古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

SNSI研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)のブログです。翻訳と評論の分野で活動しています。日常、考えたことを文章にして発表していきたいと思います。古村治彦の経歴などについては、お手数ですが、twitter accountかamazonの著者ページをご覧ください 連絡先は、harryfurumura@gmail.com です。X accountは、@Harryfurumura です。ブログ維持のために、著作のお買い上げもよろしくお願いします。

タグ:第二次世界大戦

 古村治彦です。

1945年2月4日から11日にかけて行われた、アメリカのフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソヴィエト連邦のヨシフ・スターリン書記長が参加して、戦争の結末と戦後世界の行方について話し合いが行われた。戦後世界の構造が決定された重要な首脳会談であった。

日本関係で言えば、ソ連が対日参戦し、千島列島を含む地域をソ連が獲得するということが決定された。ヨーロッパ関係で言えば、ポーランドの国境線が西寄りに設定され、東ヨーロッパ諸国をソ連が実質的に支配すること、共産ブロックに含まれるということが決定された。ソ連は東ヨーロッパを緩衝地帯とすることで、西欧列強からの侵略を防ぐことができるという安心感を得ることができた。

 重要なことは、これらの重要な事項をアメリカ、イギリス、ソ連で決めたということだ。そこにはフランスは入っていない。フランスはドイツに敗れた時点で、列強の地位から脱落しているということになる。これこそが大国間政治(great-power politics)ということである。これらの大国が世界の運命を決め、一国の行く末を決める。決められる弱小国には何の相談もなく、小国の国民の意思など全く考慮されない。これが国際政治の真骨頂だ。

 今回の論稿で重要なのは、指導者個人レヴェルの分析がなされていることだ。国際政治では、個人レヴェル、国内政治レヴェル、国際関係レヴェルの3つの分析のレヴェル(levels of analysis)がある。今回の論稿や個人レヴェル、具体的には、ヤルタ会談に参加したルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの考えや行動を分析の中心に据えている。何よりも重要なのは、ルーズヴェルトが瀕死の状態であったということだ。実際に階段から2か月後の4月にルーズヴェルトは死亡した。その状態で世界の運命を決める会談に臨んでいたということは世界にとって大きな不幸であった。そして、ルーズヴェルトは副大統領ハリー・トルーマンを信頼しておらず、彼の抗争を全く伝えていなかった。そのため、トルーマンは何も知らない状態で大統領に昇格することになった。ルーズヴェルトは自身の死後のことまで考えていなかった。チャーチルはイギリスの国力が減退している中で、大国としての矜持を保とうとして、得意の弁舌を駆使し、ソ連のスターリンと対峙したが、気力が充実し、自身の要求貫徹にこだわったスターリンの主張を覆すには至らなかった。チャーチルとスターリンは、自国の利益を第一に考えていたということになる。その点で彼らは交渉しやすかったと言えるだろう。ルーズヴェルトは国際連合や世界の秩序維持について話したが、チャーチルとスターリンも、それぞれの国が何を得られるのかということにしか関心がなかった。それがイギリスの帝国(植民地)の維持であり、東ヨーロッパのソ連の勢力圏入りであった。両国は、戦後ポーランドの体制について対立したが、最終的には米英側が譲歩した。しかし、スターリンの要求も全てが実現するには至らなかった。スターリンとソ連に対する米英両国の信頼は失われていた。

 ルーズヴェルトがより健康であったならば、ヤルタ会談の結果はどうだっただろうかということは今でも話さされることである。歴史に「If」はないというのは常套文句であるが、たとえルーズヴェルトの健康状態がより良かったところで、どこまで結果が変わっていたかというとそれには疑問が残る。

(貼り付けはじめ)

ルーズヴェルト、ヤルタ、そして冷戦の起源(Roosevelt, Yalta, and the Origins of the Cold War

-末期病状のアメリカ大統領がヨーロッパの半分をソ連が支配すると決定した協定についていかに交渉したか。

フィリップ・パイソン・オブライエン筆

2024年9月1日

『フォーリン・ポリシー』

https://foreignpolicy.com/2024/09/01/roosevelt-stalin-yalta-europe-division-soviet-world-war/

roosveltstalinchurchillyaltacartoon001
「ヨーロッパのごった煮」と題された漫画で、ヤルタ会談でのルーズヴェルト、スターリン、チャーチルが描かれている。

フランクリン・D・ルーズヴェルト米大統領が1943年末にワシントンに戻ったとき、彼はほとんど働くことができなかった。ルーズヴェルトは、元々が病弱であり、そして運動不足で、酒もタバコも止められず、特にタバコが大好きだった。血圧は危険なレヴェルまで上昇し、冠状動脈疾患も進行していた。彼は、彼の参謀であり、いつも一緒にいたウィリアム・リーヒに、この仕事を続ける体力が自分にあるかどうか分からないと打ち明けたほどだった。

しかし、それから間もなく、ルーズヴェルトは他に選択肢がないと判断した。権力を手放し、戦後の新たな世界秩序の構築において尊敬はされるものの、二の次的な人物になるという見通しは、彼にとってあまりにも恐ろしかった。そして1944年、ルーズヴェルトは国際関係史上最も利己的な選択をすることになるが、これは非常に自己中心的であり、歴史家たちは未だにこの問題に言及することを避けている。

ルーズヴェルトは、死にかけながら大統領選に出馬することを決めただけでなく、副大統領候補を、自分が好きでもなく、打ち解けることもなく、自分の後を継いで大統領になる準備も一切していない人物に変更することに決めたのだ。ルーズヴェルトは、現職のヘンリー・ウォレス副大統領が左翼的すぎると見られていることを懸念し、より穏健なハリー・トルーマンを副大統領候補に選んだ。政治的には賢明な選択だった。トルーマンは、ミズーリ州出身で、ルーズヴェルトの貴族的な存在感をうまく引き立てる政治的庶民感覚を持っていた。トルーマンは、急進的なウォレスに特に魅力を感じなかった中西部と南部で、ルーズヴェルトを助けることができた。

トルーマンは、彼自身の評価では、国際関係の経験がほとんどなかったが、ルーズヴェルトは、トルーマンが何も得られないようにするつもりだった。1944年11月の選挙から1945年4月にルーズヴェルトが死去するまでの間、彼の業務日誌には2人の会談が6回しか記録されていない。ルーズヴェルトは、1945年2月の重要なヤルタ会談などの計画にトルーマンを加えることを積極的に避けていたようだ。ルーズヴェルトは基本的に、この危機において、アメリカと世界を率いることができるのは自分だけであり、だから自分は生きなければならない、と語っていた。もし彼が死んだら、そう、「我が亡き後に洪水よ来たれ(Après moi, le déluge)」だ。

その理由は、ルーズヴェルトが戦後世界についての具体的なヴィジョンを書き記すことも、議論することもほとんどなかったからだ。ルーズヴェルトは通常、「4人の警察官(four policemen)」-イギリス、中国、ソ連、アメリカを通じて秩序を保つという広範で不定形な概念で人々を幻惑し、国際連合(United States)の創設について希望的観測を語ったが、難しい質問に答えることは避けた。

戦争終結後、アメリカ軍はヨーロッパに永久に駐留するのか? ドイツは永久に分割されるべきなのか? ソ連との軍事同盟は継続されるのか、もしそうなら、アメリカは、ソ連の東欧支配を受け入れるのか? アジアと太平洋における戦後処理はどうなるのか? オランダやフランスのようなヨーロッパ帝国は再建を許されるのか? アメリカ軍はかつて日本が占領していた地域に入るだろうか? 混沌とした政治状況にある中国は、どのようにして世界の警察官の一人となるのだろうか?

