古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員・愛知大学国際問題研究所客員研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。twitter accountは、@Harryfurumura です。よろしくお願いします。

タグ:民主政治体制

 古村治彦です。※2025年3月25日に最新刊『トランプの電撃作戦』(秀和システム)が発売になります。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
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『トランプの電撃作戦』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに行きます。

 ドナルド・トランプの登場は、アメリカ国民の「心性(mentalities、フランス語ではMentalité)」、「時代精神spirit of the age、ドイツ語ではZeitgeist」を象徴するものだ。アメリカ国民は自国アメリカの設立原理である民主政治体制と既存の政治、政治家たちに対する不満と不信を募らせている。アメリカ人の多くは、既存の政治家たち、エスタブリッシュメントたちが民主政治体制を歪めている、国民の希望や考えを無視していると考えるようになっている。これはもう確信に近い。現在のアメリカの民主政治体制は変革されるか、消え去ってしまうかということになる。
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 この点で、アメリカは2000年前のローマに擬せられる。そして、ドナルド・トランプは、ローマ共和制の終焉を導いたユリウス・カエサルに擬せられることになる。共和制のローマの最終盤の状況と現在のアメリカはよく似ている。人々は既存のエスタブリッシュメントの政治家たちを信頼していない。そして、彼らが選出された既存の民主政治体制を信頼していない。そして、力強い指導者、ストロングマンの出現を求めている。民主政治体制が堅固に、永続的に続くということはない。世界的な潮流で見れば、民主政体の数が増減する。サミュエル・ハンティントンの『第三の波:20世紀後半の民主化(The Third Wave: Democratization in the Late Twentieth Century)』は、民主化(democratization、非民主的な制度から民主的な制度への移行)の波と反対の波(reverse wave)が繰り返すと主張している。ソ連の崩壊後の世界は、民主政治体制国家が増大したことで「民主化の第三の波」ということになったが、民主政治体制への不満や不信が高まることで、「反対の波」が起きることが考えられる。そして、それが、西洋先進諸国で起きるということが考えられる。

 以下の論稿は2020年に書かれたものだが、アメリカの現状をよく表している。ポピュリズムという言葉は日本ではマイナスの要素を含んだ言葉として使われるが、アメリカでは、「一般の人々の、ワシントン政治に対する怒りが沸き起こり、自分たちの真の代表をワシントンに送り込む」という運動を示す言葉だ。トランプはポピュリスト政治家である。トランプは多くのアメリカ国民の代表である。彼らはアメリカの既存の民主政治体制をスクラップ・アンド・ビルドするために、トランプを大統領に選んだ。トランプの登場は、洒落や冗談ではない。アメリカの心性、時代精神を象徴するものであり、大きな歴史の流れに位置付けられる。それは、アメリカの衰退と民主政治体制の崩壊だ。事態はここまで来ている。

(貼り付けはじめ)

アメリカはローマの崩壊の足跡を不気味にたどりつつある。手遅れになる前に方向転換できるだろうか?(America Is Eerily Retracing Rome’s Steps to a Fall. Will It Turn Around Before It’s Too Late?

-2000年前、有名な共和国には危険なポピュリストを拒否するチャンスがあった。それは失敗し、それからどうなかったかは歴史が証明している。

ティム・エリオット筆

By Tim Elliott

11/03/2020 02:30 PM EST

https://www.politico.com/news/magazine/2020/11/03/donald-trump-julius-caesar-433956

今日、アメリカ人は根本的に異なる2つの道から1つを選択することになる。それは、国自体の価値観を変えるポピュリストのイデオロギー(a populist ideology transforming the values of the country itself)とそれを拒絶しようとする試み(an attempt to reject it)だ。

しかしながら、この時代が前例のないことに思えるかもしれない。それは民主政治体制そのものと同じくらい古い決断だ。2000年以上前、アメリカのモデルとなった共和国も同じ選択に直面した(the Republic on which America was modeled faced the same choice)。ドナルド・トランプの時代のジュリアス・シーザー(Julius Caesar)は、ローマを想像上の古代の栄光に戻す(to return Rome to an imagined ancient glory)と約束したが、代わりに自ら王座を築き、民主政治体制の規範を強引に解体し、彼の権力の抑制を無視し、政治的議論を衰えさせた。ローマはシーザーに従うことを選び、有名な共和国を破滅への滑走路に乗せた(putting the famed Republic on a glide path to destruction)。

トランプ自身は間違いなくアメリカのシーザーとしてどんな特徴づけも喜ぶだろうが、その比較は彼が望む以上に非難に値する。

トランプと同様に、ジュリアス・シーザーはローマの最高職に就いたとき、既に有名人であり、支配階級の多くから軽蔑されていた。指導者としての彼の適格性については、常に疑問が投げかけられた。単に型破りなだけでなく、彼はまったく新しい一連の規則に従って行動し、都合が良ければいつでも手順を覆し、法律を曲げた。シーザーは個人的な欠点に関して頻繁に嘲笑された。数々の衝撃的なセックススキャンダルに巻き込まれた彼は、若い頃にニコメデス4世と不倫関係にあったという噂を振り払うことはなく、「ビテュニアの女王(the Queen of Bithynia)」という嘲笑的なあだ名がつけられた。

シーザーもまた、自分のイメージを宣伝するために派手な祭りや剣闘士の試合を催そうとしたために、多額の借金を抱えていた。外見に非常にこだわっていた彼は、贅沢な富の誇示を行い、できるだけ多くの金を誇示する傾向を示し、目が飛び出るほどの額の借金を負うことでそれを実現した。反対派は、薄毛を隠すために樫の冠をかぶって禿げ頭を隠そうとする彼のやり方を嘲笑した。

しかし、批判者たちにとって最も不快だったのは、国家の構造を崩壊させる恐れのある彼のメッセージの爆発的な形だった。トランプのように、シーザーは国民に直接語りかけ、伝統的なエリートを非難し、外国人が仕事を奪い、暴力を奨励していることに不満を述べた。ローマ人は、自分たちの共和国が因習破壊的なポピュリズムの脅威(the threat of iconoclastic populism)に耐えられると信じていた。自分たちの規範は神聖で、自分たちの制度は倒されないと信じていた。しかし、ユリウス・カエサルの執政官(the consulship)就任により、この幻想は打ち砕かれた。トランプとトランプ主義(Trumpism)が現代のアメリカ政治における容認範囲を根本的に再編し、権威主義(authoritarianism)の侵食に耐える制度の能力に亀裂が生じたのと同じだ。

共和国が下した選択により、最終的に共和国はカエサルの執政官の座を生き延びることはできなかった。むしろ、彼の在任期間中、国家は致命的に分裂し、残忍な街頭暴力(brutal street violence)によって麻痺し、内戦(civil war)へと進みつつあった。この内戦は、カエサル自身が最終的に内部の敵と戦い、今度は終身で世界において最も権力のある人物となるために指揮することになる。彼が最終的に解任されたとき、それは投票箱での法的拒否ではなく、永久独裁者の残忍な暗殺であり、被害は既に出ていた。再び内戦に突入した後、カエサルの後継者が唯一の生存者となって絶対君主制(an absolute monarchy)を確立し、共和国の最後の痕跡(the last vestiges of the Republic)は消滅した。

共和制のローマ(the Roman Republic)は、トガを着てヤマネを食べる寡頭政治家たち(toga-wearing, dormouse-eating oligarchs)が元老院(the Senate house)という閉鎖的な場で権力を争うという一般的なイメージから多くの人が想像するよりもはるかに民主的だった。元老院が通常の場合は議題を決めたが、「人民(the People)」、つまり男性の自由な市民権保持者たち(the male, free, citizenry)が、ほとんど全ての法律について自ら投票し、戦争を宣言し、政府の支出を決定し、行政官たち(magistrates)を選出した。

共和制のローマの民主政治体制の中心には、世論(public opinion)とイデオロギー(ideology)の戦場、コンティオ(the contio)、つまりローマの最も神聖なモニュメントの影にあるフォーラムで開かれる公開集会(the public meeting held in the forum in the shadow of Rome’s most sacred monuments)があった。

この騒々しい直接民主政体の機関は共和制の中心だった。立法と公的情報(legislation and public information)が国民に提示され、議論される公式の手段として、それは気の弱い者のための場所ではなかった。コンティオにおける叫び声があまりに大きくて空の鳥を​​吹き飛ばしたという話があり、暴動やリンチの危険さえ常に存在した。しかし、何世紀にもわたって、コンティオは、国民の主権と国家の権威のバランスを取る(balanced the sovereignty of the people with the authority of the state)、モス・マイオルム(mos maiorum)、つまり「祖先のやり方(ways of the ancestors)」として知られる一連の規範によって制約されていた。

共和制の行政において強力で不可欠なものであったにもかかわらず、コンティオの権力は政府の他の部門の権力によって制限されていた。コンティオは、上院が世論を測定し、同意とコンセンサス(consent and consensus.)を構築するための手段として、上院と連携して機能した。最も重要なことは、会議を司る行政官たちが、認可された種類の政治的コミュニケイションからあまり逸脱することはめったになかったことだ。法律、慣習、憲法上の正当性(laws, conventions and a sense of constitutional propriety)という感覚に従うことは、永遠の国家自体への信仰(a faith in the eternal state itself)、つまりローマの「原文主義(originalism)」の一種を表していた。

しかし、この憲法への信仰、つまり政治は最終的には常に「正しい方法(the right way)」で行われるという主張、そしてシステムへの脅威を是正するメカニズムが常に存在するという主張は、国家内の深刻な構造的脆弱性(the deep structural vulnerabilities within the state)を覆い隠す強力な幻想だった。

呪いが解けたのは、ユリウス・カエサルが執政官として初めて演壇に立ったときだった。カエサルは、コンティオを激しい多面的な議論の場(an arena of fierce, multisided debate)から集会(a rally)へと変え、エリート層の腐敗(the corruption of the elites)に対する抵抗を訴えて信者の群衆に語りかけた。これは「ドレイン・ザ・スワンプ(drain the swamp)」というメッセージで、不満を抱く平民たち(disaffected plebeians)の間で大きな支持を育んだ。

