古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:国際関係論

古村治彦です。

 国際関係論には様々な理論(theory)が存在する。「理論」と言うと、確立された内容であるように思われるが、「理論」は多くの実験(experiment)や観察(observation)を経て、その内容が確かめられているが、これからも様々な試験を受けることで、内容が修正される可能性があるという点で、「仮説(hypothesis)」の一種である。「仮説」はこれから実験や観察の試験を受ける考えや物の見方である。理論は「法則(law)」とは違う。社会科学においては、「法則」はほぼ存在しないと言ってよい。

 国際関係論の理論の1つに「民主平和論(democratic peace theory)」がある。これは簡単に言えば、「民主政治体制国家同士は戦争をしない」というものだ。第二次世界大戦で考えてみると、連合諸国(the Allied Forces)と枢軸諸国(the Axis)では、この理論が適用される。第二次世界大戦後の世界では、小競り合いなどを除くと、この理論が適用されるようだ。

 国際関係論は社会科学の一分野で、統計学も用いられるが、同時に歴史学も用いられる。歴史上の出来事から理論を作り出すということが行われる。こうした中で、「民主平和論」は、その有効性が高い理論として知られている。「民主国家同士は戦争をしない」ということから敷衍すると、「世界の全ての国が民主政治体制になれば、世界から戦争がなくなる」というテーゼが導き出される。これが、アメリカによる外国への介入(intervention)、「民主化(democratization)」を正当化することになった。ネオコンにとっての「金科玉条(a golden rule)」となった。第二次世界大戦の結果として、枢軸国側だったドイツと日本、そしてイタリアは「民主化」された。これが成功例として喧伝された。2003年のイラク戦争とアメリカによる民主化について、日本が成功例として引き合いに出されることもあった。

 世界を眺めてみれば、民主的ではない国家は多く存在する。ネオコンにとっては全てが民主化すべき対象となるはずだが、実際には、サウジアラビアなどの中東地域の王制国家については、民主化を求めていない。アメリカにとって利益になるのであれば、民主化を求めない。これは二重基準、ダブルスタンダード(double standard)である。

 アメリカのドナルド・トランプ政権のドンロー主義によって、民主国家同士の緊張も高まっている。NATOの存在意義にも疑義が出るほどになっている。民主平和論は時代の大転換の中で生き残ることができるかどうか、現在はそのための実験が行われているとも言える。
(貼り付けはじめ)
民主的平和理論よ、安らかに(Democratic Peace Theory, R.I.P.

-主流の学術理論であったこの理論の台頭と潜在的な衰退。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2025年10月28日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2025/10/28/democratic-peace-theory-definition-democracy-international-relations-us/

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江陵で開催された2018年平昌冬季オリンピックの選手村にあるファストフード店の外で2人の女性が自撮りしている(2018年2月8日)

社会科学理論の中には、驚くほど長く続くものもあれば、寿命が短いものもある。かつて有望視されていたアイデアが、何の成果も上げられず(タルコット・パーソンズの社会学構造機能主義的アプローチ[structural-functionalist approach to sociology]はその一例だ)、最終的に多くの学者がそれを放棄し、別の分野へと進んでしまうこともある。あるいは、斬新な理論的議論が最初は説得力があるように思えても、その後の研究で論理的または実証的な限界が明らかになることもある。また、大胆な主張に対して現実世界が厳しい判断を下す場合もある(「歴史の終わり(end of history)」テーゼを覚えておられるだろうか?)。しかし、信用を失った理論の中には、強力な利害関係者が存続させることにメリットを見出すため、ゾンビのように生き残るものもある。

なぜこの話を持ち出したのか? それは、最近、民主的平和論(democratic peace theoryDPT)に一体何が起きたのか、疑問に思ったからだ。国際関係論を学ぶ人なら誰もが知っているように、民主平和論は1980年代半ばから21世紀に入ってからも、国際関係論研究者たちにとって大きな知的関心事だった。マイケル・ドイルによるこのテーマに関する独創的な著作(イマヌエル・カントが提唱した議論を洗練させた)に始まり、「民主政治体制国家は互いに争わない(democracies don’t fight each other)」という考えは、膨大な数の学術論文や書籍、そして数々の重要な批判を生み出した。

現代の民主平和論は、確立され機能している民主政治体制国家は互いに戦争をしないという経験的観察(the empirical observation)に基づいており、ある著名な学者はこの発見を「国際関係の研究において経験法則に最も近いもの(the closest thing we have to an empirical law in the study of international relations)」と呼んだ。支持者たちはこの興味深い観察に対して、経済的相互依存(economic interdependence)などの他の要因と組み合わせるなど、いくつかの競合する説明を展開した。多くの社会科学理論とは異なり、民主平和論はすぐに象牙の塔(the ivory tower)を出て、世界中に民主政治体制を広めたり、NATO などの機関を拡大したりするアメリカの取り組みを正当化しようと努める政治家たちに利用された。この理論の魅惑的な魅力は明らかだった。なぜなら、完全に自由主義的な諸国で構成される世界は戦争から自由であると示唆していたからだ。ジョージ W. ブッシュ大統領が就任当初に述べたように、「私たちの目標は、このアメリカの影響力の時代を、何世代にもわたる民主的な平和に変えることである」ということになる。

当然のことながら、民主平和論の大胆な主張には多くの批判が寄せられた。一部の学者は、実証的発見の根底にある因果メカニズムに一貫性がなく説得力に欠けると指摘した。一方、1945年以前には真の民主政体国家はほとんど存在しなかったことを考えると、民主政体国家間の戦争の頻度の低さは統計的な人工物(artifact、アーティファクト)である可能性があると示唆する学者もいた。また、第二次世界大戦後の民主政体国家のほとんどがアメリカの冷戦同盟ネットワークの一部であったことを考えると、民主政体国家間の戦争がないのは権力政治によるものだ、あるいは特定のコーディング決定や「民主政治体制(democracy)」の定義の変化の結果だと示唆する学者もいた。さらに、確立された民主政体国家は過去に互いに戦っていなかったかもしれないが、新たに民主化した国家は特に戦争を起こしやすい傾向にあると指摘する学者もいた。これは、民主政治体制の普及は長期的には報われるかもしれないが、そこに到達するには困難なプロセスになるだろうということを示唆している。

この知的論争は学術誌やモノグラフの紙面上で激しさを増し、最終的には行き詰まりに陥った。競合する大規模N研究(large-N studies)の結果が、採用されている仮定やモデリング手法にますます依存するようになったためだ。私見だが、民主政治体制による平和に関する極端な主張は誇張されているものの、民主政体国家同士が戦争する可能性はやや低いと言えるだろう。なぜなら、民主政体国家は戦争に対する国民の抵抗を克服するのが不可能ではないものの、やや困難だからだ。

さらに重要なのは、民主平和論は完全に民主政治体制国家のみで構成される世界がどのようなものになるかについて、あまり多くを語っていないように思われたことだ。なぜなら、そのような世界はこれまで存在したことがなく、民主政体国家間の戦争がないことは、潜在的に危険な非民主政体国家のライヴァルたちが常に存在することによって裏付けられてきたからだ。しかし、全ての独裁国家が民主政体国家に置き換えられれば、カント主義的な共和国でさえも互いを疑いの目で見て、不公平な区別をつけ始めるかもしれない。民主政治体制の原則を共有しても全ての利益相反がなくなる訳ではなく、議会制共和国や大統領制共和国は互いを異なる、そしておそらく危険な存在と見なし始めるのではないだろうか? もしそうなら、民主政治体制を広く普及させることは、民主平和論の最も熱心な支持者が信じていたような万能薬(the panacea)ではないかもしれない。そして、他の学者と同様に、私は、民主平和論が強力な民主政体国家に平和の名の下に非自由主義国家に対する暴力的な十字軍(crusades)を開始するよう奨励し、そのような取り組みが国内の自由主義の規範と自由を徐々に侵食するのではないかと懸念していたが、まさにそれが起こっている。

しかし、民主平和論は今日の世界においてどのような位置づけにあるだろうか? 理論そのものには含まれていなかったものの、その提唱者やそれを援用した政策立案者の多くは、自由主義的民主政治体制こそが未来の潮流であり、ソヴィエト帝国に対する一見勝利した後も、それがさらに拡大していくと想定していた。しかし、この予測は大きく外れた。世界中で民主政治体制は20年近く後退しており、長らくその主要な擁護者であったアメリカ合衆国においても、急速に衰退している。世界で最も人口の多い民主政体国家であるインドは、ますます非自由主義的な方向へと進んでいる。ブラジルは前回の選挙後、独裁政権の掌握を辛うじて免れた。そして、ヨーロッパの既存の民主政治体制国家のいくつかは、それぞれ独自の正統性の危機に直面している。

したがって、世界の主要国の全て、そして多くの中小国も、まもなく、言葉の意味する意味で自由主義でも民主政治体制でもない状態になる可能性は十分にある。民主平和論はこの点について何を示唆しているのだろうか?

