古村治彦(ふるむらはるひこ)の政治情報紹介・分析ブログ

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タグ:黒澤明

 古村治彦です。

 日本映画と言えば、黒澤明と三船敏郎の名前を外すことはできない。そして、「七人の侍」と「羅生門」は日本だけではなく、全世界で今でも高い評価を受けている。私事で恐縮だが、私が留学した南カリフォルニア大学の映画学科は、ハリウッドに近いという土地柄もあって、全米でも1、2の評価を植えていた。何よりジョージ・ルーカスが卒業生で、スティーヴン・スピルバーグは入学できなかったということも、自慢と笑い話の種だった。そのスピールバーグは後に南カリフォルニア大学に寄付をして、彼の名前の付いた建物がキャンパス内に存在する。その映画学科の壁だったかに、これまでの世界の名作映画のシーンが壁画写真のように貼られていて、その中に、「七人の侍」のシーンもあった。また、留学時代には、複数の教授に「君は『羅生門』を見ましたか?」と言われ、「いいえ」と答えると、「日本の映画でしょう、見なくてはいけませんよ。あれは社会科学を学ぶ人間にとって重要ですから」と異口同音に言われた。後に、1つの出来事について、複数の人がこれが真実だと話す内容に矛盾が生じる現象のことを、「羅生門効果(Rashomon effect)」と呼ぶということを知った。黒澤映画は偉大であり、世界の様々な映画人たちに影響を与え続けている。

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黒澤明と三船敏郎

 「七人の侍」が公開70周年を迎え、リマスター版が全米で公開されているそうだ。下の論稿は外交専門誌『フォーリン・ポリシー』誌に掲載されたものだ。フォーリン・ポリシーはたまに映画の評論を掲載することがある。このブログでも「ドライブ・マイ・カー」や「ショーグン」についての記事をご紹介したことがある。映画評論家ジョーダン・ホフマンが、如何に「七人の侍」と黒澤明監督が素晴らしいのかということを書いている。なるほど、そういうことだったのか、ということが書いてある。これを読むと、「スター・ウォーズ」は、「七人の侍」のオマージュみたいなものではないか、とさえ思ってしまう。映画に詳しい人たちからすれば当然のことかもしれないが、何かを知る、気づくというのは、各個人のタイミングがあるということで、大きな心で、ご寛恕いただければ幸いだ。

(貼り付けはじめ)

公開70年周年、『七人の侍』は何十年経った今でも鮮明だ(At 70, ‘Seven Samurai’ Is Still Sharp After All These Years

-新たにリマスターされたこの名作が、「マグニフィセント・セブン(The Magnificent Seven)」から「バグズ・ライフ(A Bug’s Life)」までの映画にどのような影響を与えたのか。

ジョーダン・ホフマン筆

2024年7月7日

『フォーリン・ポリシー』誌

https://foreignpolicy.com/2024/07/07/seven-samurai-remastered-70-kurosawa/?tpcc=recirc_latest062921

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1954年の「七人の侍」で菊千代を演じる三船敏郎

ニューヨーク大学映画学部の新入生として、私と友人数人は珍しい挨拶をした。「私たちは粥で生きている!(We live on rice gruel!)」。キャンパスの周りで会ったら別の言葉を言っていただろう。「キビでなんとかなるよ!(We’ll make do on millet!)」。

これらのやりとりは、黒澤明監督の『七人の侍(Seven Samurai)』(1954年)の初期のシーンから来ている。この映画は、ショット/リバースショット(shot reverse shot 訳者註:人物Aが(多くは画面の外にいる)人物Bを見ているカットに続いて、人物Bが人物Aを見ているカットを繋ぐ映画技法)や第四の壁(the fourth wall 訳者註:舞台と客席を分ける一線)などの映画言語(language of cinema)についての概念を初日に教えるために、やや強制的に見せられた映画だ。現在の学生たちは、歩けるようになる前から iPhone で遊んでいて、既に血の中に組み込まれている習慣となっている。「七人の侍」は文字通りの教室の課題として提示されているが、知ったかぶりの18歳の間で内輪ジョークとして流用されているのは、この世界映画のランドマークを見ることが宿題のように感じられないことの証拠だ。実際、この夏リマスターされて北米全土の映画館で、公開70周年を記念して、「信念を持った善良な男たちが勝てない戦いに直面する(good guys with a code facing an unwinnable battle)」映画を見直して、今も昔も同じように楽しいことを思い出させてくれた。

