古村治彦です。
第二次ドナルド・トランプ政権になり、アメリカは西半球、南北アメリカ大陸支配に対する欲望を隠さなくなった。ヴェネズエラに対しては奇襲攻撃を行い、ニコラス・マドゥロ大統領を拘束した(ヴェネズエラ政府内部の最高クラスに協力網ができていたのは想像できる)キューバに対する支配を明言し、経済制裁を実施している。そして、デンマーク領のグリーンランドの僚友の使途を明確にしている。NATOという集団的自衛権(collective self-defense)に基づいた同盟関係の中で、同盟国同士であるアメリカとデンマークが戦争状態になる場合、他の同盟諸国は、侵略側になるアメリカを自国への攻撃とみなし反撃として、攻撃するのか、大いに懸念される。アメリカが同盟国を攻撃するということはこれまで想定されてこなかった(学術研究としてはそういうシミュレーションはあっただろうが)。「アメリカと同盟関係を結んでも安心できない」ということになれば、同盟関係の意味はなくなってしまう。
さて、下記論稿では「集団安全保障(collective security)」という言葉が使われている。論稿の著者スティーヴン・M・ウォルトは以下のように書いている。
(引用貼り付けはじめ)
伝統的な集団安全保障は、各国が平和的に意見の相違を解決し、この原則に違反する国を阻止するために協力することを約束することで、パウア・ポリティックス(power politics)を超越すること(to transcend power
politics by committing states to settle their differences peacefully and to
work together to stop any country that violates this principle)を求めてきた。残念ながら、これは危険な侵略者を容易に特定でき、他の全ての国々がその正体について合意していることを前提としている。さらに、全ての大国が、たとえ自国の利益が直接関わっていない場合でも、強力な侵略者を阻止するために協力する意思があることを前提としている。これは、多大な費用と危険を伴う。必然的に、傍観して他者に問題を処理させたいという誘惑に駆られるプレイヤーもいるだろう。つまり、この集団安全保障のヴィジョンは、世界政治において稀にしか見られない、あるいは全く存在しないレヴェルの信頼と無私の精神(a level of trust and selflessness that is rare to non-existent in
world politics)にかかっている。
(中略)
戦争の可能性を低減することを目的とした協定、あるいは共通の脅威を抑止または撃退するために一部の国家が力を合わせる軍事同盟だ(as agreements intended to make war less likely or as military
alliances where a subset of states join forces to deter or defeat a common
threat)。歴史はそのような例を数多く残している。残念ながら、こうした比較的控えめな形態の集団安全保障でさえ、それほど効果的ではなく、その効果は低下しつつあり、将来の世界は近年よりも危険なものとなるだろう。
(引用貼り付け終わり)
私たちは良く「集団安全保障」と「集団的自衛権(collective self-defense)」という言葉を目にし、耳にする。スティーヴン・M・ウォルトはこの2つの言葉を区別して使っていない。しかし、これら2つの言葉は厳密に違いがある。「集団安全保障(collective security)」と「集団的自衛権(collective
self-defense)」は違う。集団安全保障は、国連などの国際的な枠組みにおいて、侵略を行った国家に対して、加盟国が全体で制裁や軍事行動を行うことを指す。全体で平和維持を目指す。集団的自衛権は、自国と密接な関係ある国、例えば、同盟国が攻撃を受けた場合に、自国が攻撃を受けたと見なし、対処することを指す。同盟国、パートナーの防衛を指す。NATOは集団的安全保障ではなく、集団的自衛権の枠組みということになる。細かい話になってしまうが、これらには違いがあるということを私は知っておくと、報道を見聞きする際に、気を付けるようになる。
話を元に戻すと、世界の超大国であるアメリカは「やりたい放題(Do whatever
you want)」ができ、そこには理屈をつけて「正当化(justification)」することが可能だ。しかし、そうしたことを続けていれば、国力が低下していくと、他国からの離反や反撃を招くことになる。現在でいえば、アメリカとイスラエルはこの「やりたい放題」をやりながら、「世界の平和のため」「自衛のため」という正当化を行っている。しかし、それをいつまでも続けることはできない。世界でアメリカとイスラエルに対する反感の声が高まっており、それを力で抑えられるということはもうできない。
「アメリカに頼れない」「アメリカを信用できない」という考えが世界に蔓延していけば、現在の国際社会の構造は大きく変化していくことになる。渡したが日々目撃している世界の大きな動きはそのことを示している。