最も明白な点は、たとえ民主平和論が真実だとしても、そのような世界ではほとんど無関係であるということだ。その因果メカニズムは非自由主義国家間、あるいは非自由主義国家と自由主義国家の間では機能しないため、主要な民主政体国家が存在しない世界は理論の範疇外だ。民主平和論の信奉者たちは、そのような世界ではさらに紛争が激化すると予想するかもしれない。なぜなら、民主政治体制の平和のオアシスは少なくなり、結果として非民主政治体制国家間の紛争の機会が増えるからだ。しかし、民主平和論は非民主政体国家間の戦争の頻度についてはほとんど語っておらず、地球上に残された民主政治体制国家が少なくなったという理由だけで、非自由主義国家が過去よりも頻繁に戦争を始めると考える明白な理由は存在しない。

さらに言えば、そのような世界にはわずかな希望の光(silver lining)があるかもしれない。民主政治体制と独裁政治体制の間のイデオロギー的競争、それぞれが相手を自らの正統性に対する脅威と見なすことになるが、それがなくなることで、両者間の安全保障上のディレンマは緩和され、過去に強力な自由主義国家を戦争へと駆り立てた、そして独裁主義国家が自国の体制維持のために予防戦争(preemptive wars)を仕掛ける原因となった、十字軍的な衝動が弱まるだろう。大国間の競争は終わらないが、イデオロギーに駆り立てられることは少なくなり、妥協を許さない性格を帯びることも少なくなるだろう。皮肉なことに、民主平和論が政策立案者たちにとって有用な指針とみなされなくなった世界は、より平和的になるかもしれない。

誤解しないで欲しい。私はそのような世界が望ましいと言っているのではない。むしろ、非自由主義的な大国のみで構成される世界には多くの欠点が存在する。人権は深刻な危機に瀕し、腐敗が蔓延し、野放しの独裁者たちは毛沢東の大躍進政策(Mao Zedong’s Great Leap Forward)のような破滅的な政策、あるいはヨシフ・スターリンの大粛清(Joseph Stalin’s Great Terror)やナチスのホロコースト(the Nazi Holocaust)のような全体主義的な悪夢を自由に実行することになるだろう。私は民主政治体制が「他のあらゆる政治形態を除けば最悪の政治形態(the worst form of government, except for all the others)」であり、独裁政権下で暮らすことを望んでいないため、世界、特にここアメリカ合衆国における独裁主義の動向について深刻な懸念を持っている。

理想的には、アメリカ合衆国が現在の衰退傾向を逆転させ、健全で力強い自由主義共和国であり続けることを願っている。そこでは、あらゆる政治家が民主政治体制の規範と法の支配(the rule of law)を尊重し、これらの原則に違反した際には責任を問われるだろう。また、力強いアメリカが、他の社会がそれぞれのやり方とペースで模倣したくなるような、素晴らしい、公正で、効果的な統治の模範を示すことで、これらの価値観を推進していくことも望んでいる。もし民主平和論を廃止することで、より控えめで現実的なアプローチが促進され、銃を突きつけて民主政体を押し付けようとする試(trying to impose democracy at the point of a gun)みを正当化しにくくなるのであれば、私はそれで良いと考えている。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。Blueskyアカウント:@stephenwalt.bsky.socialXアカウント:@stephenwalt

(貼り付け終わり)

(終わり)

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 古村治彦です。
 2025年11月21日に『シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体』 (ビジネス社)を刊行します。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
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シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体 
 最新刊の刊行に連動して、最新刊で取り上げた記事を中心にお伝えしている。各記事の一番下に、いくつかの単語が「タグ」として表示されている。「新・軍産複合体」や新刊のタイトルである「シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体」を押すと、関連する記事が出てくる。活用いただければ幸いだ。
 学問分野としての国際関係論ではリアリズムと理想主義(アイディアリズム)の大きな2つの流れがある。極めて簡単に(乱暴に)まとめると、リアリズムでは力(power、パウア、他の主体を自分の意思に従わせる、自分の利益になるように動かすこと)を最重視し、理想主義では協力(cooperation)を最重視する。これは極めて単純で乱暴な分類の仕方であるが、大づかみで分かるにはこのようにするしかない。

 協力というのは、国際機関や国際的な枠組みのことであり、代表的な存在は国際連合(United Nations)である。しかし、この国際連合もそもそもは、第二次世界大戦の戦勝国の集まり(Allied Powers)であり、国連で絶大な力である拒否権(veto)を持つのは、国連安全保障理事会の常任理事国(permanent members5カ国(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国)だけである。常任理事国は第二次世界大戦を勝利に導くのに大きく貢献し、また、多大な犠牲を払った主要諸国だ。日本は、十分に反省し、もう世界の大勢(たいせい)に逆らいませんということで、国連に入れてもらった。日本は旧敵国なのであり、国連が存在し続ける限り、新たな国際秩序が生まれるまで、この立場に置かれる。

リアリズムの観点からすれば、国際機関や国際的な枠組みは、「利用する」為に存在する。自分たちの国益のために利用価値があるなら、協力もする。しかし、それがないならば、協力することはない。アメリカのドナルド・トランプ大統領は、「利用価値なし」という判断を下している。国際保健機関からの脱退を表明し、そのプロセルを進めていること、気候変動に関するパリ協定からの脱退を表明していることはその具体例である。更に言えば、国際貿易感を無視しての、一方的な高関税政策もこの一環でもある。
 中国がトランプの高関税政策に反発し、国際的な貿易の枠組み、グローバルな取り組みの守護者になるという主張が説得力を持つようになっているのは何とも皮肉なことである。国際的な枠組みやルールは、国際化が進む世界においては必要不可欠である。こうした枠組みやルール作りを主導するのは主要諸国、特に世界覇権国の役割であるが、アメリカはその役割を放棄しようとしている。そのためのトランプ大統領出現である。そうなれば、どこが変わりの役割を果たすかということになるが、しばらくは集団指導体制のようなことになるだろうが、やはり中国ということになる。私たちはそうした大きな構造変化に直面しているのである。
(貼り付けはじめ)
グローバル・ルールの現実的な根拠(The Realist Case for Global Rules
-ドナルド・トランプの世界秩序に対するアプローチを懸念するのに理想主義者になる必要はない。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2025年5月29日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2025/05/29/realism-rules-trump-order-institutions/

ドナルド・トランプ米大統領は、世界政治について理解していないことがたくさんある。ホワイトハウスで2期目を迎えていることを考えると驚くべきことだが、その1つが国際機関の重要性だ。機関とはルールであり、トランプのルールに対する軽蔑は、彼が政界に入る前から存在した。彼は長い間、規範、法律、規則を、自分が望むものを手に入れることを妨げる厄介な制約とみなしており、その姿勢を外交政策にも持ち込んでいる。外国政府から多額の報酬を受け取ったり、グリーンランドの占領やカナダの併合をほのめかしたり、大統領執務室で外国からの訪問者を威圧したり、トランプは、挑戦されるべきではない規範などない、神聖な合意などない、投資や防衛に値する国際機関などない、と考えている。

読者の皆さんは、私のようなリアリストは、トランプに賛同するだろうと思うかもしれない。リアリストは、力(power)こそが全てであり、規範やルール、制度(institutions)は国家(特に大国)の行動にほとんど影響を与えないと考えているのではないのか? もし国際関係論の入門授業でそう教わったのなら、講師のところに戻って授業料の返金を要求すべきだ。確かにリアリズムは、世界政治において力が最も重要な要素であると見なし、特定の時点において支配的な制度に最大の影響力を持つのは強大な国家であると主張する。リアリストたちはまた、ルールの遵守を強制する中央権威(central authority to enforce compliance)が存在しないため、国家は望むならルールに背くことができると強調する。しかしハンス・モーゲンソー、ロバート・ギルピン、ヘンリー・キッシンジャー、スティーヴン・クラズナー、さらにはジョン・ミアシャイマーのような洗練されたリアリストたちは、相互依存する国家のシステム(any system of interdependent states)はどんなものであれ、ルールなしには機能し得ず、強大な国家でさえ既存ルールを頻繁に、あるいは甚だしく無視すれば代償を払うと強調している。

諸国家は選択の余地がほとんどないため、国際ルールに細心の注意を払う。例えば、ある国が自国の領土への民間航空機の就航を望む場合、航空管制における英語の使用など、国際民間航空機関(the International Civil Aviation OrganizationICAO)が定めたガイドラインに従わなければならない。主権国家はICAOの規則を拒否する自由があるが、その場合、自国領土への航空交通は一夜にして停止することになる。

同じ原則は、貿易、投資、海外旅行、絶滅危惧種の保護、通信周波数の割り当て、漁業規制、水利権の割り当てなど、幅広い地球規模の活動にも当てはまる。現代の国家、企業、非政府組織、教会、その他の重要な団体は、様々な方法で、場合によっては毎日毎時間、相互に交流しているため、これらの活動がどのように行われるかを管理するためのルールが必要だ。

もし輸出入を希望する企業がそれぞれ取引方法を個別に交渉しなければならなかったり、各国が国連193加盟国それぞれとの通貨取引ルールを独自に策定しなければならなかったりしたら、どれほど困難か想像してみて欲しい。さらにそのプロセスを毎日繰り返す必要があると想像して欲しい。例外が生じたり、国家や企業が約束を破ったりすることはあるものの、こうした活動を管理する一般原則を策定する方がはるかに容易だ。規範と制度(norms and institutions)は不確実性を減らすことで、安定した行動パターンを強化し、国家や企業、その他の主体が計画を立てることを可能にする。

さらに言えば、ロバート・コヘインたちが数十年前から指摘するように、協力することで明らかな利益が得られる一方で、不正行為を誘発する動機もある状況では、制度は国家がより良い結果を達成するのに役立つ。不確実性と取引コスト(uncertainty and transaction costs)を削減するだけでなく、制度には通常、違反を検知し対応するための検証手続きが含まれている。不正行為が確実に検知されるよう設計された規則体系は、そもそも不正を行うインセンティヴを低減する。適切に設計されれば、一部の国家が他より大きな利益を得る状況にも対応可能であり、これにより潜在的な参加国が参加を躊躇し、結果として全ての関係者が損をする事態を防げる。多極的制度(multilateral institutions)は、多数の異なる国々と個別に合意を交渉する必要性を排除することで、こうした利点を増幅させる。

