古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:太平洋戦争

 古村治彦です。

 日本は「戦前」と「戦後」の区別ははっきりとしている。太平洋戦争における敗北がその分岐点だ。日本は敗戦を受け入れ、アメリカ軍を中心とした連合諸国の占領(ほぼアメリカ軍だが)を経験した。1945年の敗戦からは日本にとっては「戦後」だ。一方、アメリカではそのような区別はない、なぜならばそれ以降も幾度も戦争を繰り返しているからだ、という話を聞いた。

確かに冷戦期においては朝鮮戦争とヴェトナム戦争で大きな犠牲を払っている。また、湾岸戦争も2回実施された(1991年と2003年)。日本の「戦後」である75年の間に10年以上は戦争をしているということになる。

 今回ご紹介する論考は、この75年間にアメリカが戦った戦争は、日本との戦争とは大きく異なり、完全勝利もその後の敗戦国の体制転換ももたらさなかった、ということから、マッカーサーが使った「偉大な勝利」はなかった、ということを論じている。アメリカ国民には受け入れがたいほどのコストがのしかかりながら、完全勝利を得ることはできなかった、その子で国民は苦しみ、不満を持ってきたということだ。
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 1945年9月2日に東京湾のアメリカ戦艦「ミズーリ号」(現在はパールハーバーに展示されている)の艦上での降伏文書調印式が実施された。この時の写真や映像は残っており、今でもテレビで放映されたり、雑誌に掲載されていたりする。しかし、これ以降、このような完全な勝利による、敗戦国側がおずおずと儀式に出てきて降伏文書に調印するというような戦争をアメリカは経験していない。言われてみれば、アメリカ側が得意の絶頂になって、勝利を見せつけるということができたのは、太平洋戦争が最後だ。

 このような完全勝利(日本の無条件降伏)ならば、アメリカ国民もある程度の犠牲やコストを甘受しただろう。しかし、その後はこのような完全勝利を得られるどころか、コストに結果が伴わないということが続いている。しかし、無敵アメリカ軍、という印象や日本の降伏と民主化という「幻影」に縛られている。イラク戦争が一応の終結を見た後に、ポール・ブレマー連合国暫定当局(CPA)代表をダグラス・マッカーサーと比べる記事や日本の民主化についての記事がアメリカでも多く出たが、とても成功したとは言えない。

 大成功を収めた後ほど怖い、という処世訓がある。アメリカの場合はこの庶民の私たちが持つ処世訓通りの75年間を過ごしてきたことになる。

(貼り付けはじめ)

日本の無条件降伏がもたらした危険な幻想(The Dangerous Illusion of Japan’s Unconditional Surrender

-これまでの数十年間、アメリカの外交政策は第二次世界大戦を終わらせた方法によって、かえってよくない方向に捻じ曲げられてきた

マーク・ガリッキオ筆

2020年8月13日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2020/08/13/vj-day-the-dangerous-illusion-of-japans-unconditional-surrender/

1945年8月15日の夜明けを迎える少し前、国営放送は日本国民に対してその日のうちに天皇からのメッセージがあるので注意するように求める放送を行った。日本全国で、人々は不安の中で、初めて耳にする「玉音(the jeweled voice)」を待った。ほとんどの国民は、天皇が最後まで戦い抜くことを求めるメッセージを発するものと考えていた。国民が耳にしたのは、甲高い、早口の古い日本語で書かれたメッセージであって、国民の多くには理解できなかった。玉音放送の後に解説者が出てきて、天皇は降伏に同意したと説明し、そこでやっと国民は戦争が確かに終わったことを知った。

このニュースがワシントンに達した時、すぐにお祝いが始まった。しかし、戦争を終結させるための正式な儀式は9月2日の日曜日まで待たねばならなかった。日本の正式な敗北はアメリカ海軍戦艦ミズーリ号の艦上で発効した。降伏文書は連合国と日本の代表者によって署名された。この文書は大日本帝国大本営と日本の管理下にある全ての武装勢力が無条件降伏(unconditional surrender)することを宣言した。降伏文書には、天皇と日本政府の権威はアメリカのダグラス・マッカーサー大将の指揮下に入り、全ての文官と軍人はマッカーサーに従うように命じた。調印式の最後に、マッカーサーはマイクの前に立ち、世界中の聴衆に向かって来示を通じ得ての演説を始めた。現在では有名になっている演説は次のように始まった。「本日、銃は静まった。大規模な悲劇は終わった。大きな勝利が勝ち取られた(A great victory has been won)」。

