古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:国際関係論

 古村治彦です。

 2023年12月27日に『バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる』(徳間書店)を刊行しました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

 世界の構造について大きく分類すると、一極(超大国が1つ)、二極(超大国が2つ)、多極(大国が多く存在する)ということになる。一極の例で言えば、ソヴィエト連邦崩壊後、世界ではアメリカのみが超大国として君臨する状態ということになる。二極は、冷戦期の米ソ、現在の米中ということになる。多極は第一次世界大戦前、第二次世界大戦前のような状況だ。ヨーロッパではヨーロッパの協調ということで、複数の大国が平和を維持するという体制になっていたが、相互に誤解と誤った認識をしてしまうと、平和が破綻するということが起きた。このことから、二極の方がお互いの意図を誤らずに認識できるということで、平和が続くということが言われている。冷戦期は世界各地で戦争や紛争は起きたが、米ソ双方が直接戦い、核戦争まで至らなかったということで、「長い平和(Long Peace)」という評価がなされている。

 一極体制は最も安定しているように見えるが、新興大国が出てくると、不安定さが増す。また、一極体制の支配国、覇権国が安全保障などで、不公平な取り扱いをするということになれば、各国が反感や怒りを持つということもある。アメリカの一極体制は、アメリカが介入した外国からの反感による「ブローバック(blowback、吹き戻し)」に遭った。

 現在の世界は、米中による「G2」体制(Great of Two)となっている。そして、世界は、これから多極化していくという予想も出ている。

下に掲載した論稿の著者ジョー・インゲ・ベッケウォルトは以下のように主張している。

政治家、外交官、国際政治の専門家たちが世界の多極化に関する議論を展開しているが、現実はまだ多極化していない。現在、アメリカと中国のみが経済的、軍事的に大国として存在し、他の国はそのレベルに達していない。インドやロシアも有力候補として挙げられるが、極になるには経済力や軍事力の面で足りていない。

多極化論が人気の理由は、規範的概念としての魅力や対立回避の希望があるからだ。一極、二極、多極体制では行動や政策が異なり、誤解は誤った政策を生む可能性がある。多極化は未来に期待される可能性もあるが、現状では二極化した世界に生きる必要があり、戦略と政策はその状況に応じて考えられるべきだ。

 私は、現在は二極体制であるが、これはあくまで、アメリカがまだまだ強く、中国が弱いというところであり、二極体制の性格がこれから変化していく途中であり、しばらくは多極化しないと考えている。アヘン戦争勃発200周年の2040年、中華人民共和国建国100周年の2049年、この2040年代に中国はアメリカを追い抜くということを考えていると思う。この時期でも米中に匹敵する国は出てこず、それ以降は、中国が大、アメリカが小の二極体制が続くものと考える。その時期には、ヨーロッパ連合、インド、ロシアなどが米中に続く存在となっているだろうが(日本は脱落しているだろう)、世界の重要な決定に関与できるまでは行っていないだろう。短期的(10~30年)、中期的(30~50年)でみれば、米中二極体制が関係性の面で変化を起こしながら、続いていくことになるだろう。二極体制が安定し、平和が続いていくためには、相互の正しい理解と認識が必要ということになる。

(貼り付けはじめ)

いいえ、世界は多極的ではない(No, the World Is Not Multipolar

-新興大国の出現という考えは人気を集めているが、間違っている。そして、深刻な政策の誤りを導くことになるだろう。

ジョー・インゲ・ベッケウォルト筆

2023年9月22日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2023/09/22/multipolar-world-bipolar-power-geopolitics-business-strategy-china-united-states-india/

政治家、外交官、国際政治の専門家たちが主張する最も根強い議論の1つは、世界は多極化(multipolar)している、あるいはまもなく多極化するだろうというものだ。ここ数カ月、この議論は国連事務総長のアントニオ・グテーレス、ドイツのオラフ・ショルツ首相、ドイツのアンナレーナ・ベアボック外相、フランスのエマニュエル・マクロン大統領、ブラジルのルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルバ大統領、ロシアのウラジーミル・プーティン大統領によってなされてきた。ヨーロッパ連合(EU)のジョゼップ・ボレル外務上級代表は、2008年の世界金融危機以来、世界は「複雑な多極化(complex multipolarity)」のシステムになっていると主張している。

この考え方はビジネス界でも普及しつつある。投資銀行のモルガン・スタンレーは最近、「多極化した世界を乗り切る」ための戦略文書を発表し、ヨーロッパの名門ビジネススクールであるINSEADは、そのような世界におけるリーダーシップ能力について懸念している。

しかし、政治家、専門家、投資銀行家たちが言うことに反して、今日の世界が多極化に近いというのは単なる神話に過ぎない。

その理由は単純明快だ。極性とは、国際システムにおける大国の数のことだ。そして、世界が多極化するには、そのような大国が3カ国以上存在する必要がある。現在、極を形成できるほどの経済規模、軍事力、世界的な影響力を持つ国は、アメリカと中国の2カ国だけだ。他の大国はどこにも見当たらず、当分の間は見当たらない。人口が多く経済が成長している中堅国や非同盟国が台頭しているという事実だけでは、世界が多極化する訳ではない。

国際システムにおける他の極の不在は、明らかな候補を見れば明らかだ。2021年、急成長を遂げるインドは、力を測る指標の1つである防衛費支出で第3位だった。しかし、ストックホルム国際平和研究所の最新の数字によると、インドの軍事予算は中国の4分の1にすぎない。(そして、中国の数字は一般に信じられているよりも更に高いかもしれない。)今日、インドは依然として主に自国の発展に集中している。インドの外交サーヴィスは規模が小さく、インド太平洋での影響力の重要な尺度である海軍は、過去5年間で5倍の海軍トン数を進水させた中国と比較すると小さい。インドはいつかシステムの極になるかもしれないが、それは遠い将来のことだ。

経済的な豊かさは、権力を行使する能力を示すもう1つの指標である。日本は世界第3位の経済大国だが、国際通貨基金の最新の数字によると、日本のGDPは中国の4分の1以下である。ドイツ、インド、イギリス、フランスという日本に続く、4つの経済大国は、更に小さい。

また、エマニュエル・マクロンや他の多くの人々がそのような主張を精力的に展開してきたとしても、EUは第三極(third polar)ではない。ヨーロッパ諸国には様々な国益があり、ヨーロッパ連合には亀裂が生じやすい。ヨーロッパ連合(EU)のウクライナ支援は一見結束しているように見えるが、ヨーロッパの防衛、安全保障、外交政策は統一されていない。北京、モスクワ、ワシントンがパリやベルリンと対話し、めったにブリュッセルを訪れないのには理由がある。

もちろん、ロシアは国土の広さ、膨大な天然資源、膨大な核兵器の備蓄から、大国になる可能性のある候補である。ロシアは、国境を越えて影響力を持っていることは確かだ。大規模なヨーロッパ戦争を繰り広げ、フィンランドとスウェーデンをNATOに加盟させた。しかしながら、経済規模はイタリアより小さく、軍事予算はせいぜい中国の4分の1に過ぎないため、ロシアは国際システムの第三極にはなれない。せいぜい、ロシアは中国を支援する役割しか果たせない。

多極化を信じる人々の間で広く議論されているのは、グローバルサウスの台頭と西側の地位の低下だ。しかし、インド、ブラジル、トルコ、南アフリカ、サウジアラビアなどの新旧中堅大国(middle powers)の存在は、システムを多極化するものではない。これらの国はいずれも、自国の極となるための経済力、軍事力、その他の影響力を持っていないからだ。言い換えれば、これらの国にはアメリカや中国と張り合う能力がないのだ。

アメリカの世界経済におけるシェアが縮小しているのは事実だが、特に中国と合わせると、依然として優位な立場にある。この二超大国は世界の防衛費の半分を占めており、両国のGDPを合計すると、それから下の経済大国33カ国の合計とほぼ同等となる。

先月ヨハネスブルグで開催されたBRICSサミットでBRICSフォーラムが拡大したこと(以前はブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカのみだった)は、多極秩序(multipolar order)が到来したか、少なくとも前進しつつある兆候と解釈されている。しかし、ブロックは極(poles)として機能するにはあまりにも異質であり、簡単に崩壊する可能性がある。BRICSは首尾一貫したブロックには程遠く、加盟諸国は国際経済秩序に関する見解を共有しているかもしれないが、他の分野では大きく異なる利益を持っている。協調関係を示す最も強力な指標である安全保障政策では、2大加盟国である中国とインドは対立している。実際、北京の台頭により、インド政府は米国とより緊密に協調するようになっている。