20世紀半ばに発表された、影響力を持った、いわゆる外国映画のラシュモア山(Mount Rushmore、記念碑)を彫るとしたら、「七人の侍」の三船敏郎の狂気の剣士菊千代の姿が、4つの花崗岩の顔の中に入るに違いない。イングマール・ベルイマン監督の「第七の封印(The Seventh Seal)」(1957年)のマントをまとった死神の像、フェデリコ・フェリーニ監督の自己神話化した「)」(1963年)のフェドラと鞭を持ったマルチェロ・マストロヤンニ、そして、フランソワ・トリュフォー監督の監督デビュー作「大人は判ってくれない(The 400 Blows)」(1959年)のジャン=ピエール・レオーが演じた不登校の若者たちの隣に彫られるだろう。(フランスのヌーヴェルヴァーグとしては、ジャン=リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ(Breathless)」も挙げられるが、私が「大人は判ってくれない」を選んだのは、このように全ての映画のタイトルに数字が入っているからだ)

黒澤監督は「羅生門」(1950年)の公開後、既に国際的に有目になっていたが、この時代劇は、複数の人々が暴力事件を自分たちの視点によって異なる形で思い出すという内容だったが、「七人の侍」は国内で成功を収めたと同時に、「剣!アーチェリー!馬!泥!厳しい!」世界の残りの部分を巻き込むのに十分な糸口を引き裂いた。

戦後の日本映画は当初、武士の物語の伝統を掘り下げることに消極的であり、当時、封建領主に対する盲目的な忠誠(blind loyalty to feudal lords)という概念は当然のことながらあまり人気がなかった。「七人の侍」の公開の前と後に公開された最も有名な日本映画2本は、基本的に年長者たちを失望させた現代性(modernity)を示しながら巨大な罪悪感を描いた小津安二郎監督の「東京物語(Tokyo Story)」(1953年)と、国家全体の終末的な悪夢(nation’s collective apocalyptic nightmare)でありながら、現在まで人気のシリーズになっている本多猪四郎監督の「ゴジラ(Godzilla)」(1954年)である。「七人の侍」は、1500年代後半の戦国時代(Sengoku period of civil war)を舞台にしている。この混乱の時代には、多くの武士階級に主君(masters)がいなかった。これらの男性の多くは傭兵(mercenaries)になったが、そのうちの何人か (7人) が、正義の行為のため、不可能な可能性に対して力を合わせることを決意した話を想像してみて欲しい。古典的な日本の英雄主義を再考しながら、当時の感情を認識しつつ、この映画では、お粥を持っていて、それも食べていた

この映画で描かれた波乱万丈の舞台は、当時の日本史上最も高価なものであり、それまで明確だった階級制度の境界線を曖昧にする(blurring the lines of a previously clear class system.)という副次的なテーマと同様に、急速に近代化しつつあった日本の心に響いたことは間違いない。菊の花が咲き乱れる草原で、農家の娘・志乃(津島恵子)と恋に落ちる勝四郎(木村功)や、武士階級の詐称が明らかになりながらも、戦いの中でその実力を証明する三船演じる菊千代は、古典的な映画の登場人物のように感じられるかもしれないが、新しいアイデンティティを模索する戦後の日本にとって、これらの罪はもっと深いレヴェルで響いたのである。

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「七人の侍」の映画の1シーン

「七人の侍」のストーリーは非常にシンプルで、いくつかのエネルギーに満ちたセットに分かれている。207分のこの大作 (侍1人あたり約29分) は、小さな村を略奪し、収穫物を枯渇させ、女性を誘拐する山賊によって田舎が恐怖に晒されている時代に設定されている。既に残虐な扱いを受けている村人たちは、すぐに再び標的にされることを認識しており、外部の力を借りて自分たちを守ることを決意する。しかし、彼らはどうやってお金を払うことができるのか(上記参照:「私たちはお粥で暮らしています!」)? 不思議に思うかもしれない。絶え間なく戦争のような音を響かせる水車のある水車小屋の中に住んでいる賢明な長老は、その答えを知っている。その答えとは、ただ侍を見つけるだけではなく、「腹を空かせた侍を探せ(find hungry samurai)」だった。