日本の降伏後、日本の非武装化、経済、政治、社会のそれぞれの機構の改革、新憲法の制定、中国と東南アジアに展開していた戦闘では敗れていなかった日本軍の降伏と言ったことが続いた。これらすべては天皇に対するアメリカの影響力によって実行されたものだ。天皇は日本軍に無条件降伏を命令した。飛行機が上空を飛び交い、米第三艦隊所属の200以上の艦船が東京湾を埋め尽くす中で、アメリカの力が全ての場所で誇示された。アメリカ人が戦争における完全な勝利の中にいて、征服した敵に対して自分たちの意思を押し付けることができるということがこの時をもって最後になるなど、この時に参加していた人々は誰も知らなかった。東京湾における軍事力の誇示は日本国民を畏怖させる意図で実施された。しかし、それだけではなく、軍事力によって達成できるものについての誤った印象を増進させることにもなった。

19世紀以降、社会的な発達と技術的な発達によって、戦争は高いコストがつくものとなった。軍事力を通じて国家目的を達成することは政治的に受け入れがたいほどのコストが発生するリスクが大きくなった。近代戦争において国民が総動員されることは、交戦諸国に対して大きなプレッシャーとなり、勝利国であっても極限での犠牲が大きくなってしまうことになった。アメリカが日本と戦争状態に入った時、アメリカの戦略家たちは、日本本土を孤立させ、幸福を促すために、主に海軍力を使うことでそうした運命に陥らないようにすることを望んだ。この目的のために最初に必要なことは日本帝国海軍の艦隊を壊滅することだった。1945年春までに、アメリカ空軍による日本の諸都市への繰り返しの爆撃によって日本の絶望状態が進んだ。それにもかかわらず、日本政府はアメリカ側が受け入れられる条件を出すことを拒絶した。戦争は継続した。

1945年8月までに、アメリカ陸軍は、太平洋戦争において最も厳しい戦いを経験の少ない新兵が補充された、疲れ切った師団で戦うための準備を行っていた。苛立ちを募らせた国民と批判的な政治指導者たちは、日本の無条件降伏と同義とされた勝利が受け入れ可能なコストで達成されるのかどうか疑問を持った。2発の原子爆弾とソヴィエトの対日参戦はそのような議論を終わらせ、誰も想像しなかった素早い決定がなされた。運命の突然の逆転は、後の世代が、日本の抵抗とアメリカ国内の分裂のためにアメリカの戦略がどれほど混乱したかが分からなくなってしまった。また東京湾上での降伏文書調印儀式は、後の世代に、「戦争の終わりはこうであらねばならない」、そして「これは再現できることなのだ」という考えを植え付けた。

アメリカの次なる戦争は、時期と場所だけが太平洋戦争のパターンにそっくりなものとして出てきた。朝鮮戦争は奇襲攻撃から始まった。この奇襲攻撃によって、アメリカと同盟軍は後退を余儀なくされ、国連による攻勢によって体勢を立て直すに至った。仁川(インチョン)の二正面による上陸作戦の成功は、マッカーサーが第二次世界大戦において行ったニューギニア北部で行った飛び石作戦を思い出させるものとなった。この成功によって、北朝鮮への侵攻と完全勝利への期待が高まった。中国人民解放軍の介入によってこれらの希望は打ち砕かれた。そして、国連は長期にわたる、徐々に人々からの支持を失っていった戦争を戦うことになった。そして、戦争目的は限定的なものとなった。朝鮮戦争においては、アメリカの戦艦の艦上で敵の降伏を受け入れるということもできないものとなった。戦争は板門店のテントの中で、厳しい停戦交渉の末に実現した。

アメリカがヴェトナムに直接介入する時までに、戦闘における核兵器の使用は不可能だという戦略的分析が既になされていた。特にアジアにおいてはそうだとされていた。広島で核兵器が使用されてからの10年間、アメリカの戦略家たちは、アジア地域における核兵器の使用について、使用してしまうと、地域に住む人々に対して「地域の人々の声明についてアメリカ人は無関心なのだ」という認識を与えてしまうという結論を出した。核抑止力の短所を埋めるために、アメリカの軍事思想家たちは、許容できるコストで勝利を生み出すための最善の方法として、機動性と戦術的な空軍力使用を強調する制限戦争という戦略を主張した。アメリカは限定的な目的を設定した。それは非共産主義のヴェトナムの防衛であった。朝鮮半島における中国の介入がまた繰り返されることを恐れて、政府高官たちは、北ヴェトナムに対する地上戦を排除したが、敵の戦争継続能力を破壊することを究極の戦争目的とする軍事戦略を採用した。アメリカは個々の戦闘では常に勝利したが、戦争の勝利は朝鮮戦争の時よりも曖昧なものとなった。