従って、世界が多極化していないのなら、どうして多極化論はこれほど人気が​​あるのだろうか? 国際関係に関する事実や概念を無視するという怠惰なやり方に加えて、3つの明白な説明が浮かび上がる。

第一に、多極化の考えを推し進める多くの人々にとって、それは規範的な概念である。それは、西洋の支配の時代は終わり、権力は分散している、あるいは分散しているべきだと言っている、あるいは望んでいることの別の言い方である。グテーレスは、多極化(multipolarity)を、多国間主義(multilateralism)に修正し、世界システムに均衡(equilibrium)をもたらす方法と見なしている。多くのヨーロッパ各国の指導者たちにとって、多極化(multipolarity)は二極化(bipolarity)よりも好ましい選択肢とみなされている。なぜなら、多極化はルールによって統治される世界をより良く実現し、多様な主体とのグローバルなパートナーシップを可能にし、新しいブロックの出現を防ぐと考えられているからだ。

実際に、多国間枠組は確かに想定通りに機能しておらず、西洋の人々の多くは、多極化の考えをより公平なシステム、多国間主義を復活させるより良い方法、そして、グローバルサウスとの拡大する断絶を修復する機会と見ている。言い換えれば、存在しない多極化を信じることは、世界秩序に対する希望と夢の花束の一部だ。

多極化の考え方が流行している2つ目の理由は、30年にわたるグローバル化(globalization)と比較的平和な状況の後、政策立案者、専門家、学者たちの間で、アメリカと中国の間にある激しく、包括的で、二極化した対立の現実を受け入れることに非常に抵抗感があることだ。この点で、多極化を信じるということは、一種の知的回避(intellectual avoidance)であり、冷戦が再び起こらないようにという願いの表れだ。

第三に、多極化に関する議論はしばしば権力争いの一部である。北京とモスクワは、多極化をアメリカの力を抑制し、自国の立場を前進させる手段と見なしている。アメリカが圧倒的な優位を占めていた1997年に遡ると、ロシアと中国は多極化世界と新国際秩序の確立に関する共同宣言に署名した。中国は今日では大国であるが、依然としてアメリカを主な課題と見なしている。北京はモスクワとともに、多極化という概念は、南半球を喜ばせ、自国の大義に引き付ける手段として利用している。多極化は2023年を通じて中国の外交的魅力攻勢の中心テーマであり、プーティン大統領は7月のロシア・アフリカ首脳会談で、出席した指導者らが多極化世界を推進することで合意したと宣言した。同様に、ブラジルのルラ大統領のように台頭する中堅国の指導者が多極化という概念を推進する場合、それは自国を主要な非同盟国として位置づけようとする試みであることが多い。

極、そしてそれに関する誤解が広まっていること自体が重要なのかと疑問に思う人もいるかもしれない。簡単な答えは、世界秩序における極の数は非常に重要であり、誤解は戦略的思考を不明瞭にし、最終的には誤った政策につながるということだ。極が重要な理由は2つある。

第一に、一極(unipolar)、二極(bipolar)、多極(multipolar)体制では、国家の行動に対する制約の度合いが異なり、異なる戦略と政策が必要となる。例えば、6月に発表されたドイツの新しい国家安全保障戦略では、「国際および安全保障環境は多極化が進み、不安定になっている」と述べている。多極体制は確かに一極や二極体制よりも不安定であると見なされている。多極体制では、大国は同盟や連合を結成して、1つの国が他の国を支配することを避ける。大国が忠誠心を変えた場合、継続的な再編や突然の変化につながる可能性がある。二極体制では、2つの超大国が主にお互いのバランスを取り、主なライバルが誰であるかを疑うことはない。したがって、ドイツの戦略文書が間違っていることを願うべきだ。

極は企業にとっても重要だ。モルガン・スタンレーと INSEAD は、顧客と学生を多極化した世界に向けて準備させているが、二極化したシステムで多極化戦略を追求することは、高くつく間違いとなる可能性がある。これは、貿易と投資の流れが極の数によって大きく異なる可能性があるためだ。二極化システムでは、二大国は相対的な利益を非常に気にするため、経済秩序はより二極化し、分裂する。秩序の種類ごとに異なる地政学的リスクが伴い、企業が次の工場をどこに建設すべきかという戦略を誤ると、非常に高くつく可能性がある。

第二に、明らかに二極化している世界が多極化すると、友好国にも敵国にも同様に誤ったシグナルを送る可能性がある。4月のマクロン大統領の中国訪問中に発せられた発言が引き起こした国際的な騒動が、この点を物語っている。ヨーロッパに帰る途中の機内でのインタヴューで、マクロン大統領はヨーロッパが第三の超大国になることの重要性を強調したと伝えられている。マクロン大統領が多極化について熟考する姿勢は、ワシントンやヨーロッパのフランスの同盟諸国には受けが悪かった。中国側のホストは喜んでいるように見えたが、マクロン大統領の多極化に関する考えを、米中対立で中国を支持するフランスや欧州の姿勢と混同すれば、誤ったシグナルを受け取ったことになるかもしれない。

多極体制は、敵対する超大国が2つある世界ほど、露骨に二極化していないかもしれないが、必ずしもより良い世界につながるわけではない。多国間主義の手っ取り早い解決策ではなく、更なる地域化(regionalization)につながる可能性もある。多極化を望み、存在しないシステムにエネルギーを費やすよりも、より効果的な戦略は、既存の二極体制内で対話のためのより良い解決策とプラットフォームを探すことである。

長期的には、世界は確かに多極化する可能性があり、インドはアメリカと中国に加わる最も明白な候補である。しかし、その日はまだ遠い。私たちは予見可能な将来、二極化した世界に生きることになるだろう。そして、戦略(strategy)と政策(policy)はそれに応じて設計されるべきである。

※ジョー・インゲ・ベッケウォルト:ノルウェー国防研究所中国担当上級研究員、元ノルウェー外務省外交官。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 アメリカには、プリンストン大学公共・国際問題大学院、ハーヴァード大学ケネディ・スクール、タフツ大学フレッチャー法律・外交大学院といった、将来、政府に入って仕事をすることを目指す学生向けの政策大学院(Policy Schools)と呼ばれる大学院がある。これらのアイヴィー・リーグなどの一流有名大学の政策大学院を出た人々が米国務省や米国防総省に入って仕事をすることになる。こうした政策大学院の教育の特徴は、学術研究に重点を置くのではなく、学術研究で得られた成果を実際に応用する、現実的、実践的なプログラムである。

 実践的なプログラムにはもちろん、日本でも流行っているインターンシップも入っているが、多くの場合に行われるのは、ケーススタディ(Case Study、事例研究)である。国内政治や国際政治で起きた出来事について、その当時の政府関係者たちがどのように対処したか、どのようにうまく対処したか、どのように失敗したか、ということを分析的に、かつ批判的に学んでいく。どうしてそのような方策を選んだのか、ということも学び、それに理論を応用するということも行う。理論と実践の2つの方面から学んでいくことになる。

 下記の記事で、スティーヴン・ウォルト教授は、自分たちが教えていることは時代遅れになっておいて、学生たちが卒業後に政府機関などで働く際に役に立たないことが多いのではないか、という疑問を持っていると書いている。これは正直な書き方である。自分のやっていることに対する懐疑を持つということはなかなかできることではない。

 2020年代、世界は大きく変動している。新型コロナウイルス感染拡大騒動とウクライナ戦争は大変動の兆候である。更に、ウクライナ戦争で明らかになった、「西側諸国(the West)」対「それ以外の国々(the Rest)」の分断ということも起きている。小さな事件であれば、これまでの学術成果で分析も可能だろうが、問題は、もっと大きな、より俯瞰的な視点が必要な大変化、大変動が起きているということだ。それに、これまでの国際関係論や政治学の学術研究の成果が追い付いていないというのが、それらに携わる専門家たちの偽らざる考えなのだろう。ウォルトがそれをはっきりと書いたところに意味がある。考えてみると、学問の世界は西洋中心主義(Ethnocentrism)で進んできており、学術研究の対象は西洋諸国であり続けた。そこで見られたパターンや循環などとは違うことが起きつつある。

学術界から飛び出して、より一般的なところから考えてみたい。人々の間には、世界的な大変動の兆候を感じ、不安感が広がっている。自分たちがこれまで生活してきた世界の秩序や構造が変化すると、自分たちの生活はどうなるのかという不安を持つようになる。はっきりと書けば、西洋諸国の人々は自分たちに有利だった世界の終焉が近づいていることに怯えている。一方で、それ以外の国々の人々は、元気で、これからもっと生活を良くするぞ、世界は自分たちのものになるぞ、という気合が入っている。世界は大きな転換点を迎えている。

(貼り付けはじめ)

核政策大学院はまだ意味を持っているのか?(Do Policy Schools Still Have a Point?

