビグは初期から二国家共存の解決(a two-state solution)とイラク戦争反対を強く訴え、ワシントンの多くの場所で疎外されたが、それでも決して諦めなかった。

アメリカの外交政策におけるリーダーシップの必要条件は、ブレジンスキーの全盛期とは根本的に変化しており、ズビグのような地政学戦略家はかつてないほど見つけにくくなっている。ブレジンスキーはNSCを大学のゼミのように運営していた。20人ほどのスタッフがそれぞれ異なる地域を担当し、1つのテーブルを囲んで座っていた。しかし、今日の国家安全保障官僚機構はあまりにも巨大で複雑であるため、深い地政学的思考はあっても十分ではない。膨大な資料を処理し、経済と国家安全保障の分野横断的な課題に取り組むには、ブレジンスキーには到底及ばなかったであろうスキルと姿勢が求められる。国際関係論の著名な学者も姿を消した。かつてないほど細分化され専門化された学界は、そのような学者を輩出していない。そして、国民の関心が内向きになるにつれ、彼らも彼らに価値を見出さなくなっている。

ブレジンスキーは晩年、アメリカ人の外交問題に対する無知を一貫して嘆いていた。例えば、アメリカの高校生の3分の1が地図上で太平洋の位置が分からないといったエピソードを、演説に盛り込み、説得力を持たせていた。このようにブレジンスキーは、ジョージ・ケナンのような国際関係論学者の偉大な伝統を受け継いでいた。ケナンは、アメリカの一般国民の唯物主義と浅薄さ(materialism and superficiality)を、時代錯誤に聞こえるほどに嘆いていた。しかし、アメリカが旧来の同盟関係から離脱し、自国中心主義とポピュリズムに囚われつつある今、この点においてブレジンスキーは再来した予言者だったのかもしれない。

※セオドア・バンゼル:ラザード・ジオポリティカル・アドバイザリーのマネージングディレクター兼責任者。以前は駐モスクワ米大使館の政治部と米国財務省に勤務した。2008年から2010年まで、ズビグニュー・ブレジンスキーのリサーチアシスタントを務めた。

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 古村治彦です。
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 アメリカの外交政策において、学識経験者や専門家が重責を担ってきた。その代表例がヘンリー・キッシンジャーだ。彼はハーヴァード大学教授から、国務長官と国家安全保障問題担当大統領補佐官に転身した。その他に、コロンビア大学教授だったズビグニュー・ブレジンスキーやスタンフォード大学教授だったコンドリーザ・ライスといった人々が国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めた。
 国家安全保障問題担当大統領補佐官は戦後の1952年にドワイト・アイゼンハワー大統領時代に設置された。今ではホワイトハウスにおける外交政策の指揮官として、国家安全保障会議を主宰するなど最重要のポストになっている。国家安全保障会議のスタッフとして、学識経験者が入ることも多い。

 下記論稿の著者ジェレミ・スリは、トランプ大統領が国家安全保障の専門家を排除し、政治家を重視したため、国家安全保障の能力が低下していると批判している。スリは、トランプの政権では、熟練した専門家が解任され、意思決定の質が著しく低下した。これに伴い、無知や不適切な判断がもたらされたとして不安が広がっていると批判している。

 アメリカの外交政策の大きな流れには、リアリズム(現実主義)とアイディアリズム(理想主義)とう2つの潮流がある。このことは、このブログでも何度も書いているし、拙著でも何度も触れている。アメリカの外交政策が失敗するのは多くの場合、アイディアリズムが採用されている時だ。アイディアリズムで世界を変えるということで、外国に介入して多くの場合に失敗している。最近の例で言えば、ジョージ・W・ブッシュ政権時代にネオコンが主導したアフタにスタンとイラクへの侵攻が挙げられる。

 このような失敗と専門家の学識が結びつけられ、専門家たちへの信頼が揺らいでいる。そのことに、下記論稿の著者スリのような専門家たちが気付くべきだ。学問上の理論であれば、何でも言える。しかし、問題はその理論を実践に使って失敗してしまう時だ。それで大きな傷や負担を追うのは国民である。それに対して、専門家たちは何か責任を取るとか、謝罪をするとか、反省するとかそういう姿勢を見せてきただろうか。この点は学術界全体として大いに反省すべきだと私は考える。専門家たちがアメリカの外交政策に対して大いなる貢献をしたことは間違いないが、専門家たちが増上慢となり、過度なエリート主義を持ってしまえば、大きな失敗をして、民意と乖離する結果となってしまう。その大きな動揺が現状であると言えるだろう。

(貼り付けはじめ)

何世代にもわたる専門家がいかにしてアメリカの力を築き上げてきたか(How Generations of Experts Built U.S. Power

-そして今、トランプはそれを全て捨て去ろうとしている。

ジェレミ・スリ

2025年4月17日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2025/04/17/trump-national-security-experts-loyalists-intelligence-community-purge-history-geopolitics/

プロイセンの軍事理論家カール・フォン・クラウゼヴィッツは、戦争は「政策を別の手段で継続するに過ぎない(mere continuation of policy by other means)」という有名な言葉を残しているが、戦争が単なる政治である(war is merely politics)とは考えていない。1832年に発表されたクラウゼヴィッツの影響力ある論文『戦争論(On War)』は、複雑な国防を管理する上で、訓練(training)、専門性(expertise)、そして卓越した才能(exceptional talent)が果たす重要な役割について深く考察している。戦争には、技術的技能(technical skill)、組織力(organizational acumen)、歴史的知識(historical knowledge)、そして戦略的洞察力(strategic insights)が必要だ。勇気と強靭さは必要不可欠だが、これらの資質は学問の代わりにはならないとクラウゼヴィッツは述べている。戦争はあまりにも危険であり、素人や偽善者に任せておくべきものではない。

大陸軍(the Continental Army)の創設以来、アメリカ人は常に防衛管理において専門知識を求めてきた。ジョージ・ワシントンが革命軍(the revolutionary military)の指揮官に選ばれたのは、イギリス陸軍での豊富な経験があったからだ。彼の兵士たちは未熟な戦士だったが、彼はそのリーダーシップに知識をもたらした。彼が兵士たちに高く評価された主な理由の1つは、戦闘での波乱に満ちた記録ではなく、知識をもたらす能力だった。

トーマス・ジェファーソン大統領は軍国主義(militarism)を嫌悪していたにもかかわらず、1802年にエリート陸軍士官学校であるウェストポイント陸軍士官学校を設立した。これは、建国間もない国家の防衛を担う最高レヴェルの指導者を育成するためのものだった。ウェストポイントの初代校長ジョナサン・ウィリアムズ陸軍少佐は、軍の指導者にとっての学問の重要性を強調した。ウィリアムズは「私たちの軍の士官は科学者であり、その学識によって学術界から注目されるに値する者でなければならないことを、私たちは常に心に留めなければならない」と述べた。

1884年、アメリカ海軍はさらに一歩進み、「戦争に関するあらゆる問題、そして戦争にまつわる政治手腕、あるいは戦争の予防に関する独創的な研究」を行う大学院機関であるアメリカ海軍戦争大学を設立した。この新設機関の初代学長スティーブン・ルース海軍中佐は、成功する軍の指導者にとって教育がいかに重要であるかを強調した。彼は、経験豊富な海軍司令官がより「完全な存在(complete creature)」となることを望んだ。そうでなければ、「私たちの教育を受けていない船員は、イギリスとフランスの訓練された砲兵に対抗するチャンスはないだろう」とルースは警告を発した。

ウェストポイントと海軍戦争大学は、第二次世界大戦後、アメリカが半球の強国(a hemispheric power)から卓越した世界覇権国(the preeminent global hegemon)へと成長を遂げた際、アメリカ外交政策の画期的な転換の不可欠な基盤となった。1945年、アメリカ陸軍将兵は各大陸の軍事拠点を占領し、アメリカ海軍将兵は世界の主要な海域を哨戒し、アメリカ空軍将兵は世界中の空を制覇し、アメリカの科学者たちは「絶対兵器(absolute weapon)」である原子爆弾を投下した。

アメリカの力は、最高指導者の訓練や専門知識をはるかに凌駕していた。ハリー・トルーマン大統領は大学の学位を持っておらず、第一次世界大戦での軍事経験も浅く、物理学を学んだこともなかった。彼の最初の陸軍長官であったヘンリー・スティムソンは、アメリカが国際的野心も能力も限られていた1890年代初頭にキャリアをスタートさせていた。ヨーロッパでの連合国軍の勝利を指揮したドワイト・アイゼンハワー大将は、アメリカ軍はすぐにでも大陸から撤退しなければならないと予想していた。1945年当時でさえ、アメリカはグローバルなリーダーシップを発揮した経験がなかった。

トルーマン、スティムソン、アイゼンハワー、そして同世代の多くの人々にとって最大の功績は、国家安全保障に関する新たな機関の創設に資金を投じたことだろう。これらの機関は、国家が新たに獲得した力と責任を担う上で、訓練を受けた専門家で満たされていた。「国家安全保障(national security)」は、近代戦争への軍事、外交、そして技術的準備、そして戦争を阻止するための様々な取り組みが交差する領域を指す新しい専門用語となった。

新たな国家安全保障専門家の育成と配置には、ウェストポイントと海軍戦争大学の経験が活かされた。アメリカの指導者たちは、戦争から帰還した優秀な陸軍兵、水兵、空軍兵を募集し、1947年の国家安全保障法に基づいて設立された新たな機関の一員とした。政府の資金援助を受けて高等教育を受ける機会を得た退役軍人たちは、新設された国防総省、秘密主義のCIA、そして初期の原子爆弾を管理した原子力委員会といった官僚組織に多数参加した。

陸軍や海軍の前任者たちと同様に、第二次世界大戦後の国家安全保障専門家たちは、それぞれの戦争関連分野における最高レヴェルの知見を政府に持ち込み、脅威、機会、そして戦略について政治指導者に助言する任務を負っていた。連邦議会は、大統領、副大統領、そして内閣に政府の最高の専門知識を提供するために、ホワイトハウスに国家安全保障会議(National Security CouncilNSC)を設置した。政策決定は政治家に委ねられたが、それは彼らが核時代の戦争と安全保障に関する最も深い知識に触れた後にのみ行われた。

1952年、アイゼンハワーはロバート・カトラーを国家安全保障問題担当大統領特別補佐官[special assistant to the president for national security affairs](後に「国家安全保障問題担当大統領補佐官(national security advisor)」と呼ばれる)に任命した。ワシントン以外でカトラーの名を知る人はほとんどいなかったが、彼は専大統領と内閣への専門家から情報の流れを管理していた。カトラーとアイゼンハワーにとって、国家安全保障プロセスの目的は、アメリカの力と財源を国益の促進に活用するための最善の選択肢をホワイトハウスに持ち込むことだった。大統領が兵器の配備、援助の分配、同盟の形成、共産主義の進出の阻止について情報に基づいた決定を下すには、技術的な正確さ、問題に関する専門知識、政策経験が不可欠だった。

NSCはワシントンの冷戦政策立案の重要な中心となった。NSCで議論されるブリーフィングやオプションペーパーに情報を提供する専門家は、政府官僚、大学、ランド研究所、ブルッキングス研究所などのシンクタンクに多くいた。アメリカの外交政策は、ヨーロッパや日本の復興、軍備管理の追求、国際的な経済開発など、その最盛期には、最も鋭敏な頭脳の知識を意思決定に反映させていた。アメリカの外交政策において最も影響力のある選挙を経ていない専門家の中には、マクジョージ・バンディ、ヘンリー・キッシンジャー、ズビグニュー・ブレジンスキー、ブレント・スコウクロフト、コンドリーザ・ライスなど、国家安全保障問題担当大統領補佐官として働いていた者もいる。

もちろん、国家安全保障の専門家たちは、特にヴェトナム戦争やイラク戦争を支持したことで、重大な過ちを犯した。しかし、彼らは70年以上にわたって、比較的安定した国際秩序を管理するのに貢献した。アメリカの国家安全保障システムは、軍事力、経済力、ソフト・パワーを駆使して世界に影響を与え、おおむねアメリカの利益に資するような形で、大統領に適切な選択肢を与えた。アメリカは安全保障を維持し、あらゆる大陸で同盟関係を管理し、経済成長の恩恵を受け、ついに主要な敵対国であったソ連が崩壊するのを見た。専門家は、核戦争やその他の世界的大災害を防ぐのに役立った。アメリカの国家安全保障の専門家たちは、海外の専門家たちと協力しながら、国際法や人権を擁護し、外交政策の文明化に貢献したと主張する学者もいる。

ドナルド・トランプ大統領は、アメリカの外交政策から国家安全保障の専門家を排除し、政権の国益追求能力を低下させている。彼は国家安全保障のトップに政策の専門家ではなく、忠実な政治家を据えた。マイク・ウォルツは、選挙で選ばれた政治家として初めて安全保障問題担当大統領補佐官に就任した。マルコ・ルビオ国務長官も選挙で選ばれた政治家であり、ジョン・ラトクリフCIA長官やトゥルシ・ギャバード国家情報長官も選挙で選ばれた政治家だった。ピート・ヘグセス国防長官は二流のTVニューズキャスターだった。これらの人物はいずれも、国家安全保障問題に関して本格的な専門知識を持っている訳でもなく、専門家のコミュニティと深いつながりがある訳でもない。どちらかといえば、彼らは専門家を敵視しているからこそ、トランプに選ばれたのだ。

知識と能力の欠如は、3月にトランプ大統領の国家安全保障の最高責任者が、安全でない、「シグナル」のメッセージング・チャンネルを通じて、アメリカ軍のイエメンに対する攻撃計画に関する詳細な情報を『アトランティック』誌編集者のジェフリー・ゴールドバーグと不注意にも共有したことで、憂慮すべき低水準に達した。彼らが漏らした情報は、敵国が攻撃を妨害し、アメリカ軍関係者の安全を脅かすために使われる可能性があった。この災難に責任のある明らかに無能な役人は、誰も解雇されず、辞任もしていない。

トランプ大統領が4月初旬に行ったのは、国家安全保障システムの最高幹部に近い、最も有能な専門家数名を解雇することだった。極右の911陰謀論者ローラ・ルーマーの助言を受けたとみられるが、トランプ大統領はティモシー・ハウ大将を解任した。ハウ大将は、通信諜報を担当する国家安全保障局(National Security AgencyNSA)と、外国のハッキングやサイバーテロからアメリカを守る任務を担う米サイバー軍の両方を率い、世界的に尊敬されている四つ星将軍だった。ハウ大将の文民副官ウェンディ・ノーブルも解任された。国家安全保障会議(NSC)では、技術と諜報の分野で高く評価されている専門家たちも解任された。トランプ大統領はこれに先立ち、統合参謀本部議長と海軍作戦部長という、更に2人の尊敬される軍指導者を解任している。

その理由は、トランプ大統領への忠誠心が足りなかったからだという。しかし、これらの専門家や解雇された他の数百人の専門家が、研究対象の証拠と論理に従う以外のことをしたという証拠はない。彼らは効果的な政策を行うために必要な知識を追求し、その知識が導く先を大統領とその政治的支持者が好まなかったために職を失った。これはワクチンが効くことを否定することに等しいが、国家安全保障の場合は、サイバー防衛、核兵器、そして中国、イラン、北朝鮮との戦争の見通しなど、賭け金は更に高くなる。