最後に、国家は相互の意図を測るために制度を利用する。一般的に「ルールに従う(follow the rules)」意思のある国家は他国にとって脅威が少なく、より信頼できるパートナーと見なされる。対照的に、既存の規範を繰り返し無視する国家は危険と見なされ、他国に信頼を説得するのが困難になる。とりわけこれが、たとえルールを守っていなくても自国が順守していると他国に信じ込ませようとする理由であり、敵対国が既存の規範や合意を破っていると常々非難する理由である。著者のイアン・ハードが強調するように、「政府は自らの選択を説明し正当化するために国際法を利用する…国際法は国家にとってある行為(合法と提示できるもの)を容易にし、別の行為(違法に見えるもの)を困難にする」。

確かに、国家が相互関係を管理するために作り出すルールは中立ではない。強国は自らの利益や価値観に有利な取り決めを支持し、可能であれば弱小国にそれを押し付ける。また、1971年の金本位制離脱や2003年のイラク侵攻でアメリカが示したように、重大な罰則を受けずに規則を破ることも可能だ。とはいえ、既存の制度が日常的に遵守される世界は最強国にも利益をもたらす。規則がほとんど存在しない世界は、はるかに貧しく危険な場所となるだろう。

制度がもたらす効果が実証されていることを考えると、世界の指導者たちは皆、その価値を認識するだろうと考えるかもしれない。実際、ほとんどの指導者はそう認識している。しかしながら、国家指導者は依然として3つの重大な過ちを犯す可能性がある。1つ目は、国際機関の能力を過大評価することだ。これは、理想主義者たち(idealists)が、国際機関があれば国家間の紛争、汚染、権力争い、人権侵害を阻止できると考える際に犯す過ちだ。2つ目の過ちは1つ目の過ちとは逆だ。指導者たちは、制度がもたらす利益を過小評価し、単独で行動する方が賢明だと誤って結論付けることもある。例えば、イギリスの有権者たちが2016年にEU離脱を選択した際、EU加盟のメリットを理解していなかったことは明らかだ。同様に、トランプ大統領も2015年のイランとの核合意や頓挫した環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の価値を認識していなかった。3つ目は、国家が度重なる違反行為による風評被害を過小評価し、自らの行動が他国からより否定的な評価を受け、様々な形で距離を置いていることに気付くことだ。

今日の人々が懸念すべきは、後者の2つの誤りである。トランプ(あるいは彼が称賛する独裁者の大半)が制度の力を誇張する危険性は低い。むしろ、安定的で綿密に構築された制度の価値を過小評価し、ルールを破ることが国の評判に甚大なダメージを与え、長期的には国を不利に導く可能性があることを理解できない可能性の方が高い。

トランプの国際貿易交渉へのアプローチは、この2つの誤りを如実に示している。彼は長年、世界貿易機関(the World Trade OrganizationWTO)をアメリカに損害を与える欠陥のある機関と見なしてきたが、アメリカの正当な懸念に対処できる改革を推進する代わりに、関税の脅威を用いて数十カ国にアメリカとの新たな二国間協定交渉(bilateral arrangements)を迫っている。このアプローチは本質的に非効率的である。なぜなら、有意義な貿易協定を結ぶには多くの厳しい交渉が必要であり、問​​題は細部に宿るからだ(the devil is in the details)。数十カ国と同時に真剣な交渉を行おうとしてもうまくいかないだろう。そして、アメリカ人が間もなく数百もの新たな貿易協定の恩恵を受けるというトランプの主張は、まさに典型的なトランプ流のナンセンスである。

さらに悪いことに、トランプの気まぐれさ、優柔不断さ、そして根本的な信頼性の欠如は、各国が真剣な譲歩を提示することをより躊躇させるだろう。なぜなら、トランプが合意の条件を遵守するとは信じられないからだ。2020年、トランプは自分の政権がメキシコ・カナダと交渉した貿易協定について、「私たちがこれまで法律として署名した中で最も公平で、最も均衡が取れ、有益な貿易協定だ。私たちがこれまでに結んだ中で最高の協定だ」と述べた。ならばなぜ、再選直後にこれを破棄したのか? 中国には145%の関税を課したが、その後一時的に30%に引き下げ、EUへの関税脅威はまるで薬物中毒の猿のように跳ね回っている。こうした気まぐれな国際交渉姿勢は、他国に対し「アメリカが約束を守る」という期待を持って自らの行動を調整すべきではないと示しており、賢明な国々は既に信頼できる貿易・投資パートナーを模索し始めている。

この同じ問題が今、トランプ大統領がイランの核計画に関して新たな合意に達しようとする試みにも影を落としている。バラク・オバマ前大統領が交渉した核合意が機能していたにもかかわらず破棄した後、トランプ大統領がイランに自らの約束を真剣に受け止めさせるのははるかに困難になった。イランの最高指導者アヤトラ・アリー・ハメネイ師は2月、この点を極めて明確に示した。アメリカ・イラン両国が新たな合意を結ぶのに十分な共通基盤を見出す可能性はまだ残されているものの、アメリカがこれまで気まぐれなパートナーとして振る舞ってきた歴史が、この困難な任務をさらに達成しづらくしているとイラン国民に警告したのである。

トランプが従来の行動規範を無視する最後の例として挙げられるのは、大統領執務室における世界各国の指導者への無礼な対応だ。ウクライナのウォロディミール・ゼレンスキー大統領から始まり、最近では南アフリカのシリル・ラマポーザ大統領に対しても同様の態度を取った。私がジョン・ボルトンの見解に同意することは稀だが、トランプがラマポーザの友好的な働きかけに対し、白人ジェノサイドという全くの虚構に基づく非難を浴びせた後、ボルトンはトランプの発言が「全くの虚偽」であると指摘し、ラマポーザへの攻撃を「逆効果だ」と評した。それはなぜか? 「トランプと会談したいと思わせるものではないからだ。彼らがどう扱われるか、誰が予測できようか?」

ルールを繰り返し破ることの評判への影響を過小評価する世界の指導者はトランプだけではない。2022年にウラジーミル・プーティン大統領がウクライナ侵攻を決断したことで、ヨーロッパのロシア観は根本的に変わり、スウェーデンとフィンランドのNATO加盟につながった。イスラエルが国際法を繰り返し違反し、ガザ地区のパレスティナ人に対する虐殺的作戦を展開したことで、2023年10月7日のハマス攻撃後に得た同情は失われ、世界的なイメージに甚大な損害を与えた。ハンガリーのヴィクトル・オルバン首相がEUの原則を繰り返し無視した結果、ハンガリーはヨーロッパ内で孤立し、その繁栄の基盤であるEU補助金も危うくなった。

規範違反がもたらす評判への影響は、違反の性質と発生状況によって異なる。意図的で大規模な違反、例えば他国への挑発のない破壊的な攻撃などは、軽微な、あるいは不注意による過失よりも見過ごすのが難しいものだ。また、国家が絶望的な状況にあり、生き残るためにあらゆる手段を講じなければならない状況では、違反は許容されやすい。一方、違反者が存亡の危機に瀕しておらず、単に利己的な利益を追求しているだけの場合は、違反はより非難されるべきものとなる。トランプがホワイトハウスに復帰する前、アメリカ経済は好調であり、彼の行動には経済的な正当性がほとんどないため、世界秩序への彼の攻撃はアメリカの評判に特に大きなダメージを与える。同様に、同盟国デンマークからグリーンランドを奪取したり、カナダを併合したりすることには、説得力のある戦略的または経済的根拠がないため、トランプがそのような野心を容認する姿勢は、他者にとって見過ごすことや却下することがより困難だ。

 国家は、ある程度安定し、かつ広く受け入れられている規範や制度がなければ機能できないため、トランプ政権のルール軽視は、他の大国がルールのあるべき姿を定義し、他国に自らの指導に従うよう説得することを許してしまう可能性がある。中国とロシアは、現在の世界秩序の原則の一部を書き換えたいという願望を隠そうとはしておらず、自らがアメリカよりも信頼でき、予測可能なパートナーであると他国を公然と説得しようとしている。この点における中露両国の実績は決して完璧とは程遠く、他国はロシアや中国の主張を額面通りに受け止めるべきではないが、トランプの規範への無関心とルール破りへの傾倒は、一部の人々にとってこの主張をより説得力のあるものにする可能性がある。アメリカ人はいつか目を覚まし、世界の大部分が、数十年にわたって世界政治の多くを形作ってきた主にアメリカ中心の制度ではなく、北京で作られた規範、制度、ルールに従っていることに気づくかもしれない。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。Blueskyアカウント:@stephenwalt.bsky.socialXアカウント:@stephenwalt

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 古村治彦です。

 私たちが中学校や高校で習う歴史の科目で、日本以外の歴史を「世界史」と呼ぶ。これは、「World History」と訳されるが、ここ数十年、歴史学の成果として、「グローバル・ヒストリー(Global History)」が発達している。西洋中心主義(Western-centrism)から脱却するための試みが行われている。是非、グローバル・ヒストリーについて調べてみて欲しい。
 国際関係論は、歴史学を基礎にしている。歴史の類推(analogy、アナロジー)を使う。私たちは、世界の大きな構造転換の中に生きている。この世界の大きな構造転換とは西洋近代支配500年の終わりと非西洋世界の勃興(再興)である。そうした中で、「アメリカが覇権国ではなくなったら自由な体制が崩れる」「安定した平和が続かなくなる」「自由貿易体制の危機だ」といった声が聞かれる。しかし、それは間違いだ。歴史を学べば、西洋近代こそが、世界の平和と自由を阻害してきた、そして、西洋の世界支配が確立されてから、体制を崩さないように、綺麗事の価値観を主張し出したということが分かる。西洋列強は口では自由、人権、博愛、平等を唱えながら、実際には非西洋世界を植民地化し、それらの綺麗な価値観に反する、残虐な行為を数百年にわたって行ってきた。ユーラシア大陸の西の端の蛮族たちが自分たちの貧しさを武力で覆すために、世界を自分たちに奉仕させるために、残虐な支配を数百年にわたって行ってきた。これから逆回転が起きるが、今更、文化や観光地くらいしか取り柄のない西洋諸国を非西洋世界が植民地にすることは起きないだろうが、経済的には支配することは起きるだろう。