もしルーズヴェルトが、これらの質問に対する明確な答えを持っていたとしても、ルーズヴェルトはそれを自分の胸に秘めていた。リーヒが回顧録で認めているように、「もしルーズヴェルト以外に、アメリカが何を望んでいるのかを知っている人物を見つけられたら、それは驚くべき発見だろうと感じたこともあった」ということであった。

ルーズヴェルトは、アメリカ政府に具体的な戦争の目的と目標を提示することを拒否することで、プロイセンの軍事戦略家カール・フォン・クラウゼヴィッツが提唱した「戦略とは目的、方法、手段を結びつけることである(strategy is the connection between ends, ways, and means)」という公理を嘲笑していた。ルーズヴェルトは、どの戦争指導者よりも、方法と手段については明確な考えを持っていた。それは、兵士ではなく、空と海の力と多くの機械で戦争を戦うことであった。しかし、それらは目的から切り離されているように見えた。目的とは、彼がその時々に望むものだった。

winstonchurchilljosephstalininmoscow1944001
1944年のモスクワ訪問で、英首相ウィンストン・チャーチル(左)がヨシフ・スターリンと歩く

ルーズヴェルトが戦後、アメリカにとって何を望むかについて、いろいろな意味で秘密主義を強めていたとすれば、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは直接的であることを厭わなかった。ルーズヴェルトは安全保障と強靭さを求めており、無定形な国際保証や国際理解よりも直接的な支配を好んだ。スターリンは、優雅(airy-fairy)に見えるルーズヴェルトの考えから離れ、ソ連の独裁者は直接支配への希望を明確にした。

スターリンが最も明晰になったのは、おそらく1944年10月、モスクワでウィンストン・チャーチル英首相と二人きりで会談したときだろう。チャーチルとスターリンは、しばしばアヴェレル・ハリマン駐ソ連大使も同席した公式会談では、ルーズヴェルト的概念に基づく和平を模索しているふりをしようとしていた。しかし、二人きりになると、二人の態度は違った。

ある晩、二人きりの会話の中で、二人は未来に目を向け、アメリカの影響力のないヨーロッパについて語った。その結果、有名な「パーセンテージ協定(Percentages Agreement)」が結ばれ、チャーチルとスターリンはこの地域を利益圏(spheres of interest)に分割した。

この合意は、スターリンとチャーチルがどのように交渉を進めたかったかを、おそらく最も忠実に表している。ルーズヴェルトと比べれば、彼らには戦争に対するより具体的な目的があったことは確かだ。チャーチルにとっては、大国としてのイギリスとその帝国の維持であった。スターリンにとっては、東欧、中欧、南欧におけるソ連の最大限の拡大だった。どちらも、ルーズヴェルトの国際親善と協力(international goodwill and cooperation)という概念にあまり時間を割いていなかった。

パーセンテージ協定もまた、政治的かつ個人的な夢物語だった。ルーズヴェルトは政治的な理由からこのような協定に同意するはずもなく、3人は戦後のヨーロッパと世界にとってより実行可能な枠組みを考案するために集まる必要があった。チャーチルとスターリンの極めて具体的な戦略目標と、ルーズヴェルトの無定形な戦略目標を調和させる必要があった。

この違いの結果は、1945年2月4日から2月11日までクリミアで開催された、戦争中の全ての大戦略会議(grand-strategic meetings)の中で最も物議を醸したヤルタ会議、コードネーム「アルゴナウト(Argonaut)」となった。

今日に至るまで、ヤルタ会談は、何が合意されたのか、より正確に言えば、3人の主役が何に合意したと考えていたのかについて、激しい議論を巻き起こしている。ある意味、問題は会議そのものではなく、その結論は当時ビッグスリーの誰にとっても「決定的(definitive)」なものではなかった。

本当の問題は、ルーズヴェルトがほどなく死去したことであり、ルーズヴェルトは自分が行った取引の真意を極秘にしていたため、トルーマンは結局、ルーズヴェルトの意図を推測するしかなかった。

winstonchurchillfranklindrooseveltjosephstalinatyalta001
左から:チャーチル、ルーズヴェルト、そしてヨシフ・スターリン(1945年2月のヤルタ会談での交渉の後)

ヤルタ会談開催の頃までには、アメリカ大統領は終わりに近づいていた。1944年の再選を目指し、わずかなエネルギーも使い果たしていた。選挙運動には比較的わずかしか顔を出さなかったが、選挙が終わると、持続的な仕事はできなくなっていた。ルーズヴェルト大統領の本当の状態はアメリカ国民には知らされていなかった。1945年1月20日の大統領就任式など、公の場に姿を見せなければならないときは、ホワイトハウスに担ぎ込まれる前に数分間だけ話をした。

ルーズヴェルトがヤルタに到着する頃には、彼の体調は更に悪化していた。体重はさらに減り、目の下には大きく膨らんだ黒いクマができており、常に休息を必要としていた。1944年8月のケベック会議で最後にルーズヴェルトを見た、イギリス代表団の何人かは、この短期間でのルーズヴェルトの衰えにショックを受けた。チャーチルの秘書の1人は、ルーズヴェルトを見て「この世の人とは思えない(was hardly in this world at all)」と言った。

スターリンは元気だった。首脳会談までに、ロシア軍はベルリンから100マイルも離れていないオーデル川に到達していた。いったん再編成し、次の攻撃のために休息を取れば、ドイツの首都は陥落することは確実だった。ヤルタ会談前にポーランドの大部分を征服したことは、スターリンにとって今後の会談で非常に有利に働いた。彼は、どのようなポーランドを建設したいかの構想を持っており、妥協する気はなかった。

ヤルタ会談の主役はルーズヴェルトとスターリンだった。この頃、イギリスには、アメリカやソ連に自国の要求を呑ませるだけの軍事力も財政力もなかった。スターリンはまだ武器貸与プログラム(lend-lease program)によるアメリカの支援を必要としており、ドイツが敗北した後の太平洋戦争への参加を熱望していた。ルーズヴェルトは、世界平和の保証として、戦後も何らかの形で米ソ戦時同盟(U.S.–Soviet wartime alliance)の継続を画策していた。

首脳たちと最側近のアドヴァイザーたちによる最初の全体会議では、戦争に勝利しようとしているという事実が祝われた。それは、ヨーロッパにおける戦争の軍事的概観であり、アドルフ・ヒトラーのドイツが必然的に粉砕されたことを物語るものだった。指導者それぞれが互いの軍のパフォーマンスを称賛し、戦争の最終段階における緊密な連携について語った。

軍事的な概要が明らかになると、指導者たちは戦後の世界に目を向けた。スターリンは、大国政治(great-power politics)について、未来を決めるのはこの3人であり、小国の意見に耳を傾けることに時間を費やすべきではないという見解を述べた。ルーズヴェルトはスターリンを支持し、「大国はより大きな責任を負っており、和平はこのテーブルについた三大国によって書かれるべきだ(the Great Powers bore the greater responsibility and that the peace should be written by the Three Powers represented at this table)」という意見に同意した。

しかし、チャーチルには居心地が悪かった。スターリンと対立して、真っ向から反論するつもりはなく、代わりに、大英帝国に対するチャーチルのヴィジョンが、この見解にどのように適合するかは決して明確にしなかったが、小国の意見に耳を傾け、ある程度の謙虚さを示すことが大国の義務であると主張した。スターリンはそれを面白がったようで、次の選挙で負けるかもしれないと言ってチャーチルをからかい始めた。

会議の残りの時間は、ビッグスリーが世界の他の国々の運命を決定し、その大部分は友好的に行われた。ドイツについては、主にドイツを解体すべきかどうかで意見が分かれた。反対していたスターリンは、そのような決定を将来まで先送りすることを望んだ。実際、そのような決定を先延ばしにするのは簡単だった。重要な第一歩であるドイツの明確な占領区域への分割は既に行われていたからだ。

この話し合いで最も興味深かったのは、ルーズヴェルトがアメリカ軍は、2年以上はヨーロッパに駐留しないと主張したことだろう。それを聞いたチャーチルは、今こそフランスに強力な軍隊を増強すべきだと答えた。スターリンは、それは構わないが、フランスにはドイツの支配について大きな発言権を与えるべきではないと主張した。

ヤルタ会談で決着したもう1つの大きな問題は、ソ連の対日参戦(Soviet entry into the war against Japan)だった。春にはドイツに勝利することが決まっていたため、スターリンは崩壊する日本からできるだけ多くの戦利品(spoils)を奪おうと躍起になっていた。この時点で、アメリカは日本を倒すためにロシアの助けなど必要ないことを十分承知していたが、スターリンはそれを、以前の誓約を果たすためという枠にはめた。

自縄自縛に陥ったルーズヴェルトは、スターリンの援助をありがたく受け入れるしかなかった。もちろん、スターリンには代償が用意されていた。最終合意では、ソ連は南サハリン、千島列島、中国の大連港の支配権(ソ連から大連港までの鉄道を含む)を手に入れることになる。

alliedflagshalfstaff19450413001
ロックフェラーセンターに掲揚されている連合国の各国の国旗が半旗になっている(1945年4月13日)

翌日は、新しい国際連合についての議論から始まった。スターリンもチャーチルも、自分たちにはそれほど関心がなかったとしても、ルーズヴェルトにとってそれがいかに重要であるかを理解していたようだ。スターリンは、前年8月から10月にかけてワシントンのダンバートン・オークス邸宅で開催された会議で作成された国連機構の概要を読んでいなかったことを認めた。

そして、ポーランドの運命が持ち出され、会場の緊張は高まった。ポーランドの問題は、ある意味では単純であり、ある意味では基本的に難解であった。ポーランドは戦後、国家として再興されるが、その国境はずっと西にあるという合意があった。ルーズヴェルトとチャーチルは、ヒトラーとの汚い取引で確保したポーランドの東半分をスターリンが保持し、その代わりに新生ポーランドがドイツ東部の大部分を与えられることを受け入れた。

