古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:吉田茂

 古村治彦です。

 今回は、岸田文雄に関する優れた分析記事をご紹介する。筆者はトバイアス・ハリスで、ハリスはマサチューセッツ工科大学出身で、日本政治研究の泰斗リチャード・サミュエルズの下で勉強した人物だ。ジャパン・ハンドラーズの新世代ということにもなる。

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トバイアス・ハリス
 以下の論稿は、岸田文雄首相就任時に発表されたものだが、非常に優れた分析内容になっている。自民党内のタカ派とハト派、保守傍流と保守本流、安倍晋三と岸田文雄を対照的に描いている。自民党内に派閥(factions)があることは大人であれば誰でも知っているほどの常識であるが、その歴史や総意についてまでは知らないという人が多いだろう。
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 自民党内には保守本流と保守傍流と呼ばれる流れがあり、簡単に言えば、自民党結党時に、吉田茂の流れを汲む自由党系の池田勇人と佐藤栄作が率いる派閥が保守本流、鳩山一郎(のちに河野一郎)と岸信介など日本民主党系の政治家たちが率いた派閥が保守傍流ということになる。池田勇人の派閥が宏池会ということになる。保守本流がハト派、保守傍流がタカ派ということになる。現在の日本政治で言えば、安倍晋三元首相は保守傍流、岸田文雄首相は保守本流ということになる。
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 宏池会は加藤紘一が仕掛けた「加藤の乱」の失敗もあって分裂し、結果として、保守傍流の清和会の天下という状況になった。宏池会は厳しい時代を20年近く過ごすことになった。岸田文雄という次世代のプリンスを守り育てるために、ヴェテランたちが奮闘したということになる。

 簡単に言えば、これから宏池会の復活ということになっていくだろう。宏池会は分裂状態であるが、これを統一して保守傍流である清和会(安倍派)と対校していかねばならない。その際に重要なのは、同じ保守本流である旧田中派・旧竹下派である茂木派(将来は小渕派になる可能性が高い)との協力関係である。そのために、茂木敏充を自民党幹事長に据え、後任の外務大臣に林芳正(宏池会次世代のプリンスに浮上)を起用した意味は大きい。麻生派は河野洋平が作った派閥が源流であり、河野太郎が継承することが既定路線である。これから5年の間の自民党のエースとなるであろう人々は安倍派からは出てこない。福田達夫政調会長が安倍派のプリンスという位置づけになるだろう。しかし、安倍から福田への派閥の禅譲がスムーズに行われるかどうかは不透明だ。

 麻生派も源流をたどれば宏池会である。河野太郎へと派閥が禅譲され、河野派となった後は、安倍派との協力体制が継続するかどうか定かではない。河野太郎が2021年の総裁選挙に出馬した際には安倍晋三は高市早苗を支援した。その点を考えると、河野にとっては岸田の方が総裁選挙で戦った相手とは言いながら、近い関係を築きやすいだろう。

河野太郎は自民党広報本部長に起用されたことで、「降格人事」と評されたが、2021年の総選挙では積極的に日本各地で応援演説を行った。自民党の勝利への貢献は幹事長だった甘利明よりも大きかった。これによって河野太郎は多くの自民党政治家へ「恩を売った」形になり、かつ、足りないと言われていた自民党政治家たちとのコミュニケイションも行われたであろう。河野の広報本部長起用は降格人事ではなく、時宜を得た人事だった。

岸田文雄首相はなかなかの策士である。表面は柔らかく、「頼りない」という印象を述べる人も多い。しかし、保守本流復活と「寛容と忍耐」、日本型資本主義(再分配志向)をこれから行っていくだろう。

(貼り付けはじめ)

岸田文雄の様々な原理原則が試される局面に面している(Fumio Kishida’s Principles Are About to Be Put to the Test

-日本の新しい首相は右派によって支配されている政党の穏健な顔である。

トバイアス・ハリス筆

2021年10月4日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2021/10/04/fumio-kishida-new-japanese-prime-minister-ldp/

