古村治彦です。
ヘンリー・キッシンジャー逝去のニューズは日本のテレビニューズでも報じられた。視聴者の多くは「そんな人もいたね」というよりは、「この人は偉い人なの?誰なの?」という疑問を持ったに違いない。キッシンジャーとはどのような人物であったのか、ということにつちえ、アメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』誌に掲載された追悼記事(obituary)をご紹介したい。
キッシンジャーは学問の世界、現実政治の世界の両方で成功を収めた人物である。彼の行動指針は「リアリズム(realism)」「現実政治(realpolitik)」だった。リアリズムは、理想、道徳、価値観にとらわれない。キッシンジャー自身はリアリズムについて、「国際システムは不安定の中に生きている。あらゆる "世界秩序 (world order)"は永続性への願望(aspiration to permanence)を表現している。しかし、それを構成する要素は常に流動的(constant flux)である。実際、世紀が進むごとに、国際システムの持続期間(duration)は縮まっている」と定義している。
キッシンジャーのリアリズムは、私たちが日本の将来について、外交政策について考える際にも参考になるものだ。そして、キッシンジャーのいない世界は、これから更に不安定さを増していく。そして、最悪の事態まで突き進む可能性も高まる。核兵器を使用する、第三次世界大戦を私たちは目撃するかもしれない。
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追悼記事(Obituary)
ヘンリー・キッシンジャー、世界の舞台に屹立した大巨人(Henry Kissinger,
Colossus on the World Stage)
-この故人となった政治家はリアルポリティックス(realpolitik)の達人だった。ある人々は彼を戦争犯罪人(war criminal.)だと考えた
マイケル・ハーシュ筆
2023年11月29日
『フォーリン・ポリシー』誌
https://foreignpolicy.com/2023/11/29/henry-kissinger-obituary-cambodia-war-crimes-secretary-of-state/
インタヴューを受けているキッシンジャー(1980年8月にワシントンにて)
アメリカ史上最も影響力を持つ政治家(statesmen)の一人であるヘンリー・アルフレッド・キッシンジャーが11月29日に100歳で亡くなった。アメリカ外交の偉大な勝利と悲劇的な失敗のいくつかに貢献した長く波乱に満ちたキャリアの末の逝去となった。
ドイツ生まれで、ナチズムからの難民として15歳でアメリカに渡ったキッシンジャーは、第二次世界大戦後、最も画期的な(epoch-making、エポックメイキング)な外交成果をいくつも残したと言われている。冷戦期の平和を維持するためにソヴィエト連邦との緊張緩和(détente、デタント)を開始し、上司であるリチャード・ニクソン(Richard
Nixon)大統領とともに、1972年に共産主義中国との関係を開くことによって、この40年にわたる対立の条件を劇的に変化させたことなどがその例だった。
ニクソン大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官、そして国務長官という2つの役割を兼任したキッシンジャーは、おそらく中東交渉で最も成功した人物であり、4つのアラブ・イスラエル合意を生み出した「シャトル外交(shuttle diplomacy)」の技術を生み出した。そうすることで、彼は「世界において激動する地域にアメリカ主導の新しい秩序を確立し、アラブ・イスラエル和平の基礎を築いた(established a new American-led order in that turbulent part of the
world and laid the foundations for Arab-Israeli peace)」と、『ゲームの達人:ヘンリー・キッシンジャーと中東外交術(Master of the Game: Henry Kissinger and the Art of Middle East