ポーランドの将来の政治構造は全く別の問題だった。アメリカとイギリスは戦前のポーランド亡命政府をロンドンに認めていた。スターリンは、戦前のポーランドの手によるソ連軍の敗北を思い出し、直ちにルブリン委員会(Lublin Committee)と呼ばれる新しい共産主義政府の樹立に動いた。

ロンドンか、ルブリンか、どちらのポーランド政府が統治するかという問題は、ヤルタの大きな対立点(confrontation)となった。この問題が最初に持ち上がったとき、ルーズヴェルトは会議全体を通じて最も長い演説を行った。持てる力を振り絞り、普段の理性的で魅力的な自分を演出しようとしたルーズヴェルトは、強い親ソ派を含む5つの異なる政党の代表からなる複数政党による暫定大統領評議会の設立を提案した。この組織が、新しい選挙が行われるまでポーランドを統治することになる。チャーチルは、いつものように雄弁に、自由で独立したポーランドをさらに力強く訴えた。「チャーチルは、「ポーランドが自分の家の主人となり、自分の魂の支配者となることが、英政府の切なる願いである」と述べた。

スターリンは、ルーズヴェルトの魅力やチャーチルの雄弁など気にも留めなかっただろう。この時点でスターリンは、東ヨーロッパにおける自らの優越(supremacy)が米英両国に認められたと計算していた。彼は、ポーランドの運命が「戦略的安全保障(strategic security)」の問題であり、ポーランドがソ連と国境を接する国であるからというだけでなく、歴史を通じてポーランドがロシアへの攻撃の通路であった」と述べた。

そして、スターリンはナイフを深く突き刺した。彼もまた、民主的なポーランドを望んでいた。彼の見る限り、ルブリン・ポーランド政府は自由で効率的な統治を行っており、しかも赤軍の後方地域の安全確保とパトロールに貢献していた。ところが、ロンドン・ポーランド政府は、この調和を終わらせ、ソ連戦線の背後で反乱を起こす恐れがあった。要するに、彼らはヒトラーの仕事を代わりにしていたということになる。

スターリンは「ルブリン政府の工作員がやったこととロンドン政府の工作員がやったことを比較すると、前者は良くて、後者は悪いことが分かる。私たちは後方に平和を与えてくれる政府を支持するつもりであり、軍人としてそれ以外のことはできなかった」と述べスターリンは鉄槌(gauntlet)を下し、議論は何日も続いたが、変わることはなかった。赤軍はポーランドに進駐し、スターリンは赤軍を指揮し、ルブリン政府に権力を握らせ、戦前のポーランド国家からのいかなる影響も容認しなかった。ルーズヴェルトとチャーチルは、スターリンの条件を受け入れるか、あるいは同盟を破棄するかという、ほとんど不可能な窮地に立たされた。首脳3人全員が分かっていたように、スターリンにポーランド政府の構成を変更させることは不可能だった。

franklindrooseveltjosephstalin1945001
ヤルタ会談で会談するスターリンとルーズヴェルト(1945年2月)

しかし、ルーズヴェルトは試してみることを決心した。翌日、彼らがこの問題に戻ると、彼はスターリンをなだめるためにロンドン政府をすべて切り捨てることから始めた。ルーズヴェルトは、ルブリン政府は何があっても力を持つだろうと理解し、新しい臨時政府の樹立を協議するために、ルブリン政府と他の政党からなる委員会を半分ずつ設置し、バランスをとることだけを提案した。

スターリンは失速し、それが延々と続いた。ルーズヴェルトはスターリンに私信を送り、ポーランドには多党制の民主的な政府が誕生することをアメリカ国民に伝えてもらえれば国内にとって大きな助けになると懇願した。

たとえルーズヴェルトが、スターリンが自らの選択と条件で政権を樹立しようとしていることを理解していたとしても、ルーズヴェルトが国内でそのような政治的ニーズを抱いていることをスターリンが理解できなかったことは、彼の戦略家としての進化がそこまでしか進んでいなかったことを示している。スターリンは、ルーズヴェルトが本当にアメリカ連邦議会や有権者、その他の権威に答える必要があるとは思えなかった。

これはスターリンがいかに全てを台無しにしようとしていたかを示すものだった。ドイツ軍の侵攻以来、彼が機転を利かせて行動してきたのは、生き残るために現実的な面が偏執的な面を抑えてきたからだとすれば、戦争が終結し勝利が確実となったとき、昔の偏執的なスターリンが姿を現したということになる。スターリンには、ルーズヴェルトが融通を利かせるというサインを本当に望んでいることが理解できなかった。

ルーズヴェルトは会議の残りの時間についてスターリンに圧力をかけたが、最終的にスターリンはほんのわずかな譲歩しかしなかった。スターリンは、資本主義政府は実際には民主的ではないという暗黙の指摘とともに、ルブリン政府は真の民主政治体制を代表していると既に述べていたため、これにはほとんど何の意味もなかった。

ポーランドに関するこの合意は、ソ連の東欧支配の基本的枠組みを確立した歴史的なものだった。赤軍が支配するところでは、スターリンは自分の利益に合う政府を樹立するためにやりたい放題だった。

ルーズヴェルトは、この侮辱を個人的に受け止めたが、他にどうすればいいのか分からなかった。ルーズヴェルトは、病気がちで、闘い続けるには疲れきっていた。彼が真実を認めた相手は、会議のほとんど全ての時間をルーズヴェルトと過ごしたリーヒだった。ポーランドで合意された文言は基本的にスターリンのやりたい放題を許すものだとリーヒがコメントしたとき、ルーズヴェルトにできたのは譲歩することだけだった。

彼には他のことをする力がなかった。ルーズヴェルトは「それは分かっている、ビル、でももう戦うには疲れたんだ」と述べた。
franklindrooseveltharrytruman1944001

1944年8月、ワシントンのホワイトハウスで会食をするハリー・トルーマンとルーズヴェルト

ヤルタ会談が終わるまでには、スターリンは満足せざるを得なかった。わずか4年足らずの間に、彼の国際的立場は一変し、その変化の多くは彼自身の行動に責任があった。ヒトラーを助けることで、結果としてソ連を攻撃されるという自分が作り出した災難から、米英両国に東欧支配を受け入れさせるまで押し戻したのだ。スターリンは今や、帝政ロシアがかつて支配していた以上の領土の領主であり支配者であった。その過程で、彼は米英両国の援助を使って力をつけ、世界最大の軍隊を作り上げた。第二次世界大戦の初期、スターリンは、最悪の大戦略家(the worst of the grand strategists)だったが、ヤルタ会談の頃には間違いなく最高の戦略家になっていた。

その後、スターリンは自分が成し遂げたことを全て破壊すると脅した。ヤルタ以後、スターリンは米英両国との協力関係を装うことからさえも遠ざかり始めた。彼の以前の戦略的成功は、同盟国、特にルーズヴェルトのニーズに合わせて行動を調整することで、ダイナミックな状況に実質的に対応する能力から生まれたものだった。しかし今、彼は公然と東ヨーロッパを従属させ始め、ルーズヴェルトやチャーチルの必要性にはリップサービスすら行わなくなった。

スターリンは、ルーズヴェルトに対して、常に示していた配慮と機転をもって接することさえ止めた。彼は、ドイツの収容所から解放されたアメリカ人捕虜の世話をするためにポーランドにアメリカ人将校を入国させることを拒否し、アメリカ大統領を深く侮辱した。間もなく、スターリンはさらに踏み込むことになる。スターリンは、ルーズヴェルトがヒトラーと土壇場で取引をすることで自分を裏切ろうとしていると、奇妙な言葉で非難したのだ。

これは、スターリンがルーズヴェルトに対して行ったのと同じくらい侮辱的な告発だった。スターリンの頭の中では、ルーズヴェルトはスターリンに歩み寄ろうとしていたのであり、スターリンがルーズヴェルトを極悪非道な裏切り者として非難したことは、ルーズヴェルトの心に深く突き刺さった。ルーズヴェルトはついに我慢の限界に達したようで、1945年3月、スターリンに対する彼の態度は大きく変化した。ルーズヴェルトのスターリンに対する最後の電報は、戦争期間において、もっとも厳しく、率直なものだった。

ポーランドに関する長い電報の中で、ルーズヴェルトは基本的に、ヤルタでスターリンが自分に嘘をつき、ルブリン委員会に他の要素を入れることを拒否したと非難した。「私は、このことが私たちの合意にも、私たちの話し合いにも合致しない」と述べている。

チャーチルは、ルーズヴェルトの強い口調を喜んだ。イギリスの指導者チャーチルは、ヤルタ会談について嫌悪感を抱き、ルーズヴェルトにスターリンに対する「断固とした、露骨な態度(firm and blunt stand)」をとるよう迫った。事態は対決(confrontation)の様相を呈していた。