カエサルは通常の権力経路を迂回した。通常、執政官は、国家のもう一つの大きな機関である元老院と密接に連携していたが、彼の急進的な法案を批准しない反対派の抵抗に遭遇すると、カエサルはあっさりと立ち去った。彼はその代わりに、フォーラムで自分のイデオロギー的なメッセージを直接人々に伝えることを選んだ。このようにして、カエサルは、何世紀にもわたって施行されてきた執政官の権力に対する抑制と均衡(the checks and balances)を回避し、同時に人々からの支持を固めた。彼は、元老院の承認なしに法案の採決を行うと発表した。これは、厳密に言えば違法な政治的動きだったが、民意として正当化された(one justified as the Will of the People)。

この「ツイッター民主主義(Twitter democracy)」の初期形態は、過激で力強いものだったに違いない。しかし、それは危険でもあった。真の討論や議論が消えるにつれ、市民団体は対立するイデオロギー陣営にますます過激化していった。プルタルコスが語るように、カエサルの著名な反対者たちは、保護なしで公の場に出るのを恐れるようになり、政治的暴力は避けられなくなっていた。

転機(tipping point)は重要な投票の前夜に訪れた。カエサルが画期的な土地改革法案(land reform legislation)を可決するための集会を開いていたとき、その年のカエサルの共同執政官マルクス・ビブラスを含む数人の著名な行政官たちが、法的拒否権を行使するために投票所に到着した。突然、カエサルの支持者が攻撃を仕掛けた。考えられないことだが、人民護民官(Tribunes of the People)2人 (神聖法によりその身体は神聖視されていた) とビブラスが襲撃され、攻撃中にビブラスのファスケス (fasces、国家権力の象徴[the symbolic totem of state authority]) が折られ、更に、文字通りの負傷に加え、最もひどい侮辱として、バケツの排泄物が彼の上に投げつけられた。傷つき屈辱を受けた行政官たちは元老院に退き、法律は反対なく可決された。

カエサルは、敵対者と政治的に関わっても何も得るものはないと宣言し、忠実な支持者に直接語りかけたことで、ローマを一世代にわたって蝕む内紛の戦線を引いた政治的軍拡競争(a political arms race)に乗り出した。同じことが今日のアメリカでも起こっている。トランプがソーシャルメディア上でコミュニケイションを取るとき、議論はなく、合意や協力を求めることもなく、単に「腐敗したエリート(corrupt elite)」を攻撃し、トランプ主義というブランドを宣伝するツイートが次々と投稿されるだけだ。今年の重要な選挙が近づくにつれて、トランプのレトリックはより扇動的になり、敵対者を腐敗または悪意(corrupt or malign)のあるものとして描き、Qアノンのような陰謀論を煽り、アメリカの政治を善と悪の戦い(a war between good and evil)として描いている。ブラック・ライヴズ・マターに対する自警行為(the vigilantism)からミシガン州知事グレッチェン・ホイットマーの誘拐計画まで、それに伴う暴力の増加は憂慮すべきものだ。

同時に、アメリカはローマ同様、権威主義(authoritarianism)の受容へと大きくシフトしつつある。襲撃を受けた後、元老院に戻ったビブラスは、明らかに違法な行為についてカエサルを糾弾しようとした。フォーラムの混乱にもかかわらず、拒否権(veto)はまだ宣言されていたとビブラスは抗議した。カエサルを否認する機会があったにもかかわらず、決定的な瞬間に彼は無罪となった。カエサルは、恩恵と物質的利益(favors and the promise of material gain)の約束を通じて、国家機構の中に支持者たちを潜り込ませていた。彼らは、カエサルに代わって妨害、策略、誤報を行うことができ、法の支配を守ることよりも権力に関心を持つ弁護者たちだった。カエサルに対する支持が強かったため、彼を解任すれば武装した民衆によるクーデター(an armed, popular coup)の可能性があった。カエサルは、前例のない3つの属州(the provinces)の知事職、軍隊、訴追免除という保証と莫大な個人的利益だけを手にして執行官を退任した。今日、カエサルとローマ元老院の場合と同様に、共和党は4年前の選挙勝利後にトランプへの反対から全面的な支持へと方向転換し、大統領に対抗することを全く望まない機関へと変貌を遂げた。

同時に、トランプとカエサルの反対派は両者の魅力をひどく誤解している。トランプと同様に、カエサルのイメージは反対派が常に彼の没落の原因になると考えていたものに染み付いていた。それらは、彼の自慢話(braggadocio)、政治上の反対者たちに対する敵意(his hostility toward political opponents)、金銭的、政治的、性的不正行為の履歴(a history of financial, political and sexual irregularities)だ。しかし、彼の振る舞いがとんでもないほど、彼の信奉者はより熱狂的になった(the more outrageously he behaved, the more devoted his followers became)。カエサルとトランプの時代の政治家たちは、そのイメージを根底にあるメッセージの一部だと理解できなかった。彼らは自分たちの利益のために国家の慣習(the conventions)を粉砕するという綱領(a platform)を掲げて改革運動を行っていたが、その慣習は彼らの熱烈な支持者にとってはほとんど意味がなかった。

トランプの反対派もまた、しばしば、カエサルの反対派と同じような反応を示してきた。最初は彼の「大統領らしからぬ(unpresidential)」イメージに驚愕し、一方で彼のメッセージの力に全く対処できず、続いてトランプ流の、カエサル流の「私たち対彼ら(us vs. them)」のコミュニケイションを自ら採用する傾向が続いた。最初の大統領選討論会ではこの変化が裏付けられ、バイデンはトランプの絶え間ない攻撃に対し、痛烈な個人的反論で応じた。多くの民主党員は和解(reconciliation)による「正常(normalcy)」への回帰を主張しているのではなく、むしろバイデンが勝利した場合の清算(a reckoning)、つまり、最高裁判所の拡大と増員、州としての選挙権の拡大、トランプ政権の確信確保に向けて準備を進めている。

これらの類似点は、今日のアメリカにとって警告となる。2000年前、多くのローマのエスタブリッシュメントたちは、カエサルが国家の政治文化と制度に与えている損害を誤解しており、神経質な自己満足感(a nervously asserted sense of complacency)が一部の界隈で続いていた。史上最も有名な弁論家キケロは、この自己満足、つまり「一人の悪い執政官」の損害はいつでも取り消せるという信念(the belief that the damage of “one bad consul” could always be undone)を非難した。ローマでは、それはまったく当てはまらなかった。カエサルは、その職を正当とされ、勇気づけられ、不在の間も共和制ローマの政治情勢において常に存在感のある勢力として公職の座から去った。カエサルが属州へ去った時、既に権威主義的ポピュリズムの腐敗(the rot of authoritarian populism)が始まっていた。カエサル派のイデオロギーを掲げる新しい指導者たちが権力を争うようになると、ローマはすぐに市民暴動(civic violence)に陥った。国家内の合意という考え(the idea of consensus within the state)に基づいて政治哲学を構築したキケロでさえ、社会が「2つに分断されている(divided in two)」と語り始めた。エスタブリッシュメント側は、カエサルの勢力を抑制できず、一般の支持者をカエサルの支持に駆り立てた、深刻な社会的、構造的不平等(the deep social and structural inequalities)に対処できなかったので、コンティオでカエサルが唱えた部族的レトリック(the tribal rhetoric)が破壊的で蔓延する権威主義的イデオロギー(authoritarian ideology)に変換されることを確実にした。

暴力が今や正当な政治的表現の形態となったため、カエサルがローマに戻ったとき、彼は軍隊を率いていた。彼が作り出したストロングマンによる強権的な政治の環境(the environment of strongman politics)は、内戦と暴力を政治的変革の唯一の有効な手段とし、最終的に彼自身の運命を決定づけた。彼自身が「終身独裁官(Dictator for Life)」に任命された後、彼を解任する正当な政治的手段はもはや存在しなかった。その結果は、よく知られているように、元老院自体での血みどろの暴君殺害(a bloody tyrannicide)が起きた。しかし、彼が死んでも、ローマの政治文化が強者の支配へと変貌したことは覆すことができず、新たな候補者が現れてまたもや残忍な内戦が起こり、最終的に共和制は完全に消滅した。

紀元前59年のローマ人は、自分たちが現在「後期ローマ共和制(Late Roman Republic)」として知られている時代に生きていることに気づいていなかった。未来の歴史家が「後期アメリカ共和国(Late American Republic)」と呼ぶ時代でも同じことが言えるだろう。その時代を回避するには、過去の教訓を学ばなければならない。ローマの例は、民主政治体制が機能するためには議論する能力が必要であることを教えてくれる。ソーシャルメディアによる支配と議論する能力の崩壊により、各メッセージがそれぞれのバブルに合わせて調整され、同じ意見が真の信者の間で繰り返し語られるようになると、根深い相互が敵対する諸国家が生まれるだけだ。

ローマ人が発見したように、アメリカの政治構造は多くの人が考えていたほど強固ではない。民主政体の合意の原則(the conditions for enabling real debate based on democratic principles of consensus)に基づく真の議論を可能にする条件は、慣習(conventions)だけで支えるのではなく、システム自体に組み込まれる、または書き込まれる必要がある。今日、分裂した政治環境を修正するためのいくつかの措置が講じられている。ソーシャルメディア企業による直接的な誤情報に対処するための象徴的な取り組み、前回の大統領討論会での待望の「ミュートボタン(mute-button)」の追加などだが、それはごくわずかで、あまりにも遅すぎる。Qアノンとコロナ陰謀論の時代に公共の議論を修正するという課題は、特に今週、トランプ主義を正当に拒否する圧倒的な結果が出ない限り、克服できないかもしれない。それにもかかわらず、誰が勝っても、ローマ共和制の運命を回避するには、社会全体の大きな変化と、18世紀の多元的な政治システムの弱さの率直な再評価(a frank reappraisal of the weaknesses of an 18th-century pluralistic political system)が必要になるだろう。本当の民主政治体制は多様な意見(a range of voices)を奨励する。ツイッター民主政体、つまり、コンティオの民主政体は、最も声の大きい意見を優先する。アメリカがこの新しい時代を生き残るには、話し方と聞き方を再学習しなければならない。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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『トランプの電撃作戦』
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世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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古村治彦です。※2025年3月25日に最新刊『トランプの電撃作戦』(秀和システム)が発売になります。是非手に取ってお読みください。よろしくお願いいたします。
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『トランプの電撃作戦』←青い部分をクリックするとアマゾンのページに行きます。世界の民主政治体制国家が不安定になっている。それもこれまで世界の模範とされてきた、西側諸国の民主政治体制が動揺している。民主政治体制として歴史の浅い国や、非民主的な国の方が政治的に安定しているというのが現状だ。民主政治体制の「危機」という主張も聞かれるが、それを招いたのは選挙で選ばれた権力者たちによる独走と失敗である。多くの先進諸国で既存の政治に対する失望が広がっているのは、既存の政治家たちが国民を見ていない、国民の意向を無視しているということが原因だ。