Diplomacy)』の著者である、ヴェテランの中東交渉官のマーティン・アインディクは書いている。
一部の伝記作家の見解では、キッシンジャーは、アメリカの冷戦の封じ込め戦略の主要な設計者として成功させた(he principal author of America’s successful Cold War containment
strategy)ジョージ・ケナン(George Kennan)や、その他の、第二次世界大戦後の世界システムの神聖な立役者たちと並ぶ地位にある。「キッシンジャーが設計した平和の構造は、ヘンリー・スティムソン、ジョージ・マーシャル、ディーン・アチソンとともに、近代アメリカの政治家の頂点に位置する(The structure of peace that Kissinger designed places him with Henry
Stimson, George Marshall, and Dean Acheson atop the pantheon of modern American
statesmen)」と、ウォルター・アイザックソンは1992年のキッシンジャーの伝記に書いている。アイザックソンはまた、「加えて、彼は今世紀最高のアメリカ人交渉官であり、ジョージ・ケナンと並んで最も影響力のある外交知識人であった」とも書いている。
キッシンジャーが見ている前で、ジョージ・シュルツ元米国務長官(右)が、「戦争犯罪でヘンリー・キッシンジャーを逮捕せよ」と叫ぶ抗議者たちを押し返している。2015年1月29日の連邦上院軍事委員会での公聴会の前(ワシントンにて)
しかし、キッシンジャーはまた、特にリベラル派から、無数の死者を出した冷血なアメリカ権力の象徴と見なされ、非難されるようになった。ニクソンの側で、彼はクメール・ルージュ(Khmer Rouge)の台頭と100万人以上の虐殺を引き起こした、悲惨なカンボジア空爆を支持した。アメリカのカンボジア侵攻後、キッシンジャーはヴェトナムとの和平交渉をまとめ上げ、ノーベル平和賞を受賞したが、最終的にはわずか2年後に屈辱的な北ヴェトナムの南ヴェトナム占領を招き、それまでの戦争でアメリカは最悪の敗北を喫することになった。
キッシンジャーはまた、共産主義に友好的とされたチリのサルヴァドール・アジェンデ(Salvador
Allende)大統領に対する1973年のクーデターを支持し、1971年のバングラデシュでの大量虐殺にはむか新だった。ニクソンとキッシンジャーは、東パキスタン(後のバングラデシュ)の独立を阻止しようとするパキスタン軍を支持し、ベンガル人の大量虐殺とレイプを監督するために、米国の法律に違反して彼らを武装させた。プリンストン大学の政治学者ゲイリー・バスは、後にこのエピソードを「冷戦における最も暗い章のひとつ」と評した。バスが引用した機密解除されたホワイトハウスのテープや文書によれば、当時の内部会議でキッシンジャーは、「死にゆくベンガル人(dying Bengalis)」のために「血を流す(bled)」人々を軽蔑していた。
故クリストファー・ヒッチェンズは、2001年の著書『ヘンリー・キッシンジャーの裁判(The
Trial of Henry Kissinger)』の中で、キッシンジャーは「民間人の殺害、都合の悪い政治家の暗殺、邪魔な兵士やジャーナリスト、聖職者の誘拐と失踪を命じ、承認した」として、国際法の下で訴追されるべきだと主張した。
1969年ホワイトハウスのシチュエイションルームで肖像写真のためにポーズを取るキッシンジャー。当時はリチャード・ニクソン大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めていた。
1923年5月27日、ドイツのフュルトで、ハインツ・キッシンジャーとして生まれたキッシンジャーは、ワイマール・ドイツの秩序崩壊とナチスの台頭に永遠に悩まされ、家族の多くを殺された。アメリカに亡命したキッシンジャーは、熱烈な情熱(passionate zeal)をもって新天地を受け入れたが、バイエルン訛りが抜けなかったのと同様、ヨーロッパ流の現実政治(European-style realpolitik)への憧れを捨て去ることはなかった。
キッシンジャーの国際問題における英雄は、後に彼が書いているように、「外交政策は情緒ではなく、強さの評価に基づいていなければならない(foreign policy had to be based not on sentiment but on an assessment