そして4月12日、ルーズヴェルトはジョージア州ウォームスプリングスの屋敷で再び休暇を取っていた。

アメリカの政策は、トルーマンの手に委ねられたが、トルーマンはルーズヴェルトが本当は何を達成したかったのか、どのように達成するつもりだったのか、まったく知らなかった。その後の3年間、トルーマンは、無知(ignorance)であったために、スターリンの戦略的な行き過ぎと失策(Stalin’s strategic overreach and blundering)と相まって、ルーズヴェルトが常に避けたいと望んでいた冷戦を生み出すことになる。

※フィリップ・パイソン・オブライエン:セントアンドリュース大学戦略学教授。最新刊に『戦略家たち:チャーチル、スターリン、ルーズヴェルト、ムッソリーニ、そして、ヒトラー-いかにして戦争が彼らを形作り、いかにして彼らが戦争を形作ったか(The Strategists: Churchill, Stalin, Roosevelt, Mussolini, and Hitler—How War Made Them and How They Made War)』がある。ツイッターアカウント:@PhillipsPOBrien

(貼り付け終わり)

(終わり)

bidenwoayatsurumonotachigaamericateikokuwohoukaisaseru001

バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる
bigtech5shawokaitaiseyo501
ビッグテック5社を解体せよ

akumanocybersensouwobidenseikengahajimeru001

 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 古村治彦です。

 ウクライナ戦争は2022年2月26日に始まり、現在も継続中だ。現在のところ、停戦の見通しは立っていない。ロシアのウラジミール・プーティン大統領は停戦交渉に応じる姿勢を見せているが、ウクライナはロシアに奪われた地域の奪還を目指しており、停戦を求める姿勢にはない。ウクライナ戦争は泥沼化の様相を呈している。ウクライナとロシア両国にとって不幸であるが、アメリカは大規模な軍事支援を行っており、アメリカ政府は多額の予算を自国内の軍事産業に投じている。アメリカ政府は人々から反対されにくい予算支出の大義名分を得ているということになる。世界中で多くの人々が物価高やエネルギー不足で苦しむ中で、アメリカの軍事産業だけはハッピーなクリスマスを迎えることが出来るだろう。

 戦争は始めるのは簡単だが終わらせるのは難しい。このことは歴史が証明している。私たちは日中戦争や太平洋戦争から体験的にそのことを学んでいる。戦争を始めてしまうと、「勝つ(相手が敗北を受け入れる)まで終われない」ということになる。そして、戦争が自国に有利な状況で進んでいるうちには停戦を考えることはなく、敗色濃厚になってから慌てて戦争終結について考慮、検討を始めても手遅れで、敗北を受け入れるところまで追い込まれて惨めな敗戦を迎えることになる。日中戦争開始から太平洋戦争で悲惨な敗戦を迎えるまでの約15年間に日本は何度も戦争を停める機会はあった。アメリカとの開戦を避けることも出来た。しかし、それができなかった。サンクコストと呼ばれる現象が原因の一つになっている。サンクコストは既に始めた事業から撤退した場合に回収できないコストのことで、これがあるために事業からの撤退を決断できずに、ずるずると事態が悪化し続けるということが起きる。日本はこのサンクコストに悩まされた。

 満州事変からの満州国建国までの道筋では、中国側に満州の権益を脅かされる事態となり、ここで関東軍が日露戦争を持ち出して、「十万の英霊、二十億の国帑(こくど、国の財産)」という言葉を使って「満州は日本の生命線だ」とのスローガンの下、満州国建国まで進み、日本は国際連盟脱退に至った。また、日米開戦直前には、アメリカが日本の中国からの撤退を求めたのに対して、東条英機をはじめとする陸軍首脳は「ここで引き下がっては二十万の英霊に申し訳が立たぬ」と言って強硬に中国からの撤兵に反対した。こうしたサンクコストへの個室のために結果的により大きな犠牲を払うことになった。戦死者を英霊と呼び、英霊の数がどんどん増えていくことで、戦争はより激化し、戦争を停めることはどんどん難しくなっていた。

 その他にも「首都である南京を落とせば中国は簡単に屈服する」「アメリカとイギリスを離間させることが出来る」「中国兵は弱兵、アメリカ兵は軟弱怠惰ですぐに逃げ出す」といった誤った認知、自分に都合の良い、客観的な証拠に基づかない期待に基づいた決定によって犠牲はどんどん増えていった。誤った認識を改めることは難しい。人間は誰しも自分の経験や先入観、考えを大きく変えることは困難だ。そして、年齢を重ねていくと、思考がより狭くなり、そして自分の出した結論や決断に固執してしまうことになる。しかし、そのことを知っていれば大きな失敗を回避できる。

 私が見事だったと評価したいのは第一次湾岸戦争におけるアメリカの動きだ。アメリカはクウェートを占領したイラクに対して、多国籍軍を結成し(アメリカ軍が大部分を占めてはいたが)、実力でクウェートからイラク軍を撤退させた。アメリカ軍とイラク軍の戦力差を考えると、これはそこまで難しいことではなかった。この当時のジョージ・HW・ブッシュ(父)政権では、ディック・チェイニーやドナルド・ラムズフェルド、ジョン・ボルトンなどのネオコン派がこのままイラク国内に侵攻して、サダム・フセイン大統領打倒を行うように求めた。しかし、ブッシュ大統領とジェイムズ・ベイカー国務長官はイラク侵攻に反対して、それは実現しなかった。アメリカ軍の実力であればサダム・フセイン大統領を追い落とすことは可能だっただろうが、第二次湾岸戦争とその結果を見れば明らかなように、その後のアメリカによるイラク占領は大きな犠牲を伴うものとなることをブッシュとベイカーの2人は分かっていた。戦争の目的(イラクのクウェートからの追い落とし)を達成したらすぐに軍を停めるという見事な決断だった。このようなことは中々できない。

 戦争が予想通りに進むことはほぼない。最初に「戦争終結案」のようなものを作ってもその通りには行かない。そして、戦争は長引き勝者になるにしても敗者になるにしても、犠牲は予想を大きく超えるものとなる。一番良いのは戦争を始めないことであり、戦争につながる危険を平時から少しでも除去しておくことだ。

(貼り付けはじめ)

戦争を始めるのが容易くて終わらせるのが難しいのはどうしてか(Why Wars Are Easy to Start and Hard to End

-誤った認知(misperception)、サンクコスト(sunk cost)、激化(エスカレーション、escalation)、そして国際化(internationalization)、これら全てが衝突や戦闘を計画よりも長引かせることになる。

スティーヴン・M・ウォルト筆

2022年8月29日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/08/29/war-military-quagmire-russia-ukraine/

私はこれまでに何度か、国家指導者たちが危険を覚悟しながらも忘れている重要な外交政策上の考え方、例えば、力の均衡(balance of power、バランス・オブ・パウア)、ナショナリズム(nationalism)、安全保障のジレンマ(security dilemma)などについて論稿コラムを書いてきた。今週は、世界各国の指導者や外交政策アドバイザーたちが、机の上やオフィスの壁、あるいはまぶたの内側にタトゥーでも入れて、絶対に忘れないようにすべき、シンプルな意見を紹介する。それは「戦争を始めるのは終わらせるよりずっと簡単だ」というものだ。

この現象の描写はあらゆる場所にある。ジェフリー・ブレイニーがその古典的著書『戦争の原因(The Causes of War)』で述べているように、過去の紛争の多くは「来るべき将来の戦争への夢と妄想」、特に「戦争は素早く、安く、決定的な勝利をもたらす」という信念によって促されてきた。例えば1792年、オーストリア・ハンガリー、プロイセン、フランスの3か国の軍隊は、12回の戦闘で戦争が解決すると信じて戦場に駆けつけた。フランスの急進派は、自分たちが最近起こした革命がすぐに他国に広がると考え、相手国の君主国は、革命軍は無能な集団であり、自分たちの誇る職業軍人たちなら簡単に一掃できると考えていた。しかし、その結果は四半世紀に及ぶ戦争が繰り返され、全ての大国が巻き込まれ、戦争が世界中に拡大していった。

同様に、1914年8月、ヨーロッパ諸国では、クリスマスまでに兵士たちは帰ってくると言って出征したが、クリスマスに帰ってくることができたのは、1918年のことであることを知らずに兵士たちは出征した。イラクの指導者サダム・フセインは、1980年に同じような錯覚に陥った。1979年の革命によって、イランはイラクの攻撃に対して脆弱になったと考えた。その結果、戦争は8年続き、両国は何十万人もの死者と莫大な経済的損害を被った後、停戦した。