 下に掲載した論考では、ナショナリズムと民主政治の不安定な関係を取り上げている。特に、国家がメンバーをどう定義するか、歴史的記憶をどう扱うか、そしてグローバライゼーションにどう対抗するかが問題となっている。ナショナリズムはリベラリズムと緊張関係にあり、一部の国ではその影響が強まっている。

国家のメンバーシップの基準に関しては、各国が民族的要因や共通の憲法上の価値の忠誠を重視している。アメリカでは移民政策が政治問題として浮上し、トランプ政権下では新たな差別の恐れが生じた。ヨーロッパの難民危機やインドでの国籍法改正も、メンバーシップに対する懸念を強化している。これらの動きは、リベラリズムの基盤に影響を与えており、閉鎖的な政策が多くの国で台頭している。

歴史的記憶もその重要な側面であり、国家の集団的アイデンティティにとって欠かせない要素となっている。インドにおけるヒンドゥー教のナショナリズムは、この点で特に顕著であり、宗教的シンボルが政治的課題に利用されている。南アフリカでは、経済的正義を犠牲にした妥協の是非が議論されている。

国民ポピュリズムの台頭により、国家的アイデンティティに異議を唱える意見は反国家的とされることが多く、異論は犯罪化される事例が増えている。ナショナリズムとグローバライゼーションの関係も、選挙において重要な課題となり、自国の利益を優先する傾向が強まっている。グローバライゼーションの否定的な側面が明らかになり、国家の自給自足を求める動きが加速している。

ナショナリズムの特徴は、民主政治体制の誕生とも深く関連しており、経済とナショナリズムの交わりが各国に影響を与えている。ナショナリズムはアイデンティティ政治に強く、リベラリズムとの対立が顕著になる可能性がある。2024年の選挙は、このような闘争を反映しており、リベラルな価値観への脅威が増すか、またはその逆となるかが焦点となる。 この課題に関して、過去の歴史家が述べたように、ナショナリズムに人道的側面を与えることが、未来の歴史についての重要な鍵である。

 リベラルな価値観とは、西洋諸国の推進する価値観であり、これまではそれを受け入れることが進歩であり、文明的な動きであった。しかし、それらに対する異議申し立てや疑問が出ている現状で、それらは揺らいでいる。そして、民主政治体制についても揺らいでいる。そうした中でナショナリズムが影響力を増している。こうした現状はアメリカでも見られる。世界は大きく変わりつつある。

(貼り付けはじめ)

ナショナリズムの亡霊(The Specter of Nationalism

-アイデンティティ政治は選挙に常に影響を与えてきた。2024年、アイデンティティ政治はリベラリズムと、民主政治体制自体に対しての深刻な脅威となるだろう。

プラタップ・バーヌ・メサ筆

2024年1月3日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2024/01/03/nationalism-elections-2024-democracy-liberalism/?tpcc=recirc_trending062921

世界は民主政治体制(democracy)の未来にとって重要な年が始まろうとしている。インド、インドネシア、南アフリカ、アメリカなど、2024年に投票が行われる主要国のほんの数例を挙げると、これらの国での選挙は通常通りの行事である。しかし、これらの民主政治体制国家の多くは転換点(inflection point)を迎えている。分極化(polarization)、制度の劣化(institutional degradation)、権威主義(authoritarianism)の強まる潮流は逆転できるのだろうか? それとも、民主政治体制は限界点(breaking point)に達するのだろうか?

民主政治体制国家にはそれぞれ独自の特徴が存在する。今年選挙が行われる各国では、有権者はインフレ、雇用、個人の安全、将来の見通しに対する自信など、おなじみの問題で現政権を判断することになる。しかし、2024年の世界選挙に伴う不吉な予感は、1つの事実に起因している。それは、ナショナリズム(nationalism)と民主政治体制の間の不安定な妥協(uneasy accommodation)が深刻なストレスに晒されているということだ。

民主政体の危機は、部分的にはナショナリズムの危機でもあり、現在では4つの問題を中心に展開しているようだ。国家がメンバーシップ(国民、有権者)をどう定義するか、歴史的記憶(historical memory)のあり方をどう普及させるか、主権者としてのアイデンティティをどう位置付けるか、そして、グローバリゼーション勢力とどう戦うかである。これらのそれぞれにおいて、ナショナリズムとリベラリズムはしばしば緊張関係にある。民主政治体制は、この緊張関係を解決するのではなく、うまく切り抜けようとする傾向がある。しかし、世界中で、ナショナリズムがゆっくりとリベラリズムを窒息させつつあり、この傾向は今年、有害な形で加速する可能性がある。2024年には世界史上どの年よりも多くの国民が投票するが、彼らは特定の指導者や政党だけでなく、市民的自由の未来(very future of their civil liberties)そのものに投票することになる。

まず、社会がメンバーシップの基準をどのように設定するかについて議論しよう。政治共同体が主権を持つ場合、誰をメンバーから除外するか、またはメンバーに含めるかを決定する権利がある。自由主義的民主政治体制国家は歴史的に、メンバーの基準として様々なものを選択してきた。民族的および文化的要因を優先する国もあれば、共通の憲法上の価値観への忠誠を要求するだけの市民基準を選択する国もある。

実際には、自由主義的民主政体国家の移民政策は、移民の経済的利点、特定の人々の集団との歴史的つながり、人道的配慮など、様々な考慮事項に基づいて行われてきた。ほとんどの自由主義社会は、メンバーシップの問題を原則的にではなく、様々な取り決めを通じて扱ってきた。その中には、よりオープンなものもあればそうでないものもある。

加盟の問題は政治的に重要性を増している。その原因は様々だ。アメリカでは、南部国境での移民の急増により、この問題が政治的に前面に押し出され、バイデン政権でさえも、約束したリベラル政策の一部を撤回せざるを得なくなった。確かに、移民はアメリカでは常に重要な政治問題であった。しかし、ドナルド・トランプが政治的に登場して以来、移民は新たな側面を獲得した。トランプのいわゆるイスラム教徒入国禁止令は、最終的には撤回されたが、アメリカの将来の移民制度の基礎となる可能性のある、新たな形の明白または隠れた差別の恐怖(the specter of new forms of overt or covert discrimination)を引き起こした。

世界的な紛争や経済および気候の苦境によって引き起こされたヨーロッパの難民危機(Europe’s refugee crisis)は、全ての国の政治に影響を与えている。スウェーデンは、移民を統合するモデルについて深い懸念を強め、2022年に右派政権を誕生させる。イギリスでは、移民に対する懸念がブレグジット(Brexit)に一部影響した。またインドでは、ナレンドラ・モディ首相率いる政府が2019に年国籍改正法を施行し、近隣諸国からのイスラム教徒難民を国籍取得の道から除外することになった。インド政府にとって、加盟を巡る懸念は、多数の民族を優先する必要性から生じている。同様に、南アフリカでは移民の地位をめぐる論争がますます激しくなっている。

メンバーシップの重要性が増していることは、リベラリズムの将来にとって懸念事項だ。リベラルな価値観は歴史的に様々な移民制度やメンバーシップ制度と両立してきたため、リベラルなメンバーシップ制度はリベラルな社会を作るための必要条件ではないかもしれない。よく管理されたメンバーシップ政策がないと、リベラリズムが依拠する社会的結束(the social cohesion)が乱れ、リベラリズムが損なわれる可能性が高いと主張する人もいるだろう。しかし、ハンガリーのヴィクトル・オルバンからオランダのヘルト・ウィルダースまで、閉鎖的または差別的なメンバーシップ制度を支持する世界の政治指導者の多くが、リベラルな価値観にも反対しているというのは注目すべき事実である。そのため、反移民と反リベラルを区別することが難しくなっている。

記憶は、保持し、前進させるべき、集団的アイデンティティに関する永遠の真実の一種(a kind of eternal truth)である。

ナショナリズムの2つ目の側面は、歴史的記憶(historical memory)をめぐる争いである。全ての国家には、集団のアイデンティティと自尊心(self-esteem)の基盤となることができる、使える過去(a usable past)、つまり国民を結びつける物語(a story that binds its peoples together)が必要だ。歴史と記憶の区別(the distinction between history and memory)は誇張されがちだが重要だ。フランスの歴史家ピエール・ノラが述べたように、記憶は事実、特に思い出す主な対象への崇拝にふさわしい事実を探す。記憶には感情的な性質がある。それはあなたを動かし、あなたのアイデンティティを構成するはずだ。それはコミュニティの境界を設定する。歴史はより距離を置いている。事実は常にアイデンティティと共同体の両方を複雑にする。

歴史は道徳に関する物語(a morality tale)というよりは、苦労して得た知識の非常に難しい形態であり、常に選択可能性(selectivity)を意識している。

記憶(memory)は道徳に関する物語として保持するのが最も簡単だ。それは単に過去に関するものではない。記憶は、保持し、前進させるべき、ある個人の集団的アイデンティティに関する一種の永遠の真実だ。

様々な記憶は政治の場でますます強調されている。インドについて、最も明白な例を挙げると、歴史的記憶はヒンドゥー教のナショナリズムの強化の中心だ。2024年1月に、モディ首相はアヨーディヤーでラーマ神を祀る寺院を建立した。この寺院は、1992年にヒンドゥー教のナショナリストがモスクを破壊した場所に建てられている。ラーマ神寺院は重要な宗教的シンボルだ。しかし、インド人にとって最も顕著な歴史的記憶はイギリスによる植民地支配ではなく、イスラム教による千年にわたる征服の歴史であるべきだという与党インド人民党(the ruling Bharatiya Janata Party)の主張の中心でもある。モディ首相は、2020年に寺院の礎石が据えられた8月5日を、1947年にインドがイギリスから独立した8月15日と同じくらい重要な国家の節目であると宣言した。