of strength)」と主張した、伝説的な「鉄血宰相(iron chancellor)」オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck)であった。アイザックソンは、「それがキッシンジャーにとっての指針(Kissinger’s guiding principles)のひとつにもなった」と述べている。
ハーヴァード大学に在職し、学術界のスターであったキッシンジャーは、ジョン・ケネディ(John
Kennedy)に始まり、ネルソン・ロックフェラー(Nelson Rockefeller)、そして最後はニクソンと、アメリカの新進の指導者たちの信頼を得て、その才能と野心で知られるようになった。キッシンジャーはしばしば舞台裏で人々を鼓舞するようなな気性を見せ、ニクソン政権の最初の国務長官ウィリアム・ロジャースなどのライヴァルを蹴落とそうと常に動いていた。
キッシンジャーはまた、ニクソンや政府内の多くのライヴァルを失望させたが、国際的な有名人となり、映画の試写会や高級レストランのオープニングセレモニーにハリウッド女優たちを引き連れて出席した。「権力は究極の媚薬である(Power is the ultimate aphrodisiac)」とキッシンジャーが言ったのは良く知られている。1972年、『ゴッドファーザー』の主演俳優マーロン・ブランドが同映画のプレミアへの出席を辞退したとき、プロデューサーのロバート・エヴァンスは、キッシンジャーがブランドの代わりに出席するよう説得した。
しかし、キッシンジャーが最も永続的な足跡を残したのは、卓越した(par
excellence)学者としてであり、説得者としてであった。ハーヴァード大学で、クレメンス・フォン・メッテルニヒ(Klemens von Metternich)やカースルレー卿(Lord
Castlereagh)が成功した19世紀のリアリズムを論じた博士論文を完成させた後、キッシンジャーはまず、『核兵器と外交政策(Nuclear Weapons and Foreign Policy)』という本で名を知られるようになった。この本は限定核戦争(limited nuclear war)を支持したが、キッシンジャーは後にこの考えを否定した。
バリー・ゲーウェンという学者によれば、キッシンジャーは1965年の時点で、ヴェトナムを訪問した後、ヴェトナム戦争は無益であるという結論に達していたにもかかわらず、ヴェトナム戦争を支持した。こうして彼は、多くの保守派を怒らせながら、ソヴィエトとの緊張緩和(détente、デタント)と核兵器削減交渉の時代をスタートさせた。
しかし同時に、キッシンジャーは1972年、ソ連が対立していた共産主義中国との前例のない和解(unprecedented rapprochement with communist China)を打ち出し、モスクワの意表を突いた。一部の学者によれば、これは、ワシントンが国内の混乱に気を取られ分裂していた時期に、ソヴィエトとの開戦を防ぐのに役立った可能性があるという。
中国を公式訪問中の1972年2月23日、ニクソンとキッシンジャーは中国の周恩来首相と共に北京のスポーツイヴェントに出席した。
1973年の北京の人民大会堂での公式晩餐会で中国の周恩来首相から食べ物を取り分けてもらうキッシンジャー。
それは、キッシンジャーと、同じくリアリスト志向の上司であったニクソンにとって、歴史上もっともふさわしい瞬間であった。二人とも、1960年代の「共産主義諸国は一枚岩だ(monolithic communism)」という概念や、ドミノ理論(domino
theory)が不健全であることにいち早く気づいていた。ゲーウェンが2020年の著書『悲劇の必然性-ヘンリー・キッシンジャーとその世界(The Inevitability of Tragedy: Henry Kissinger and His World)』で「共産主義は一枚岩という考え方が捨て去られれば、二人の現実政治家にとって、反目する共産主義者同士を戦わせること以上に健全な政策があるだろうか?」と書いている。