結果は異なっているが、日本との戦争、朝鮮戦争、そしてヴェトナム戦争の間には共通点も見られる。その一つは、アメリカ軍に対して多大な死傷者を強いる一方で、敵は想像を絶する損失に苦しむことを自ら進んで行ったというものだ。もう一つは、アメリカ国民、特にビジネス界と政界の指導者たちが長期戦に伴う犠牲を受け入れ難く考えていたことだ。

歴史的に見て戦争は優柔不断の方向に引きずられてしまうということの証拠としてこれらの共通点を見ることができる。その代わりに、軍事専門家たちは、朝鮮戦争とヴェトナム戦争は、アメリカ人が限定戦争には向いていないことだけを証明したと結論付けた。その救済策はパウエル・ドクトリン(Powell Doctrine)だった。これは1990年代初めのアメリカ軍統合参謀本部議長の名前にちなんでつけられた。この新しい考え方は、二度とヴェトナム戦争のようなことが起きないためとするものだった。その内容は、アメリカはこれから勝てる戦争しか戦わないというものだった。コリン・パウエルはこの考えを1991年に実行に移した。1991年、アメリカと同盟諸国はイラク軍からクウェートを解放した。「砂漠の嵐」作戦は、サダム・フセインをイラクに押し戻すことに成功した。しかし、その目的が達成された後、パウエルはそのままイラクに侵攻すれば、ヴェトナム戦争の時同じ泥沼にはまるのではないかという恐怖感を持った。そこで、攻撃を停止した。軍事上の成功に対する祝意は、失望に変わった。それはサダム・フセインが権力の地位にとどまったことで、アメリカ人には不完全な勝利ということになり、不満が残った。

それから10年後、デジタル革命とそれに付随する武器の進歩によって、新しい世代のアメリカの政治指導者たちは、軍事面での革命を実現したのだと考えるようになった。戦争の新方式の主導者たちは、いわゆる「戦場の全方位における優越(full-spectrum dominance of the battlefield)」を確信しており、これによってアメリカはより低いコストで大きな勝利を得ることができると考えた。軍事に関する革命についての最初のテストは、パールハーバー奇襲攻撃を思い出させることになる911事件のテロリスト攻撃の後に実行された。

911事件の首謀者たちを標的とする限定的な攻撃によって対応する代わりに、アメリカは拡大されたテロリズムに対する世界規模の戦争に乗り出した。第一段階は2001年10月に「不朽の自由」作戦として、アフガニスタンへの侵攻で始まった。第二段階は、「イラクの自由」作戦として2003年3月に始まった。両作戦は共に、中東地域への民主政治体制の拡散のためのより大規模な戦役の計画が実現されたものだった。

2002年10月、ジョージ・W・ブッシュ政権はイラク侵攻を真剣に検討した。軍事面の計画立案者たちは日本占領をイラク侵攻についてのガイドと考えていた。ドイツとは逆に、日本は最も望ましいモデルであった。それは、日本は占領期間中に分裂することなく、統一を保ち、アメリカが非西洋国に民主政治体制を植え付け育てることができることを証明したということが理由であった。しかし、イラクは日本のようにはいかなかった。少なくともブッシュ政権が想像したようにはいかなかった。

2003年4月1日、アメリカのイラク侵攻が始まって2週間後、ドナルド・ラムズフェルド国防長官はイラクの政権の無条件降伏を求めると宣言した。2007年8月、アメリカ軍はイラクでまだ戦闘を続けていた。戦闘が長引くようになり、ブッシュ大統領は、自分の父親たちの世代が獲得した勝利と同様の勝利で「テロとの戦争」は勝利するだろうと語りかけた。対外戦争従軍復員軍人会の会合に出席し、ブッシュはたとえ話から演説を始めた。ブッシュは演説を次のように始めた。「ある良く晴れた日の朝、数千のアメリカ人が奇襲攻撃で殺害され、私たちを世界中に進出させることになる、戦争に私たちの国は入ることになりました」。

ブッシュは続けて次のように述べた。「私が述べている敵とはアルカイーダのことではありません。奇襲攻撃は911事件のことではありません。帝国はオサマ・ビン・ラディンが夢想する急進的なカリフが統治する帝国のことではありません。私が述べているのは、1940年代の日本帝国による戦争マシーン、日本帝国によるパールハーバーへの奇襲、日本帝国による東アジア地域への帝国の拡大、ということです。」中東地域での民主政治体制の拡散という試みと努力を無駄だとする批判者たちを非難するために、ブッシュは、聴衆たちに対して、日本の民主化については当時の専門家たちも疑念を持っていたことに注意するようにと述べた。