軍事作戦が大成功を収めても、すぐに勝利に結びつかず、泥沼にはまることがよくある。1967年の「六日間戦争(Six-Day War)」は1週間足らずで終わったが、イスラエルとその近隣諸国との間の根本的な政治問題は何一つ解決されず、よりコストのかかる「消耗戦(War of Attrition)」(1969-1970年)と1973年の「十月戦争(the October War)」の舞台となっただけである。1982年のイスラエルのレバノン侵攻は軍事的にはほぼ成功したが、その結果、レバノン南部の占領は18年間続き、何百人もの命を奪い、ヒズボラの創設につながり、更に費用のかかるいくつかの衝突の下地を作った。1991年の「砂漠の嵐作戦(Operation Desert Storm)」より成功した軍事作戦を見つけるのは難しいだろう。しかし、サダム・フセインはクウェートから彼の軍隊を追放した後も権力にしがみつき、アメリカは更に10年間、イラク上空の飛行禁止区域をパトロールし、時折空爆を行うことになった。

2001年のアフガニスタンと2003年のイラクにおけるアメリカの最初の成功は、全く幻想であったことが証明された。ジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)がイラク侵攻後2カ月足らずで空母の上で早々と宣言した「ミッション・アコンプリッシュト(Mission Accomplished)」どころか、いずれのケースでも、驚くほど回復力があり有力な反乱軍との戦いで、コストがかかり、結局は失敗した。サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン王太子は、イエメンのフーシ派に対する無謀な戦争を始める前に、この経験を熟考すべきだった。

ロシアのウラジミール・プーティンは、勝利が手早く簡単に訪れると信じて戦争を始めた最新の世界的指導者だ。ウクライナ戦争の最終的な起源と責任について誰がどう考えるにせよ、ロシアが戦争を始めたことに疑問の余地はない。プーティンは、ロシアの強みを誇張し、ウクライナの決意を過小評価し、第三者がどう反応するかを計算ミスしたため、あるいはその3つの組み合わせのため、当初の戦争目的は達成に時間がかからず、費用もそれほどかからないと信じていたようである。プーティンは今、他の多くの世界の指導者が発見したのと同じ痛みを伴う教訓を学んでいる。戦争を始めることは、戦争を終わらせることよりもはるかに簡単なのだ。

しかし、なぜ、戦争を始めた人々の予想通りに、容易に停止させることができる短期決戦の戦争がほとんどないのだろうか? 戦争が常に不確実であること、戦前の予測にしばしば誤りがあること、戦闘がしばしば意図しない結果を生み、戦前の計算が無意味になることを認識するだけでは十分ではない。戦争を考えている指導者が評価すべきは、戦争が予想以上に大きくなり、費用がかさみ、長引かせる強力な傾向があるということだ。

第一に、相手がどれほど激しく抵抗するか事前に知ることは不可能であり、攻撃を考えている指導者はそれを過小評価する可能性が高い。ナショナリズムの力を理解していないことがその一因であり、自国があらゆる潜在的な敵に対して生来的に優れていると考える傾向があるので、侵略者たちは相手の抵抗力を軽視してしまう。相手がより強く、より団結しており、より結果を重視していることを認識していれば、誰も戦争を始めない。驚くべきは、戦争を始める国家がいかに頻繁にこの点を見誤るかということである。

第二に、戦争が始まると、サンクコスト(埋没費用 訳者註:既に投資した事業から撤退しても回収できないコスト)の問題が必ず発生する。敵対国が損失を被ると、その指導者は既に払われた犠牲を正当化するために十分な利益を得ようとする。愛する者を失った家族は、その犠牲が無駄であったとは言われたくないことだろう。軍の指揮官たちは、戦争の危険性を警告したり、最初の決断にあらかじめ反対したりしていたかもしれないが、敗戦の責任を負いたくないし、勝利をもたらすあらゆる機会を求めていくだろう。サンクコストが現在の政策を決定するのは非合理的かもしれないが、それが起こらないということではない。また、サンクコストを回収したいという欲求は、それぞれの側の戦争目的を拡大させ、増大する損失に見合った利益を得ようとする。

第三に、戦争が続くのは、戦うという行為そのものが、それぞれの側の相手に対するイメージを硬化させるからである。戦争が始まった時、当事国がいかに疑いや敵意を抱いていたとしても、それぞれが相手に死や破壊や苦しみを与えれば与えるほど、憎しみや疑いの感情は増すばかりだ。このような状況下では、復讐心を抱くのは当然であり、その結果、より軽蔑され嫌われる敵に対して決定的な勝利を収めたいという欲求が高まる。

第四に、敵のイメージが固まるにつれて、交渉能力が低下する。国交が断絶され、直接の意思疎通が難しくなり、妥協(compromise)の可能性を口にする者は、裏切り者(traitor)、あるいはそれ以上として糾弾される可能性がある。たとえ交渉が始まったとしても、どちらの側も相手を十分に信頼して取引を行うことはできないだろう。和平交渉は通常、深刻な関与(commitment)問題(「相手が再軍備して平和条約を破棄し、再び攻めてこないことをどうやって確認できるか」)に直面し、その障害は、双方の相手に対するイメージが悪化すればするほど顕著になるだろう。

例えばウクライナの場合、ヴォロディミール・ゼレンスキー政権にはプーティンやその関係者を信用できない理由が十分にあり、現時点ではプーティンやそのアドバイザーたちを誰も信用していない。残念ながら、ジュネーブのロシア国連大使、ゲンナジー・ガチロフが先週述べた、「"紛争が長引けば長引くほど、外交的解決は難しくなる」という言葉は、おそらく正しいのだろう。

第五に、戦争はエスカレートし、拡大する強力な傾向も持っている。一方が敗れれば、より多くの武力を行使し、より危険な新しい標的を攻撃し、他の方法で利害関係を高めることを考えるかもしれない。クリミアでの爆発、ザポリージャ原子力発電所の危険な状況、モスクワでの親プーティン派論客の自動車爆弾テロは、これらの行動の最終責任が誰にあるかにかかわらず、この過程がいかに機能しうるかを如実に示している。

また、NATOがウクライナに対して行ったように、戦争が始まると、外部が一方を支援するために飛び込んできたり、他が混乱している間に自分たちが利益を得ようとするために戦争が拡大したりする。シリアの内戦はその典型である。シリア国内の反乱として始まった戦争は、最終的にロシア、トルコ、イラン、サウジアラビア、アメリカ、イスラエル、その他多くの国々による直接的または間接的な軍事介入を引き起こした。残念ながら、紛争に関与する国の数が増えれば増えるほど、全ての国の合意を得ることは難しくなる。

戦争を長引かせる第六の問題は、情報の質の低下である。ハイラム・ジョンソン元連邦上院議員の言葉にもあるように、「戦争が起きたら最初に犠牲になるのは真実である」ということになる。戦争状態にある国は、できるだけ冷静かつ明確に考え、行動すべきであるが、戦時下においてはそれが困難となる。

世界各国の政府は、良いニューズを大々的に宣伝し、後退を隠し、敵の悪意を常に国民に思い起こさせることによって、国民の士気を維持しようとする強力な動機付けを持っている。また、検閲(censorship)を行い、異論を唱える者を弾圧・排除し、戦場で実際に何が起きているのか、内部の人間でさえも正確に把握することが難しくなっている。独裁国家には国民が知るべきことをコントロールする方法がたくさんあるが、この問題は民主政治体制国家でもほとんど知られていない。メディア組織はしばしば愛国的熱狂や政府の意図的な操作に屈することがある。

戦争当事国のエリートも国民も、戦争が自分たちの側に有利に進んでいると信じていれば、戦争を終結させようという圧力はあまりかからないだろう。もちろん、全ての人が正しい訳ではないが、本当の状況が広く理解されるには、長い時間がかかるかもしれない。1917年にイギリスのロイド・ジョージ首相が言ったように、「もし人々が戦場の状況を本当に知っていたら、戦争は明日にでも止められるだろう。しかし、もちろん彼らは知らないし、知ることもできない」ということとになる。

戦争を始めた人々には、自分たちが勝利と言える何かを達成する前に戦争を終わらせようという意欲がほとんどない。故フレッド・C・イクレ(彼はハト派ではなかった)は、その魅力的な著書『全ての戦争は終わらせねばならない(Every War Must End)』の中で、戦争を終結させるにはしばしば新しい指導者を迎え入れることが必要だと指摘している。それは、戦争に進むことを選択した人々は、しばしば自分たちの誤りを認めたがらなかったり、認めることができなかったりするからだ。このことは残念なニューズだ。