南アフリカでは、記憶の問題はそれほど顕著ではないように思えるかもしれない。しかし、ネルソン・マンデラ時代の妥協(compromise)は、社会的連帯(social solidarity)のために経済的正義(economic justice)を犠牲にしたと今では一部の人が見ているが、ますます問われている。不平等の継続、経済不安、社会的流動性の低下に直面して、南アフリカ人の多くはマンデラの遺産と、国内の黒人に力を与えるために彼が十分なことをしたかどうかを疑問視している。これは、与党のアフリカ民族会議(the ruling African National Congress)に対する幻滅(disillusionment)を反映している。しかし、この再考は、現代の南アフリカが自らを理解してきた観点から、記憶を再定義する可能性もある。

アメリカでは、国家の物語をどう語るかをめぐる争いは建国の父たち(the Founding Fathers)にまで遡る。ドナルド・トランプからフロリダ州知事ロン・デサンティスまで、政治家たちはアメリカ人であることの意味や「アメリカを再び偉大な国にする(make America great again)」方法に基づいて立候補している。たとえばフロリダ州では、黒人の歴史を教えるための怪しげな基準を設け、生徒が人種や奴隷制度について学ぶ内容を規制しようとしている。これは単なる教育方法の政治的論争ではなく、その背後には、アメリカが過去をどのように記憶し、それゆえに未来をどのように築いていくのかという、より大きな、不安な政治的論争がある。

ナショナリズムの高揚における3つ目の次元は、人民主権(popular sovereignty)、すなわち人々の意思(the will of the people)をめぐる争いである。人民主権とナショナリズムの間には常に密接な関係があり、前者には明確なアイデンティティと互いに特別な連帯感を持つ国民という概念の形成が必要だったからである。フランス革命の時代、ジャン=ジャック・ルソーの思想に触発され、人民主権者は唯一無二の意思を持つとされた(the popular sovereign was supposed to have a singular will)。しかし、もし人民の意志が単一(unitarity)であるならば、差異(differences)をどう説明するのだろうか? 更に言えば、当然のように人々の間に違いがあるのなら、どうやって民意を確かめればいいのだろうか? このパズルを解く1つの方法は、誰が有能な人々の意志を効果的に代表していることができるか、そしてそうすることで、相手側を、単にその意志の代替的な解釈を持っているのではなく、その意志を裏切っているものとして表現できるかということである。このようなパフォーマンスが行われるためには、代替的な視点を代弁する者を民衆の敵(an enemy of the people)として厳しく非難しなければならない。その意味で、「人民(the people)」、一元的な存在として理解される、という修辞的な呼びかけは、常に反多元主義的である危険性(the risk of being anti-pluralist)をはらんでいる。世界中の民主政治体制国家が民主政治体制の多元主義的で代表的な概念を受け入れているときでさえ、国家に転嫁される単一性の痕跡が残っている。国家は団結していなければ国家ではないし、意志を持つこともできない。

政治スタイルとしての国民ポピュリズムは、人民の敵(enemies of the people)ではなく国民の敵(enemies of the nation)を見つけることで繁栄する。

人々は、自分たちの国のアイデンティティを基準にすることで、統一された意志のもとに結集する。つまり、時には、このようなアイデンティティの評価は非常に生産的である。しかし、ナショナリズムの特徴の1つは、ナショナリズム自身が異議を唱える余地を作ろうともがくことだ。反対派が委縮したり汚名を着せられたりするのは、政策的な問題に関して異なる見解を持っているからではなく、その見解が反国家的なものとして表象されるからである。国民ポピュリストのレトリックが、自分たちの国民的アイデンティティやナショナリズムの基準に異議を唱える勢力に向けられることが多いのは偶然ではない。国民のアイデンティティがより争われるようになるにつれ、押し付けられることによってのみ統一が達成される可能性が高まっている。

政治スタイルとしての国民ポピュリズムは、人民の敵ではなく国民の敵を見つけることによって繁栄し、その敵はしばしば特定の複数のタブーによって評価される。トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアンからモディ、オルバン、トランプに至るまで、現代のポピュリストのほぼ全員が、人民とエリートを階級ではなく、誰が国家を真に代表するかという観点から区別している。真のナショナリストとして評価されるのは誰なのか? エリートに対する文化的軽蔑(the cultural contempt for the elite)は、彼らがエリートであるという事実だけでなく、いわばもはや国民の一部ではないエリートとして代表されることができるという事実から強まっている。この種のレトリックは、違いを単なる意見の相違ではなく、扇動的であると見なす傾向がますます強まっている。たとえばインドでは、カシミールに対する政府の姿勢に疑問を呈する学生たちに対して国家安全保障関連の罪が問われている。これは、単なる異議申し立て(a contestation)、あるいはおそらく誤った見解としてではなく、犯罪化される必要がある反国家行為(anti-national act)と見なされている。

ナショナリズムの危機の第4の側面は、グローバライゼーションに関するものだ。ハイパー・グローバライゼーションの時代になっても、国益が色褪せることはなかった。各国がグローバライゼーションや世界経済への統合を受け入れたのは、それが自国の利益につながると考えたからだ。しかし、全ての民主政治体制国家において、今年の選挙で重要なのは、国際システムに関与する条件の再考である。

グローバライゼーションは勝者を生み出したが、同時に敗者も生み出した。アメリカにおける製造業の雇用喪失やインドにおける早すぎる脱工業化(premature de-industrialization)は、グローバライゼーションの再考を促すに違いない。こうしたことは全て、グローバル・サプライチェインへの依存に対する恐怖を際立たせた新型コロナウイルス感染拡大(パンデミック)以前から起こっていたことだ。

世界各国は、経済に対する政治的コントロールの主張、つまり合法的な社会契約(social contract)を結ぶ能力が、グローバライゼーションの条件を再考する必要があると確信するようになっている。傾向としては、グローバライゼーションに懐疑的になり、国家安全保障や経済的な理由から、より大きな自給自足を求めるようになっている。「アメリカ・ファースト」や「インド・ファースト」は、特に中国が権威主義的な競争相手(an authoritarian competitor)として台頭してきた状況では、ある程度理解できる。

しかし、現在のこの瞬間はナショナリズムの政治における大きな転換期のようだ。グローバライゼーションは国益の推進を目指す一方で、ナショナリズムを緩和した。グローバライゼーションは、統合の拡大によって全ての国が相互に利益を得ることができるゼロサムゲーム以外の世界秩序を提示した。国際的な連帯を疑うことはなかった。民主政治体制国家はますますこの前提を放棄しつつあり、世界に重大な影響を及ぼしている。グローバライゼーションが減り保護主義が強まると、必然的にナショナリズムが強まる。この傾向は世界貿易にも悪影響を及ぼし、特に国境開放と商業の高まりを必要とする小国にとっては打撃となる。

ここで説明したナショナリズムの4つの特徴(メンバーシップ、記憶、主権的アイデンティティ、世界への開放性)はそれぞれ、民主政治体制の誕生以来、その影を落としてきた。アメリカでは格差と賃金の低迷、インドでは雇用の危機、南アフリカでは汚職など、どの民主政治体制国家もそれぞれ深刻な経済的課題に直面している。経済問題とナショナリズム政治の間に必要な二項対立(binary)はない。モディのような成功したナショナリストの政治家は、経済的成功をナショナリズムのヴィジョンを強固なものにする手段と考えている。そして、ストレスの多い時代には、ナショナリズムは不満を明確にするための言語となる。ナショナリズムは、政治家が人民に帰属意識と参加意識を与える手段だ(It is the means by which politicians give a sense of belonging and participation to the people)。

ナショナリズムはアイデンティティ政治(identity politics)の最も強力な形態だ。ナショナリズムは、個人とその権利を、ナショナリズムが個人を束縛する強制的なアイデンティティのプリズムを通して見ている。ナショナリズムとリベラリズムは長い間、対立する勢力だった。ナショナリズムをめぐる利害関係が高まらず低まれば、ナショナリズムとリベラリズムと両者の間の緊張関係をうまく乗り越えやすくなる。しかし、2024年の多くの選挙では、これらの国の国民的アイデンティティの性質が、上記の4つの側面に沿って危機に晒される可能性が高まっている。これらの争いは民主政治体制を活性化させる可能性がある。しかし、最近の例を参考にすると、政治におけるナショナリズムの優越性は、リベラルな価値観に対する脅威となる可能性が高い。

ナショナリズムの前進する形態が、その意味を争うことを許さず、あるいは特定のグループの特権を維持しようとすると、一般的に、より分裂的で分極化した社会(a more divisive and polarized society)が生み出される。インド、イスラエル、フランス、そしてアメリカは、それぞれこの課題に直面している。記憶とメンバーシップの問題は、単純な政策審議によって解決される可能性が最も低い。彼らが取引する真実は、共通基盤の基礎となりうる事実に関するものではない。たとえば、私たちがしばしば歴史を選択するのは、その逆ではなく、むしろ私たちのアイデンティティのためであることはよく知られている。

おそらく、最も重要なことは、ナショナリズムの名の下に、リベラルな自由に対する攻撃が正当化されることが多いということだ。例えば、表現の自由(freedom of expression)は、深く大切にされている国家神話(national myth)を標的にすると見なされれば、その限界を知る可能性が最も高い。市民の自由を狭めたり、制度の完全性を軽んじたりすることを厭わないポピュリストや権威主義的な指導者は皆、ナショナリズムのマントをまとっている。そのような指導者は、「反国家的(anti-national)」という言葉を用いて反対意見を取り締まることができる。多くの意味で、今年の選挙は、民主政治体制がナショナリズムのディレンマとうまく折り合いをつけられるか、あるいはナショナリズムを衰退させるか、打ち砕くかを決めるかもしれない。

20世紀のファシズム史の偉大な歴史家であるジョージ・L・モスは、1979年にイェルサレムのヘブライ大学で行われた教授就任講演で、この課題について次のように述べている。「もし私たちがナショナリズムに人間的な側面を与えることに成功しなければ、将来の歴史家たちは、私たちの文明について、エドワード・ギボンがローマ帝国の崩壊について書いたことと同じことを書くかもしれない。つまり、最盛期には穏健主義が卓越し、国民はお互いの信念を尊重していたが、不寛容な熱意と軍事的専制によって崩壊したということだ(that at its height moderation prevailed and citizens had respect for each other’s beliefs, but that it fell through intolerant zeal and military despotism)」。