2017年8月、安倍晋三は首相としての二度目の任期の5年目を迎え、下落していた支持率を安定させるために、内閣改造(cabinet reshuffle)を行った。閣僚の交代が複数行われた中で、安倍首相は2012年12月から外相を務めていた岸田文雄を与党自由民主党の政策責任者(訳者註:総務会長)に起用した。

政府と与党との間で政策を調整する総務会長という新しい地位に就いた直後、岸田は、安倍内閣から離れてすぐに、安倍首相と距離を取ろうとするようになった。岸田は次のように発言した。「安倍首相と私は衆議院議員初当選が同じ同期であり、個人的には極めて近い関係にあります。しかしながら、私たちの政治家としての哲学や信念について簡単に申し上げると、安倍首相は保守派(conservative)、敢えて言えばタカ派(hawkish)となります。私はリベラル派(liberal)であり、ハト派(dovish)です」。

岸田は安倍とはこれからも緊密に協力していくことになるだろうと述べたが、それからの1年は2018年の自民党総裁選挙に出馬するかどうかを熟考する期間に充てた。これにより、自民党内で最もリベラルな派閥である宏池会のリーダー岸田と保守派の安倍が対決することになった。最終的には、岸田は総裁選挙には出馬せず、宏池会は安倍の再選を支持すると述べたことで、支援者たちを失望させた。

しかしながら、先週、岸田の順番が最終的にやって来た。岸田は、菅義偉首相に再選を諦めるように働きかけることに成功し、9月29日の総裁選挙では人気の高かった河野太郎を破り、圧倒的な強さで首相に就任した。10月4日には正式に首相に指名され、宏池会出身の首相は1993年以来のこととなった。

岸田はひとたび安倍に対抗して総裁選挙に出馬することを考えたが、彼の指導者としての成功は主要な問題について保守的な立場を取ることでもたらされた。日本の軍事力の増強、中国に対する強硬姿勢、憲法改正についてそうであった。これらが彼の勝利に貢献した。この変化は、岸田首相が元首相安倍晋三、麻生太郎の保守的な同盟者たちを自民党執行部と内閣の重要な地位に就けることで強化されるだろう。

このような妥協を、単なるご都合主義だと片付けてしまいたくなる。しかし、岸田の成功は、冷戦終結後からの自民党の右傾化に対して、自民党の穏健派がどのように折り合いをつけてきたかを物語っているのである。

冷戦期間中、自民党は、反共産主義(anti-communism)を中心とした党であり、分裂していた。自民党は2つのグループの事実上の停戦状態の産物であった。1つ目のグループは、いわゆる平和憲法を発布し、米国との不平等な安全保障同盟を受け入れ、ささやかな再軍備を支持した戦後の支配的な吉田茂首相の追随者たちであった。2つ目のグループは、吉田派に対する右派の批判者たちであった。その中には安倍晋三の祖父岸信介も含まれていた。岸は日本の再軍備を望み、より自律的な外交政策を追求した。

これら2つのグループに、後に田中角栄首相が糾合した3つ目のグループが加わった。このグループは、日本の経済的奇跡の果実を開発が進んでいない地方に再分配することに注力した。これらのグループは、時折は休戦をしながら激しく争った。

1990年代初頭で、こうした不安定な平和は崩れた。反共産主義はこれらのグループを結び付けるのりの役割を果たせなくなってしまった。政府高官や大物議員たちの汚職スキャンダルや「失われた10年」と呼ばれる経済停滞の始まりにより、党の信用は失墜し、自民党内からも改革を求める声が出てきた。その結果、自民党は分裂し、1993年には自民党の分派と伝統的な左翼野党を含む連立政権に一時的に敗北してしまった。

この混乱をきっかけとして、自民党右派が自民党の主導権の掌握を目指した。冷戦時代に「反主流派(anti-mainstream)」と呼ばれていた右派は、1990年代に登場した新進気鋭の政治家を中心に、日本を強くするための施策や国威発揚などを訴えて力を蓄えていった。