(貼り付けはじめ)
「集団安全保障」は生命維持装置に繋がれている(‘Collective
Security’ Is on Life Support)
-国際関係の基本概念の1つがこれまでにないほどの危機に瀕している。
スティーヴン・M・ウォルト筆
2025年12月16日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2025/12/16/nato-collective-security-alliances-nato-life-support/
ドイツ南部のホーエンフェルス訓練場で行われたNATO演習中、アメリカとアルメニアの兵士たちが負傷したとみられる兵士を医療装甲車両から陸軍移動外科病院(mobile army surgical hospital、MASH)に搬送している(2023年9月14日)
脆弱な世界秩序を考えると、「集団安全保障(collective security)」という概念はもはや消滅してしまったのではないかという疑問について考えてしまう。その答えは、この言葉が何を意味するかによって異なる。もし集団安全保障が、世界の複数の主要大国が現状変更のために武力を用いることを放棄し、この誓約に違反する国を阻止するために結束することに同意するシステムを意味するのであれば、それは死んではいない。それは単純な理由からだ。それは、そもそも存在しなかったからだ。
第一次世界大戦後に設立された国際連盟(the League of Nations)に最もよく見られるように、伝統的な集団安全保障は、各国が平和的に意見の相違を解決し、この原則に違反する国を阻止するために協力することを約束することで、パウア・ポリティックス(power politics)を超越すること(to transcend power
politics by committing states to settle their differences peacefully and to
work together to stop any country that violates this principle)を求めてきた。残念ながら、これは危険な侵略者を容易に特定でき、他の全ての国々がその正体について合意していることを前提としている。さらに、全ての大国が、たとえ自国の利益が直接関わっていない場合でも、強力な侵略者を阻止するために協力する意思があることを前提としている。これは、多大な費用と危険を伴う。必然的に、傍観して他者に問題を処理させたいという誘惑に駆られるプレイヤーもいるだろう。つまり、この集団安全保障のヴィジョンは、世界政治において稀にしか見られない、あるいは全く存在しないレヴェルの信頼と無私の精神(a level of trust and selflessness that is rare to non-existent in
world politics)にかかっている。
しかし、集団安全保障には別の定義が存在する。それは、戦争の可能性を低減することを目的とした協定、あるいは共通の脅威を抑止または撃退するために一部の国家が力を合わせる軍事同盟だ(as agreements intended to make war less likely or as military
alliances where a subset of states join forces to deter or defeat a common
threat)。歴史はそのような例を数多く残している。残念ながら、こうした比較的控えめな形態の集団安全保障でさえ、それほど効果的ではなく、その効果は低下しつつあり、将来の世界は近年よりも危険なものとなるだろう。
しかしながら、過去に存在した比較的現実的な集団安全保障体制は、なぜ現在は生命維持装置に頼っているのかを理解するだけでも、今日、より深く検討する価値がある。
集団安全保障体制の限定的な形態の1つに「安全保障レジーム(security
regime)」がある。これは、競争相手が狭く具体的な方法で競争を制限することに合意するものだ。SALT条約やSTART条約といった軍備管理協定(arms control agreements)はその好例であり、これらの措置のいくつかは確かに戦争のリスクをわずかに軽減するのに役立った。しかし、これらの協定は、超大国が数千もの核兵器を製造したり、その威力を高めるために数十億ドルもの資金を費やしたりするのを阻止することはできていない。また、ソ連と西側諸国間の激しい対立に終止符を打つこともなかった。
こうした種類の軍備管理協定の見通しは、参加すべき国の数が増えていることもあって、今日では明るくない。世界は冷戦時代の二極構造(bipolar)ではなく、多極構造(multipolar)となっている。つまり、大国間の軍備管理を機能させるには、中国を巻き込む必要があるということだ。北京、モスクワ、ワシントンを巻き込んだ軍備管理協定を締結するための努力は行われておらず、中国は他の米露2カ国に追いつくまでは軍備制限に関心がない。それどころか、中国をはじめとする一部の国は核兵器を増強しており、ロシアとアメリカはこれに対抗して自国の軍事力を近代化している。さらに、他のいくつかの国も独自の核戦力の取得を検討している。人工知能やサイバー兵器に関するガードレールを設ける取り組みは行き詰まっているが、これは、関係国全てに意味のある制限について合意させることが困難な作業であることを考えると、驚くべきことではない。
