古村治彦です。
国際関係論には様々な理論(theory)が存在する。「理論」と言うと、確立された内容であるように思われるが、「理論」は多くの実験(experiment)や観察(observation)を経て、その内容が確かめられているが、これからも様々な試験を受けることで、内容が修正される可能性があるという点で、「仮説(hypothesis)」の一種である。「仮説」はこれから実験や観察の試験を受ける考えや物の見方である。理論は「法則(law)」とは違う。社会科学においては、「法則」はほぼ存在しないと言ってよい。
国際関係論の理論の1つに「民主平和論(democratic peace theory)」がある。これは簡単に言えば、「民主政治体制国家同士は戦争をしない」というものだ。第二次世界大戦で考えてみると、連合諸国(the Allied Forces)と枢軸諸国(the Axis)では、この理論が適用される。第二次世界大戦後の世界では、小競り合いなどを除くと、この理論が適用されるようだ。
国際関係論は社会科学の一分野で、統計学も用いられるが、同時に歴史学も用いられる。歴史上の出来事から理論を作り出すということが行われる。こうした中で、「民主平和論」は、その有効性が高い理論として知られている。「民主国家同士は戦争をしない」ということから敷衍すると、「世界の全ての国が民主政治体制になれば、世界から戦争がなくなる」というテーゼが導き出される。これが、アメリカによる外国への介入(intervention)、「民主化(democratization)」を正当化することになった。ネオコンにとっての「金科玉条(a golden rule)」となった。第二次世界大戦の結果として、枢軸国側だったドイツと日本、そしてイタリアは「民主化」された。これが成功例として喧伝された。2003年のイラク戦争とアメリカによる民主化について、日本が成功例として引き合いに出されることもあった。
世界を眺めてみれば、民主的ではない国家は多く存在する。ネオコンにとっては全てが民主化すべき対象となるはずだが、実際には、サウジアラビアなどの中東地域の王制国家については、民主化を求めていない。アメリカにとって利益になるのであれば、民主化を求めない。これは二重基準、ダブルスタンダード(double standard)である。
アメリカのドナルド・トランプ政権のドンロー主義によって、民主国家同士の緊張も高まっている。NATOの存在意義にも疑義が出るほどになっている。民主平和論は時代の大転換の中で生き残ることができるかどうか、現在はそのための実験が行われているとも言える。
(貼り付けはじめ)
民主的平和理論よ、安らかに(Democratic Peace Theory, R.I.P.)
-主流の学術理論であったこの理論の台頭と潜在的な衰退。
スティーヴン・M・ウォルト筆
2025年10月28日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2025/10/28/democratic-peace-theory-definition-democracy-international-relations-us/
江陵で開催された2018年平昌冬季オリンピックの選手村にあるファストフード店の外で2人の女性が自撮りしている(2018年2月8日)
社会科学理論の中には、驚くほど長く続くものもあれば、寿命が短いものもある。かつて有望視されていたアイデアが、何の成果も上げられず(タルコット・パーソンズの社会学構造機能主義的アプローチ[structural-functionalist approach to sociology]はその一例だ)、最終的に多くの学者がそれを放棄し、別の分野へと進んでしまうこともある。あるいは、斬新な理論的議論が最初は説得力があるように思えても、その後の研究で論理的または実証的な限界が明らかになることもある。また、大胆な主張に対して現実世界が厳しい判断を下す場合もある(「歴史の終わり(end of history)」テーゼを覚えておられるだろうか?)。しかし、信用を失った理論の中には、強力な利害関係者が存続させることにメリットを見出すため、ゾンビのように生き残るものもある。
なぜこの話を持ち出したのか? それは、最近、民主的平和論(democratic