※プラタップ・バーヌ・メサ:プリンストン大学ロウレンス・S・ロックフェラー記念卓越訪問教授、ニューデリーにあるセンター・フォ・ポリシー・リサーチ上級研究員。

(貼り付け終わり)

(終わり)
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『トランプの電撃作戦』
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世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。

 民主政治体制にとって重要なのは、公共圏(public sphere)という考え方だ。これは、市民が政治や経済から離れて、「共通の関心事について話し合う場所」を意味するもので、市民社会(civil society)の基本となる。ドイツの学者ユルゲン・ハーバーマスは公共圏の重要性を私たちが再認識することが重要だと主張している。近代ヨーロッパであれば、町々のコーヒーハウス(coffee house)に人々が集まり、商談をしたり、文学や政治について喧々諤々議論をしたりということがあった。また、金持ちや貴族の邸宅で定期的に開かれたサロン(salon)でも同様のことが行われた。
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ユルゲン・ハーバーマス

 このような人々の集まり、つながりはどんどん希薄になっている。そのことに警鐘を鳴らしているのが、アメリカの学者ロバート・パットナムだ。ロバート・パットナムは、社会関係資本(social capital)という考えを提唱している。これは、「個人間のつながり、すなわち社会的ネットワーク、およびそこから生じる互酬性と信頼性の規範」と定義されているが、社会関係資本があることで、民主政治体制がうまく機能するということになる。

今日のドイツでは、テレビのトーク番組や新聞による議論が活発で、公共圏の役割が強調されているが、ハーバーマスは誤った情報を濾過する機能を持つ場の重要性を指摘している。彼は自由民主政治体制を擁護した。

冷戦後、ハーバーマスはドイツ民族主義の復活に懸念を示し、ヨーロッパ憲法の制定を訴えたが失敗に終わった。彼はヨーロッパのアイデンティティを国際法への関与に求め、アメリカの非合理的な政策に対抗する姿勢を強調している。平和主義への関与も彼の思想の中心であり、彼は過去にドイツ連邦軍の再軍備に反対していた。

ハーバーマスはドイツ統一後の外交政策を正当化したが、ウクライナ戦争に対する彼の見解は変化を見せている。彼はショルツ首相の慎重な姿勢を支持するが、彼の呼びかけは批判を受けている。ドイツでは歴史の大きな転換点が訪れており、ハーバーマスの平和と相互理解の主張は時代にそぐわないとされる。彼の思想が変化したのではなく、周囲の世界が変わったことが示唆されている。

批判者はハーバーマスが急進的な民主主義を放棄したと主張し、彼を政治的エスタブリッシュメントの支持者として非難する。しかし、フェルシュは彼の変化は世界の変化によるものであると述べ、極右の台頭や歴史修正主義が彼の懸念を強めていることを指摘している。ハーバーマスの思想は、現在の政治的、道徳的な取り組みにおいて依然として重要であり、彼は新たな政治的要請に適応することを求めている。

 ハーバーマスに関しては、穏健派に転向したという批判がなされているようであるが、彼が変化したと言うよりも、時代が大きく変化して、思想の位置づけもそれによって変化したことで評価が変わったということが言えるかもしれない。

(貼り付けはじめ)

世界はまだハーバーマスを必要としている(The World Still Needs Habermas

-ドイツの哲学者は、彼の自由主義の遺産よりも長生きし始めている。

ジャン=ワーナー・ミューラー筆

2024年6月30日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2024/06/30/revisiting-habermas-book-review-germany/

ドイツ国外の人々に、ユルゲン・ハーバーマスがドイツで果たした並外れた役割を伝えるのは難しい。確かに、彼の名前は、世界で最も影響力のある哲学者の、多かれ少なかれ馬鹿げたリストに必ず掲載される。しかし、60年以上にわたり、あらゆる主要な議論で重要な役割を担い、実際、多くの場合にそのような議論を始めた公的な知識人の例は他にはない。

ベルリンを拠点とする文化史家フィリップ・フェルシュによる新著は、ドイツ語から『哲学者(The Philosopher)』と簡単に翻訳され、「ハーバーマスと私たち」という巧みな副題が付けられているが、ハーバーマスは常に戦後ドイツの政治文化のさまざまな時代と完全に同調していたと主張している。これは、ハーバーマスほど長生きした人物としては驚くべき業績である。ハーバーマスは今年95歳になる。フェルシュが指摘するように、ミシェル・フーコーが、ハーバーマスほど長生きしていたなら、ドナルド・トランプ前大統領についてコメントしていたかもしれないし、ハンナ・アーレントがその年齢に達していたなら、テロリズムに関する考察を911事件まで含めていたかもしれない。

また、この本の最後にある哲学者の告白は、更に注目に値する。フェルシュは、ロシア・ウクライナ戦争に関する自身の記事に対する否定的な反応を受けて、ハーバーマスは初めて、もはやドイツの世論を理解していないように感じたと報告している。ハーバーマスは変わったのか、それとも国(ドイツ)が変わり、この哲学者が何十年も擁護してきた平和主義(pacificism)や「ポストナショナリズム(post-nationalism)」から背を向けているのか?

ハーバーマスは長い間、賛否両論、分かれる人物だった。英語圏の多くの人々にとって、これはいくぶん不可解なことだ。なぜなら、彼らはハーバーマスを、コミュニケーションを成功させ、さらには合意を導く哲学者として知っていると思っているからだ。また、おそらくハーバーマスを、長々とした理解しにくい理論書の著者としても考えているだろう。

皮肉なことに、作家としてのハーバーマスの才能が、彼の考えを翻訳することをしばしば困難にしている。ハーバーマスは学者になる前は、フリーランスのジャーナリストで、彼の公的な発言は、テレビやラジオではなく常に文章で行われ、比喩に富んだ文体で見事な論争となっている。示唆に富んだ比喩は哲学的な働きもするため、学術書の翻訳は難しい。

そのなかには、1962年に出版され、今日に至るまでハーバーマスの著作のなかで最も多くの部数を売り上げている本がある。『公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究(The Structural Transformation of the Public Sphere)』という扱いにくいタイトルだが、その主要なテーゼは単純明快だ。民主政治体制とは、自由で公正な選挙だけでなく、世論形成の開かれたプロセスをも決定的に必要とする。ハーバーマスが様式化した説明によれば、18世紀には、サロンやコーヒーハウスで、小説について自由に語り合うブルジョワの読者が増えていた。やがて議論は政治問題にまで及んだ。君主(monarchs)が民衆(people)の前に姿を現していたのに対し、市民[citizens](少なくとも男性で裕福な市民)は、国家が自分たちの意見を代弁し、自分たちのために行動することを期待するようになった。

ハーバーマスの著作が、衰退と没落(decline and fall)の物語を語っていることは忘れられがちだ。巧妙な広告手法への依存度が高まった資本主義と、複雑な行政国家の台頭が、自由でオープンな公共圏を破壊した。しかし、振り返ってみると、1960年代は、マスメディアの黄金時代だったようだ。ハーバーマスは2022年の『公共性の構造転換』に関するエッセイでその点を認めている。その中で彼は、いわゆる「フィルターバブル(filter bubbles)」と「ポスト真実(post-truth)」の時代と、広く尊敬され経済的に成功した新聞やテレビニューズが特徴で、毎晩国全体が集まる世界とを対比した。

フェルシュが指摘するように、この著作とその後のハーバーマスのコミュニケーションに関するより哲学的な著作は、ナチスの独裁と国家権力への服従という古い伝統から脱却した西ドイツ人が自由に議論する方法を学び始めた戦後の時代に、まさにふさわしいメッセージを含んでいた。左派の多くと同様、ハーバーマスも初期の連邦共和国の雰囲気を茫洋としたものと感じていた。熱狂的な反共主義者であったコンラート・アデナウアー首相は、「実験の禁止(no experiments)」を約束し、旧ナチスを新国家に変化させ、批判的な知識人たちはおろか、批判的な報道機関もほとんど許容しなかった。

今日、ドイツの特徴は、夕方のテレビで異常に多くのトーク番組が放送され、翌朝には新聞が大々的に論評することであり、しばしば国から補助金を受ける公開討論会が実施され、新聞が多くのコラムを割いて教授たちの数週間にわたる討論を掲載することである。ハーバーマスは、議会をセミナールームにすることを理想とする合理主義的熟議哲学者(rationalist philosopher of deliberation)の決まり文句(cliche)とは裏腹に、「荒々しく(wild)」であらゆる意見が発言できる公共圏を明確に求めている。同時に、そのような場は「汚水処理場(sewage treatment plants)」のように機能し、誤った情報や明らかに反民主的な意見を濾過することを意図している。

ハーバーマスは、マルクス主義者から「形式的民主政治体制(formal democracy)」にすぎないとしばしば嘲笑される自由民主政治体制(liberal democracy)の手順を支持したが、それは彼がフランスの戦後の知的潮流に敵対的であった理由であり、それが非合理主義(irrationalism)と規範的基準をまったく欠いた美化された政治(aestheticized politics that lacked all normative standards)を促進していると疑っていた。フェルシュは、1980年代初頭に、ハーバーマスとフーコーがパリで「冷たい雰囲気(icy atmosphere)」の中で食事を共にした時のことを回想している。どうやら、唯一の共通の話題は、ドイツ映画だったようだ。フェルシュによると、ハーバーマスはドイツの過去を確かな教育的手法で扱ったアレクサンダー・クルーゲの映画を好むと公言していたが、フーコーは明らかに非合理的なクラウス・キンスキーを主演に迎えたヴェルナー・ヘルツォークのアフリカとラテンアメリカ探訪における「恍惚とした真実(ecstatic truth)」の称賛を好んでいたという。

ハーバーマスが、伝統的なドイツの天才崇拝(Geniekultcult of the towering genius)、つまり高尚な天才への崇拝のようなものを育てないよう常に注意を払ってきたのは偶然ではない。また、フリードリヒ・ニーチェやマルティン・ハイデッガーと比べると、現代のドイツ哲学は完全に退屈になり、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが「純粋理性の官僚(bureaucrats of pure reason)」と呼んだものに支配されていると主張するフランスの観察者にとって、ハーバーマスが時折、証拠AExhibit A)となるのも偶然ではない。