ブッシュ大統領が演説をした時までに、アメリカ国民は既に中東での十字軍遠征に対する熱意を失っていた。1945年夏のアメリカ国民と同様、アメリカ国民は怒りに任せて始めた戦争についてすでに過去のこととして関心を失い、国内問題に関心を集めるようになっていた。ほとんどのアメリカ国民にとって、中東での完全勝利の代償はその価値を超えるものとなっていた。

アメリカ人が日本との戦争終結75周年を記念する際、2発の原子爆弾とソヴィエトの参戦によって日本の無条件降伏は促されたということを思い起こすことになるだろう。偉大な勝利が勝ち取られた。短い間、ほんの短い間、アメリカは歴史の法則から自由になった。そして、国民が受け入れられるコストで勝利を得ようと苦闘する他の国々の運命からも免れた。そのような瞬間は二度と戻ってこない。また、そのようなことが実現できると期待すべきではないのである。

※マーク・ガリッキオ:ヴィラノヴァ大学歴史学教授。『無条件:第二次世界大戦における日本の降伏(Unconditional: The Japanese Surrender in World War II)』著者

(貼り付け終わり)

(終わり)

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アメリカ政治の秘密
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ハーヴァード大学の秘密 日本人が知らない世界一の名門の裏側
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 古村治彦です。

 今回は『象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦「日本計画」』をご紹介する。著者の加藤哲郎は一橋大学名誉教授であり、政治思想の分野で浩瀚な業績を残している。本書は、タイトル通り、象徴天皇制についての詳細な研究報告である。
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象徴天皇制の起源―アメリカの心理戦「日本計画」 (平凡社新書)

詳細なという言葉では生ぬるいほどで、詳細過ぎる内容だ。そのために、新書版としては「分かりにくい」ものである。新書版はたいていの場合、専門家が分かりやすく読者に研究成果を紹介するものが多いが、本書は詳細な報告になっている。そのために多くの単語や専門用語が説明不足のままで次々と出てくるので読んでいて、何が何やら分からなくなるほどだ。それでも機密指定解除されたアメリカ政府の文書を丹念に

 「象徴天皇制」とは、日本国憲法第1条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」を示す言葉である。大日本帝国憲法では天皇の地位は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされた。戦前、大日本帝国憲法下では天皇は日本国を統治する大権を掌握し、神聖不可侵の存在であった。戦後の日本国憲法下では、日本国と日本国民統合の象徴の存在へと変化した。

オーストラリアやソ連は天皇という存在については廃止すべきと主張していた。一方、実際に日本占領を主導するアメリカ、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は天皇の維持を決定した。天皇を利用して円滑に日本占領を実行しようという意図があった。天皇も地位を保全するために必死だった。『』(文春文庫)は極東軍事裁判(東京裁判)に向けた弁明の書であり、英語版も存在した。天皇は公式に「象徴」として生き残った。

 本書は象徴天皇制の起源をできるだけ遡ろうという意欲に満ちた本である。しかし、意欲が勝り過ぎてか、分かりにくい本となってしまったが。

象徴天皇制の起源は1942年6月に作成された陸軍情報部心理戦争課が作成した「日本計画」にまで求められる。この計画にはいくつもの下書きと言うか草稿や覚書、メモが存在した。情報調査局の草案、英米共同計画アウトライン、オスカー・N・ソルバート大佐の草稿などがその基になった。

アメリカは一流の自然科学者や社会科学者たちを総動員して敵国を研究させ、その成果を政策に利用していた。原子爆弾の開発や暗号解読がその成果であることはよく知られている。フォン・ノイマンノイマン、ヘルベルト・マルクーゼ、ウォルター・W・ロストウ、ワシリー・レオンチェフ、タルコット・パーソンズ、ジョン・フェアバンクといった戦後も活躍した学者たちが動員されている。

戦争中の日本研究の成果が有名な『菊と刀』だ。これはコロンビア大学の文化人類学者ルース・ベネディクトが行った日本人捕虜からの聞き取り調査の結果である。ベネディクトは日本を訪問したこともなく、日本語を読み書きできず、日本専門家という訳ではないが、文化人類学の方法論(methodology)を使って、日本人の心性(mentality)と行動(behavior)を分析した。

 戦時中の日本研究の成果として、アメリカ軍は「天皇を攻撃(批判)しない」「日本の天皇を平和のシンボルとして利用する」という方針を固めた。これが戦後も続き、日本国憲法に盛り込まれることになった。「象徴天皇制」を準備したのはアメリカ、というのは戦後を生きる私たちにとっては何とも重たい事実だ。

(終わり)

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 古村治彦です。


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組織の不条理 - 日本軍の失敗に学ぶ (中公文庫)

 