アメリカの最も強力な外交政策手段が、無知で経験が浅く、適切な意思決定に必要な知識から切り離された人々によって管理されていることを、私たちは今認識しなければならない。今後数カ月以内に深刻な軍事衝突が起きれば、トランプ政権は無能さを露呈し、有害な間違いを犯すだろう。最近のウクライナ支援の放棄、明らかに嘘のクレムリンのトーキングポイントを採用するトランプ大統領の奇妙な行動、そして悲惨な関税発表は、国家安全保障に関する行き当たりばったりで無秩序な意思決定の兆候であり、世界はこれから4年近くこのような状況を見ることになるだろう。

反専門家のリーダーシップ(ani-expert leadership)は、第二次世界大戦後のほとんどの時代を特徴づけていた、思慮深く慎重な政策決定を覆すものだ。専門知識は、アメリカの安全保障(security)、安定(stability)、そして繁栄(prosperity)を守る上で役立ってきた。専門知識の欠如は、さらなる不確実性と軽率な行動をもたらすだろう。国家安全保障の専門家がいなければ、アメリカの外交政策は、国家と国民を守るための十分な準備が整わないだろう。

クラウゼヴィッツは私たちに、戦争は政治の問題であるということを思い出させるが、同時に、その問題に対する知的な真剣さも必要だ。テレビやソーシャルメディアで大統領、国防長官、あるいは将軍を演じている者たちは、現代の戦場の複雑さに対応できていない。クラウゼヴィッツが軽蔑した自信過剰なヨーロッパ貴族たちのように、彼らは誇り高き社会を驚くべき敗北へと導くだろう。

※ジェレミ・スリ:テキサス大学オースティン校のマック・ブラウン記念国際問題リーダーシップ特別教授、テキサス大学歴史学部、リンドン・B・ジョンソン公共政策大学院の教授。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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『トランプの電撃作戦』
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世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。

 2023年12月15日に、副島隆彦先生の最新刊『中国は嫌々(いやいや)ながら世界覇権を握る』が発売になります。

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中国は嫌々ながら世界覇権を握る

 以下にまえがき、目次、あとがきを掲載します。是非手に取ってお読みください。

(貼り付けはじめ)

まえがき 中国人がいま本気で考えていること  副島隆彦(そえじまたかひこ)

この本の書名は「中国は嫌々(イヤイヤ)ながら世界覇権を握る」である。なぜ中国が「嫌々ながら世界覇権を握る」のか。そのことを説明することから始める。
大きく言うと、ウクライナ戦争はロシアが勝つ。今のような戦争状態はもう続かない。何らかの形の停戦がある。停戦が破られてもどうせ膠着(こうちゃく)状態になる。
世界が第3次世界大戦に入り、核戦争の可能性もある。この問題については、後ろのほうで書く。

ヘンリー・キッシンジャー博士がちょうど100歳で死んだ(11月29日)。この人が世界皇帝であったデイヴィッド・ロックフェラーの代理だった。
キッシンジャーは、2023年7月19日に北京へ向かい、このあと更迭された李尚福(りしょうふく)国防部長と会っている。

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(新聞記事貼り付けはじめ)

「100歳キッシンジャー氏、軍同士の対話復活探る 中国国防相と会談」

 米国のキッシンジャー元国務長官が中国を訪問し、7月19日に北京で李尚福国務委員兼国防相と会談した。李氏が米国の制裁対象となっていることが、米中が国防分野での対話を再開できない大きな要因となっているが、中国側は米国の対応次第で再開の意図があることを改めて示した。

 キッシンジャー氏はニクソン米政権の大統領補佐官として極秘訪中し、米中の国交正常化に道筋を付けた立役者。100歳となったキッシンジャー氏は現在の米中関係の緊張に危機感を持っており、2019年に習近平国家主席とも会談するなどいまでも中国側からの信頼は厚い。(朝日新聞 2023年7月18日)

 (新聞記事貼り付け終わり)

キッシンジャー博士が死んでも、当分の間(あいだ)は核戦争は起きない。なぜなら、核戦争を食いとめるためにヘンリー・キッシンジャーという大御所が存在したからだ。この構造はすぐには変わらない。だから大丈夫である。

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=====

『中国は嫌々(いやいや)ながら世界覇権を握る』 目次

まえがき 中国人がいま本気で考えていること ──3

第1章  中国が嫌々ながら世界覇権を握る理由

目の前に迫るアメリカの没落 ──16
アメリカはもはや核ミサイルを打てない ──21
世界覇権が「棚からぼたもち」で中国のものになる ──26
「賃労働(ちんろうどう)と資本の非和解的(ひわかいてき)対立」という中国の大問題 ──30
人権は平等だが、個人の能力は平等ではない ──36
李克強の死 ──44
アメリカに通じた大物たちの〝落馬〟 ──48
中国の不動産価格は落ち着いていく ──49
民衆にものすごく遠慮している中国共産党 ──53
統一教会に対して空とぼけている連中 ──57

第2章  中国はマルクス主義と資本主義を乗り越える

中国は自分たち自身の過去の大失敗を恥じている ──68
鄧小平と Y=C+I ──78
ジャック・マーを潰すな ──85
中国が気づいた有能な資本家の大切さ ──90
中国版のオリガルヒを絶対に潰さない ──97
中国は他国に攻め入るどころではない ──100
イデアとロゴス ──102
賃労働と資本 ──107
「賃労働と資本の非和解的対立」について ──111

第3章  中国と中東、グローバルサウスの動き

ハマスを作ったのはCIAである ──120
パレスチナの若者はハマスに騙されて死んだ ──126
中国が成し遂げたイランとサウジの歴史的仲直り ──128
もうこれ以上アメリカに騙されない中東諸国 ──134
追い詰められているのはディープステイト ──136
一帯一路、発足10年で強まるヨーロッパとの関係 ──138
グローバルサウスの結集 ──154
進むアメリカの国家分裂 ──159

第4章  台湾は静かに中国の一部となっていく

ムーニーの勢力にヘイコラする日本 ──164
何よりも台湾人は中国人である ──170
台湾軍幹部の9割は退役後、中国に渡る ──175
基地の島、金門島の知られざる現実 ──182
ラーム・エマニュエルという戦争の火付け役 ──184

第5章  中国経済が崩壊するという大ウソ

ファーウェイ Mate60pro の衝撃 ──190
中国の勝利に終わった半導体戦争 ──195
半導体製造にまで進出するSBI ──202
アメリカが80年代に叩き潰した日本の半導体産業の真実 ──205
日本人が作った革新的な技術 ──208
量子コンピュータは東アジア人しか作れない ──212
アメリカが敗れ去った量子暗号通信技術戦争 ──213
EVという幻想 ── 218
TSMCの奪い合いこそが「台湾有事」の本態 ──221
世界を牛耳る通信屋たちの最大の弱点 ──225

あとがき ──228

=====

あとがき

 私が、この本で描きたかったことは。中国がもうすぐ次の世界支配国になる。アメリカ帝国は早晩(そうばん)崩(くず)れ落ちる。そのとき中国人は、どういう新(しん)思想で世界経営(けいえい)をするか、という課題だ。

 今の中国人は、総体としてもの凄(すご)く頭がいい。文化大革命の大破壊のあとの44年間を、ずっと苦労して這(は)い上がって来た。このことが私は分かる。中国(人)は、もうイギリス(大英帝国。ナポレオンを打ち倒した1815年からの100年間)と、アメリカ帝国(1914年からの100年間)の2つの世界覇権国(ヘジェモニック・ステイト)がやった、ヨーロッパ白人文明(ぶんめい)(実は帝国が文明も作るのである)の救済(サルベーション)と博愛思想[フラターニティ](代表キリスト教) の偽善(ぎぜん)と騙(だま)しによる世界管理はやらない。棚(たな)からぼた餅(もち)が落ちてくる。嫌々(いやいや)ながらの世界覇権国だ。

 中国は、カール・マルクスが発見した「賃労働(者)[ウエイジレイバラー]と資本(家)[カピタリスト]の非和解的対立」を何とか、180年ぶりに部分的に乗り越える新(しん)思想(イデー)で、世界を良導(りょうどう)しようと思っている。それを見つけることができるか。全てはここに掛(かか)っている。私自身の1973年(大学入学、20歳)以来の丁度50年間のマルクス思想との浮沈(ふちん)、泥濘(でいねい)でもある。

 中国は、もう核戦争と第3次世界大戦の脅威さえも乗り越えた。そんなものは怖くない、という段階まで一気に到達した。私は誰よりも早くこのことに気づいた。

 何という大ボラ吹きの大言壮語(たいげんそうご)を、と思われることはすでに計算のうちだ。先へ先へ、未来へ未来へと、予言(プレディクション)で突き進まなければ、知識・思想・言論を職業(生業[なりわい]) としてやっていることの意味がない。すでに私には、村はずれの気違い(village idiot、ヴィレッジ・イデオット)の評価がある。私だけは他のどんな知識人たちよりも、大きな言論の自由(フリーダム・オブ・エクスプレッション) を、この国で保障されている。しかも、出版ビジネス(商業出版物) としての信用の枠にもきちんと収まっている。

 この本を急速に書き上げるために、ビジネス社編集部の大森勇輝氏の優れた時代感覚に

大いに助けられた。記して感謝します。

2023年11月

副島隆彦

(貼り付け終わり)

(終わり)

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ビッグテック5社を解体せよ

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 ヘンリー・キッシンジャー逝去のニューズは日本のテレビニューズでも報じられた。視聴者の多くは「そんな人もいたね」というよりは、「この人は偉い人なの?誰なの?」という疑問を持ったに違いない。キッシンジャーとはどのような人物であったのか、ということにつちえ、アメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』誌に掲載された追悼記事(obituary)をご紹介したい。

 キッシンジャーは学問の世界、現実政治の世界の両方で成功を収めた人物である。彼の行動指針は「リアリズム(realism)」「現実政治(realpolitik)」だった。リアリズムは、理想、道徳、価値観にとらわれない。キッシンジャー自身はリアリズムについて、「国際システムは不安定の中に生きている。あらゆる "世界秩序 (world order"は永続性への願望(aspiration to permanence)を表現している。しかし、それを構成する要素は常に流動的(constant flux)である。実際、世紀が進むごとに、国際システムの持続期間(duration)は縮まっている」と定義している。

 キッシンジャーのリアリズムは、私たちが日本の将来について、外交政策について考える際にも参考になるものだ。そして、キッシンジャーのいない世界は、これから更に不安定さを増していく。そして、最悪の事態まで突き進む可能性も高まる。核兵器を使用する、第三次世界大戦を私たちは目撃するかもしれない。

(貼り付けはじめ)

追悼記事(Obituary

ヘンリー・キッシンジャー、世界の舞台に屹立した大巨人(Henry Kissinger, Colossus on the World Stage

-この故人となった政治家はリアルポリティックス(realpolitik)の達人だった。ある人々は彼を戦争犯罪人(war criminal.)だと考えた

マイケル・ハーシュ筆

2023年11月29日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2023/11/29/henry-kissinger-obituary-cambodia-war-crimes-secretary-of-state/

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インタヴューを受けているキッシンジャー(1980年8月にワシントンにて)

アメリカ史上最も影響力を持つ政治家(statesmen)の一人であるヘンリー・アルフレッド・キッシンジャーが11月29日に100歳で亡くなった。アメリカ外交の偉大な勝利と悲劇的な失敗のいくつかに貢献した長く波乱に満ちたキャリアの末の逝去となった。

ドイツ生まれで、ナチズムからの難民として15歳でアメリカに渡ったキッシンジャーは、第二次世界大戦後、最も画期的な(epoch-making、エポックメイキング)な外交成果をいくつも残したと言われている。冷戦期の平和を維持するためにソヴィエト連邦との緊張緩和(détente、デタント)を開始し、上司であるリチャード・ニクソン(Richard Nixon)大統領とともに、1972年に共産主義中国との関係を開くことによって、この40年にわたる対立の条件を劇的に変化させたことなどがその例だった。

ニクソン大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官、そして国務長官という2つの役割を兼任したキッシンジャーは、おそらく中東交渉で最も成功した人物であり、4つのアラブ・イスラエル合意を生み出した「シャトル外交(shuttle diplomacy)」の技術を生み出した。そうすることで、彼は「世界において激動する地域にアメリカ主導の新しい秩序を確立し、アラブ・イスラエル和平の基礎を築いた(established a new American-led order in that turbulent part of the world and laid the foundations for Arab-Israeli peace)」と、『ゲームの達人:ヘンリー・キッシンジャーと中東外交術(Master of the Game: Henry Kissinger and the Art of Middle East Diplomacy)』の著者である、ヴェテランの中東交渉官のマーティン・アインディクは書いている。

一部の伝記作家の見解では、キッシンジャーは、アメリカの冷戦の封じ込め戦略の主要な設計者として成功させた(he principal author of America’s successful Cold War containment strategy)ジョージ・ケナン(George Kennan)や、その他の、第二次世界大戦後の世界システムの神聖な立役者たちと並ぶ地位にある。「キッシンジャーが設計した平和の構造は、ヘンリー・スティムソン、ジョージ・マーシャル、ディーン・アチソンとともに、近代アメリカの政治家の頂点に位置する(The structure of peace that Kissinger designed places him with Henry Stimson, George Marshall, and Dean Acheson atop the pantheon of modern American statesmen)」と、ウォルター・アイザックソンは1992年のキッシンジャーの伝記に書いている。アイザックソンはまた、「加えて、彼は今世紀最高のアメリカ人交渉官であり、ジョージ・ケナンと並んで最も影響力のある外交知識人であった」とも書いている。

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キッシンジャーが見ている前で、ジョージ・シュルツ元米国務長官(右)が、「戦争犯罪でヘンリー・キッシンジャーを逮捕せよ」と叫ぶ抗議者たちを押し返している。2015年1月29日の連邦上院軍事委員会での公聴会の前(ワシントンにて)

しかし、キッシンジャーはまた、特にリベラル派から、無数の死者を出した冷血なアメリカ権力の象徴と見なされ、非難されるようになった。ニクソンの側で、彼はクメール・ルージュ(Khmer Rouge)の台頭と100万人以上の虐殺を引き起こした、悲惨なカンボジア空爆を支持した。アメリカのカンボジア侵攻後、キッシンジャーはヴェトナムとの和平交渉をまとめ上げ、ノーベル平和賞を受賞したが、最終的にはわずか2年後に屈辱的な北ヴェトナムの南ヴェトナム占領を招き、それまでの戦争でアメリカは最悪の敗北を喫することになった。

キッシンジャーはまた、共産主義に友好的とされたチリのサルヴァドール・アジェンデ(Salvador Allende)大統領に対する1973年のクーデターを支持し、1971年のバングラデシュでの大量虐殺にはむか新だった。ニクソンとキッシンジャーは、東パキスタン(後のバングラデシュ)の独立を阻止しようとするパキスタン軍を支持し、ベンガル人の大量虐殺とレイプを監督するために、米国の法律に違反して彼らを武装させた。プリンストン大学の政治学者ゲイリー・バスは、後にこのエピソードを「冷戦における最も暗い章のひとつ」と評した。バスが引用した機密解除されたホワイトハウスのテープや文書によれば、当時の内部会議でキッシンジャーは、「死にゆくベンガル人(dying Bengalis)」のために「血を流す(bled)」人々を軽蔑していた。