気弱な村の代表たちは町へ向かい、勘兵衛(志村喬)の勇気と創造的な思考を目の当たりにする。村人たちは、勘兵衛に仕事に参加するよう説得し、それから勘兵衛は仲間を集める。その中には氷のように冷たい剣士・久蔵(宮口精二)も含まれる。また、天才軍師の五郎兵衛(稲葉良雄)、熱心な、裕福な郷士出身で見習いの勝四郎、そして、やがてショーの真のスターとして浮上する、ゆるい大砲の菊千代がいた。他に2人の男がいる。1人は士気を上げる将校で、もう1人はただの勘兵衛の仲間だ)とにかく、このプロットに見覚えがあると思われるなら、それはそうだ。これは何度か西部映画に使われており、最も注目に値するのはガンマンのシーンだ。「荒野の七人(The Magnificent Seven)」「マグニフィセント セブン(The Magnificent Seven)」 (1960年と2016年)SF冒険活劇「宇宙の7人(Battle Beyond the Stars)」(1980年)、そして更に範囲を広げるならば、間抜けなコメディ「サボテン・ブラザース(Three Amigos!)」(1986年)と、ピクサーの漫画「バグズ・ライフ」(1988年)もお勧めだ。これらを超えて、非常に多くの標準的な映画の比喩がこの映画にルーツを持っている。

最も明白なのは、勘兵衛がチームを強化する映画の第一幕です。過度に知的化する(intellectualize)必要などない。彼が潜在的な仲間を見極め、テストし、アピールするのを見るのはただ楽しい。また、新たな仲間が加わったと思われる素晴らしい瞬間もあるが、当の侍は、この仕事には金も名声もないと聞いて、そのアプローチを無視する。ディズニーが東宝スタジオを買収した場合、あの男に何が起こったのかを解明する限定ストリーミングシリーズが期待できるかもしれない。とにかく、「特攻大作戦(The Dirty Dozen)」から「ブルース・ブラザーズ(The Blues Brothers)」、『ライトスタッフ(The Right Stuff)』、『オーシャンズ11(Ocean’s Eleven)』、「スクール・オブ・ロック(School of Rock)」に至るまで、全ての映画は『七人の侍』に大きく負っている。

もう一つの影響力のある展開は、村人たち(そして観客である私たち)が最初に勘兵衛に出会う様子だ。町では泥棒が子供を誘拐して建物に立てこもり、大騒ぎになっている。勘兵衛は髪を切り(武士にとっては大変なことだ)、僧侶の格好をして、一連の格闘の末にスローモーションで子供を救出して悪役を倒す。本当のミッションに到達する前に、ミニミッションを通じてヒーローを紹介することは、今では非常に一般的になっており(全てのジェームズ・ボンド映画を思い浮かべて欲しい)、それがどこかで始まったと考えるのは面白いことだ。

ニューハリウッドのいわゆる映画小僧(movie brats of New Hollywood)の多くは、黒澤監督を尊敬しているが、後にその影響力を利用して黒澤監督が大規模なプロジェクト「影武者」の資金を獲得するのを手助けしたジョージ・ルーカスほど尊敬している人はいない。他の黒澤映画とスター・ウォーズの間には、より一対一の対応関係が存在するが (最も有名なのは、1958年の「隠し砦の三悪人(The Hidden Fortress)」がオリジナルとなった R2-D2 C-3POで、コミック・リリーフ(two comic-relief)の2人の農民が王女を救う冒険に協力するというもの)、「七人の侍」には、はるか彼方の銀河に到達したものがまだたくさんある。

まず、シーン間のワイプ技術(wipe transitions)がそうだ。そして、暗闇の中で身をかがめ、切り詰められた知恵を話す賢明な長老は、「スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲」版のヨーダではないとしたら誰なのだろうか? 勝四郎と志乃のロマンスは、ハン・ソロとレイア姫の関係を逆転させたようなものだ。しかし、技術的なレヴェルでは、最終決戦のアクションの高まりを指摘することができる。爆発するデス・スターは存在しないが、複数のカメラを配置して同時に撮影した黒澤監督は、同じ戦いを様々な角度から撮影するだけでなく、いくつかの小競り合いの間もカットし、最終的にスリリングではあるが痛ましい勝利に至るまで全てを構築している。