 本日は、『組織の不条理 日本軍の失敗に学ぶ』を皆様にご紹介します。これは、新制度派経済学(New Institutional Economics)によって、旧日本軍の行った様々な事績を分析し、組織の陥りやすい陥穽について論じた本です。著者の菊澤研宗氏は経営学者・経済学者です。著者の菊澤氏は、新制度派経済学の3つの経済学理論(①取引コスト理論、②エージェンシー理論、③所有権理論)を使って、日本軍の失敗と成功の分析を行っています。

 

 太平洋戦争において、日本は最終的に連合国に降伏しました。日本国内のみならず、アジア・太平洋地域において、数多くの人命が損なわれ、傷つき、莫大な物資が浪費されました。太平洋戦争における日本の敗北についての分析については、『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎著、中公文庫、1991年)という本があります。この本も是非お読みいただければと思います。

 

 日本と日本軍の失敗、ということになると、これまで、物量を無視した精神主義、科学を無視する態度、非合理的な神がかりといったことが理由として挙げられてきました。一言で言えば、「アメリカやイギリスは合理的、日本は非合理的だったから負けたのだ、そもそも非合理的だったから勝てない戦争に乗り出してしまったのだ」ということになります。

 

 合理的(rational)というのは、「自分の利益を最大化するために行動する態度」ということになります。たとえば、A点からB点まで向かう際に、最短の2点間の直線状を進む、ということが合理的ということになります。社会科学において、合理的選択論(Rational Choice Theory)が一つの大きな分析枠組となっています。新制度派経済学は、人間の合理性には限界がある、ということを主張しています。

 

 人間の最大の利益は「自分の生命を永らえさせること」ということになりますし、国家にとっての最大の利益は「国家が滅びずに存続し続けること」で、政治家にとっては「選挙に当選して政治家であり続けること」です。そして、こうした利益のために行動することは、全て合理的な行動となり、行動のコストが小さくなればなるほど、素晴らしい行動ということになります。

 

著者の菊澤氏は、「組織の不条理」という言葉をタイトルに使っていますが、不条理という言葉について、「人間が合理的に失敗するということ」「人間組織が合理的に失敗すること」と定義し、その種類を「①全体合理性と合理性が一致しない、②正当性(倫理性)と効率性が一致しない、③長期的帰結と短期的帰結が一致しない」としています。そして、こうした不条理が生まれるのは、「人間が完全に合理的ではないから」という理由を挙げています。

 

 人間が完全に合理的であれば失敗はしないはずですが、限定的合理性しかもたないために、情報収集や分析で失敗をします。合理的に、失敗をしないように行動しても、目的を達成できない、ということが起こります。

 

 著者の菊澤氏は、組織の不条理を説明するための新制度派経済学の理論である、①取引コスト理論、②エージェンシー理論、③所有権理論で、太平洋戦争中の日本軍の行動を分析しています。

 

①の取引コスト理論とは、「人間は限定的合理性しか持たないので、人々は相手の不備に付け込んで利己的利益を追求する」というものです。合理的な行動を取るが結果としては非効率、非倫理が起きるというものです。人間はお互いに限定的合理性しか持っていないので、お互いに騙されないようにしようとします。そうしますと余計なコストがかかってしまいます。たとえば、新しく家を建てるという場合に、依頼主と建築業者の関係で言えば、依頼主は不良物件をつかまされたくない、建築業者はコストを下げて利益を上げたい、ということになります。お互いに完全な合理性を持っていないので、お互いに損をしたくないということになると、間に弁護士を入れるなどということになって余計なお金がかかります、これが取引コストということになります。また、何かを大きく変更する際に、発生するコストも取引コストということになります。本来要らないコストが発生する状態ということになります。菊澤氏はこの理論を使って、ガダルカナル島における日本軍の行動を分析しています。


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1942年8月、日本陸軍はガダルカナル島に滑走路を建設しました。これは、アメリカとオーストラリアとの間を遮断するためのものでした。アメリカは、日本に対する反攻をガダルカナル島から始めると決定していました。滑走路の完成直後、アレクサンダー・ヴァンでクリフト少将率いるアメリカ海兵隊第一師団がガダルカナル島に上陸しました。日本軍は防備(滑走路の建設作業員がほとんどだったので)をしていなかったために、滑走路はすぐに占領されました。

 

 日本陸軍はガダルカナル島奪回のために、ミッドウェイ島上陸に備えていた一木清直大佐率いる一木支隊を逆上陸させ、アメリカ海兵隊を攻撃させました。しかし、白兵突撃を敢行した一木支隊は防備を固めた海兵隊の前に敗退しました。死傷率が8割以上という凄まじい数字が残りました。欧米の基準であれば、この数字は部隊の全滅ということになります。一木支隊長は作戦後に自殺しました。

 