-世界規模の激動の時代に公共政策学の教授として長いキャリアを積んだある学者の回想。スティーヴン・M・ウォルト筆

2023年9月8日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2023/09/08/do-policy-schools-still-have-a-point/

数週間前に授業が始まったが、年度が始まるにあたり、私は奇妙なことを考えた。私はキャリアのほとんどをいくつかの公共政策大学院(schools of public policy)で教えてきた(最初はプリンストン大学でキャリアをスタートさせ、その後、現在はここハーヴァード大学で教えている)。これらの大学は、学生を公共部門(public sector)に就職させるために存在するが、卒業生の多くはキャリアのある時点で他の仕事に就くことになる。私は、同僚や私が、加速度的に変化する時代の中で、関連性が急速に薄れていくような知識やスキルを教えている可能性はないのだろうか、と考えた。明日の分からない新世界で価値が高まるかもしれない別の能力を、学生たちが身につけるのを助ける機会を、私たちは見逃していないだろうか? 従来の公共政策教育学へのアプローチを見直すべきか、少なくとも深刻な調整を加えるべきか? 過去に何度か「カリキュラム改革(curriculum reforms)」を経験してきた私は、私たちの取り組みが十分に進んでいるのか疑問に思った。

少し背景を見てみよう。公共政策大学院は、数十年前から高等教育の成長産業(growth industry)となっている。こうしたプログラムの起源は第二次世界大戦前にまで遡ることができるが、元々の数は少なかった。近年は人気が高まり、多くの大学にプログラムが設置されるようになっている。プリンストン大学公共・国際問題大学院、ハーヴァード大学ケネディ・スクール、タフツ大学フレッチャー法律・外交大学院、シラキュース大学マックスウェル市民・公共問題大学院、フランス国立行政学院、その他数校は何十年も前から存在するが、シカゴ大学ハリス公共政策大学院、オックスフォード大学ブラヴァトニク行政大学院、ベルリンのヘルティー・スクール、テキサスA&M大学ブッシュ政府・公共サービス大学院、その他多くの大学院は最近創設されたものだ。

これらの学校にはそれぞれ独自の特徴を持つが、同時にいくつかの類似点も存在する。それらのほとんどは、公共政策の効果的な実施に必要と思われる特定の基本的な分析スキル、通常の経済学、統計、政治分析、倫理、リーダーシップトレーニング、管理の組み合わせを伝えようとしている。また、特定の政策分野(国家安全保障政策、地方自治体、人権、財政、環境など)に関する実質的な専門知識を学生に習得する機会も与え、同時にチームビルディング、ライティング、スピーキングのスキルを鍛え、どのように政策を推進するかを研究する。また自身の専攻分野が様々な政治制度で作られていることも学ぶ。

地域によって違いはあるものの、これらのプログラムはすべて、公的部門や政治の世界で指導者になるべき人々が、自分たちが活動している世界を理解し、現在および将来の公共問題に対する効果的な解決策を考案するのに役立つ学術的知識があることを前提としている。そしてその前提には、過去の人類の経験から導き出された知識は、今後も正確であり続け、これから起こるであろう新たな問題に対しても適切であり続けるという、更なる確信が暗黙のうちに含まれている。言い換えるならば、このようなプログラムを構築する教授陣は、通常、人間の行動に関する永続的な法則「enduring laws of human behavior」(「需要と供給(supply and demand)」、「力の均衡(the balance of power)」、「集合財理論(collective goods theory)」など)を発見したと考えている。また、指導者が複雑な問題に取り組まなければならなかった過去の事例を学生たちに示すことで、生徒の将来のキャリアに役立つ教訓になると考えている。これらのツールを学び、これらのケースを吸収すれば、どんなことにも対応できるようになる、ということである。

そう思いがちだが、どうだろうかと疑問を持っている。もし私たちが、今日の知識が役に立たなくなったり、適切でなくなったりするような形で変容しつつある世界に足を踏み入れているとしたらどうだろうか?

正直なところ、このようなことを考えている(疑問を持っている)自分に私自身が驚いた。私は一般的に、最新の新展開(原子爆弾、多国籍企業、ビッグテック、イスラム過激派、グローバリゼーション、人権革命など)が政治や社会の本質を変容させ、過去の経験を陳腐化させるという主張には懐疑的だ。結局のところ、政治的リアリズム(political realism)は、人間の本質の不変の特徴(unchanging features of human nature)と歴史的経験の連続性(continuities of historical experience)を強調する。リアリストにとって、政治生活の最も重要な特徴(権力闘争、戦争、同盟、国家の興亡、誤った認識など)は、それを最小化しようとする私たちの努力にもかかわらず、時空を超えて繰り返され続けるのである。言っておくが、私はこれらの不朽の名言のほとんどは、少なくともしばらくの間は有用であり続けると考えている。

しかし、私たちの目の前で起きていることについて考えてみよう。

第一に、気候変動が急速に加速していることを示す証拠は、私たちの周囲に溢れている。化石燃料(fossil fuels)やその他の温室効果ガス(greenhouse gases)の燃焼を遅らせ、最終的には元に戻そうとする努力は、期待外れに終わっている。地球の平均気温が上昇するという最悪のケースを予測すると、その可能性はますます高くなり、この事態は政治、移住、食糧生産、水不足、生物多様性、洪水や干ばつなどの自然災害の頻度や強度に深刻な影響を及ぼしそうだ。人類はこれまでも地球の気候変動に適応してきたが、ごく近い将来、これほど急速かつ広範囲に適応を迫られることはなかった。

第二に、更に強力になっていく人工知能の発達は、人間の様々な活動を混乱させ、既存の政治制度に多くの不愉快な問題を提起している。このような能力がどこまで拡大するのか、私には見当もつかないが、現段階では誰にも分からない。しかし、全てではないにせよ、人間の生き方を良くも悪くも変えてしまう可能性は非常に大きく、その変化のスピードは、産業革命(Industrial Revolution)がそれに比べればむしろ退屈なものに思えるかもしれない。

第三に、過去数十年にわたって見てきたように、スマートフォンの出現とソーシャルメディアの普及は政治の世界を一変させ、既存の政治制度に新たな予期せぬ負担を強いている。この有害な新テクノロジーのミックスに、人工知能(AI)の登場とディープフェイクの可能性などが加わると、民主的説明責任(democratic accountability)と国民間のコンセンサス(public consensus)という慣れ親しんだ概念が足場を失い始める。私は、既存の政治システムはいずれこれらのテクノロジーを抑制し、真実と虚偽を区別する私たちの集団的能力を維持する方法を見つけるだろうと考える傾向があるが、私はそれに私の年金資金を賭けない。

最後に、現在進行中の生物学、健康、長寿研究における目覚ましい革命を忘れてはならない。この傾向は、新しいAIツールによって加速される可能性が高い。老化や病気のメカニズムが解明され、それを遅らせたり、逆行させたり、あるいは対抗したりする方法が考案され始めると、現在よりもはるかに長生きする人類が何人か、もしかしたら何百万人も出てくるかもしれない。遺伝子編集やその他の技術は、将来の世代をカスタマイズする可能性を生み出し、あらゆる種類の不快な道徳的・政治的問題を引き起こすだろう。人類は過去にも様々な方法で惑星の生物学を改変してきたが、意図的にそれを行う能力は急速に高まっている。

このような傾向(およびその他の傾向)を全て合わせると、非線形的な変化(nonlinear changes)の可能性が出てくる。そして、その最終的な影響を、確信を持って予測することは不可能だ。そして、これらの重大な進展は全て、急速に、同時に起こっている。それは、現実の世界における「同時に至るところで全て(Everything Everywhere All at Once)」のように見え始めている。もしそうだとすれば、今日の公共政策を学ぶ学生たちは、数年後に彼らが直面するであろう問題には不向きなツールキットを身に付けていることになるかもしれない。

私が言っていることをまとめよう。AIやその他の技術開発が、多かれ少なかれ絶え間なく、しかしこれまでに見たことのない規模で、遠大な市場破壊を引き起こす世界に向かっているとしたらどうだろう? いくつかの新しいダイエット薬(例えば、オゼンピック)がダイエット業界全体に何をもたらしているかを見てみたら分かる。気候の変化によって、ジェット機での移動が法外に高価になったり、環境的に持続不可能になったり、あるいは大気の乱気流の増大によって危険すぎるものになったりしたらどうだろう? 現在何千万人もの人々が住んでいる地球の広大な地域が、居住不可能になったらどうだろう? 宇宙ゴミの連鎖的な衝突、悪意あるハッカー、敵対国の意図的な行動によって、世界的な通信を担う衛星が破壊される日への備えはできているだろうか? デジタル化以前の時代にどのように物事を進めていたか、覚えているだろうか? そして、これら全ての進展がもたらす政治的影響が、慣れ親しんだ統治様式、長年にわたる同盟関係、経済依存のパターン、そして過去75年以上にわたって世界政治をほぼ決定してきた制度的特徴を破壊するとしたらどうだろうか?