故クリストファー・ヒッチェンズは、2001年の著書『ヘンリー・キッシンジャーの裁判(The Trial of Henry Kissinger)』の中で、キッシンジャーは「民間人の殺害、都合の悪い政治家の暗殺、邪魔な兵士やジャーナリスト、聖職者の誘拐と失踪を命じ、承認した」として、国際法の下で訴追されるべきだと主張した。

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1969年ホワイトハウスのシチュエイションルームで肖像写真のためにポーズを取るキッシンジャー。当時はリチャード・ニクソン大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めていた。

1923年5月27日、ドイツのフュルトで、ハインツ・キッシンジャーとして生まれたキッシンジャーは、ワイマール・ドイツの秩序崩壊とナチスの台頭に永遠に悩まされ、家族の多くを殺された。アメリカに亡命したキッシンジャーは、熱烈な情熱(passionate zeal)をもって新天地を受け入れたが、バイエルン訛りが抜けなかったのと同様、ヨーロッパ流の現実政治(European-style realpolitik)への憧れを捨て去ることはなかった。

キッシンジャーの国際問題における英雄は、後に彼が書いているように、「外交政策は情緒ではなく、強さの評価に基づいていなければならない(foreign policy had to be based not on sentiment but on an assessment of strength)」と主張した、伝説的な「鉄血宰相(iron chancellor)」オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck)であった。アイザックソンは、「それがキッシンジャーにとっての指針(Kissinger’s guiding principles)のひとつにもなった」と述べている。

ハーヴァード大学に在職し、学術界のスターであったキッシンジャーは、ジョン・ケネディ(John Kennedy)に始まり、ネルソン・ロックフェラー(Nelson Rockefeller)、そして最後はニクソンと、アメリカの新進の指導者たちの信頼を得て、その才能と野心で知られるようになった。キッシンジャーはしばしば舞台裏で人々を鼓舞するようなな気性を見せ、ニクソン政権の最初の国務長官ウィリアム・ロジャースなどのライヴァルを蹴落とそうと常に動いていた。

キッシンジャーはまた、ニクソンや政府内の多くのライヴァルを失望させたが、国際的な有名人となり、映画の試写会や高級レストランのオープニングセレモニーにハリウッド女優たちを引き連れて出席した。「権力は究極の媚薬である(Power is the ultimate aphrodisiac)」とキッシンジャーが言ったのは良く知られている。1972年、『ゴッドファーザー』の主演俳優マーロン・ブランドが同映画のプレミアへの出席を辞退したとき、プロデューサーのロバート・エヴァンスは、キッシンジャーがブランドの代わりに出席するよう説得した。

しかし、キッシンジャーが最も永続的な足跡を残したのは、卓越した(par excellence)学者としてであり、説得者としてであった。ハーヴァード大学で、クレメンス・フォン・メッテルニヒ(Klemens von Metternich)やカースルレー卿(Lord Castlereagh)が成功した19世紀のリアリズムを論じた博士論文を完成させた後、キッシンジャーはまず、『核兵器と外交政策(Nuclear Weapons and Foreign Policy)』という本で名を知られるようになった。この本は限定核戦争(limited nuclear war)を支持したが、キッシンジャーは後にこの考えを否定した。

バリー・ゲーウェンという学者によれば、キッシンジャーは1965年の時点で、ヴェトナムを訪問した後、ヴェトナム戦争は無益であるという結論に達していたにもかかわらず、ヴェトナム戦争を支持した。こうして彼は、多くの保守派を怒らせながら、ソヴィエトとの緊張緩和(détente、デタント)と核兵器削減交渉の時代をスタートさせた。

しかし同時に、キッシンジャーは1972年、ソ連が対立していた共産主義中国との前例のない和解(unprecedented rapprochement with communist China)を打ち出し、モスクワの意表を突いた。一部の学者によれば、これは、ワシントンが国内の混乱に気を取られ分裂していた時期に、ソヴィエトとの開戦を防ぐのに役立った可能性があるという。

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中国を公式訪問中の1972年2月23日、ニクソンとキッシンジャーは中国の周恩来首相と共に北京のスポーツイヴェントに出席した。

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1973年の北京の人民大会堂での公式晩餐会で中国の周恩来首相から食べ物を取り分けてもらうキッシンジャー。

それは、キッシンジャーと、同じくリアリスト志向の上司であったニクソンにとって、歴史上もっともふさわしい瞬間であった。二人とも、1960年代の「共産主義諸国は一枚岩だ(monolithic communism)」という概念や、ドミノ理論(domino theory)が不健全であることにいち早く気づいていた。ゲーウェンが2020年の著書『悲劇の必然性-ヘンリー・キッシンジャーとその世界(The Inevitability of Tragedy: Henry Kissinger and His World)』で「共産主義は一枚岩という考え方が捨て去られれば、二人の現実政治家にとって、反目する共産主義者同士を戦わせること以上に健全な政策があるだろうか?」と書いている。

ジョージタウン大学の国際問題研究者であるチャールズ・カプチャンは次のように書いている。「緊張緩和(デタント)は結局のところ、ヴェトナム戦争と、過剰拡大(overreach)という考えに突き動かされていた。キッシンジャーとニクソンは、冷戦について、後退させ、温度を下げる必要があると考えた。特に中国を敵の列から引き離すことに成功した。キッシンジャーは、他の重要人物にはない戦略的な考え方をした。アメリカの国家運営(U.S. statecraft)に関して、私(カプチャン)は政策が多すぎて戦略が足りないという問題が存在すると考えている。キッシンジャーはそれを逆転させた人物だ」。

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1975年にエジプトのアレキサンドリアで、エジプト大統領アンワール・サダトと、シナイⅡ交渉で、会談を持つヘンリー・キッシンジャー。交渉の結果、エジプトに領土が返還された。

キッシンジャーはまた、その魅力とユーモア、そして歴史の達人ぶり(mastery of history)で外国の指導者や外交官を虜にし、その人間的な魅力でも有名になった。もちろん、彼が交渉相手の独裁者たちの虐待をひどく気にしているようには見えなかったことも助けになった。

アイザックソンによれば、キッシンジャーが最も尊敬する二人の外国指導者は、中国の周恩来首相とエジプトのアンワール・サダト大統領だ。キッシンジャーは、サダト大統領がイスラエルとの交渉に積極的に参加する姿勢を取っていることを「預言者(prophet)」と評価した。1974年にキッシンジャーが初めてシャトル外交を試みた際、サダトはキッシンジャーを大統領邸宅の近くにある熱帯植物園に連れて行き、「マンゴーの木の下でキスした」とアイザックソンは書いている。驚くキッシンジャー国務長官に対し、サダトは「あなたは私の友人だけではない。あなたは私の弟でもある」と語った。キッシンジャーは後に記者団に対し、「イスラエル人がより良い待遇を受けられないのは、彼らが私にキスをしないからだ」と冗談を飛ばした。

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2001年9月11日の同時多発テロ攻撃の後、破壊の程度をニューヨーク市長ルディ・ジュリアーニから説明を受けるヘンリー・キッシンジャー

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連邦上院外交委員会でのイラクに関する公聴会を前にして、連邦上院外交委員会委員長ジョー・バイデンと話をするヘンリー・キッシンジャー(2007年1月31日)。

彼を取り巻く論争が激しかったにもかかわらず、キッシンジャーはアメリカの卓越した外交政策専門家としての名声を失うことはなかった。彼が亡くなるまでの数十年間、共和党と民主党の両方が、また多くの世界の指導者たちが彼の助言を求めた。キッシンジャーは、回想録、書籍、記事、著作を勢力に発表してきた。これらの業績は、一部の学者たちは、アメリカの専門家による外交政策の最も徹底的で深遠な解明である、と評価している。キッシンジャーはこうした業績を通じて、名声の復活を強化した。

アメリカ最高のリアリストとされるキッシンジャーは、世界を変えるウィルソン流の理想主義(world-changing Wilsonian idealism)、基本的にはワシントンがアメリカのイメージ通りに世界を再編成できるという考え方に対する懐疑主義においても、先見の明を証明した。彼は、ウィルソン主義がアメリカ外交の「基盤(bedrock)」であることを認めながらも、ウィルソン主義の落とし穴を誰よりもはっきりと見抜いていた。

冷戦後、民主政治体制の拡散(spread of democracy)が万能薬(panacea)になるという考えに対する、キッシンジャーの懐疑論ほど、彼の正当性が証明されたものはない。ゲーウェンが指摘したように、キッシンジャーは冷戦の終結がアメリカ型の自由民主体制資本主義(American-style liberal democratic capitalism)の大勝利につながるのではなく、むしろ「輝かしい夕日のようなもの(in the nature of a brilliant sunset)」であることを予見していた。

過去10年ほどの進展が示しているように、これはキッシンジャーが最もよく知るようになった中国に特に当てはまることが判明した。ビル・クリントンからの歴代米政権は、キッシンジャーがかつて「敵対者の回心によって平和が達成されるという古くからのアメリカの夢(the age-old American dream of a peace achieved by the conversion of the adversary)」と呼んだものを、冷戦後の世界市場と新興民主主義国家のシステム(post-Cold War system of global markets and emerging democracies)に中国を取り込もうとした。しかし、中国はソ連崩壊後のロシアとともに、独裁(autocracy)と人権抑圧の新時代の原動力となっている。

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2018年11月8日、北京の人民大会堂で中国の習近平国家主席と会談を持つキッシンジャー

キッシンジャーは長い間、中国やその他の大国に対する唯一の合理的なアプローチとして、理想主義的な方法で世界の問題を解決しようとするのではなく、むしろ刻々と変化する勢力均衡(バランス・オブ・パウア)を注意深く調整することによって問題を管理する(manage)という現実政治(realpolitik)を主張してきた。ゲーウェンは、「キッシンジャーの考えは、政策決定者に課せられた任務は控えめで、本質的に消極的なものであるというものだ。世界を普遍的な正義へと導くのではなく、力と力を競わせ、人間の様々な攻撃性(assorted aggressions of human beings)を抑制し、できる限り災難を避けようとするのである」と書いている。

キッシンジャーのアプローチの鍵は、恒久的な解決策ではなく、達成可能な目標を特定することだった。アインディクの言葉を借りれば、「キッシンジャーにとって、平和創造外交(peacemaking diplomacy)とは、対立する大国間の対立を解決するために設計されたプロセスではなく、対立を緩和するためのプロセスであった」ということになる。

キッシンジャー自身、1994年に刊行した代表作『外交』の中で、このリアリズム哲学を次のように定義している。「国際システムは不安定の中に生きている。あらゆる "世界秩序 (world order"は永続性への願望(aspiration to permanence)を表現している。しかし、それを構成する要素は常に流動的(constant flux)である。実際、世紀が進むごとに、国際システムの持続期間(duration)は縮まっている」。

この考えは、特に21世紀は当てはまるだろう。キッシンジャーは、「世界秩序を構成する要素、相互作用する能力、そしてその目標が、これほど急速に、これほど深く、これほどグローバルに変化したことはかつてなかった」と書いている。

キッシンジャーは次のように結論づけた。「次の世紀(21世紀)には、アメリカの指導者たちは国民のために国益(national interest)の概念を明確にし、ヨーロッパとアジアにおいてその国益が勢力均衡の維持によってどのように果たされるのかを説明しなければならないだろう。アメリカは世界のいくつかの地域で均衡(equilibrium)を維持するためのパートナーを必要とするが、これらのパートナーは道徳的考慮を基にするだけで選ぶことはできない」。

キッシンジャーは晩年に差し掛かり、ワシントンが道徳的あるいはイデオロギー的な理由で中国とロシアの両方に対立的なアプローチを採用することで、自らを孤立させ、北京とモスクワの古い同盟関係を復活させる危険性があることを恐れていた。2018年、キッシンジャーは、ドナルド・トランプ大統領(当時)に、中国に対抗するためにロシアともっと緊密に協力するよう助言したと伝えられている。

同時にキッシンジャーは、中国に対して新たな冷戦を仕掛けることで、ワシントンはソ連に対して直面したよりも更に大きな危険を作り出しているかもしれないとも警告した。ソ連は2021年5月、キッシンジャーは、マケイン・インスティテュートのセドナ・フォーラムで、「ソ連は中国のような発展的な技術力を持っていなかった。中国は巨大な経済大国であり、軍事大国でもある」と述べた。

アメリカがアフガニスタンから屈辱的な撤退をした後、『エコノミスト』誌に寄稿した最後のエッセイの一つの中で、キッシンジャーは世界をより良い方向に変えようとする過剰な理想主義的熱意(excess of idealistic zeal)に再び警告を発した。キッシンジャーは、ヴェトナムでの対反乱作戦の失敗を思い起こし、ワシントンの失敗を、彼の外交政策に対する生涯のアプローチにふさわしい言葉で次のように診断した。

キッシンジャーは次のように書いている。「アメリカは、達成可能な目標を定義することができず、アメリカの政治プロセスによって持続可能な方法でそれを結びつけることができないために、対反乱活動において自らを引き裂いてきた。軍事的目標はあまりに絶対的で達成不可能であり、政治的目標はあまりに抽象的でとらえどころがない。軍事的な目標はあまりにも絶対的で達成不可能であり、政治的な目標はあまりにも抽象的でとらえどころがなかった」。

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ニューヨークのパークアヴェニューにある事務所でのキッシンジャー(2011年5月10日)

キッシンジャーは最後まで、世界を解明しようと懸命に努力した。2021年にグーグル元最高経営責任者(CEO)エリック・シュミット(Eric Schmidt)、マサチューセッツ工科大学コンピューターサイエンス学部長ダニエル・ハッテンローチャー(Daniel Huttenlocher)と共著で出版した『AIの時代(The Age of AI)』を代表とする一連の著作の中で、彼は物事が間違った方向に進んでいるという深刻な懸念を表明した。

キャリアの大半で道徳的配慮を無視していると非難されてきたキッシンジャーにとって皮肉なことに、彼の主な心配は人間的要素(human element)の喪失だった。彼は、啓蒙主義(the Enlightenment)以来支配的になったパラダイム、つまり人間理性(human reason)の優位性が覆されつつあり、『アトランティック』誌での論説の中で述べたように、現在ではあまりにも多くの決定が「データとアルゴリズム(algorism)によって動かされ、倫理的または哲学的な規範によって制御されていない機械に依存している」ことを懸念していた。

重厚な物腰とドイツ訛りのキッシンジャーは、しばしば飄々(aloof)とした印象を与える。しかし、彼は広義でも狭義でも人間性をよく研究する人物であり、そのキャリアを通じて、交渉相手の指導者の性格をよく研究していた。死の間際、彼はこれらの経験をまとめた最後の本を執筆中だった。

シリアの独裁者、ハーフィズ・アサド(Hafez Assad)の死後、2000年の私とのインタヴューで、キッシンジャーはその独裁者の血塗られた歴史には口をつぐみがちだったが、それ以外はアサドの長所と短所を率直に評価した。キッシンジャーは次のように述べた。「アサドの成功は30年間も権力の座に居座り続けたことだが、それは何か大きな業績を残したということはなかった。彼は生き残りと小さな努力を積み重ねた人だった。彼は超越した人物ではなかった。彼に欠けていたのは、彼が育った環境を超越することだった」。

