古村治彦です。
今回は、丸山真男・加藤周一著『翻訳と日本の近代』(岩波新書、1998年)をご紹介します。私はこの本を年末年始に読みました。本書では、明治維新前後における西洋の書物の「翻訳」について、誰が、何を、どのように翻訳したのかということを出発点にして、碩学・丸山眞男と加藤周一が話をする対話形式で話が進められています。大変読みやすい形式です。内容は多岐にわたっています。
日本で学問といえば長年にわたり儒教でした。中国の古典(四書五経)を学び、解釈し、理解するのですが、中国語の原文(漢文)を日本語に読み下す形式でした。「有備無患」とあれば、「備え有れば患い無し」と訳し、「何かの時のために準備をしておけば心配することはない」と理解するという形式です。これに対して、荻生徂徠は、「原文で理解しなければ、漢字の本当の意味が分からない。訳したものでは変な解釈が入っていて本当に分かったとは言えない」と主張しました。彼は、中国語を学習し、原文で理解したり、漢字の本来の意味を古典という古典を渉猟して集めた辞書を作ったりしました。こうした学問に加えて、蘭学も発達して言った訳ですが、日本の学問は外国からの受容を基本としており、その点では翻訳に対する「心構え」や「姿勢」が既に長年にわたり準備され、洗練されていたと言うことができます。
ウェスタン・インパクト呼ばれる西洋列強の到来によって、アジアは大きな変貌を遂げます。中国(清)は1840年にアヘン戦争に敗れ、イギリス、そして西洋列強に屈することになります。日本もペリー来航によって開国することになりました。この開国は阿部正弘や堀田正睦といった穏健で現実的な幕閣がリードしました。この時期、ヨーロッパではクリミア戦争が起き、アメリカでは南北戦争が起きたために、日本は「ほっておかれた」ため、植民地化されずに済みました。その間に、武士階級は西洋列強の文化や知識を吸収しようとしました。この時に役立ったのは翻訳です。こうした翻訳に従事したのは、幕府が作った蕃書調所の俊英たちでした。丸山と加藤は、中国の知識人(科挙に合格して政府高官や軍司令官になる)と日本の武士階級との比較から、日中の近代化のスピードを比較しています。中国の知識人にとっては、古代の聖王や彼らが治めた国が理想となり、それ以外を認めることは出来ず、西洋の知識や技術を受け入れることに抵抗を示しました。一方、日本の武士階級はかなわないとなると、すぐに「変わり身の早さ」で、西洋流の近代化を貪欲に推進することになりました。彼らにとっては、中国の知識人のような理想主義はなく、現実主義的でありました。そして、武士階級が明治維新を成功させました。
明治時代になって早速翻訳されたのは、西洋の歴史書でした、ギボンの『ローマ帝国盛衰記』やバックルの『英國開化史』が翻訳されました。明治時代の知識人たちは、まず歴史を学ぶことで、西洋諸国の発展を「実践的に」捉えようとしました。中国の古典では古代の理想的な王国や王たちの事績を学ぶことに重点が置かれ、それが真理となります。多分に演繹的な方法論と言えますが、明治の知識人たちは、中国の理想ではない、実践的な国家発展の方法を学ぼうとしたと言えます。
西洋の言葉(英語やフランス語)からの翻訳となると、大きな問題は訳語をどうするかということです。漢語はそのまま熟語にしてしまえば何とか対処できますが、アルファベットとなるとそうはいきません。漢文のように返り点などを付けるというやり方もできません。日本語では単数形と複数形の区別が曖昧です。自由民権運動という言葉に含まれている民権という言葉についても、福澤諭吉によれば、単複の区別がない為に、「人権と参政権の区別」がつかない、という事態が起きた、ということです。
日本の社会科学系の訳語を生み出したのは、西周(にしあまね)です。Philosophyに「哲学」、Scienceに「科学」という訳語を当てました。西周については、私も参加した『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』(副島隆彦+SNSI副島国家戦略研究所著、成甲書房、2014年)の中の第4章をご参照ください。
私は翻訳書を複数出版しております。その中で、いつも戸惑ってしまうのは、主語と単複の区別です。日本語は主語をはっきりさせない言語なので、IやHeやShe、Theyをそのまま訳していくと、文章がくどくなって読みづらくなります。また、単複の区別がないということも痛感させられます。人権(human rights)について言えば、諸人権、様々な権利と訳すとくどくなってしまいます。
日本は歴史的に翻訳を通じて文化を受容してきました。そして、明治以降は翻訳を通じて西洋流の近代化を行ってきました。そして、日清戦争後、中国はたくさんの留学生を日本に送り出してきました。彼らは文字が近い日本語を通じて西洋文化を受容しました。そして、訳語を持ち帰りました。有名な話ですが、「中華人民共和国」という言葉のうち、「中華」以外の、「人民(People)」「共和国(Republic)」は日本語の訳語です。
私が尊敬する政治学者である故ベネディクト・アンダーソンは、翻訳の重要性を指摘しています。一方的な受容だけではなく、発信という点もこれからの日本には重要な事になるでしょうし、世界の変化に伴い、西欧言語以外の著作からの翻訳も重要性を増していくことでしょう。こうした中で、日本が培ってきた翻訳文化が活きてくるということになるでしょう。
(終わり)