古村治彦です。
私はブログや著書の中で、馬蹄理論(horseshoe theory)を紹介した。2016年のアメリカ大統領選挙において、共和党ではドナルド・トランプ、民主党ではバーニー・サンダース連邦上院議員(ヴァ―モント州選出、無所属)が人気を集め、トランプ主義と進歩主義がこの大統領選挙のポイントになった。そして、この両者の主張が実は近いものとなっており、大きくは反エリート・反エスタブリッシュメントのポピュリズムと、エスタブリッシュメントの戦いという構図になっていることが明らかになった。民主党の予備選挙で苦戦し、本選挙で敗れたヒラリー・クリントンは、バーニー・サンダースとドナルド・トランプが代表するポピュリズムに敗れたということになる。この全く相いれないトランプとサンダースが既存の政治に対する抗議の声を集めるポピュリストであり、彼らの主張が似てくるということを説明するのに使われるのが馬蹄理論である。その概念図は以下の通りだ。
現在、民主党内部で勢力を伸ばしているのが民主社会主義(Democratic
Socialism)だ。都市部を中心に、若者たちの間で支持が拡大しており、民主社会主義を標榜する候補者たちが、連邦議員選挙や地方選挙で民主党の予備選挙に勝利して候補者になっている。しかし、そもそもはリベラリズムこそは、そのような既存の政治や権益に反対し、因習を打破し、個人の幸福を増幅させるためのイデオロギーであった。ところが、現在では、エスタブリッシュメント、体制派のイデオロギーとなって、人気を失っている。下記論考の著者ザカリアはリベラリズムの失敗について次のように書いている。
(引用貼り付けはじめ)
ウールドリッジが指摘する第二の失敗は、リベラル派自身の地位に関わる問題であるだけに、より耳の痛い話だ。リベラリズムは「メリトクラシー(meritocracy、能力主義)」を信奉している。歴史的に見れば、これはリベラリズムの最も崇高な理念の1つだった。生まれや人種、カースト、階級ではなく、才能と努力によって人が成功を収めるべきだと主張してきた。しかし時が経つにつれ、能力主義によって選ばれたエリート層は、それ自体が一種の「貴族階級(aristocracy)」へと硬直化してしまった。
リベラル派のエリート層は社会正義を掲げながらも、卒業生の子供を優先的に入学させる「レガシー入試(legacy admissions)」の撤廃にはほとんど何もしようとしない。彼らは貧困層の社会的地位向上を望むが、それが自分たちの住む緑豊かな住宅街への住宅増設を伴うとなれば話は別だ。個人の能力や功績を称賛する一方で、個人の人間性よりも集団的アイデンティティ(group identity)に基づいて人を判断しがちな、巨大な多様性推進の官僚機構(a
vast diversity bureaucracy)を作り上げてしまった
(貼り付け終わり)
「リムジン・リベラル」という言葉がある。リムジンのような高級車に乗り、大邸宅に住みながら、口を開けば、平等や福祉について語る金持ちのリベラルを揶揄する言葉である。ハリウッドの映画スターや人気歌手でもリベラルな主張しながら煌びやかな暮らしをしているということについて、人々は矛盾や偽善を感じている。彼らが正当に得た利益でどのような暮らしをしようがそれは勝手であり、何も悪いことではないのであるが、「お前たちの言っていることは口先だけだ」と捉えられてしまう。
リベラリズムが再生し、再び人々の支持を得るためには、「口先だけ」と捉えられないようにすることであり、そのためには以前は持っていた「急進性」を再び取り戻すことだ。そのためには民主社会主義の主張を取り入れ、批判にも真摯に向き合うことが必要ということになる。
(貼り付けはじめ)
リベラリズムは急進的にならねばならない(Liberalism Must Get
Radical)
-かつては攻撃対象であった「エスタブリッシュメント(the establishment)」のイデオロギーとなった。それがリベラリズムは敗北しつつある理由だ。
ファリード・ザカリア筆