キッシンジャー自身が超越した人物であることは証明されたが、アサドに対する彼の評価は、少なくとも彼が生まれ育った環境を本当に超越したかどうかという点では、ある意味で彼にも当てはめることができるだろう。キッシンジャーは生涯を通じてヨーロッパの亡命者(refugee)であり続け、ビスマルクやメッテルニヒの弟子であり、アメリカを熱烈に支持しながらも、良くも悪くも、自分を受け入れてくれた国家の道徳に基づいた権力政治(morality-based power politics)を巧みに操った。

キッシンジャーの教え子であり、後にハーヴァード大学で政治的ライヴァルとなった外交官で政治学者のジョセフ・ナイは次のように述べている。「キッシンジャーは、外交政策における道徳について、評価されている以上に意識していた。彼は、秩序(order)が勢力均衡(balance of power)と同時に正統性(legitimacy)の上に成り立っていることを知っていた。彼は粗雑な現実政治(crude realpolitik)ではなかった。洗練された現実政治(sophisticated realpolitik)だった。

この複雑な遺産こそが、アメリカと世界にとって、キッシンジャーが遺したものだ。

※マイケル・ハーシュ:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。『資本攻勢:ワシントンの賢人たちはいかにしてアメリカの未来をウォール街に委ねたか(Capital Offense: How Washington’s Wise Men Turned America’s Future Over to Wall Street)』と『私たちとの戦争:アメリカがより良い世界を築くチャンスを無駄にする理由(At War With Ourselves: Why America Is Squandering Its Chance to Build a Better World)』がある。ツイッターアカウント:@michaelphirsh

(貼り付け終わり)

(終わり)

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古村治彦です。

ヘンリー・キッシンジャー元国務長官・元国家安全保障問題担当大統領補佐官が100歳で亡くなった。彼が創設したコンサルティング会社キッシンジャー・アソシエイツが発表した。キッシンジャーについては、このブログでも特に多くご紹介してきた。このページの右側にある、「記事検索」の欄に「キッシンジャー」と入れてもらうと、キッシンジャーに関する記事がたくさん表示される。一番下まで行くと、「次の5件」という表示が出るので、それを押すと、次々と表示されるので、是非お試しいただきたい。

 私は2023年5月に長文の「キッシンジャー論」を翻訳し、このブログでご紹介した。以下にそのリンクを貼るので、「記事検索」と併せてご覧いただきたい。

(1)「同意しないことに同意する」というところから始めるキッシンジャーのリアリズム的な外交政策の真髄(第1回・全3回) 20230501

http://suinikki.blog.jp/archives/87343779.html

(2)「同意しないことに同意する」というところから始めるキッシンジャーのリアリズム的な外交政策の真髄(第2回・全3回) 20230502

http://suinikki.blog.jp/archives/87343787.html

(3)「同意しないことに同意する」というところから始めるキッシンジャーのリアリズム的な外交政策の真髄(第3回・全3回) 20230503

http://suinikki.blog.jp/archives/87343791.html  
 キッシンジャーについては1960年代からアメリカの安全保障。外交政策に関わり、様々な業績を残したので、それを簡単にまとめることは難しい。上記記事のようにどうしても長くなる。キッシンジャーについては近年であれば、中国の習近平国家主席、ロシアのウラジーミル・プーティン大統領と頻繁に会談を持っていた。両首脳はキッシンジャーを厚遇した。キッシンジャーは非西洋諸国の中心的な2人の首脳に対して、様々な指南を行い、その最大のものはアメリカとは戦争してくれるな、ということだった。
 キッシンジャーはドナルド・トランプ大統領に対しても外交的な指南を行った。大統領選挙期間中、トランプは、娘イヴァンカの夫ジャレッド・クシュナーを介して、キッシンジャーとコンタクトを取り、キッシンジャーのニューヨークの私邸を訪問した。大統領当選後も、キッシンジャーはホワイトハウスを訪問している。トランプ政権下では、アメリカは大きな戦争を起こさず、巻き込まれることもなかった。バイデン政権下では、ウクライナ戦争とパレスティナ紛争が起きた。
 キッシンジャーについては毀誉褒貶がつきまとい、厳しい批判がある。しかし、彼の業績を今一度振り返り、リアリズムに基づいた外交政策とは何かについて、私たちはよくよく考える必要がある。
 キッシンジャー亡き世界とは、日本の戦前に例えるならば、最後の元老西園寺公望が亡くなった後の日本のようなことになるかもしれない。アメリカ、そして世界において、ブレーキ役がいなくなり、世論を含めて、強硬論が更に強くなり、戦争の可能性が高まるということも考えられる。しかし、少なくとも、習近平とプーティンがいる限りは、アメリカ、中国、ロシアが直接戦うということは起きないだろう。そのことはキッシンジャーの置き土産、遺産ということになるだろう。
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アメリカの外交官ヘンリー・キッシンジャーが100歳で死去(American diplomat Henry Kissinger dies at 100

ミランダ・ナッザリオ筆

2023年11月29日

『ザ・ヒル』誌

https://thehill.com/blogs/blog-briefing-room/4334541-american-diplomat-henry-kissinger-dies-at-100/

元外交官・元大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーが水曜日、100歳で死去した。彼のコンサルティング会社が水曜日夜に発表した。

キッシンジャー・アソシエイツの声明によると、キッシンジャーはコネティカット州にある自宅で死去した。

キッシンジャーは、国家安全保障分野と外交政策分野で幅広いキャリアで知られた。1969年から1975年にかけて、リチャード・ニクソン大統領の下で、国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めた。補佐官在任中に、ニクソンはキッシンジャーを第56代国務長官に指名し、国務長官と国家安全保障問題担当大統領補佐官の両方を同時に務めた最初の人物となった。

ジェラルド・フォード大統領の下で、国務長官に留任したが、フォード大統領は国家安全保障問題担当大統領補佐官からは退任させた。

キッシンジャーは1923年生まれ、当時はハインツ・アルフレード・キッシンジャーという名前だった。彼は人生の初期をドイツで過ごした。彼の家族はユダヤ系で、ナチスが権力を掌握した後、アメリカに移民した。アメリカに移民後、キッシンジャーは名前をヘンリーに改めた。

第二次世界大戦中、ドイツ語通訳としてアメリカ陸軍に入隊した。戦後、キッシンジャーはハーヴァード大学に入学し、1950年に学士号を取得し、1954年に博士号を取得した。その後は、アイヴィーリーグに残り、ハーヴァード大学政治学部教授、国際問題研究センター副所長を歴任した。

彼のキャリアは1960年代までに政府の仕事に移行し、ニクソンに国家安全保障問題担当大統領補佐官に任命されるまで、いくつかの政府機関でコンサルタントを務めた。

国務省に入ったのは、エジプトがイスラエルに奇襲攻撃を仕掛けて、1973年に起きたアラブ・イスラエル戦争が勃発する数週間前のことだった。キッシンジャーは国務省で指揮を執り、イスラエルが米国からの物資を確実に受け取れるよう支援し、その後、イスラエルとエジプト、後にシリアとイスラエル間の交渉を仲介するため、中東地域を行き来する「シャトル外交(shuttle diplomacy)」を開始し、何度も中東を訪問した。

国務長官を退任した後も、キッシンジャーは外交問題に関するアドヴァイザーを務め、後に「中央アメリカに関する全米超党派委員会(National Bipartisan Commission on Central America)」の委員長を務めた。その後、ロナルド・レーガン元大統領とジョージ・HW・ブッシュ(父)元大統領の下で大統領対外情報・諜報諮問委員会(President’s Foreign Intelligence Advisory Board)の委員を務めた。

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●「キッシンジャー元米国務長官が100歳で死去、米中国交樹立の立役者」

11/30() 10:49配信 ブルームバーグ

https://news.yahoo.co.jp/articles/53d6bd8d43b33168aecaa2d6d2eec8952d74fd42

(ブルームバーグ): ニクソン、フォード米政権で国務長官を務め、1970年代の米外交政策決定で重要な役割を果たしたキッシンジャー元米国務長官が、米コネティカット州の自宅で死去した。100歳だった。元国務長官の関係者が明らかにした。

キッシンジャー氏は大統領補佐官として、72年のニクソン大統領による電撃的な中国訪問を実現させ、79年の米中の国交樹立につながる土台を築いた。

冷戦下での旧ソ連とのデタント(緊張緩和)や戦略兵器制限条約の実現に貢献したことで歴史に名を残す一方、ベトナムとカンボジアに対する大規模な空爆を支持したことなどで批判も受けた。

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 古村治彦です。

 ヘンリー・キッシンジャーは今年初めから、「ウクライナのNATO加盟を容認」という主張を行っている。キッシンジャーをはじめ、リアリスト系の人々はウクライナのNATO加盟に長く反対してきたので、キッシンジャーの容認姿勢は驚きをもって迎えられた。しかし、キッシンジャーの主張をよくよく吟味してみると、リアリストの原理原則から導き出された内容であることが良く分かる。
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 キッシンジャーがウクライナのNATO加盟に反対していたのは、ウクライナがNATOに加盟すると、NATOの後ろ盾を受けて、ロシアと事を構える、ロシアと戦争を起こす危険があった、ロシア側からすれば、脅威が一気に増大する、ロシア側もウクライナを自陣営に「取り戻す」ために事を構えるという事態が考えられたからだ。
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 実際には、ウクライナをNATO(特にアメリカ)が手厚く支援し、急激に武力を増強した。結果として、ロシア側は危機感を強め、ウクライナに対して侵攻するということになった。ウクライナはNATO加盟を悲願として、10年以上にわたり、加盟申請を行いながら、NATOはウクライナの加盟を認めてこなかった。しかし、ウクライナに対する支援を強め、「正式にメンバーにしている訳ではありませんよ」という建前を主張しながら、対ロシア姿勢を強硬なものとし、実質的にウクライナをメンバーとして扱っていた。

 戦争が起きてしまった以上、前提は変わった。そのため、キッシンジャーは、一転して、ウクライナのNATO加盟を容認することになった。その理由は、「軍事力を高めたウクライナを単独で行動させないために、枠にはめる、タガをはめるためにウクライナをNATOの中に入れる」ということだ。ウクライナは現在、西側諸国(the West)の手厚い支援を受けて、ロシア軍と交戦中だ。今回の戦争の前、ウクライナ軍は脆弱で、ロシア軍はすぐにキエフを奪えると見られていた。しかし、ウクライナ軍は西側の武器と最新テクノロジーによる情報奪取に成功し、ロシア軍を退かせた。ロシア軍はウクライナ東部を奪取し、現在、それら地域を守っている。ウクライナ軍は大攻勢をかけていると報道されているが、大きな戦果は挙げていない。しかし、シリア内線にも参加し、精強なロシア軍に対して、西側の支援はありながらも1年以上、戦争を継続できているウクライナ軍は周辺国の軍隊よりも確実に強化されている。ウクライナは精強な軍隊を持つ大国ということになる。そのような「変な自信」を持つと、何をしでかすか分からない。そのために、ウクライナにタガをはめるということが必要なのだ。

 また、東ヨーロッパ、中央ヨーロッパに軍事力を持つ大国が出てくることは、地域のこれまでの均衡(equilibrium)、バランス(balance)を崩すことになる。ここで問題になるのは、ポーランドである。ポーランドは歴史上、2度亡国の憂き目にあっているが、保湿的に拡大志向、大国志向国家であり、ポーランドの蠢動はヨーロッパを不安定化させる。ポーランドはリトアニアと共和国を形成していた時代にウクライナの大部分を支配していた時代もある。ウクライナ西部にはユニエイトと呼ばれるローマ法王を崇めるカトリック系の宗教グループがあり。ポーランドのとの親和性が高く、ポーランドがウクライナ西部を併合するという話もあった。ポーランドがウクライナと組んで、ロシアに対して攻撃を仕掛けるという可能性もある。このような状況から、ウクライナをNATOに入れて、ポーランドと共に、しっかり監視して軽挙妄動をさせないということが重要だ。そして、ヨーロッパにおけるパワーバランス、力の均衡を構築し、紛争を未然に防ぐというリアリズムの原理に基づいた戦後処理が必要ということになる。キッシンジャーの慧眼には恐れ入るばかりだ。

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再びの世界大戦を避ける方法(How to avoid another world war

ヘンリー・キッシンジャー筆

2022年12月17日

『スペクテイター』誌

https://www.spectator.co.uk/article/the-push-for-peace/

第一次世界大戦は、ヨーロッパの名声を失墜させた一種の文化的自殺(cultural suicide)であった。ヨーロッパの指導者たちは、歴史家クリストファー・クラークの言葉を借りれば、夢遊病(sleepwalk)のように、1918年の終戦時の世界を予見していたならば、誰も参戦しなかったであろう紛争に突入した。それまでの数十年間、ヨーロッパ諸国は2つの同盟を形成して対立し、その戦略はそれぞれの動員スケジュールによって結びついていた。その結果、1914年、ボスニアのサラエヴォでオーストリア皇太子がセルビア人の民族主義者によって殺害された事件は、ドイツがヨーロッパの反対側にある中立国ベルギーを攻撃してフランスを敗北させるという全目的に適う計画(all-purpose plan)を実行したことから始まった戦争へとエスカレートしていった。

ヨーロッパの国々は、テクノロジーがそれぞれの軍事力をいかに強化したかを十分に理解していなかったため、互いに前例のない壊滅的な打撃を与え合った。1916年8月、2年間の戦争と数百万人の死傷者を出した後、西側の主要戦闘参加国(イギリス、フランス、ドイツ)は、殺戮を終わらせるための展望を探り始めた。東側では、ライヴァルのオーストリアとロシアが同等の働きかけを行っていた(feelers)。既に被った犠牲を正当化できるような妥協案はなく、また誰も弱気な印象を与えたくなかったため、各指導者は正式な和平プロセスを開始することを躊躇した。そこで彼らはアメリカの仲介(mediation)を求めた。ウッドロウ・ウィルソン大統領の個人的な使者であったエドワード・ハウス大佐の尽力によって、修正された現状維持に基づく和平(a peace based on the modified status quo ante)が手の届くところにあることが明らかになった。しかし、ウィルソンは調停に乗り出し、最終的には熱望したものの、11月の大統領選挙が終わるまで延期した。その頃には、イギリスのソンム攻勢とドイツのヴェルダン攻勢によって、更に200万人の死傷者が出ていた。

フィリップ・ゼリコウによるこのテーマに関する本の言葉を借りれば、あまり踏み固められていない道(the road less travelled)となったのである。第一次世界大戦は更に2年続き、何百万人もの犠牲者を出し、ヨーロッパの既存均衡(Europe’s established equilibrium)は取り返しのつかないほど損なわれた。ドイツとロシアは革命によって引き裂かれ、オーストリア・ハンガリー帝国は地図上から姿を消した。フランスは白骨化(bled white)した。イギリスは勝利のために、若い世代と経済力のかなりの部分を犠牲にした。戦争を終結させた懲罰的なヴェルサイユ条約は、それが取って代わった構造よりもはるかに脆いものであることが証明された。