 非西洋世界の真の多様化と共生の歴史がこれから復活することになるだろう。「自由で開かれたインド洋」という言葉を馬鹿の一つ覚えのように唱え続けた、麻生太郎元首相のような人物がいるが、彼らのような人物たちは全くの無知なのだ。「自由で開かれたインド洋」とは、西洋列強が進出してくる前の状態のことだった。西洋近代支配が終焉に向かう中、私たちはグローバル・ヒストリーを学び、大きな構造転換に備えなければならない。

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ファラオ、マハラジャ、そして多極世界の形成(Pharaohs, Maharajas, and the Making of a Multipolar World

-非西洋の歴史上の事例は、アメリカの覇権の終焉を示す、より有望な前例を提供している。

アミタヴ・アチャラ筆

2025年7月25日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2025/07/25/multipolar-world-pharaohs-maharajas-us-primacy/?tpcc=recirc_latest062921

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1970年9月24日、現存する最古の平和条約として知られるカデシュ平和条約(the Kadesh Peace Treaty)の複製が国連本部でトルコのイフサン・サブリ・チャグラヤンギル外相からウ・タント国連事務総長(左)に贈呈された。この条約は紀元前1259年頃、ヒッタイト王とエジプトのファラオの間で調印された。

アメリカの優越時代(the era of U.S. primacy)が終焉を迎えるにあたり、学者や政策立案者たちは当然のことながら、次に何が起こるのかを議論してきた。多極化した世界(a multipolar world)の出現は、本質的に不安定化(destabilizing)をもたらすのだろうか? 単一の強国(a single power)による支配は、平和と繁栄(peace and prosperity)に不可欠なのだろうか?

西側諸国では、多極化、すなわち覇権の不在(the absence of hegemony)は容易に混乱を招くというコンセンサスがますます高まっているようだ。しかし、この結論はしばしば、アメリカとヨーロッパの近年の歴史に由来する証拠に依拠している。例えば、ケネス・ウォルツは、冷戦開始前後のヨーロッパ大陸における動向を対比させることで、多極システムの不安定性に関する画期的な議論の根拠を示した。同様に、単一の支配的な勢力のみが市場アクセスと安全保障を促進できるという考え方(チャールズ・キンドルバーガーの研究を基にした学者たちが覇権的安定理論[hegemonic stability theory]と呼んでいるもの)は、主に第一次世界大戦前のイギリスと第二次世界大戦後のアメリカの経験に依拠している。

しかし、20世紀の西洋以外の前例を探せば、国際秩序の未来はより明るいものになるかもしれない。より遠い歴史を振り返ると、多極体制がいかにして平和を維持してきたかを示す劇的な事例がいくつか存在する。今日の世界が直面する課題は、古代中東の偉大な王やファラオが直面したものとは異なり、近代以前のインド洋の貿易商やマハラジャが直面した課題とも異なる。しかしながら、これら両方の事例を探求することで、21世紀において多極体制を機能させるための永続的な教訓が得られる可能性がある。

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アッシリア王アッシュール・ウバリットがエジプト王に宛てたこの王室書簡(紀元前1353年から1336年頃)は、1880年代後半、アケナテン治世下のエジプトの宗教首都アマルナの遺跡で発見された。

紀元前2千年紀の中頃、中東の中心はエジプト、ハッティ、ミタンニ、アッシリア、バビロンといった複数の帝国によって支配されていた。エジプトは最古かつ最も豊かで、最も中央集権的な政体(most centralized polity)として最高の地位を占めていたが、決して覇権国家(a hegemon)ではなかった。北方には、アナトリア半島に勢力を広げたハッティ(ヒッタイト帝国)があった。次に、南東のティグリス川とユーフラテス川沿いには、分権化されたミタンニ帝国、そしてアッシリア、そしてカッシート朝バビロニアが続いた。これら5つの勢力は、本質的に多極的な体制を構成していたが、平等と相互扶助の規範に基づく安定した関係性を築き上げていた。

この体制がどのように機能したかを示す主要な証拠は、1887年にエジプトのテル・エル・アマルナで発見された350通の書簡だ。これらの手紙が示すシステムはより古くから始まっていたものの、その起源は紀元前1360年から1332年の間に遡る。古代メソポタミアの共通語であったアッカド楔形文字(Akkadian cuneiform)で書かれ、ファラオ・アケナテン(アメンホテプ4世としても知られる)の宮殿に保存されていた。

これらの文書を研究した政治学者たちは、それらが「私たちが知る最初の国際システム(the first international system known to us)」を垣間見ることができると主張している。レイモンド・コーエンとレイモンド・ウェストブルックによれば、これらの文書は「地中海からペルシャ湾に至る近東全域の列強が相互に交流し、王朝、商業、そして戦略的な関係を定期的に築いていた(the Great Powers of the entire Near East, from the Mediterranean to the Persian Gulf, interacting among themselves, engaged in regular dynastic, commercial, and strategic relations)」ことを示している。コーエンとウェストブルックは、これらの交流によって「偉大な王たちの代表、そして偉大な王たちの間の意思疎通と交渉を規定する規則、慣習、手続き、そして制度からなる外交体制(a diplomatic regime consisting of rules, conventions, procedures, and institutions governing the representation of and the communication and negotiation between Great Kings)」が生まれたと主張する。

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紀元前2千年紀中頃、中東の中心部はいくつかの帝国によって支配されていた。アミタヴ・アチャラの地図。

外交上のやり取りは、この体制が説得と圧力(persuasion and pressure)を巧みに組み合わせていたことを示している。例えば、同僚である王たちを兄弟のように称えるといった、非常に象徴的な言葉遣いは、より現実的な政治的計算を隠蔽していた。訪問(visits)、贈り物(gift-giving)、そして文化的な敬意(cultural deference)は全て、安定したコミュニケーションを維持し、情報収集を行い、それぞれの王が自らの主権への関与を伝えるために役立った。

この書簡には、後の国際秩序に関連するあらゆる要素が見受けられる。偉大な王たちは、交流を通して常に対等な地位(equal status)を目指していた。現在ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されているある書簡は、アッシリアが新興勢力として既存の勢力の兄弟関係に加わろうとしている様子を示している。アッシリアの王アッシュール・ウバリットは、おそらくアクエンアテンであろうエジプトのファラオに書簡を送り、贈り物を与えると同時に、迅速な返答を求め、エジプトとその支配者に関する情報を求めていた。バビロンのブルナ・ブリヤシュ王がエジプトのファラオに宛てた別の手紙は、互恵関係の重要性(the importance of reciprocity)を示している。ファラオが贈り物を送らなかったため、バビロン王も贈り物を送るつもりはなかった。書簡には次のように書かれている。「さて、あなたと私は友人だが、あなたの使者が三度もここへ来たが、あなたは私に美しい贈り物を一つも送ってくださらなかったため、私もあなたに美しい贈り物を一つも送っていない」。

この書簡は、外交特権(diplomatic immunity)と継続的な接触を保障する制度に組み込まれており、公式の印章と「神の証人(the presence of divine witnesses)」の前で行動する統治者による正式な批准(formal ratification)が用いられていた。また、主権平等(sovereign equality)という概念もあった。エジプトのファラオは、名目上は多少高い地位を享受していたが、他の全ての大王を平等に扱い、それぞれに同等の価値の贈り物を与えることが求められていた。そのため、アッシリアのアッシュール・ウバリトがエジプトから受け取った金の量がミタンニの王よりも少なかったとき、彼は不満を述べ、受け取った金は「使者たちの往復の旅費にも足りない(not enough for the pay of my messengers on the journey to and back)」と付け加えた。

中東の大王間の外交関係の成果の1つは、エジプトとハッティの間で締結された世界初の和平条約だった。この条約は紀元前1259年に締結された。エジプトのファラオであるラムセス2世とヒッタイト王ハットゥシリ3世の間で締結されたこの条約は、エジプト語とアッカド語の両方で書かれており、両大国間の紛争を管理するための多くの条項が含まれていた。

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エジプトとヒッタイトの間で締結されたカデシュ平和条約を記した粘土板。イスタンブール考古学博物館に展示されている。

ある条項は相互不侵略の諸原則(the principle of mutual non-aggression)を定めていた:「ハッティの大君主は、永遠にエジプトの地に侵入し、そこから何かを奪ってはならない。そして…エジプトの大支配者も、永遠にハッティの地に侵入し、そこから奪ってはならない。」 別の条項は集団安全保障原理(the principle of collective security)を明文化した:「もし他の敵が……エジプトの地に攻め入り、ハッティの大君主に『彼に対する援軍として我と共に来よ』と使者を送った場合、ハッティの大君は彼のもとへ赴き……その敵を討つ」。同様に、「もし他の敵がハッティの大君に攻め入った場合、……エジプトの大君主は援軍として彼のもとへ赴き、その敵を討つ」。引渡に関する規定さえ存在する:「もし偉大な人物がエジプトの地から逃れ、…ハッティへ来た場合…ハッティの大君は彼らを受け入れてはならず…エジプトの大君主のもとに引き渡さねばならない」。

これらの文書を総合すると、大国間の対立が破滅的な戦争を招くという有力な見解に異議を唱えることになる。確かに古代中東にも緊張は存在し、各大国は依然として小国に対して軍事行動を起こしていた。しかし諸大国は互いに戦うことは避けた。コーエンとウェストブルックによれば、5つの帝国は「戦うよりも交渉し(negotiated rather than fought)」、また「稀な例外を除いて(with rare exceptions)」、互いの必要性と野心を「うまく調整することに成功した(succeeded in accommodating each other’s needs and ambitions)」。