2026年6月26日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2026/06/26/liberalism-socialism-populism-mamdani-democratic-primary-elections-burnham-revolution-wooldridge/
ニューヨーク・ブルックリンにて、ニューヨーク市選出の連邦議会候補クレア・バルデス(マムダニが民主党予備選挙で支持した3人の進歩主義派候補の1人)の開票を見守る集会で、ニューヨーク市長ゾーラン・マムダニが演説を行った(2026年6月23日)
大西洋を挟んで起きた最近の2つの出来事が、ある共通の問題を浮き彫りにしている。イギリスでは、威厳あるキア・スターマーの後任首相として有力視されているのがアンディ・バーナムであり、彼は「ビジネスに友好的な社会主義(business-friendly socialism)」を信条に掲げている。一方ニューヨークでは、民主党予備選挙で民主社会主義者が目覚ましい勝利を収めた。これは、急進的な左派勢力が、抗議の声を政治的権力へと転換する道を見出したことを示唆している。
まず断っておくが、左派が一様に社会主義に向かって突き進んでいる訳ではない。ニューヨーク市外の多くの予備選挙では、穏健派の民主党員が勝利を収めている。市外の激戦区の1つでは、退役軍人のケイト・コンリーが圧勝した。しかしながら、ある種のリベラリズムが、その勢いや自信を失いつつあり、自らが代表すると主張する人々とのつながりも希薄になっていることは確かだ。
エイドリアン・ウールドリッジの近著『革命的中道(The Revolutionary
Center)』は、啓蒙時代から現代に至るリベラリズムの知的歴史を描いた素晴らしい1冊だが、この本の中で著者は、かつてリベラリズムが政治において最も急進的な勢力であったことを想起させている。当時、それは世襲の特権、独占的権力、検閲、貴族制、聖職者の権威、そして閉鎖的なギルドといったものに挑む存在だった。それは、エスタブリッシュメント側のイデオロギーではなく、むしろエスタブリッシュメントを打ち砕くための「破城槌(battering ram)」のような役割を果たしていた。
今日、リベラリズムは権力と同一視されるようになった。名門大学、財団、メディア機関、大企業、そして官僚機構といった権力中枢と結びついている。ウールドリッジは、こうした状況が2つの深刻な失敗を招いたと主張している。
第一の点は「受動性(passivity)」だ。現代のリベラリズムは、少なくとも1990年代以降、自由市場と自由な個人を称揚してきた。実際には、それは経済活動と私生活の双方で規制を撤廃し、その結果生じる事態を「自由の代償(the price of freedom)」として受け入れることを意味していた。市場においては、これが企業の統合や格差の拡大を野放しにする結果を招いた。私生活においては、リベラルは、特定の行動が社会を破壊しかねないものであると指摘することに躊躇するようになった。
その結果がリベラル的宿命論(liberal fatalism)だ。薬物依存や精神疾患を抱えた人々が街頭で野宿生活を送っていても、リベラルはそれを単なる住宅問題として片付けることが多い。何百万人もの人々が肥満関連の病気に苦しんでいるが、リベラルは、消費者を加工食品中毒に陥らせている企業を追及するよりも、「食品砂漠(food deserts、生鮮食品を入手しにくい地域)」のせいにすることを選びがちだ。ソーシャルメディア企業もまた、消費者の注意を奪い合うという点で同様の手法を採用している。
ウールドリッジは、「リベラル・パターナリズム(父権主義、liberal
paternalism)」の復権を提唱している。この言葉は、現代人の耳には耳障りだ。しかし、リベラルな社会とは、個人の権利を尊重すると同時に、個人に責任を求める社会であるべきだ。自由は国家によってのみ脅かされるのではなく、依存症、独占、犯罪、無知、そして何らかへの依存によっても破壊され得るということを理解すべきだ。