冬が大規模な軍事作戦の一時停止を迫る中で、世界は今日、ウクライナにおける転換点を迎えているのだろうか? 私は、ウクライナにおけるロシアの侵略を阻止するための同盟諸国の軍事的努力に対する支持を繰り返し表明してきた。しかし、既に達成された戦略的変化を土台とし、交渉による和平の実現に向けた新たな構造へと統合する時が近づいている。

ウクライナは、近代史上初めて中央ヨーロッパにおける主要国(major state)となった。同盟諸国に助けられ、ヴォロディミール・ゼレンスキー大統領に鼓舞されたウクライナは、第二次世界大戦以来ヨーロッパを覆ってきたロシアの通常戦力(conventional forces)を阻止した。中国を含む国際システムは、ロシアの脅威や核兵器使用に対峙している。

このプロセスは、ウクライナのナNATO加盟に関する当初の問題を根底から覆した。ウクライナは、アメリカとその同盟諸国によって装備された、ヨーロッパで最大かつ最も効果的な陸軍の一つを保持している。和平プロセスは、ウクライナとNATOをつなげるべきである。特にフィンランドとスウェーデンがNATOに加盟した後では、中立(neutrality)という選択肢はもはや意味がない。だからこそ私は2022年5月、2022年2月24日に戦争が始まった国境線に沿って停戦ライン(ceasefire line)を設定することを提案した。ロシアはそこから征服を放棄するが、クリミアを含む10年近く前に占領した領土は放棄しない。その領土は停戦後の交渉の対象となりうる。

戦前のウクライナとロシアの分断線(dividing line)が、戦闘によっても交渉によっても達成できない場合は、自決の原則(principle of self-determination)に頼ることも考えられる。自決に関する国際的な監督下にある住民投票(referendums)は、何世紀にもわたって何度も政権が交代してきた特に分裂の多い地域に適用される可能性がある。

和平プロセスの目的は2つある。ウクライナの自由を確認することと、新しい国際構造、特に中央・東ヨーロッパの構造を定義することである。最終的にロシアは、そのような秩序の中に居場所を見つけることになる。

戦争によって無力になったロシアが望ましいと考える人もいる。私はそうは思わない。ロシアはその暴力的な傾向の割には、半世紀以上にわたって世界の均衡(global equilibrium)とパワーバランス(balance of power)に決定的な貢献をしてきた。その歴史的役割を低下させてはならない。ロシアの軍事的後退は、ウクライナでのエスカレーションを脅かすことができる世界的な核兵器の存在を消去するものではない。たとえ核兵器能力が低下したとしても、ロシアが解体したり、戦略的な政策能力が失われたりすれば、11の時間帯にまたがる領土が争いの絶えない空白地帯と化す可能性がある。競合する社会が暴力によって紛争を解決することになるかもしれない。他国が武力で領有権を拡大しようとするかもしれない。これら全ての危険は、ロシアを世界2大核保有国の地位に押し上げている、数千発の核兵器の存在によって、更に深刻化するだろう。

世界の指導者たちは、2つの核保有国が通常兵器で武装した国と争う戦争を終わらせるために努力する一方で、この紛争や長期的な戦略に影響を与えつつあるハイテクや人工知能の影響についても考えるべきである。自動自律兵器(auto-nomous weapons)は既に存在し、脅威を定義し、評価し、標的とすることができる。

この領域への一線を越え、ハイテクが標準的な兵器となり、コンピュータが戦略の主要な実行者となれば、世界はまだ確立された概念(established concept)のない状態に陥るだろう。コンピュータが、人間の意見を本質的に制限し、脅かすような規模や方法で戦略的指示を出す時、指導者はどのように統制することができるだろうか? このような相反する情報、認識、破壊的能力の渦の中で、文明はどのようにして維持可能となるだろうか?

この緊迫しつつある世界についての理論はまだ存在せず、この問題に関する協議の取り組みはまだ発展していない。おそらく、有意義な交渉によって新たな発見が明らかになる可能性があるが、その開示自体が将来のリスクとなるためだろう。先進技術とそれを制御するための戦略の概念との間の乖離を克服すること、あるいはその影響を完全に理解することは、気候変動と同じくらい今日重要な問題であり、テクノロジーと歴史の両方を把握できる指導者が必要である。

平和と秩序の追求は、時に矛盾するように扱われる2つの要素を持つ。安全保障の要素の追求と和解(reconciliation)行為の要求である。その両方を達成できなければ、どちらにも到達することはできない。外交の道は複雑で苛立たしく見えるかもしれない。しかし、その道を進むには、ヴィジョンと勇気の両方が必要なのである。

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キッシンジャー:ウクライナに単独で勝手な行動をさせないためにウクライナをNATOに加盟させる(Kissinger: Bring Ukraine into NATO to stop them from acting alone

デイヴィッド・P・ゴールドマン筆
2023年5月25日

『アジア・タイムズ』紙

https://asiatimes.com/2023/05/kissinger-bring-ukraine-into-nato-to-stop-them-from-acting-alone/

西洋のメディアの報道は、キッシンジャーがウクライナのNATO加盟を支持したことを見逃している。以下は、彼が『エコノミスト』誌に語った内容である。

ヘンリー・キッシンジャー:ウラジーミル・プーティンにとって、ウクライナのNATO加盟は強迫観念(obsession)だった。だから今、私は人々が「彼は考えを変えた、今はウクライナのNATOへの完全加盟に賛成している」という奇妙な立場にいる。一つは、ロシアはもはやかつてのような、通常の脅威となる存在ではない。だから、ロシアの挑戦は別の文脈で考えるべきだ。そして二つ目には、ウクライナがヨーロッパで最も武装した国であり、加えてヨーロッパで最も戦略的経験の乏しい指導者が率いている状態で、私たちはウクライナを武装してしまったということだ。おそらくそうなるであろうが、戦争が終結し、ロシアが多くの利益を失いながらもセヴァストポリは保持することということになっても、ロシアに不満が出るかもしれない。しかし同時にウクライナにも不満が出るかもしれない。

つまり、ヨーロッパの安全のためには、ウクライナをNATOに参加させ、領土問題について国家的な決定を下せないようにした方がよいということになる。

『エコノミスト』誌:つまり、ウクライナをNATOに加盟させるというあなたの主張は、ウクライナの防衛に関する主張というよりも、ウクライナがヨーロッパにもたらすリスクを減らすための主張ということか?

ヘンリー・キッシンジャー:私たちはウクライナを防衛する能力を証明した。ヨーロッパ諸国が今言っていることは、私から見れば、非常に危険なことだ。なぜなら、ヨーロッパ諸国はこう言っているからだ。「私たちは彼らをNATOに入れることを望まない。何故なら彼らの加盟はリスクが高すぎるからだ。従って、私たちは彼らを武装させ、最新鋭の武器を与えるようにする」。このようなやり方を機能させるにはどうしたらよいだろうか? 間違った方法で戦争を終わらせるべきではない。その結果があり得るものだと仮定すれば、それは2022年2月24日以前に存在した現状維持の線上のどこかということになるだろう。ウクライナがヨーロッパに保護され続け、自国のことだけを考える孤独な(単独行動を行う)国家にならないような結果であるべきだ。

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キッシンジャーがウクライナのNATO加盟を支持(Kissinger Backs Ukraine's NATO Bid

ブレット・フォーレスト筆

『ウォールストリート・ジャーナル』紙

2023年1月20日

https://www.wsj.com/livecoverage/davos2023/card/kissinger-backs-ukraine-s-nato-bid-TEbEBq5ulGr0dBS9sPTZ

ヘンリー・キッシンジャー元国務長官は、ウクライナの北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty OrganizationNATO)加盟を主張した。

キッシンジャーはスイスのダヴォスで開催中の世界経済フォーラム(World Economic ForumWEF)の会議にリモートで出演し次のように述べた。「この戦争が起こる前、私はウクライナのNATO加盟に反対していた。なぜなら、ウクライナのNATO加盟によって、まさに今私たちが目にしているようなプロセスが始まることを恐れていたからだ。現状のような状況下で中立のウクライナ(neutral Ukraine)という考えはもはや意味がない。私は、ウクライナのNATO加盟が適切な結果(appropriate outcome)になると信じている」。

ウクライナは2022年9月にNATO加盟申請を行った。

キッシンジャーの発言は、先月『スペクテイター』誌に寄稿した記事の中で、侵攻前の接触線に沿ってロシア・ウクライナ戦争の停戦を確立するよう主張した内容と重なる。

キッシンジャーは火曜日、戦争を終結させる計画について、このような戦闘の停止は「軍事行動の合理的な結果であり、後の和平交渉の結果とは限らない」と述べた。

ロシアもウクライナも交渉開始について特に熱意を示していない。モスクワは、ウクライナがロシアの領土獲得を承認することを交渉の前提条件としているが、キエフは、意味のある交渉を始める前に、ロシア軍がクリミア半島と他の全てのウクライナの土地を放棄することを要求している。

キッシンジャーは、短期的な交渉が「戦争がロシアそのものに対する戦争にならないようにするだろう」と述べた。ロシアが大量の核兵器を保有していることを踏まえ、ロシア国内の不安定を引き起こすようなことがないように警告を発した。「交渉はモスクワに“国際システムに復帰する機会”を与えるだろう」とも述べた。

99歳のキッシンジャーは、1970年代に米国務長官としてソ連との冷戦の緊張緩和(Cold War détente)の確立に尽力した。

キッシンジャーは次のように述べた。「私は、戦争が続いている間もロシアと対話し、戦前の路線に達すれば戦闘は終結すると信じている。戦前の線で停戦することは、開戦時に存在した問題を超えて新たに深刻な問題を提起し、軍事衝突の継続の対象とすることで、戦争がエスカレートするのを防ぐ方法だと信じている」。

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ヘンリー・キッシンジャー、ウクライナのNATO加盟反対を撤回(Henry Kissinger Reverses Opposition to Ukraine’s NATO-Membership Bid

ジミー・クイン筆

2023年1月18日

『ナショナル・レヴュー』誌

https://www.nationalreview.com/corner/henry-kissinger-reverses-opposition-to-ukraines-nato-membership-bid/

今週スイスで開催された世界経済フォーラムの聴衆を前にして、ヘンリー・キッシンジャーは、ウクライナのNATO加盟はロシア侵攻の「適切な結果(appropriate outcome)」になる可能性があると述べた。

リモートでパネルディスカッションに出席した99歳のキッシンジャーは、ロシアは内部崩壊(internal collapse)による危機を回避するために、紛争後に国際社会への復帰を認められなければならないと説明した。CNBCによると、キッシンジャーは「独自の政策を追求できる国家としてのロシアを破壊することは、その領土に1万5000発以上の核兵器が存在する今、11の時間帯からなる広大な地域を内部紛争や外部からの介入の機会を開放することになる」と発言した。

キッシンジャーは以前、ウクライナがロシア軍に攻撃され、占領された領土を割譲することを条件とする、交渉による戦争解決を求めていた。キッシンジャーがその姿勢を翻したという兆候はないが、ウクライナのNATO加盟に関する彼のコメントは、重要な撤回を意味する。

キッシンジャーは次のように述べた「戦前、私はウクライナのNATO加盟に反対していた。NATO加盟は、まさに今私たちが目にしているようなプロセスを始めることになると危惧していたからだ。現状のような状況下で中立的なウクライナという考えはもはや意味がない。私は、ウクライナのNATO加盟が適切な結果になると信じている」。

NATOは10年以上にわたり、ウクライナはいずれ集団安全保障同盟(collective-security alliance)であるNATOに加盟する可能性があると述べてきたが、加盟を早めるための具体的な措置をとることは拒否してきた。

ロシアが侵攻を開始する3カ月前、ウクライナ政府高官ロマン・マショベツは、加盟を認めて欲しいというキエフの長年の要望を繰り返した。マショベツは2021年11月にナショナル・レヴュー誌のインタヴューに対して次のように語った。「プーティンはウクライナのNATO加盟にショックを受けるだろう。ウクライナがNATOに加盟すれば、彼はウクライナに対して、ハイブリッド、非通常的、通常型、非対称など、あらゆる戦争の形態を私たちに仕掛けることはできないだろう」。

フィンランドのサナ・マリン首相もダヴォス会議で同様の発言をし、ウクライナがNATOに加盟していればロシアは攻撃しなかっただろうと聴衆に語った。また、フィンランドとスウェーデンはNATO加盟国の承認を求め続けており、同盟に参加する「準備は十分にできている」とも述べた。

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(終わり)

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 古村治彦です。

 ヘンリー・キッシンジャーは100歳となった。キッシンジャーが国家安全保障問題担当大統領補佐官、米国務長官を務めてから半世紀ほどが経つ。この50年ほどはコンサルタントというか、ネットワーカーとして活躍し、世界各国の最高首脳たちに具体的な指針を与えている。現在も移動は車椅子であるが、世界各地を飛び回っている。最近では日本を訪問し、岸田文雄首相とも会談している。
henrykissinger101

 「キッシンジャーなんてまだ生きているの?」「過去の人でしょ?」「もうそんなに影響力なんてないでしょ」ということを言う人は多い。そして、下の論稿の著者であるスティーヴン・M・ウォルトも「どうしてそんなに評価されるのだろうか」という疑問を持っているようだ。ウォルトに言わせれば、キッシンジャーのキャリアには、学者、政府高官、コンサルタントの3つの場面があるが、学者としての業績(新しい考えや理論の提示)は中途半端で終わり、国家安全保障問題担当大統領補佐官や国務長官としての業績は確かにあるが、失敗もある。政府を離れてからのコンサルタント(キッシンジャー・アソシエイツ創設)からの方が50年ほどと最も長いキャリアであるが、政策提言など敗退したことはない、という評価になる。

 キッシンジャーの業績は「裏側(behind the scene)」でこそ発揮される。だから、表に出てくる内容だけで判断するのは、正確な判断ではない。彼の一挙一投足が報道されることはないが、漏れ伝わる動きは世界政治の勘所を抑えている。肝心な場所(ツボ、経絡)に適宜鍼を打つ鍼灸医のようなものだ。東洋医学のように、じんわりと効果が出てくる。それが現在の世界の状況だ。米中関係、米露関係が危険をはらみつつも、最終的な手切れまで進まないのはキッシンジャーの手当てがあるからだ。彼の米国内、海外に張り巡らせた人脈のおかげだ。

 キッシンジャーの抱える弱点は、彼の同程度の力を持つ後任者がいないことだ。キッシンジャーも人間であり、いつかは亡くなる。彼亡き後に誰がキッシンジャーと同じ役割を果たせるだろうか。管見ながら、私には彼の後任となり得る人物は思いつかない。そうなれば、大きく言えば、リアリズム側の力が弱まり、ネオコン(共和党)と人道的介入主義派(民主党)の力が大きくなる。目の上のたんこぶがいなくなり、これら2つの勢力が伸長することで、世界は大規模戦争の危機に直面する。その準備は進められている。NATOのアジアへの伸長はその一例だ。

 キッシンジャーをただの学者やコンサルタントと侮るのは間違いだ。また、「キッシンジャーは日本が嫌いなんでしょ」と訳知り顔に言うのも浅薄な態度である。キッシンジャーはそのような低次元の存在ではない。そもそも日本など世界から相手にされていないのだ。老人ばかりになって、金がなくなっていく日本にどれだけの価値があるのか。せいぜい中国の沿岸にべたっと張り付く空母、基地といったところだ。国際ゲームのプレイヤーではなく、コマ程度の存在だ。そういう認識を持って世界を眺めて、初めてキッシンジャーの凄さが少し分かるようになる。