 大本営は続けて川口清健少将率いる川口支隊を派遣しました。川口支隊長もまた白兵突撃を選択し、ジャングルを迂回しての一斉攻撃を行いましたが、日本軍の動きを察知し、防御を固めていた米海兵隊はまたもこの攻撃を跳ね返しました。

 

 二度の攻撃に失敗した大本営は、三度目に向けて本腰を入れて準備をすることになりました。丸山政男中将率いる第二師団と川口支隊の生き残りによる本格的な大攻勢を企図しました。しかし、この時点で制空、制海はすでに米軍の手にあり、日本は兵員、物資、武器の輸送に苦労していました。その結果として、日本軍は深刻な食糧不足状態になり、「ガ島」は「餓島」と呼ばれるようになりました。

 

 第三回の大攻勢を前にして、川口支隊長は攻撃方法の変更と火力の増強を主張しましたが、大本営から派遣されていた辻正信参謀と意見が対立し、攻撃直前に支隊長を解任されました。そして、この大攻勢でもまた白兵突撃が繰り返され、失敗に終わりました。ガダルカナル島の戦いは半年ほど続きましたが、日本軍は最終的に撤退することになりました。

 

 日本軍は何度も失敗しながらなぜ白兵突撃にこだわったのか、という疑問が戦後ずっと残されてきました。日本軍は精神主義偏重であったこと、失敗を隠蔽し、責任を曖昧にし、失敗から学ぶという体質になかったことが理由として挙げられてきました。

 

 菊澤氏は、取引コスト理論でガダルカナル島における日本軍の失敗について分析しています。そもそも日本軍の特異な戦法が白兵突撃でした。1904年の日露戦争で強大なロシア陸軍に対抗したのは、白兵突撃でした。そして、1908年に制定された「戦法訓練の基本」でも白兵突撃に主眼が置かれました。その後、日中戦争や太平洋戦争の緒戦において、白兵突撃は威力を発揮しました。また、ガダルカナル島に派遣された第二師団は伝統的に白兵突撃を得意とする部隊でした。

 

 そうした中で、白兵突撃という戦法を放棄することは、これまでかけた教育にかけた時間と物資と人材を放棄する、伝統を放棄するという大きなコストを支払うことになります。これだけのコストを払うのか、それともそのまま白兵突撃を続けるのか、ということになり、結局、白兵突撃を続けるということになりました。ガダルカナル島での白兵突撃が全く効果なく跳ね返されたということはなく(第2回目の突撃ではアメリカ軍の防衛線を突破しかなり突き進んだ)、アメリカ軍兵士たちを恐怖に陥れるほどの威力もあり、全く無効な戦法ということでなかったために、放棄することができませんでした。従って、日本軍の選択は合理的であるということになります。しかし、合理的な行動が非効率、非倫理的な結果を生み出すことになりました。

 

(続く)



アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12




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アメリカ政治の秘密
古村 治彦
PHP研究所
2012-05-12



 

 古村治彦です。

 

 今回は、今年新潮文庫で発売された『日本海軍400時間の証言: 軍令部・参謀たちが語った敗戦』を皆様にご紹介します。この本は、2009年8月に3回にわたって放送されたNHKスペシャル「日本海軍400時間の証言」の取材班(ディレクターたち)が、自分の経験を基にしながら、取材の過程や番組の内容を著した本です。私もこの番組を視聴した記憶があります。海軍が決して善玉ではないという印象を新たにしたことを覚えています。そのこともあって、私は自著『ハーヴァード大学の秘密』(PHP研究所、2014年)に山本五十六と永野修身の2人を取り上げました。
 


 海軍反省会というのは、1980年から1991年まで131回、旧海軍士官の
OB組織である水交会で開催された、秘密の会議のことです。この会議には、その当時まで生存していた海軍の佐官級、尉官級の人々が出席し、太平洋戦争前後のことを話し合ったのだそうです。この会議の様子はテープに400時間にわたって記録されていたということです。

 

 2003年に歴史研究家の戸高一成氏がこの研究会のことをNHKの取材班に話し、そこから番組作りがスタートしました。門外不出の録音テープを何とか借り受け、それを慎重に現在の録音技術で録音し、その素材をディレクターたちがひたすら聞いていく、そして内容を理解し(海軍用語や人の名前が多く、一度聞いただけではチンプンカンプンだったそうです)、誰がどのような発言をしているのか(発言者は自己紹介をする場合もありますが、そうではない場合もあって発言者の特定も大変だったそうです)が分かるところまで聞き込んでいったということです。

 

 NHK特集の番組の作り方の一端や、製作者側の考え、苦労などが分かり、報道やドキュメンタリー、ノンフィクションの分野に進みたいと思っている方々には、番組内容以外にも参考になることが多く書かれていると思います。