もちろん、全ての戦争は最終的に終結する。しかし、犠牲が利益をはるかに上回る場合、それは冷たい慰めにしかならない。この教訓は十分に明確である。戦争は時に必要かもしれないが、最も不本意なものであり、切実な必要性の下にのみ行われるべきだ。このような決定を下す立場にある人々は、戦争が予想や制御が困難な強力な政治的、社会的な力を解き放つことを決して忘れてはならない。ひとたび戦争の犬(the dogs of war)(訳者註:戦争の惨禍)

を解き放てば、誰が噛まれることになるかは分からない。しかし、皆さんが考えているよりずっと長く、ずっと多くの費用がかかることは間違いない。

※スティーヴン・M・ウォルト:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。

(貼り付け終わり)
(終わり)

bigtech5shawokaitaiseyo501
ビッグテック5社を解体せよ

akumanocybersensouwobidenseikengahajimeru001

 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
20211129sankeiad505

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 古村治彦です。

 今回は第二次世界大戦と冷戦を比較し、戦後処理の成功と失敗の対照が現在の状況を生み出したという興味深い分析記事をご紹介する。第二次世界大戦は連合国(アメリカ、イギリス、ソ連、中国など)と枢軸国(日本、ドイツ、イタリアなど)の間で戦われ、枢軸国側が敗れた。ドイツと日本はアメリカ軍によって物理的な占領を受けたが、その後、ドイツと日本はアメリカにとっての重要な同盟国となった。第二次世界大戦戦後処理は、第一次世界大戦の戦後処理の失敗が第二次世界大戦を導いたという反省の下、抑制的だったと著者のハーシュは分析している。

 冷戦は第二次世界大戦終結後、世界が東側(ソヴィエト連邦が主導)と西側(アメリカが主導)に分かれて争ったものだ。大規模な戦争としては朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、アフガニスタン戦争などがあり、最終的にはソヴィエト連邦が崩壊し、西側の勝利となった。西側の勝利の「高揚感」はすさまじく、東側に一気に自由化、民営化、法の支配、民主政治体制を押し付けた。「資本主義と民主政治体制が最終的に勝利し、歴史の終わりとなった」ということで、東側諸国に対して侮蔑的な扱いで、改革を押し付けることになったとハーシュは分析している。それがロシア、そしてプーティンの屈辱感を醸成し、大ロシアの復活を目指し、今回のウクライナ侵攻を導き出したというハーシュの分析である。

 第二次世界大戦と冷戦を比較対象とするというのは粗雑の印象は免れないが、「戦後処理」という点で、「買った方の負けた方に対する態度」で次の結果が導き出されるというのは興味深い分析である。「歴史の終わり」の高揚感と共に、アメリカは世界中に資本主義とデモクラシーに過剰な自信をもって押し付けて回るようになった。その理論的勢力がネオコン(共和党)であり、人道的介入主義派(民主党)だ。詳しくは拙著『アメリカ政治の秘密』『悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める』をお読みいただきたい。
 ネオコンや人道的介入主義派がアメリカの外交政策を主導する時代が2000年代から続いた。その間に起こったことは中露との対立構造だった。これらの国々と共存し、もしくは共同して世界管理を行うということができず、対立を激化させる方向で進んでいったことが現在の状況を生み出したとも言えるだろう。アメリカの危険な理想主義(「世界すべての国々を民主政治体制で資本主義体制にする、そうすれば戦争は起きない」)が世界を壊したということも言えるだろう。

(貼り付けはじめ)

先の大戦争が今回の大戦を引き起こしたかもしれない理由(Why the Last War May Have Triggered This One

-第二次世界大戦後、日本とドイツはアメリカの堅固な同盟国となった。冷戦が同様の方法で終わらなかったのは何故か?

マイケル・ハーシュ筆

2022年2月25日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/02/25/russia-ukraine-invasion-nato-allies-cold-war/

第二次世界大戦後、アメリカはドイツと日本という2つの強力な侵略国家を永続的かつ平和的な同盟国に変えることに成功した。しかし、冷戦後、アメリカは、ウラジミール・プーティン大統領のウクライナ侵攻に代表されるように、ロシアを永続的かつ苛烈な敵対国に変貌させる一連の政策を採用した。

プーティンの侵略にどう対処するか、西側諸国が頭を悩ます中、なぜこの2つの戦争(第二次世界大戦と冷戦)が正反対の結末を迎えたかを検証することは価値があるかもしれない。

確かに、2つの大戦争の間には大きな違いがあった。第二次世界大戦末期、フランクリン・ルーズヴェルトとハリー・トルーマン両大統領は、無条件降伏と占領政策を採用し、ドイツと日本の軍国主義者を完全に駆逐し、両国を根底から変革させた。その過程で多くの失敗があったが、ワシントンのアプローチは、ほとんどの場合、寛容で、政治的、文化的な相違に敏感であった。

冷戦終結後、アメリカ軍もしくは欧米の同盟諸国軍による旧ソ連への物理的な占領は行われなかった。その代わり、一種の心理的な占領が行われた。「歴史の終わり」が目前に迫っており、民主政治体制資本主義が唯一の道であるという考えに熱狂した西側諸国は、勝利の感覚を持ちながらロシアにアプローチした。経済と政治の2つの側面から、西側諸国は一連の傲慢な政策を追求し、ロシアの支配層の間に深い不信感を抱かせ、プーティンの権力獲得と大ロシアの復活を目指す彼の基盤を作ったのである。

経済面で見ると、アメリカ政府当局は、法の支配と新しい制度を欠いた旧共産主義帝国ロシアが、民主政治体制資本主義への迅速な転換の準備ができていない可能性があることを認識し損ねた。ハーヴァード国際開発研究所や国際通貨基金の自由市場担当コンサルタントたちは、旧共産圏の生産システムの急速な民営化、いわゆるショック療法(shock therapy)を推し進めた。しかし、民営化は、ロシア人が苦いユーモアとともにプリフバティザツィヤ(prikhvatizatsiya)、すなわち「グラブ化(grabification)」と呼ぶ、党の幹部からオリガルヒに転じた者による旧国有企業の不公平な接収に急速に堕落していったのである。

その結果、ロシアから大量の資本逃避(capital flight)が起こった。そして、超富裕層のオリガルヒが、現在もロシアの後進国経済(underdeveloped economy)を支配している。世界銀行(World Bank)の元チーフエコノミスト、ジョセフ・スティグリッツは、「市場経済が発展するための制度的社会資本(インフラ)に十分な注意を払わず、ロシアの内外への資本の流れを緩和することによって、国際通貨基金(IMF)とアメリカ財務省はオリガルヒによる略奪の基礎を作ってしまった」と書いている。プーティンが最初に権力を握ったのは、当然ながら、オリガルヒの支配を糾弾するためだった。

政治の世界で見ると、傲慢さと強引さが支配的であった。ソ連の崩壊が始まると、当時のジョージ・HW・ブッシュ米大統領らは当初、核拡散(nuclear proliferation)を懸念して旧ソ連の解体に慎重な姿勢を示していた。1991年8月、ウクライナで行った演説では、ソ連からの脱退を問う国民投票を目前に控え、「自殺的ナショナリズム(suicidal nationalism)」の出現を戒めた。『ニューヨーク・タイムズ』紙のコラムニスト、ウィリアム・サファイアは、ブッシュの発言を「チキン・キエフ(Chicken Kiev)」演説と揶揄した。ブッシュの後継者であるビル・クリントン、そしてジョージ・W・ブッシュ、バラク・オバマの歴代の米国大統領の下でアメリカは方針を転換し、旧ソ連圏の全ての国を受け入れるためにNATOを積極的に拡大することを推し進めるようになった。ポーランド、ハンガリー、チェコ共和国から始まり、エストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト三国、ブルガリア、ルーマニア、スロヴァキア、スロヴェニアと続いた。

NATOは2008年のブカレスト首脳会議で、ウクライナとグルジアをいずれ同盟に招き入れると約束し、さらに前進した。ジョージ・W・ブッシュは両国にNATO加盟への第一歩である加盟行動計画を直ちに提示しようとしたが、ドイツとフランスはロシアとの対立を懸念して慎重姿勢を取った。

同時にワシントンは、2014年に録音された恥ずべき会話から、当時のヴィクトリア・ヌーランド国務次官補(その後、ジョー・バイデン米大統領の国務次官に昇進)がウクライナ国内での欧米式の政府樹立に従事していることが明らかになったように、ウクライナの政治操作に露骨に取り組み始めた。アメリカ政府関係者は、核武装したロシアを三流の大国(third-rate power)、あるいは2014年にプーティンのクリミア併合への軽率な対応を問われたオバマが言ったように、単なる「地域大国(regional power)」と見下すようになった。