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ヘンリー・キッシンジャーの評判の不思議に関する問題を解決(Solving the Mystery of Henry Kissinger’s Reputation

-元米国務長官は天才だ、しかしそれは読者の皆さん方が考えるような形ではない。

スティーヴン・M・ウォルト筆
2023年6月9日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2023/06/09/henry-kissinger-birthday-reputation-foreign-policy/

ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官に関して、この1ヵ月間、ニューヨーク経済クラブやニューヨーク公共図書館でのプライヴェートイヴェントなど、何度も100歳の誕生日のお祝いが開かれ、多くのVIPが出席している。この光景は、キッシンジャー独自のステータスを雄弁に物語るものだ。外交官のディーン・アチソン、ジョージ・ケナン、ジョージ・シュルツはもちろん、生きている間にこれほどの扱いを受けた政治家はほとんどいない。歴代大統領もそうだ。

キッシンジャーについて考える際、誰でも認めることであるが、彼は驚くべき人生を歩んできた。ナチス・ドイツからの難民でありながら、やがてアメリカで権力の頂点に立ち、70年近くもアメリカの外交政策に大きな影響を与え続けてきた。1世紀の時を経て、キッシンジャーはアメリカが生んだ最も偉大な戦略的思想家であると称賛されるようになった。彼の名前は、外交問題評議会や議会図書館のフェローシップ、いくつかの大学の寄付講座や研究センター、そして彼の名を冠したコンサルティング会社にも刻まれている。101歳を迎えてなお、これほどまでに世間の注目を集める人物は他にいない。

しかし、キッシンジャーの素晴らしい人生の中心には、難問がある。 キッシンジャーは、現在、独特の深みと知恵と洞察力を備えた外交政策思想家として常に賞賛されているが、その長いキャリアは、彼の崇拝者たちが考えているほど印象的なものではないように見える。キッシンジャーが恐るべき知性と卓越した業績を持つ人物であることは、彼の最も厳しい批判者たちでさえ認めるところであるが、問題は、1世紀を経て得た評価が十分に正当化されるかどうかである。

これが「キッシンジャーの難問(Kissinger conundrum)」である。なぜ、キッシンジャーは畏敬の念を持たれ、彼自身が世界情勢を掌握し、他の誰よりも優れているかのように扱われるのだろうか?

この謎を理解するためには、キッシンジャーの職業上のキャリアを3つのセクションに分けることが有効である。第1段階は、ハーヴァード大学で1954年から1969年まで教鞭を執った研究者としてのキャリアである。第2段階は、リチャード・ニクソン大統領(当時)の国家安全保障問題担当大統領特別補佐官、ニクソンとニクソンの後継者ジェラルド・フォードの国務長官と国家安全保障問題担当大統領補佐官として、政府で活躍したキャリアである。第3段階は、著者、評論家、有識者としてのキャリアであり、その多くは、政府を離れた後に設立したコンサルティング会社キッシンジャー・アソシエイツの代表として行われたものである。

キッシンジャーは、ハーヴァード大学の学者として、数冊の本と多くの論文を発表し、ネルソン・ロックフェラーや外交問題評議会(CFR)との長いつきあいを開始した。いくつかの著書は広く注目されたが、結局、この時期の彼の学問への貢献は大きなものではなかった。彼の初期の著作はどれも古典という評価に値するものではなく、今日、学者たちに広く読まれ、議論されているものもほとんどない。ハンス・モーゲンソーやケネス・ウォルツのようなリアリストの著作は、国際関係の学術的研究に今なお長い影響を与えているが、キッシンジャーの学術的著作(最初の主著『回復された世界平和(A World Restored)』を含む)は、そうではない。キッシンジャーは核兵器についても多くの著作を残したが(1957年にベストセラーとなった『核兵器と外交政策(Nuclear Weapons and Foreign Policy)』を含む)、グレン・スナイダー、バーナード・ブロディ、アルバート・ウオルシュテッター、トーマス・シェリングの著作は、キッシンジャーの著作よりも核戦略の進化にはるかに大きな影響を与えた。キッシンジャーが後に出版した『選択の必要性(The Necessity for Choice)』(1961年)は評判が良くなく、ナイオール・ファーガソンのようにキッシンジャーに同情的な伝記作家でさえ、NATOに関する後の本『二国間の歪んだ関係――大西洋同盟の諸問題(The Troubled Partnership)』(1965年)は急いで書いたもので、すぐに時代遅れになったと認めている。

確かに、キッシンジャーが学問の世界に力を注いでいれば、もっと大きな影響を与えることができたかもしれない。キッシンジャーは、ウィーン会議でのヨーロッパ秩序の再構築を考察した『回復された世界平和』から続く、世界秩序に関する三部作を書くつもりであったことが現在分かっている。しかし、キッシンジャーは現実の政策課題に取り組むようになり、三部作の完成には至らなかった。そして、アメリカのヴェトナム政策を深く掘り下げるなど、こうした活動が、やがて1968年の政権発足につながった。しかし、事実は変わらない。 学者としてだけ見れば、キッシンジャーは学術界の神殿の一員ではない。

キッシンジャーが国家安全保障問題担当大統領補佐官や国務長官として残した記録は、常に論争の的となっている。中国への開放(国交回復)、ソ連との重要な軍備管理協定の交渉、繰り返されるアラブ・イスラエル紛争への対応など、注目すべき業績もある。しかし、これらの成果は、ヴェトナム戦争への支持と、戦争に勝てないという認識にもかかわらず、その長期化に直接関与したこととのバランスを取る必要がある。ニクソンとキッシンジャーはまた、戦争をカンボジアに拡大することを選択し、知らず知らずのうちにクメール・ルージュの大量虐殺支配への扉を開いてしまった。キッシンジャーがチリで起こしたピノチェトの軍事クーデターを支援したことや、1971年のインド・パキスタン戦争への対応についても、厳しい評価を下す価値がある。

これらの出来事(およびその他多くの出来事)をどのように評価するかについては、合理的な人々の間で意見が分かれるところであろう。しかし、キッシンジャーの政治家としての功績が、ディーン・アチソン(第51代国務長官)やジョージ・シュルツ(第60代国務長官)、あるいはハワード・ベイカー(第61代国務長官)の功績をはるかに凌ぐものであると評価することは難しい。これは、キッシンジャーの業績を否定するものではない。就任後の行動が彼を卓越した政治家という評価を得させるものではないことを認めているに過ぎない。

ここからは第3段階についてだ。キッシンジャーは、企業や政府、そして一般市民に対して戦略的な助言を提供するというキャリアで長い経験を持ち、重厚な書籍や新聞コラム、その他様々な形で、めまぐるしい活動をしてきた。キッシンジャーの長いキャリアを振り返って、その実績はどうだろうか?

悪くはないが、あなたが思っているほどでもない。まず、キッシンジャーは政府を去ってから多くの本を出版しているが、3冊の回顧録(邦題は『キッシンジャー秘録1-5』。『ホワイトハウス時代』『激動の時代』『再生の時代』)を除けば、どれも画期的なものではなく、学問への貢献度が特に高いものではない。最も野心的な『外交』(1995年)と『世界秩序』(2014年)は、それぞれのテーマについて長大かつ博識に考察しているが、いずれも斬新な理論的見方や挑発的で新しい歴史解釈は示していない。これに対して、キッシンジャーの回顧録は、アメリカの上級政治家が書いた個人的な記述としては最高のものであり、重要な業績であると私は考えている。アチソンの『アチソン回顧録』(『天地創造[Present at the Creation]』)だけが、それに近い。他の回顧録と同様、著者が在任中に行ったことを強力に擁護しているため、懐疑的な目で読まなければならない。しかし、世界最強の国の外交官であり戦略家である著者が、膨大な不確実性の中で、矛盾する圧力と優先順位をリアルタイムで調整しながら、どのような仕事をしていたかを、間近で見ることができるのである。また、巧みな人物描写と力強いドラマ性に満ちた、魅力的な作品となっている。

キッシンジャーの他の活動についてはどうだろうか? マット・ダスが最近指摘したように、キッシンジャーは、政府機関での勤務を、政府機関から退任後に有利なキャリアに転換させる技術を、発明し、確かに完成させたのである。 キッシンジャー・アソシエイツは、コーエン・グループ、オルブライト・ストーンブリッジ・グループ、ライス、ハドレー、ゲイツ&マニュエル、ウエストエグゼック・アドバイザーズなど、元政府高官の名前、見識、コネを多種多様な(通常は正体不明の)クライアントに提供する会社の家内工業(cottage industry)の手本となったのである。ジョージ・マーシャルのような公僕が、公の奉仕(および他者の犠牲)から利益を得ることは不適切だと考え、自分のキャリアを現金化するための儲け話を断ったが、そんな時代はとっくに終わっており、キッシンジャーはその倫理観を損なうようなことを誰よりもした。特に、これらの元高官が外交政策に関する公的な議論に積極的に参加し続け、場合によっては再び政府に戻る場合、利益相反の可能性は明らかである。問題は、彼らの公的な立場が、私的な収入を強化する(あるいは少なくとも保護する)ことを意図していたかどうかを知ることができないことである。

更に言えば、キッシンジャーは、彼が政府の職から退任して以来、私たちが直面している最大の戦略的問題のいくつかについて、ひどく間違っていた。例えば、彼はNATOの拡大を早くから支持していたが、この決定は、他のオブザーヴァーが、ヨーロッパの永続的な平和ではなく、ロシアとの直接的な衝突をもたらすと正しく予見したものである。また、キッシンジャーは2003年のイラク侵攻を支持したが、これはアメリカ史上最大の戦略的失敗の1つであることは間違いなく、2015年のイランとの核合意には反対した。そして、キッシンジャーは、関与政策によって中国の台頭を助けると、強力なライヴァルの出現を早めることになることを予見できなかった。この盲点が、2011年に出版された『中国――キッシンジャー回想録』が、明らかに両極端な結論に達した理由の一因かもしれない。

キッシンジャーが全てにおいて間違っていたと言っているのではない。現代の出来事を分析するのは難しいことであり、全てを正しく理解する人はいない。私が言いたいのは、評論家としての彼の実績は、日常的に世界情勢を論じる他の人々よりも明らかに優れている訳ではないのに、なぜ多くの人々が彼をアメリカの偉大な戦略家として称賛するのかが理解しがたい、ということだ。

従って、謎は次のようになる。誇大宣伝を無視すると、キッシンジャーは生産的で有名であり続けてきたが、最終的にはそれほど影響力のある学者ではなかった。実際の成功と憂慮すべき失敗の両方を経験した政策立案者である。そして、現代の政策問題のアナリストでもあるが、その実績は他の人よりも際立ったものではない。それでは、彼が今日享受している高い評判についてどのように説明されるだろうか?

その答えの一つは、もちろん、彼が長寿であることだ。もしキッシンジャーが70歳代後半、あるいは80歳代半ばでこの世を去っていたら、その死は多くの人々の注目を集め、アメリカ外交史における彼の地位は揺るぎないものになっただろう。しかし、現在のような象徴的な地位は得られなかっただろう。最後の1人ということは、批評家やライヴァルがほとんどいなくなり、時間の経過によって過去の罪の記憶が曖昧になり、信奉者たちが彼の評判を高める時間が長くなることを意味する。

100点満点の答えには、この説明は間違いなく役に立つが、謎に答えるには、それ以上のことが必要となる。

私は本当の理由は極めて単純だと考えている。キッシンジャーほど、影響力と名声を獲得し、維持するために、これまで、そしてこれからも、より長く努力した人はいないだろう。私はこれまで、驚くほど意欲的で野心的な人物を数多く知っているし、他の人物についてもたくさん本を読んできた。キッシンジャーはそのどれにも当てはまらない。キッシンジャーに関する多くの伝記を何気なく読んだだけでも、その野心が桁外れであること、集中力が抜群で仕事の邪魔をするような趣味がないこと、そしておそらく現代世界がこれまでに見たことのないような偉大なネットワーカーであったことが分かる。彼は、自分の役に立つかもしれない人との間にある橋を焼き切ることはしなかったし、明らかにコンセンサスから外れた立場を取ることもなく、新しい人脈を築く機会を逃すこともなく、侮辱を忘れることもなく、十分にやったと結論づけることもなかった。分かりやすく言えば、キッシンジャーは、他の誰よりも働き、魅力的で、巧みで、人々を出し抜いてきたのだ。そして、何よりも驚くべきことに、彼は今なおその歩みを止めない。

キッシンジャーはまた、影響力が自己強化されることも理解していた。あなたが十分に有名であれば、他の人々は、批判的であるよりも、支持的であり、融和的である方が、より多くの利益を得られると結論付けるだろう。キッシンジャーを追いかけることは、ジャーナリストや大学教授など、広い視野を持たない人であれば、まったく問題ないかもしれないが、外交政策の中枢で大成したいのであれば、賢い戦略とはいえない。彼は既に多くの友人やコネクションを持っていた。彼が大きくなればなるほど、野心的な政策担当者は彼の知恵を疑うよりも、彼の寵愛を求めることを選ぶだろう。

このような大きな野望は計画を狂わせることもあるだろうし、少し怖い気もするが、賞賛に値するものもある。そして、巨大な野望を持つ人々全員がキッシンジャーのようにやれる訳ではない。しかし、キッシンジャーが今受けている賞賛を額面通りに受け取る、もしくは判断に迷った瞬間に目を向けないということをしてはいけない。彼が死ぬなどと言うことは考え難いことだが、完全に無謬であるとは言い難い。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。

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 古村治彦です。最終回です。

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2020年、新型コロナウイルス感染拡大の到来により、特にトランプがウイルスを「中国ウイルス」と呼ぶことを主張し、感染拡大の起源が地政学的な疑惑の対象となったため、米中関係はさらに崩壊した。中国は、いわゆる「戦狼(wolf worrier)」外交の斬新な新しい形で米中外交関係を更に汚染し、パンデミックの最初の発生の誤った対応を非難し、ウイルスがウクライナのアメリカのバイオラボで発生したという奇妙な陰謀説を広めた。数か月後、北京は香港に対する抜本的な取り締まりを開始し、住民が香港から逃れようと奔走する中、狂乱の大規模な脱出を引き起こし、ワシントンに敵対的な感情を更に根付かせた。

戦略国際問題研究所の上級顧問であるスコット・ケネディは、「2020年は、中国に対して絶え間なく行動を起こした年となった。中国の人々は新型コロナウイルス感染拡大、個々の行動への対応、全体的なトーンのため、非常にタカ派になりやすかった」と述べている。

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2021年3月18日、アラスカ州アンカレッジで行われた米中会談のオープニングセッションで、中央外交委員会弁公室の楊潔篪主任(左)と中国の王毅外相(左から2番目)と向き合いながら発言するアントニー・ブリンケン米国務長官(右)

アラスカ州アンカレッジにあるキャプテンクック・ホテルの会議室で、新任のアントニー・ブリンケン米国務長官と王毅外相(当時)が向かい合って座り、補佐官たちと米中国旗が並んでいた。新型コロナウイルス対策としてフェイスマスクを着用していたが、誰も笑っていないのは明らかだ。