 

 本書のポイント(そして番組のポイント)は、①開戦、②特攻、③戦犯裁判です。太平洋戦争開戦に関しては、「陸軍がやりたがり、海軍は反対していた」「陸軍も海軍も開戦には消極的であったが、どちらも臆病者のそしりを受けることを恐れ、開戦に反対と明確に表明できなかった」という話があります。どちらにしても、海軍は開戦に反対でありながら、仕方がなく、「空気」に従って開戦に同意した、ということになります。
 

 しかし、海軍反省会では、開戦に関して、海軍内部においても開戦を推進する勢力があったことが指摘されています。これまでも石川信吾少将(「俺が戦争を始めたんだ」と言ったという話やオープンカーで政治家たちの走り回っていたという話が有名です)と高田利種少将が参加した「第一委員会」で、少数の佐官クラスの密議で開戦計画が進められたという話はありました。これに加えて、永野修身海軍軍令部総長の「第一委員会」任せの態度が、この権限と責任が曖昧な機関の権威を高めることになってしまったと、反省会では指摘する声が出ています。この権限と責任が曖昧な機関が実権を握ってしまったために、誰が責任者か分からなくなってしまうということはあります。この第一委員会にはそこまでの力はなかったと言って責任逃れもできる訳です。

 

本書では、当時、批判の対象にしにくい皇族の伏見宮が軍令部総長就任して、「兵力量に関しては、海軍軍令部総長が定める」と統帥部に権限が委譲されたことが、指摘されています。これによって、本来であれば「軍政」の方にあるべき編成権が「軍令」の方に移ったことによって、海軍の膨張と暴走を止めることが難しくなりました。伏見宮という皇族がそれをやってしまったことで、誰も批判ができなくなってしまいました。

 

 海軍は軍縮の対象となっており、ワシントン条約やロンドン条約で、その規模にある程度の枠をはめられます。これは、日本の厳しい財政状況もあって当然のことでしたが、海軍内は、軍縮条約に賛成するグループ(「条約派」)と反対するグループ(「艦隊派」)に分かれましたが、結局、条約派は敗れ、軍縮条約脱退から多額の予算獲得狂騒していくことになります。

 

 その結果、日米開戦という重大な決定がなされる時に、「これまで多額の予算を使ってきておいて、戦争ができないとは言えない」という、「海軍あって、国家なし」の態度で、「絶対戦ってはいけない戦争(負けることが分かっている戦争)」に引きずられてしまったということになってしまったということです。

 

②特攻に関しては、第一航空艦隊長官であった大西瀧治朗中将がフィリピンで「神風特別攻撃隊」を始めたとされ、大西中将は「特攻の父」(何と嫌な言葉でしょうか)と呼ばれています。周りは消極的な反対をし、「強制ではなく、あくまで志願という形でやるように」と言ったと言われますが、1944年末に始まった特攻作戦は終戦まで続き、陸海軍共に多くの若者たちが亡くなりました。大西中将は敗戦後に自決しています。

 

 体当たり攻撃(脱出装置のない「必死(100%亡くなる)」の攻撃)という構想に関して、大西中将の独断であったという話が一般的ですが、大西中将が構想する前に、既に海軍は、体当たり攻撃を考えていたという指摘が、海軍反省会でなされています。特攻兵器「回天(一人乗りの潜水艦型の兵器)」の構想は、1944年3月には既に存在したという指摘がなされているのです。中澤佑中将(海軍軍令部第一部長)、黒島亀人少将(山本五十六連合艦隊司令長官に重用され、参謀を務めた)、源田実大佐(真珠湾奇襲攻撃を成功させた)といった人々が1944年初めの段階で既に特攻を考えていたことが明らかにされています。

 

 ここで問題なのは、特攻をまず考え出した人物たちは戦後まで生き残った訳ですが、こうした事実には口をつぐむ、もしくは「死人に口なし」で、全く違うストーリーを語っていたということです。しかし、そのことで個々人を責めては問題が矮小化されてしまうだけです。私たちは、「自分たちがそのような立場に置かれてしまったら、果たして立派に振る舞えるだろうか」という視点とを持ち「組織として隠ぺいを許すような体質があったのではないか、それは現在の私たちが作る組織でもあるのではないか」という問いかけを行わねばならないのではないかと思います。

 

 戦犯裁判に関して言うと、A級戦犯として死刑になったのが、陸軍の首脳と文官(広田弘毅)であったために、「陸軍悪玉、海軍善玉」というイメージが定着することになりました。戦犯裁判対策は、豊田隈雄大佐(戦時中は在ドイツ大使館付武官)によって行われました。この対策の最大の焦点は、「天皇に戦争責任を負わせない」ということでした。そのために、口裏合わせや証拠隠滅などが行われました。海軍からはA級戦犯容疑で逮捕された人たちも出ましたが、永野修身軍令部総長は病死し、その他、海軍大臣経験者たちは極刑にはなりませんでした。