しかし、バイエルンにある彼の近代的なバンガローで、この哲学者に2度インタヴューしたフェルシュは、ハーバーマスに驚くべき事実を話してもらうことができた。ハーバーマスの主張によれば、彼の新聞記事は全て怒りから書かれたものだった。実際、啓蒙主義の遺産を衒学的に管理する純粋理性の官僚(bureaucrat of pure reason pedantically administering legacies of the Enlightenment)というよりは、ハーバーマスは完全に政治的な動物、つまり多少衝動的な人間ではあるが、信頼できる左派リベラルの政治的本能を持つ人物として理解するのが一番である。対話と協力(dialogue and cooperation)への一般的な取り組みを超えて、彼の政治的ヴィジョンは、受け継がれてきた民族ナショナリズムの考えを超えて、コスモポリタンな国際法秩序へと進化することを伴う。これらの国際法秩序のそれぞれの側面は、現在ますます脅威に直面している。

1980年代初頭、ハーバーマスの政治的衝動は、それまで「理論化できる(capable of theory)」とは考えていなかった主題、つまり歴史へと彼を導いた。1986年、戦後ドイツで最も重要な議論の1つを引き起こした論争的な記事の中で、彼は4人の歴史家がドイツの過去、そしてドイツの現在を「正常化(normalize)」しようとしていると非難した。彼は、保守派がホロコーストを相対化しようとしても、連邦共和国は「正常な(normal)」ナショナリズムのようなものを採用すべきだと考えているとされるのに抵抗することが極めて重要だと書いた。その代わりに、ハーバーマスが「憲法上の愛国心(constitutional patriotism)」と呼んだものを採用することで、ドイツ人は自分たちの特有の問題を抱えた過去から何か特別なことを学んだかもしれないと彼は示唆した。ドイツ人は、文化的伝統(cultural traditions)や偉大な国民的英雄の英雄的行為(heroic deeds by great national heroes)を誇りに思うのではなく、自由主義民主的な憲法に定められた普遍的原則の観点から、歴史に対して批判的な立場を取ることを学んでいた。

この愛国心は、セミナールームでしか語れない、あまりに抽象的で、特に不適切な比喩で言えば、「無血の(bloodless)」ものだとして保守派からしばしば退けられた。しかし、後にヒストリカーストライト(Historikerstreit、歴史家論争)として知られるようになった論争でハーバーマスが勝利者となり、彼の「国家を超えた政治文化(post-national political culture)」という提案が、名ばかりでなくとも、事実上ますます多くのドイツの政治家に採用されたことは疑いようがない。最終的に、ハーバーマスとアデナウアーは同じ目標に収束した。西側にしっかりと根付いたドイツである。ただし、ハーバーマスは、よりコスモポリタンな未来に向かう動きの中で、ドイツを前衛的な(avant-garde)ものとして捉え始めた。

その功績は、ロシアのウクライナへの本格的な侵攻以前にハーバーマスの政治の世界で起きた最大の衝撃によって疑問視された。それは、訓練を受けた歴史学者ヘルムート・コールが監督した、まったく予想外の東西ドイツの統一であり、ハーバーマスによれば、コールは過去を「正常化(normalizing)」する試みの中心人物だった。ハーバーマスは、社会民主党が冷戦の分断を克服しようとした、1950年代から、統一に懐疑的だった。1989年、ドイツ国民国家の再構築を求める動きは、憲法上の愛国心(constitutional patriotism)という苦労して勝ち取った成果を民族ナショナリズム(ethnic nationalism)に置き換える可能性が高いと思われた。

ベルリンの壁が崩壊したとき、ハーバーマスは東側との「関係(relationship)」をまったく感じていないと告白した。多くの人が見下した態度と見なしたように、彼は中央ヨーロッパの革命は新しい政治思想を生み出したのではなく、単に西側に「追いつく(catching up)」ことだったと主張した。彼はまた、新たに回復した主権(sovereignty)に対する過敏さを増した中央ヨーロッパ諸国が、国際秩序(cosmopolitan order)を深める必要性を弱めるかもしれないと懸念した。

その後、ハーバーマスはヨーロッパ統合の熱烈な支持者となった。1970年代後半、彼は「ヨーロッパのファンではない」と語っていた。当時、ヨーロッパ経済共同体と呼ばれていたものは、アデナウアーなどのキリスト教民主党によって始められ、ほとんどが共通市場として機能していたからだ。しかし、ヨーロッパ連合は、冷戦後のドイツ民族主義の復活(post-Cold War resurgence of German nationalism)を懸念する人々にとって、一種の政治的生命保険(a kind of political life insurance policy)となった。ヨーロッパが政治体制になる限り、多様な国民文化を持つこの共同体は、抽象的な政治原則、つまりヨーロッパ憲法上の愛国心のようなものによってまとめられなければならないと考えるのは合理的に思えた。2000年代初頭、ハーバーマスは、当時のドイツ緑の党の外務大臣ヨシュカ・フィッシャーとともに、ヨーロッパ憲法の制定を訴えたが、その試みは失敗に終わった。

ハーバーマスはまた、ヨーロッパのアイデンティティは国際法への関与(commitment to international law)によって定義できると考えるようになった。そして、911事件以降、規範的な方向性を失ったように見えるアメリカに対するカウンターウェイトとして。2003年、彼はジャック・デリダと共著で、ヨーロッパの統一を求める熱烈な訴えを書いた。デリダはかつて哲学上の敵対者だったが、ハーバーマスは多くのフランスの理論家と同様に、デリダにも非合理主義と保守的な傾向があると疑っていた。ヨーロッパは福祉国家(welfare state)を理由に、法を遵守し人道的であると自らを定義することになっていた。国際法の束縛を破ったジョージ・W・ブッシュのアメリカとは対照的だ。アメリカのネオコンの傲慢さ(hubris of U.S. neoconservatives)は、アレントにニューヨークで歓迎されて以来、アメリカで形成期を過ごしてきた知識人にとっては個人的に失望だった。

ハーバーマスが提案したヨーロッパのアイデンティティのもう一つの中心的な部分は、平和主義への関与だった。フェルシュは、ハーバーマスが1950年代にドイツ連邦軍の再軍備に反対し、1960年代にヴェトナム戦争を批判し、1980年代初頭に核兵器搭載可能なミサイルが配備されていた場所の封鎖を主張するなど、その平和主義的本能において驚くほど一貫していると説得力を持って主張している。ハーバーマスは、道徳的原則の名の下に、違法行為を行うことが極めて疑わしいと思われていた国で、市民的不服従(civil disobedience)を正当化した最初の著名な理論家であった。

同時に、フェルシュは、ハーバーマスがドイツ統一後の重要な外交政策決定の全てを正当化したことを私たちに思い出させる。湾岸戦争への支持、コソボ介入への参加、2002年のアメリカの「有志連合(coalition of the willing)」への社会民主党・緑の党連立政権の参加拒否などだ。ハーバーマスにとって、戦争は、解釈の余地が十分に残された国際的な法秩序を予兆する限り正当化可能だった。少なくとも、国連が承認した軍事行動については、ある程度もっともらしい説明に思えたが、1999年のNATOによるベオグラード爆撃については、はるかに難しいケースだった。

しかし、ハーバーマスの枠組みにおける解釈の余地は、ウクライナ戦争が現在ドイツとヨーロッパの政治文化を変えている方法に対応できないようだ。2022年にロシアがウクライナに侵攻した後、ハーバーマスは中道左派の南ドイツ新聞に、軍事援助に対するドイツのオラフ・ショルツ首相の慎重な姿勢を支持する記事を寄稿した。ハーバーマスは常にショルツの社会民主党と親しい関係にあった。歴代の党首たちは彼に助言を求めたが、時にはヨーロッパ債務危機の際の緊縮政策など、彼が誤った政策と見なすものを再考するよう圧力をかけることもあった。また、党内の特定の派閥とこの哲学者の間には、反軍国主義(anti-militarism)への共通の親和性という点で長い間つながりがあった。

しかし、2023年に、モスクワと交渉すべきというハーバーマスの呼びかけは、左派の一部も含めて広く攻撃された。ウクライナのアンドリー・メルニク外務副大臣は、彼の介入は 「ドイツ哲学の恥(disgrace for German philosophy)」だとツイートした。ドイツはヨーロッパの多くの国々と同様、ツァイテンヴェンデ(Zeitenwende)、ショルツ首相が使った「軍事的自衛への回帰によって示される歴史の大きな転換点(the major turning point in history marked by a recommitment to military self-defense)」という言葉によって、新たな政治的要請に到達したのである。政治は、平和と相互理解(peace and mutual understanding)を模索する側に立つべきだと常に主張してきたハーバーマスにとって、この方向転換を支持することは不可能であった。本書の最後で、ハーバーマスはフェルシュに、ドイツ国民の反応はもはや理解できないと告白している。

ハーバーマスに対する批判者たちは、彼が長年続けてきた急進的な民主政治体制と社会主義の政策への取り組みを放棄したと激しく主張する。彼は単にヨーロッパ連合の応援団として行​​動していたと見られ、マルクス主義の遺産を放棄し、経済の民主化(democratizing the economy)を諦め、そしておそらく最も非難されるべきことに、ドイツ人が「国家の柱(staatstragend)」と呼ぶもの、つまり政治的エスタブリッシュメントの柱(a pillar of the political establishment)になりつつあった。2001年に彼がドイツで最も権威のある文化賞の1つを受賞したとき、連邦内閣の閣僚の大半が出席した。