peace theory、DPT)に一体何が起きたのか、疑問に思ったからだ。国際関係論を学ぶ人なら誰もが知っているように、民主平和論は1980年代半ばから21世紀に入ってからも、国際関係論研究者たちにとって大きな知的関心事だった。マイケル・ドイルによるこのテーマに関する独創的な著作(イマヌエル・カントが提唱した議論を洗練させた)に始まり、「民主政治体制国家は互いに争わない(democracies don’t fight each other)」という考えは、膨大な数の学術論文や書籍、そして数々の重要な批判を生み出した。
現代の民主平和論は、確立され機能している民主政治体制国家は互いに戦争をしないという経験的観察(the empirical observation)に基づいており、ある著名な学者はこの発見を「国際関係の研究において経験法則に最も近いもの(the closest thing we have to an empirical law in the study of
international relations)」と呼んだ。支持者たちはこの興味深い観察に対して、経済的相互依存(economic interdependence)などの他の要因と組み合わせるなど、いくつかの競合する説明を展開した。多くの社会科学理論とは異なり、民主平和論はすぐに象牙の塔(the ivory tower)を出て、世界中に民主政治体制を広めたり、NATO などの機関を拡大したりするアメリカの取り組みを正当化しようと努める政治家たちに利用された。この理論の魅惑的な魅力は明らかだった。なぜなら、完全に自由主義的な諸国で構成される世界は戦争から自由であると示唆していたからだ。ジョージ W. ブッシュ大統領が就任当初に述べたように、「私たちの目標は、このアメリカの影響力の時代を、何世代にもわたる民主的な平和に変えることである」ということになる。
当然のことながら、民主平和論の大胆な主張には多くの批判が寄せられた。一部の学者は、実証的発見の根底にある因果メカニズムに一貫性がなく説得力に欠けると指摘した。一方、1945年以前には真の民主政体国家はほとんど存在しなかったことを考えると、民主政体国家間の戦争の頻度の低さは統計的な人工物(artifact、アーティファクト)である可能性があると示唆する学者もいた。また、第二次世界大戦後の民主政体国家のほとんどがアメリカの冷戦同盟ネットワークの一部であったことを考えると、民主政体国家間の戦争がないのは権力政治によるものだ、あるいは特定のコーディング決定や「民主政治体制(democracy)」の定義の変化の結果だと示唆する学者もいた。さらに、確立された民主政体国家は過去に互いに戦っていなかったかもしれないが、新たに民主化した国家は特に戦争を起こしやすい傾向にあると指摘する学者もいた。これは、民主政治体制の普及は長期的には報われるかもしれないが、そこに到達するには困難なプロセスになるだろうということを示唆している。
この知的論争は学術誌やモノグラフの紙面上で激しさを増し、最終的には行き詰まりに陥った。競合する大規模N研究(large-N studies)の結果が、採用されている仮定やモデリング手法にますます依存するようになったためだ。私見だが、民主政治体制による平和に関する極端な主張は誇張されているものの、民主政体国家同士が戦争する可能性はやや低いと言えるだろう。なぜなら、民主政体国家は戦争に対する国民の抵抗を克服するのが不可能ではないものの、やや困難だからだ。
さらに重要なのは、民主平和論は完全に民主政治体制国家のみで構成される世界がどのようなものになるかについて、あまり多くを語っていないように思われたことだ。なぜなら、そのような世界はこれまで存在したことがなく、民主政体国家間の戦争がないことは、潜在的に危険な非民主政体国家のライヴァルたちが常に存在することによって裏付けられてきたからだ。しかし、全ての独裁国家が民主政体国家に置き換えられれば、カント主義的な共和国でさえも互いを疑いの目で見て、不公平な区別をつけ始めるかもしれない。民主政治体制の原則を共有しても全ての利益相反がなくなる訳ではなく、議会制共和国や大統領制共和国は互いを異なる、そしておそらく危険な存在と見なし始めるのではないだろうか?