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「七人の侍」のポスター

当時最も印象的であり、そして今でも熱いのは、「七人の侍」の最も印象的な要素である三船だ。当時の日本映画に見られた典型的な寡黙なスタイルは言うに及ばず、どの基準から見ても爆発力のある演技者である三船は、スタンリー・コワルスキーとウディ・ウッドペッカーを掛け合わせたような存在だ。ある瞬間は筋肉質で、次の瞬間は派手でルーキーでガチョウのようだ。「欲望という名の電車(A Streetcar Named Desire)」のマーロン・ブランドのように、三船は予測不可能な磁力であらゆるシーンを支配する。(そのように明言されたことはないが、『サタデー・ナイト・ライブ』でジョン・ベルーシが演じた有名なサムライのキャラクターは、基本的に三船の誇張されたヴァージョンである。)菊千代は大酒飲みで野蛮だが愚かでもあり、必要な時には、傷つきやすい人物でもある。燃え盛る建物から幼児を救出する彼のシーンは、おそらく映画全体の中で最高のものだろう。他の俳優ならこの役を単に騒々しくて迷惑な役を演じただろうが、三船はその役を官能的で魅惑的で普遍的なもの(sensuous, mesmerizing, and sui generis)に変えてしまう。 70年経った今でもこの映画について語り継がれる理由はたくさんあるが、最大の理由は彼にある。

この映画の記念日は、初の4Kへのリマスタリングと北米での重要なリリースを意味する。 (ニューヨークとロサンゼルスだけでなく、オハイオ州アクロン、ケンタッキー州パデューカ、オンタリオ州キッチナーなどの場所でも公開される。) 15分の休憩とポップコーンを買うための少しの時間を加えて、私たちは映画館での拘束時間は4時間だ。今日の集中力の持続時間は限られており、多忙なスケジュールを考えると、この映画のプログラミングは不可能な挑戦のように思えるかもしれない。たとえコストがかかっても、その呼びかけに耳を傾け、正しいことを行う準備ができている人がまだ十分にアメリカに存在していることを願っている。

※ジョーダン・ホフマン:ニューヨーク市クィーンズ在住の映画評論家・エンターテインメントジャーナリスト。

(貼り付け終わり)

(終わり)

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バイデンを操る者たちがアメリカ帝国を崩壊させる
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ビッグテック5社を解体せよ

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 悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める

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 古村治彦です。
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生きものの記録[東宝DVD名作セレクション]

 今回は、黒澤明監督の『生きものの記録』について書く。一言で言って、気が重くなる映画だ。考えさせられる、という言葉のその先の、私たちが見ないようにしていることに無理に頭を押さえつけられて見せられている、そのような感じだ。

昭和30年、1955年公開の映画で、舞台は昭和20年代後半ということになる。昭和28年、1953年にサンフランシスコ講和条約が締結され、アメリカによる日本の占領は終了し、独立を回復した。昭和29年、1954年には映画『ゴジラ』が公開された。ゴジラは水爆実験によって眠りから目覚めたという設定になっている。そうした中で作られた映画であるということを分かっていると味わいが違ってくる。

 物語は以下の通りだ。歯科を開業している原田(志村喬)はヴォランティアで家庭裁判所の調停委員を務めている。家裁には様々な揉め事が持ち込まれる。原田は、父親・夫である中島喜一(三船敏郎)に対して家族が起こした準禁治産者申し立ての裁判に関わることになった。

 家族は喜一が合理的な理由もなく、財産を処分して家族(複数の愛人や愛人との子供たちも含む)を連れてブラジルに移住しようとしているとして、財産を勝手に処分できないように準禁治産者にしてもらいたいという申し立てを行った。喜一は原水爆の恐怖から逃れるには日本を離れるしかないと強く訴える。家族は「何を馬鹿な」「妄想には付き合えない」と反発する。喜一は工場(鋳造所)を経営し、家族も一緒に働き、きちんとした収入もあり、社会的にはしっかりした存在である。この時代には社会的に成功した人物が正式な婚姻関係を結ばない別の家庭を持つことも許容されている。喜一の妻(三好栄子)は夫に従順である。息子の一郎(佐田豊)と二郎(千秋実)、娘のよし(東郷晴子)とすえ(青山京子)のうち、次女で末っ子のすえは皮肉屋であるが、父を慕っている。それ以外は父喜一を厄介者として扱っている。喜一は米ソ対立の激化から核兵器を使った戦争が起きる、そして、日本もその影響を受けるとし、「死ぬのはやむを得ん、だが殺されるのは嫌だ」と訴えている。

 喜一はブラジル移民の話を勝手に進める。仲介者を立てて、実際に日本人移民(東野英次郎)が開拓した農場を買う話を進める。その農場の様子を収めたスライドの上映会を自宅で開き、家族は喜一の本気度に唖然とし、恐慌をきたす。家庭裁判所は結局、家族の申し立てを認め、喜一を準禁治産者とした。調停委員の原田はこの決定で良かったのかと考え込んでしまう。