集団安全保障の限定的な形態の2つ目は平和維持活動(peacekeeping)だ。2つかそれ以上の交戦国(warring parties)が和平(make peace)を決定した場合、中立の平和維持部隊が派遣され、合意内容を監視し、双方の安心感を与えることになる。しかし、この仕組みは、以前交戦していた集団が真に戦闘を停止し、その決定を堅持する意思がある場合にのみ有効だ。なぜなら、平和維持部隊は通常、再び武装蜂起する国家や軍閥(a warlord)を阻止するには弱すぎるからだ。平和維持活動は有用な手段だが、それだけでは戦争を防ぐことはできない。
集団安全保障の最終形態であり、より正確には「集団防衛(collective
defense)」と呼ばれる形態は軍事同盟(a military alliance)だ。共通の脅威に直面している国々は、相互防衛に協力し、脅威となる国家からの攻撃を抑止し、あるいは攻撃を受けた場合には撃退するために軍事準備を調整することで、より安全な体制を築くことができる。同盟は、強力で十分な武装を備えた国家が近隣にあり、現状変更のために武力行使に踏み切る意思があるように見える場合に最も形成されやすいだろう。このような状況では、潜在的な侵略者による脅威は他の国々にとって明確であり、その危険に対抗するために団結する十分な理由となる。この論理は、1949年にNATOが結成された理由、冷戦期にアメリカが日本、韓国、その他のアジア諸国と同盟を結んだ理由、そして第一次湾岸戦争においてイラクをクウェートから追い出すために大規模な連合軍が結成された理由を説明している。
国家が外部からの脅威に対して力を合わせる傾向は、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻後、アメリカとヨーロッパ諸国の多くが結集して支援を行ったことにも表れている。しかし、これはまた、戦争が長引く中で中国と北朝鮮がロシアに多大な支援を提供してきた理由も説明している。ウクライナの事例はまた、集団防衛体制が必ずしも戦争を阻止できる訳ではないことを改めて認識させてくれる。抑止力(deterrence)が機能しないこともあるからだ。
冷戦期には集団防衛協定が非常にうまく機能した。なぜなら、ヨーロッパで武力行使すれば、2つの強力な同盟国間の大規模で破壊的な戦争(a vast and destructive war between two powerful alliances)につながることは、両陣営にとって明らかだったからだ。この悲惨な見通しを踏まえ、両陣営は賢明にも戦闘を回避した。
残念なことに、今日ではどの国が最大の脅威であるか、またそれらにどう対処するのが最善かについて、コンセンサスがはるかに乏しいため、冷戦期と同様の予測可能性と安定性は期待できない。例えばヨーロッパでは、ロシアをかつての帝国を再建し、ヨーロッパ大陸を支配しようとする容赦ない侵略者と見なす国もあれば、そうした警戒的な見方を共有しない国もある。南半球のほとんどの国はロシアを恐れておらず、モスクワとの取引を続けている。また、トランプ政権のロシアに対する立場は毎週のように変化しているようだ。NATOは依然としてウクライナがいつか加盟すると主張してるすが、NATO加盟諸国で自国の兵士をウクライナのために戦い、命を落とすことを望む国は1つもない。
さらに言えば、アメリカの政策立案者たちは、アメリカがアジアにおける中国の力の封じ込め(containing
Chinese power in Asia)に集中できるようにするため、ヨーロッパは自らの安全保障に責任を持つべきだとますます確信を深めている。ヨーロッパはインド太平洋地域で戦略的な役割を果たすことについて時折口にするが、そこで変化をもたらすだけの軍事力を持つヨーロッパの国は存在しない。また、ヨーロッパはそうすることに重大な利益を持ってはいない。これは、アメリカとヨーロッパの戦略的利益が乖離していることを意味しており、たとえ同盟が形式上は維持されていたとしても、NATOは必然的に弱体化するだろう。
しかし、中国の台頭と野心は、アジアの近隣諸国、そして言うまでもなくアメリカにも明らかである。しかしながら、バランスをとる連合体を形成する努力は、アメリカの地域政策の不安定さ、多くのアジア経済にとって中国が重要であることから中国との友好関係を維持しようとする姿勢、様々なアジア大国間の対立、そして各国が傍観者となり、他国に対中国対策の重労働を担わせようとする姿勢(each state’s desire to get others to do the heavy lifting against