バイデンが大統領に就任して2カ月も経たないうちに、ブリンケン、ジェイク・サリヴァン大統領国家安全保障担当補佐官をはじめとするバイデン側近の一団が、政権として初めて中国当局者と正式に対面するためにアラスカを訪れていた。中国の国営メディアは、この会談を、トランプ時代のページをめくる機会として描いていた。アメリカ側も含め、ほとんどの人が、この会談は慎重に振り付けられた挨拶という典型的な形式を踏むと予想していた。

その代わり、花火が打ち上げられた。中国のトップ外交官である楊潔篪は、アメリカ側がテーブルに持ち込んだ不満に対して激怒し、米中関係を「前例のない困難な時期(period of unprecedented difficulty)」に突入させたとワシントンを非難した。

楊潔篪は「中国の首を絞めるようなことはできない」と述べた。ブリンケンは守りに入り、北京が「世界の安定を維持するルールベースの秩序を脅かす(threaten the rules-based order that maintains global stability)」行動をしていると非難した。

楊潔篪は中国の聴衆を相手にした。バイデンはトランプではないが、アンカレッジでの外交対決は、双方がリセットボタンを取り違えていることを示す最も明確な兆候だった。

バイデンは、トランプの外交政策の残滓を覆すことを誓った。しかし、中国への対応という点では、バイデンの立場は前任者と驚くほど似ている。関税や、新疆ウイグル自治区での北京の犯罪を大量虐殺とするバイデン政権の宣言など、トランプ大統領の遺志を継いだ多くの主要な備品は、依然としてしっかりと存在している。ある面では、バイデンは更に進化している。

国家安全保障会議元部長ポール・ヘーンルは次のように語っている。「多くの人が、バイデン政権が誕生していかにタフであるかに驚いた。バイデン政権は、共和党が民主党よりも中国に対して厳しいと主張することを望んでおらず、超党派のアプローチを維持したいと予測していた」。

バイデンの大統領就任から2年、中国のハイテク部門に対する徹底的なキャンペーンが展開され、中国の半導体産業をターゲットにした懲罰的な新しい輸出規制を発表し、現在はファーウェイのアメリカ国内サプライヤーとの関係遮断を検討している。台湾では、中国が侵攻してきた場合、軍事的に台湾を防衛するとの発言を受けて、共和党と民主党の議員がバイデンの側に結集した。

これらの即席の発言は、何十年にもわたる米国の「戦略的曖昧さ(strategic ambiguity)」のドクトリンに対しての疑問が出るようになった。現在、そのドクトリンは非常に曖昧であるため、中国の台北に対する砲撃が開始された場合にアメリカが何をするかについて混乱しているのは中国人だけではない。

そのため、関係は不安定な状態に陥っている。ブルッキングス研究所ジョン・L・ソーントン中国センター部長であるチェン・リーは次のように語っている。「危険な状況ですが、そうは言っても、中国、台湾、アメリカの3者はみな、その危険性を認識していると考えている。必然性はないが、負のスパイラルに陥っている。それは、相互に強化された恐怖、そして敵意によって引き起こされる」。

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台湾付近で中国の軍事活動が活発化した後、軍事訓練で照明弾が発射され、警備に当たる台湾の兵士たち

連邦議会で超党派の支持を得ているものを見つけるのは難しいが、2022年9月下旬、連邦上院外交委員会の議員たちは台湾政策法でそれを実現した。

この法律は、後に大規模な国防政策法案の一部として形を変えて通過したが、起草当時は米台関係の最も包括的な見直しの一環と考えられており、連邦議会が台湾への支援を倍増させるという北京への警告となった。連邦議員たちは最終的に、台湾政策法の最も論争的な提案の1つである、台湾を非NATOの主要同盟国として正式に指定することには至らなかったが、台湾の武器調達のために最大20億ドルの融資を用意することになった。最初の法案は17対5の賛成多数で連邦上院委員会を通過したが、少数の反対派の中にはバイデンの連邦議会における最も重要な同盟者たちも含まれていた。

バイデンの同盟者でありながら繁多に回った民主党所属のマーフィー連邦上院議員は次のように述べている。「これまでの台湾政策は成功の核心であり、今がそれを破棄する時ではない」と述べた。台湾政策法の支持者たちは、「一つの中国(One China)」政策を廃止するのではなく、明確な安全上の保障を作り出すものでもないと言うだろう。それは技術的には正しいが、実質はそうではない。私たちの多くが必要ないと思っている時に、全く新しい台湾政策を打ち出すことになるだけのことだ」。

誰に聞くかによって、これはハト派の最後のあがきか、あるいは民主党の中国政策における中道派と進歩派の間の亀裂の始まりかのどちらか、という2つの解釈が出てくる。

コーネル大学教授のワイスは、ワシントンにおける中国のコンセンサスの出現が、集団思考(groupthink)を助長していると警告する。ワイスは次のように述べている。「このような一般的なコンセンサスに対して、あまり多くの疑問を投げかけることは政治的に有利ではないし、キャリア的にも賢明とは言えない。そのため、この戦略は私たちをどこへ連れて行くのか? どこに向かっているのか? どうすれば、私たちが進んでいる有害な軌道を曲げることができるのか?」。

連邦下院中国特別委員会は、今後数か月で、中国の影響力とアメリカとの関係を調査するため、この議論を形作る原動力となる予定だ。ギャラガー委員長は、委員会の最優先事項の1つは、「中国共産党率いる中国とのこの新しい冷戦に勝つ(win this new cold war with Communist China)」ために必要な長期投資に焦点を当てることだと述べた。

マーフィー議員は次のように述べている。「ソ連との対立に使った用語を、中国との対立に使うことはできない。ソ連との対立で使った用語を、中国との対立に使うことはできない。ソ連との貿易関係は事実上ゼロだった。しかし、現在のアメリカにとって、最重要の貿易関係は中国とのものだ。だから、冷戦の戦士や冷戦愛好家たちが、ソ連と競争したように中国と競争できると考えていることを心配している。同じことではない」。

それにもかかわらず、この呼び名が定着しているのは、おそらくアメリカ人にとって、他の超大国との緊迫した時代を表す唯一の表現方法だからだろう。

シカゴ国際問題評議会の上級フェローで、情報機関の東アジア担当だったポール・ヒアは、「米中関係の悪化を新たな冷戦に例えることのリスクは、自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)になるということだ」と指摘している。ヒアは更に「これを冷戦と呼ぶ時、基本的には『そうだ、私たちは実際的な闘争に従事しており、一方だけが勝つことができる』と言っているようなものだ」と述べた。

しかし、コンセンサスは高まりつつあり、習近平は自らの野心に固執しているように見え、変化の余地をほとんど残していない。習近平の中国共産党総書記としての3期目は2027年に終了する。

アジア・ソサエティのシェルは「足を動かさない相手とは踊れない。中国はまだ踊りたいとは思っていない」と語った。

※ロビー・グラマー:『フォーリン・ポリシー』誌外交・国家安全保障担当記者。ツイッターアカウント:@RobbieGramer

※クリスティアン・ルー:『フォーリン・ポリシー』誌記者。ツイッターアカウント:@christinafei

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 古村治彦です。前回の続きです。

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新しく設置された中国委員会の委員長である共和党のマイク・ギャラガー連邦下院議員は「中国への経済的依存度を下げる必要がある。台湾を守るために、日付変更線の西側にある東アジアにおけるハードパワーを急増させる必要がある」と、連邦議会が始まる前の12月に語っている。ギャラガーは「中国共産党は今日の世界における我々の最大の脅威である」とも述べた。

一方、他の米連邦議員たちも台湾に出入りし、北京の当局者を激怒させるような出張を繰り返している。

その1人が共和党のトッド・ヤング連邦上院議員で、2023年1月に台湾を訪れ、蔡英文総統に面会した。「中国共産党が強圧的な態度をとり、更に強圧的な態度をとるという脅威がある以上、私のような者が、そのような事態に直面しても引き下がらないということを示すことは理にかなっている」とヤングは本誌の取材に答えた。

アメリカ軍やバイデン政権のトップは、中国が軍事的手段を使ってでも台湾の奪還を目指していると分析評価しており、今後2年から5年以内に紛争が起こると予測する者もいるが、こうした分析評価はワシントンの全員が共有している訳ではない。

そのため、アメリカは窮地に立たされている。公式には「一つの中国(One China)」政策を堅持しており、正式な外交上の承認は北京に限定し、台北を密かに支援するだけである。しかし、バイデンは様々なインタヴューで、この政策の厳しさを超えて、中国が侵略してきた場合、台湾を軍事的に守ると宣言している。

連邦議会議事堂から同様のシグナルが発信される中、中国ウォッチャーたちは、およそ50年にわたる中国との統合計画から歯車が狂い始めた瞬間を一つだけ挙げることはできない。しかし、それは一連の出来事であり、災難であり、不祥事であった。その一つが、ミシガン州出身の若い大学卒業生と120ドルの現金、そして「アマンダ」と名乗る女性だった。

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砂嵐の中で北京の天安門前広場をパトロールする警察官(2006年4月18日)

2009年12月、ミシガン州出身の28歳、グレン・シュライヴァーは、CIA入局の手続きを開始するため、ワシントンDCに出頭するようにとの知らせを受けた。上海に住み、教師として働いていたシュライヴァーは、過去4年間、アメリカの国家安全保障に関わる仕事を求め、CIAに応募する前にアメリカの外交官試験を繰り返し受験しては失敗していた。

シュライヴァーは、秘密情報機関の職への就職活動を通じて、ある秘密を持っていた。それは、中国情報当局が彼をスパイに仕立て上げていたことである。それは、上海に住んでいたシュライヴァーが、新聞広告に掲載された米中関係のレポートを書くという仕事に応募したことから始まった。「アマンダ」と名乗る女性から120ドルの報酬を得た。そこから、「アマンダ」と中国最高峰の国家情報機関である国家安全企画部の他のエージェントたちが、彼に数万ドルを支払い、国務省やCIAのアメリカ政府の仕事に応募させるようになったことは、アメリカの弁護士が後にこの事件に関する公開文書で詳述している。

シュライヴァーはアメリカで拘束され、最終的には中国のためのスパイ活動を企てたとして有罪を認めた。しかし、シュライヴァーの事件は、アメリカの国家安全保障と情報に関わる諸機関の世界に一石を投じるものとなった。中国がアメリカでのスパイ活動を活発化させていた。シュライヴァーは、2008年から2011年の3年間だけで、中国のためにスパイ活動を試みた容疑で連邦政府に起訴された約60人の被告の1人に過ぎない。情報機関や法執行機関の関係者にとって、シュライヴァー事件は、新たな、ますます攻撃的になる中国を象徴するものだった。しかし、政策立案者たちにとっては、その認識はずっと後のことであった。

シュライヴァーがFBIに逮捕されたとき、バラク・オバマ大統領はまだサニーランズで習近平と会談しておらず、当時のヒラリー・クリントン国務長官は、アメリカのアジアへの「ピボット」(U.S. “pivot” to Asia)を宣言してからまだ1年経っていなかった。

米中関係が破局に向かう運命にないことを示唆する外交的な取り組みもたくさんあった。中国は、オバマ大統領が2015年に締結したイラン核合意を後押しした。気候変動や北朝鮮の核兵器開発の終結に向けた協力を開始し、軍事面でもオリーブの枝を差し出した。2014年、アメリカは中国に対し、太平洋で毎年行われる大規模な多国籍軍事演習、通称リムパックへの参加を要請している。

しかし、ワシントンの対中タカ派勢力は、シュライヴァーの事件や他の有名なスパイ事件が少なくとも一因となって、経済・政治面での政策論争に影響力を持ち始めている。そして、習近平がその火に油を注いだ。

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左:2015年にワシントンのホワイトハウスにおいてバラク・オバマ米大統領が中国の習近平国家主席と握手

右:2012年に訪中期間中に中国の楊潔篪中国外交部長と会談するヒラリー・クリントン米国務長官

中国は2013年、ユーラシア大陸のインフラ整備、中国の過剰な経済力の輸出、新たな世界貿易ルートの接続を目的とした、後に「一帯一路構想(Belt and Road Initiative)」と呼ばれる数百億ドル規模の大規模な世界規模のインフラ投資プログラムを発表した。ワシントンの一部では、北京が地政学的影響力を得るために外国のインフラプロジェクトや公的債務を行使することを可能にする経済面におけるトロイの木馬(Trojan horse)になぞらえた。そして2015年、米人事管理局(U.S. Office of Personnel Management)は、中国のハッカーが2200万人以上のアメリカ連邦政府現職職員、元職員、内定者、そしてその友人や家族の機密データを盗み見たことを明らかにした。

中国はまた、現在争われている南シナ海で人工島を建設するキャンペーンを開始した。それは、この地域の重要な国際シーレーンを脅かす可能性のある軍事能力のある飛行場とインフラを積み上げた。コーネル大学教授で、米国務省の政策計画スタッフの元上級顧問であるジェシカ・チェン・ワイスは、「特にオバマ政権の終わりに向けて、南シナ海での中国の埋め立てについて、懸念が高まり始めた」と述べた。

国際サミットの外交用語が「温かい(warm)」交流から「重要な懸念(significant concerns)」についての「率直な(candid)」議論へと変化し、大国間の緊張の高まりをかろうじて抑えていたため、オバマと習の直接会談は2013年のサニーランズ会談以降、ますます冷え込むようになった。中国では、習近平の指導の下、反米主義やナショナリズムがより積極的に浸透している。リムパックに中国を招待するという親善的なジェスチャーでさえ、気難しい注文を伴っていた。中国はこの演習に4隻の船を派遣したが、招待されていないスパイ船1隻を静かに送り込んで偵察した。

2016年後半、オバマ大統領の任期最後の年になると、中国との一体化というアメリカの戦略の高い期待は、急速に薄れ始めていた。オバマは2016年9月、CNNで「国際的なルールや規範に違反していると見られる場合、私たちは非常に毅然とした態度で臨み、結果が出ることを彼らに示してきた」と語った。

米国防情報局の元中国専門家コール・シェパードは、習金平国家主席の前任者である胡錦涛の下では「経済とおそらく政府のさらなる開放と自由化の希望がまだあった」と述べた。シェパードは続けて「しかし、習近平の2期目の5年間の任期中、習近平が胡錦濤と胡主席の前任者である江沢民の自由主義的または開放の道を歩み続けるつもりがないことが明らかになった時、状況は変わり始めた」とも述べた。

オバマのCNNインタヴューの数日後、中国の杭州で開催されたG20会議では、中国当局は大勢の世界の指導者たちにレッドカーペットを敷いて出迎えた。しかし、中国当局は米大統領専用機(エアフォース・ワン)にローリング階段を送らず、オバマは飛行機の腹にある威厳のない整備用の入り口から飛行機を降りることを余儀なくされ、これは計算された外交的無視と見なされた。

カーネギー国際平和財団の理事長で、ジョージ・W・ブッシュ(息子)、オバマの両政権下で中国、台湾、モンゴル担当の国家安全保障会議(NSC)部長を務めたポール・ヘーンルは次のように述べている。「中国は南シナ海に人工島を建設した。中国は数千億ドル規模の知的財産のインターネット上での窃盗に関与している。中国は、市場や民間セクターを犠牲にし、より国家が主導し、国家が促進する経済に移行した。そのためにアメリカは様々な経済問題の解決に取り組むことができなかった。これらは全て米中間の現実的な課題として浮上したものであり、それはトランプが大統領就任前のことだった」。