 そうした中で、原田は都電の中で喜一と会う。憔悴している喜一。彼は原爆の恐怖と家族への愛情から焦燥している。原田に不満を訴えるが、どうしようもない。喜一は最後、家族に対してブラジル行きを懇願して土下座までするが、拒絶される。妻と次女は父喜一の味方をするが、どうしようもない。その晩、喜一は自分の工場に放火をする。

 最後のシーンは陰鬱だ。昭和20年代の精神病院が出てくる。そこにはたくさんの患者たちが鉄格子のはめられた部屋で雑魚寝のような状態になっている。監獄や強制収容所のようだ。

 喜一は精神鑑定を受け、精神疾患ということで個室に入院している。原田は喜一の見舞いに出向く。そして、廊下で喜一の家族とすれ違う。病室で面会した喜一は明るい表情になっている。自分は地球を脱出して、安全な別の星に来たのだと考えている。そして、最後に太陽を見ながら、「地球が燃えている」と叫ぶ。最後のシーンはお妾さんが赤ん坊を抱いて廊下を進むというものだ。

 時代を考えると、米ソ対立が起き、中国での国共内戦や朝鮮半島での朝鮮戦争といった戦争が起き、「第三次世界大戦が起きるのではないか」と人々は心配していた。そうなれば、核兵器を使った戦争となるということも考えられていた。そして、日本もその影響を受けるということも考えられていた。広島、長崎の惨状も人々にとっては実感を持って迫ってきていた。

 しかし、同時に人々は「これはどうしようもないことだ」と諦めて、そんなことは考えずに日常を過ごしていた。ところが、ここに「仕方がない」とは考えずに、「何とかしよう」と考え、実際に何とかする、つまり日本から脱出するだけの財力と行動力を持つ人物がいる場合、そうした諦めに基づいた日常が大きく揺さぶられる。

 諦めに基づいて日常生活を営む人々にとっては、この映画の主人公である喜一は迷惑この上ない人物である。現実から遠く離れた妄想を自分の中で勝手に膨らませて、周囲に迷惑をかけるということになる。しかし、喜一は「狂人」なのだろうか?米ソ対立が激化する中で核兵器を使った戦争の危険が高まっているということを冷静に考えれば、「核戦争の危険が高まっている、家族を守りたい、そのために日本を脱出する」という結論に至るということは非現実的ということは言えない。しかし、周囲が自分の落ち着いた、安穏な日常生活を変えたくないということで、現実から目を背けて、喜一を「狂人」に仕立て上げてしまう。そのために喜一の家族は不幸のどん底に落ちてしまう。喜一もまた精神病院に入れられてしまうが、彼自身は幸せを感じている。「狂ってしまう」方が彼にとって幸せなのである。

 核兵器が怖いから、財産を処分して家族みんなでブラジルに移住しようと考える喜一が狂っているのか、核兵器による戦争など馬鹿げた妄想であり、よしんばそんなことが起きれば黙って殺されよう、それよりも日常生活を守ることの方が重要だ、と考える周囲の人間たちが狂っているのか、分からなくなる。

 人間は恐怖に憑(と)りつかれるととんでもないことをする。この点では喜一は恐怖心を拗(こじ)らせた人物ということになる。

 どうでも良い話だが、この映画の最初の方の家裁でのシーンでしか出てこない田宮書記役の女優さんは綺麗だなぁと感心して見ていた。宮田芳子という人で、生年月日も分からない、無名の女優さん。10年以上映画界にいて多くの映画に出ていたようだ。眉にしわを寄せながら、メモを取っている姿は綺麗だなと感心した。是非注目してご覧いただきたいと思う。
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 また、三船敏郎の名演を支えているのに特殊メイクの効果もある。孤立感を深め、やがて放火までしてしまう喜一の焦燥感をくすむ肌と白髪で表現している。そこに三船の名演が重なることで鬼気迫る迫力が出てくる。「幽鬼のような」メイク、というのは黒澤映画の一つの特徴ではないかと私は考えている。シェイクスピアの影響だろう。
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 「狂人」は狂人にあらず、「狂人」は周囲が作る、周囲の方が実は狂っているということを考えさせられる映画。現在の閉塞的な状況下で「自警団」を作り、周囲を抑圧している人々にこそ見てもらいたい。「自分は正義だ、自分は正しい」と無条件に信じ込んでしまうことは怖い。自分は普通だ、自分は正しいということを揺さぶられる。時にそのような価値観の動揺は人間が自分を省みる際に必要な目覚めの一撃ではないかと思う。