もちろん、多極システムも本質的に安定している訳ではない。アマルナ文書は、そのようなシステムが平和的に機能するための条件も示している。定期的なコミュニケーションを維持し、互恵関係の規範を尊重することは、効果的な外交にとって不可欠だ。

その重要性にもかかわらず、古代中東秩序と、2300年後、ナポレオンの敗北後に出現した類似の体制であるヨーロッパ列強協調体制(the European concert of powers)についてはあまり聞かれない。ヘンリー・キッシンジャーたちが称賛したヨーロッパ列強協調体制は、中断を挟みつつも1世紀近く続いた。その前身である中東の協調体制は、相互尊重と互恵関係(mutual respect and reciprocity)がより重視され、少なくとも2倍の期間存続し、おそらく約200年間安定を維持したと言えるだろう。

多極化への懸念と密接に関連しているのは、安定と繁栄には単一の支配的勢力が必要だという、広く信じられている思い込み(assumption)だ。しかし、歴史は多極システムにおいて自由貿易(free trade)を維持するための代替モデルも提供している。その最たる例はインド洋だ。ヨーロッパの植民地勢力が到来する何世紀も前、インド洋は世界最大の開放型海洋貿易システム(the world’s largest open oceanic trading system)だった。インド洋の貿易は、東アフリカのマリンディやモンバサから西アジアのホルムズやアデン、そして今日の南アジアと東南アジアのカリカット、マラッカ、マカッサルに至るまで、一連の都市国家(city states)によって管理されていた。

マラッカ海事法(Undang-Undang Laut Melaka)と呼ばれる法典のおかげで、この交易ネットワークの運営方法についてかなりのことが分かっている。15世紀に船長たちによって起草されたこの法典は、数多くの一般的な海事問題に対する規則を定めていた。この法規は、商船船長の権限や乗組員の責任、海上での契約義務や債務の解決方法を規定した。さらに、利益分配、衝突損害の補償、港湾税の不正行為に対する罰則に関する規則も定めていた。

マラッカ自体は大国ではなかった。しかし港湾都市(a port city)として、自由で公平かつ透明な貿易体制を確立した。15世紀のマラッカの人口は約10万人で、その大半は外国商人であり、80以上の言語が話されていた。貿易はあらゆる国家に属する人々(nationalities)に開放され、確立された関税(4~6%)が課されていた。貿易は決して無秩序ではなかった。むしろ「よく規制された(well regulated)」、あるいは現代的な表現で言えば「ルールに基づく(rules-bases)」ものであった。現地の支配者たちは外国商人に干渉せず、価格設定や紛争解決は外国商人コミュニティ(アラブ人、インド人、中国人、ジャワ人)の代表者たちによって行われた。マラッカには、船長または船主が到着時に貨物を10~20人の地元商人グループに一括価格で売却し、彼らが貨物を分配する制度があった。この制度により、船は個々の買い手を探す必要なく迅速に貨物を積み下ろせた。これは特に、モンスーンの風に合わせて正確な航海時期を守らねばならない場合に重要であった。また、外国製品がマラッカで得られる価格帯が予測可能であることを意味していた。

重要なのは、この交易システムが特定の地域大国の覇権に依存していなかったことだ。一部の近代史家が異論を唱えているが、インド洋は中国の勢力圏ではなかった。シュリーヴィジャヤ王国、マラッカ、シャムなど、多くの東南アジア諸国が中国と朝貢関係(tributary relations with China)にあったものの、貿易は中国によって支配・管理されていた訳ではない。また、中国は15世紀初頭に鄭和提督(Adm. Zheng He)が率いる大艦隊を7回派遣したが、その目的はインド洋に帝国を築くことではなかった。
同様に、インドはインド洋において文化的・経済的に重要な役割を果たしたが、これは戦略的な優位性を意味するものではなかった。インドからの海軍遠征(naval expeditions)は記録に残るだけで、どちらも南インドのチョーラ王国によるもので、どちらも11世紀のものだ。これらの遠征は破壊をもたらしましたが、インド洋の覇権を握るチョーラ朝帝国を築くことはなかった。強大なムガール帝国でさえ、海洋支配には手を出さなかった。ヴェネツィアのような列強が海域における領土拡大を試みていた一方で、ムガール帝国はそれを禁じる地域的伝統(a regional tradition)に従った。海域が分割されていた地中海や、自由貿易の権利が同盟加盟国にのみ開かれていたヨーロッパのハンザ同盟(the Hanseatic League of Europe)とは異なり、インド洋貿易はあらゆる国籍に開かれていました。

マラッカのような都市がこの開放的でルールに基づくシステムを開拓した一方で、西洋の著述家たちはしばしば、海洋の自由(the freedom of the seas)という概念をオランダの法学者ヒューゴ・グロティウスに帰する。しかし、グロティウスは、その画期的な著作『自由海論(Mare Liberum)』をオランダ東インド会社の給与を得て執筆した。これは、東インドから帰還中のポルトガル船をオランダが拿捕したことを擁護するための委託法律論文の一部であった。偶然にも、この拿捕を実行したのはグロティウスの従兄弟であった。インド洋に最初に到達したヨーロッパ勢力として、ポルトガルはインド洋における独占(a monopoly)を確立し、アジア諸国だけでなく、ライヴァルのヨーロッパ諸国にも平等な貿易アクセスを認めなかった。グロティウスは、従兄弟の行為がポルトガル独占体制への打撃であり、オランダの自由貿易権を支持するものだと主張した。しかし当然ながら、ポルトガルを打ち破った後、オランダ東インド会社は自らも、現在インドネシアとして知られる広大な群島における独占体制を確立していった。やがてグロティウスの雇用主は、この地域のルールに基づく体制を破壊し、現地の支配者たちに相互貿易を停止させ、オランダ経由でのみ取引するよう強制することになる。

17世紀初頭、オランダはゴワ王国のマカッサル(南スラウェシ)の商人に対し、マルク諸島でのクローブ、ナツメグ、メースの購入を禁止した。この自由貿易への侵害に直面し、ゴワの統治者であるアラウディン・スルタンは宣言した。「神は陸と海を創り、陸は人間に分け与え、海は共有のものとした。誰に対しても海の航行を禁じるなど聞いたことがない(God made the land and the sea; the land he divided among men and the sea he gave in common. It has never been heard that anyone should be forbidden to sails the seas)」。この原則的主張に対し、オランダは圧力を強め、ついにマカッサルの主要な軍事拠点である要塞を占領・破壊し、ロッテルダム要塞として再建した。

ここで論じた2つの例、すなわち古代中東の多国間システムと、インド洋における小国による管理貿易ネットワークは、より広い歴史的視点から見ると、多極化がどのように異なる様相を呈しているかを示している。単一国家の支配は、必ずしも平和や自由貿易の前提条件ではなかった。政策立案者や分析家たちは、数世紀や数カ国に焦点を絞った普遍的な主張を展開する歴史を受け入れる必要はない。第二次世界大戦前のヨーロッパの経験が、必ずしも21世紀に再現されるとは限らない。

※アミタヴ・アチャラ:アメリカン大学国際関係学大学院特別教授。最新刊に『かつての世界秩序と未来の世界秩序:何故世界文明は西洋の衰退を生き残るのか(The Once and Future World Order: Why Global Civilization Will Survive the Decline of the West)』(2025年)がある。

(貼り付け終わり)

(終わり)

※2025年11月に新刊発売予定です。新刊の仮タイトルは、『「新・軍産複合体」が導く米中友好の衝撃!(仮)』となっています。よろしくお願いいたします。
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『トランプの電撃作戦』
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世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。

 2023年12月27日に『バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる』(徳間書店)を刊行しました。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

 世界の構造について大きく分類すると、一極(超大国が1つ)、二極(超大国が2つ)、多極(大国が多く存在する)ということになる。一極の例で言えば、ソヴィエト連邦崩壊後、世界ではアメリカのみが超大国として君臨する状態ということになる。二極は、冷戦期の米ソ、現在の米中ということになる。多極は第一次世界大戦前、第二次世界大戦前のような状況だ。ヨーロッパではヨーロッパの協調ということで、複数の大国が平和を維持するという体制になっていたが、相互に誤解と誤った認識をしてしまうと、平和が破綻するということが起きた。このことから、二極の方がお互いの意図を誤らずに認識できるということで、平和が続くということが言われている。冷戦期は世界各地で戦争や紛争は起きたが、米ソ双方が直接戦い、核戦争まで至らなかったということで、「長い平和(Long Peace)」という評価がなされている。

 一極体制は最も安定しているように見えるが、新興大国が出てくると、不安定さが増す。また、一極体制の支配国、覇権国が安全保障などで、不公平な取り扱いをするということになれば、各国が反感や怒りを持つということもある。アメリカの一極体制は、アメリカが介入した外国からの反感による「ブローバック(blowback、吹き戻し)」に遭った。

 現在の世界は、米中による「G2」体制(Great of Two)となっている。そして、世界は、これから多極化していくという予想も出ている。

下に掲載した論稿の著者ジョー・インゲ・ベッケウォルトは以下のように主張している。

政治家、外交官、国際政治の専門家たちが世界の多極化に関する議論を展開しているが、現実はまだ多極化していない。現在、アメリカと中国のみが経済的、軍事的に大国として存在し、他の国はそのレベルに達していない。インドやロシアも有力候補として挙げられるが、極になるには経済力や軍事力の面で足りていない。

多極化論が人気の理由は、規範的概念としての魅力や対立回避の希望があるからだ。一極、二極、多極体制では行動や政策が異なり、誤解は誤った政策を生む可能性がある。多極化は未来に期待される可能性もあるが、現状では二極化した世界に生きる必要があり、戦略と政策はその状況に応じて考えられるべきだ。