ジョージタウン大学の国際問題研究者であるチャールズ・カプチャンは次のように書いている。「緊張緩和(デタント)は結局のところ、ヴェトナム戦争と、過剰拡大(overreach)という考えに突き動かされていた。キッシンジャーとニクソンは、冷戦について、後退させ、温度を下げる必要があると考えた。特に中国を敵の列から引き離すことに成功した。キッシンジャーは、他の重要人物にはない戦略的な考え方をした。アメリカの国家運営(U.S. statecraft)に関して、私(カプチャン)は政策が多すぎて戦略が足りないという問題が存在すると考えている。キッシンジャーはそれを逆転させた人物だ」。
1975年にエジプトのアレキサンドリアで、エジプト大統領アンワール・サダトと、シナイⅡ交渉で、会談を持つヘンリー・キッシンジャー。交渉の結果、エジプトに領土が返還された。
キッシンジャーはまた、その魅力とユーモア、そして歴史の達人ぶり(mastery of
history)で外国の指導者や外交官を虜にし、その人間的な魅力でも有名になった。もちろん、彼が交渉相手の独裁者たちの虐待をひどく気にしているようには見えなかったことも助けになった。
アイザックソンによれば、キッシンジャーが最も尊敬する二人の外国指導者は、中国の周恩来首相とエジプトのアンワール・サダト大統領だ。キッシンジャーは、サダト大統領がイスラエルとの交渉に積極的に参加する姿勢を取っていることを「預言者(prophet)」と評価した。1974年にキッシンジャーが初めてシャトル外交を試みた際、サダトはキッシンジャーを大統領邸宅の近くにある熱帯植物園に連れて行き、「マンゴーの木の下でキスした」とアイザックソンは書いている。驚くキッシンジャー国務長官に対し、サダトは「あなたは私の友人だけではない。あなたは私の弟でもある」と語った。キッシンジャーは後に記者団に対し、「イスラエル人がより良い待遇を受けられないのは、彼らが私にキスをしないからだ」と冗談を飛ばした。
2001年9月11日の同時多発テロ攻撃の後、破壊の程度をニューヨーク市長ルディ・ジュリアーニから説明を受けるヘンリー・キッシンジャー
連邦上院外交委員会でのイラクに関する公聴会を前にして、連邦上院外交委員会委員長ジョー・バイデンと話をするヘンリー・キッシンジャー(2007年1月31日)。
彼を取り巻く論争が激しかったにもかかわらず、キッシンジャーはアメリカの卓越した外交政策専門家としての名声を失うことはなかった。彼が亡くなるまでの数十年間、共和党と民主党の両方が、また多くの世界の指導者たちが彼の助言を求めた。キッシンジャーは、回想録、書籍、記事、著作を勢力に発表してきた。これらの業績は、一部の学者たちは、アメリカの専門家による外交政策の最も徹底的で深遠な解明である、と評価している。キッシンジャーはこうした業績を通じて、名声の復活を強化した。
アメリカ最高のリアリストとされるキッシンジャーは、世界を変えるウィルソン流の理想主義(world-changing
Wilsonian idealism)、基本的にはワシントンがアメリカのイメージ通りに世界を再編成できるという考え方に対する懐疑主義においても、先見の明を証明した。彼は、ウィルソン主義がアメリカ外交の「基盤(bedrock)」であることを認めながらも、ウィルソン主義の落とし穴を誰よりもはっきりと見抜いていた。
冷戦後、民主政治体制の拡散(spread of democracy)が万能薬(panacea)になるという考えに対する、キッシンジャーの懐疑論ほど、彼の正当性が証明されたものはない。ゲーウェンが指摘したように、キッシンジャーは冷戦の終結がアメリカ型の自由民主体制資本主義(American-style liberal democratic capitalism)の大勝利につながるのではなく、むしろ「輝かしい夕日のようなもの(in the nature of a brilliant sunset)」であることを予見していた。
過去10年ほどの進展が示しているように、これはキッシンジャーが最もよく知るようになった中国に特に当てはまることが判明した。ビル・クリントンからの歴代米政権は、キッシンジャーがかつて「敵対者の回心によって平和が達成されるという古くからのアメリカの夢(the age-old American dream of a peace achieved by the conversion of
the adversary)」と呼んだものを、冷戦後の世界市場と新興民主主義国家のシステム(post-Cold