これは社会主義を擁護する主張ではない。より真の姿に近いリベラリズムを求める主張だ。リベラル派が市場を支持すべきなのは、市場が強者による支配や格差の拡大を許容するからではなく、真の競争があれば「持たざる者(弱者)」が強者に挑むことが可能になるからだ。健全な市場とは、4社程度の企業が業界をひそかに分割し、弁護士やロビイスト、アルゴリズムを駆使して新規参入者を排除するような市場ではない。新規参入者が台頭し、消費者が選択を行い、労働者が自由に移動し、既存の企業が失敗し得るような市場こそが健全なのである。
ウールドリッジが指摘する第二の失敗は、リベラル派自身の地位に関わる問題であるだけに、より耳の痛い話だ。リベラリズムは「メリトクラシー(meritocracy、能力主義)」を信奉している。歴史的に見れば、これはリベラリズムの最も崇高な理念の1つだった。生まれや人種、カースト、階級ではなく、才能と努力によって人が成功を収めるべきだと主張してきた。しかし時が経つにつれ、能力主義によって選ばれたエリート層は、それ自体が一種の「貴族階級(aristocracy)」へと硬直化してしまった。
リベラル派のエリート層は社会正義を掲げながらも、卒業生の子供を優先的に入学させる「レガシー入試(legacy admissions)」の撤廃にはほとんど何もしようとしない。彼らは貧困層の社会的地位向上を望むが、それが自分たちの住む緑豊かな住宅街への住宅増設を伴うとなれば話は別だ。個人の能力や功績を称賛する一方で、個人の人間性よりも集団的アイデンティティ(group identity)に基づいて人を判断しがちな、巨大な多様性推進の官僚機構(a
vast diversity bureaucracy)を作り上げてしまった。
これが最も顕著に表れているのが初等・中等教育の現場である。真にリベラルな政治とは、まず子供を起点に考えるものだ。アメリカの子供たちを置き去りにしながら自らの権力を拡大させるだけの組織―労働組合、官僚機構、教育委員会、大学の学部など―があれば、それらすべてに立ち向かう姿勢が必要だ。
民主社会主義者や右派ポピュリストが支持を広げているのは、まさにこの点においてだ。彼らは、人々が「自分のために戦ってくれる誰か(someone to fight for them)」を求めていることを理解している。彼らが提示する解決策は、時に誤ったものであるかもしれない。左派は階級闘争(class warfare)、保護主義、国家統制を掲げ、右派は保護主義、民族的怨嗟(ethnic
resentment)、人種的な過去への郷愁を煽る。しかし、彼らは既得権益に果敢に挑む「アウトサイダー」のように映る。自由が単なる無秩序を意味するように思える世界において、彼らは人々を守る存在として提示される。
リベラリズムが直面する危機を脱する道は、リベラリズムを放棄することではない。その「急進的な精神(radical spirit)」を取り戻すことだ。リベラル派は今一度、独占、世襲による特権、閉鎖的なシステム、そして不公平な仕組みを憎む存在となるべきだ。真の競争、真の能力主義、そして真の機会均護を擁護しなければならない。市場を圧殺する企業権力、内部関係者を保護する政府権力、そして個人の尊厳の代わりに集団的アイデンティティを優先する官僚機構を生み出す文化的権力―これら全てに立ち向かうべきだ。
ウールドリッジが論じるように、「中道」とは単に左派と右派の中間地点にあるものではない。それ自体が独自のやり方で革命的である必要がある。リベラリズムが掲げた偉大な約束は、人々を自由の名の下に放置し、衰退させることではなかった。人々が自らの人生を豊かに花開かせるために必要な手段、ルール、そして責任を与えることこそが、その約束だった。
リベラリズムは、凝り固まった権力に対する反乱として始まった。それが今後も生き残るためには、再びそのような存在へと立ち返るしかない。
※ファリード・ザカリア:CNNの番組「ファリード・ザカリアGPS」の司会者であり、近著に『革命の時代(Age of Revolutions)』がある。彼は『ワシントン・ポスト』紙に週刊コラムを執筆しており、そのコラムは『フォーリン・ポリシー』誌にも配信されている。Xアカウント:@FareedZakaria
(貼り付け終わり)
(終わり)

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