自民党右派は世紀を変わり目で優位を得た。それ以降、自民党右派は自民党を支配してきた。その締めくくりとして、安倍晋三は2012年から2020年まで首相を務め、「史上最長記録を残した。ひとたびは主流派から疎外された右派は主流派となった。そして、穏健派とリベラル派のライヴァルたちが反主流派となった。自民党内で何とか生き残っている状態になった。

岸田のキャリアは、彼が生まれ育った自民党内のリベラル派の長期的な衰退と完全に一致している。岸田は1957年に東京に生まれた。岸田家は広島で長い歴史を誇る一族だ。岸田文雄は岸田文武の長男として生まれた。岸田文武は強力な通商産業省の官僚だった。広島という土地は岸田の政治的アイデンティティにとって極めて重要だ。広島は日本の反軍国主義のシンボル的な拠点であるだけではなく、自民党のリベラル志向の中心地でもある。自民党リベラル派の派閥宏池会の創設者池田勇人は広島県の出身だった。

池田は1960年に首相に就任した。岸信介がアメリカとの新しい安全保障条約締結に邁進し、結果として激しい抗議活動が起き、彼の政権は崩壊した。その後を受けたのが池田だ。池田は、「寛容と忍耐(tolerance and patience)」 の政治を追求し、広範な経済成長に集中することで反応した。これらが池田率いる派閥宏池会の基盤の諸原理となった。

岸田家が自民党リベラル派の伝統に引き寄せられたのは、岸田文雄の父文武が官僚を辞めて政界に転じた1978年のことだった。文武は国会議員になるために広島から立候補した。彼は宏池会のメンバーだった。その他の経験も岸田の、公正さ、公平、平和を強調するリベラリズムへの傾倒を促すことになった。岸田文雄は、父文武が1960年代半ばにアメリカに派遣されたので、彼もアメリカに渡り、ニューヨーク市の公立小学校に入学して人種差別を経験した。父文武が1992年に死去し、岸田文雄は、父の出身地と所属派閥から、選挙に出馬し、宏池会に所属することは当然の成り行きであった。

1993年に岸田は衆議院議員に初当選したが、これは宮澤喜一政権の終焉と共に起きた。宮澤喜一は岸田にとって父方の親戚にあたる。そして、宮沢は岸田が首相になるまで、宏池会出身の最後の首相となった。

その間の数十年間、派閥は何度も衰退し、分裂した。その中には、2000年に、宏池会の指導者が不人気な右派の首相である森喜朗を追い落とそうとしたが、失敗に終わったことも含まれている。岸田は若手代議士としてこの反乱を支持した。派閥が崩壊し、指導者が影響力を失うのを目の当たりにして、右翼の台頭に直接立ち向かうことが不幸な結果を招くことを学んだ。

その代わりに、岸田はスポットライトから外れて経験と専門性を静かに獲得した。一方、岸田と同期当選の安倍は自民党の最高権力レヴェルを争った。岸田は自民党内の下級の職務を経て、2007年の第一次安倍政権の末期に初入閣を果たした。その間に、リベラル派の議員たちと一緒に分裂した宏池会の再結集に取り組んだ。

この期間中、岸田は、保守右派が支配する自民党の中で、リベラル派が果たすべき役割を明確にしようとしていた。岸田にとって、自民党内のリベラリズムは根本的に政治スタイルについてのもので、政策についてではなかった。岸田は彼自身の派閥宏池会の歴史を踏まえた上で、どのような役割を果たすことができるかというビジョンを示している。