China while they sit on the sidelines)によって阻まれてきた。その結果、危機に際して誰が何をするのかということに関して不確実性が高まり、誤算(miscalculation)の可能性が高まっている。例えば、中国による攻撃があった場合、オーストラリア、日本、アメリカ、その他いくつかの国が台湾を支援する可能性は十分にあるが、一部あるいは全員が傍観者となる可能性もある。つまり、アジアには中国を標的としたバランスをとる連合体が存在するものの、中国による地域覇権(regional hegemony)獲得への試みを抑止するのに十分な一貫性と信頼性を備えていない可能性があるのだ。
最後に、国家が同盟を結ぶのは主に外的脅威(external threats)への対応策だが、こうした取り決めは、国家が同様の価値観、特に自由主義的民主政治体制(liberal democracy)の中核となる価値観を共有している場合により強固なものとなる。残念ながら、かつて西側諸国を一つにまとめていた共通の価値観は消えつつある。冷戦終結時には、自由主義的民主政体こそが未来の潮流だと多くの人が信じていた。しかし、20年近くにわたり自由主義的民主政体は着実に後退を続け、エジプト、ハンガリー、インド、ロシア、トルコ、そしておそらくはアメリカでさえも、独裁者による支配(strongman rule)に基づく政府が台頭している。イギリスはヨーロッパ連合(EU)を離脱し、ハンガリーとスロバキアはEUの多くの原則に反対している。さらに、最近発表されたホワイトハウスの「国家安全保障戦略(National Security Strategy)」は、トランプ政権がEUの自由主義的原則と多くのヨーロッパ諸国政府に積極的に敵対していることを極めて明確にしている。
さらに、ヨーロッパとアメリカは中東情勢をめぐってますます対立を深めている。アメリカは、ガザ地区で大量虐殺作戦を展開するイスラエルに対し、220億ドル以上の追加軍事援助を行った。国際刑事裁判所(the International Criminal Court、ICC)がイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相とヨアブ・ガラント前国防相、そして複数のハマス指導者を戦争犯罪で起訴した際、アメリカは複数の国際刑事裁判所の関係者に制裁を科した。一方、イギリスやノルウェーを含む多くのヨーロッパ諸国は、パレスティナ国家を正式に承認し、イスラエル当局者の戦争犯罪責任を問うことを誓約している。こうした異なる対応のどこに、人権や国際正義への共通の関与があるか? 長年にわたりアメリカの最も緊密な同盟国であり、情報機関のパートナーであったイギリスが、トランプ政権によるカリブ海における小型船舶への違法かつ残虐な攻撃への関与を懸念し、アメリカとの特定の情報共有を停止したことも、示唆に富んでいる。これは小さな問題かもしれないが、どのような行為が正当か、あるいは西洋の核心的価値観に合致しているかについての合意が減少しつつあることのもう1つの兆候だ。
残念ながら、私が言いたいのは、共通の価値観は、勢力均衡(balance-of-power)を理由とした同盟関係を強化する、もしくは加盟諸国が相反する戦略的利益を克服する助けにはならないということだ。
この確かに悲観的な分析から、どのような結論を導き出すことになるか? 3つ提案したい。第一に、より野心的な集団安全保障に未来への希望を託すべきではない。それは過去に一度も機能したことがなく、将来も機能しないだろう。第二に、私たちは依然として、個々の国家が生き残り繁栄するために自国の資源に頼らざるを得ない世界に生きている。しかし、共通の危険に対処するために信頼できるパートナーを持つことで、安全保障を向上させることができないということはない。外交の任務は、こうした危険が何であるかを明らかにし、どのように対応するかについて幅広い合意を形成することだ。残念ながら、現在、このような外交は不足している。
第三に、自国の能力を強化し、強固な同盟関係を築くことは、既存の紛争の解決、ライヴァルとの緊張緩和、あるいは特定のリスクの最小化に向けた真剣な努力を妨げるものではない。こうした課題は、素人による密室取引(backroom deals conducted by amateurs)ではなく、経験と知識が豊富な当局者たちが規律ある透明性のある方法で敵対国と交渉することによって最も効果的に達成される。
しかし、誤ってはならない。集団安全保障へのより現実的なアプローチでさえ、戦争のリスクや、国家がその可能性に備える必要性を排除することはできない。集団安全保障は死んではいないかもしれないが、良好な健康状態にあるとは言えない。
※スティーヴン・M・ウォルト:ハーヴァード大学ロバート・アンド・レニー・ベルファー記念国際関係論教授。Blueskyアカウント:@stephenwalt.bsky.social、Xアカウント:@stephenwalt
(貼り付け終わり)
(終わり)

シリコンヴァレーから世界支配を狙う新・軍産複合体の正体

『トランプの電撃作戦』

『世界覇権国 交代劇の真相 インテリジェンス、宗教、政治学で読む』