私が言いたいのは、急速に相互接続が進む世界では、私たちが当たり前だと思ってきた(そして自信を持って学生たちに教えてきた)慣れ親しんだ真実、原則、慣行のいくつかは、それほど役に立たないかもしれないということだ。このような状況下で重要になるのは、適応する能力、古い考えを捨てる能力、健全な科学と蛇の油を見分ける能力、そして公共のニーズを満たす新しい方法を考案する能力である。過去にどのように物事が動いたかを生徒に教え、それ以前の時代に由来する時代を超えた真理を植え付けることは、それほど役に立たないかもしれない。

私は、現在のカリキュラムを投げ捨て、ミクロ経済学、民主政治体制理論、公会計、計量経済学、外交政策、応用倫理学、歴史学など、今日の公共政策カリキュラムの構成要素を教えるのを止めようと提案しているのだろうか? そうではない。しかし、私たちがこれまで知っていた世界とは根本的に異なる世界、しかも彼らが考えているよりも早く訪れるであろう世界に対して、子どもたちが準備できるよう、より多くの時間と労力を割くべきである。

私は小さな提案を3つ提示したい。

第一に、いささか逆説的ではあるが、激変の見通しは基本理論(basic theories)の重要性を浮き上がらせる。過去の経験から導き出された経験的パターン(例えば、「民主政体国家は互いに争わない(democracies don’t fight each other)」など)は、その法則が発見された政治的・社会的条件がもはや存在しないのであれば、ほとんど意味をなさないかもしれない。根本的に新しい状況を理解するためには、何が起こりそうかを予見し、異なる政策選択の結果を予測するのに役立つ因果関係の説明[causal explanations](すなわち理論)に頼らざるを得なくなる。単純化された仮説検証や単純な歴史的類推から導かれる知識は、何が何を引き起こしているのかを伝え、様々な行動の影響を理解するのに役立つ厳密で洗練された理論に比べると、あまり役に立たないだろう。「応用歴史学(applied history)」を教えるためのより洗練された努力も、過去の出来事が適切に解釈されなければ失敗に終わるだろう。過去は決して私たちに直接語りかけることはない。全ての歴史的解釈は、ある意味で、私たちがこれらの出来事に持ち込む理論や枠組みに依存している。私たちは、過去のある瞬間に何が起こったかを知るだけでなく、なぜそのようなことが起こったのか、現在も同様の因果関係が働いているのかどうかを理解する必要がある。因果関係の説明を提示するには理論が必要である(Providing a causal explanation requires theory)。

同時に、既存の理論のいくつかを修正する(あるいは放棄する)必要があるだろうし、新しい理論を発明する必要があるかもしれない。私たちは何らかの理論に依存することから逃れることはできないが、特定の世界観に厳格かつ無批判に固執することは、自分の本能(instincts)だけで行動しようとするのと同じくらい危険なことである。そのため、公共政策大学院では、学生に現在よりも幅広い理論的アプローチに触れさせ、それらについて批判的に考え、長所とともにその限界を見極める方法を教えるべきである。

急速に変化する世界に向けて学生を準備させるためには、一般的な理論が誤った政策選択につながった歴史的事例や、全く新しい状況に対処するために新たな理論を考案しなければならなかった事例を教えるべきである。1930年代におけるケインズ経済学の発展や、冷戦期における抑止理論(deterrence theory)の洗練は、この点で有益な例となるだろう。また、政策立案者がもはや通用しないアイデアや政策に固執したために失敗したケースを探し、他の指導者が即興的に革新し、迅速に成功したケースと対比させるべきだ。

最後に、私たち(というより私自身)は、学生たちが当然と思いがちな基準や労働条件の枠にとらわれず、適応し、即興的に行動することを求めるような演習や課題を考案することで、より創造的になるべきである。例えば、学生をいくつかのティームに分け、全員に共通の課題を与える。ノートパソコン、タブレット、スマートフォン、グーグル検索などはもちろん、大学図書館のオンラインカードカタログさえも使えない。現代のエリート大学の学生が、手動のタイプライターとペンと鉛筆と紙しか頼るものがなかったら、どうやって仕事をするだろうか? そのような訓練は、その場その場に適応して問題を解決する能力の重要性を浮き彫りにするだろう。

あるいは、学生たちに、もっともらしいが根本的に異なる世界を想像し、その主な特徴は何か、その新しい状況にどう対処すべきかを考えさせることもできる。NATOが解体し、国連が崩壊したら、アメリカ、ロシア、ドイツ、エストニア、中国、サウジアラビアなどはどのように対応するだろうか、あるいはどう対応すべきだろうか? 科学界が完全に立場を逆転させ、今日の気候変動は完全に自然なものであり、人間の活動はほとんど影響を与えていないと結論づけたとしたら、彼らはどのような政策選択を勧めるだろうか?(はっきり言っておくが、これが現実的な可能性だと言っているのではない) 学生たちの考えを変えるためではなく、自分の信念に対する健全な懐疑心や、一見説得力があるように見える議論を評価する能力を高めるために思考力を高めることが必要だ。

読者の皆さんにはお分かりだと思うが、私はまだこれらの問題について考え中であり、私の提案は暫定的なものである。しかし、私はこれらの問題について考え続けるつもりだ。私の同僚たち(そして私の学生たち)がそれらについてどのような意見を述べるのかに興味を抱いている。公共政策大学院が人気を博しているのにはいくつかの理由がある。しかし、だからと言って、私たちが学生たちに提供しているものを改善できないということではない。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。ツイッターアカウント:@stephenwalt

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 古村治彦です。

 昨日は、国際関係論の一学派リアリズムの泰斗であるスティーヴン・M・ウォルトのリアリズムによる新型コロナウイルス感染拡大に関する分析論稿を紹介した。今回ご紹介する論稿はウォルトの論稿に対する反論という内容になっている。

 新型コロナウイルス拡大が国際的な問題となって3年が経過した。各国は医療体制の拡充や補助金の新設や増額などで対応してきた。日本も例外ではない。そうした中で、国家の役割が増大し、人と物、資本が国境を越えて激しく動き回る、グローバライゼーションの深化はとん挫した形になった。国際機関に対する信頼も小さくなっていった。

 しかし、今回ご紹介する論稿の著者ジョンストンは、初期段階の対応はリアリズムで分析できるが、これからはそうではないと述べている。もう1つの学派であるリベラリズム(Liberalism)によって分析・説明が可能になると主張している。

 リベラリズムとは、各国家は国益を追求するために、進んで協力を行う、国際機関やNGOなどの非国家主体が国際関係において、重要役割を果たすと主張する学派だ。新型コロナウイルス感染拡大の初期段階では各国は国境を閉じ、人の往来を制限して、国内での対応に終始した。しかし、これから新型コロナウイルス感染拡大前の世界に戻るということになれば、国際的な取り決めや協力が必要になり、国際機関の役割も重要になっていく。グローバライゼーションの動きがどれくらい復活をしてくるかは分からないが、おそらくこれまでのような無制限ということはないにしても、人、物、資本の往来はどんどん復活していくだろう。

 社会科学の諸理論は、社会的な出来事を分析し、説明し、更には予測することを目的にして作られている。理論(theory)が完璧であればそれは法則(law)ということになるが、それはなかなか実現できないことだ。諸理論は長所と短所をそれぞれ抱えており、また、現実の出来事のどの部分を強調するかという点でも違っている。理論を構成していくというのは、言葉遊びのようであり、まどろっこしくて、めんどくさいのように感じる。

 しかし、そうやって遅々としてか進まない営為というものもまた社会にとって必要であり、いつか大いに役立つものが生み出されるのではないかという希望を持って進められるべき営為でもある。日本においては官民で、学問研究に対する理解も支援も少なくなりつつあるように感じている。それは何とも悲しいことだし、日本の国力が落ちている、衰退国家になっているということを実感させられる動きだ。

(貼り付けはじめ)

感染拡大とリアリズムの限界(The Pandemic and the Limits of Realism

-国際関係論の基本的な理論であるリアリズムはそれが主張するよりも現実的ということではない。

セス・A・ジョンストン筆

2020年6月24日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2020/06/24/coronavirus-pandemic-realism-limited-international-relations-theory/