 

 しかし、海軍では、BC級戦犯として200名が死刑となりました。その多くが、現地の実働部隊の責任者で、上位の命令者を守るために、処刑されたということです。「天皇陛下に累を及ばせないようにする」→「天皇陛下に近かった高位の人物たちを重罪にしないようにする」→「そのためにそれ以下の人々の責任にして、彼らに責任を取らせる」という構図がそこにはあります。

 

 本書で執筆陣も指摘していますが、海軍反省会で話された問題点は、現在の私たちも直面する問題ばかりです。「空気に支配され、言うべき時、言うべきことを言えなくなる(ある元海軍士官は「やましき沈黙」と表現しています)」「責任の所在を曖昧にし、下の者が責任を負わされる」「大局観がないために、選択を誤る」「組織優先で、個人を切り捨てる」といったことは、私たちが現在も苦悩するところです。過去のNHKの戦争に関する番組を見てきて思うことは、彼らの番組は常にこのことを問いかけてきているということです。
 

 

これらの問題が日本だけのことだと言い切ることはできません。しかし、これだけの諸問題の存在を認識しながら、それに改良を加えようとか、そうならないようにしようと努力しないところが日本的な特徴ではないかと思います。「これは仕方がないことなのだ(It cannot be helped)」という言葉、この言葉を免罪符にして、改善、改良の努力を怠っているのではないかと私は思います。

 

 この文章を書いている時、私は防衛大学校における虐めに関するニュースに接しました。防衛大学校2年生の男子学生が虐めを受け、肉体的、精神的苦痛を受け、ストレス障害を発症、8名の学生を障害と強要容疑で刑事告訴したということです。このニュースを報じたアドレスは以下の通りです。

 

http://news.livedoor.com/article/detail/9139678/

 

 この記事の中で気になったのは以下の部分です。引用します。

 

(引用はじめ)

 

その一方で、同じく防大OBで現役幹部海上自衛官は、「こうしたいじめに耐える、いじめられないように立ち振る舞うことも自衛官としての修行になる」と話す。

 

「そもそも、いじめに遭うのは動作が緩慢な者か、やたらと正論を吐く理屈っぽい者が多い。自衛隊のような戦闘組織は命令一下、たとえ理不尽な命令でも率先して動かなければならない。動作が緩慢な者はいざというときに組織の足を引っ張る。海外からの侵略や震災などの有事の際は、『何が正しいか』を議論している間に、事態が深刻化することもある。本人の考え方を自衛官らしく矯正し、もし向いていないと判断するならば、別の進路を考えさせることも防大同窓の役目だ」

 

(引用終わり)

 

 旧海軍の後身である海上自衛隊の現役自衛官がこのような発言を行っています。「いじめは修行」「本人の考え方を自衛官らしく矯正」という言葉に、旧海軍から続く、陰の伝統を感じてしまいます。そもそも「動作が緩慢な者」を「いじめ」て、動作が素早くなるのでしょうか。「自衛官らしい考え方」とは何でしょうか。防衛大学校は、旧軍で言えば士官を養成する陸軍士官学校や海軍兵学校に相当します。ここの卒業生たちは、部下たちを率いて、部下たちに命令を下す立場になる訳です。その時に、この「自衛官らしい考え方」(命令絶対服従と思考停止と同調至上主義)で正しい判断や命令が下せるのでしょうか。自衛隊の幹部である人々は、人間の人生と命に直面する仕事をする訳です。その点では、高い肉体能力と共に健全な精神と慎重な判断力が必要になると思います。これらが果たして、今の防衛大学校で養われるのでしょうか。私は自衛隊出身の一部国会議員たちのアホさ加減に辟易してきましたが、彼らのアホさはこうした防衛大学校の「素晴らしい教育」で涵養されてきたのではないかと思います。

 このような自衛官たちが、海軍の先輩たちが抽出した諸問題の解決をできるのでしょうか。この発言を行った海上自衛官の考える、「正しい自衛官の姿」とは、自分の頭で考えない、間違った命令にも絶対服従、いじめられないように立ち振る舞う=空気を読んで、徹底的に周囲に同調する、ということなのでしょう。

 

 海軍反省会に参加した旧海軍の将官だった人々は、このような姿を後輩に求めたのだろうか、いやそうではないだろうと私は思っています。

 

(終わり)



野望の中国近現代史
オーヴィル・シェル
ビジネス社
2014-05-23



 

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