第一に、岸田は、自分の政治上の先輩たちが何よりもリアリストであったと主張した。岸田は2015年の国会討論の中で、次のように述べた。「このグループの人々の特性の一つは、戦後政治の中で、特定のイデオロギーや主義主張にとらわれず、極めて現実的に物事を考え、リアリズムに基づいて政策を立案したことだ」。宏池会が主張してきた軽武装の日本が米国と同盟を結び、軍事力よりも経済成長への投資を優先させるという政策は、特定の状況への対応であり、永遠の真実ではないということだ。適切な政策は時間の経過とともに変化し、変化すべきだということになる。

第二に、岸田は、自民党のリベラル派はバランスを取る勢力となるべきだと主張した。例えば、2005年に彼の支持者に宛てた新年の書簡の中で、岸田は「強力な指導力、アメリカ中心の外交、そしてタカ派を新たに協調していること」といった自民党右派の政策だと言及している。しかし、「それぞれの意義を否定するものではないが、バランスが大切だと考えている」と注意を促している。岸田は、自民党保守派が政治的な現実を見失わないようにするためには、自民党リベラル派が必要だと考えていた。

最後に、岸田によると、日本の指導者たちは謙虚に行動しなければならないということだ。自分たちの権力を濫用しないように気を付け、考えが違う人々の考えを受け入れるべきで、一般の人々の同意を取り付けるようにしなければならない。自民党総裁選挙の選挙運動の期間中、彼は、全ては「聞くこと」に尽きると主張した。「人の話に耳を傾けることが、信頼の原点だと思う。私は他の誰よりも菊能力が持っていると考える」と語った。岸田の信念は安倍とは対照的だ。例えば、安倍首相は政策に反対されると、「なぜ自分のやり方が最も良いのか、もう一度説明しなければならない」と強調するが、それとは対照的だ。

最終的に、岸田はこれらの原則なくして日本が直面する深刻な課題を克服することはできないと考えている。岸田は2020年に次のように書いている。「私たちの未来には、想像を絶するような混乱と国家的危機が待ち受けている。そういう時代だからこそ、徹底したリアリズムとバランス感覚が強く求められる。それには、国民の協力が不可欠だ。そして、政治への信頼を回復することなしに、国民に協力を求めることはできない」。

岸田にとって、これらの信念は、自民党右派と争うのではなく、右派と協力する方法を見つけることを正当化するものだった。しかし、安倍政権の外務大臣として政権内に穏健さをもたらしたことと、岸田自身が首相になることには、まったく別の課題がある。強固な保守派が率いる政権内における釣り合いを取るリベラル派という立場ではなくなり、岸田は今でも右派が支配している自民党の穏健派の顔となっている。

これによって、岸田の持つ諸原理が試されることになる。彼は、謙虚な政治スタイルへの志向と、保守派の同盟者たちからの要求との間で板挟みになる可能性がある。国防費、憲法改正、中台関係のバランスなど、いずれにしても、国民や自民党右派を政権から遠ざける可能性のある重大な決断を迫られることになるだろう。その時、自民党リベラル派が冷戦時代の名残なのか、それとも激動の未来に向けて日本を導く重要な役割を担っているのかを、岸田は示すことになるだろう。

※トバイアス・ハリスはセンター・フォ・アメリカン・プログレス上級研究員。『因襲破壊者-安倍晋三と新しい日本(The Iconoclast: Shinzo Abe and the New Japan)』の著者。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23

 

 古村治彦です。

 

 今回は、『昭和の三傑 憲法九条は「救国のトリック」だった』(堤堯著、集英社文庫、2013年)を皆様にご紹介したいと思います。

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 著者の堤堯(つつみぎょう、1940年~)は、東大卒業後、文藝春秋社に入社。『諸君!』『文芸春秋』の編集長を歴任した人物です。子供の時に太平洋戦争を経験し、その記憶が残っている人です。

 

 本書で取り上げられているのは、鈴木貫太郎(1868~1948年)、幣原喜重郎(1872~1951年)、吉田茂(1878~1967年)の三名の首相経験者です。それぞれは毀誉褒貶が激しい、もしくは低評価の人々です。そうした低評価や批判に対して、著者の堤堯は反論をしています。

 