スティーブン・ウォルトの「コロナウイルス感染に対するリアリズム的ガイド」は、彼の他の論文とともに、国際関係の現実主義者がコロナウイルスをこの学派の思想の正当性を証明するのに役立つと見ている説得力のある例である。現実主義者が自信を持つには十分な理由がある。新型コロナウイルス感染拡大への対応は、主権国家の優位性(primacy of sovereign states)、大国間競争の根拠(rationale for great-power competition)、国際協力への様々な障害(obstacles to international cooperation)など、リアリズムの伝統の主要な信条を実証するものとなった。

しかし、新型コロナウイルス感染拡大は、政策を成功に導く源泉としてのリアリズムの欠点も露呈している。リアリズムが得意とするのは、リスクや危険を説明することであり、解決策を提示することではない。リアリズムの長所は治療や予防よりも診断にある。新型コロナウイルスに最も効果的に対処するためには、政策立案者たちは、過去4分の3世紀の他の大きな危機への対応に、不本意ながら情報を与えてくれたもう1つの理論的伝統に目を向ける必要がある。

リアリズムは多くのことを正しく理解しており、それが、少なくともアメリカにおいて、リアリズムが国際関係論の基礎となる学派であり続ける理由の1つである。新型コロナウイルス感染拡大は、世界政治の主役は国家であるというリアリズムの見識を浮き彫りにしている。新型コロナウイルスが発生すると、各国は国境を閉鎖または強化し、国境内の移動を制限し、安全保障と公衆衛生の資源を結集して迅速に行動した。世界保健機関(World Health OrganizationWHO)は当初、こうした国境管理に反対するよう勧告し、企業は経済活動の低下を懸念し、個人は移動の自由の制限に苦しんだが、これは秩序を維持し出来事を形成する国家の権威を強調するものだ。

しかし、国の独自行動がいかにリアリズムから理解できるものであっても、また予測できるものであっても、その不十分さは同じである。国境管理と渡航制限によって、各国が新型コロナウイルス感染拡大から免れることはなかった。たとえ完璧な管理が可能であったとしても、それが望ましいかどうかは疑問である。島国であるニュージーランドは、物理的な地理的優位性と国家の決定的な行動により、新型コロナウイルスに対して国境を維持し、比較的成功を収めていることについて考える。ニュージーランドが国家的勝利を収めたとしても、感染拡大が国境を越えて猛威を振るう限り、それは不完全なものに過ぎない。再感染し、国際的な開放性に依存する産業が経済的なダメージを受け続ける危険性がある。つまり、自国内での感染を防ぐことは国益にかなうが、他の国が同じことをしない限り、その国益は実現しないのだ。経済や安全保障の競争は、「相対的利益(relative gains)」やゼロサムの競争論理といったリアリズム的な考察に合致しやすいが、疾病のような国境を越えた大災害は、「無政府状態(anarchy)」の国際システムにおける個々の国家の限界を露わにする。

国境を越えるようなリスクと国益との間の断絶は、資源をめぐる国家の奔走という別の問題にも関連している。ここでもリアリズムがこの問題の診断に役立っている。なぜ各国が医療用マスク、人工呼吸器、治療やワクチンのための知的財産といった希少な品目をめぐって争うのかを説明している。このような争いは、ゼロサムの論理の性質を持つ。しかし、協調性のない行動は非効率的な配分(inefficient allocation)をもたらし、時間と労力を浪費し、コストを増大させる。これら全ては、感染症の発生を阻止するという包括的なそして共通の利益を損なうものである。同じ資源をめぐるアメリカの州や自治体の無秩序な争いは、国内でもよく見られる光景である。リアリズムが提示する建設的な選択肢はほとんどない。

リアリストたちは国際機関を信用しないよう注意を促す。例えば、国連もWHOも新型コロナウイルスを倒すことはできない。国際機関が自律的な国際的なアクターであるとすれば、それは弱いものであることは事実である。しかし、この批判は的外れである。国際機関は、国家の行動に代わるものでも、国際関係における国家の主要な地位に対する挑戦者でもない。むしろ、外交政策や国家運営(statecraft)の道具である。国家が国際機関を設立し、参加するのは、予測可能性(predictability)、情報、コスト削減、その他機関が提供できるサーヴィスから利益を得るためである。リアリズムの著名な学者であるジョン・ミアシャイマーでさえ、国際機関は「事実上、大国が考案し、従うことに同意したルールであり、そのルールを守ることが自分たちの利益になると信じているからである」と認めている。制度学派のロバート・コヘインとリサ・マーティンが数十年前にミアシャイマーとの大激論で述べたように、国家は確かに自己利益追求的であるが、協力はしばしば彼らの利益になり、制度はその協力を促進するのに役立つのである。ミアシャイマーは、最近、他の分野でもアメリカの利益に資するために、より多くの国際機関を創設するよう主張したので、最終的には同意することになったのかもしれない。また、制度学派も、安易な協力を期待することの甘さに対するリアリズムの警告を認めている。日常生活において、隣人との協力は簡単でも確実でもない。しかし、アメリカ人の多くが感染拡大にもかかわらず、街頭に出て要求したように、代替案よりも望ましいことであるから、それを得るために努力する価値があるのだ。

主要な違いは、制度主義(institutionalism)の方が、自己利益追求的な協力の現実的な可能性をより強調することである。この強調の仕方の違いによって、リアリズムと制度主義の間にある実質的な共通点が曖昧になりかねない。両方とも、国際協力(international cooperation)が望ましいことは認識しているが、より困難な問題は、それをどのように達成するかということである。この点では、現実主義的な洞察(insight)が大いに貢献する。覇権的なパワー(hegemony power)が国際的な制度を押し付けると、その制度は覇権を失った後も存続しうるという古典的な考え方がある。また、ジョセフ・ナイのリーダーシップに関する議論でも、パワーは中心的な役割を果たし、コストを下げ、成果を向上させるために、パワーのハードとソフト両面の「賢い(smart)」応用が必要であるとしている。さらに他の研究者たちは、制度設計(institutional design)が強制、情報共有、その他の設計上の特徴を通じて、不正行為(cheating)、恐怖(fear)、不確実性(uncertainty)のリスクを縮小することができると指摘している。これらの資源は完璧ではないが、パワー、リーダーシップ、制度設計に対する影響力など、その全てがアメリカで利用可能であることは朗報である。

日常生活において、隣国との協力は簡単でも確実でもない。しかし、感染拡大にもかかわらず、アメリカ人の多くが街頭に立って要求しているように、代替案よりも望ましいことであるから、それを得るために努力する価値はある。国益は、利用可能な資源やヴィジョンと相まって、アメリカや他の国々が過去の危機の際に国際機関を設立し、行動してきた理由を説明する。国際連合(United Nations)は、第二次世界大戦中にアメリカが連合国(the Allies)に対して作った造語であり、終戦時に制度化されたものである。イスラム国(Islamic State)討伐のための国際的な連合は、国際テロ対策という共通の利益を更に高めるために数十カ国が結集し、それ自体は2014年のNATO会議の傍らで考案されたものである。2008年の金融危機の際、各国は経済政策を調整し、コストを分担し、経済を救うために、G20を再発明した。

アメリカはこうした制度の創設を主導し、莫大な利益を得た。第一次世界大戦後の国際連盟(League of Nations)への加盟を拒絶し、911後のテロ対策では、当初はやや単独行動的(unilateral)であったように、国際協力は必ずしもアメリカの最初の衝動では無かった。しかし、アメリカは最終的に、国際的な協調行動とリーダーシップによって、自国の利益をよりよく実現することができると判断したのである。

新型コロナウイルスの大流行に対する国家の初期反応については、リアリズムで説明することができるが、より良い方法を見出すためには、他の諸理論に建設的な政策アイデアを求める必要がある。これまでの世界的危機と同様、アメリカは国際機関に国益を見出す努力をすることができるし、そうすべきである。

※セス・A・ジョンストン:ハーヴァード大学ベルファー科学・国際問題センター研究員。

(貼り付け終わり)

(終わり)

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 古村治彦です。

 世界は問題にあふれている。個人生活から、それぞれの国家、国際社会、国際関係まで、それぞれのレヴェルで様々な問題が存在する。複数の問題が複雑に絡まって、こんがらがって、にっちもさっちもいかない状態に起きることもある。

 以下の論稿の著者スティーヴン・M・ウォルトはまず現代の諸問題(大きな衝撃)を10個挙げている。それらは、(1)ソヴィエト帝国の崩壊、(2)中国の台頭、(3)911テロ攻撃と対テロリズム国際戦争、(4)2008年の金融溶解、(5)アラブの春、(6)世界規模の難民危機、(7)ポピュリズム、(8)新型コロナウイルス、(9)ウクライナでの戦争、(10)気候変動である。これらはメディアの主要なテーマであったし、現在でも主要なテーマになっている。昔の表現を使えば、「新聞の一面記事を飾る」ということになる。

 これらの問題に対処する際に、「一気にできるだけ早く(問題があることは良くないことで許せない)」という理想主義で対処すると大抵失敗する。共産主義革命がよい例だ。革命によって、旧体制が抱える諸問題を一気に解決しようとすると思いもよらなかった新たな問題が起きたり、無理をすることで人々や社会に大きな負担を与えたりすることになる。諸問題に対処するためには、「ゆっくりと堅実に(問題が起きるのは人間や社会が存在する限り仕方がないのだから慎重に対応しよう)」という態度が必要だ。

 何か追われているという感覚がみなぎっている時代に「ゆっくりと堅実に」という態度は非常に難しくなっている。

(貼り付けはじめ)

世界はどれだけの衝撃に耐えられるか?(How Many Shocks Can the World Take?