War system of global markets and emerging democracies)に中国を取り込もうとした。しかし、中国はソ連崩壊後のロシアとともに、独裁(autocracy)と人権抑圧の新時代の原動力となっている。
2018年11月8日、北京の人民大会堂で中国の習近平国家主席と会談を持つキッシンジャー
キッシンジャーは長い間、中国やその他の大国に対する唯一の合理的なアプローチとして、理想主義的な方法で世界の問題を解決しようとするのではなく、むしろ刻々と変化する勢力均衡(バランス・オブ・パウア)を注意深く調整することによって問題を管理する(manage)という現実政治(realpolitik)を主張してきた。ゲーウェンは、「キッシンジャーの考えは、政策決定者に課せられた任務は控えめで、本質的に消極的なものであるというものだ。世界を普遍的な正義へと導くのではなく、力と力を競わせ、人間の様々な攻撃性(assorted aggressions of human beings)を抑制し、できる限り災難を避けようとするのである」と書いている。
キッシンジャーのアプローチの鍵は、恒久的な解決策ではなく、達成可能な目標を特定することだった。アインディクの言葉を借りれば、「キッシンジャーにとって、平和創造外交(peacemaking diplomacy)とは、対立する大国間の対立を解決するために設計されたプロセスではなく、対立を緩和するためのプロセスであった」ということになる。
キッシンジャー自身、1994年に刊行した代表作『外交』の中で、このリアリズム哲学を次のように定義している。「国際システムは不安定の中に生きている。あらゆる "世界秩序 (world order)"は永続性への願望(aspiration to permanence)を表現している。しかし、それを構成する要素は常に流動的(constant flux)である。実際、世紀が進むごとに、国際システムの持続期間(duration)は縮まっている」。
この考えは、特に21世紀は当てはまるだろう。キッシンジャーは、「世界秩序を構成する要素、相互作用する能力、そしてその目標が、これほど急速に、これほど深く、これほどグローバルに変化したことはかつてなかった」と書いている。
キッシンジャーは次のように結論づけた。「次の世紀(21世紀)には、アメリカの指導者たちは国民のために国益(national interest)の概念を明確にし、ヨーロッパとアジアにおいてその国益が勢力均衡の維持によってどのように果たされるのかを説明しなければならないだろう。アメリカは世界のいくつかの地域で均衡(equilibrium)を維持するためのパートナーを必要とするが、これらのパートナーは道徳的考慮を基にするだけで選ぶことはできない」。
キッシンジャーは晩年に差し掛かり、ワシントンが道徳的あるいはイデオロギー的な理由で中国とロシアの両方に対立的なアプローチを採用することで、自らを孤立させ、北京とモスクワの古い同盟関係を復活させる危険性があることを恐れていた。2018年、キッシンジャーは、ドナルド・トランプ大統領(当時)に、中国に対抗するためにロシアともっと緊密に協力するよう助言したと伝えられている。
同時にキッシンジャーは、中国に対して新たな冷戦を仕掛けることで、ワシントンはソ連に対して直面したよりも更に大きな危険を作り出しているかもしれないとも警告した。ソ連は2021年5月、キッシンジャーは、マケイン・インスティテュートのセドナ・フォーラムで、「ソ連は中国のような発展的な技術力を持っていなかった。中国は巨大な経済大国であり、軍事大国でもある」と述べた。
アメリカがアフガニスタンから屈辱的な撤退をした後、『エコノミスト』誌に寄稿した最後のエッセイの一つの中で、キッシンジャーは世界をより良い方向に変えようとする過剰な理想主義的熱意(excess of idealistic zeal)に再び警告を発した。キッシンジャーは、ヴェトナムでの対反乱作戦の失敗を思い起こし、ワシントンの失敗を、彼の外交政策に対する生涯のアプローチにふさわしい言葉で次のように診断した。
キッシンジャーは次のように書いている。「アメリカは、達成可能な目標を定義することができず、アメリカの政治プロセスによって持続可能な方法でそれを結びつけることができないために、対反乱活動において自らを引き裂いてきた。軍事的目標はあまりに絶対的で達成不可能であり、政治的目標はあまりに抽象的でとらえどころがない。軍事的な目標はあまりにも絶対的で達成不可能であり、政治的な目標はあまりにも抽象的でとらえどころがなかった」。