(終わり)

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 古村治彦です。

 

 今回は映画『椿三十郎』を見た感想を書きたいと思います。


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椿三十郎 

 映画『椿三十郎』のストーリーは次の通りです。藩上層部の不正に怒りを募らせる若侍たち。若侍のリーダー(加山雄三)は城代家老の甥で、城代家老に処分を訴えるが、うまくいきません。監察である大目付に訴えたところ、彼らと同調するという返事をもらい、喜んでいました。

 

 若侍たちが集まっている古い神社には先客がいました。それは一人の浪人者、椿三十郎(三船敏郎)でした。三十郎は若者たちの話を危険だ、大目付が実はワルなのだと忠告し、やがて参謀役兼助っ人として仲間に加わることになりました。大目付は、側近の室戸半兵衛(仲代達矢)を使い、城代家老を捕まえ、不正の罪を城代家老になすりつけようとします。

 

 若侍たちは三十郎たちに反発しながらも三十郎の慧眼に心服するようになります。最後には城代家老を救出し、大目付をはじめとする藩上層部の不正を暴くことに成功します。城代家老は祝宴を用意しますが、その席に三十郎が居並ぶことはありませんでした。

 

 『椿三十郎』と言えば、ラストシーンの椿三十郎と室戸半兵衛の居合抜きによる対決のシーンが有名です。人間を本当に斬ればあのように血が噴き出すというリアルさを描き切ったのは凄い、の一言です。白黒映画ですが、どす黒い血の感じがよく出ています。黒沢監督の色彩感覚と素晴らしさを改めて感じます。

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 この映画にはチェンジオブペースと言うか、デウスエクスマキナと言うか、そういう役割を果たす人物たちが出てきます。それが城代家老の妻と娘、そして、大目付の配下で若侍側に捕らわれた壮年の侍です。城代家老の妻はおっとりとした性格と行動で(今で言えば空気が読めない)、三十郎や若侍を困惑させますが、その一言は重いものがあります。

 

家老夫人は「良い刀とは鞘に入っているものですよ」という言葉を三十郎に発します。頭が切れて腕も立つ三十郎を一言で評した言葉です。そして、三十郎が最後に若侍に贈った言葉が「鞘に入っていろよ」というものでした。

 

 この映画は若者たちの正義感とその暴走がテーマになっていると思います。戦前の青年将校の暴走と1960年の安保闘争といった日本にとって重要な局面で、若者たちは正義感が強ければ強いほど、暴走して結果として悲惨な事件を起こしたり、状況を悪化させてしまうものです。

 

 城代家老は凡庸な人物として馬鹿にされているところもありますが、藩上層部の不正についてはきちんと把握しており、証拠を集め、この証拠を突き付けて当事者たちの隠居を迫る、という方針を持っていました。城代家老は穏便にかつ怪我人を出さないで事を収めるという大人の知恵を持っていました。しかし、若者たちからしてみれば、このような穏健なやり方は生ぬるく、かつ敵を利するとさえ思われるようなものです。

 

 この映画の主人公である椿三十郎は若い時に、若侍のような正義感でもって不正を正そうとして、大きな騒動を引き起こしてしまった、という苦い経験と傷を持っている、老革命家のように思われます。若者たちが道を踏み外して自分のようにならないように、という姿勢を貫いているかのようです。

 

 ラストシーンで、居合で室戸半兵衛を斬った三十郎に対して、若侍が「お見事」と声をかけたことに対して、「馬鹿野郎」と怒鳴ったところも印象深いです。三十郎はこれまでにも何十人も斬ってきたことでしょうし、映画の中でも何人も斬っています。しかし、人間を斬ってしまうというのは下策であって、褒められたものではない、ということもあって怒鳴ったのでしょう。

 

これはまた、若者にありがちな「頭でっかちな」言葉遣い、地に足がついていない実感のない空虚な言葉遣いに対するメタファーということも言えるでしょう。60年安保や学生運動に参加した若者たちが聞きかじりのマルクスの言葉を振り回していたことに対する皮肉ということになるのでしょう。1962年公開の映画ですから、60年安保が沈静化していく中で、黒澤監督が時代の雰囲気をとらえて撮影したのが『椿三十郎』ということになるでしょう。

 

 スピード感のある映像と展開で見ていて大変面白い映画です。

 

(終わり)

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