-私たちはあらゆることがあらゆる場所で一度に起こった時に何が起こるかを目の当たりにしている。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2022年10月24日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/10/24/how-many-shocks-can-the-world-take/

このコラムの常連読者の皆さんは、私が警鐘を鳴らすのが好きではないことをご存じだろう。ある外交政策決定がもたらすコストやリスクを心配することはあっても、外交政策の専門家たちが脅威を誇張し、最悪の事態を想定する傾向に対して、私は反発する傾向があるが、いつもそうだという訳ではない。しかし、いつもそうとは限らない。時に、オオカミが本当にドアの前にいて、心配し始める時がある。

今日、私を悩ませているのは、私たちの集団的な対応能力を圧倒するような一連の混乱の中で私たちが生きているのではないかという、歯がゆい不安である。もちろん、世界の政治が完全に静止していることはないが、これほど深刻な衝撃の連続は、長い間、見たことがあない。私たちは人間の知恵が最終的に解決してくれると考えることに慣れている。しかし、政治学者のトーマス・ホーマーディクソンが何年も前に警告したように、解決すべき問題の数があまりにも多く複雑になると、その心強い仮定は当てはまらないかもしれない。

(1)ソヴィエト帝国の崩壊The breakup of the Soviet empire

ソヴィエト連邦の崩壊と東欧のビロード革命(velvet revolutions)は、多くの点で前向きな展開であったが、同時にかなりの不確実性(uncertainty)と不安定性(instability)をもたらし、今日でも反響を呼ぶ政治展開(NATO拡大など)への扉を開いてしまったのだ。アゼルバイジャンとアルメニアの戦争、ユーゴスラビアの崩壊とその後のバルカン戦争、アメリカの不健康な傲慢さの助長、中央アジアの政治の再構築などに直接つながったのである。ソ連の庇護を失ったことで、アフリカ、中東、アメリカ大陸の政府も不安定になり、予測不可能な、そして時には不幸な結果を招いた。歴史は終わったのではなく、別の道を歩んだ。

(2)中国の台頭(China’s rise

アメリカ人は当初、一極(unipolar)の時期は長く続くと考えていたが、ほとんどすぐに新たな大国のライヴァルが出現した。中国の台頭は、おそらく突然の、あるいは予期せぬ衝撃ではないだろうが、それでも極めて急速であり、西側の専門家の多くは、それが何を予兆しているかを見誤っていた。中国はまだアメリカよりかなり弱く、国内外で深刻な逆風(headwinds)に晒されているが、目覚しい経済成長、高まる野心、拡大する軍事力は否定しようがない。また、中国の経済発展は、気候変動を加速させ、世界の労働市場に影響を与え、現在の超グローバリズムに対する反発の引き金にもなっている。その富と力(wealth and power)の増大は中国国民の生活を向上させ、他の人々にも恩恵を与えたが、既存の世界秩序に衝撃を与えていることに変わりはない。

(3)911テロ攻撃と対テロリズム国際戦争(The 9/11 attacks and the global war on terrorism

2001年9月、世界貿易センターを破壊し、米国防総省に被害を与えた同時多発テロは、アメリカの外交政策を一変させ、アメリカは10年以上にわたってテロとの戦いに巻き込まれることになった。この出来事は、アフガニスタンのタリバン打倒と2003年のイラク侵攻に直結し、いわゆる「永遠の戦争(forever wars)」は、結局、あの日失ったものをはるかに上回る血と財をアメリカに浪費させたのである。また、テロとの戦いは中東諸国を不安定にし、意図せずして「イスラム国」のような集団を生み出し、その行動はヨーロッパにおける右翼過激派の台頭を助長した。更に言えば、アメリカ国内政治の軍事化(militarization)と分極化(polarization)、アメリカ国内における右翼過激派の主流化(mainstreaming)を加速させたことは、どう考えても大きな衝撃だった。

(4)2008年の金融溶解(The 2008 financial meltdown

アメリカのサブプライムローン市場の崩壊は、金融パニックを引き起こし、瞬く間に世界中に広がった。ウォール街の「宇宙の支配者(Masters of the Universe)」とされた人々は、他の誰よりも誤りやすい(あるいは腐敗しやすい)ことが判明し、この問題を起こした人々は責任を問われることはなかったが、危機発生前のような威信と権威を伴って発言することはできなかった。ヨーロッパは急激な景気後退(sharp recession)、長引く通貨危機(protracted currency crisis)、10年にわたる苦しい緊縮財政(painful austerity)に見舞われ、ポピュリズム政党に再び政治的な追い風を与えた。中国当局もまた、この危機を欧米の衰退を示す兆候であり、自国の外交政策上の野心を拡大する機会であると考えていた。

(5)アラブの春The Arab Spring

忘れられようとしているが、「アラブの春」は、いくつかの国で政権を倒し、一時は広く民主制度移行(democratic transitions)を期待させ、リビア、イエメン、シリアで現在も続く内戦(civil wars)を引き起こした騒々しい出来事であった。この革命は権威主義的な弾圧(authoritarian crackdowns)(「アラブの冬[Arab Winter]」として知られる)で終わり、改革者たちが獲得した成果のほとんど全てを覆した。ヨーロッパで起きた1848年の革命のように、「近代史が転換できなかった転換点(turning point at which modern history failed to turn)」であった。しかし、それは意思決定者の多くが時間と関心を消費し、多くの高官の評判を落とし、多大な人的被害をもたらした。

(6)世界規模の難民危機The global refugee crisis

国連難民高等弁務官事務所によると、「強制移住者(forcibly displaced)」の数は2001年の約4200万人から、2021年には約9000万人に増加すると言われている。難民の流入は、それ自体、私たちが経験した他の衝撃の結果であるが、それ自体が深刻な影響を及ぼし、この問題は簡単には解決できない。そのため、近年、各国政府や国際機関が対応に苦慮しているもう1つの衝撃となっている。

(7)ポピュリズムが人気になる(Populism becomes popular

2016年は、少なくとも2つの衝撃的な出来事があった。ドナルド・トランプがアメリカの大統領に選ばれ、イギリスがヨーロッパ連合からの離脱に票を投じた。どちらも予想を裏切り、反対派が懸念していた通りの悪い結果となった。トランプは、選挙期間中に現れた通り、腐敗し、気まぐれで、ナルシストで、無能であることが証明されたが、彼の最も厳しい批判者たちでさえ、アメリカの民主政治体制の基盤(foundations of American democracy)を攻撃する彼の意欲を過小評価していた。実際、選挙での敗北から2年以上が経過し、複数の法的問題に直面しているトランプは、アメリカの政治生活に毒を及ぼし続けている。ブレグジットは、イギリスでも同様の影響を及ぼした。EU離脱はイギリス経済に大きなダメージを与えただけでなく(まさに反対派の警告通り)、保守党の現実逃避を加速させ、ボリス・ジョンソン前首相の風刺的で連続的に不正直な行動や、リズ・トラス首相のダウニング街10番地での短い在任期間を完全に破綻させるに至った。世界第6位の経済大国が、このような愚か者の連続によって統治されるのは、誰にとっても良いことではない。

(8)新型コロナウイルス(COVID-19

次はどうなる? 世界的な大流行(パンデミック)はどうだろうか? 専門家は以前から、このような事態は避けられない、世界はそれに対する備えをしていないと警告していたが、そう舌警告はあまりにも的確なものであったことが判明した。少なくとも6億3千万人が感染し(実際の数はもっと多いだろう)、公式の世界死者数は650万人を超え、パンデミックは多くの国々(特に発展途上諸国)の貿易、経済成長、教育成果、雇用に大きな影響を及ぼしている。ワーク・ライフ・パターンは崩壊し、各国政府は自国の経済を救うために緊急対策を講じなければならず、将来の生産性の伸びはほぼ確実に低下し、金融緩和政策とサプライチェインの混乱が相まって、政府や中央銀行が現在その抑制に苦慮している持続的インフレの引き金となった。