ニューヨークのパークアヴェニューにある事務所でのキッシンジャー(2011年5月10日)
キッシンジャーは最後まで、世界を解明しようと懸命に努力した。2021年にグーグル元最高経営責任者(CEO)エリック・シュミット(Eric Schmidt)、マサチューセッツ工科大学コンピューターサイエンス学部長ダニエル・ハッテンローチャー(Daniel Huttenlocher)と共著で出版した『AIの時代(The Age of AI)』を代表とする一連の著作の中で、彼は物事が間違った方向に進んでいるという深刻な懸念を表明した。
キャリアの大半で道徳的配慮を無視していると非難されてきたキッシンジャーにとって皮肉なことに、彼の主な心配は人間的要素(human element)の喪失だった。彼は、啓蒙主義(the
Enlightenment)以来支配的になったパラダイム、つまり人間理性(human reason)の優位性が覆されつつあり、『アトランティック』誌での論説の中で述べたように、現在ではあまりにも多くの決定が「データとアルゴリズム(algorism)によって動かされ、倫理的または哲学的な規範によって制御されていない機械に依存している」ことを懸念していた。
重厚な物腰とドイツ訛りのキッシンジャーは、しばしば飄々(aloof)とした印象を与える。しかし、彼は広義でも狭義でも人間性をよく研究する人物であり、そのキャリアを通じて、交渉相手の指導者の性格をよく研究していた。死の間際、彼はこれらの経験をまとめた最後の本を執筆中だった。
シリアの独裁者、ハーフィズ・アサド(Hafez Assad)の死後、2000年の私とのインタヴューで、キッシンジャーはその独裁者の血塗られた歴史には口をつぐみがちだったが、それ以外はアサドの長所と短所を率直に評価した。キッシンジャーは次のように述べた。「アサドの成功は30年間も権力の座に居座り続けたことだが、それは何か大きな業績を残したということはなかった。彼は生き残りと小さな努力を積み重ねた人だった。彼は超越した人物ではなかった。彼に欠けていたのは、彼が育った環境を超越することだった」。
キッシンジャー自身が超越した人物であることは証明されたが、アサドに対する彼の評価は、少なくとも彼が生まれ育った環境を本当に超越したかどうかという点では、ある意味で彼にも当てはめることができるだろう。キッシンジャーは生涯を通じてヨーロッパの亡命者(refugee)であり続け、ビスマルクやメッテルニヒの弟子であり、アメリカを熱烈に支持しながらも、良くも悪くも、自分を受け入れてくれた国家の道徳に基づいた権力政治(morality-based power politics)を巧みに操った。
キッシンジャーの教え子であり、後にハーヴァード大学で政治的ライヴァルとなった外交官で政治学者のジョセフ・ナイは次のように述べている。「キッシンジャーは、外交政策における道徳について、評価されている以上に意識していた。彼は、秩序(order)が勢力均衡(balance of power)と同時に正統性(legitimacy)の上に成り立っていることを知っていた。彼は粗雑な現実政治(crude
realpolitik)ではなかった。洗練された現実政治(sophisticated realpolitik)だった。
この複雑な遺産こそが、アメリカと世界にとって、キッシンジャーが遺したものだ。
※マイケル・ハーシュ:『フォーリン・ポリシー』誌コラムニスト。『資本攻勢:ワシントンの賢人たちはいかにしてアメリカの未来をウォール街に委ねたか(Capital Offense: How Washington’s Wise Men Turned America’s Future
Over to Wall Street)』と『私たちとの戦争:アメリカがより良い世界を築くチャンスを無駄にする理由(At War With Ourselves: Why America Is Squandering Its Chance to
Build a Better World)』がある。ツイッターアカウント:@michaelphirsh
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