次に起きることは事態を悪化させるだけであろう。

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2017年、北京の人民大会堂内でのビジネスリーダー・イヴェントに出席するドナルド・トランプ米大統領と習近平国家主席

デイヴィッド・フィースは、米中関係の大変化を直接目撃した人物だ。2013年から2017年まで、彼は香港の『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙支局に勤務し、米中両国が経済関係を深めているにもかかわらず、中国の経済的台頭によって企業スパイが急増し、国家主導の攻撃的な貿易政策が主張されている様子を追跡していた。当時、米中二国間の貿易額は年間6360億ドルで、世界最大の貿易関係であり、アメリカの対中輸出は200万人近いアメリカ人の雇用を支えていた。

フィースはまた、アメリカから遠く離れた場所から、トランプの政治的台頭と、トランプをホワイトハウスに送り込み、ワシントンのエスタブリッシュメント(そして他のほとんどの人々)を唖然とさせた劇的な2016年大統領選を目撃した。トランプは、貿易や知的財産でアメリカを騙している中国を繰り返し非難することで、これまでの大統領とは一線を画していた。2016年の選挙戦では、「われわれは泥棒に盗まれた貯金箱のようなものだ」と言い放った。トランプ派「中国が私たちの国をレイプするのを許し続けることはできない。そして、それが彼らのやっていることだ。世界史上最大の窃盗だ」とも述べた。

トランプの鋭く露骨なスタイルがアメリカ本土の有権者の神経を刺激したのなら、それはワシントンにいた対中タカ派の若手クラスにとっても同じで、彼らはアメリカの対中政策が時代遅れの希望的観測であると見て苛立ちを募らせた。

中国は、その行動によって、「アメリカが主導する自由主義的な世界秩序の責任ある利害関係者(ステイクホルダー)になることを絶対に望んでおらず、事実、その秩序に敵対し、それを修正し破壊しようとしていることを証明した」とフィース氏は述べている。

フェイスはジャーナリズムからゲームに飛び込むことを決意し、2017年初め、トランプ政権に参加した。国務省の政策企画スタッフ(国務省の社内シンクタンクのような存在)の当時の責任者であるブライアン・フックによって国務省に引き入れられ、トランプの選挙運動のプラットフォームをアメリカの外交政策に変えるための作業を開始した。それは、アメリカの対中政策に関する数十年のコンセンサスを根底から覆すものだった。

トランプ政権は、徹底的な貿易戦争(trade war)で経済関係を破壊しようとするだけでなく、中国の通信大手ファーウェイに規制をかけ、台湾への武器販売を強化し、現在は廃止されている「中国イニシアティヴ」を立ち上げた。このプログラムは、知的財産の盗難を取り締まるために作られたが、アジア系アメリカ人の研究者に対する疑念と監視の目を向けるようになった。また、マイク・ポンペオ国務長官(当時)は、任期最後の日に、離任の挨拶の中で、新疆ウイグル自治区における北京の人権侵害は大量虐殺(ジェノサイド、genocide)に相当すると宣言した。

ハドソン研究所の上級研究員で、トランプ政権下で戦略担当の大統領国家安全保障担当次席補佐官を務めたナディア・シャドローは、製造業、防衛、人権の3つの主要分野を取り巻くアメリカ国内の不満や懸念の高まりが、全てトランプ政権下でこうしたシフトに収束したと指摘する。それは「何かが起きていることを知らす冷静な目覚めの音」であったと彼女は述べた。

(つづく)

(貼り付け終わり)

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 米中関係は以前に比べて悪化している。「米中戦争は起きるのか?」という疑問ではなく、「米中戦争はいつ起きるのか?」という煽動も入った疑問が出てくるようになった。米中戦争が話題になるというのはここ最近のことだ。米中関係の悪化を反映している。

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 米中関係(アメリカと中華人民共和国との関係)は1972年2月のリチャード・ニクソン米大統領の訪中によって始まった。ハイライトは毛沢東中国共産党中央委員会主席との会談だった。そのお膳立てをしたのがヘンリー・キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領補佐官と周恩来国務院総理だった。中ソ対立が常態化する中で、「敵の敵は味方」で、米中は関係を改善し、1979年に正式に国交が樹立された。1973年には北京に米中連絡事務所(U.S. liaison office to the People's Republic of China)が開設され、事務所長(director、特命全権公使)が派遣された。歴代の事務所長の中には、後に大統領となったジョージ・HW・ブッシュ(父)がいる(1974-1975年)。

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 国交正常化後、米中両国は基本的に良好な関係を保った。鄧小平の改革開放路線(1978年から)もあり、1980年代の中国は「自由化」「民主化」に進んでいるように見えた。アメリカ側は「中国を国際社会に参加させ、国際経済に参加させることで、更なる国内変革を促し、最終的には中国共産党による一党独裁体制を終わらせることができる」と楽観視していた。アメリカが中国に「関与(engagement)」することで、中国の体制転覆(regime change)を行えると考えていた。ソ連が崩壊し、共産主義の魅力もがた落ちとなった。中国はこのまま一党独裁体制から転換すると考えていたところに起きた(中国側から見たら起こされた、アメリカが起こした)のが1989年6月4日の天安門事件だ。これで米中関係は冷え込むことになり、「中国は経済面では改革開放を進め、社会主義市場経済を推進するが、政治体制は維持し、思想を強化する」ということが明らかになった。

 同時期、中国は高度経済成長の道を進み始めた。政治や思想面での党勢は強化されたが、経済に関しては、鄧小平の「先に豊かになれるものから豊かになる」という「先富論」に基づいて、「世界の工場」として中国は世界の製造業の基地となった。GDPはまさに倍々ゲームで拡大していった。30年余りで、中国は世界第2位の経済大国へと変貌した。

 中国が力をつけるにつれて、アメリカは危機感を持つようになった。アメリカの世界覇権が脅かされる事態が発生した。ソ連に勝ち、1980年代の日本の経済成長も押しつぶすことに成功したアメリカであったが、中国は難敵だ。中国はソ連と日本の成功と失敗を学んでいる。更に言えば、米ソ関係で言えば、アメリカとソ連の間には大きな経済関係がなく、アメリカは経済面を気にせずに、軍事面や政治面でソ連と闘い勝利することができた。日米関係で言えば、日本はアメリカの属国であり、日本を叩き潰すことは造作のないことだった。アメリカは中国との間に重要な経済関係を持つが、中国を自分たちの言いなりに動かすことはできない。

こうした中で、アメリカ国内で「中国脅威論」が台頭し、「中国をここまで育ててモンスターにしてしまった責任はキッシンジャーにある」という主張が叫ばれるようになった。米中関係は「関与」から「対立」に変化している。アメリカ国内には「中国脅威論」が蔓延しているが、これは恐怖感の裏返しだ。

「アメリカは世界覇権国の地位から脱落するかもしれない、次の覇権は中国になる」「米ドルが世界の基軸通貨の地位を失い、豊かな生活が享受できなくなるかもしれない」という恐怖感がアメリカ国民に真実味を持って迫ってきているのだ。そのために中国を叩き潰したいと思いながらも、その方策はない。戦争をするというオプションは選べない。そんなことをすれば、アメリカや世界の経済は甚大な損害を受けることになるからだ。世界は大きな転換期を迎え、世界は分裂に向かっている。米中は2つの陣営(西洋[the West]対それ以外の世界[the Rest])の旗頭として対立を深めていく。しかし、キッシンジャーが両者の間をつないでいるうちはまだ大丈夫だろう。彼が死んだあとはどうなるか分からないが。

(貼り付けはじめ)

ワシントンの対中タカ派勢力が勢いを得ている(Washington’s China Hawks Take Flight

-数十年にわたるアメリカの対中関与の物語が離別の物語に道を譲った。

ロビー・グラマー、クリスティナ・ルー筆

2023年2月15日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2023/02/15/china-us-relations-hawks-engagement-cold-war-taiwan/

バラク・オバマと習近平は、カリフォルニア州パームスプリングス近郊の高級保養地サニーランズを気軽に散策し、温かく友好的な米中関係を笑顔でアピールしていた。2013年夏、超大国と新興大国の間では物事が順調に進んでいるように見えた。

オバマは2期目の大統領としてかなり経験を積んでいた。中国の新指導者である習近平は胡錦濤から引き継いだばかりで、ワシントンではほぼ全員が習近平を米中関係における新しい、より希望のあるチャプター(章)の体現者だと見ていた。オバマ大統領は、中国との「新しい協力モデル(new model of cooperation)」について語り、アメリカは「世界の大国としての中国の継続的な平和的台頭(continuing peaceful rise of China as a world power)」を歓迎すると述べた。それは米中関係の新時代の幕開けだった。

実際にはその通りにはならなかった。

10年後、オバマと習近平がサニーランズで築いたと思われる友好関係は、完全に消滅した。中国国内では、習近平が中国を統治している中国共産党に対する、彼自身の権威主義的な権力を強固なものにしている。アメリカが大量虐殺とみなしている、新疆ウイグル自治区のウイグル族やその他の少数民族に対する徹底的な弾圧を行い、第二次世界大戦後最も野心的な軍拡を主導してきた。ワシントンでは、中国との関わりを長く支持してきたいわゆるハト派は、完全に脇に追いやられている。政治的スペクトラムがますます広くなっている中で、政策立案者や連邦議員たちは、あるコンセンサスでまとまっている。それは、「中国に対して厳しく接するべき時だ」というものだ。

ワシントンは、北京が自国の領土とみなしている台湾への軍事支援を強化した。米軍トップの司令官は最近、2025年までに台湾をめぐって中国と戦うことになるかもしれないと、各部隊に警告するメモを発表した。2月上旬には、中国のスパイ気球とされる飛行体がアメリカ大陸を横断し、ワシントンで政治的な大炎上、大きな非難を引き起こしたため、両国の緊張を緩和する目的の、ジョー・バイデン米大統領のトップ外交官(アントニー・ブリンケン米国務長官)による北京への訪問は中止された。ブリンケン国務長官訪中は大きな注目を集めていた。

連邦上院外交委員会の民主党議員であるクリス・マーフィー連邦上院議員は、「私が恐れているのは、中国との軍事衝突が避けられないかのように振る舞うことで、最終的にその考えが現実のものとなってしまうことだ」と述べている。マーフィー議員は「中国は台湾を侵略する決断をしていないが、アメリカが中国政策の全てを台湾政策に変えてしまえば、それが彼らの意思決定に影響を与える可能性がある」とも述べた。

リチャード・ニクソン大統領の対中関係開放に始まり、オバマ大統領の時代まで続いた数十年にわたるアメリカの関与の努力は、単に成果を上げることができなかったのだろうか? それとも、習近平の登場と、世界における中国の位置づけに対する彼の積極的で修正主義的なアプローチが、それを無意味なものにしてしまったのだろうか?

欧米諸国の議員や政策立案者、中国アナリストの多くは、関係悪化の責任を習近平の足元だけに押し付けている。

アジア・ソサエティの米中関係センター部長であるオーヴィル・シェルは、「私は、関与について言えば、瀕死の状態だと思う(deader than a doornail)。習近平の統治の大きな悲劇の1つは、事実上、習近平がそれを破壊し、実行不可能にしたことだと思う」と述べた。

しかし、対中タカ派が誕生したのは、ワシントンの政策立案マシーンにおいてである。そこでは、人気のあるアイデアはすぐに法律(canon)となり、議論の余地はほとんどない。

ジョージタウン大学教授で、オバマ大統領の国家安全保障会議(National Security CouncilNSC)で中国、台湾、モンゴル担当ディレクターを務めたエヴァン・メディロスは、「このようなコンセンサスを得る度に、政権を支援し、長期的な競争に必要なツールを与えるのとは対照的に、政権を囲い込む反響室現象(echo chamber 訳者註:自分と似た意見や思想を持った人々が集まる場[電子掲示板やSNSなど]にて、自分の意見や思想が肯定されることで、それらが正解であるかのごとく勘違いする現象)に発展する危険がある」と述べた。

対中タカ派が隆盛する中、危機へのゆっくりとしたしかし着実な進展から逃れる術はあるのだろうか?

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1994年、北京にて、朱敦法・中国人民解放軍上昇と会見するウィリアム・ペリー米国防長官

1994年夏、ペリー米国防長官は、米中関係の将来について、米軍の最高幹部たちにメモを送った。そのメモの中で、ペリーは、中国について「急速に世界最大の経済大国になりつつあり、国連安保理常任理事国の常任理事国の地位、政治的影響力、核兵器、近代化する軍隊と相まって、中国はアメリカが協力しなければならない相手である」と書いている。

ビル・クリントン政権が北京とより緊密な関係を築こうとしていた頃、ペリーはその秋以降に中国を訪問する準備をしていた。1989年の天安門事件に端を発した中国政府による抗議活動への残忍な弾圧の後、関係は凍結されていた。ペリーは1994年のメモで、「中国との軍事関係は、米国防総省にとって大きな利益となりうる」と指摘し、中国側との会談を開始するよう各米軍幹部たちに指示した。

ペリーのメモは、その後数十年にわたってワシントンで主流となる、楽観的な関与(optimistic engagement)という視点を示したものである。慎重な外交と継続的な経済協力(careful diplomacy and continued economic cooperation)によって、アメリカは中国を新興のグローバル・パワーとしての役割に導き、第二次世界大戦後の国際システムに統合することができる、という考え方であった。冷戦は終結し、ソヴィエト連邦は崩壊していた。アメリカの政策立案者たちは、熊(ソ連)を倒すように龍(中国)を飼いならすことができると確信していた。

クリントン政権は、特に貿易においてアウトリーチ活動を開始した。これらはジョージ・W・ブッシュ大統領の下で頂点に達し、中国はついに世界貿易機関に加盟し、20年に及ぶ行進を開始し、いくつかの手段を用いて、世界最大の経済大国になった。

この発展によって、数億人の中国人が貧困から救い出され、歴史上最も目覚ましい経済変革の1つとなった。しかし、豊かな国の人々、特にアメリカの人々にとっては犠牲が伴った。彼らは、低コストの中国との競争によって世界貿易と製造業におけるシェアが徐々に食い尽くされるのを目の当たりにした。世界の GDP に占める中国のシェアは1990年の 1.6% から2017年には16% に急上昇し、アメリカの対中貿易赤字は3750億ドル以上に急増した。

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1998年、ビル・クリントン米大統領が楽団を指揮している間、妻のヒラリー・クリントンは江沢民国務院総理と会談

ペリーのメモの内容は、今日のワシントンでは異端となっている。連邦下院共和党は民主党の幅広い支持を得て、アメリカ政府の対北京戦略転換を監督する中国に関する特別委員会を設置し、国務省は中南米、アフリカ、中東などで経済的・政治的に拡大する北京の足跡を監視して鈍らせるための「中国専門部門(China House)」の構築に奔走している。バイデン政権は、ドナルド・トランプ前大統領の下で制定された貿易関税を維持するだけでなく、中国の技術に対する攻勢をエスカレートさせている。
(つづく)
(貼り付け終わり)

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