(9)ウクライナでの戦争(The war in Ukraine

ロシアのウクライナ侵攻がもたらす影響の全容はまだ分からないが、それは決して些細なことではないだろう。この戦争はウクライナに甚大な損害を与え、武力による領土獲得を禁じた既存の規範を脅かし、ロシア自身の軍事的欠陥を露呈し、ヨーロッパの本格的な再軍備に火をつけ、世界のインフレを悪化させ、核兵器使用の可能性を含むエスカレーションのリスクをここ数十年で見られなかったレヴェルまで高めた。ロシアと欧米諸国の関係は以前から悪化していたが、これが2022年に大規模な戦争につながり、ワシントンやヨーロッパの外交政策課題を支配することになるとはほとんど予想されていなかった。

(10)気候変動(Climate change

これらの出来事の背後には、気候変動という動きの緩慢な衝撃が隠されている。気候変動の影響は、自然災害の悪化、内戦の激化、深刻な被害を受けた地域からの移住の増加として現れている。移住や気温上昇への適応には多大な費用がかかり、温室効果ガス排出削減のための国際協力も進んでいない。つまり、気候変動の規模は、各国政府があまりにも長い間無視してきた衝撃のひとつであり、今後数十年にわたって対処していかなければならないものだ。

この他にも様々な出来事があり、そのうちの1つや2つでもうまく対処するのは容易ではない。このような急激な連続に対処するなど、ほぼ不可能であることははっきりしている。

第一の問題は処理能力(bandwidth)である。あまりにも多くの混乱があまりにも早く発生すると、政治指導者には創造的な解決策を考慮したり、代替案を慎重に検討したりする時間や注意力がなくなってしまう。政治指導者たちは、創造的な解決策を考えたり、代替案を慎重に検討したりする時間や注意力を持てず、ひどい対応をとる可能性が高くなる。また、選択した解決策がどの程度うまく機能しているかを評価する時間も十分になく、誤りを適時に修正することも困難になる。

第二に、資源は有限なので、過去の危機で今必要な資産を使い果たした場合、最新の衝撃に適切に対処することが不可能になる可能性がある。指導者たちが直面する問題が多ければ多いほど、それぞれの問題に注意を払い、必要な資源を提供することは難しくなる。

第三に、連続する衝撃がつながっている場合、ある問題を解決しようとすると、他の問題を悪化させる可能性がある。 例えば、ウクライナ侵攻後、ヨーロッパがロシアから天然ガスを買わなくなったのは良いことだったが、この措置によりエネルギーコストが上昇し(インフレを悪化させ)、天然ガスの代わりに石炭を燃やすと温室効果ガスの排出が増え、気候変動を悪化させることにつながった。ウクライナ支援に注力することは正しいことかもしれないが、中国の台頭がもたらす問題から時間と労力を奪うことになる。中国が軍事力を強化するために西洋の技術を利用することを制限することには、それなりの理由がある。しかし、チップなどの先端技術に輸出規制を課すことは、アメリカの経済成長を損ない、少なくとも短期的には、アメリカ企業の一部に大きな打撃を与えることになる。一度に解決しようとする問題が多ければ多いほど、ある問題への対応で他の問題への取り組みが損なわれる危険性が高くなる。

最後に、指導者たちが極めて幸運であるか、異常に熟練していない限り、複数の衝撃に対処しようとすると、政治システム全体に対する国民の信頼が損なわれる傾向がある。ロシアの攻撃に対するウクライナの人々のように、明確な危機がひとつでも発生すれば、市民は政府のもとに集い、政策の成功によって、担当者は自分たちのしていることを本当に理解しているのだと確信することができるかもしれない。しかし、公務員が誰もが対処できないほどの衝撃に直面し、繰り返し良い結果を出せなかった場合、市民は彼ら(そして彼らが助言を求めている専門家たち)に対する信頼を失うことになる。関連する知識、経験、責任を持つ人々を信頼する代わりに、市民は専門知識を軽視するようになり、権力者共同謀議論(conspiracy theories)やその他の現実逃避(flights from reality)に弱くなる。もちろん、この問題は、責任者が目に見えて不正直で、腐敗し、利己的で、国民から軽蔑されても仕方がないような人物であれば更に悪化してしまう。

この物語にハッピーエンドはない。それで、ただ最後に思うことがある。私たちは、「速く動いて、壊す(move fast and break things)」ことが呪文になっている時代に生きてきた。それは、動きの速いデジタル技術の世界だけに限ったことではない。近年、私たちが経験した衝撃を考えると、今は「ゆっくりとそして堅実に(slow down and fix stuff)」をモットーにした方がいいのだろう。この機会を逃さないようにしたいものだ。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。ツイッターアカウント:@stephenwalt

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 古村治彦です。

 2022年は戦争の年となった。ウクライナ戦争によって、ウクライナとロシアの両国民の多くは直接的に生命の危機に瀕している。戦争と経済制裁の影響を受けて、世界規模で資源や食料の価格が高騰し、他国の人々の生活にも大きな影響が出ている。一般庶民にとっては「生活防衛」のために「戦いの年」でもあった。

 戦争はいつの時代も起きる。人間が種として存続し、国家が存続し、欲望が存続するならば、戦争はなくならないだろう。国際関係論のリアリズムの原理は、「国家をコントロールする上部の世界政府のような存在がない以上、戦争はなくなることはない」というものだ。これは悲しいが真実ということになるだろう。

 それでも、戦争の危険を減らすことはできる。ある国の指導者が「戦争を起こす」という考えを持って実際に戦争を起こすまでの間に、何とか止めることはできないかということだが、万能薬はないが、少しは効果のある方法はある。それは、「戦争は利益をもたらさないし、解決ももたらさない」ということを歴史から学ぶことだ。

 アメリカは世界の警察官を自任し、アフガニスタンやイラクで戦争を起こしたが、その結果はアメリカにとって利益にならず、問題解決にもつながらなかった。儲かったのは、政治家たちと武器商人たちだけだった。アメリカが傲慢にも「民主的な政治体制や人権や自由主義的なイデオロギーや価値観は世界中に移植可能だ。世界の全ての国が民主国家になって西洋的な価値観を報じるようになれば世界は平和になる」と考えて、戦争を仕掛けたことで仕掛けられた国は不幸になった。独裁者を外科手術のようにして排除することはできても別の不幸が起きる。このことを私たちは21世紀になって学んだ。

 「戦えばうまくいく、事態を打開できる」などという言葉で指導者層が自分たち自身を騙して戦争に突入し、悲惨な結果となった国がある。それが日本だ。防衛費を増額し、先制攻撃を可能にすることで、またぞろこのようなお勇ましい掛け声が飛び交うようになっている。私たちはこのことをよくよく考えねばならない。私たちは、アメリカのようにいつでも「戦時中」であってはいけない。子や孫の代まで「戦後」を生きていけるようにしなければならない。そのためには戦争を起こしてはいけないということになる。

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世界平和に向けたリアリストのガイド(The Realist Guide to World Peace

-戦争を終わらせたいと望むにあたりリアリストになる必要はない。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2022年12月23日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/12/23/a-realist-guide-to-world-peace/

休暇の季節だ。毎年、平和について考えることが奨励される短い期間だ。この時期には戦争中の軍隊が停戦を宣言することもあるし、世界中の様々な信仰の共同体では、平和を追求し維持することが神聖な義務であると語られる。幸運にも、私たちの多くはこれから数日間、友人や家族と楽しく過ごし、人間の残酷な本能を少なくともひとまず脇に置いておこうとすることだろう。

正直なところ、2022年は平和にとって良い年ではなかった。ウクライナでの残忍で無意味な戦争(終結の兆しはなく、更に悪化する可能性もある)に加え、イエメン、ミャンマー、ナイジェリア、エチオピア、シリアなど多くの場所で暴力的な紛争がまだまだ進行中だ。11月にバリ島で開催されたG20サミットでは、ジョー・バイデン米大統領と習近平中国国家主席がかなり友好的な会談を行ったが、世界で最も強力な2カ国は、多くの重要な問題で依然として分裂したままだ。このような世界情勢と、世界を主導する大国であり続けたいアメリカの意向を考えれば、連邦上院が国防予算の8%増を可決したことに誰も驚かないはずだ。ドイツや日本など、以前は平和主義に傾いていた国々でさえ、2022年には劇的な再軍備に踏み切った。