もしそうなら、民主政治体制を広く普及させることは、民主平和論の最も熱心な支持者が信じていたような万能薬(the
panacea)ではないかもしれない。そして、他の学者と同様に、私は、民主平和論が強力な民主政体国家に平和の名の下に非自由主義国家に対する暴力的な十字軍(crusades)を開始するよう奨励し、そのような取り組みが国内の自由主義の規範と自由を徐々に侵食するのではないかと懸念していたが、まさにそれが起こっている。
しかし、民主平和論は今日の世界においてどのような位置づけにあるだろうか? 理論そのものには含まれていなかったものの、その提唱者やそれを援用した政策立案者の多くは、自由主義的民主政治体制こそが未来の潮流であり、ソヴィエト帝国に対する一見勝利した後も、それがさらに拡大していくと想定していた。しかし、この予測は大きく外れた。世界中で民主政治体制は20年近く後退しており、長らくその主要な擁護者であったアメリカ合衆国においても、急速に衰退している。世界で最も人口の多い民主政体国家であるインドは、ますます非自由主義的な方向へと進んでいる。ブラジルは前回の選挙後、独裁政権の掌握を辛うじて免れた。そして、ヨーロッパの既存の民主政治体制国家のいくつかは、それぞれ独自の正統性の危機に直面している。
したがって、世界の主要国の全て、そして多くの中小国も、まもなく、言葉の意味する意味で自由主義でも民主政治体制でもない状態になる可能性は十分にある。民主平和論はこの点について何を示唆しているのだろうか?
最も明白な点は、たとえ民主平和論が真実だとしても、そのような世界ではほとんど無関係であるということだ。その因果メカニズムは非自由主義国家間、あるいは非自由主義国家と自由主義国家の間では機能しないため、主要な民主政体国家が存在しない世界は理論の範疇外だ。民主平和論の信奉者たちは、そのような世界ではさらに紛争が激化すると予想するかもしれない。なぜなら、民主政治体制の平和のオアシスは少なくなり、結果として非民主政治体制国家間の紛争の機会が増えるからだ。しかし、民主平和論は非民主政体国家間の戦争の頻度についてはほとんど語っておらず、地球上に残された民主政治体制国家が少なくなったという理由だけで、非自由主義国家が過去よりも頻繁に戦争を始めると考える明白な理由は存在しない。
さらに言えば、そのような世界にはわずかな希望の光(silver lining)があるかもしれない。民主政治体制と独裁政治体制の間のイデオロギー的競争、それぞれが相手を自らの正統性に対する脅威と見なすことになるが、それがなくなることで、両者間の安全保障上のディレンマは緩和され、過去に強力な自由主義国家を戦争へと駆り立てた、そして独裁主義国家が自国の体制維持のために予防戦争(preemptive wars)を仕掛ける原因となった、十字軍的な衝動が弱まるだろう。大国間の競争は終わらないが、イデオロギーに駆り立てられることは少なくなり、妥協を許さない性格を帯びることも少なくなるだろう。皮肉なことに、民主平和論が政策立案者たちにとって有用な指針とみなされなくなった世界は、より平和的になるかもしれない。
誤解しないで欲しい。私はそのような世界が望ましいと言っているのではない。むしろ、非自由主義的な大国のみで構成される世界には多くの欠点が存在する。人権は深刻な危機に瀕し、腐敗が蔓延し、野放しの独裁者たちは毛沢東の大躍進政策(Mao Zedong’s Great Leap Forward)のような破滅的な政策、あるいはヨシフ・スターリンの大粛清(Joseph Stalin’s Great Terror)やナチスのホロコースト(the
Nazi Holocaust)のような全体主義的な悪夢を自由に実行することになるだろう。私は民主政治体制が「他のあらゆる政治形態を除けば最悪の政治形態(the worst form of government, except for all the others)」であり、独裁政権下で暮らすことを望んでいないため、世界、特にここアメリカ合衆国における独裁主義の動向について深刻な懸念を持っている。
理想的には、アメリカ合衆国が現在の衰退傾向を逆転させ、健全で力強い自由主義共和国であり続けることを願っている。そこでは、あらゆる政治家が民主政治体制の規範と法の支配(the rule of law)を尊重し、これらの原則に違反した際には責任を問われるだろう。また、力強いアメリカが、他の社会がそれぞれのやり方とペースで模倣したくなるような、素晴らしい、公正で、効果的な統治の模範を示すことで、これらの価値観を推進していくことも望んでいる。もし民主平和論を廃止することで、より控えめで現実的なアプローチが促進され、銃を突きつけて民主政体を押し付けようとする試(trying to impose democracy at the point of a gun)みを正当化しにくくなるのであれば、私はそれで良いと考えている。
※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。Blueskyアカウント:@stephenwalt.bsky.social、Xアカウント:@stephenwalt
(貼り付け終わり)
(終わり)

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