こうした態度は、クレムリンの傷ついたプライドを更に傷つけ、モスクワの長期にわたる反発を促しただけだった。プーティンは旧ソ連圏の領土を少しずつ取り戻し始め、ウクライナの国家独立と領土の一体性に疑問を呈した。グルジアの部分占領と、その離脱地域であるアブハジアと南オセチアのモスクワによる承認は、2014年のクリミア併合、ドンバスの乗っ取り、そして先週プーティンが承認したウクライナのロシア支配の分離主義地域、ルハンスクとドネツクへの前兆に過ぎなかったのである。

冷戦の終結の仕方は、第二次世界大戦よりも第一次世界大戦の失敗に似ているところがある。1918年にベルリンが降伏した後、傲慢で復讐心に満ちたヴェルサイユ条約について、経済学者のジョン・メイナード・ケインズがドイツを貧困と隷属に陥れると正確に予言し、ヨーロッパ最大の国家の国内に怒りの渦を起こし、独裁者アドルフ・ヒトラーを誕生させるに至ったのだ。ケインズは著書『平和の経済的帰結』の中で、「人間はいつも静かに死んでいくわけではない」と不吉なことを書いている。プーティンの出現を完全に西洋のせいにすることはできないが、彼は民族主義的な憤りの産物であることも確かである。プーティンは、事実上、冷戦の終結を蒸し返そうとしているのであり、彼とロシアのエリートたちは、冷戦終結後のロシアに対する扱いは不当であったと考えている。それは、ヒトラーがヴェルサイユ宮殿を再訪する際に、最も暴力的で欺瞞的な方法でドイツを再武装させ、史上最悪の戦争を引き起こしたことと似ている。

インド外務省のソ連デスクでキャリアをスタートさせた元インド上級外交官ゴータム・マコパダヤは次のように語った。「プーティンは、世界がロシアを“過去の人(has-been)”と見下した30年余りの間、この不満と恨みを抱き続け、その間にロシアの復活を目論んできたと私は考える。プーティンに関する限り、西側諸国はロシアを戦略的敵対国(strategic adversary)と見なすという最低限の敬意さえ払ってこなかったのだ」。

繰り返しになるが、第二次世界大戦は対照的だ。連合国軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers)ダグラス・マッカーサー大将が、戦時中の日本の天皇である裕仁天皇(昭和天皇)を皇位に留まらせることを決定したことが、最も顕著な例であろう。もちろん、ナチスと日本の軍国主義者の指導者たちが戦争犯罪裁判を通じて粛清されたことも手伝って、ほとんどの不満は驚くべき程度に処理された。最大の違いは、ドイツも日本も戦争で壊滅的な打撃を受けたため、社会の大きな変化を受け入れることができたことだろう。しかし、ヨーロッパの復興を支援したマーシャル・プランのような一連の賢明な政策が、数十年にわたる友好関係を生み出した。占領下での慢心や傲慢さを徹底的に回避した結果、戦後初のドイツ首相であるコンラート・アデナウアーや、日本国憲法に「戦争放棄(total renunciation of war)」を盛り込むことを提案した日本の幣原喜重郎首相など、アメリカと親和性の高い指導者が誕生した。

当時、アメリカの指導者たちは、第一次世界大戦後の過ちを避けようと懸命に努力していた。何故なら、第一次世界大戦の戦後処理の過ちから第二次世界大戦が直接的に生まれたことを、その時点で理解していたからである。1941年、ルーズヴェルトは「1920年代の戦後の世界のように、ヒトラー主義(Hitlerism)の種を再び植え付け、成長させるような世界を受け入れることはできない」と述べた。

今後の問題は、バイデン大統領をはじめとする西側諸国の指導者たちが、最後の大戦争から派生した最新の戦争を終わらせるための公平な方法を見出すことができるかどうかである。

(貼り付けはじめ)

(終わり)

bigtech5shawokaitaiseyo501
ビッグテック5社を解体せよ

akumanocybersensouwobidenseikengahajimeru001

 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
20211129sankeiad505

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 古村治彦です。

 今回のウクライナ情勢では、日頃リベラルで人命尊重、人権尊重を主張してきた人々が、一気に戦争賛美者・戦争屋(warmongers)になり、単純極まる好戦主義者(hotheads)になってしまっている。「ロシアが悪い」から「暴露膺懲(暴戻露西亜を膺懲せよ・戦時中の「暴戻支那を膺懲す」という言葉から取った)」へ激昂し、「アメリカはアメリカ軍をウクライナに送れ」と言い出すほどだ。勧善懲悪の出来の悪い三流ドラマを見ている感覚なのだろう。

 アメリカ国内の言論では、対ロシア、対中戦争を同時に戦う、二正面作戦を展開すべきだという主張、二正面戦争問題(two-front-war problem)に関する主張も出てきている。それをやれば第三次世界大戦だ。アメリカ兵がロシア兵と中国兵と直接戦うことになれば、それはもう誰にも止められない状況になり、最終的には核兵器使用まで行きつくということになる。それでも良いということならば、それを主張すればよい。しかし、私は反対だ。そんな過度に単純なことでは、現在の複雑に絡み合った世界を維持管理、運営することはできない。

 幸いなことに、アメリカ政府、バイデン政権は第三次世界大戦を引き起こすという考えはないようだ。第一次世界大戦、第二次世界大戦で悲惨な戦いと占領の舞台となったヨーロッパ諸国もそんなことは望んでいないだろう。それぞれの国内にはもちろん跳ね上がりの、バカ右翼みたいな連中はいるだろうが。しかし、状況の推移次第では手遅れということにもなりかねない。各国の指導層は常に慎重に鈍重に動かねばならない。しかし、庶民の激昂ぶりを思うにつけ、メディアの言いなりになって、突然勇ましくなって戦争に突入していくというのはこういうことだったんだなということを体験できるのは、何とも興味深い体験だ。

 NATO(北大西洋条約機構、1949年署名成立)の創設の経緯を考えれば、冷戦終結後に快勝すべきだったと私は考える。ソ連と対峙するため、ソ連を仮想敵として集団的自衛のためにできた組織だ。冷戦後にロシアは力を失ったが、NATO自体は東側に拡大していった。1955年にNATOに対抗するために、ソ連はワルシャワ条約機構を作った。しかし、その加盟国がNATOに加盟していった。それはロシアを圧迫することであった。それが結果的に正しいことだったのかということも検証されねばならない。

 アメリカはソ連、そしてロシアが「不安感」と「被害者意識」で対外政策を実行するということは第二次世界大戦直後から分かっていたはずだ。それを追い込むだけ追い込んで、中国とどんどん緊密に手を組むような方向に進めていった。ヘンリー・キッシンジャーの中露離間策としての米中国交正常化のようなことができる人物がアメリカにいなかったのは、アメリカと世界にとって不幸なことだった。単純なネオコン・人道的介入主義的思考がアメリカと西側世界を支配したことが不幸の始まりだった。

 アメリカの現在の国力で二正面戦争を戦うことは不可能だ。しかし、それを志向する勢力がアメリカ国内におり、対外政策のイニシアティヴをとるようなことになれば、世界はもっと危険な場所になっていく。

(貼り付けはじめ)

ワシントンはロシアと中国両方との戦争に備えなければならない(Washington Must Prepare for War With Both Russia and China

―アジアに軸足を置き、ヨーロッパを忘れるという選択肢はありえない。

マシュー・クローニグ筆

2022年2月18日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2022/02/18/us-russia-china-war-nato-quadrilateral-security-dialogue/

ロシアが第二次世界大戦以降で、最大規模のヨーロッパ地域における陸上での侵攻を予告する中、21世紀で最も重大な戦略的問題が明らかになりつつある。その問題とは、アメリカは、修正主義的(revisionist)で独裁的(autocratic)、核武装した(nuclear-armed)大国であるロシアと中国をいかにして同時に管理できるのか、ということだ。多くの政治家や防衛分野の専門家たちは、その答えを、ワシントンはヨーロッパにおけるロシアへの対応を控えめにして、インド太平洋における中国がもたらすより大きな脅威に焦点を当てるべきだ、と主張している。

この答えは間違いであることが後に分かるだろう。

アメリカは依然として世界規模での利益を有する世界を主導する超大国であるが、ヨーロッパとインド太平洋のどちらかを選択する余裕はない。その代わりに、ワシントンとその同盟諸国は、ロシアと中国を抑止し、必要であれば同時に打ち負かすことのできる防衛戦略を生み出すべきである。

ここ数週間、バイデン大統領は、NATOの東側の前線を強化するために数千人の米軍を派遣しているが、これには十分な理由がある。ウクライナで大規模な戦争が起きれば、国境を越えてロシア、ベラルーシ、ウクライナと国境を接するNATOの7つの同盟国に脅威を与えかねない。さらに、もしプーティン大統領がウクライナで成功したら、そこでとどまるだろうと楽観的に考えられるだろうか?