私のようなリアリストにとっては、これらの動きは驚くべきことではない。リアリズムの中心的な教訓は、中央政府の存在しない、独立した国々の世界では、戦争の可能性が常に存在し、国家が行うことの多くに影を落としているということだ。戦争は本質的に破壊的であり、しばしば不確実であるため、リアリストたちは理想主義的な十字軍(idealistic crusades)を警戒し、他者が正当であろうとなかろうと、重要な利益とみなすものを脅かす危険性に注意を払う傾向がある。むしろ、全ての学派や潮流のリアリストたちが強調するのは、指導者たちが乏しい情報や自らの妄想に容易に惑わされ、崇高な目的でさえも残念な結果を生み出しかねない世界の悲劇的特徴だ。

しかし、リアリストたちもリアリズムに対する批判者たちも、深刻な紛争の可能性に対して手を上げて、何もすることができないと宣言することはできない。国家間および国家内の戦争は常に危険であるが、真の課題は、新たな戦争のリスクを最小限に抑え、既存の戦争を終結させるのに役立つ政策を考え、実行することだ。平和の利益と戦争のコストやリスクがかつてないほど高まっている今日、この課題は人類史上最も緊急性の高いものとなっている。

第一に、利益について考えてみよう。経済的相互依存(economic interdependence)が国家間および国家内の平和を促進すると考える人は多いが、ロシアのウクライナ侵攻によって、この考えに疑問を呈することになる。しかし、今回のロシアのウクライナ侵攻はその考えを覆すものだ。その反対が真実である。平和は相互依存をより現実的なものにし、経済交流の恩恵をより低いリスクで享受することを可能にする。戦争の危険が減れば、投資家は安心して資本を他国に送ることができ、政府は貿易相手国が交換から少しでも多くの利益を得ているかどうかを心配する必要がなくなり、国家はライヴァル国が自国に害をなすような知識を得ることを心配せずに外国人訪問者や留学生を迎えることができ、精巧なサプライチェーンにとってのリスクが少なく、誰もが常に相対優位性(relative interdependence)を追求するのではなく、共同の利益を追求することができる。大国間の深刻な対立がないことが、近年のグローバライゼイションの時代を促進し、その欠陥にもかかわらず、人類に莫大な利益をもたらした。また、戦争がなければ、社会は自分たちとは異なる文化からのアイデアや教訓を交換することに、よりオープンになることができる。

次に、コストとリスクについてだ。もちろん、その最たるものは人的・経済的な代償である。戦争が始まって以来、20万人近いウクライナ人とロシア人が死傷し、数百万人の難民が流出した可能性がある。ウクライナにかかる経済的コストは恐ろしいほど大きく、ロシア自身の経済も衰退しており、戦争は他の多くの国々の経済問題や食糧不足を悪化させた。同様に、イエメンの内戦とサウジアラビアの介入で40万人近くが死亡し、既に貧しい国土を荒廃させ、アフリカとラテンアメリカの内戦はこれらの地域を浸食し、国外への移住を促し続けている。

しかし、紛争の直接的なコストは、その代償の一部に過ぎない。国家間の競争が激化し、戦争のリスクが高まれば、相互の利害に関する事柄であっても、協力する能力は低下する。気候変動、疫病の蔓延、難民の増加など、人類は今日、多くの困難な問題に直面している。そのどれもが、クリミアや台湾、ナゴルノ・カラバフを誰が統治するかということ以上に重要な問題であり、簡単に解決できるものではない。各国が争えば争うほど、あるいは戦争の準備に時間と労力と資金を割けば割くほど、こうした他の問題への対処は難しくなる。

また、戦争がエスカレートしたり拡大したりするリスクも避けられない。国家は勝利を得るため、もしくは敗北を避けるため、必ずより多くのことをしたくなり、第三者は意図的に、あるいは不注意によって、より深く関与するようになることが多い。言うまでもなく、このような危険は、核兵器を保有する国家が関与している場合には、特に懸念される。核兵器がエスカレートする可能性は極めて低いかもしれないが、その可能性を完全に否定するのは無謀であろう。それは平和主義を主張するものではないが、戦争よりも平和を好む強力な理由となる。

平和の困難さは、個々の独裁者の傲慢さと愚かさのせいだと言いたいところだが、今年はそのどちらにも欠けることがないのはご存じの通りだ。ロシアのウラジミール・プーティン大統領には、NATOの拡大とロシアの安全保障への影響を懸念する正当な理由があったかもしれない。しかし、その懸念に対する彼の「解決策(solution)」は、何千人もの罪なき死者と膨大な人的被害をもたらし、ロシアをより強くも安全にもすることはないだろう。サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン王太子によるイエメンへの介入や、イランの政権やミャンマーの軍事政権が進める残忍な弾圧についても、同じことが言えるかもしれない。しかし、独裁政治が問題だと結論づける前に、強力な民主国家が偏執症(パラノイア)と傲慢の危険な組み合わせに屈することがあることを思い出して欲しい。ジョージ・W・ブッシュ元米大統領、ディック・チェイニー元副大統領とその部下たちが2003年に示した具体例を思い出して欲しい。

残念ながら、私は恒久平和の方程式を持ち合わせてはいない。しかし、私はよく観察している。最近の戦争で顕著なのは、戦争を始めた国に大きなマイナスになることがいかに多いかということだ。1905年に日本がロシアに対して行ったように、あるいはドイツ統一戦争でビスマルクのプロイセンが行ったように、大国が大きな戦争を始めて劇的な戦略的利益を得ることができた時代は、もう過去のものとなったようだ。イラクのサダム・フセイン元大統領はイランを攻撃し、クウェートに侵攻し、いずれも大敗を喫した。アメリカはイラクとアフガニスタンに侵攻し、コストのかかる泥沼に陥った。2011年のリビアへの介入は破綻国家(failed state)を生み出した。イスラエルによるレバノンへの介入は18年間の占領を招き、その結末はアメリカがアフガニスタンで行った長い努力と何ら変わらないものとなった。セルビアのコソボへの攻撃は、最終的にセルビアの指導者スロボダン・ミロシェヴィッチの戦争犯罪者としての起訴と権力の排除につながった。実際、戦争を始めるという決断が、その責任者に大きな利益をもたらしたという例は、最近あまりないように思われる。例えば、エチオピアのティグライ人民解放戦線に対する作戦は、政府に有利な和平合意で終わったかもしれないが、この戦争はアビイ・アーメド首相のかつての名声を大きく傷つけた。

他にも色々あるが、大体がこんなところだろう。ナショナリズム、迅速な外交コミュニケイション、抵抗運動を煽る国際武器市場の繁栄、不完全ながらも広く受け入れられている征服に反対する規範、核兵器の冷静な影響、顕在的脅威に対してバランスを取ろうとする国家の強い傾向などが相まって、ほとんどの攻撃的戦争は仕掛け手にとって怪しげな提案になっているだろう。しかし、強力な国家であっても、戦争を仕掛けることによって達成できることには限界があるように思われる。

従って、世界の指導者たちに向けた私の休暇シーズンのメッセージは次のようになる。万が一、自国が攻撃された場合、あるいは重要な同盟諸国が同じような状況に陥った場合、それを支援できるような防衛力をぜひとも維持することだ。同時に、自国の外交・安全保障政策が、知らず知らずのうちに他国の死活的利益を侵害していないかどうかを自問してほしい。もし侵害していれば、自国を無防備にしたまま問題を軽減するために何かできることはないかを考えてみる。その可能性を誠実に、そして率直に相手と探ってみるべきだ。

最も重要なことは、もしあなたの助言者の一人が、戦争を始めることで政治的問題を解決できると説得し始めたら、そしてその助言者が、「条件はぴったりで、星は並び、時は適切で、コストは低く、リスクは小さく、行動すべき時は今だ」と言ったら、その助言に丁寧に感謝し、すぐにセカンドオピニオンを求めることだ。その間に、勝利を確信して戦争に突入し、代わりに平和を選択した方が良かったと考えられる元指導者たちについて考える時間を持つことになるだろう。

追記:このコラムは、今年3月に97歳で逝去した、亡き友人シド・トポルのことを考えながら書いた。シド・トポルは驚くべき人物で、私(そして他の多くの人々)に対して、仕事において平和をより優先させるよう繰り返し訴えてきた。私は数年前、シドに触発され、毎年少なくとも1回は平和をテーマにしたコラムを書くことにした。今年は、彼の思い出を称賛しながら、このコラムを執筆する。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。ツイッターアカウント:@stephenwalt
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