 私は、現在は二極体制であるが、これはあくまで、アメリカがまだまだ強く、中国が弱いというところであり、二極体制の性格がこれから変化していく途中であり、しばらくは多極化しないと考えている。アヘン戦争勃発200周年の2040年、中華人民共和国建国100周年の2049年、この2040年代に中国はアメリカを追い抜くということを考えていると思う。この時期でも米中に匹敵する国は出てこず、それ以降は、中国が大、アメリカが小の二極体制が続くものと考える。その時期には、ヨーロッパ連合、インド、ロシアなどが米中に続く存在となっているだろうが(日本は脱落しているだろう)、世界の重要な決定に関与できるまでは行っていないだろう。短期的(10~30年)、中期的(30~50年)でみれば、米中二極体制が関係性の面で変化を起こしながら、続いていくことになるだろう。二極体制が安定し、平和が続いていくためには、相互の正しい理解と認識が必要ということになる。

(貼り付けはじめ)

いいえ、世界は多極的ではない(No, the World Is Not Multipolar

-新興大国の出現という考えは人気を集めているが、間違っている。そして、深刻な政策の誤りを導くことになるだろう。

ジョー・インゲ・ベッケウォルト筆

2023年9月22日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2023/09/22/multipolar-world-bipolar-power-geopolitics-business-strategy-china-united-states-india/

政治家、外交官、国際政治の専門家たちが主張する最も根強い議論の1つは、世界は多極化(multipolar)している、あるいはまもなく多極化するだろうというものだ。ここ数カ月、この議論は国連事務総長のアントニオ・グテーレス、ドイツのオラフ・ショルツ首相、ドイツのアンナレーナ・ベアボック外相、フランスのエマニュエル・マクロン大統領、ブラジルのルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルバ大統領、ロシアのウラジーミル・プーティン大統領によってなされてきた。ヨーロッパ連合(EU)のジョゼップ・ボレル外務上級代表は、2008年の世界金融危機以来、世界は「複雑な多極化(complex multipolarity)」のシステムになっていると主張している。

この考え方はビジネス界でも普及しつつある。投資銀行のモルガン・スタンレーは最近、「多極化した世界を乗り切る」ための戦略文書を発表し、ヨーロッパの名門ビジネススクールであるINSEADは、そのような世界におけるリーダーシップ能力について懸念している。

しかし、政治家、専門家、投資銀行家たちが言うことに反して、今日の世界が多極化に近いというのは単なる神話に過ぎない。

その理由は単純明快だ。極性とは、国際システムにおける大国の数のことだ。そして、世界が多極化するには、そのような大国が3カ国以上存在する必要がある。現在、極を形成できるほどの経済規模、軍事力、世界的な影響力を持つ国は、アメリカと中国の2カ国だけだ。他の大国はどこにも見当たらず、当分の間は見当たらない。人口が多く経済が成長している中堅国や非同盟国が台頭しているという事実だけでは、世界が多極化する訳ではない。

国際システムにおける他の極の不在は、明らかな候補を見れば明らかだ。2021年、急成長を遂げるインドは、力を測る指標の1つである防衛費支出で第3位だった。しかし、ストックホルム国際平和研究所の最新の数字によると、インドの軍事予算は中国の4分の1にすぎない。(そして、中国の数字は一般に信じられているよりも更に高いかもしれない。)今日、インドは依然として主に自国の発展に集中している。インドの外交サーヴィスは規模が小さく、インド太平洋での影響力の重要な尺度である海軍は、過去5年間で5倍の海軍トン数を進水させた中国と比較すると小さい。インドはいつかシステムの極になるかもしれないが、それは遠い将来のことだ。

経済的な豊かさは、権力を行使する能力を示すもう1つの指標である。日本は世界第3位の経済大国だが、国際通貨基金の最新の数字によると、日本のGDPは中国の4分の1以下である。ドイツ、インド、イギリス、フランスという日本に続く、4つの経済大国は、更に小さい。

また、エマニュエル・マクロンや他の多くの人々がそのような主張を精力的に展開してきたとしても、EUは第三極(third polar)ではない。ヨーロッパ諸国には様々な国益があり、ヨーロッパ連合には亀裂が生じやすい。ヨーロッパ連合(EU)のウクライナ支援は一見結束しているように見えるが、ヨーロッパの防衛、安全保障、外交政策は統一されていない。北京、モスクワ、ワシントンがパリやベルリンと対話し、めったにブリュッセルを訪れないのには理由がある。

もちろん、ロシアは国土の広さ、膨大な天然資源、膨大な核兵器の備蓄から、大国になる可能性のある候補である。ロシアは、国境を越えて影響力を持っていることは確かだ。大規模なヨーロッパ戦争を繰り広げ、フィンランドとスウェーデンをNATOに加盟させた。しかしながら、経済規模はイタリアより小さく、軍事予算はせいぜい中国の4分の1に過ぎないため、ロシアは国際システムの第三極にはなれない。せいぜい、ロシアは中国を支援する役割しか果たせない。

多極化を信じる人々の間で広く議論されているのは、グローバルサウスの台頭と西側の地位の低下だ。しかし、インド、ブラジル、トルコ、南アフリカ、サウジアラビアなどの新旧中堅大国(middle powers)の存在は、システムを多極化するものではない。これらの国はいずれも、自国の極となるための経済力、軍事力、その他の影響力を持っていないからだ。言い換えれば、これらの国にはアメリカや中国と張り合う能力がないのだ。

アメリカの世界経済におけるシェアが縮小しているのは事実だが、特に中国と合わせると、依然として優位な立場にある。この二超大国は世界の防衛費の半分を占めており、両国のGDPを合計すると、それから下の経済大国33カ国の合計とほぼ同等となる。

先月ヨハネスブルグで開催されたBRICSサミットでBRICSフォーラムが拡大したこと(以前はブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカのみだった)は、多極秩序(multipolar order)が到来したか、少なくとも前進しつつある兆候と解釈されている。しかし、ブロックは極(poles)として機能するにはあまりにも異質であり、簡単に崩壊する可能性がある。BRICSは首尾一貫したブロックには程遠く、加盟諸国は国際経済秩序に関する見解を共有しているかもしれないが、他の分野では大きく異なる利益を持っている。協調関係を示す最も強力な指標である安全保障政策では、2大加盟国である中国とインドは対立している。実際、北京の台頭により、インド政府は米国とより緊密に協調するようになっている。

従って、世界が多極化していないのなら、どうして多極化論はこれほど人気が​​あるのだろうか? 国際関係に関する事実や概念を無視するという怠惰なやり方に加えて、3つの明白な説明が浮かび上がる。

第一に、多極化の考えを推し進める多くの人々にとって、それは規範的な概念である。それは、西洋の支配の時代は終わり、権力は分散している、あるいは分散しているべきだと言っている、あるいは望んでいることの別の言い方である。グテーレスは、多極化(multipolarity)を、多国間主義(multilateralism)に修正し、世界システムに均衡(equilibrium)をもたらす方法と見なしている。多くのヨーロッパ各国の指導者たちにとって、多極化(multipolarity)は二極化(bipolarity)よりも好ましい選択肢とみなされている。なぜなら、多極化はルールによって統治される世界をより良く実現し、多様な主体とのグローバルなパートナーシップを可能にし、新しいブロックの出現を防ぐと考えられているからだ。

実際に、多国間枠組は確かに想定通りに機能しておらず、西洋の人々の多くは、多極化の考えをより公平なシステム、多国間主義を復活させるより良い方法、そして、グローバルサウスとの拡大する断絶を修復する機会と見ている。言い換えれば、存在しない多極化を信じることは、世界秩序に対する希望と夢の花束の一部だ。

多極化の考え方が流行している2つ目の理由は、30年にわたるグローバル化(globalization)と比較的平和な状況の後、政策立案者、専門家、学者たちの間で、アメリカと中国の間にある激しく、包括的で、二極化した対立の現実を受け入れることに非常に抵抗感があることだ。この点で、多極化を信じるということは、一種の知的回避(intellectual avoidance)であり、冷戦が再び起こらないようにという願いの表れだ。

第三に、多極化に関する議論はしばしば権力争いの一部である。北京とモスクワは、多極化をアメリカの力を抑制し、自国の立場を前進させる手段と見なしている。アメリカが圧倒的な優位を占めていた1997年に遡ると、ロシアと中国は多極化世界と新国際秩序の確立に関する共同宣言に署名した。中国は今日では大国であるが、依然としてアメリカを主な課題と見なしている。北京はモスクワとともに、多極化という概念は、南半球を喜ばせ、自国の大義に引き付ける手段として利用している。多極化は2023年を通じて中国の外交的魅力攻勢の中心テーマであり、プーティン大統領は7月のロシア・アフリカ首脳会談で、出席した指導者らが多極化世界を推進することで合意したと宣言した。同様に、ブラジルのルラ大統領のように台頭する中堅国の指導者が多極化という概念を推進する場合、それは自国を主要な非同盟国として位置づけようとする試みであることが多い。

極、そしてそれに関する誤解が広まっていること自体が重要なのかと疑問に思う人もいるかもしれない。簡単な答えは、世界秩序における極の数は非常に重要であり、誤解は戦略的思考を不明瞭にし、最終的には誤った政策につながるということだ。極が重要な理由は2つある。

第一に、一極(unipolar)、二極(bipolar)、多極(multipolar)体制では、国家の行動に対する制約の度合いが異なり、異なる戦略と政策が必要となる。例えば、6月に発表されたドイツの新しい国家安全保障戦略では、「国際および安全保障環境は多極化が進み、不安定になっている」と述べている。多極体制は確かに一極や二極体制よりも不安定であると見なされている。多極体制では、大国は同盟や連合を結成して、1つの国が他の国を支配することを避ける。大国が忠誠心を変えた場合、継続的な再編や突然の変化につながる可能性がある。二極体制では、2つの超大国が主にお互いのバランスを取り、主なライバルが誰であるかを疑うことはない。したがって、ドイツの戦略文書が間違っていることを願うべきだ。