しかしフェルシュは、ハーバーマスの遺産が本当に失われつつあるとすれば、それはハーバーマスの変化によるものではなく、彼を取り巻く世界の変化によるものだと示唆する。より国家主義的なドイツに対するハーバーマスの懸念は、ヒストリカーストリート(歴史家論争)以降は想像もできないような形で歴史修正主義(historical revisionism)を誇示する極右(far right)の台頭によって裏付けられているようだ。ヨーロッパ連合は、ポストナショナリズムの典型とは程遠く、世界的な「規範的勢力(normative power)」になるというその野望は崩壊し、ハンガリーのビクトル・オルバーンのような極右指導者が自由主義的民主政治体制を弱体化させるのを阻止することさえできない。コスモポリタンな法秩序への希望は、大国間の競争(great-power rivalries)という新しい時代に打ち砕かれた。確かに、ハーバーマスは「歴史の終わり」論(end-of-history thesis)に少しでも似たことを主張したことはなかったが、友好的な共存の世界が現実的なユートピアであるという彼の基本的な衝動は、確かに疑問視されてきた。

しかし、ハーバーマスの思想がかつての西ドイツの「安全な場所(safe space)」でのみ意味を成したと結論付けるのは間違いだろう。憲法上の愛国心のようなものを支持することは、むしろ、極右の復活に直面してより緊急である。ヨーロッパ諸国は、様々な点で失敗しているが、その構造は政治的、道徳的にもっと野心的な取り組みにまだ利用できる。ハーバーマスは、ドイツの指導者たちに、フランスのエマニュエル・マクロン大統領の主権国家ヨーロッパ構築の誘いに応じるよう説得できなかった。ハーバーマスは、アメリカに幻滅しているが(アメリカは長い間彼の世界観の暗黙の保証人[tacit guarantor of his worldview]だったと言いたくなる)、その普遍主義的な建国理念の最良の部分は、ほとんど無効になっていない。

ハーバーマスは、1990年代のナイーブなリベラル派とは決して似ていなかった。歴史は単にアイデアが正しいか間違っているかを証明するものではない。むしろ、歴史は公共圏の荒野での継続的な戦いである。知識人の課題は、ドイツの旧式の反近代主義思想家たち(anti-modern thinkers in Germany)が深みを証明する方法であった楽観的でも悲観的でもない。むしろ、それは苛立たしいものであり続けることだ。

※ジャン=ワーナー・ミューラー:プリンストン大学政治学教授。最新刊に『民主政治体制が支配する(Democracy Rules)』がある。

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(終わり)

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる
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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。

 以下の論稿は1年ほど前に発表された論稿であるが、非常に興味深い内容になっている。アメリカ国内の分裂は今や隠せないほどになっている。政治の世界では、民主、共和両二大政党の間が分裂し、話がうまく進まない状況にある。また、それぞれの政党の内部も分裂しており、政治家たちは同じ党である必要があるのかというほどになっている。有権者も、自分が支持する政党には熱心な支持を表明しているが、反対党はなくなれば良いというくらいの考えを持っている。「アメリカの二大政党制は民主政治の精華(せいか)」ということはもう言えなくなっている。
 こうした状況について、中国とアメリカがインターネット空間に偽情報を流して生み出したという論調がある。しかし、それは大きな間違いだ。こうした分裂を助長するような動きはあったかもしれないが、アメリカ国内の分裂・分断はアメリカ国内で生み出されたもので、それは、アメリカの衰退が根本原因である。アメリカ国民は世界最強、世界最大の帝国の国民として、その利益を享受してきた。しかし、アメリカの衰退が明らかになるにつれて、そうした利益を得られない将来が近づいてきている。余裕がなくなってきている。個人個人でもそうだが、余裕がなくなれば、礼儀だの寛容性だのもあったものではない。

 アメリカ国内の分裂で怖いのは、アメリカには多くの武器が市民生活に存在していることだ。殺傷能力の高いライフル銃までが普通に売られている。また、民兵(ミリシア、militia)という考え、抵抗権という考えが憲法に書かれていることもある。中央政府に対して、国民が抵抗することは権利であるが、それは選挙やデモ、請願といった平和的な手段にとどまらず、武力を用いた抵抗も存在する余地がある。

 中央政府がアメリカ軍や州軍に、抵抗のために武器を持って立ち上がった国民の鎮圧を命じた場合に、現場の将兵たちがその命令に従うかどうかという疑問が出ている。そのことを下の記事では懸念している。アメリカ軍が中央の命令に従わないということになれば、内戦状態(civil war)ということになる。同士討ちなどということになれば、アメリカの誇った民主政治体制が崩壊することになる。そして、アメリカは分裂することになる。その時の分裂線は、リベラルな北部と保守的な南部ということになる。保守的な南部を、それこそ中国やロシアが支援するという状況が起きるかもしれない。こうしてアメリカの解体が起きる。

 荒唐無稽な話のようであるが、アメリカはそれくらいの危機に瀕している、分裂・解体の可能性も視野に入れるべきということは考えておく必要があるだろう。

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2024年の選挙の本当の勝者たちは中国とロシアになるだろう(The Real Winners of the 2024 Election Could be China and Russia

リー・ドラットマン、シーン・マクフェイト筆

2022年12月21日

『タイム』誌

https://time.com/6242314/real-winners-of-the-2024-election-could-be-china-and-russia/

両敵対国も、伝統的な兵器に頼らない新しいタイプの戦争を戦っている。その代わりに、アメリカのような敵対国を外側からではなく内側から打ち負かそうとしている。この「卑劣な戦争(sneaky war)」は、一般的な不安を煽るためにサイバー攻撃を行ったり、アメリカ、EU、イギリスの選挙に揺さぶりをかけ、信頼を損なわせるために偽情報(disinformation)を使用したりするなどによって、内部の不和を煽る。

アメリカが海外で使用するF-35戦闘機に1兆7000億ドルを支出している。一方で、ロシアと中国はF-35戦闘機では打ち負かすことのできない、過度の党派性をアメリカ国内に生み出し、武器化している(weaponizing)。アメリカ社会に存在する「赤」対「青」の亀裂を基盤に、これらの外国勢力は秘密裏に挑発的な偽情報を使い、選挙までの期間(そしてそれ以降)が党派的な「ヘイト・ウィーク(hate week)」になるようにしている。彼らの目的は、アメリカを完全に破壊することではなく、内部分裂させ、イタリアのように第一世界にふさわしい力を持たない第一世界の国にすることである。

そして、中露両国による攻撃は、私たちがそうした争いに進んで参加しているおかげで成功している。最近の世論調査によれば、共和党と民主党のそれぞれの支持有権者の80%が、お互いの政治的に反対の立場を取る政党は脅威(threat)であり、そうした反対党の政権奪取を阻止しなければアメリカは滅亡すると考えている。民主党は、外国の敵よりも共和党を脅威と考える傾向がはるかに強い。共和党員も民主党員に対して同じように感じている。民主政治体制国家(democracy)はこうして滅びる。勝ち負けが民主主義を維持することよりも重要になり、最終的には一方が「国を救う」ために暴力に走る。

国家安全保障の指導者たちは、この問題を認識している。もし2024年が国家非常事態(national emergency)となれば、反乱法(Insurrection Act)に基づき、秩序を回復するために軍が召集されるかもしれない。しかし、軍隊はそれに従うだろうか?

アメリカ軍は南北戦争以来の政治的分極化(politically polarized)に陥っている。選挙で選ばれた指導者を非難したり支持したりする書簡に退役将兵が署名するのは日常茶飯事の出来事だ。2020年には、780人の退役将官と元国家安全保障リーダーがトランプ大統領に反対を表明し、一方で200人以上の退役軍人がトランプ大統領を「能力と実績が証明された指導者(proven leader)」として支持を表明した。現在、現役将兵が声を上げており、ある将兵は最近、フォックス・ニューズの司会者タッカー・カールソンをツイッターで取り上げたことで叱責された。国防総省は、その曖昧で矛盾した指導で助けてはくれない。ホワイトハウスは最近、国会議事堂の暴動対応に関与した、ある将軍の昇進を拒否した。軍の上層部は政治化しつつある。軍は不正に(再)選出されたと思われる最高司令官(訳者註:大統領)の命令を拒否するだろうか?

アメリカ軍のより低い階級の将兵たちの間でもまた、政治的な分極化が進んでいる。アメリカ軍将兵の約3分の1が接種の命令を受けたが、コロナワクチン接種を拒否した。軍は彼ら全員を軍法会議にかけることはできない。もしこれらの軍隊が右翼民兵(right-wing militias)の鎮圧を命じられても、その代わりに民兵に加担することになるかもしれない。敵が分割統治(to divide and conquer)を望んでいるとするならば、私たちは既に彼らが望む分割を実現させている。

核心的な問題は構造的なものだ。国家化された二大政党制は、私たちを人為的に分断し、互いに対立させる。我が国の勝者総取りの選挙制度(winner-take-all election system)は、双方に存亡の危機(existential crises)をもたらし、双方は他方に対して深い不信感を抱くようになっている。どんなグループでも2つのチームに分け、互いに対立させ、賞金を総力戦にすれば、ゼロサム競争によって、敵か味方かという二項対立(binary)しか見ない脳の古代のスイッチが入る。これがアメリカ政治の「破滅へのループ(doom loop)」である。有権者の間でも、政治指導者の間でも、そして軍隊のような組織の内部でも、これが繰り広げられている。そしてそれは、外国の敵対者にとって格好の標的となるのだ。

しかし、破滅へのループから逃れることはできる。より流動的な取り決めで協力できる政党を増やすことで、二元論を打破し、安定(stability)を生み出し、二元論によるゼロサム競争を終わらせることができる。内紛(civil strife)を防ぐ鍵は、敵が永久に存在しないように、政治的配置を常に調整し続けることだ。これは政治学者たちが長年にわたって知っている真実である。連邦議会への公開書簡で、200人を超える民主政体を研究する学者たちが、二大政党制が「要求の変化や新たな課題に対応できない、深く分裂した政治システムを生み出した」と警告を発した。

3人以上の候補者の立候補を認める比例投票制度(proportional vote system)に移行すれば、新たな政党が形成され、次いで新たな連合が生まれ、過度な党派性による対立がもたらす膠着状態を打破することができる。重要なのは、この選挙制度の変更がアメリカ合衆国憲法改正を必要としないことだ。憲法第1条第4項は、アメリカ連邦議会に選挙規則を定める権限を与えている。