プーティンは旧ロシア帝国の復活に明確な関心を持っていることを表明している。ポーランド、ルーマニア、バルト諸国など、脆弱な東欧諸国が次のターゲットとなる可能性がある。ロシアがNATOの同盟諸国の領土に侵入することに成功すれば、西側同盟の終焉を意味し、アメリカの安全保障上の関与が世界的に信用されなくなる可能性がある。

中国による脅威も深刻である。元米国インド太平洋軍司令官フィリップ・デビッドソン提督は、中国が今後6年以内に台湾に侵攻する可能性があると予測している。これは米国が負けるかもしれない戦争である。もし中国が台湾を手に入れることに成功すれば、アメリカが主導するアジアの秩序を崩壊させることになる。世界的にも同じことが起きるようになるのである。

更に言えば、ロシアと中国の連携も進んでいる。今月のロシアのウラジミール・プーティン大統領と中国の習近平国家主席の首脳会談が示すように、モスクワと北京は軍事面を含め、より緊密な戦略的パートナーシップ(協力関係)を築きつつある。これらの独裁者たちは、アメリカの同盟構造に対する二重の攻撃を調整したり、相手の攻撃によってもたらされる気晴らしを日和見的に利用したりすることが可能である。つまり、ヨーロッパとインド太平洋の両方で、諸大国による戦争が同時に発生する深刻なリスクが存在するのだ。

この問題に対処するために、多くの人々がただ単にうまくいかない答えを提案している。バイデン政権は当初、ロシアとの関係を「安定的かつ予測可能な(stable and predictable)」ものにし、中国に集中することを望んでいた。プーティンは別の考えを持ち、現在、世界がウクライナで見ているように、その考えは変わってしまった。残念ながら、ワシントンは自国に敵対する国々がどのように侵略を続けるかを解決することはできない。

また、ワシントンが中露間を引き離す、あるいはロシアと連携して中国に対抗することを期待する人々もいるが、これらは現実的な解決策ではない。

しかし、最近最も受け入れられているのは、ワシントンはヨーロッパよりもインド太平洋を選ぶべきだという見当違いの意見である。政治家や専門家たちの中には、アメリカにはロシアと中国の両方に対抗するための資源が不足していると主張する人々がいる。こうした人々は、中国のパワーとアジアの富を強調し、アジアを優先すべきであると主張している。ワシントンがアジアに軸足を移す(Washington pivots to Asia)一方で、ドイツなどヨーロッパ地域内の豊かな国々は、NATOの防衛のために力を貸すべきだというのだ。実際、ウクライナ危機のために策定が遅れているバイデン政権の国家防衛戦略(National Defense Strategy)は、二正面戦争問題(two-front-war problem)への明確な解決策を提示しないまま、中国に焦点を当てたものになると予想される。

しかし、優れた戦略は明確な目標から始まるものであり、ワシントンの目標はヨーロッパとアジア両方の平和と安定を維持すること(to maintain peace and stability)である。ヨーロッパにおけるアメリカの利益は、プーティンとアメリカのヨーロッパにおける同盟諸国との間だけで解決させるには、あまりにも重要である。実際、アメリカの最大の貿易・投資パートナーはアジアではなくヨーロッパ連合であり、この不均衡は(米国が経済的デカップリングを目指す)中国を除けば、より顕著になる。

更に言えば、中国はヨーロッパや中東で軍事演習を行っている。中国に軍事的に対抗するということは、アジアだけでなく、世界規模で対抗するということである。また、習近平はアメリカの決意を測っており、ウクライナでの対応が弱ければ、中国が台湾に進出する可能性が高くなる。

加えて、アメリカはフランスとは異なり、資源の制約から国家の安全保障について苛酷な戦略的選択を迫られることもない。要するに、アメリカの大国のライヴァルである中露のうち、1つにしか対処できない防衛戦略を発表すること(今度の国家防衛戦略に期待されていることだが)は、失敗のための計画となるのだ。

その代わり、アメリカと同盟諸国は、ロシアと中国の両方を抑止し、必要であれば、同じ時間枠の中で同時に打ち負かすことができる防衛戦略を設計しなければならない。バイデンの防衛戦略の発表が一時停止されたことは、初心に帰ってこれを正しく理解する機会を提供するものとなる。

確かに、中露を同時に打ち負かす戦略の策定は困難だが、不可能を可能とする(square the circle)ための方法はいくつもある。

第一に、ワシントンは国防費を増加させることだ。資源の制約から厳しい選択を迫られると主張する人々とは反対に、アメリカはロシアと中国よりも支出を大きくする余裕がある。アメリカは世界のGDPの24%を占めているのに対し、中国とロシアは合計して19%である。今年の国防費は、ロシアと中国が合計で3100億ドルに過ぎないのに対して、米国は7780億ドルを支出する予定である。

更に言えば、アメリカは国防費を倍増(現在GDPの2.8%を占めている)させても、冷戦時代の平均(GDPの約7%)を下回る可能性がある。実際、この新しい冷戦が前回の冷戦と同様に危険であることを考えると、21世紀の新たな防衛技術に焦点を当てた有意義な国防費の増額が必要である。

中国の台頭により、アメリカが経済的に優位に立てる時代は終わったと言う人もいるかもしれない。しかし、経済成長とともに中国内部の機能不全が姿を現している。習近平のような独裁者は、経済的パフォーマンスよりも政治的統制を優先する。

習近平は、民間セクターを取り締まり、自由化改革を後退させることで中国の成長モデルを損ないつつある。習近平の攻撃的な外交は国際経済関係を動揺させている。その結果、中国の経済は停滞しつつある。ロシアの長期的な経済見通しはさらに悪いものとなっている。つまり、この新しい戦略的競争が2対1の軍拡競争になったとしても、ワシントンが勝つ可能性が高いのである。

加えて、アメリカはヨーロッパとインド太平洋の同盟諸国を積極的に主導し、自由世界の防衛戦略を構築することができる。米国とその正式な条約加盟国は世界のGDPの60%近くを占めており、これらを合わせれば、中国とロシアに対して有利な軍事力バランスを維持するための資源を容易に集めることができる。ヨーロッパのNATOやアジアの二国間同盟のような既存の公式同盟は、日米豪印4カ国戦略対話(Quadrilateral Security Dialogue)のような新しい取り決めを使って補完することができる。

しかし、アメリカがヨーロッパから撤退すると脅せば、同盟諸国は自国の防衛のために更なる措置を講じる必要に迫られるが、は自力でそれを行うことはできないだろう。むしろ、アメリカが積極的に主導し、アメリカが同盟諸国に防衛を提供するモデルから、同盟諸国の自衛に貢献するモデルへと移行すべきなのだ。そのためには、主要な同盟諸国をアメリカの軍事計画に組み込み、責任を分担し、兵器開発と取得のための合理的な分業(rational division of labor)を考案することが含まれる。

ヨーロッパの同盟諸国は洗車と大砲に投資し、アジアの同盟諸国は海上機雷、ハープーン・ミサイル、潜水艦を購入する必要がある。アメリカ陸軍はヨーロッパを優先し、アメリカ海軍はインド太平洋を担当し、より増強されたアメリカ空軍は両地域で重要な役割を果たすべきである。さらに、アメリカは核の傘(nuclear umbrella)のような戦略的能力、超音速ミサイルを含む世界規模で展開する通常攻撃能力(conventional strike capablities)、および情報重宝、監視調査、偵察能力を提供すべきである。

最後に、必要であれば、ワシントンは常に冷戦における作戦書を参考にし、ライヴァルによる局地的な通常兵器の優位性を相殺するために、核兵器により大きく依存することができるだろう。ヨーロッパにおけるアメリカの戦術核兵器(tactical nuclear weapons)の存在は、数十年にわたって巨大なソ連赤軍(Soviet Red Army)を抑止するのに役立った。同様に、アメリカは、中国の台湾への海と空からの侵攻やロシアのヨーロッパに対する戦車を使った侵攻を抑止するための最後の手段として、脅威的な非戦略的核攻撃に依存することができる。

確かに、核抑止力(nuclear deterrence)にはリスクがあるが、核兵器は4分の3世紀(75年間)にわたってアメリカの防衛戦略の根幹を構成する役割を果たしてきた。

中国とロシアを同時に抑止することは容易ではない。しかし、ワシントンが大国としてのライヴァル国であるロシアと中国、どちらかに対処しているふりをするよりはましだ。幸いなことに、フランクリン・ルーズヴェルト元アメリカ大統領は、第二次世界大戦中、一つの戦域での勝利だけを選択しなかった。バイデンは彼を手本に、ヨーロッパとインド太平洋における米国の利益を同時に守る計画を立てるべきだ。

(貼り付け終わり)

(終わり)

bigtech5shawokaitaiseyo501
ビッグテック5社を解体せよ

akumanocybersensouwobidenseikengahajimeru001

 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める
20211129sankeiad505

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