極は企業にとっても重要だ。モルガン・スタンレーと INSEAD は、顧客と学生を多極化した世界に向けて準備させているが、二極化したシステムで多極化戦略を追求することは、高くつく間違いとなる可能性がある。これは、貿易と投資の流れが極の数によって大きく異なる可能性があるためだ。二極化システムでは、二大国は相対的な利益を非常に気にするため、経済秩序はより二極化し、分裂する。秩序の種類ごとに異なる地政学的リスクが伴い、企業が次の工場をどこに建設すべきかという戦略を誤ると、非常に高くつく可能性がある。

第二に、明らかに二極化している世界が多極化すると、友好国にも敵国にも同様に誤ったシグナルを送る可能性がある。4月のマクロン大統領の中国訪問中に発せられた発言が引き起こした国際的な騒動が、この点を物語っている。ヨーロッパに帰る途中の機内でのインタヴューで、マクロン大統領はヨーロッパが第三の超大国になることの重要性を強調したと伝えられている。マクロン大統領が多極化について熟考する姿勢は、ワシントンやヨーロッパのフランスの同盟諸国には受けが悪かった。中国側のホストは喜んでいるように見えたが、マクロン大統領の多極化に関する考えを、米中対立で中国を支持するフランスや欧州の姿勢と混同すれば、誤ったシグナルを受け取ったことになるかもしれない。

多極体制は、敵対する超大国が2つある世界ほど、露骨に二極化していないかもしれないが、必ずしもより良い世界につながるわけではない。多国間主義の手っ取り早い解決策ではなく、更なる地域化(regionalization)につながる可能性もある。多極化を望み、存在しないシステムにエネルギーを費やすよりも、より効果的な戦略は、既存の二極体制内で対話のためのより良い解決策とプラットフォームを探すことである。

長期的には、世界は確かに多極化する可能性があり、インドはアメリカと中国に加わる最も明白な候補である。しかし、その日はまだ遠い。私たちは予見可能な将来、二極化した世界に生きることになるだろう。そして、戦略(strategy)と政策(policy)はそれに応じて設計されるべきである。

※ジョー・インゲ・ベッケウォルト:ノルウェー国防研究所中国担当上級研究員、元ノルウェー外務省外交官。

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 アメリカには、プリンストン大学公共・国際問題大学院、ハーヴァード大学ケネディ・スクール、タフツ大学フレッチャー法律・外交大学院といった、将来、政府に入って仕事をすることを目指す学生向けの政策大学院(Policy Schools)と呼ばれる大学院がある。これらのアイヴィー・リーグなどの一流有名大学の政策大学院を出た人々が米国務省や米国防総省に入って仕事をすることになる。こうした政策大学院の教育の特徴は、学術研究に重点を置くのではなく、学術研究で得られた成果を実際に応用する、現実的、実践的なプログラムである。

 実践的なプログラムにはもちろん、日本でも流行っているインターンシップも入っているが、多くの場合に行われるのは、ケーススタディ(Case Study、事例研究)である。国内政治や国際政治で起きた出来事について、その当時の政府関係者たちがどのように対処したか、どのようにうまく対処したか、どのように失敗したか、ということを分析的に、かつ批判的に学んでいく。どうしてそのような方策を選んだのか、ということも学び、それに理論を応用するということも行う。理論と実践の2つの方面から学んでいくことになる。

 下記の記事で、スティーヴン・ウォルト教授は、自分たちが教えていることは時代遅れになっておいて、学生たちが卒業後に政府機関などで働く際に役に立たないことが多いのではないか、という疑問を持っていると書いている。これは正直な書き方である。自分のやっていることに対する懐疑を持つということはなかなかできることではない。

 2020年代、世界は大きく変動している。新型コロナウイルス感染拡大騒動とウクライナ戦争は大変動の兆候である。更に、ウクライナ戦争で明らかになった、「西側諸国(the West)」対「それ以外の国々(the Rest)」の分断ということも起きている。小さな事件であれば、これまでの学術成果で分析も可能だろうが、問題は、もっと大きな、より俯瞰的な視点が必要な大変化、大変動が起きているということだ。それに、これまでの国際関係論や政治学の学術研究の成果が追い付いていないというのが、それらに携わる専門家たちの偽らざる考えなのだろう。ウォルトがそれをはっきりと書いたところに意味がある。考えてみると、学問の世界は西洋中心主義(Ethnocentrism)で進んできており、学術研究の対象は西洋諸国であり続けた。そこで見られたパターンや循環などとは違うことが起きつつある。

学術界から飛び出して、より一般的なところから考えてみたい。人々の間には、世界的な大変動の兆候を感じ、不安感が広がっている。自分たちがこれまで生活してきた世界の秩序や構造が変化すると、自分たちの生活はどうなるのかという不安を持つようになる。はっきりと書けば、西洋諸国の人々は自分たちに有利だった世界の終焉が近づいていることに怯えている。一方で、それ以外の国々の人々は、元気で、これからもっと生活を良くするぞ、世界は自分たちのものになるぞ、という気合が入っている。世界は大きな転換点を迎えている。

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核政策大学院はまだ意味を持っているのか?(Do Policy Schools Still Have a Point?

-世界規模の激動の時代に公共政策学の教授として長いキャリアを積んだある学者の回想。スティーヴン・M・ウォルト筆

2023年9月8日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2023/09/08/do-policy-schools-still-have-a-point/

数週間前に授業が始まったが、年度が始まるにあたり、私は奇妙なことを考えた。私はキャリアのほとんどをいくつかの公共政策大学院(schools of public policy)で教えてきた(最初はプリンストン大学でキャリアをスタートさせ、その後、現在はここハーヴァード大学で教えている)。これらの大学は、学生を公共部門(public sector)に就職させるために存在するが、卒業生の多くはキャリアのある時点で他の仕事に就くことになる。私は、同僚や私が、加速度的に変化する時代の中で、関連性が急速に薄れていくような知識やスキルを教えている可能性はないのだろうか、と考えた。明日の分からない新世界で価値が高まるかもしれない別の能力を、学生たちが身につけるのを助ける機会を、私たちは見逃していないだろうか? 従来の公共政策教育学へのアプローチを見直すべきか、少なくとも深刻な調整を加えるべきか? 過去に何度か「カリキュラム改革(curriculum reforms)」を経験してきた私は、私たちの取り組みが十分に進んでいるのか疑問に思った。

少し背景を見てみよう。公共政策大学院は、数十年前から高等教育の成長産業(growth industry)となっている。こうしたプログラムの起源は第二次世界大戦前にまで遡ることができるが、元々の数は少なかった。近年は人気が高まり、多くの大学にプログラムが設置されるようになっている。プリンストン大学公共・国際問題大学院、ハーヴァード大学ケネディ・スクール、タフツ大学フレッチャー法律・外交大学院、シラキュース大学マックスウェル市民・公共問題大学院、フランス国立行政学院、その他数校は何十年も前から存在するが、シカゴ大学ハリス公共政策大学院、オックスフォード大学ブラヴァトニク行政大学院、ベルリンのヘルティー・スクール、テキサスA&M大学ブッシュ政府・公共サービス大学院、その他多くの大学院は最近創設されたものだ。

これらの学校にはそれぞれ独自の特徴を持つが、同時にいくつかの類似点も存在する。それらのほとんどは、公共政策の効果的な実施に必要と思われる特定の基本的な分析スキル、通常の経済学、統計、政治分析、倫理、リーダーシップトレーニング、管理の組み合わせを伝えようとしている。また、特定の政策分野(国家安全保障政策、地方自治体、人権、財政、環境など)に関する実質的な専門知識を学生に習得する機会も与え、同時にチームビルディング、ライティング、スピーキングのスキルを鍛え、どのように政策を推進するかを研究する。また自身の専攻分野が様々な政治制度で作られていることも学ぶ。

地域によって違いはあるものの、これらのプログラムはすべて、公的部門や政治の世界で指導者になるべき人々が、自分たちが活動している世界を理解し、現在および将来の公共問題に対する効果的な解決策を考案するのに役立つ学術的知識があることを前提としている。そしてその前提には、過去の人類の経験から導き出された知識は、今後も正確であり続け、これから起こるであろう新たな問題に対しても適切であり続けるという、更なる確信が暗黙のうちに含まれている。言い換えるならば、このようなプログラムを構築する教授陣は、通常、人間の行動に関する永続的な法則「enduring laws of human behavior」(「需要と供給(supply and demand)」、「力の均衡(the balance of power)」、「集合財理論(collective goods theory)」など)を発見したと考えている。また、指導者が複雑な問題に取り組まなければならなかった過去の事例を学生たちに示すことで、生徒の将来のキャリアに役立つ教訓になると考えている。これらのツールを学び、これらのケースを吸収すれば、どんなことにも対応できるようになる、ということである。

そう思いがちだが、どうだろうかと疑問を持っている。もし私たちが、今日の知識が役に立たなくなったり、適切でなくなったりするような形で変容しつつある世界に足を踏み入れているとしたらどうだろうか?