 鈴木貫太郎に対する最大の批判は、「もっと早く降服していれば、原爆投下とソ連の参戦を招かずに済んだはずだ」というものです。特にポツダム宣言が発表された後、鈴木首相が「黙殺する(ignorereject)のみ」としたために、アメリカは原爆投下を決定したという批判は今でもあります。

 

 堤堯は、昭和20年春の段階で終戦(敗戦)にまでもっていくのは大変なことで、軍からの抵抗が激しく、とても尋常な方法では終戦まで持っていくことはできなかった。戦う姿勢を示しながら、それでも終戦に向かうためには、鈴木首相の胆力と演技力と、大胆な発想(最後は天皇の決断である「聖断」を仰ぐ)、「腹芸」が必要であったと主張しています。鈴木首相の腹芸がなければ、日本は米ソによって分割統治されていたかもしれないと指摘しています。

 

 幣原喜重郎に関しては、「日本国憲法第九条はアメリカ側(ダグラス・マッカーサー元帥率いるGHQ)に押し付けられたのか、日本側から言い出したものなのか」という疑問が常に付きまとい、保守派からは低い評価しか受けない人物です。

 

 堤堯は、当時の諸外国の対日世論は強硬であり、特に天皇に対して何らかの責任を取らせる、もしくは退位や流罪、処刑を求める声が大きかったことを指摘しています。しかし、現場(日本占領)の最高指揮官である、ダグラス・マッカーサーは、日本の占領統治のためには天皇の存在が不可欠であるということは分かっていて、何とかしたいと思っていたということです。そこで、幣原は、天皇の存在を守るために、そして、米ソ冷戦、代理対決の危険を予測して、日本はそれには巻き込まれないようにするために、「戦争放棄をマッカーサーに進言し、一世一代の名演技で、驚き渋るマッカーサーを籠絡した」と堤堯は書いています。そして、米ソの対立の激化、朝鮮戦争の勃発で、マッカーサーをはじめとするアメリカ側は「幣原にやられた」と気付くことになるのです。

 

 一つ興味深かったのは、幣原喜重郎の自伝が発刊された際に、幣原の息子があとがきを書いているのだそうですが、徹頭徹尾、「憲法九条はアメリカから押し付けられたもので、父が発案したものではなく、父は苦しんでいた」と主張しているのだそうです。幣原家に対しては保守派からの相当の攻撃があり、家族も嫌なめに遭遇したのだろうということが想像できます。そう思うと、日本を救うことになる憲法九条を発案した幣原喜重郎を再評価し、家族の労苦をしのぶことが必要だと私は考えます。

 

 吉田茂は毀誉褒貶が激しい人物ですが、「アメリカ占領中は再軍備にひたすら反対しながら、晩年は核武装まで言い出した」という「極端な姿勢の変化」を批判されることがあります。また、吉田首相の政権運営が独断的であり、時に周囲を計算高く利用していたために、人々の人気はありませんでした。

 

 堤は、吉田首相がアメリカらの日本の再軍備(と朝鮮戦争への派兵)を頑なに拒否できたのは、憲法九条があったからだと書いています。また、サンフランシスコ講和会議の後に締結された日米安保条約もアメリカを「番犬」として使うための方便であったということになります。

 

 しかし、この点に関しては、日米安保条約は吉田茂だけがプレシディオの米海軍基地(現在は映画監督スティーヴン・スピルバーグが率いるドリームワークスの本拠地となっています)に引き立てられるように連れて行かれ、下士官食堂で署名「させられた」ということがどうも真実に近いのではないかと言われています。帰ってきて「池田君、大変なことになった」とぶるぶる震えながら吉田首相が話したという証言もあります。アメリカも馬鹿ではありませんから、憲法九条と引き換えに、米軍駐留を認めさせられた、仇を取られたというのが正しいのではないかと考えます。著者の堤堯は、吉田茂をやや神格化して書いているのではないかと思います。

 