政党が増えれば不安定になると反対する人もいるだろうが、二大政党制(two-party system)は以前であれば安定していたが、今はそうではない。しかしそれは、二大政党制の中に重複する連合があったからに他ならない。ある意味では、20世紀のほとんどを通じて、隠れた四政党体制がアメリカでは構築されていた。リベラルな共和党と保守的な民主党が、保守的な共和党とリベラルな民主党と共存していた。この柔軟な四政党体制が1990年代半ばに崩壊し、硬直的で重なり合わない2大政党制になったことで、米国は外国の工作に対して脆弱になってしまった。対照的に、5つまたは6つの政党からなる適度な多党制度(multi-party system)は、連立の柔軟性と流動性を可能にし、政治が二元的で脆くならないようにすることができる。

過度な党派政治は国家安全保障上の最重要課題である。ロシアや中国のような外国の敵対勢力は、ウイルスが宿主を殺すように、私たちを打ち負かす戦略として、秘密裏に挑発的な偽情報を通じて分極化を煽っている。最終的には、私たちを分断させ脆弱にさせている硬直した二大政党制と選挙制度に対処することが解決策となる。しかし、2024年までに解決することはないだろう。国内の平和が崩壊すれば、それは軍の問題となる。軍があまりに分極化して機能しなくなれば、ロシアと中国の勝利に等しい危機を誘発するかもしれない。まだ少しは時間がある今のうちに、対処を始めた方がいい。

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
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 古村治彦です。

 今回は、福祉国家(welfare state)に関する、少し古くて短い論稿をご紹介する。福祉国家とは、人々の生活の安定を図るために、福祉の拡充を行う国家ということで、それまでは、国防や治安維持に重きを置かれていた国家の役割を拡大するということである。1970年代以降、先進諸国を中心に取り入れられてきた考えであるが、現在は、財政赤字や非効率のために評判が悪い。

 下の論稿では、市場万能論では駄目で、国民生活安定のために福祉国家論も必要であり、それが資本主義の生き残りの方策だというものだが、現在、多くの先進諸国で共通の課題となっている高齢化(aging)と移民(immigration)については変革をしなければならないと主張している。高齢者と移民に対する寛大な福祉政策は温めるべきだという主張である。

 現在、世界の中で最も高齢化が進んでいるのが日本だ。日本は「高齢化社会」という段階から更に進んで「高齢社会」となっている。更に言えば、平成の30年間に経済成長もなく、若い世代では、子どもを複数持つことは贅沢、結婚することも躊躇してしまうようになり、少子化も進んでいる。日本の総人口が約1億2600万人、65歳以上の人口は約3600万人で、人口比は約28.4%、75歳以上の人口は1849万人で、人口比は14.7%だ。15歳未満の人口は約1520万人で、人口比は12.1%だ。
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15歳以下の子供たちは同世代の平均の数は108万人となる。65歳から74歳までの人口は1740万人、人口比は13.8%、同世代の平均の数は174万人となる。65歳まで至らずに亡くなった人たちを考えると、現在15歳以下の子供たちと比べると、同世代の人数は2倍ほどあったものと考えられる。日本は急速な少子高齢化が進み、国全体が老衰しているということになる。

 そうした中で、これまでのような高齢者に対する福祉はできない(財源と人手がない)ということになる。日本は現在、団塊の世代(欧米で言えばベイビーブーマーズ[baby boomers])が高齢者となっている。この人たちがどんどん数が少なくなっていっても、今度は団塊ジュニア(アメリカで言えばX世代[X Generations])と呼ばれる人々が高齢者となっていく。高齢者福祉の負担はこれからも半世紀近く続いていくことになる。その間に人口は減り、生産人口も減少していく。日本は人口の面で言えば小国へと変化していく。その調整過程にある。そこで高齢者福祉の漸進的な削減、「自分で老後の資金を準備しましょう、目安は2000万円です」ということになるが、団塊ジュニア世代で果たしてどれほどの人たちが2000万円のお金を用意できるだろうか。

 日本における外国人労働者数は年々増加している。これは生産年齢人口の減少に伴って起きている現象だ。非熟練労働においては、日本人がやりたがらない仕事を外国人、特に発展途上国からの人々が担っているという現実がある。アメリカでも不法移民が安い給料で働くことで、農産物や食料品の価格が安く抑えられているという現実がある。日本ではこれからも外国人労働者の数が増えていく。そうなれば、日本に住み、家族を作るという人たちも増えていく。日本の少子高齢化問題と移民数の増加はリンクしている。
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 こうした中で、外国人労働者や移民に対する日本人の見方は厳しい。受け入れ賛成と反対は拮抗している。また、移民よりも自国民優先をと考える人たちの割合も高い。しかし、これはどこの国においてもそうだ。
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下の論稿にあるように、移民に対する福祉を行うべきではないという極端な考えを持つ人は少ないにしても、過剰な福祉は行うべきではないと考える人は多いだろう。問題は「過剰」の線引きだ。どこまでが適正で、どこからが過剰なのか、日本国民と全く同じ福祉を、国籍や永住権を持たない外国人に与えるべきなのかどうか、ということになる。

 経済格差があまりにも拡大すると、社会に分断と亀裂が起きる。豊かな人たちはより豊かになり、貧しい人たちはより貧しくなるということでは、社会は維持できない。そうなれば、政治において極端な主張を行う勢力が台頭することになる。社会の分断と格差の拡大によって、政治や民主政治体制への失望も拡大していく。ナチスドイツを思い起こす人も多いだろう。資本主義を守り、民主政治体制を守るためには、行き過ぎた格差の是正や強欲資本主義に対する制限が必要となる。下の論稿の主張には首肯できる点が多い。

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基本に戻る(Back to basics

資本主義は生き残るために福祉国家を必要としている。しかし、高齢化と移民に対処するために福祉は改革しなければならない。

2018年7月12日

『エコノミスト』誌

https://www.economist.com/leaders/2018/07/12/capitalism-needs-a-welfare-state-to-survive?fsrc=scn/tw/te/bl/ed/capitalismneedsawelfarestatetosurvivebacktobasics

左派と右派両方の神話では、福祉国家(welfare state)は社会主義(socialism)の作品である。しかし、福祉国家の知的伝統は自由主義に最も依存している。イギリス版の福祉国家の設計者であるウィリアム・ベヴァリッジは、国家権力を福祉国家のために使うことを望んでいなかった。重要なことは、あらゆる人たちが自分の好きな人生を歩むことができるように、安心感を与えるということだ。そして、リベラル派の改革者たちは、「創造的破壊(creative destruction)のリスクの一部から人々を守ることで、福祉国家は、自由市場に対する民主的な支持を強化する」と考えていた。

1942年にベヴァリッジが重要な報告書を発表して以来、数十年の間に福祉国家は拡散し、拡大し、複雑になり、そしてしばしば人気を失ってきた。この変化にはさまざまな原因がある。その1つは、福祉国家がその基盤となる自由主義的な原則からしばしば逸脱してきたことだ。この原則を再確認する必要がある。

世界各国はより豊かになれば、公共サーヴィスとベネフィットに国家収入のより高い割合を支出する傾向にある。富裕な国々における年金、失業保険、生活困窮者たちに対する支援のような「社会的保護(social protection)」への支出は、1960年の段階では5%だったが、現在では20%になった。医療や教育への支出を含めると、その割合は約2倍になる。これらの福祉国家の規模の大きさが、改革の十分な理由になるという人々も存在する。

しかし、福祉国家が何をしているかの方が、その規模よりも重要だ。福祉国家は各個人が自身で選択ができるようにすべきだ。スカンジナヴィア諸国で行われている親たちの復職支援やイギリスで行われている障碍者たちが自身のサーヴィスを選択できるパーソナル・べネフィッツ、シンガポールで行われている失業者たちが新しいスキルを身につけるための学習支援を通じて、選択が実行されるべきだ。

誰もが生きていくためには十分な量を手にすることを必要とする。雇用市場で落ちこぼれた人々やギグ・エコノミー(gig economy 訳者註:インターネットを通じて行われる単発の仕事)で働く人々の多くは、生活を営むのに苦労している。貧困層への支援は、残酷で非効率的、父性的で複雑な方法で行われることがあまりにも多い。富裕な国々の一部では、失業者が仕事を始めると、給付金がなくなるために限界税率が80%以上になる。

福祉改革には、制度のコストと、貧困対策への効率化、就労への動機付けとの間にプラスマイナスが生じる。どの制度も完璧ということはない。しかし、基本となるのは負の所得税(negative income tax)であり、これは所得基準以下の労働者には補助金を出し、それ以上の労働者には課税するというものだ。負の所得税は全ての人を対象とする最低収入と結合することができる。これは、税率が高すぎない限り、働くインセンティブを維持しながら貧困をターゲットにする、比較的シンプルで効率的な方法となる。

しかしながら、改革のためには、ベヴァリッジがあまり気にしていなかった2つの課題にも取り組まなければならない。一つ目の問題は高齢化(aging)だ。富裕な国々の現役世代と退職者の比率は、2015年には約41だったのが、2050年には21になると予測されている。また、国が高齢化すると、福祉支出が高齢者に偏るようになる。世代間格差の拡大を緩和するためには、高齢者への最も寛大な給付を削減し、退職年齢を着実に引き上げることが有効な手段となる。

二つ目の問題は移民(immigration)だ。ヨーロッパ全体で、「福祉愛国主義(welfare chauvinism)」が台頭している。福祉愛国主義は、より貧しい国民と自国で生まれた国民に対して手厚い福祉を行うことを支持しているが、移民には及んでいない。ポピュリストたちは、貧しい国から豊かな国へ人々が自由に移民できると、福祉国家が破綻すると主張している。自由主義的な移民政策は、福祉へのアクセスを制限することにかかっていると主張する人々もいる。つまり、物理的な国家ではなく、福祉国家の周りに壁を作るということだ。各種世論調査によると、新たに入国してきた人々から医療や子供のための学校へのアクセスをすぐに奪いたいと思っている、自国生まれのヨーロッパ各国の国民はほとんどいないということだ。しかし、アメリカやデンマークですでに実施されているような、現金給付に対する何らかの制限が必要かもしれない。

ベヴァリッジのようなリベラル派が認識したように、自由市場への支援を確実にする最良の方法は、より多くの人々に自由市場にかかわる利害関係を与えることだ。福祉国家とは、貧しい人々に靴やスープを与えたり、老後の生活を保障したりするだけのものではないと見なければならない。民主主義社会では、福祉国家は資本主義を擁護するためにも重要だ。

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