正直なところ、このようなことを考えている(疑問を持っている)自分に私自身が驚いた。私は一般的に、最新の新展開(原子爆弾、多国籍企業、ビッグテック、イスラム過激派、グローバリゼーション、人権革命など)が政治や社会の本質を変容させ、過去の経験を陳腐化させるという主張には懐疑的だ。結局のところ、政治的リアリズム(political realism)は、人間の本質の不変の特徴(unchanging features of human nature)と歴史的経験の連続性(continuities of historical experience)を強調する。リアリストにとって、政治生活の最も重要な特徴(権力闘争、戦争、同盟、国家の興亡、誤った認識など)は、それを最小化しようとする私たちの努力にもかかわらず、時空を超えて繰り返され続けるのである。言っておくが、私はこれらの不朽の名言のほとんどは、少なくともしばらくの間は有用であり続けると考えている。

しかし、私たちの目の前で起きていることについて考えてみよう。

第一に、気候変動が急速に加速していることを示す証拠は、私たちの周囲に溢れている。化石燃料(fossil fuels)やその他の温室効果ガス(greenhouse gases)の燃焼を遅らせ、最終的には元に戻そうとする努力は、期待外れに終わっている。地球の平均気温が上昇するという最悪のケースを予測すると、その可能性はますます高くなり、この事態は政治、移住、食糧生産、水不足、生物多様性、洪水や干ばつなどの自然災害の頻度や強度に深刻な影響を及ぼしそうだ。人類はこれまでも地球の気候変動に適応してきたが、ごく近い将来、これほど急速かつ広範囲に適応を迫られることはなかった。

第二に、更に強力になっていく人工知能の発達は、人間の様々な活動を混乱させ、既存の政治制度に多くの不愉快な問題を提起している。このような能力がどこまで拡大するのか、私には見当もつかないが、現段階では誰にも分からない。しかし、全てではないにせよ、人間の生き方を良くも悪くも変えてしまう可能性は非常に大きく、その変化のスピードは、産業革命(Industrial Revolution)がそれに比べればむしろ退屈なものに思えるかもしれない。

第三に、過去数十年にわたって見てきたように、スマートフォンの出現とソーシャルメディアの普及は政治の世界を一変させ、既存の政治制度に新たな予期せぬ負担を強いている。この有害な新テクノロジーのミックスに、人工知能(AI)の登場とディープフェイクの可能性などが加わると、民主的説明責任(democratic accountability)と国民間のコンセンサス(public consensus)という慣れ親しんだ概念が足場を失い始める。私は、既存の政治システムはいずれこれらのテクノロジーを抑制し、真実と虚偽を区別する私たちの集団的能力を維持する方法を見つけるだろうと考える傾向があるが、私はそれに私の年金資金を賭けない。

最後に、現在進行中の生物学、健康、長寿研究における目覚ましい革命を忘れてはならない。この傾向は、新しいAIツールによって加速される可能性が高い。老化や病気のメカニズムが解明され、それを遅らせたり、逆行させたり、あるいは対抗したりする方法が考案され始めると、現在よりもはるかに長生きする人類が何人か、もしかしたら何百万人も出てくるかもしれない。遺伝子編集やその他の技術は、将来の世代をカスタマイズする可能性を生み出し、あらゆる種類の不快な道徳的・政治的問題を引き起こすだろう。人類は過去にも様々な方法で惑星の生物学を改変してきたが、意図的にそれを行う能力は急速に高まっている。

このような傾向(およびその他の傾向)を全て合わせると、非線形的な変化(nonlinear changes)の可能性が出てくる。そして、その最終的な影響を、確信を持って予測することは不可能だ。そして、これらの重大な進展は全て、急速に、同時に起こっている。それは、現実の世界における「同時に至るところで全て(Everything Everywhere All at Once)」のように見え始めている。もしそうだとすれば、今日の公共政策を学ぶ学生たちは、数年後に彼らが直面するであろう問題には不向きなツールキットを身に付けていることになるかもしれない。

私が言っていることをまとめよう。AIやその他の技術開発が、多かれ少なかれ絶え間なく、しかしこれまでに見たことのない規模で、遠大な市場破壊を引き起こす世界に向かっているとしたらどうだろう? いくつかの新しいダイエット薬(例えば、オゼンピック)がダイエット業界全体に何をもたらしているかを見てみたら分かる。気候の変化によって、ジェット機での移動が法外に高価になったり、環境的に持続不可能になったり、あるいは大気の乱気流の増大によって危険すぎるものになったりしたらどうだろう? 現在何千万人もの人々が住んでいる地球の広大な地域が、居住不可能になったらどうだろう? 宇宙ゴミの連鎖的な衝突、悪意あるハッカー、敵対国の意図的な行動によって、世界的な通信を担う衛星が破壊される日への備えはできているだろうか? デジタル化以前の時代にどのように物事を進めていたか、覚えているだろうか? そして、これら全ての進展がもたらす政治的影響が、慣れ親しんだ統治様式、長年にわたる同盟関係、経済依存のパターン、そして過去75年以上にわたって世界政治をほぼ決定してきた制度的特徴を破壊するとしたらどうだろうか?

私が言いたいのは、急速に相互接続が進む世界では、私たちが当たり前だと思ってきた(そして自信を持って学生たちに教えてきた)慣れ親しんだ真実、原則、慣行のいくつかは、それほど役に立たないかもしれないということだ。このような状況下で重要になるのは、適応する能力、古い考えを捨てる能力、健全な科学と蛇の油を見分ける能力、そして公共のニーズを満たす新しい方法を考案する能力である。過去にどのように物事が動いたかを生徒に教え、それ以前の時代に由来する時代を超えた真理を植え付けることは、それほど役に立たないかもしれない。

私は、現在のカリキュラムを投げ捨て、ミクロ経済学、民主政治体制理論、公会計、計量経済学、外交政策、応用倫理学、歴史学など、今日の公共政策カリキュラムの構成要素を教えるのを止めようと提案しているのだろうか? そうではない。しかし、私たちがこれまで知っていた世界とは根本的に異なる世界、しかも彼らが考えているよりも早く訪れるであろう世界に対して、子どもたちが準備できるよう、より多くの時間と労力を割くべきである。

私は小さな提案を3つ提示したい。

第一に、いささか逆説的ではあるが、激変の見通しは基本理論(basic theories)の重要性を浮き上がらせる。過去の経験から導き出された経験的パターン(例えば、「民主政体国家は互いに争わない(democracies don’t fight each other)」など)は、その法則が発見された政治的・社会的条件がもはや存在しないのであれば、ほとんど意味をなさないかもしれない。根本的に新しい状況を理解するためには、何が起こりそうかを予見し、異なる政策選択の結果を予測するのに役立つ因果関係の説明[causal explanations](すなわち理論)に頼らざるを得なくなる。単純化された仮説検証や単純な歴史的類推から導かれる知識は、何が何を引き起こしているのかを伝え、様々な行動の影響を理解するのに役立つ厳密で洗練された理論に比べると、あまり役に立たないだろう。「応用歴史学(applied history)」を教えるためのより洗練された努力も、過去の出来事が適切に解釈されなければ失敗に終わるだろう。過去は決して私たちに直接語りかけることはない。全ての歴史的解釈は、ある意味で、私たちがこれらの出来事に持ち込む理論や枠組みに依存している。私たちは、過去のある瞬間に何が起こったかを知るだけでなく、なぜそのようなことが起こったのか、現在も同様の因果関係が働いているのかどうかを理解する必要がある。因果関係の説明を提示するには理論が必要である(Providing a causal explanation requires theory)。

同時に、既存の理論のいくつかを修正する(あるいは放棄する)必要があるだろうし、新しい理論を発明する必要があるかもしれない。私たちは何らかの理論に依存することから逃れることはできないが、特定の世界観に厳格かつ無批判に固執することは、自分の本能(instincts)だけで行動しようとするのと同じくらい危険なことである。そのため、公共政策大学院では、学生に現在よりも幅広い理論的アプローチに触れさせ、それらについて批判的に考え、長所とともにその限界を見極める方法を教えるべきである。

急速に変化する世界に向けて学生を準備させるためには、一般的な理論が誤った政策選択につながった歴史的事例や、全く新しい状況に対処するために新たな理論を考案しなければならなかった事例を教えるべきである。1930年代におけるケインズ経済学の発展や、冷戦期における抑止理論(deterrence theory)の洗練は、この点で有益な例となるだろう。また、政策立案者がもはや通用しないアイデアや政策に固執したために失敗したケースを探し、他の指導者が即興的に革新し、迅速に成功したケースと対比させるべきだ。

最後に、私たち(というより私自身)は、学生たちが当然と思いがちな基準や労働条件の枠にとらわれず、適応し、即興的に行動することを求めるような演習や課題を考案することで、より創造的になるべきである。例えば、学生をいくつかのティームに分け、全員に共通の課題を与える。ノートパソコン、タブレット、スマートフォン、グーグル検索などはもちろん、大学図書館のオンラインカードカタログさえも使えない。現代のエリート大学の学生が、手動のタイプライターとペンと鉛筆と紙しか頼るものがなかったら、どうやって仕事をするだろうか? そのような訓練は、その場その場に適応して問題を解決する能力の重要性を浮き彫りにするだろう。

あるいは、学生たちに、もっともらしいが根本的に異なる世界を想像し、その主な特徴は何か、その新しい状況にどう対処すべきかを考えさせることもできる。NATOが解体し、国連が崩壊したら、アメリカ、ロシア、ドイツ、エストニア、中国、サウジアラビアなどはどのように対応するだろうか、あるいはどう対応すべきだろうか? 科学界が完全に立場を逆転させ、今日の気候変動は完全に自然なものであり、人間の活動はほとんど影響を与えていないと結論づけたとしたら、彼らはどのような政策選択を勧めるだろうか?(はっきり言っておくが、これが現実的な可能性だと言っているのではない) 学生たちの考えを変えるためではなく、自分の信念に対する健全な懐疑心や、一見説得力があるように見える議論を評価する能力を高めるために思考力を高めることが必要だ。

読者の皆さんにはお分かりだと思うが、私はまだこれらの問題について考え中であり、私の提案は暫定的なものである。しかし、私はこれらの問題について考え続けるつもりだ。私の同僚たち(そして私の学生たち)がそれらについてどのような意見を述べるのかに興味を抱いている。公共政策大学院が人気を博しているのにはいくつかの理由がある。しかし、だからと言って、私たちが学生たちに提供しているものを改善できないということではない。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。ツイッターアカウント:@stephenwalt

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