 本書のサブタイトルである「憲法九条は『救国のトリック』だった」こそが堤堯の言いたいことです。憲法九条があったことで、戦後日本はアメリカの戦争に付き合わずに済み、アメリカを「お番犬」として利用できたのです。アメリカからの再軍備(と朝鮮戦争への派兵)を吉田首相がとことん拒否できたのは憲法九条があったからだと堤堯は書いています。この点は全くその通りだなと肯定できます。しかし、そこからがいけません。

 

 著者の堤堯は、憲法九条は「トリック」であり「擬態」であるのだから、国力もついた現在は、その変更もやむなしという主張です。しかし、私は堤の「憲法九条ができた時に、これで自分は戦争に行かないで済むと思った」という心からの叫びこそを重視したいと思います。彼もまた子供時代に戦争を体験し、空襲の中を逃げまどい、大きくなったら戦争に行って死ぬんだと思っていたそうです。この時代の子供たちの多くはそう思っていたことでしょう。そのような安堵感を持った堤は実際に戦争に行かずに70歳を超える年齢まで生きることが出来ました。これから戦争が起きても、まず最前線に行く必要はないし、一流出版社の重役まで務めた人物ですから年金もたくさんもらえるでしょう。

 

 そうした人物が「若者たちよ、死んで来い」と言う訳です。これはズルいことだし、卑怯なことです。石原慎太郎にも感じることですが、自分たちが助かったら、あとは知らないという独善的かつ卑怯な言動や振舞いをすることがこの世代の保守派にはあります。国を憂い、偉そうなことを述べていますが、「結局自分たちがいちばんおいしい思いをした」という思いを胸に死んでいくだけの人々です。

 

 それなら、自分の真情を少しでも吐露して、自分たちの化けの皮を剥いで新で行って欲しいと思います。堤堯は「憲法九条ができて、助かった、自分は戦争に行かずに済むと思った」と書いています。この一行があるだけで、まだ石原慎太郎よりはずっとましです。しかし、結局は偉そうなことを書く。だから本当の意味で信頼も得られないし、胡散臭さを消すことができないのだと思います。

 

 私は、日本がアメリカの属国である以上、擬態、トリックを続けていくことが重要であると思います。「戦争放棄」「他国の領土には侵攻しないしできない」と言い続けることが、現在でも、大きな負担や他国からの恨みを避けるために有効であると考えます。そのためにこそ、憲法九条は改正する必要はないし、集団的自衛権の行使容認も認めるべきではありません。ここが崩れてしまえば、堤防にあいた小さな穴となって、アメリカの下請け化がどんどん進んでいくということになります。それこそが日本にとって大きな不幸になります。

 

 日本の保守派の中には、自分たちのことをリアリスト(現実主義者)だと自称する人々が数多く存在します。彼らは集団的自衛権の行使を容認し、「アメリカと一緒になって」中国に対抗して、いざという時には中国と一戦交えることも辞さない、昔の言葉で言えば「暴戻支那は膺懲すべし!」と意気軒昂です。日本単独では無理なので、アメリカと一緒になってという点が味噌です。

 これはアメリカにとって渡りに船で、「じゃぁ色々とやってもらいますよ。今まで通りに米軍基地も置いておいてもらいますし、思いやり予算(
host nation’s support)も続けてもらいますし、加えて自衛隊の米軍統合運用(米軍下請化)もやってもらえるそうで、ありがたいこと」ということになります。なぜ近隣諸国との緊張を高め、負担を自ら増やして何の得も利益も得られないことをすることが、「リアリスティック(現実的)」なのでしょうか。日本語の格言に「損して得取れ」というものがありますが、今の状態は「損してもっと損しろ」です。自分たちの思いこみや希望、他人任せの、他人を犠牲にしての愛国心を満足させる行為のために、国全体を危機に陥れ、滅亡に進ませるという点で、彼らはリアリストでもなんでもなく、「夢想主義者」でしかありません。

 

(終わり)







 

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